桂ゆき
既製の枠組にとらわれず、自由な制作を求め、戦前から前衛美術運動の中心的画家の一人として活躍した洋画家桂ゆきは、平成2年5月からがんのため入院、療養中であったが、2月5日午後2時30分、心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。大正2(1913)年10月10日、東京都文京区に生まれる。本名雪子。父弁三は東京帝国大学教授をつとめる冶金学者。文京区誠之小学校を経て昭和元(1926)年東京府立第五高等女学校に入学し、この年から両親の勧めで池上秀畝に日本画を学ぶ。しかし、もとから油絵修学を希望していたため2年程で日本画修学をやめ、同6年第五高女卒業の年、洋画家中村研一に学び始める。同7年中村の紹介で岡田三郎助にも師事。同8年第20回光風会展に「庭」「海岸風景」「冬」を出品して初入選。この頃アカデミックな絵画に不満を持ち、同年、アヴァンギャルド洋画研究所に通い始める。同22年5月、海老原喜之助の勧めにより、銀座・近代画廊で当時まだ日本で紹介されていなかったコラージュによる個展を開く。同年第22回二科展に「祭」で初入選。同13年吉原治良、山口長男とともに、前衛・抽象画を目指す九室会を創立。翌14年第1回九室会展に「行進」「冠」を出品し、同年の第26回二科展には「源氏」「帆船」「郷土」を出品して特待となる。戦後は、同21年女流画家協会設立に参加し、同24年第3回同展に「静物1」「静物2」を出品して同協会賞を受賞。同25年二科会会員となる。同28年第2回日本国際美術展に、翌29年第1回現代日本美術展に出品。同30年第40回二科展に「おざしきの人達」「傘と靴」「鬼とゆかた」「おしゃれなゲジゲジ」を出品して会員努力賞を受ける。同31年渡仏し、6年にわたってフランス、アメリカに滞在。この間、同33年アフリカに渡り猛獣狩りなどを体験する。欧米滞在中、パリのポンピドゥー・センターで行なわれたインターナショナル・ウォアマンアート展、米国アリゾナ大学アート・ギャラリーでのインターナショナル・コンテンポラリィ・ペインティング展、ミラノのプレミオ・リソーネ展、米国第27回コーコラン・ビエンナーレ等に出品したほか、パリのイルス・ワレール・ギャラリーで個展を、米国ワシントンのグレス・ギャラリーで岡田謙三、川端実らとグループ展を開催。同36年帰国し、同年の第6回日本国際美術展に「異邦人」を出品し優秀賞を受賞。同年二科展を退く。同37年アメリカ、アフリカでの体験をつづった『女ひとり原始部落に入る』を出版。翌年この著作で毎日出版文化賞を受ける。同41年第7回現代日本美術展に「ゴンベとカラス」「よくばりばあさん」を出品し最優秀賞を受賞。翌年オーストラリア、ニュージーランドを旅する。その後も女流五人展、新樹会展などに出品。同55年山口県立美術館で「桂ゆき展」を開催。同60年東京INAXギャラリーで「紅絹のかたち」を題する個展を開く。戦前からコルク、新聞紙、レース等のコラージュによる前衛的な作品を発表し、戦後には痛烈な社会風刺とユーモアを含む制作を展開。昭和50年代には再びコルクを素材とし、コルクを巻紙状に細く棒状に巻いたものをコラージュして画面を構成する試みを行なった。同60年のINAXギャラリーでの作品は紅絹で人物大の釜、三角形や円などの単純な形の組み合わせによる狐やタヌキを制作。通常の「美術」の枠組にとらわれない自由な発想にもとづく作品は、常に既成概念を踏み破る革新性に満ちていた。平成3年、下関市立美術館で回顧展が開催された。
出 典:『日本美術年鑑』平成4年版(283-284頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「桂ゆき」『日本美術年鑑』平成4年版(283-284頁)
例)「桂ゆき 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10407.html(閲覧日 2024-10-07)
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