本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





宮芳平

没年月日:1971/03/30

国画会会員の洋画家、宮芳平は、3月30日、京都市において死去した。宮芳平は、号を木念、歌人宮柊二の叔父にあたり、明治26年(1893)6月5日新潟県北魚沼郡に生まれ、新潟県立柏崎中学校を卒業、大正3年(1914)大正博覧会展に入選、東京美術学校西洋画科に入学したが、大正7年(1918)中途退学した。中村彝に師事し、また森鴎外の知遇をうけ、山本鼎の指導をうけた。大正4年(1915)、第9回文展に「海のメランコリー」が入選、大正12年(1922)清水多嘉示の後任として長野県立諏訪高等女学校に奉職、以後、諏訪市に居住し、戦前には、独立展、旺玄社展に出品したが、昭和15年(1940)より国画会展に出品、昭和32年国画会会友、同36年(1961)会員に推挙された。昭和31年(1956)銀座兜屋画廊にて第1回の個展、昭和40年(1965)銀座松屋、同45年(1970)東京と諏訪で個展を開催した。昭和41年(1966)、ギリシャ、イタリア、フランスを旅行、紀行文等に『聖地巡礼』がある。国展出品作品略年譜「冬山」(昭15)、「霧」(昭21)「荒土を耕す」(昭22)、「雪解くる頃」「秋日」(昭24)、「雪の朝」(昭27)、「まだら雪」(昭29)、「冬枯の梢」(昭30)、「風景」(昭31)、「風景その1、雪解くる頃」(昭32)、「月ある夜の湖」「月ある夜の山」(昭33)、「作品・門」「作品、おしどりの池」(昭34)、「枯れた蓮」(昭35)、「麓の村々」(昭36)、「山とみづうみ」(昭38)、「枯れた蓮」(昭40)、「きはざし」(昭41)、「富士」(昭44)、「さざなみ」(昭45)

大月源二

没年月日:1971/03/18

洋画家大月源二は、急性気管支炎、高血圧、糖尿病等を併発し、3月18日死去した。享年67才。明治37年2月19日北海道函館市に生れ、東京美術学校油絵科を昭和2年に卒業した。その後プロレタリヤ美術運動に参加し、都新聞に沖一馬のペンネームで昭和11年から17年位まで政治漫画を描いた。また文展、一水会等にも出品し、戦時中故郷に疎開し、北海道生活派会を設立し、北海道風景を多く描いた。主要作に「告別」(昭4プロレタリヤ美術展)、「ホロンバイル草原の仔牛たち」(昭18文展)、「花ひらくオホーツクの岸」(昭34草炎会展)等があり、著書に「レーピン」がある。

長谷川三千春

没年月日:1971/02/25

一陽会会員の洋画家長谷川三千春は、2月25日午後、食道ガンのため東京・文京区の自宅で死去した。享年60才。明治43年(1910)8月15日、広島県に生まれ、昭和9年(1934)京都高等工芸学校を卒業し、昭和11年都新聞社(現・東京新聞)に入社、昭和12年(1937)24回二科展に「菊と蝶」が初入選し、以後、二科展に「黄昏の街」(昭和13)、「津軽の漁村」(同14)、「風景」(同17)を出品、戦争中は技術関係の業務についた。戦後は二科展に復帰し、昭和29年特待となったが、昭和30年(1955)、一陽会創設に参加、同会会員となった。昭和39~40年、中近東からスペインへ旅行。作品略年譜「盛夏」「漁群」(昭和21)、「虫」(同22)、「浜辺」「午睡」(同24)、「ビールを呑む」(同25)、「涯地の漁港にて」(同26)、「飛ぶ雲」「孤独な雲」(同27)、「雲の散歩」(同28)、「秋田」「老朽船」(同29)、「浜辺の静物」(同30年、一陽展)、「浜辺」(同31)、「流木の歌」「海水浴場」「ながれ」(同32)、「白い道」「白い静物」(同33)、「原野より」(同34)、「開拓地にて」(同35)、「原野の街」(同36)、「原野の街・団地も流木」「終着駅」(同37)、「オホーツクの海」「オホーツクの村」(同38)、「糸車の譜」(同39)、「城塞・イスラエル」(同40)

樋口一郎

没年月日:1971/01/12

創元会委員、日展委嘱の洋画家樋口一郎は、1月12日、脳いっ血のため東京世田谷区駒沢病院で死去した。享年63歳。樋口一郎は、明治41年(1908)5月17日岡山県倉敷市に生まれ、昭和2年(1927)太平洋画会研究所を出て、昭和8年14回帝展に「初秋」が初入選した。文展、日展に出品を続け、昭和16年(1941)創元会の創立に参加した。昭和24年(1949)日展出品依嘱となり、昭和30年から約1年半フランスに滞在した。 作品略年譜文・日展出品作品:「戦塵を洗ふ」(昭和14)、「水砧」(昭和16)、「彩廊」(昭和17)、「秋色富嶽」(昭和19)、「秋草の道」(昭和22)、「竹垣のある道」(昭和23)、「初秋」(昭和24)、「武蔵野の秋」(昭和25)、「秋の窓」(昭和26)、「妙高山秋色」(昭和27)創元会展出品作:「緑蔭」「丘」(昭和16)、「除虫菊の丘」「かしあげ」(昭和17)、「緑蔭」(昭和18)、「玉島風景」(昭和22)、「冬枯れし庭」(昭和24)、「早春の庭」(昭和25)、「富士二題」(昭和33)、「古城の見える風景」(昭和35)、「内海春潮」(昭和38)、「長崎の丘」(昭和40)、「秋」(昭和42)

滝川太郎

没年月日:1970/12/21

一水会会員滝川太郎は10年余りの闘病生活ののち昭和45年12月21日に没した。享年67才。明治36年3月25日、長野県松本市に生れる。太平洋画会研究所に学び、石井柏亭に師事する。文化学院図書館に勤め、また「国民美術」の編集に携わった。はじめ二科会に属していたが、一水会設立とともに一水会に出品する。フランス、スイス等に10数年滞在した。日本版画協会主催の浮世絵および現代版画展をスイス、ポーランド、ドイツ、スペイン、フランス、等の諸国の都市で開催するためにそれに随行した。俳句もつくり「玄鹿軒発句集」を刊行。太朗、太郎左、玄鹿子などを名乗る。一水会展出品作品7回(昭18年)「そよかぜ」「こさめノ後」。9回(22年)「I女子」「驟雨」「室内」。12回(25年)「あづみの柳蔭」。13回(26年)「さすらひの唄」。14回(27年)「淑秀女史像」。15回(28年)「小雨ふる渡場」「梅雨晴れ」。16回(29年)「佃島」「風の日」。17回(30年)「造船所塗替」。18回(31年)「佃の渡し」「東京港の風」。19回(32年)「虫をみる猫」。20回(33年)「佃島大観」「築地明石町の眺」。21回(34年)「小閑1」「小閑2」。22回(35年)「銀座より15分晴海の夕」「同上」。23回(36年)「黄波の巻」「八月の花」。24回(37年)「大風の海」「緑海岸」。25回(38年)「高浪」「夏水仙」。26回(39年)「小雨の葉山」。27回(40年)「庭の遊猫」。28回(41年)「昼の月」。29回(42年)「豊邦の土産」。30回(43年)「写実三角の浜唄」。31回(44年)「星座」。32回(45年)「月夜の漁師」

上田哲農

没年月日:1970/11/30

一水会委員、日展会員上田哲農は、12月30日急性肺炎のため逝去した。上田哲農は本名徹雄、明治44年8月21日、中国天津で生れる。昭和8年文化学院美術部卒業、その後、水彩連盟展、一水会展、日展に水彩画を出品、水彩画の代表画家として知られた。又学生の頃から登山を好み、1966年カフカズ登山隊長、1969年パミール登山隊長を務めるなど登山家としても著名であった。昭和8年 文化学院美術部卒業昭和21年 水彩連盟展受賞、会員に推挙される昭和26年 一水会々員となる、日展で特選をうける昭和39年 日展会員となる昭和43年 一水会委員となる以上の他、蒼鞜会、日本山岳会員でもあった。主要作品は他に「アメリカン・サーカス」「靴屋」或は「夜」などのように山を主題にした作品も少くない。

柚木久太

没年月日:1970/10/27

日展評議員柚木久太は10月27日老衰のため岡山県倉敷市の自宅で逝去した。享年85歳。柚木久太は明治18年10月22日岡山県倉敷市で生れた。父は玉邨と号し南画家であった。明治39年満谷国四郎の門に入り翌年から太平洋画会研究所に属し、又東京美術学校に聴講。明治44年第5回文展に「鞆津の朝」が入選、同年フランスに留学、アカデミイ・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学び大正4年帰国した。以後文展・帝展に出品をつづけ特選を重ね昭和3年帝展審査員となった。戦後は日展で活動、晩年は日展評議員、参与をつとめた。明治44年 第5回文展 「鞆津の朝」大正4年 第9回文展 「入江」三等賞大正5年 第10回文展 「護書之図」特選大正8年 第1回帝展 「水郷の夕」特選大正11年 第4回帝展 「麦秋」特選平和記念東京博覧会展「暮るる赤城根」銅賞大正14年 帝国美術院展委員昭和3年 第9回帝展審査員となり帝展出品をつづける昭和30年 新世紀美術協会創立に参加し会員となる昭和32年 第1回新日展会員となる昭和39年 日展評議員昭和45年 日展参与となる。10月28日没。主な作品、以上の他湖雲(第6回日展)、椿咲く小路(第8回日展)など

宇根元警

没年月日:1970/09/25

独立美術協会々員宇根元警は、9月25日脳出血のため広島県呉市の自宅で逝去した。享年66歳。明治37年8月2日広島県呉市で生まれ、大正13年師範学校卒業、昭和5年独立美術協会第一回展より同展に出品。昭和15年第10回展「葡萄」で独立美術協会賞を受賞、17年に同会々友、23年同会々員となった。

海老原喜之助

没年月日:1970/09/19

独立美術協会々品の洋画家海老原喜之助は、9月19日午前8時30分(日本時間午後4時30分)パリ16区のアパートで消化器系のガンのため死去した。明治37年鹿児島市に生れ、大正11年鹿児島県立志布志中学を卒業して上京、有島生馬に師事し、また川端画学校に学んだ。同12年渡仏し、滞仏12年ののち昭和帰国して独立美術協会々員となった。その後も度々フランスを訪れ、最後は昭和42年10月、師であり親友であった故藤田嗣治看病のため夫人と渡仏し、半年ほど前から健康がすぐれず帰国予定だった。作品は、フォーヴィズムの系統を引くが、独自の画風をもっていて、内外の画壇から注目されその若々しい製作ぶりに期待をもたれていた。略年譜1904(明治37)年 鹿児島市に生まれる。1917(大正6)年 4月鹿児島県立志布志中学校に入学。1921(大正10)年 夏、上京し、有島生馬に師事し、川端画学校に席をおく。1922(大正11)年 3月志布志中学校卒業。再度上京し川端画学校、アテネ・フランセに学ぶ。1923(大正12)年 7月渡仏、藤田嗣治の許に出入りする。9月二科美術展に入選、以後数回出品する。1924(大正13)年 サロン・ドオトンヌに入選。滞仏中は主としてサロン・ドオトンヌ、アンデパンダンに作品を発表する。1927(昭和2)年 7月サロン・ド・レスカリエ第10回展に、カンピリ、ジャコメッティと3人展をもち、「姉妹ねむる」などを出品。この展覧会が機縁となって、アンリ・ピエール・ロッシュと交わり、やがて契約を結ぶ。この頃からパリ画壇で存在を注目されはじめ、エコール・ド・パリの次期の担い手として嘱目される。1928(昭和3)年 ニューヨークでロッシェの企画による個展。翌年にも個展を開く。1934(昭和9)年 1月帰国。6月日動画廊で第1回個展開催。以後、継続的に個展を開く。1935(昭和10)年 2月独立美術協会会員となる。3月第5回独立美術展に「曲馬」を出品。これ以後、毎回独立展に出品する。1942(昭和17)年 11月より、44年1月まで大連に旅行、この間旅宿にて発病する。1945(昭和20)年 熊本県湯之児温泉で終戦を迎え、8月人吉市に移る。1946(昭和21)年 3月第1回新興日本美術展覧会審査員となる。1947(昭和22)年 11月第2回熊日綜合美術展審査員となり「蹄鉄」を特別出品。以後毎回審査を担当するかたわら特別出品する。1950(昭和25)年 11月第1回南日本文化賞を受ける。11月熊本市に転居。1951(昭和26)年 2月第3回日本アンデパンダン展に「スタートへ」「殉教者(サン・セバスチァン)」(文部省買上げ)を出品。4月海老原美術研究所を創立。53年に一度閉鎖するが、57年再び開設する。1952(昭和27)年 3月神奈川県立近代美術館において福沢一郎・海老原喜之助展覧会を開催する。5月サロン・ド・メに招待出品。1953(昭和28)年 1月第4回秀作美術展に「ボンサマルタン」を出品。以後54年「大華山」55年「船を造る人」56年「靴屋」57年「燃える」59年「大道の物売り」60年「蝶」62年「群馬出動」を出品する。5月第3回熊日社会賞を受ける。1954(昭和29)年 9月海老原喜之助自選回顧展を熊本で開催。11月第3回西日本文化賞受賞。1955(昭和30)年 3月熊本市郊外小峰墓地の忠霊塔を飾る「殉教者」のブロンズ・レリーフを完成。5月第3回日本国際美術展に「靴屋」を出品、佳作賞を受賞。1956(昭和31)年 11月第1回グッゲンハイム国際美術賞展に「船を造る人」を出品。1957(昭和32)年 5月第4回日本国際美術展に「燃える」を出品し、国立近代美術館賞を受賞。6月第4回サンパウロ・ビエンナーレ展にデッサン7点を出品。8月第2回現代ふらんすクリチック賞絵画展に賛助出品する。1959(昭和34)年 5月第5回日本国際美術展に「蝶」を出品し、最優秀賞を受賞する。10月西部秀作展に「大道の物売り」を出品し、最優秀賞を受賞する。11月1951~1959・代表作品展を開催し、戦後の代表作10点を出品する。1960(昭和35)年 1月第5回日本国際美術展出品作「蝶」により第1回毎日芸術賞を受ける。4月第6回ルガーノ国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ5点を出品。11月戦後から15年におよぶ熊本の生活をきりあげ、神奈川県逗子に転居。1962(昭和37)年 10月国際形象展に同人として参加「夜の彫刻」「走馬燈」「海浜の蝶」を出品。1963(昭和38)年 5月第7回日本国際美術展「走馬燈」。7月海老原喜之助選自展東京・日本橋・三越で開催。出品は第一次滞欧時代の作品から近業まで108点。この回顧展のため「出城」出品。2回国際形象展「ある日」出品。31回独立展「雨の日」出品。1964(昭和39年) 15回記念選抜秀作美術展「雨の日」招待出品。国立近代美術館において「滞欧作とその後」展「姉妹ねむる」「ゲレンデ」「曲馬」「群がる雀」「殉教者(サン・セバスチャン)」出品。3月、前年の自選展ならびに第31回独立展に出品の「雨の日」の業績によって芸術選奨文部大臣賞を受ける。6回現代日本美術展「夏の夕べ」出品。「スケッチ展シリーズ完結記念」展(銀座・松屋)「厩」「春の日」「夏の夕べ」(素描淡彩)出品。3回国際形象展「扉」「楽園」出品。オリンピック東京大会芸術展示「近代日本の名作」展「雨の日」出品。32回独立展に「夏の夕べ」を出品。1965(昭和40年) 8回日本国際美術展「花ぬす人」出品。5月14日、横浜モスクワ経由渡仏。8月27日帰国。33回独立展「男の顔」出品。東京日蓮宗寺院・乗泉寺本堂ガラス・モザイク壁画「合掌」完成。画集「海老原喜之助」出版。1966(昭和41年) 4月13日羽田発渡仏。藤田嗣治のモンバルナスのアトリエに住む。絵を描くことよりヨーロッパ各国の寺院、美術館をめぐる。10月8日、帰国。(11月、海老原美術研究所閉鎖)1967(昭和42年) 7月、日動画廊で陶彫、油絵、素描を展示する海老原喜之助新作展開催。8月、熊本で海老原喜之助展開催。35国独立展「南の国」(神奈川県立近代美術館蔵)出品。10月25日、渡欧。1968(昭和43年) 1月、スイス・チューリッヒの病院に入院中の恩師藤田嗣治に付添う。1月29日、藤田嗣治死去。このあとの10カ月間は藤田家の後始末に忙殺される。7回国際形象展「聖像」出品。11月、サンリスへ旅行、このころ「聖堂」など風景を描く。1969(昭和44年) 1月、ニース旅行。5月ブルターニュ、ロワール地方旅行。車で南下途中、遺跡の町シノンで発熱、疲労がひどく、食べたものを吐く。ブールジュに至る。6回太陽展「調教師の家族」出品。7月、東京・銀座弥生画廊、フジキ画廊で海老原喜之助滞欧小品展開催。ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグへ旅行。1970(昭和45年) 3-4月、「サーカス」「サーカス=白馬」「白い木馬」などを描く。このころ、疲れがひどくなる。5月、夫妻でスイス、イタリアを旅行。7回太陽展に「サーカス」出品。ブルターニュ地方を旅行中、エトルタで吐血する。衰弱がひどくなる。9月19日、午前8時30分(日本時間午後4時30分)死去。肺ガンと診定。9月25日、仮葬儀がペール・ラ・セーズの聖堂で行われる。日本政府から勲三等旭日中綬章が贈られる。10月15日、青山葬儀所で独立美術協会葬が行われる。1971(昭和46年) 4月、東京・日本橋・高島屋で海老原喜之助展開催。8月、神奈川県立近代美術館で海老原喜之助デッサン・水彩・版画展開催。

田沢八甲

没年月日:1970/09/02

田沢八甲は明治32年8月2日青森市に生れた。大正9年上京、郵政省簡易保険局外務課に勤務、赤坂溜池の葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に油絵を学び、黒田の没後は牧野虎雄に師事した。昭和4年帝展に初入選となり、その後帝展に入選をつづけ二部会で朝日新聞社賞を受けた。戦後は日展に出品、昭和27年、29年に入選している。官展の他は旺玄会、新世紀(旧槐樹社)、新協美術会に出品していた。主な作品は「東北のこども」「庭の姉妹」など。

黒田重太郎

没年月日:1970/06/24

洋画家黒田重太郎は、6月24日老衰のため京都市北区の自宅で逝去した。享年82歳。黒田重太郎は明治20年9月20日滋賀県大津市で生れたが、幼、少年期を大阪で過し、明治37年京都で鹿子木孟郎に洋画を学び、、翌38年浅井忠の門に入った。大正元年第6回文展に「尾之道」が初入選となり、同7年9月渡仏、帰国後大正8年第6回二科展にピサロの影響をみせる滞欧作「ケルグロエの夏」以下14点を特陳し二科賞を得、会員となった。大正10年再び渡仏しアンドレ・ロートの影響をうけ「港の女」「レスカール」「水浴の女」などキュビックな作品を帰国後の大正12年第10回二科会展に発表し二科会々員となった。第1回渡仏では画作の傍ら西洋美術史を学び、第2回渡仏では画論、技法史等を学び「セザンヌ以後」(大正8年)、「構図の研究」(大正14年)の著書がある。昭和18年二科会を脱会し、22年4月、同志9人と第二紀会を創立、以来同会に出品していた。また大正13年以来、鍋井克之、小出楢重等と信濃橋洋画研究所を開設、又昭和12年全関西洋画研究所を設立するなど関西を中心に後進の育成に尽していた。22年京都市立美術専門学校教授となり、京都市立美術大学洋画科主任教授を経て38年4月退官。同大名誉教授。44年芸術院恩賜賞受賞。二紀会名誉会員であり関西洋画界の最長老であった。なお著書に前記の他「小出楢重の生涯と芸術」(昭和30年、美術出版社)、「画房随筆」(昭和17年)その他10余種がある。二科会展における主な出品画は「三部作・閑庭惜春」(昭和8年)、「晩桜」(昭和9年)、「肇暑」(昭和11年)、「湖雨欲晴」(昭和18年)。なお、二紀会展における主な出品は「枯山水石組」(昭和28年)、「風の湖」(昭和29年)、「冬澗」(昭和30年)など。

岩崎又二郎

没年月日:1970/04/03

春陽会会員岩崎又二郎(本名又次郎)は4月3日急性心不全のため逝去した。享年72歳。岩崎又二郎は、明治31年3月22日京都市西陣に生れ、日本画塾に学んだのち京都市立絵画専門学校に入学、大正12年3月同校を卒業した。その頃、大正11年には帝国美術院第4回展に「本阿弥庵の秋」(日本画)、13年には帝国美術院第6回展に「金魚池」(日本画)が入選しているがその後洋画に転向し、大正15年春陽会第4回選に出品入選して以来、同会に洋画を出品しつづけ、昭和23年春陽会々友、28年春陽会々員となった。又、その間京都市美術展にも出品し、昭和12年「静物」、14年「竜門の雪」で受賞。さらに16年「冬の海」も受賞し、梨本宮買上げとなった。21年には「海」が大阪毎日新聞社賞となった。京都市美術展審査員で、京都平安女学院短期大学に勤務していた。友人、中村徳三郎、川端弥之助など。

武田晶

没年月日:1970/03/31

二紀会同人武田晶(号、クガ・マリフ)は昭和6年7月31日山口県玖珂郡に生れた。武蔵野美術学校西洋画科を中退、33年~35年の間、読売アンデパンダン展に出品、その間二紀展にも出品をしていた。38年二紀会展で「拒否と挑戦」「青のビジョン」か同会奨励賞となり、同人に推挙された。40年、椿近代画廊で個展開催、又同年二紀会展「メディア679」で同人賞をうけた。43年12月~44年1月渡欧45年3月31日38才で逝去した。共同石油宣伝課に勤務していた。

伊谷賢蔵

没年月日:1970/03/27

行動美術協会々員伊谷賢蔵は3月27日胆管炎のため逝去した。享年68歳。伊谷賢蔵は、明治35年2月23日鳥取市に生れた。鳥取第一中学校卒業後、京都高等工芸学校に入学、大正13年卒業後。更に洋画研究を志し、関西美術院に学んだ。二科会出品、同会々員となったが戦後行動美術協会を設立し、晩年迄同会で活動をつづけていた。大正9年 鳥取第一中学校卒大正13年 京都高等工芸学校卒、関西美術院に入所大正14年 春陽会展に出品、入選大正15年 二科会展に入選、以後昭和19年迄毎年二科会展に出品、全関西展にも入選し受賞、この年から昭和21年全関西美術協会解散まで例年出品する。昭和5年 全関西美術協会々員となる昭和6年 二科賞を受ける昭和7年 二科会々友となる昭和16年 二科会々員となる昭和19年 二科会解散昭和20年 終戦直後行動美術協会設立昭和21年 行動美術京都研究所、京都地方展の開設に尽力し、翌22年第1回行動美術全関西展を開いた。なお、昭和14年~18年の間、大同石仏を初め、古美術、風物・祝祭を研究、制作のため毎年華北に旅行した。昭和27年より40年まで京都学芸大(現教育大)西洋画科主任教授をつとめ、更に新設の精華短大の美術科主任教授となった。〔主要作品〕「C・M嬢」、「一椀親善」、「陸の港」(張家口)、「大同石仏」、(以上二科会)、「薄暮」、「琉璃渓」「由布岳残照」「阿蘇」「柘榴などの静物」「アンデス高原の女達」など。

後藤貞二

没年月日:1970/02/28

後藤貞二は、2月28日逝去した。明治36年5月22日東京京橋に生れた。大正10年東京美術学校に入学、昭和元年同校卒業、その間岡田三郎助に師事していた。兵役を終えたのち昭和3年から5年迄フランスに留学、シャルダンの静物小品などに惹かれた。帰国後結婚、同7年春陽会に静物2点を出品、同会には9年にも2点静物画を出品した。13年新古典派のメンバーとなったが意見合わず退会、13年以後日本美術会アンデペンダン展に3年間出品したが、その後は一切の公募展に参加せず個展による発表を主とした。静物、人物が主で、いづれも対象に対する深い観照と愛情から生れた写実の作品であった。個展は、昭和16年第1回(銀座菊屋)、17年第2回(右同)、30年第3回(銀座資生堂)、36年第4回(銀座松屋)、38年第5回(右同)、41年第6回(東京プリンスホテル)又46年フジ・アートギャラリーで回顧展を開いた。

仁戸田秀吉

没年月日:1970/02/20

読み:にえだひできち  二科会々員、水彩連盟会員仁戸田秀吉は、2月20日、胃ガンのため逝去した。享年60。仁戸田秀吉は明治42年11月25日福岡県大牟田市に生れた。昭和2年大牟田市三井工業学校卒業。本郷絵画研究所に学んだ。昭和14年より18年迄、日本水彩画会展、東光会展、旺玄社展、大潮会展に出品。また昭和21年より44年まで二科会展及び水彩連盟会展に出品、各々の会員であった。昭和22年 水彩連盟会友推挙、24年奨励賞受賞昭和25年 水彩連盟会会員となる。大牟田市松屋デパートで個展開催昭和29年 二科会展で特待賞受賞昭和31年 二科会々友推挙昭和32年 8月、東京大丸デパートで第2回個展開催昭和38年 二科会々員となる。4月、東京大丸デパートで第3回個展開催。9月、水彩連盟と中華民国連合水彩画会との交換展のため代表として台湾に渡る。昭和41年 東京銀座壱番館画廊で第4回個展開催〔主要作品〕「春光」(毎日新聞社主催第5回美術団体連合展)、「十字架」(第25回水彩連盟展)、「仏花」(同28回展)、「パンジイA」(二科会第39回展)、「蝶とパンジイ」(同41回展)、「工場の見える風景」(同48回展)など。

松山省三

没年月日:1970/02/02

洋画家松山省三は、2月2日死去した。享年86歳。明治41年東京美術学校を卒業し、その後、黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、藤島武二らに師事して、白馬会系統に属し、官展にも出品した。大正4年、院展洋画部が出来て以来ここにも出品した。また画業のかたわら、明治44年わが国喫茶店の草分けとして知られるカフェー・プランタンを開店し、当時文人墨客の集合所となった。なお俳優河原崎国太郎は長男にあたる。

高橋辰雄

没年月日:1970/01/25

春陽会々員高橋辰雄は1月27日逝去した。明治37年仙台市に生れ、中学卒後代用教員を暫らく務めたのち昭和の初め上京、山本鼎の研究所、次で春陽会洋画研究所に学び、昭和4年「代々木の一部」、6年「放水路風景」などが同展で入選、殊に戦後は仕事も順調で昭和23年春陽会々友、26年会員に推され、風景、静物・花を主とし、澄んだ色調の、温雅で詩情に富んだ作品をのこしている。

小泉繁

没年月日:1970/01/22

創元会委員小泉繁は、明治31年8月11日東京下谷に生れた。東京美術学校製版科、並びに同校師範科を中途退学、大正14年第6回帝展に出品入選、以後帝展、日展に随時出品、昭和27年第8回日展「画室」は特選となった。翌年無鑑査、更に出品依嘱者待遇をうけ、また創元会にも出品、同会委員であった。主な作品は「画室」のほか「椅子の上の静物」(50号・第12回日展出品)、「静物」(50号・第33回創元会展出品)など。又、日本山岳画協会々員として毎年同展に出品していた。

光安浩行

没年月日:1970/01/19

日展評議員、示現会常任委員、光安浩行(本名、弥市)は、1月19日胃ガンのため逝去した。享年79歳。明治24年1月福岡市に生れた。県立修猷館中学校卒業後太平洋画会研究所に入り、中村不折、岡精一の指導をうけ、大正時代は主に郷里福岡で画業につとめていた。大正13年結婚、翌年上京し、15年の第7回帝展に「静物」が初入選となった。その後は帝展、文展、また太平洋美術画会展に出品、戦後は日展と示現会に作品を発表して、昭和25年第6回日展で「明日」が特選となっている。なお、晩年近く、山林美術協会を結成して同展にも出品をつゞけていた。作風は写生をもととしながら単純化、装飾化に独自の特徴があり、明快でしかも重厚な色調の婦人像、風景を画いている。明治45年 太平洋画会研究所に入る大正9年 郷里福岡で画業に勤む大正13年 結婚、翌年上京、上海旅行、個展開催。大正15年 第7回帝展初入選「静物」(30号)昭和3年 第24回太平洋画会展出品「静物」(50号)昭和4年 太平洋美術学校教授を勤む昭和16年 文展無鑑査待遇をうける昭和20年 福岡市へ疎開昭和22年 示現会を同志と創立昭和25年 第6回日展「明日」(100号)特選昭和27年 日展依嘱作家となる昭和29年 5月、山林美術協会結成、翌年第1回展開く。昭和42年 日展評議員となる。昭和45年 1月19日没

to page top