本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大野静方

没年月日:1944/09/17

日本画家大野静方は喘息のため、杉並区の自宅で死去した。享年63。東京深川の生れで、故山本笑月、長谷川如是閑の実弟にあたり、水野年方の門に学んだ。後年浮世絵史の研究に入り、「浮世絵の版画」などの著がある。

荒木十畝

没年月日:1944/09/11

帝国芸術院会員・旧姓朝長・本名悌二郎、明治5年9月長崎県に生れ、明治25年21歳の時上京して荒木寛畝に師事し、翌年荒木家の嗣子となる。始め琴湖と号したが、この時十畝と改めた。28年日本美術協会に入り、30年には末松謙澄の日本画会創立に参画してこれが牛耳を執り、30歳にして父寛畝の後を襲つて女子高等師範学校講師となり、幾何もなく教授に進んで爾来十数年我が国の絵画教育に多大の貢献をなした。明治37年米国聖路易の万国博覧会に出品して銀牌を受け、明治40年文部省美術展覧会が開かれるや同志と共に正派同志会を組織して之と対抗したが、同展第2回には迎えられてその審査員となり、3回以来引続き審査委員として年々力作を発表、大正8年帝展第1回展に「黄昏」を出品して非常な好評を博し、2回には審査委員に挙げられ、大正11年には日華連合絵画展覧会を開き日華の文化提携に尽瘁した。12年帝国美術員会員に推され、毎回出品、昭和6年には暹羅に於ける日本美術展覧会を計画して成績をあげ、14年には再び日華文化親善の途を拓こうと支那に遊んで功績をあげた。晩年画室を大磯に移し、更に箱根仙石原に移して制作三昧に入ろうとしたが19年9月1日突如心臓麻痺を以て長逝した。行年73歳。法名開悟院十畝日顕居士、新宿区浄輪寺に葬つた。著書に「東洋画論」がある。略年譜明治5年 長崎県に生る、父は平蔵、母は寿賀、兄妹数名あり明治25年(21歳) 上京、荒木寛畝に師事す明治26年(22歳) 荒木寛畝の養嗣子となる明治28年(24歳) 日本美術協会員となる明治30年(26歳) 日本画会の組織に参画す明治34年(30歳) 東京女高師の講師となる明治37年(33歳) 米国聖路易万国博覧会に「秋汀群鴨」を出品し銀牌受領明治38年(34年) 日本美術協会展に銀賞受賞明治40年(36歳) 文部省美術展覧会開設されるや同志と共に正派同志会を組織対抗す明治41年(37歳) 文展第2回に審査員となり「渓流」を出品明治42年(38歳) 第3回文展に審査員「夏景山水」と「雨後」を出品明治43年(39歳) 日英大博覧会に出品金牌受領、第4回文展に「歳寒三友」を出品明治45年(41歳) 第6回文展に「園の秋」「葡萄」大正2年(42歳) 第7回文展に「棕梠と蘇鉄」大正3年(43歳) 第8回文展に「雨後」大正4年(44歳) 第9回に審査委員となり「四季花鳥」を出品大正5年(45歳) 第10回文展に審査委員「清妍」出品大正6年(46歳) 第11回文展に「四季花鳥」出品大正7年(47歳) 第12回に「牡丹」大正8年(48歳) 帝国美術院第1回展に「黄昏」を出品、女高師を辞任大正9年(49歳) 第2回帝展に「深山の秋」、第14回読画会展に「残照」大正10年(50歳) 第3回帝展に「松」六曲一双、某家のため「春苑双美」(孔雀牡丹)の大作を揮毫す大正11年(51歳) 日華連合絵画展覧会を主宰し「春暖」を出品、第4回帝展に「秋夕」、秩父宮御成年式に皇后宮よりの命を奉じて四季花鳥屏風を揮毫大正12年(52歳) 帝国美術院会員にあげられ正5位勲4等に叙せらる、日本画会を改革す大正13年(53歳) 第5回帝展に「朝」出品昭和元年(55歳) 聖徳太子奉讃展に「春寒」第7回帝展に「夜梅」出品、「十畝画選」刊行昭和2年(56歳) 第8回帝展「白鷹」、読画会展に「秋圃」出品昭和3年(57歳) 第9回帝展に「鶴」、読画会展に「春」、名古屋勧業博覧会に「茄子」出品昭和4年(58歳) 国際美術展に「雨霽」、読画会展に「鳳凰」出品、日華連合絵画展の開催につき中国に赴き12月帰朝昭和5年(59歳) 第11回帝展に「軍鶏」、読画会展に「海の幸」「萓草」昭和6年(60歳) 日本画会展に「瑞雪」、読画会展に「葡萄栗鼠」、12回帝展に「五位鷺」10月夫人と共に暹羅に赴き同地に日本美術展を開く昭和7年(61歳) 第13回帝展に「寂光」出品、此の年の春暹羅より帰る昭和8年(62歳) 居を市外に移す、第14回帝展に「玄明」、読画会に「白栗鼠」出品昭和9年(63歳) 第15回帝展に「窈冥」、読画会に「九十九島の夕」、日本画会に「けしの花」、京都市主催綜合展に「泰山木」出品昭和10年(64歳) 第27回読画会展に「麗春」「五月雨」「晩秋」「寒空」の四部作出品、台湾美術審査員として同地に赴く昭和11年(65歳) ラジオにて「日本画を新しく吟味せよ」と放送、文展無鑑査部に「雄風」の大作発表昭和12年(66歳) 帝国芸術院創立され会員となる、日本画会に「渓間」、読画会に「四季花鳥」出品、朝鮮美術展に審査員として赴く昭和13年(67歳) 第3回文展に「怒涛」、読画会展に「浅春」出品、6月東京美術倶楽部に個展を開く昭和14年(68歳) 日華連合展の為中国に赴く、読画会展に「駒ケ嶽遠望」「鯉」出品、中央公論に「文展改革論」を発表す昭和15年(69歳) 読画会展に「鷺」出品、大毎東日の美術展に「煙雨」出品昭和16年(70歳) 読画会に「夏二題」出品昭和17年(71歳) 献納画「浄晨」揮毫、第5回文展に「煙雨」、読画会に「雨後」出品、「東洋画論」を上梓す昭和18年(72歳) 献納画「九官鳥」「朝輝」「霊峰」「鷹」を揮毫昭和19年(73歳) 画室を大磯に移し、献納画「秋」を揮毫す、9月10日画室に門弟を集め美術談を試み、翌11日午前11時心臓麻痺を以て逝く、行年73、牛込浄輪寺に葬る、法名開悟院殿十畝日顕居士

池上秀畝

没年月日:1944/05/26

旧帝展審査員池上秀畝は狭心症の為、5月26日下谷区の自宅で死去した。本名国三郎、享年71。明治7年長野県に生れ、早く荒木寛畝の門に入り南北合派を研究し、花鳥画を能くした。明治40年正派同志会第1回展で2等賞銀牌を受け、明治43年第4回文展に「初冬」を出品3等賞、大正5年第10回文展に「夕月」を出品特選となり、大正6年第11回文展に「峻嶺雨後」を出品ふたたび特選となつた。大正7年同志と共に新結社を発表し、文展審査に対抗の気勢を示し、これが文展改革の原因となつた。帝国美術院が創設されるや、日本画部の推薦となり、大正13年には帝展委員に任命された。その後引続き帝・文展に出品、「沼の雨」「渚の月」「秋雨」「老秋」などを出した。伝神洞画塾を主催して多数の門下を育てたが、18年以降は各神宮への奉献画が多い。

橋本永邦

没年月日:1944/05/06

日本美術院同人・文展無鑑査橋本永邦は腹膜炎のため5月6日逝去した。享年59。本名乾。明治19年橋本雅邦の二男として生れ、雅邦・下村観山に師事、明治40年第1回文展に「諸菩薩問維摩説」を出品して3等賞に入り、第3回文展に「采女の眠」第4回に「薬師」を出品、爾来院展に毎回出品、大正10年に美術院同人となつた。その主な作品をあげれば、大正13年、第11回院展「朝の楼廓」大正15年第13回「山姥」昭和6年18回「湍怒」昭和9年21回「せせらぎ」昭和11年23回「二人静」昭和14年26回「邯鄲」等がある。

佐藤光華

没年月日:1944/01/30

文展無鑑査、佐藤光華は1月30日急性肺炎の為逝去した。享年48。本名長三郎、明治20年京都に生れ、京都絵画専門学校を卒業、大正9年第2回帝展に「吉祥天」出品以来数度入選し、昭和5年無鑑査となつた。出品作に「赫奕姫」「嬌婉」、「漢織呉織」「菊慈童」「瑞鷹」其他がある。

岡文涛

没年月日:1943/12/28

京都の日本画家岡文涛は12月28日逝去した。享年68。明治9年京都に生れ、絵画専門学校を卒業、山元春挙に師事した。旧文展第5回に「杉垣」を出したほか、8回9回と出陳したが、その後は官展から退いていた。

小林柯白

没年月日:1943/11/08

文展無鑑査、日本美術院同人小林柯白は胃潰瘍のため11月8日京都の自宅で逝去した。享年48。本名茂雄。明治29年大阪に生れ、今村紫紅、安田靫彦に師事し、大正12年19回院展に「山」を出品、翌年第10回には「蓮」第11回には「八瀬大原」を出品し、この年同人に推挙された。院展の外帝展文展にも出品したが、晩年の作として「長尾鳥」「せゝらぎ」「磯」「竜安寺の庭」等がある。

柚木玉邨

没年月日:1943/10/25

南画家柚木玉邨は10月25日逝去した。享年79。名は方啓、字は子爰、梶雄と称し、玉邨と号したが、別に瓊島仙客、鋤雲館主人、双壁斎主人等の号もある。慶応元年岡山に生れ、明治23年駒場農大を卒業、後実業に従事し、岡山県農会の技師となつた。20歳頃から清人胡鉄梅について学び、その後独学して宋元の古法を研究、大正年間には中国に遊んで得る所があつた。日本美術協会、泰東書道院、平安書道会などの審査員となり、著書に「玉邨画話」「瓊島仙館画存」「西来亭墨縁」「玉邨蘭竹」等の多数がある。なお洋画家柚木久太はその子息にあたる。

橋本静水

没年月日:1943/09/11

文展無鑑査、日本美術院同人橋本静水は9月11日縦隔膜腫瘍のため本郷の自宅で逝去した。享年68。本名宗次郎、はじめ正素と号し後静水と改めた。明治9年広島県尾道市に生れ、東京美術学校に学んだが中途退学し後、橋本雅邦に師事した。明治44年文展に「一休禅師」を出品受賞、大正5年院展に「あやはとりくれはとり」を出品し同人に推挙された。その他「遊魚の図」「猿沢の池」「文覚」等の代表作がある。なお雅邦塾二葉会の幹事として最後まで後進の指導に尽力した。

小柴春泉

没年月日:1943/08/26

旧日本画会員小柴春泉は8月26日急病のため逝去した。享年46。明治31年生、小室翠雲について学び、旧文展に1回、帝展に4回ほど入選していた。

跡見玉枝

没年月日:1943/08/07

閏秀日本画家跡見玉枝は胃潰瘍のため5月12日逝去した。享年8 6。本名勝子。女史は桜花を得意とし、明治30年渡米、帰国後内親王殿下の御用掛を拝命、昭和8年から皇室の御用命により御苑桜の写生をし両度にわたり皇后陛下に画帖を献上した。昭和18年照宮内親王御用命の桜の大幅3帖を謹写した。なお女史は花蹊女史の従妹に当る。

円山応鶴

没年月日:1943/07/20

円山応挙末孫七世円山応鶴は7月20日逝去した。享年61。女史は明治16年生れ、盆画と鶴の絵に秀でていた。

島田墨仙

没年月日:1943/07/09

文展審査員島田墨仙は7月9日胃癌のため東京荏原区の自宅で逝去した。享年77。本名豊、慶応3年福井藩島田雪谷の二男として生れ、はじめ父に絵を学んだが、没後独学、明治29年上京して橋本雅邦門に入つた。30年秋の日本絵画協会第3回展に大石良雄をかいた「致城帰途」を出して認められ、36年春の第5回内国勧業博覧会には「大石主税刺鼠之図」を出して3等銅賞を得、著名となつた。文展では「俊寛」「鯨波座禅」「到聖孔子四哲図」「基督」を出し授賞はされなかつたが、第6回帝展には委員に推された。その描くところはほとんど歴史画人物画であり、好んで先哲聖賢の肖像をあつかい、精神充実した気格高い作品を出した。晩年はいよいよ画技も冴え、「塙保己一」「山鹿素行」のごとき名作を出している。後者は芸術院賞に推され、芸術院会員に擬せられたところであつた。略年譜慶応3年 10月9日福井藩島田広意号雪谷の二男として生る、幼名豊作、後豊と改む明治9年 この頃より父について絵を学ぶ明治15年 父雪谷、兄雪湖第1回全国絵画共進会に出品明治17年 1月29日父没(57才)明治18年 福井中学及び女学校に絵を教う明治19年 5月4日母照子没明治26年 兄雪湖上京明治28年 第4回内国勧業博覧会の写真を見て上京を決意明治29年 上京して橋本雅邦門に入る、日本絵画協会第1回展に「雲竜」を出す、3等褒状明治30年 絵画協会第2回展「瀑布」、同3回展「致城帰途」銅牌明治31年 福島県立第二尋常中学校に奉職明治32年 絵画協会第6回展褒状1等明治33年 同7回展褒状1等明治34年 同9回展「野人競馬図」銅牌明治35年 笹川章門の女節衣子と結婚明治36年 第5回内国勧業博覧会「大石主税刺鼠之図」3等銅牌明治37年 磐城中学教諭を辞して上京明治40年 第1回文展「俊寛」大正4年 第9回文展「鯨波座禅」国民美術協会第4回展「黄尋飛銭」二曲半双大正6年 第11回文展「至聖孔子四哲図」3幅対、国民美術協会展「林逋先生」「深雪」「のどか」大正7年 第12回文展「基督」大正8年 如水会結成参加大正9年 如水会第1回展「樹下美人」「老孔問答」双幅、「釈尊」「智恵の水」、同2回展「枯木竹石」大正10年 東京会(春)「王摩詰」(秋)「李白捉月」大正11年 日仏交換美術展「樹下美人」、東京会(秋)「親鸞稲田閑居」大正12年 東京会(春)「聴雨」大正13年 東京会(春)「大雅堂」(秋)「拈華微笑」大正14年 日本南画院第4回展「漁夫吟」、東京会(春)「夕月」(秋)「秋雨」、第6回帝展委員となる大正15年 日本南画院5回展「金粟如来」、東京会(春)「達磨」(秋)「霊椿」昭和2年 第8回帝展「逍遥」、この年「田中光顕肖像」をかく、早大より渋沢子爵に贈る釈迦、基督、孔子の「世界三聖図」をかく、東京会(春)「白居易」(秋)「梅月」昭和3年 第9回帝展審査員となる、帝展「李耳」出品、日本南画院7回展「蕉逐雄弁」、東京会(春)「翁」(秋)「瑞鳳」昭和4年 イタリヤ日本美術展「秋夕」、日本南画院第8回展「虎渓三笑」、東京会(秋)「東坡」昭和5年 ベルリン現代日本画展「老子図」、久弥宮家襖「知音」、東京会(春)「夏雲」(秋)「吹笙」昭和6年 12回帝展「廊然無聖」、明治神宮絵画館壁画「王政復古」、フランス日本美術展「五月雨」、米国トレド―展「驟雨」、東京会(春)「此君」(秋)「秋色」昭和7年 日本南画院11回展「出山釈迦」、東京会(春)「晩春」(秋)「美少年」昭和8年 14回帝展「出山釈迦」、国民美術協会20周年記念展「富岳」、東京会(春)「白衣観音」(秋)「牧童」昭和9年 日本南画院13回展「山科閑居」、15回帝展「王妃舞」、大礼記念京都綜合美術展「李白捉月図」、日満綜合美術展「大石良雄」、宮内省下令「屈原」、東京会(春)「五月雨」(秋)「猟馬帯禽」昭和10年 坪内逍遥博士及び夫人の肖像画をかく、景岳会の依嘱による「橋本左内先生の肖像」、東京会(春)「月華曲」(秋)「竹里館」昭和11年 改組文展「出師表」、東京会(春)「驟雨」「李白行吟」「山中の傑物」(秋)「寒山拾得」昭和12年 東京会(春)「いざよひ桜」「人丸」、酒井秀治郎のために「楠公父子訣別図」をかく昭和13年 第2回文展「東湖先生と橋本左内」、小西幸寛のために「吉祥天女」をかく、東京会(春)「送仲磨還日本」(秋)「山陽先生」昭和14年 高田早苗夫妻の肖像画をかく、東京会(春)「日連上人」(秋)「定信公」昭和15年 大毎東日奉祝展「菅公図」、東京会(春)「光明皇后」(秋)「舎人親王と大安万侶」昭和16年 千葉県松戸神社のため二曲屏風一双「菅公図」をかく、第4回文展「塙保己一」、東京会(春)「鎌足公」昭和17年 第5回文展「山鹿素行先生」、東京会(春)「竹田と山陽と」(秋)「蕃山先生吉野に隠る」昭和18年 4月「山鹿素行先生」に対して帝国芸術院賞をうく、7月9日逝去、77歳

古屋正寿

没年月日:1943/04/30

文展無鑑査古屋正寿は4月30日脳溢血のため急逝した。享年59。明治18年山梨県に生れ、41年東京高等師範図案専修科を卒え、大正2年より5年間群馬師範に奉職した。高師在学中より山内多門につき、多門没後川合玉堂の門に入り、第1回院展に入選、帝展には第5回より引続いて入選、その間第10回には特選を得、昭和9年に帝展無鑑査となつた。

不二木阿古

没年月日:1943/04/23

文展無鑑査、東丘会の中堅であつた不二木阿古は4月23日逝去した。享年48。本名藤木政雄、明治29年兵庫県に生れ、15、6歳の頃島御風に師事、故北野恒富門に入り10余年の後、堂本印象門に転じた。旧帝展文展に数度入選。昭和12年に「将棋親旧」を出品し特選を得、16年無鑑査となり、印象塾東丘社に重きをなした。

武内桂舟

没年月日:1943/01/03

日本画家武内桂舟は1月3日自宅で逝去した。享年83。本名は鋠平、文久元年江戸の紀州邸に生れ、狩野永悳の養子となり敬信と号したが後、生家にかえつた。早く尾崎紅葉の硯友社の同人となり、都の花や文庫などの挿絵をかき、明治27年頃から新聞の挿絵をかいて知られた。後、博文館発行の太陽、文芸倶楽部、少年世界の挿画主任として活躍、巌谷小波と共にお伽噺界にも貢献したところが多い。日露戦争の絵も多くかいたが、大正以降は挿絵木版界を退き、絹本に古代人形の精密なものを描いている。昭和12年には「御所人形図」が皇太后陛下の御用品となつたこともある。

竹田敬方

没年月日:1942/12/04

日本美術協会々員、川端画学校評議員竹田敬方は12月4日逝去した。享年70。明治6年2月7日東京銀座に生る。同20年12月より水野年方について人物画を学び、24年6月川端玉章に師事して山水画を修め、早くから日本青年絵画協会、日本美術協会等に活躍した。34年には文墨協会評議員、42年川端画学校教諭となり、その他明治絵画界にも幹事或は審査員として重きをなしてゐた。主なる作品には次の如きものがある。 明治24年「源義家過勿来関図」(日本青年絵画協会臨時展)同28年「祭礼図」(第4回内国勧業博覧会)同29年「少女遊劇図」(第1回日本絵画共進会)同44年「田子富士図」及「夕月」(東京勧業博覧会)大正3年「塩原龍化瀑図」(明治絵画会)同6年「雪渓図」(明治絵画会)昭和2年「秋景」墨絵屏風(日本美術協会展)同3年「日光華巌瀑図」「塩原秋景」他3点(独逸に開催せる日本画組合協会絵画展)同11年「海辺富岳」「日光神橋」他5点(翌12年仏印河内に開催せる日本画組合協会展)

木村武山

没年月日:1942/11/29

日本美術院の経営者同人木村武山は7年前脳溢血に倒れ、昭和12年以来郷里茨木県西茨城郡に隠退静養してゐたが、近年小康を得て?素に臨み、本年初頭より世田谷区別邸に仮寓中のところ、宿痾の喘息のため11月29日逝去した。享年67。12月2日谷中功徳林寺を式場に日本美術院葬取行はれ、畏くも東伏見宮家、久迩宮家より供御を賜り、島田海相はじめ多数名士の会葬あり、遺骨は茨城の月桂寺に埋葬された。武山本名は信太郎、明治9年7月3日茨木県西茨城郡に生れた。父は信義、代々笠間藩牧野家の家臣であつたが、廃藩後同地に帰農したものである。少年にして上京、私立開成中学校に入り、又川端玉章について学び明治24年開成中学校第3学年より東京美術学校に入学した。29年7月同校本科を卒業、創立当時の日本絵画協会に参加し、天心の率ゐる新興画壇の第一線に立つた。31年前期日本美術院創立されるや直ちに補員となり、同年秋の第5回日本絵画協会共進会には「野辺」を出して銅牌8席に推された。同第8回には「林和清」第10回には「桜狩」第11回「蒙古義経」第12回「熊野」第13回「以仁王」と何れも銅賞を得て次第に世に著はれるに至つた。この間1年志願兵として入営し、日露戦役には応召、陸軍歩兵中尉に進んだ。明治39年日本美術院改組と共に第一部教育主任となり、その五浦移転に際しては家族を伴うて同地に移住、大観観山春草と共にあくまで岡倉天心に随行した。明治40年文展開くや「阿房劫火」を出して3等賞を受け、41年の国画玉成会には「祗王祗女」を出品、43年文展第3回には「孔雀王」によつて再び3等賞を受けた。大正3年日本美術院再興については発起人として尽すところあり、爾後経営者同人として後年に及んだ。再興第1回展に「秋趣」を出品以来、昭和10年発病に至るまで連年出品を怠らず、前半には主として花鳥画を尋ね、後半は専ら仏画の構成に努力した。技巧が確かで壮麗な彩色にすぐれ、代表的な大作としては東伏見宮御殿御襖絵「群鶴之図」久迩宮御殿御襖絵「菊花之図」聖徳記念絵画館「明治天皇徳川家行幸図」官弊大社長田神社格天井「百花百草」高野山金剛峯寺金堂内面壁画等がある。その日本美術院の功労者としての業績は特記さるべきであつた。

川村曼舟

没年月日:1942/11/07

帝国芸術院会員、京都市立絵画専門学校長兼京都美術工芸学校長川村曼舟は腎臓炎のため11月7日洛西嵐山の自宅で逝去した。享年63。本名万蔵、明治13年7月9日京都に生れ、山元春挙に師事、文展第2回に「黄昏」を出品して3等に推されて以来連年秀作を発表、殊に温雅な風景画を得意とした。大正8年以降毎年帝展審査員、昭和6年帝国美術院会員となり、春挙没後の早苗会の指導者として、又京都市立絵画専門学校長として美術界の教育指導に尽瘁してゐた。代表作に「比叡三題」「連峯映雪」「竹生島」「古都の春」「晃雲暁靄」「驟雨過」「伊都岐島」等がある。略年譜明治13年 7月9日京都市に生る、名は万蔵明治31年 8月山元春挙に入門明治33年 新古美術品展覧会「春風」2等褒状明治35年 新古美術品展「薩摩潟」3等賞、10月京都市立美術工芸学校助手拝命明治38年 新古美術品展「春雨」4等賞明治39年 1月京都市立美術工芸学校助教諭拝命、新古美術品展「烈婦孟姜」明治40年 新古美術品展「寒天炎天」3等賞明治41年 新古美術品展「渓間の春」4等賞、文展「黄昏」3等賞明治42年 文展「山村暮靄」3等明治43年 文展「夕月」3等、4月京都市立美術工芸学校教諭任命明治44年 文展「高野山の秋」褒状大正2年 文展「鶺鴒」大正3年 文展「比叡三題」2等(震災焼失)大正4年 文展「連峰映雪」2等大正5年 文展「竹生島」特選大正6年 文展「日本三景」大正7年 文展「古都の春」無鑑査大正8年 帝展審査員「海二題」大正9年 帝展審査員「三十三間堂」大正10年 帝展審査員「悶え」大正11年 帝展審査員「雨二題」、6月叙従7位、7月絵画専門学校教授大正12年 日本美術展「寝覚の床」大正13年 帝展「薄れ日」、8月叙正7位大正14年 帝展「斜陽」大正15年 聖徳太子奉賛展「神苑」10月叙従6位、帝展「移る潮」昭和2年 帝展「嶺雲揺曳」昭和4年 帝展「塩田夏晨」昭和5年 伊太利展「晃雲暁靄」、帝展「驟雨一過」昭和6年 米国トレド展「荒磯」、10月帝国美術院会員被仰付昭和7年 10月叙勲6等授瑞宝章昭和8年 帝展「阿里山の五月」昭和9年 京都市展「細雨空濠」昭和10年 6月帝国美術院会員被仰付、12月叙正6位昭和11年 6月20日任京都市立絵画専門学校長兼美術工芸学校長、文展「霧氷」、大礼記念京都美術館評議員、京都市美術教育顧問昭和12年 文展「秋空」昭和13年 京都市展「白雲無尽」文展「時雨るゝ山湖」、11月叙従5位昭和14年 京都市展「朝」、文展「信濃の秋」3月叙勲5等授瑞宝章昭和15年 皇紀二千六百年奉祝展「微雨」、紐育万国博「伊都岐島」、恩賜元離宮二条城評議員昭和16年 京都市展「暮雲」、「白馬嶽」京都護国神社奉納額昭和17年 日本画家報国会献納画展「暁靄」、5月1日勅任官を以て待遇せらる、同15日叙正5位、6月3日叙勲4等授瑞宝章、11月7日逝去、同16日京都市立絵画専門学校にて校葬執行

内田青薫

没年月日:1942/10/04

日本美術院々友内田青薫は10月4日死去した。享年41。明治35年東京板橋に生れ、大正6年川端画学校入学その後大正10年より荒井寛方に師事してゐた。大正15年第1回聖徳太子展に出品、翌昭和2年からは連年院展に発表して院友から推されたが、12年脱退して新興美術院同人となり、昨16年再び院展に復帰した。復帰後の作は「城」「春昏る」であつた。

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