本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





土田文雄

没年月日:1973/02/22

洋画家、国画会々員土田文雄は2月22日脳軟化症のため、東京都中野区の自宅で逝去した。享年72歳。明治34年2月22日山形県米沢市絹織物製造業土田志賀蔵、母千代の長男として生れる。大正7年、米沢中学卒業後上京、川端画学校に入り藤島武二に師事する。大正10年、日本美術院洋画部に「海」を出品、画壇への初入選であった。大正12年から春陽会展に作品を出して毎回入選する。大正15年国画会創立とともに、傾倒していた梅原龍三郎の勧めによって国画会に出品するようになり、昭和4年、第4回国画会展「河岸の丘」他四点展入選、樗牛賞をうけ、昭和18年同会々員となった。この間文展の招待出品作家となって信州風景を出品していた。戦後も、国展の他、毎日新聞社主催の連合展、現代日本美術展等に出品、没年迄活発に制作をつづけ46年長年勤務の武蔵野美術大学を定年退職し、翌年渡仏、同地で暫く制作の予定であったが、体の調子悪く10月に帰国、そのまま病床の人となり誕生日の2月22日逝去した。 略年譜明治34年 2月22日山形県米沢市に生れる。大正7年 米沢中学卒業後上京、川端画学校に入学、藤島武二に師事する。大正10年 日本美術院展に「海」を出品する。昭和12年 第1回春陽会展に出品。大正14年 10月、松山市の錦織物製造業大西熊吉次女、次枝と結婚。大正15年 国画会の創立に際し、梅原龍三郎のすすめで同会に出品するようになる。昭和4年 第4回国画会展に「河岸の丘」昭和7年 国画会々友となる。昭和13年 この頃信州を好んで安茂里などに毎春旅行し、高原、湖畔などの作品を数多くつくる。昭和16年 文展に出品。昭和18年 第18回国画会展に出品、国画会々員となる。昭和22年~28年 毎日新聞社主催連合展に「緑林」、「新緑」「山湖」「中国服の女」「画室」「風景」等出品。昭和29年 武蔵野美術大学教授となる。(46年退職)昭和31年~38年 現代日本美術展及国際美術展に「風景」「海浜の朝」「秋の道」等出品。昭和32年 米沢市より功績賞を受ける。昭和47年 渡仏昭和48年 2月22日没

鳥取敏

没年月日:1973/01/25

二紀会会員の洋画家、鳥取敏は、1月25日、死去した。享年67歳。鳥取敏は、明治39年(1906)9月1日、福岡市に生まれ、旧制山口高等学校中退後、上京して二科会美術研究所に入り、安井曾太郎、石井柏亭らの指導をうけ、昭和14年第26回二科会展に「店頭の剥製」を出品入選、以後、昭和18年第30回展まで出品した。戦争中は長野県上水内郡に疎開して農村美術運動をおこし、水内村(新町)は“絵をかく村”として知られるにいたった。昭和24年(1949)、新潟大学教育学部芸術科の教官となった。戦後、二紀会の創立以来出品し、昭和23年第2回展に「陶房の午睡」を出品、同人賞を受賞、第3回展では「古志の闘牛」で同人優賞をうけた。昭和27年第6回展で委員に推挙された。

沼田一郎

没年月日:1972/12/20

太平洋美術家協会評議員の洋画家沼田一郎は12月20日横浜市立病院で療養中心不全を併発して死去した。享年70才。沼田一郎は明治35年(1902)5月14日、東京築地に生まれ、川端画学校に学び、大正13年(1924)から辻永に師事した。大正13年6回中央美術展に「慈姑點々」が初入選となり、以後、大正15年4回春陽会「展鉄砲洲神社」、昭和3年9回帝展「新秋晴日」、昭和4年から光風会展に出品、同年16回展「渓流」「伊豆風景」、同5年17回展「麓日新秋」、同6年「屋上展」(レートン賞受賞)、同7年「姥子温泉」他2点、同8年「老母像」、同9年「静物」、同10年「逗子の夏」「都会の橋」、同11年「静物」を出品した。昭和15年には27回二科展に「開花」、同17年からは旺玄社に出品して月光賞をうけ社友となり、18年に同人に推挙された。戦後は旺玄会の創立に参加したがのちに退会し、昭和34年(1959)には太平洋展に出品して会員にあげられ、以後同展に出品した。昭和10年ころからガラス絵をはじめ、昭和23年以降、三越百貨店、壷中居、高島屋百貨店などでガラス絵による個展をしばしば開催した。昭和39年居住地で鎌倉美術家協会の創立に参加、その代表をつとめていた。

佐伯米子

没年月日:1972/11/13

二紀会理事、故佐伯祐三夫人の佐伯米子は、11月13日午後1時50分、ガン性腹膜炎のため東京・渋谷区山王病院で死去した。享年69才。佐伯米子は、明治36年(1903)7月7日、東京・銀座の象牙貿易商、池田嘉吉の二女として生まれ、虎の門東京女学館を卒業、はじめ川合玉堂について日本画を学んだ。大正10年(1921)5月21日、当時まだ東京美術学校の学生であった佐伯祐三と結婚、翌11年長女彌智子出生、大正12年祐三は美術学校を卒業、この年11月、祐三、彌智子とともに渡欧の船旅につき、大正13年(1924)1月パリ着、大正14年(1925)年12月まで滞在した。その間、夫祐三とともヴラマンクに師事し、大正14年(1925)年のサロン・ドートンヌに「アルルの跳ね橋」が入選した。大正15年(1926)2月、イタリアから帰国の途につき3月帰国した。同年13回二科会展に5点が入選、以後、滞欧期間にも続けて出品入選している。昭和2年(1927)9月、朝鮮をへてシベリア鉄道経由で再渡欧し、フランスに滞在したが、翌昭和3年(1928)8月16日、夫祐三はヌイイ・シュル・マルヌのエヴラール病院で死去し、同月30月には彌智子もグランゾム病院で病没、同年傷心のうちに帰国した。戦前は昭和15年(1940)27回展まで二科会展に出品し、戦後は、二紀会の同人となり、昭和24年(1949)二紀会理事、昭和42年21回二紀展で文部大臣奨励賞を受賞した。作品略年譜二科会展:大正15年(1926)13回展「花」「土鏑のある静物」「辞書のある静物」「シャルボン」「パンのある静物」、昭和2年14回展「室内」「静物」、同3年15回展「洗濯物」「家」、同4年16回展「パンテオンの横」「巴里の台所」「暖爐の傍」「静物」、同5年17回展「ノアール」「キューブ」、同6年18回展「時計の下」「スチーム・ハンマー」、同7年19回展「ヴァヴドマシン」「鍛冶」「スヰフト」、同8年20回展「フレクション・プレス」、同9年21回展「路」、同10年22回展「はりがね」、同11年23回展「村落」、同12年24回展「高原の家」、同13年25展「緑蔭」、同14年26回展「夕映え」、同15年27回展「湖を見るホテル」二紀展:昭和23年2回展「アルルの街」「白壁の家」「静物」、同24年3回展「秋菜」「歌い手の住む」「ヴァンディの家々」、同25年4回展「雁来紅」「カンナ」「村への道」「鐘樓」「ヴェニス」、同26年5回展「爐辺」「秋冷」「回想」「愉楽」、同27年6回展「アンチーブ・テラス」「パリ20区」「ケルメス祭の前夜」「山のホテルA」「ガチェル村(ニース)」「スイスの村B」「山のホテル」、同28年7回展  「ニースの村」「静物」「バラ」「ダリヤ」「静物」、同29年8回展「高原の花1」「高原の花2」「静物1」「アンチーブの城壁」「静物2」、同30年9回展「夜の花束」「秋草」「アンゼリューム」、同31年10回展「秋果」「秋香」、同32年11回展「ラントレ」「マンヂュシャゲ」「白い花」、同33年12回展「美人礁」「静物1」「静物2」、同34年13回展「花」「花」、同35年14回展「五月の静物」「森の秋」「花」、同36年15回展「山楽」「花」「高原の庭」、同38年16回展「或る日の記憶」「秋草」「静物」、同38年17回展「野の花」「静物(バナナのある)」「静物」、同39年18回展「菊」「内玄関」、同40年19回展「くちなし」「山の花」、同41年20回展「山百合」「花叢」、同42年21回展「かのこゆり」「海浜の室内プール」、同43年22回展「花の店」「ひまわり」、同44年23回展「日向」「海浜プール」、同45年24回展「花」「海浜室内プール」、同46年25回展「雑草の花」「時計台の見える石段」

高谷重夫

没年月日:1972/10/21

洋画家高谷重夫は、10月21日死去した。明治34年(1901)1月26日岡山県倉敷市に生れ、金光中学に学んだ。昭和13年より東光会に入り、同16年会員となった。戦後昭和27年光風会に移り、日展にも出品した。そのほか大潮展審査員をつとめ、また個展開催も多い。主要作に「玉島風景」「ビニロン工場」「寒林」「樹林」「大山」「鉄秋」等がある。

森嶋忠夫

没年月日:1972/10/11

新世紀美術会会員、大阪芸術大学教授の森嶋忠夫は10月11日死去した。享年63才。森嶋忠夫は号を南風子、明治41年(1908)11月7日、和歌山西牟婁郡に生れ、昭和4年(1929)京都高等工芸学校を卒業し、同時に大阪高島屋に技術員として入社した。昭和9年15回帝展に「小憩」が入選、翌10年高島屋を退社、昭和11年1回新文展鑑査展に「室内」が入選となった。以降、日展、東光展、槐樹社展などに出品、また白鳩高等文化学院、関西美術学院などの創立に参画し、さらに大阪芸術大学にあって後身の指導にあたった。昭和35年新世紀展に「EPULAS」を出品、エトアール賞を受賞し会員に推され、以後、「白夜」「星座」(昭和36)、「神話」(同37)、「南紀白浜」(同41)、「舞妓VEN-N-」(同42)、「湖岬夕映」(同43)、「無明」(同46)などの作品がある。

石井彌一郎

没年月日:1972/09/01

太平洋美術会評議委員の石井弥一郎は、9月1日胃ガンのため死去した。享年74歳。明治31年5月6日山形県庄内の郵便局の家に生れた。少年の頃、その村で早くに亡くなった松田修造という洋画家の作品をみて、つよく洋画にひかれ、酒田市の商業学校を卒業すると実業への道を歩まずに、大正5年夢を抱いて上京、まず川端画学校で手ほどきを受け、続いて太平洋画会研究所に移って勉励した。その後、前田寛治の“写実”に共鳴してその研究所に学んだ。10余年に及ぶ長い洋画の基礎勉強にも漸く得心したのだろう、昭和5年の初頭から公募展への実力試しが堰を切るかのように始められた。第5回1930年展(1.17-31)第7回槐樹社展(2.26-3.14)、第2回第一美術協会展(5.18-6.5)に搬入、それぞれ入選して自信を強めた。昭和8年春陽会第12回展から同会に所属、第25回展(昭和21年)まで連続作品を発表した。その間、中川一政に知遇を得、師事した。昭和8年頃から数年、京都・大谷大学美術部に迎えられ講師をつとめ、その京都時代には、関西での有力な公募展に出品した。新興美術協会第3回展出品受賞(昭9・1月)・同第4回展出品大阪毎日新聞社賞・同第5回展(昭11)出品、京都市美術展第1回展出品受賞(昭10・5月、受賞作「黄檗山禅悦堂」は京都市美術館所蔵となる)、春陽会系-樹社展会員出品(昭10・11月、京都朝日会館)などの活躍がみられる。昭和11年にはフランス、イタリアへ美術研究に遊学、その帰朝後の収穫は、京都市社会教育課の後援で「仏伊スケッチ展」を京都大丸にて開催、翌12年には、「滞欧洋画展」(2月11日-19日、大阪・阪急百貨店)、「滞欧洋画小品展」(4月3日-9日、東京銀座・森永)で披露した。戦後は専ら個展発表に意欲をもやし、昭和21年に日本橋白木屋での個展開催以来、46年10月の日本橋丸善での開催に至るまで、なお戦中5回の個展を加えると、実に連年30余回の開催を重ねており、一方昭和25年太平洋画会評議委員に推され、この展覧会での毎年の出品も終始おこたらず、その旺盛な作画努力と発表意欲には特筆に価するところがあった。晩年の作風は、自分が気にいる日本特有の風景や風物を対象に、止むに止まれぬ衝動をぶっつけて、きれい事を回避した生動感みなぎる制作に深まりをみせ、心ある識者に注目されたいた。『石井弥一郎画集』(昭和47年9月30日、三彩社発行)に詳しい。

糟谷実

没年月日:1972/07/29

元東京学芸大学教授、創元会会員糟谷実は7月29日に胃癌のため都内練馬区の自宅で死去。享年70才。長崎県北松浦郡に生れた。1922年(大正11)長崎県師範学校卒業後1924年東京美術学校師範科入学、26年(昭和2)卒業。28年10月油絵研究科に入り、31年修了。1927年4月熊本県第二師範学校教論。1934年4月東京府豊島師範学校教諭、1943年4月東京第2師範学校教授。49年6月東京学芸大学教授。1955年美術教育学会常任委員としてスウェーデンのルンド市で開かれた第9回国際美術教育会議への出席をかねて4ヶ月間ヨーロッパを視察した。作品活動としては1929年聖徳太子奉賛美術展に入選。30、31、32、33、35年帝展第二部入選、1952年創元展入選、53年創元会会員となる。

荒井陸男

没年月日:1972/07/06

明治神宮絵画館の壁画「水師営の会見」の作者として殊に著名な荒井陸男は、7月6日午後3時15分、心不全のため東京・渋谷区富ヶ谷の井上病院で死去した。享年86歳。告別式が8日午前11時から世田谷区松原2の28の5の松原カトリック教会で、喪主とみ子夫人により行なわれた。明治18年9月1日、徳川幕府海軍奉行荒井陸奥守(郁之助=後の初代中央気象台長)の六男として芝区で生れた。芝西久保の鞆絵小学校をへて麻布中学、日本中学、京都・同志社などで学業を修めたが、幼少のころから持って生れた画才に対する自信が強く、一族の反対を押し切って画家を志し、自力で海外留学を思い立ち、明治42年渡英、ロンドンのシッカー美術学校に学び、2年後には当地の新聞雑誌の絵画寄稿家としてその名を唱われるようになった。以来、大正・昭和と三代にわたって活躍した注目すべき画蹟の程は、下記の略年譜によってその大略を窺うことが出来るが、近代日本の洋画界にあって終始無所属をつらぬき、独立独歩、孤高に生きながら、しかも有数の歴史記録画・肖像画・海洋画の類を描きのこした希有で特異な存在として、彼の偉大な画業は、後々までも高く評価されるであろう。なお知己親友らによって書かれた主要参考文献として、「荒井画伯と毛主席肖像 山崎猛」、「洋画家荒井陸男を語る 長谷川如是閑」などがある。略年譜明治18年 9月1日、荒井郁之助の六男として東京、芝区で生れる。明治42年 英国ロンドンに行く。大正3年 第一次世界大戦中、海軍従軍画家として数多くの海洋画を描く。大正10年 家族と共にフランスに行く。大正12年 1月帰国。鎌倉にて関東大震災に遭う。翌年、旅順に行き旅順開城の下絵を描く。昭和3年 「旅順開城、乃木大将とステッセル会見の図」(明治神宮絵画館)完成。昭和14年 前年、濠州に行き取材、この年第一次世界大戦中印度洋における日英協同作戦の「軍艦伊吹、濠州ニュージランド軍隊護衛」(濠州カンベラの戦争記念美術館所蔵)を完成。昭和20年 5月戦災にて東京自宅焼失。26年まで軽井沢の別荘で暮らす。其の間、徳川家正公をはじめ、終戦後米軍アイケルバーカー中将その他の将校、および「最高裁判所三淵長官の肖像」(最高裁判所所蔵)を描く。昭和31年 「日中貿易協定・東京調印式の図」を夏に完成、晩秋、中国より国賓として招待され、その画を携えて北京に渡る。毛沢東主席の肖像画を側近者から懇請され受諾。折りあしく肺炎にかかり翌春帰国する。昭和40年 3月14日自宅及びアトリエ全焼、7月新築する。去る32年秋8分どおり完成の毛主席の肖像画をアトリエにて焼失。昭和47年 7月6日死去。10年以上前より描き始めた海洋気象台を中心に幕末の人物40人を含む群像の大作が未完成のままとなる。

牧野司郎

没年月日:1972/07/03

洋画家、光風会名誉会員の牧野司郎は、7月3日東京都品川区の自宅で病気のため死去した。享年79歳。明治26年7月2日千葉県に生まれた。土地の高等尋常小学校高等科3年を修業すると、好きな洋画の勉強を志し、明治39年7月から同舟舎絵画研究所に入り小林万吾の指導を受け、また和田英作につき学んだ。明治44年第5回文展に「矢車草の花」が初入選、これがはからずも宮内省御買上品となる光栄に浴した。以後官展に出品した。その間、大正3年第1回二科展に「自画像」が入選したこともあり、同6年5月からは不動貯金銀行に入行、昭和16年1月には同銀行取締役副頭取となるまでに昇任した(同20年5月、同銀行合併により退社)。更に同26年12月、東京都民銀行監査役(同38年退任)。このように銀行勤務のかたわら制作に励んだ異色の作家であり、大正7年第5回光風会初入選の「庭の雪」で今村奨励賞をうけ、大正13年同会会員となった。また昭和10年には第二部会会員となり、昭和11年文部省招待展に無鑑査で「画室の一隅」を出品、晩年の46年4月、光風会名誉会員に推挙された。主要作品には前記のほか、「室」(第13回帝展)、「仏像」(第14回帝展)、「船と本」(第15回帝展)などがある。

石川重信

没年月日:1972/07/01

洋画家石川重信は、7月1日心筋こうそくのため文京区の自宅で死去した。享年68才。長く第一美術協会にあって、会のため尽力した。

鳥海青児

没年月日:1972/06/11

独立美術協会会員の鳥海青児(本名正夫)は6月12日午後10時20分、胸膜炎、急性肺炎のため東京、港区の虎の門病院で死去した。享年70歳。鳥海青児は中学時代から洋画をはじめ、住居に近かった関係から岸田劉生や萬鉄五郎を知り、関西大学時代から春陽会展に出品、同志と麓人社を結成して絵画勉強に励げんだ。昭和5年から昭和8年(1930~33)ヨーロッパに滞在し、その間に自らゴヤの「はるかなる亜流」と称したようにゴヤ、レンブラントの作品につよい影響をうけて個性的な作風を形成していった。昭和18年(1943)、春陽会を脱会して独立美術協会に転じ、以後、独立展の重要な作家として活躍し、昭和30年度(1955年度)の芸術選奨、文部大臣賞を受け、昭和34年(1959)には第10回毎日美術賞を受賞した。また、昭和15年(1940)ころから東洋日本の古い仏画に関心をもち、さらに古陶磁器にもつよい関心をよせ、古美術の蒐集でも知られていた。年譜明治35 3月4日、鳥海力蔵、あぐりの二男三女の二男として神奈川県平塚市に生まれる。本名鳥海正夫。明治41 父力蔵4月27日没、平塚市立須賀小学校入学。大正2 兄や姉の蔵書の中から田山花袋「一兵卒」国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」「夜行巡査」などを出して読んだのはこのころか。(小自叙伝)大正3 須賀小学校卒業。大正5 藤嶺中学(藤沢中学)第2学年に編入。大正6 このころ小遣いで油絵具を買って油絵を描きはじめた。藤沢中学の絵画教師、金子保(文展出品作家)に指導を受けた。逗子開成中学生だった所宏を知る。大正10 藤沢中学卒業、後輩に原精一、森田勝がいた。三高受験のため芦屋の義兄平林正二郎宅に移ったが、受験に失敗して後、関西大学経済学部入学。大正11 当時流行した姓名判断にしたがって青児と名のる。(鳥海談)大正12 芦屋の義兄平林氏宅から関西大学に通学していたが、第1回春陽会入選発表の中に所宏(中学時代の友人)の名を見つけた。このことが刺激となって翌年から春陽会に応募することを決意した。大正13 第2回春陽会(東京三越)に「洋女を配するの図」「平塚風景」の2点が初入選した。横堀角次郎、土屋義郎、斎藤清次郎、川端信一、鳥海青児、三岸好太郎、倉田三郎で麓人社を結成。第1回展を開催(8月1日-10日村田画房)40点陳列。「午後鳥海君来訪、8月初旬開かれる湘南展覧会の出品をうけとりに来た也。鵠沼風景を非売品として貸す」(劉生絵日記大正13年7月9日。)この年、横堀角次郎を知る。大正14 第2回麓人社展(4月1日-6日丸善)「ポプラと洋館」出品。第3回春陽会「酒場」「山陽下松小景」「赤い橋」出品。昭和元 関西大学経済学部卒業。岸田劉生より冬菜の画号を贈られる。このころ春陽会では10人くらいの会員に色紙をかかせて画帖を作り、会の運営資金にあてていた。第4回春陽会「果実図」「郊外之道」出品。昭和2 第3回麓人社展開催。第5回春陽会「志摩的矢遠望」「ざくろ」出品。昭和3 第6回春陽会「水無き川」「裸婦」「芦屋風景」出品。第6回春陽会賞受賞。この年の春陽会賞には他に岡田七蔵、加山四郎が受賞。三岸好太郎、節子、鳥海青児3人展開催(10月12日-14日 札幌丸井デパート、11月1日-8日東京三越)。第4回麓人社展開催。この年札幌で6カ月生活する。昭和4 第7回春陽会「裸婦立像」「裸婦」「北海道風景」「ポプラ」「札幌郊外」出品。「北海道風景」など第7回春陽会賞受賞。他に水谷清、永瀬義郎が同会賞を受賞している。昭和5 この年より春陽会無鑑査となる。この春、大阪にいる建築家の友人とヨーロッパ出発。最初モロゾフ・シチューキン・コレクションを見るためにモスクワに向かい、約2週間滞在。その後ベルリンにいる友人百々巳之助をたずね、同地に2カ月滞在。マルセーユへ義兄平林正二郎を迎えに出発、途中ストラスブルクとミュンヘンに寄る。マルセーユから平林氏とスイスのレマン湖に向かう。9月まで滞在してパリに入る。パリではアルジェリア占領100年記念行事の一つであったドラクロア回顧展を見てアルジェリア行を決意し、その後義兄がアルジェリアで経営する店と奥地のブリダを往復して約1年半のアルジェリア生活がはじまる。この年アルジェリアに滞在。第8回春陽会「奈良風景」「橋のある風景」「芦屋風景」「うづら」出品。昭和6 一度パリにもどる。パリには海老原喜之助、野口弥太郎、森田勝などがいた。ロートレックの回顧50年展を見る。昭和7 パリからアルジェリア、モロッコに旅し、ゴヤを見るためにモロッコ経由でスペインへ旅行、プラド美術館、トレドなどを見てパリに帰る。このとき、ゴヤのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ寺院のフレスコ画とキンタ・デル・ソルド(聾の家)の壁画(プラド美術館)を見て強い衝撃を受けた。その後ゴヤがレンブラントの系譜につながることを感じてアムステルダムにレンブラントを見に行く。このころアントワープ、ブリュッセルにたびたび旅行し宮田耕三を知る。昭和8 ヨーロッパから帰国、春陽会会員に推薦された。第11回春陽会に滞欧作23点「カスパ」(アルジェリア)「奥地小景」(アルジェリア)「アルゼリー港」「アルジェリア郊外」「ブッサダ」(アルジェリア)「アルジェリア風景」「アルジェリアの水汲み女」「闘牛」「ヴェニス」「アルゼリー街風景1」「アルゼリーの女」「砂漠のオアシス」(アルジェリア・ブッサダ)「プラス・デュ・グーベルマン」(アルジェリア)「モロッコ風景」「ブルージュの橋」(ベルギー)「ボーレンダム」(オランダ)「アルゼリー街風景」「サンマルコを望む」(ヴェニス)「奥地のスケッチ」(アルジェリア)「モロッコの夜」「闘牛」(スペイン)「アルゼリーの街角」「アルゼリア小景」出品。昭和9 砂を絵具に混ぜて使用した作品を春陽会に出品、いわゆる日本的でない作家の一人といわれた。第12回春陽会「風景」「ノートル・ダーム・ド・パリ」「アラビア風の海と家」「水辺」「ビリエ・シエール・モーラン」「グラン・キャナル・ヴェニス」「アルジェリアの兵士」「アラビア風の家」出品。昭和10 第13回春陽会「海辺の小屋」「小屋のある風景」「海辺」「海浜」「茅ヶ崎の海」出品。昭和11 このころ絵が汚いと評判された。第14回春陽会「少年」「段々畠と畦」「紀南風景」「信州の畠(一)」「水田」「信州の畠(二)」「道化の顔」「男の顔」「道化の首」「道化」出品。昭和12 このころから鳥海画風の追随者がみられるようになり、春陽会内に新たな空気を生みだしたといわれた。第15回春陽会「夏の風景」「裸体」「石橋のある風景」「裸女」「風景」「海の見える風景」「セリスト(A)」「セリスト(B)」「南薩山川港」出品。明治・大正・昭和3聖代名作美術展(朝日新聞社主催)「アラビア風の海と家」出品。昭和13 中国(上海、南京、漢口、抗州、蘇州)に旅行、久米正雄、山田耕作、西条八十らと同行。第1回の沖縄旅行。第16回春陽会「夕色の並木と山」「道化」「並木の続く風景」「風景」「山」「高カラーの男」「水涸れた川」「並木と山」出品。昭和14 1月15日美川きよと結婚。2度目の中国旅行北京、天津、張家口)。このころから古美術蒐集をはじめた。最初は初期肉筆浮世絵、春章の芝居絵など、浮世絵版画では清倍の立姿などがあった。第17回春陽会「蘇州風景」「塹壕のある風景」「揚子江と漢陽の街」「蘇州風景」(ピトレスク)「支那の家」「蘇州小景」出品。昭和15 「鳥海青児油絵個展」(大阪高島屋 11月28日-12月3日)開催。「北京天壇図」「古北口長城」「張家口小景」「道化」「菊花図」「熱河普陀宗東廟」「琉球風景」「アマリリスと風景」「花図」「信州の畠」「カテドラル」「ヴェニス」「伊太利の寺院」「北京の石舫」「北京万寿山の石舫」が出品された。第18回春陽会「琉球」「沖縄小景」「琉球の墳墓」「修理のある屋根(一)」「修理のある屋根(二)」「那覇小景」「琉球の墓墳」出品。昭和16 男鹿半島旅行、原精一、遠藤典太同行。帰途、白河近くの南湖に一泊。 第19回春陽会「長城図」「北京天壇」「北京天壇」「アカシア」「花図」「アマリリス」「アマリリス」出品。昭和17 古美術関係では仏画、藤原鎌倉時代に興味をもちはじめた。第20回春陽会「天津の仏蘭西寺院」「男像」「張家口の家」「男鹿」出品。昭和18 春陽会退会、独立美術協会員に推挙され、この年から独立展に出品。第13独立展「山」「だいれん木」「男像」「瀬戸風景」「だいれん木」出品。昭和19 母あぐり(83歳)8月3日没。10月、夫人と樺太から北海道取材旅行。第14回独立展「北海道風景」出品。昭和20 終戦を神奈川県伊勢原の農家で迎える。昭和21 1月15日鎌倉雪の下に引越す。このころ友人のもっていた長次郎の「あやめ」の銘の茶碗を見たのがきっかけで陶器に関心を向けるようになる。第1回新興美術展(読売新聞社主催)出品者、林武、里見勝蔵、児島善三郎、野口弥太郎、鳥海青児、川口軌外、須田国太郎、岡田謙三、小林和作。この夏弘前の公会堂で夏季大学の講演をした。講師中井淳、美川きよ、神西清、佐藤正彰、鳥海青児、今日出海、一人一日4時間講演。昭和22 第2新興美術展(東京都美術館)出品。2月ごろ小山冨士夫を訪ねた会津八一が鳥海青児のデッサンをみて、どうしてもこの作家に会いたいといって鳥海宅を訪ねて歓談する。第15回独立展「田園早春」「山肌」出品。昭和23 このころ三好達治が福井県三国から上京し、訪ねてくる。第16回独立展「静物A」「静物B」「静物C」「風景」出品。昭和24 野口弥太郎、林武、里見勝蔵らが鎌倉の鳥海宅をしばしば訪ねて交歓する。第17回独立展「無花果」「南瓜と茶室」「南瓜」「南瓜と古銅」「花入」「南瓜と御茶碗」出品。昭和25 第18回独立展「皿と二つの果物」「皿と三つの果物」「皿と四つの果物」出品。昭和26 このころ、川端康成、神酉清、中山義秀、小林秀雄、佐藤正彰、寺田透など文学者との交際はじまる。第19回独立展「段々畠」「春の段々畠」出品。昭和27 鎌倉から麻布に引越す。古美術は平安朝の仮名(古筆)に興味をもつようになる。第1回日本国際美術展(5月22日-6月13日 都美術館)「畠」「春の段々畠」出品。第3回秀作美術展(日本橋三越)「春の段々畠」出品。第20回独立展「静物」「飯倉風景」「畑」出品。サロン・ド・メエ展(高島屋1月10日-18日)「春の段々畠」出品。昭和28 第21回独立展「狸穴風景」「狸穴」「畑」出品。第4回秀作美術展「春の段々畠」出品。第2回日本国際美術展「飯倉の坂」出品。昭和29 第22回独立展「うずくまる」「川沿いの家」出品。第5回秀作美術展「狸穴風景」出品。第1回現代日本美術展「サーカスの馬(A)」「サーカスの馬(B)」出品。昭和30 第23回独立展「紅穀塗の家」「家竝」「顔をかくす女」出品。第6回秀作美術展「川沿いの家」出品。鳥海青児展(求竜堂画廊 1月23日-28日)「砂漠のオアシス  」「瀬戸の山」「水無き川」「うづら」「セリスト」「漢口」「北京天壇」「北海道風景」「牡丹」「段々畠」など戦前作品21点出品。東京画廊では戦後作品「いちじく」「段々畠」「川沿いの家」「うづくまる」「狸穴風景」「壷と南瓜」など12点出品。昭和31 「顔をかくす女」「家竝」にて第6回文部大臣賞受賞。芸術選奨受賞。文部大臣賞受賞記念展(大阪梅田画廊)。第24回独立展(創立25周年記念)「彫刻(白)をつくる(A)」「黄色い人」「彫刻(黒)をつくる(B)」出品。第7回秀作美術展「顔をかくす女」出品。第2回現代日本美術展「粉挽き」出品。昭和32 第8回秀作美術展「彫刻(黒)をつくる(B)」。第4回サンパウロ・ビエンナーレ展に「彫刻(黒)をつくる」「琉球風景」「山」「かぼちゃ」「春の段々畠」「狸穴風景」「川沿いの家」「うずくまる」「家竝」「顔をかくす女」出品。出品作のうち「かぼちゃ」がニューヨーク近代美術館買上げとなる。4月20日第2回のヨーロッパ旅行に出発。フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スペイン、イタリアを回り10月帰国、原精一同行。現代美術10年の傑作展(東横デパート)「川沿いの家」出品。第4回日本国際美術展「伊賀瓶子とメロン」出品。昭和33 第3回現代日本美術展「武装した馬」ピカドール「ピカドール」出品。最優秀賞受賞。 鳥海青児滞欧素描展(東京松屋、大阪高島屋)開催。4月から11月にかけて、2週間東ドイツ、スペイン40日、7月末から10日間ベルギー、オランダ、8月末から40日間イタリアを旅行。この年2度目の沖縄旅行。坂本繁二郎、鳥海青児二人展10月開催(草人社主催、大阪阪急、東京松屋)「黄色い人」「石をかつぐ」「壷とかぼちゃ」「静物」「埴輪」など7点出品。第26回独立展「石を運ぶ」「イタリア人の石を運ぶ」出品。昭和34 第10回毎日美術賞受賞。鳥海青児作品展(8月1日-11日 丸善美術主催、阪神百貨店)、油彩60点、素描10点、日本画2点陳列。鳥海青児、野口弥太郎展(11月1日-12月3日 神奈川県立近代美術館主催)98点陳列。12月30日約3カ月間のエジプト、イラク、イラン、インド旅行に出発、佐藤正彰同行。第27回独立展「壁の修理」「家の修理」出品。第10回秀作美術展「武装した馬」出品。戦後の秀作展(国立近代美術館)「ピカドール」出品。第5回日本国際美術展「ブラインドを降ろす男」出品。昭和35 第11回選抜秀作美術展「ブラインドを降ろす男」出品。インド旅行から帰国後、京都で「スフィンクス」の制作(80号、60号、40号)に3カ月取り組み、休養する間もなくアフリカ、中南米旅行に小野忠弘、三木淳と出発、帰途ハワイ、タヒチにより翌年4月帰国。第28回独立展「スフィンクス」「埃扱人」出品。鳥海青児素描展「エジプト、中近東・インドの旅より」(11月1日-12日 南天子画廊)。昭和36 第12回秀作美術展「スフィンクス」出品。アメリカ、中南米へ3カ月旅行、4月に帰国、前年来からの旅の過労から体をこわす。第29回独立展「石の街」「インカの街」出品。昭和37 第13回秀作美術展「石の街」出品。第7回名作シリーズ(朝日新聞社主催)として「鳥海青児自選展」開催(10月12日-21日 東京松屋)77点陳列。第30回独立展「石だたみ」(印度ベナレス)出品。第5回現代日本美術展「メキシコの西瓜」出品。国際形象展「メキシコ風の西瓜」出品。昭和38 第14回秀作美術展「石だたみ」出品。このころから古美術では墨蹟(大燈国師の書など)に興味を持つ。飯倉の家を改築。6月中国旅行(北京、延安)。第31回独立展「ベナレス」出品。国際形象展「石だたみ」出品。昭和39 第15回秀作美術展「石だたみ」出品。ブリヂストン美術館で鳥海青児の記録映画作成。第32回独立展「昼寝」出品。第6回現代美術展「果汁を吸うマヤ人」出品。昭和40 健康すぐれず。第33回独立展「北京」出品。油絵の100年展(読売新聞社、報知新聞社主催)「ピカドール」出品。昭和41 この年病気がち、低血圧に悩む。鳥海青児回顧展開催(7月23日-9月4日神奈川県立近代美術館)油彩153点、水彩55点陳列。第34回独立展「メキシコ人」出品。昭和42 第35回独立展「木惢の出た法隆寺塑像」出品。国際形象展「木惢塑像」出品。昭和43 第36回独立展「素朴な静物」「土器」出品。第8回現代日本美術展「中国風景」出品。国際形象展「静物」出品。「鳥海青児展」開催(いとう画廊 11月18日-30日)24点陳列。この年小説新潮の表紙を12カ月描く。昭和44 第37回独立展「メキシコ人の家族」出品。国際形象展「とうもろこし」出品。昭和45 第38回独立展「石像」出品。第9回現代日本美術展(現代美術20年の代表)「ピカドール」出品。国際形象展「石像」出品。日本の巨匠二十人展(大阪・大丸)「石をかつぐ」「石だたみ」「果汁を吸う」「素朴な静物」出品。昭和46 画業50年記念「鳥海青児展」開催。(6月3日-8日 毎日新聞社主催、大阪梅田・阪神百貨店)油彩94点。陳列(10月5日-25日 毎日新聞社主催、東京セントラル美術館)油彩118点陳列。第39回独立展「瓶子」「瓶子A」出品。昭和47 6月11日、死去する。第40回独立展「沖縄」「きじ」出品される。〔本年譜は毎日新聞社主催鳥海青児展(東京セントラル美術館)作品目録所収の佐々木静一編の年譜より転載、若干追加した〕

加山四郎

没年月日:1972/05/12

春陽会相談役、もと東京芸術大学講師の洋画家、加山四郎は、5月12日午前6時5分、脳出血のため東京都保谷市の自宅で死去した。享年71才。加山四郎は学生時代から春陽会展に出品して認められ、終始同会にあって活躍、戦後は、東京芸大で後身の指導にもあたった。美術家連盟委員、国際造型連盟国内委員をもつとめた。年譜明治33年(1900) 8月17日、横浜市に生まれる。大正7年 神奈川県立工業学校図案科を卒業。大正15年 第4回春陽会展「庭」初入選。昭和2年 第5回春陽会展「葵のある田舎家」「裏庭」。 東京美術学校西洋画科を卒業。昭和3年 春陽会展「初夏風景」「松林」「菊」、春陽会賞を受賞。昭和4年 春陽会展「伊豆の四月」「多賀風景」。昭和5年 春陽会無鑑査(6年、会友と改称)に推挙される。渡欧し、パリに滞在してアカデミー・ジュリアンに学ぶ。イタリア、スペインに旅行する。サロン・ドートンヌに出品。昭和8年 3月帰国、11回春陽会展に滞欧作品を出品する「マスク」「クレッシー附近の寺」「ポルト」「モンレリーの森」「モンレリーの寺」「ノートルダム」「カルティエ・ラタン」「マルクシーの百姓家」「桃色の家」「窓」「モンレリー附近」「モンレリー附近」「マルクシーの小通」「モンレリー」「マルクシーの小通」。自由学園で美術指導(昭和16年まで)。昭和9年 春陽会展「辻」「桃色の家」「赤い帽子の女」「農家」「静物」「プラスダンフェルの花売り」。昭和10年 春陽会展「初秋の海」「静物」「浜港冬景」「花」「松林」。昭和11年 春陽会展「薔薇の丘」「静物」「横浜風景」「人形」「面の静物」。昭和12年 春陽会展「面のある静物」「ナチュールモルト」「松林」「静物」。昭和13年 春陽会展「秋草」「凧と石膏」「薄と面等」「錦木」。結婚する。昭和14年 春陽会展「凧」「機」「鋸」「森」「面」。会員に推挙される。昭和15年 春陽会展「静物A」「静物B」「風景A」「風景B」。昭和16年 春陽会展「蓮の庭」「秋」。昭和17年 春陽会展「麦秋」「薄の庭」「農家」。昭和18年 春陽会展「初秋」「薄」「農家」「麦秋」。昭和19年 春陽会展「高麗風景」「秋庭」。昭和20年 3月、長野県に疎開。11月、東京に帰る。昭和21年 第23回春陽展「風景」「春庭」「紅葉」。昭和22年 春陽展「秋」「夏」。昭和23年 春陽展「秋庭」「静物」「秋景」「ローソクのある静物」「紅葉」。第2回美術団体連合展「乙椿」「赤き布の静物」「静物」。昭和24年 春陽展「静物A」「静物B」「ひまわり」。第3回連合展「あま鯛と壷」「乙女椿の静物」「寒椿の静物」「台湾壷の静物」。昭和25年 春陽展「壷等のある静物」「菊花」「赤き布の静物」「ひまわり」「サイドボードの静物」。第4回連合展「静物」「乙女椿」。昭和26年 春陽展「作品1」「作品2」。第5回連合展「チューリップ」「武蔵野風景」「静物」。昭和27年 春陽展「鮭の静物」「秋の庭」「チューリップ」。第1回日本国際美術展「玉椿」「ダイアモンドゲームの静物」「ひまわり」。昭和28年 春陽展「厨房静物」「静物(リンゴ)」「枯れた花」「鰕其の他」「石鯛ときんき」「あかえび」「めぬき」「秋刀魚と鰈」「章魚」「ベラなど」「鱧」「ひとでなど」「鍋鯛」。第2回日本国際美術展「魚と静物」「チューリップ」。東京芸術大学講師となる。昭和29年 春陽展「向日葵」「シクラメン」「支那壷」。第1回日本現代美術展「菊」「アトリエ」。昭和30年 春陽展「あけび」「秋景」「向日葵」。日本国際美術展「静物(薄)」「静物(ランタン)」。昭和31年 春陽展「菊」「あけび」「机上静物」。日本現代美術展「室内」「静物」。昭和32年 春陽展「ひまわり」「静物」「魚の静物」。日本国際美術展「静物」。昭和33年 春陽展「あけび」「向日葵」「石榴の花」。日本現代美術展「静物」「ひまわり」。昭和34年 春陽展「静物(金目)」「静物(笛吹)」「静物(魚具)」。日本国際美術展「向日葵」。昭和35年 春陽展「円卓」「マナ鰹」「ローソク」。日本現代美術展「静物1」「静物2」。国際造型連盟総会に出席のため渡欧し、約1年間滞在、ヨーロッパ諸国を旅行する。昭和37年 春陽展「ノートルダム」「モンチニー」。 白木屋にて個展。昭和38年 春陽展「魚デッサン」「魚」。昭和39年 春陽展「向日葵」。此花画廊にて個展。昭和40年 春陽展「仲木風景」「突堤」。昭和41年 春陽展「建設A」「建設B」。昭和42年 春陽展「漁村」「シクラメンと流木」。昭和43年 春陽展「滞船」「砂を運ぶ」。東京芸大講師を退職する。昭和44年 春陽展「シクラメン」「静物」。資生堂画廊で個展。昭和45年 春陽展「造船所」「造船」。昭和46年 春陽展「漁港」「静物」。昭和47年 春陽展「老松」。兜屋画廊にて個展。5月12日死去。

飯田清毅

没年月日:1972/04/06

行動美術協会会員の洋画家、飯田清毅はマヒ性腸閉そくのため4月6日午後9時5分、京都府警察病院で死去した。享年62才。飯田清毅は明治42年(1909)10月7日東京、神田西神田に生まれ、同志社大学専問部を中退、関西美術院で油彩画を学び、昭和6年(1931)二科会18回展から出品し、昭和14年会友に推挙され、同17年29回展で二科賞を受賞した。戦後は行動美術協会に会員として参加し、昭和30年からヨーロッパの各地へ旅行して取材した風俗を好んで描き続けていた。作品略年譜二科展:昭和6年18回展「糺の森」、7年19回展「北野風景」、8年20回展「憩ひ」、9年21回展「Y・S嬢」、10年22回展「ボクサー」、11年23回展「憩ひ」「洋装店」、12年24回展「海辺の男達」「緑蔭」、13年25回展「海風」「露台」、14年26回展「岩蔭」「卓上」、15年27回展「みぎは」「店」、16年28回展「浜辺」「雨の日」、17年29回展「河畔」「影絵」(二科賞受賞)、18年30回展「水族館」。行動展:昭和21年1回展「二人」「白い花」、22年2回展「画室の女」「Y子の像」、23年3回展「装ひ」、24年4回展「水浴」、25年5回展「岩蔭」、26年6回展「踊り子達」、28年8回展「みなと」「踊り子達」、29年9回展「岩蔭」「破船」、30年10回展「水辺人物」、32年12回展「ヴェニス」、33年13回展「絵はがき売り」「水汲み」「休日」、34年14回展「人物B」「人物A」、35年15回展「いけす」「岩と島」、36年16回展「馬と人A」「馬と人B」、38年18回展「いかだ」「集材場」、39年19回展「パリの雑誌屋」「材木と船」、40年20回展「オレンヂを運ぶ女」、41年21回展「ナザレの浜辺(ポルトガル)」「帽子売り(ポルトガル)」、42年22回展「船と女」、43年23回展「つどい」、45年25回展「風車と人物」「壷売る人」、46年26回展「西瓜売り(アカプルコ)」「模型のヨット」、47年27回展遺作「女と風車」「集材場」「船と女」「壷売る人」「帽子売り」。

広野殷生

没年月日:1972/02/29

洋画家春陽会会員広野殷生は3月6日に都内大田区の自宅で死去しているのが発見され、2月末に没したと推定された。享年55才。1919年(大正8)6月25日に静岡県に生れた。生家は古くから旅館を営んでいたが、1935年頃、軽い胸部疾患で郷里ですごしているときに描いた作品を地方美術展に出品して特選となったのがきっかけで、両親にそむいて東京にでて苦学しながらの画家生活に入った。1938年から1945年まで兵役についた。1949年に毎日連合展出品。1950年中部春陽会賞受賞。その後まもなく米国に渡り、コロンビア大学に留学し53年に帰国。この年春陽会会員となる。この間「カリフォルニヤ美術展」と「米国共進会美術展」に出品、「特選」と自ら記している。1954年フランスにゆき、パリの美術学校に留学したという。56年帰国。57年に春陽会で滞欧作を発表。同年東京銀座松坂屋で、また名古屋県立美術館で、58年には大阪フォルム画廊で滞欧作の個展。1959年から60年にかけてポルトガルと香港にゆく。61年度早稲田大学講師。1958年荒木季夫の編集する「造型」誌(第4巻6号)に特集号として取上げられた。

吉原治良

没年月日:1972/02/10

具体美術協会の主宰者であり、国際的にも活躍していた、もと二科会会員の吉原治良は、2月10日午後7時15分、クモ膜下出血のため兵庫県芦屋市立市民病院で死去した。享年67才であった。吉原治良は明治38年(1905)1月1日、大阪市に三代つづいた油問屋の老舗の家に生まれ、愛珠幼稚園から愛日小学校、北野中学校へと進み、9才のとき兄をなくし、11才のとき母を喪なった。中学時代から絵画に対する関心はたかまり、油彩画を独習し、大原コレクションのルノアールの作品や松方コレクションのセザンヌの「廃屋」、ゴッホの「ひまわり」につよい影響をうけた。中学卒業後、関西学院高等商業部へ入学、胸部疾患のため転地、その後芦屋へ転居した。関西学院時代には辻愛造、伊藤慶之助、赤松進らの艸園会に入り、また弦月会にも入り神戸学生美術展などに出品した。昭和3年(1928)、関西学院高等商業部を卒業し、そのまま専攻科に進学在籍したが、この卒業の年、3月に大阪朝日会館の大ホールで魚を題材とした静物58点による最初の個展を開催した。同年には学院を退学し、父の経営する製油会社に入って勤務のかたわら絵画に熱中した。この頃、フランスから帰国していた洋画家上山二郎を知り、その影響をつよく受けた。上山二郎の紹介で東郷青児、藤田嗣治を知るようになった。やがて藤田のすすめで二科展に出品するようになり、長谷川三郎、海老原喜之助、島崎鶏二、山口長男、岡田謙三らと交友し、昭和13年(1938)に設立された二科会内の前衛的な集団九室会にも参加した。第二次大戦後の二科会再建には会員として参加したが、昭和34年(1959)以降には二科展への出品はみられず、同45年(1970)には退会した。一方、昭和27年(1952)から国際展、海外展で活躍をはじめ、また、彼の周辺に参集した関西の若い画家たちと具体美術協会(The Gutai Art Association)を創設して、現代美術の運動を活溌に展開してきた。作風は、初期にデ・キリコ、ついでモンドリアンの影響をうけ、戦前から幾何学的な抽象絵画を制作していたが、戦後の早い時期には、鳥と少女像(吉原人形と呼ばれた)の連作から、しだいに再び抽象的な作風に移行し、晩年には円型を主題とした連作で注目を集めた。略年譜昭和3年(1928) 関西学院高等商業部を卒業、専攻科に進むが退学。芦屋在住の画家上山二郎に兄事する。東郷青児をしる。昭和4年(1929) 10月、大阪朝日会館で第1回個展、藤田嗣治をしる。結婚する。昭和9年(1634) 再帰国した藤田と会い、すすめられて(21回)二科展に出品、「帆柱」「麦稈帽と仕事着」「錨と具の花」「風景」「朝顔の女」の5点入選。東京銀座紀伊国屋画廊にて個展昭和12年(1637) 二科展に「夜・卵・雨」「図説」「隔世」「気象」「窓」を出品、特待となる。昭和13年(1938)「作品イ」「作品ロ」二科展に出品、会友に推薦される。藤田嗣治を顧問とし、斎藤義重、山口長男、山本敬輔らと九室会を結成する。昭和14年(1939) 二科展:「作品1」「作品2」「作品3」昭和15年(1940) 二科展:「雪イ」「雪ロ」昭和16年(1641) 二科展:「夕立に翔ぶ飛行艇」「くちなしの花と貝殻」昭和17年(1942) 二科展:「菊イ」「菊ロ」昭和18年(1943) 二科展:「空」「火山」昭和20年(1945) 兵庫県三田、大沢村へ疎開昭和21年(1946) デザイン、商品デザイン、ディスプレイ、舞台装置などを手がける。二科会再建に会員として参加し、「邂逅の像」「群像」「像」を出品。昭和22年(1947) 二科展(32回):「顔A」「顔B」「立話」「子供の顔」「女達」「子供達」昭和23年(1948) 二科展:「顔」「小さな噴水」。芦屋市美術協会を結成、代表となる。昭和24年(1949) 二科展:「鳥と人間」「涙を流す顔」「嬉しい日の少女」。日米21人展に出品。昭和25年(1950) 二科展:「少女と七羽の鳥」。大阪朝日会館の緞帳を作成。昭和26年(1951) 6月、東郷青児・吉原治良二科2人展を神戸元町画廊にて開催。大阪府芸術賞を受賞。二科展:「夜の鳥」「夜」「鳥と人々」。昭和27年(1952) カーネギー国際美術展(サンフランシスコ)に「暗い日曜日」を出品。サロン・ド・メエ(パリ)に「牧場」「作品」「原始」。第1回日本国際美術展に「絵A」ほか2点を出品。須田剋太、津高和一、植木茂らと現代美術懇談会を創る。昭和28年(1953) 第2回日本国際美術展:「作品A」「作品B」「作品C」。岡山葦川会館の緞帳を作成。二科展:「作品」。昭和29年(1954) 第1回日本現代美術展「作品A」「作品B」。二科展:「作品」。12月、具体美術協会を結成し、現代美術運動を展開。昭和30年(1955) 機関誌『具体』1号を刊行(14号まで)。第3回日本国際美術展「作品」。二科展:「作品」。芦屋市美術協会主催で芦屋川畔で野外モダン・アート実験展を開催。第1回具体美術展(東京小原会館)を開く。昭和31年(1956) 神港新聞アンデパンダン展に具体グループ特別室をつくる。7月、野外具体美術展(芦屋川畔)。第2回具体美術展(東京小原会館)昭和32年(1957) 第4回日本国際美術展:「作品」。第3回具体美術展(京都市美術館)を開催、出品。産経ホール(東京、大阪)で第1回舞台を使用する具体美術展を企画構成し演出する。二科展:「作品A」「作品B」。ミシェル・タピエを知りタピエが組織した世界現代美術展に出品する。第3回具体美術展(東京小原会館)。昭和33年(1958) 第2回舞台を使用する具体美術展(大阪朝日会館)。タピエと共同主催による“新しい絵画世界”展(大阪、長崎、広島、東京、京都)。第5回具体展(東京小原会館)。具体ニューヨーク展(マーサ・ジャクソン画廊)を開催のため渡米ヨーロッパを巡遊。二科展:「作品」。カーネギー国際美術展に出品。昭和34年(1959) 第5回日本国際美術展「作品」。アルテ・ノバ展(トリノ)、第11回プレミオリソーネ展、具体トリノ展(フィギェラティブ画廊)に出品。8~9月、第8回具体美術展(京都市立美術館、東京小原会館)。メタモルフィズム国際展(パリ、スタドラー画廊)。昭和35年(1960) 第4回現代日本美術展「作品1」「作品2」。アドバルーンを利用して外国作家18名、具体グループ12名によるインターナショナル・スカイ・フェスティバルを開催。日本人作家4人展(マーサ・ジャクソン画廊)に出品。昭和36年(1961) 第6回日本国際美術展「作品」。コンティニュテ・エ・アバンギャルド・オ・ジャポン展(トリノ)に出品。第10回具体美術展(大阪・東京高島屋)。第12回プレミオリソーネ展。この年二科会理事となる。昭和37年(1962) 第11回具体美術展(大阪高島屋)、ストラクチュアとスタイル展(トリノ近代美術館)に出品。9月、大阪中之島にグタイピナコテカ(具体美術館)を創設する。具体グループと森田モダンダンスとの共同公演による前衛的美術と舞踊「だいじょうぶ月は落ちない」(大阪高島屋)の企画、構成、演出。昭和38年(1963) 第12回具体美術展(東京高島屋)、第13具体美術展(大阪高島屋)。第7回日本国際美術展「作品」。グランパレ国際展(パリ)に出品。現代美術の動向展(国立近代美術館京都分館)に出品。昭和39年(1964) グッゲンハイム国際美術展に出品、セントルイス大学美術館に買い上げられる。第5回現代日本美術館「作品」。第14回具体美術展(大阪高島屋)。戦後の現代日本美術展(神奈川県立近代美術館)、現代日本美術展(ワシントン、コーコラン画廊)に出品。兵庫県文化賞を受賞。昭和40年(1965) 第8回日本国際美術展「作品」。ヌル国際展(アムステルダム市立美術館)にグタイ特別室を設けるため渡欧。第15回具体美術展(大阪グタイピナコテカ)。新しい日本の絵画と彫刻展(ニューヨーク近代美術館)、具体パリ展(スタドラー画廊)に出品。第16回具体美術展(東京京王百貨店)。昭和41年(1966) 具体オランダ展(ハーグ、オレッツ画廊)、第2回ローザンヌ国際展、第1回国際芸術見本市に出品。昭和42年(1967) 具体オランダ小品展(ロッテルダム、デザインハウス)に出品。吉原治良展(東京画廊)。第9回日本国際美術展「白い円」、最優秀賞を受賞。具体オーストリア展(クラーゲンフュール)。第2回国際芸術見本市に出品。具体美術協会に対し神戸新聞社平和賞をうける。第19回具体美術展(東京セントラン美術館、大阪グタイピナコテカ)。昭和43年(1968) 第8回現代日本美術展「白い円」「白と黒の円」。昭和44年(1969) 第4回国際芸術見本市に出品。日本万国博美術展展示委員となる。昭和45年(1970) 日本万国博美術展現代の躍動の部に出品。同展屋外展示にグタイグループと共同制作。万博お祭り広場における「音楽・デザイン」、具体美術まつりなどをプロデュースする。万博みどり館の美術展示を構成。第20回具体美術展(大阪グタイピナコテカ)。芦屋市民会館ルナ・ホールの壁画制作。二科会を退会する。昭和49年(1971) 第2回インド・トリエンナーレ展に出品しゴールドメタルを受賞。第10回現代日本美術展構造としての自然部門に「作品」3点を出品。近代日本美術における1930年展(東京国立近代美術館)、戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)に出品。昭和47年(1972) 2月10日没。従五位勲四等旭日小綬章を追贈される。

中川紀元

没年月日:1972/02/09

二紀会名誉会員の洋画家中川紀元は、心筋こうそくのため、2月9日午前10時、東京田無市の田無病院で死去した。享年79才であった。中川紀元は、明治25年(1892)2月11日、長野県上伊那郡に漢学塾を開いていた有賀家の次男に生まれ(結婚して中川の姓となる)、本名を紀元次。諏訪中学校を卒業して東京美術学校彫刻科に入学したが、病のため2ヶ月で中退し、帰郷して小学校教師となった。再度上京して大正2~3年(1913~4)ころには代々木山谷に住む。本郷洋画研究所、太平洋画研究所などに学び、また島村抱月の芸術座の舞台装置に小林徳三郎の手伝いなどをしている。特に石井柏亭、正宗得三郎に師事し、大正4年(1915)第2回二科展に出品して初入選となり、大正8年(1919)渡欧しアンリ・マティスの指導を受け、同10年(1921)帰国したが、その間にも二科展に出品し、大正9年第7回展で「ロダンの家」他4点を出品、樗牛賞をうけ、大正10年8回展では「立てる女」他7点を出品、二科賞を受賞した。この滞欧の成果は日本における第二次フォーヴィスムの移植として歴史的な意味をもったが、大正11年(1922)には神原泰、矢部友衛、古賀春江らと二科会内での前衛的なメンバーによってグループ・アクションを結成し、新しい美術運動を推進した。大正12年(1923)には二科会会員に推挙された。昭和8年(1933)二科会員を辞して無所属となったが昭和10年、再度二科会に復帰した。昭和13年には従軍画家として中国の戦線におもむいており、また大正11年からは文化学院美術科で実技指導にもあたった。戦後、昭和22年(1947)旧二科会の有志とともに二紀会を結成し、作風はしだいに油彩による野趣にとんだ南画的なものとなっていった。昭和39年(1964)、長い期間にわたる美術界への貢献によって日本芸術院恩賜賞を受賞した。作品年譜(旧二科会展、二紀展出品作)二科会展:大正5年(1916)3回展「青五氏の肖像」、同6年4回展「煙草を吸う女」、同7年5回展「自画像」「女」、同9年7回展「ロダンの家」「読書の女」「人形を抱く女」「女の顔」「坐像」、同10年8回展「水彩エチュード1」「水彩エチュード2」「デッサン1」「デッサン2」「散歩」「立てる女」「アラベスク」「猫と女」、同11年9回展「腰かけた女」「裸婦」「化粧」、同12年10回展「野菜(水彩)」「入浴」「裸体(水彩)」、同14年12回展「花」「裸女佇立」「J氏像」、同15年13回展「母子」「ラヂオを聴く」、昭和2年14年回展「ヨネ野口氏肖像」「O氏像」「採蓮」、同3年15回展「夏庭」「花」「映画撮影」「S氏像」、同4年16回展「空中の感情と物理」「K夫人の顔」、同5年17回展 「毛扇」「緑衣」「川田芳子像」、同6年18回展「熱叢」、同7年19回展「野と子供」、同8年20回展「清水先生の像」、同10年22回展「無題」、同11年23回展「青い団扇」「驟雨来」「静物」「少女」、同12年24回展「白衣少年」「徒然」「猫静物」「月夜の山」、同13年25回展「子供と猫」、同14年26回展「人物」「風景」、同15年27回展「こども」「御嶽晴天」「青嵐」、同16年28回展「菩薩像(一)」「菩薩像(二)」二紀展:昭和22年(1947)第1回展「村の風景」「夏の朝の伊那の谷」「夏の駒ヶ岳」、同23年2回展「夏の山」「静物」「初秋の谷」、同24年3回展「静物」「コンポジション」、同25年4回展「村の秋」「伊那の谷」、同26年5回展「青い風景」「黄色い風景」、同27年6回展「友の像」、同28年7回展「花の子供ら」「山村風景」「夕陽の山」、同29年8回展「朝の山」「人物」、同33年12回展「郊外風景1」「郊外風景2」、同34年13回展「月と富士のある風景」「人物」、同35年14回展「子供」「赤い富士」、同37年16回展「樹間小景」「白い街」、同38年17回展「人物」「風景」、同39年18回展「風景」「人物」、同41年20回展「子らの窓」、同42年21回展「郊外風景」「隅田川」、同43年22回展「ボサツ傾」「窓辺の消閑」、同44年23回「高原雲煙(霧ヶ峰)」「煙霞レジャーの娘たち」、同45年24回展「山の遊び」、同46年25回展「ホトケ坐像」、同47年26回展遺作「坐せる女」「裸婦」「読書の秋」「栗色の帽子」「キャフェ」「白い衿の婦人」「立てる女」「街」「化粧する女」「隅田川」「中国美人」「ホトケの坐」「窓辺消閑」

酒井精一

没年月日:1972/01/22

洋画家酒井精一は、1月22日死去した。号碧亭。明治24年11月18日東京に生れ、郁文館中学卒業後、本郷絵画研究所、日本水彩画会研究所に学び、また渡仏して、アカデミーコラロシーに学んだ。帰国後二科会に出品し、「早春の海辺」(6回二科展)「田舎の家」「南仏風景」「ルノアール家の近傍」「ロアン河畔の秋」(13回二科展)等がある。専ら風景画を描き、昭和になってからは、台湾、房総風景などがみられる。一水会創立後はこれに属し、「河畔」(第1回展)「初秋の高原」「湖畔」(7回展)がある。戦後昭和29年第16回展で会員となり、「吊橋のある風景」「安良里風景」を出品している。「吾妻山の見える家」「高遠にて」(34回一水会展)が最後の作品となった。

土佐林豊夫

没年月日:1972/01/12

日展評議員土佐林豊夫は1月12日、胆臓癌で飯田橋の東京厚生年金病院で死去。享年64才。1907年(明治40)9月19日に山形県鶴岡市に生れた。1929年(昭和4)東京高等工芸学校彫刻科卒業、翌年同研究科を修了した。同年辻永に師事。1931年第12回帝展に油彩画が初入選し、以後、文展、日展、光風会に出品した。1949年には光風会の親しい友人たちと共に青季会を結成し、毎年1回展覧会を開いた。1943年光風会では岡田賞、47年および48年の日展でそれぞれ特選になり、1958年度と、64年度には日展審査員となり、66年に同評議員に就任した。主要作品は43年光風会展「老母像」、47年日展「子供」、48年日展「母子」、54年光風会展「糸車」、58年光風会展「果実」、69年日展「繋」など。

永井宏

没年月日:1971/12/12

洋画家永井宏は、12月12日病気のため東京都杉並区の自宅で死去した。明治44年2月10日神戸市に生れた。昭和11年帝国美術学校本科洋画科卒業。在学中の同10年第5回独立美術展に初入選し、以後出品を続け会友となった。その間JAN創立にも参加したが、同15年には退会した。その後無所属となり、丸善画廊などにて個展を4回開き、制作活動を続けた。一方東京都千代田区神田にある富士建物管理株式会社の代表取締役でもあった。

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