木村武山

没年月日:1942/11/29
分野:, (日)

日本美術院の経営者同人木村武山は7年前脳溢血に倒れ、昭和12年以来郷里茨木県西茨城郡に隠退静養してゐたが、近年小康を得て?素に臨み、本年初頭より世田谷区別邸に仮寓中のところ、宿痾の喘息のため11月29日逝去した。享年67。12月2日谷中功徳林寺を式場に日本美術院葬取行はれ、畏くも東伏見宮家、久迩宮家より供御を賜り、島田海相はじめ多数名士の会葬あり、遺骨は茨城の月桂寺に埋葬された。武山本名は信太郎、明治9年7月3日茨木県西茨城郡に生れた。父は信義、代々笠間藩牧野家の家臣であつたが、廃藩後同地に帰農したものである。少年にして上京、私立開成中学校に入り、又川端玉章について学び明治24年開成中学校第3学年より東京美術学校に入学した。29年7月同校本科を卒業、創立当時の日本絵画協会に参加し、天心の率ゐる新興画壇の第一線に立つた。31年前期日本美術院創立されるや直ちに補員となり、同年秋の第5回日本絵画協会共進会には「野辺」を出して銅牌8席に推された。同第8回には「林和清」第10回には「桜狩」第11回「蒙古義経」第12回「熊野」第13回「以仁王」と何れも銅賞を得て次第に世に著はれるに至つた。この間1年志願兵として入営し、日露戦役には応召、陸軍歩兵中尉に進んだ。明治39年日本美術院改組と共に第一部教育主任となり、その五浦移転に際しては家族を伴うて同地に移住、大観観山春草と共にあくまで岡倉天心に随行した。明治40年文展開くや「阿房劫火」を出して3等賞を受け、41年の国画玉成会には「祗王祗女」を出品、43年文展第3回には「孔雀王」によつて再び3等賞を受けた。大正3年日本美術院再興については発起人として尽すところあり、爾後経営者同人として後年に及んだ。再興第1回展に「秋趣」を出品以来、昭和10年発病に至るまで連年出品を怠らず、前半には主として花鳥画を尋ね、後半は専ら仏画の構成に努力した。技巧が確かで壮麗な彩色にすぐれ、代表的な大作としては東伏見宮御殿御襖絵「群鶴之図」久迩宮御殿御襖絵「菊花之図」聖徳記念絵画館「明治天皇徳川家行幸図」官弊大社長田神社格天井「百花百草」高野山金剛峯寺金堂内面壁画等がある。その日本美術院の功労者としての業績は特記さるべきであつた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和18年版(82頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

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例)「木村武山」『日本美術年鑑』昭和18年版(82頁)
例)「木村武山 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8596.html(閲覧日 2024-04-26)

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