難波田史男

没年月日:1974/01/29
分野:, (洋)

特異な作風で注目を集めつつあった難波田史男は、九州旅行の帰途、1月29日未明、小倉発神戸行きのフェリー「はりま」より転落、溺死した。遺体は1月以上あとの3月7日、香川県三豊郡の粟島沖2キロ附近で底引き網操業中の漁船によって発見された。難波田史男は、抽象画の画家、難波田龍起の二男で早稲田高等学院卒業後、村井正誠、山本蘭村などの指導をうけたが、独自に内的世界を探索し、曲折をへたあと早稲田大学文学部美術科に入学、在学中、大学紛争を経験、その苦悩の傷痕をひきづりながら制作し、卒業論文を執筆した。数度にわたり個展を開催、パウル・クレー風の思考の痕跡を刻みつけるような作品は一部の鑑賞者、批評家の注目をひきつけていた。フェリーからの転落は、事故によるものか、自殺であったか詳かではない。

略年譜
昭和16年 4月27日、父龍起、母澄江の次男として東京都世田谷区に生まれる。
昭和20年 3月、東京空襲が激しくなり母の出生地山口県へ母、兄紀夫、弟武男と疎開する。
11月、経堂の家へ帰る。クレヨンで幼時の戦争恐怖のイメージにつながる飛行機や火を吐く戦車などを描いている。
昭和23年 4月、世田谷区立桜丘小学校へ入学。小学校時代に描いたものでは、スケッチ板の油絵「自画像」「赤い家のある風景」「動物園のキリン」(1949)などがある。52年にも油絵「自画像」や「静物」があるが、それは図工の教師勝田寛一氏(モダン・アート協会員)のすすめで描いたものらしい。
昭和29年 4月、世田谷区桜丘中学校へ入学。真面目に諸学科に励んで優等生だったが、先生や親に叱られるのを極端に嫌う性質があった。
昭和32年 3月、中学校卒業。都立青山高校にも合格したが、本人の希望で早稲田高等学院に入学。しかし、早稲田に抱いていた憧憬の夢が消え、一学期にしてすでに煩悶し、単身東北に旅する。
昭和33年 このとし読書が旺盛になる。日記にヒルティの「幸福論」の読後感があり、『こういう良いものを知らずに死ぬのはいやだ。人間自身を知らずに死ぬのはいやだ。読むんだ。読むんだ。生きるんだ。生きるんだ。』と記す。ベートーヴェンの言葉にも大変感動し傾倒する。学院では絵画よりむしろ音楽を好んで選択している。
昭和34年 8月、外房に避暑に行き一週間ほど泊り、無報酬で宿の営む海辺の売店を少女と一緒に手伝う。少女の面影は史男をとらえる。
11月、学友が九州の修学旅行中にホテルにて自殺したショックは大きく、自分は彼の倍は生きたいと日記に記す。
昭和35年 このとし自分の好きな本を読み、内面の聲を聞くと、正規の学業はむなしくなったらしい。将来を考えてせめて高校だけは卒業しなければいけないという両親の忠告に従い、3年の3学期に猛烈に勉強し卒業に漕ぎつける。大学進学はあきらめ、父のごとく絵画の道を志向する。
4月、文化学院美術科に入学。村井正誠、山本蘭村の両先生の指導をうける。石膏デッサンにはあまり興味を示さなかったが、デッサンの重要性を考えて、神田の街の建物をスケッチしたり、自由に抽象的な線描をノートにたんねんに描き、片面には自分の詩や尊敬する作家の言葉を書きつけ、次第に芸術の思考を深める。
7月、北海道恵庭の牧場で自ら二週間余働き、労働の苦労を知る。
小品の油絵をボール紙や板、キャンバスに描く。
昭和36年 ベートーヴェンの音楽を聴きながら、曲を絵巻風にデッサンすると、造形力に富んだ美しいハーモニーの絵巻、三本ができた。
このとし、全紙のグワッシュ画が多くなる。
昭和37年 文化学院を中退してから、さらに独自の制作活動が盛んになる。クラシック音楽のレコードをかけては内部のイメージを誘い出し、作画に没頭する。交友の機会も殆んどなく、孤独の時間を過ごしていた。このとし、全紙の彩色画を多数描いた。
昭和38年 このとし、「土竜の道」(全紙10枚連続)その他多数のペンによるデッサン及び彩色画を制作。
昭和39年 このとし、「イワンの馬鹿」(全紙2枚つづき6面)を制作。たまたまイトウ画廊(現在はない)の壁画を見て、宿題の絵巻風の作品の陳列が可能として個展を希望したので、父の紹介する伊藤氏に作品を見せたところ、新人として世に出ても生活がむずかしいから、むしろその前にイラストに進んだ方がいいと忠告された。そこで史男は記憶を頼って相撲のデッサンを描き、大相撲シリーズ(横長19枚連続)を制作する。だが、結局イラストの作品には入り込めずに終った。この頃、大学に行かないことのコンプレックスを感じるとともに、自己の絵画論の確立の必要を痛感して、早大入学を志し受験勉強を始める。
昭和40年 4月、早稲田大学第一文学部美術科に入学。青柳正廣教授や大沢武雄教授等の指導をうける。大学祭のために「早大行進曲」A(全紙5枚連続)とB(全紙4枚連続)を制作する。1年は楽しく過ごして制作も進んだ。
昭和41年 大学紛争が始まり、過激派と一般学生の間にあって苦しみ、しばしば興奮状態に陥った。その傷痕はあとまで続いた。
昭和42年 1月、史男の作品を認めて下さった岡本謙次郎氏のすすめで第一回個展を第七画廊で開催する。「土竜の道」「ある日の幻想」「終着駅は空間ステーション」(1963)「イワンの馬鹿」(1964)「太陽讃歌」(1967)などの全紙の作品と水彩の小品多数出品。油絵「夢の国の人々」(100号)「夢」(10号)その他を制作する。
昭和43年 「太陽の国境線」「夜の太陽}など一連の“太陽シリーズ”をテンペラで数多く制作する。このとし、「太陽をデッサンする」「世界をデッサンする」「水の街角」「東洋美術―実存主義と仏教―」等の随想を書く。
昭和44年 6月、学園紛争の悩みは続いていたが、第七画廊で第二回個展を開催する。油絵「サン・メリーの音楽師」(100号7枚連続)同盟の水彩全紙(11枚連続)その他全紙の水彩、デッサン等を出品。諸新聞に批評が掲載されて好評であった。9月、ギャラリーオカベ「テンペラ画展」は“太陽シリーズ”として、「七色の虹の彼方に、太陽の花々は開く」の文章を掲載する。12月、神戸トアロード画廊で個展を開催。
昭和45年 3月、早稲田大学第一文学部美術科卒業。「青春の思索」を窪田般彌仏語教授へ提出レポートとして書く。卒論は「現代美術における小説の役割―現代フランス小説―」であった。北海道旭川梅鳳堂で個展を開催。12月、東邦画廊で個展を開催。
昭和46年 6月、第1回新鋭選抜展(三越)に選ばれて、中版の水彩4点を出品。7月、北海道の牧場で働いて、晴耕雨読の生活をしようと本のいっぱいつまった重いバッグをさげて出かけ、洞爺湖の知人宅に滞在するも、適当な牧場が見つからず帰京する。11月、東邦画廊で個展を開催。
昭和47年 6月、第二回新鋭選抜展に油絵「幻花」(50号)
その他3点出品。
11月、東邦画廊で油彩と水彩の個展を開催。油絵「海」(15号)は多くの人に注目された。このとしフジテレビのミュージックギャラリーに出演、作品が紹介された。
昭和48年 6月第三回新鋭選抜展に油絵「神話」(50号)その他3点出品。
7月、旭川画廊にて、龍起・史男の油絵と水彩の親子展開催。北海道を楽しく旅行する。この年油絵、水彩多数制作するほかエッチングの習作20点を作成。美術雑誌「日本美術」(99号)の対談「制作日記」には史男の絵画思考と人間観が語られていて、終わりに「自分の心にうまれてくるもの、それを自由に表現していきたい。キャンバスは自分の世界観を表現する唯一の場なのである」とある。
昭和49年 1月29日、九州の旅行の帰路、瀬戸内海にてフェリーより転落溺死す。32歳であった。遺体は3月6日香川県三豊郡箱崎沖にて漁船により収容される。
第四回新鋭選抜展に水彩小品1973年作「ひとり」「彼方」「女神」「空」「星空の下」の5点を父の選択により出品。入賞す。
昭和50年 11月、難波田史男遺作展がフジテレビギャラリーで開催され、60余点が出品される。
昭和51年 2月、ある青春の挫折の歌・難波田史男遺作展が新宿・小田急百貨店≪本館≫11階グランドギャラリーで開催され、作品170余点が展示される。
(難波田龍起・編)
(本年譜は、難波田史男遺作展目録より転載いたしました)

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(271-273頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「難波田史男」『日本美術年鑑』昭和49・50年版(271-273頁)
例)「難波田史男 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9374.html(閲覧日 2024-05-30)

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