本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





西村卓三

没年月日:1955/07/11

日展依嘱西村卓三は、7月11日京都市上京区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年47歳。明治41年1月29日画家西村五雲の二男として京都市に生れた。京都市立美術工芸学校を経て、京都市立絵画専門学校を卒業し、なお同校研究科に在籍し、また父五雲の画塾晨鳥社に於いて引続き業を修めた。昭和7年第13回帝展に「湖畔小景」が初入選し、次いで第15回帝展の「織工」が特選となつた。その後、新文展、日展にほとんど毎回出品し、昭和25年第6回日展以来日展依嘱となつた。その間、昭和10年京都市立美術工芸学校教員となり、同15年から24年に至るまで同校教諭として後進の指導にあたつた。京都日本画壇の中堅として将来を嘱目されたが、その急逝は惜しまれる。

福岡青嵐

没年月日:1954/12/11

青龍社社人福岡青嵐は12月11日老衰のため大阪府北河内郡の自宅で死去した。享年76歳。本名義雄。明治12年熊本県に生れ、同36年東京美術学校日本画科を卒業した。昭和2年大阪美術学校教諭となり、昭和8年「匠童語」を初めて青龍社に出品、同10年には社人にあげられ、以来没する年の秋まで同展に出品をつづけた。主に歴史的人物にモチーフをとり、抑揚をもつた一種くせのある筆勢は独特のもので、いわゆる青龍社調の中にあつて異彩を放つていた。戦前に於ける明恵伝の連作、また戦後淡白な傾向を深めた「コラコラ塚夜語」「逸勢の女」などその作風をよく示すものといえよう。主な作品昭和8年 匠童話 第5回青龍展出品。昭和9年 陶業 第6回青龍展出品。昭和9年 梅の大原 第2回春の青龍展出品。昭和10年 丙丁童子 第7回青龍展出品。昭和11年 光 第8回青龍展出品。昭和11年 洛中洛外 第4回春の青龍展出品。昭和13年 明恵伝 第10回青龍展出品。昭和13年 文芸所々 第6回春の青龍展出品。昭和14年 明恵伝(続) 第11回青龍展出品。昭和14年 宇治点雪・瀬田夕映(六曲一双) 第7回春の青龍展出品。昭和15年 明恵伝(続) 日観(右)苅磨島(中)月観(左) 第12回青龍展出品。昭和16年 明恵伝その四(完) 第13回青龍展出品。昭和16年 モラエス道人 第9回春の青龍展出品。昭和17年 蕃椒酒 第14回青龍展出品。昭和17年 機略 第10回春の青龍展出品。昭和18年 都史五節 第15回青龍展出品。昭和19年 明恵後伝 第16回青龍展出品。昭和20年 絵師良秀 第17回青龍展出品。昭和21年 奥の細道 第18回青龍展出品。昭和22年 吉野の西行 第19回青龍展出品。昭和23年 李白、陸羽 第20回青龍展出品。昭和24年 最初の伝道 第21回青龍展出品。昭和25年 桃源山市 第22回青龍展出品。昭和26年 コラコラ塚夜話 第23回青龍展出品。昭和26年 栂尾培茶 春の青龍展出品。昭和27年 逸勢の女 第24回青龍展出品。昭和27年 柿右衛門湖畔 春の青龍展出品。昭和28年 良寛と芭蕉 第25回青龍展出品。昭和29年 賀名生 賀名生遷幸、吉野より遷幸、小次郎松、梅月、記念の額 第26回青龍展出品。昭和29年 菜根譚 春の青龍展出品。

久保田金僊

没年月日:1954/10/09

日本画家久保田金僊は10月9日中野区の自宅で老衰のため死去した。享年80歳。名吉太郎。明治8年9月20日京都市下京区に、日本画家久保田米僊の次男として生れた。京都府画学校に学び、四条派を専攻したが、19歳の時父米僊と共に上京して芝に移つた。この年国民新聞従軍記者となり、日清戦争に派遣され、絵による戦況を報道した。日露戦争にも同様従軍し、明治41年には画の研究のため海外旅行を志し、単身渡米した。シヤトルで日本実業団の一行中松坂屋社長伊藤次郎左ヱ門に会い、同氏の秘書として3ケ月間全米を視察して帰国した。以来松坂屋百貨店に勤務、同社宣伝部長として55歳迄在籍したが、昭和21年より直腸癌をわずらい、以来長らく病床生活を送つていたが9日逝去した。文展、劇画展に出品し、また舞台装置、時代考証等においても知られていた。主な作品大正7年 蓬莱山図(六曲一双)。大正8年頃 歌舞伎座緞帳獅子の図(震災焼失)。昭和11年 黒谷方丈襖絵 虎の図。大正4年 「庭の一隅」第9回文展出品。大正7年 「夕づく日」第21回文展出品。昭和15年 近江神宮絵巻物、戦争絵巻8巻(日清一、日露二、上海一、北支一、中支一、南方二巻)明治27年より、昭和16年に至る「スケッチブック」を基とし、昭和21年より23年の2ケ年に亘り完成されたもの。

宅野田夫

没年月日:1954/06/26

南画家宅野田夫は6月26日病気療養中、港区の自宅で永眠した。享年59歳。本名清征。明治28年4月19日福岡県に生れた。大正3年本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事した。同5年中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、同8年呉昌碩、王一亭に南画を学んだ。同10年第3回帝展に「大滌子石涛和尚」を出品したほかは、主として個展によつて作品を発表した。昭和6年には宮内省の依嘱によつて、「菊花御紋章の形状研究」を雑誌「大日」に発表し、同10年大日本新聞社を創設した。

狩野光雅

没年月日:1953/12/17

日本画家狩野光雅は昭和28年12月17日死去した。享年55歳。本名政次郎。明治30年和歌山県に生れ、大正8年東京美術学校日本画科を卒業、松岡映丘に師事した。同10年新興大和絵会結成に際して、これに参加し、解散まで出品をつづけ、主なものに「雨後落日」(3回)、「清晨静境」(5回)、「高野草創」(7回)等があり、昭和6年より帝展に作品を発表し、第12回帝展「紀ノ国の春」、第14回「飛爆」(特選)、昭和11年鑑査展に「雨後」等がある。昭和13年国画院結成に参加し、第1回展に「冬の陽ざし」(二曲半双)を出品した。作品はその経歴にみられる通り、伝統的大和絵画法を用い、壮大なモチーフを扱つて、追力ある力強い表現をみせた。

保尊良朔

没年月日:1953/04/22

本名良作。明治30年3月5日、長野県南安曇郡に生れた。日本美術院研究所に学び、大正11年日本美術院第9回展に「石灰焼」が初入選となつた。この頃は霊水の号を用いていた。その後、大正14年第12回院展に「柿若葉」、昭和3年第15回院展に「石花菜を乾す」、昭和8年第20回展に「鯉」(この時頃から良朔の号を用う)、昭和10年第22回展に「鵜籠」を出品している。日本美術院の試作展にも出品し院友となつたが、昭和12年9月日本美術院々友11名と共に同院を脱退し新に新興美術院を結成し同人となつて活躍した。同展に「石仏」「競馬」「馬二題」「舟正月」「あぐり舟」を発表、昭和25年更に、新興美術院同人中同志5名と共に再興新興美術院として発足、毎年春秋二季の展覧会を開き、「七面鳥」「早春風景」「明神池」等を発表していたが、4月22日逝去した。享年56歳。

上田万秋

没年月日:1952/12/15

日本画家上田万秋は昭和27年12月15日逝去した。享年83歳。本名己之太郎。明治2年8月京都に生れ、京都府立画学校を卒業して今尾景年に師事した。官展には明治40年第1回文展より出品し、同第2回に「閑庭」(3等賞)、第4回「逢坂山の径」(褒状)、第9回「光風霽月」(3等賞)等があり、あらたに帝展制となつてからは第1回に「蛙鳴く頃」を発表した。この年新制度に反抗して生れた新団体である日本自由画壇が創立されてからは、この同人となり、毎年同展に作品を発表した。主なものに第1回展「花鳥六題」、第5回「帝陵三題」、第8回「歌人の跡六題」があり、その他米国セントルイス万国博「闘鶏」、などの外国諸展出品の作品があり、穏和な画風の花鳥を得意とした。

岸浪百艸居

没年月日:1952/09/21

元日本南画院同人で独特の魚の絵を描くので知られていた岸浪百艸居は、9月21日東京築地の聖路加病院で癌のため逝去した。享年62歳。旧号連山、本名定司。明治22年明治の画家岸浪柳渓を父として群馬県に生れ、小学校卒業後寺院の徒弟、呉服店見習等をして転々と歩いたが、後画家を志し、小室翠雲の門に入つた。文、帝展、美術協会、南画院、如水遊心会等に作品を発表、その間禅に参じ、又支那、欧洲に遊学した。魚類を殊に好み、愛情こもつた作品を遺している。逝去する前年には巻物の大作「海魚図巻」を献上した。又随筆をよくし「魚に合ふ」「画魚談叢」等がある。終戦直後より眼疾、腎臓、癌等を患い、27年には洗礼を受けた。略年譜明治22年 上州館林に生る。父岸浪連司。明治38年 小室翠雲の門に入る。明治39年 美術協会「秋景山水」出品、3等褒状。大正7年 第12回文展「山居無事」出品。大正10年 美術協会にて宮内省御用拝命、聖徳太子奉讃展出品。大正11年 第4回帝展「聴雨」出品。平和博覧会出品。支那遊学。大正14年 第4回南画院展「樵路」出品。大正15年 第5回南画院展「南信富士見所見」出品。院友に推薦される。昭和2年 第6回南画院展「山道」出品昭和3年 第9回帝展「立石寺」出品。昭和4年 外遊。昭和5年 第11回帝展「松籠」出品。商大寄贈。第9回南画院展「帰汐」出品。昭和6年 第12回帝展「豆花小景図」出品。第10回南画院展「王瓜艸図」出品。百艸居の雅号を用ふ。昭和7年 第11回南画院展「清人樹」出品。昭和8年 第12回南画院展「沙汀静昼」出品。同人に推挙される。昭和9年 第13回南画院展「秋庭」出品。「是れからの日本南画」出版、「百艸居画譜」発行。昭和10年 第14回南画院展「枝頭已春」出品。昭和12年 第1回個展開催。(日本橋・三越)昭和14年 第2回個展開催。(日本橋・三越)昭和17年 第3回個展開催。六曲一双友邦へ贈る。昭和18年 第4回個展開催。「百艸居新作画集」発行。昭和20年 第5回個展開催。上州へ疎開。第6回個展開催。(松屋別館)昭和22年 随筆「魚に合ふ」出版。昭和23年 随筆「画魚談叢」出版。昭和25年 美術協会「浅汐」出品。眼病虹彩炎再発。急性腎臓にて聖路加病院に通院。昭和26年 魚類図巻献上。頚動腫物手術。「磯の魚」画稿完成。昭和27年 頚部再発、聖路加病院に入院。「磯の魚」出版。洗礼を受く。逝去。

内海加寿子

没年月日:1952/06/30

大正8年3月東京に生れ、昭和10年3月文化学院女学部を卒業中川紀元について絵の指導をうけた。昭和12年、中川紀元の紹介により更に岸浪百艸居に師事し15年9月及び17年9月、2回に亘つて資生堂で個展を開いた。翌18年青龍社第15回展に「植物病理学研究室」を出品、入選となつた。この年から青龍社に出品し、翌19年の第16回展に「二兎図」を出品、青龍社々子に推薦され、21年第18回展出品の「聖女」は奨励賞をうけた。翌年の第19回展には「祈」を発表し、社友に挙げられた。第20回展の「芍薬」21回展「鏡」又、25年春季展の「窓うらゝ」(受賞)と次第に作品は注目されてきたが昭和26年青龍社々友を辞し、新な仕事への研究に入つていつたが昭和27年6月30年、33歳で惜しくも長逝した。主要な作品は青龍社展に出品した「聖女」「祈」「鏡」等で、いずれも光線、色彩、の美わしさを中心に、大がらで、清純な感覚を示している。青龍社脱退後は近代風の構成をとり入れた静物画などに新しい境地を求めて模索していた。没後27年9月10日から13日まで銀座資生堂で遺作展を開いた。

梥本一洋

没年月日:1952/03/09

元日展運営会参事、同審査員梥本一洋は3月9日京都市上京区の自宅で逝去した。享年58歳。本名謹之助、明治26年京都に生れ、京都美術工芸学校、京都絵画専門学校を卒業、山元春挙の門に入つた。春挙没後は同門の川村曼舟に師事、早苗会に重きをなした。又後京都絵画専門学校教授となり、美術教育の面にもたずさわつた。作品は主として官展に出品、帝展には第1回より入選し、昭和2年第8回帝展「蝉丸」、同3年第9回帝展「餞春」は特選となつた。同じく4年無鑑査となり、第14、5回には審査員に選ばれた。尚昭和18年耕人社を結成して主宰し、最近では昭和26年第7回日展に参事として「夕和」を出したがこれが展覧会へ出品の最後となつた。略年譜明治26年 京都に生る。大正8年 第1回帝展「秋の夜長物語」出品。大正10年 第3回帝展「燈籠大臣」出品。大正11年 第4回帝展「源氏物語」出品。大正13年 第5回帝展「雨月物語」出品。大正14年 第6回帝展「万燈供養」出品。大正15年 第7回帝展「白光流曳」出品。昭和2年 第8回帝展「蝉丸」(特選)出品。昭和3年 第9回帝展「餞春」(特選)出品。昭和4年 第10回帝展「酒典童子」出品。無鑑査となる。昭和5年 第11回帝展「綵★」(西施)出品。昭和6年 第12回帝展「髪」出品。昭和7年 第13回帝展「残蜩」出品。昭和8年 第14回帝展「朝凪」出品。審査員となる。昭和9年 第15回帝展「水の尾村の秋」出品。審査員となる。昭和11年 文展招待展「鵺」出品。委員となる。昭和13年 第2回文展「岬」出品。無鑑査となる。昭和14年 第3回文展「壇風」出品。審査員となる。昭和18年 第6回文展「朝凪」出品。昭和19年 戦時特別展「月に祈る」出品。昭和23年 第4回日展「秋」出品。昭和24年 第5回日展「宵月」出品。依嘱となる。昭和26年 第7回日展「夕和」出品。参事となる。

吉村忠夫

没年月日:1952/02/17

元日展運営会依嘱、日本画院同人吉村忠夫は2月17日、脳溢血のため世田谷区の自宅で逝去した。享年53歳。明治31年福岡県に生れ、大正8年東京美術学校日本画科を卒業、大和絵による新民族絵画の提唱者である。松岡映丘に師事した。主として文、帝展に出品、大正11年第4回帝展の「清吟緑觴」、同15年第7回帝展の「多至波奈大女郎」、昭和2年第8回帝展の「望の月夜」は特選となり、昭和3年第9回帝展「木蘭」では無鑑査、第11回帝展「和光薫風」では審査員となり、其後も屡々審査員をつとめた。また一方正倉院御物をはじめ古典工芸の研究を以て知られ、今上陛下御成婚に際しては絵画と共に工芸品を製作献上した。師映丘の没後は国画院を指導し、大和絵発展につとめ、昭和14年には同志と共に日本画院を創設その同人となつた。晩年は舞台美術の方面にも筆をふるい、大和絵風の典雅な装置をみせた。略年譜明治31年 福岡県遠賀郡に生る。大正7年 第12回文展「玉のうてな」出品。大正8年 東京美術学校日本画科を卒業。 第1回帝展「徳大寺左大臣」出品。大正9年 第2回帝展「初秋」大正10年 第3回帝展「野分の朝」出品。大正11年 第4回帝展「清吟緑觴」(特選)出品。大正13年 第5回帝展「常寂光」出品。大正14年 第6回帝展「王母」出品。大正15年 第7回帝展「多至波奈大女郎」(特選)出品。昭和2年 第8回帝展「望の月夜」(特選)出品。昭和3年 第9回帝展「木蘭」出品。昭和4年 第10回帝展「龍女」出品。昭和5年 第11回帝展「和光薫風」出品。審査員となる。昭和6年 第12回帝展「奢春光(有智子内親王)」出品。昭和7年 第13回帝展「孝養図」(光明皇后)出品。昭和8年 第14回帝展「浴」出品。昭和9年 第15回帝展「鵤の聖」出品。昭和11年 招待展「燈籠大臣」出品。昭和14年 第3回文展「横川の僧都」出品。昭和15年 北支、満洲、蒙古等の研究旅行をなす。昭和26年 歌舞伎座上演舞台装置及び美術考証「菅公」「時宗」「静物語」「源氏物語」担当。昭和27年 2月17日逝去。

矢沢弦月

没年月日:1952/01/26

日展運営会参事、日本画院同人矢沢弦月は、1月26日世田谷区の自宅で没した。享年65歳。明治19年長野県上諏訪に生る。本名貞則。少年の頃画家になる志を抱いて郷里を出で、同郷の士である時の大蔵大臣邸に寄寓し乍ら久保田米僊、次いで寺崎広業に師事した。間もなく師広業の教える東京美術学校に学び、明治44年卒業した。其頃の同門、同窓に蔦谷龍岬、広島晃甫等がある。学校を出てから今川橋松屋呉服店意匠部に勤務、旁ら官展に大作を出品、大正2年第7回文展に於ける「熟果」(二曲一双)が褒章となり、広業門下の作家として世間に知られる様になつた。その後大正8年第1回帝展出品の「朝陽」は特選となり又この年東京女子高等師範学校講師となる。一方川崎小虎、蔦谷龍岬等と霜失会を組織した。昭和4年在外研究員として欧米に留学、帰朝後は晩年に至るまで官展に出品をつづけ、その間東京美術学校講師、日本美術学校教授等を歴任するとともに、朝鮮美術展、台湾美術展の審査員となり斯界に重きをなした。尚聖徳記念絵画館には壁画「女子師範学校行啓」図がある。略年譜明治19年 長野県上諏訪に生る。明治38年 寺崎広業の門に入る。明治40年 東京美術学校日本画科撰科入学。明治44年 同校卒業。明治45年 今川橋松屋呉服店意匠部勤務。大正2年 第7回文展「熟果」(褒賞)出品。大正5年 第10回文展「童謡」出品。松屋退店。大正7年 第12回文展「西行」出品。大正8年 第1回帝展「朝陽」(特選)出品。5月東京女子高等師範学校講師となる。大正9年 第2回帝展「新秋(山、里、海)」出品。無鑑査となる。大正10年 第3回帝展「室生の夕ばえ」出品。大正11年 第4回帝展「花圃」出品。推薦となる。大正13年 第5回帝展「秋晴」出品。朝鮮美術展審査員となる。大正14年 第6回帝展「柳条清★」出品。昭和3年 第9回帝展「半仙戯」出品。審査員となる。昭和4年 巴里日本展覧会委員、文部省海外調査員として欧洲に留学。昭和5年 第11回帝展「盛夏讃」出品。審査員となる。昭和7年 第13回帝展「糸雨」出品。審査員となる。昭和11年 招待展に「採果図」出品、委員となる。昭和17年 第5回文展に「南方建設譜」出品。昭和18年 第6回文展に「華北の秋」出品。昭和22年 第3回日展「古楼」出品。招待となる。昭和23年 第4回日展「白帆」出品。依嘱となる。昭和24年 第5回日展「山湯初夏」出品。審査員となる。昭和25年 第6回日展「水圏戯」出品。参事、審査員となる。昭和27年1月26日 世田谷区の自宅にて胃癌のため逝去。

広島滉人

没年月日:1951/12/16

元文展審査員、日展出品依嘱広島滉人は、12月16日世田谷区の自宅で没した、享年62歳。明治22年徳島県に生る。本名新太郎、旧号晃甫。香川県立高松工芸学校を経て、東京美術学校日本画科に学び、明治45年卒業した。在学中同窓萬鉄五郎、平井為成等とアブサント会を組織して展覧会を催した。大正8年帝展に「秋の野々宮」「青衣の女」を出品して後者に特選が与へられ、翌年の「夕暮の春」も再び特選となつてその名を高めた。同13年「落葉の丘」を出品し、帝展推薦となり、同14年、審査員に挙げられた。その後も屡々帝展或は新文展の審査員となつた。この間、昭和5年明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「外国使臣謁見の図」を完成し、この年日独展覧会委員として渡独、のち欧州各国を巡歴し、同7年帰国した。官展のほか青々会、三春会等にも出品した。その初期の人物画は浪漫的な傾向が強かつたが、次第に写実的な花鳥画に移つた。略年譜明治22年 徳島県に生る。明治40年 香川県立高松工芸学校卒。明治45年 東京美術学校日本画科卒。大正8年 第1回帝展に「青衣の女」(特選)「秋の野々宮」出品。大正9年 第2回帝展「夕暮の春」出品特選。大正13年 第5回帝展に「落葉の丘」出品、帝展推薦。大正14年 帝展審査員。大正15年 第7回帝展「双鵠」出品。昭和2年 第8回帝展「翠陰」。昭和3年 帝展審査員。昭和4年 第10回帝展「惜春余情」出品、無鑑査。伊太利ローマ展「浮巣」。昭和5年 帝展審査員。明治神宮絵画館壁画「外国使臣謁見の図」完成。日独展覧会委員として渡独。昭和6年 ベルリン民俗学博物館、ロンドン大英博物館、パリ、ギメ博物館の中央アジア壁画を模写。昭和7年 独、英、仏、伊、和、白、西等を巡歴帰国、帝展審査員、第13回帝展に「山葡萄の実」を出品。昭和8年 朝鮮展審査員として渡鮮。昭和9年 帝展審査員。昭和11年 文展委員、「あさがほ」を文展に出品。昭和13年 文展審査員。昭和14年 第3回文展に「蓮」出品。昭和16年 第4回文展に「赤装女」出品。昭和19年 戦時特別文展に「国花」出品。昭和21年 第2回日展に「春景」出品。昭和22年 第3回日展に「梅の図」出品。昭和24年 第5回日展に「窓辺静物」出品。昭和25年 第6回日展に「秋圃」出品。昭和26年 12月16日没

玉村方久斗

没年月日:1951/11/08

日本画家玉村方久斗は11月8日杉並区の自宅に於て逝去した。享年58歳。明治26年京郡市に生る。本名善之助。京都美術工芸学校を経て同絵画専門学校を卒業した。昭和5年方久斗社を起し、同10年同志と綜合団体新興美術家協会を組織した。のち美術新協と改称し、毎秋公募展を開催したが、これは、同18年歴程美術協会、明朗美術連盟と合同した。晩年振わなかつた。

森守明

没年月日:1951/07/11

日展依嘱日本画家森守明は7月11日食道癌のため逝去した。享年59歳。明治25年6月17日京都市伏見区深草伏見稲荷神社社家守信の次男として生れた。明治43年京都市美術工芸学校を卒業、続いて京都市立絵画専門学校に学び、大正12年卒業した。在学中第4回帝展に「遊仙洞」が初入選し、以後帝展、文展に出品し続けた。その間、第8回帝展「雨後」、第11回帝展「弘法大師」が夫々特選となり、昭和5年推薦となつた。又大正15年母校、美術工芸学校の教諭、昭和15年絵画専門学校の講師となり、後進の育成につとめた。一方、西山翠嶂塾の中心的存在であり、同塾青甲社展第1回以来毎回出品し、没年5月の青甲社創立30周年記念展に「町の裏道」を出品したが間もなく病臥し、これが絶作となつた。

高橋米子

没年月日:1951/03/30

閨秀日本画家の新人として嘱望された日本美術院々友、春泥会々員高橋米子は3月30日逝去した。享年38歳。大正2年1月2日堺市に生れ、日本美術院同人中村貞以に師事、昭和18年院展に「白扇」が初入選し以来毎回院展に出品し今日に至つたが、主として人物画に佳作多く、殊に戦後断然頭角を現し、23年「小憩」で次年度無鑑査、25年試作展「室内」で奨励賞をうけ、同年院展では秀作「白い花」によつて美術院賞、大観賞に挙げられるなど、その長足の躍進ぶりは注目に価したが、期待も空しく惜しくも夭折した。

水上泰生

没年月日:1951/02/21

日本画家、元帝展委員水上泰生は、2月21日杉並区の自宅で逝去した。享年74歳。明治10年10月24日福岡市に生れた。本名泰生。同34年東京美術学校日本画科に入学、同39年卒業し、傍ら寺崎広業に師事した。はやく日本絵画協会、日本美術院連合共進会、美術研精会等に出品した。大正2年はじめて第7回文展に「桐花」(六曲一双)を出品、翌年第8回文展に出品した「琉球の花」(六曲一双)、第9回文展の「樺太の夏」(同上)は、いづれも3等賞を受けた。その後も、文展、帝展、新文展に屡々大作を発表した。同8年同志と如水会を組織し、また改組日本画会々員として活躍した。大正15年には帝展委員に推された。彼は写生的な花鳥画を得意とした。

上村松園

没年月日:1949/08/27

明治、大正、昭和三代にわたつて多くの秀れた美人画をのこした上村松園は8月27日奈良県生駒郡の別邸唳禽荘で肺臓癌のため逝去した。享年75才。松園は本名を常子、明治8年京都市の茶補上村太兵衛の二女に生れ、14才の時京都府画学校に入学、鈴木松年の指導をうけた。翌年松年が退校するに当り共に退学、正式に松年の門に入る。第3回内国勧業博に「四季美人図」を出してみとめられ、折から来朝中の英国コンノート殿下の買上げとなつた。その後松年の許可を得て、幸野楳嶺に就き傍ら漢学を市村水香、詩を長尾雨山に学んだ。楳嶺没後は社中と共に竹内栖鳳に師事、その間男子に伍しての烈しい精進ぶりはよく知られる所である。この頃のものには「清少納言」「義貞聴琴」等歴史風俗が多く、後年の洗練された技巧に対し、鈴木派の生硬な筆致がみられる。明治40年文展開設されるや連年秀作を発表、大正期の「深雪」「花がたみ」「焔」など情懐深いものから晩年昭和期の「草紙洗小町」「夕暮」など手堅い様式化へ発展、技巧は円熟し、洗練された色調と共に他の追随を許さぬ画風を示した。昭和16年芸術院会員、19年帝室技芸員、23年には文化勲章を受けた。昭和20年以降は奈良郊外唳禽荘にこもり作画三昧の日日を送つていたものである。略年譜明治8年(1才) 4月23日京都市に生る。厳父太兵衛2月逝去。明治14年(7才) 仏光寺内開智小学校に入学。明治21年(14才) 京都府画学校に入学。明治22年(15才) 画学校退学鈴木松年の門に入る。明治23年(16才) 第3回内国勧業博覧会「四季美人図」出品褒賞(英国コンノート殿下御買上となる)。日本美術協会「美人吹笛図」明治24年(17才) 日本美術協会「美人詠歌図」京都御苑内、日本青年絵画共進会「美人観月」明治25年(18才) 京都御苑内、春季絵画展「美人納涼」明治26年(19才) 松年の許可を得て幸野楳嶺に師事。日本美術協会「美人弾吹図」3等賞銅牌。米国シカゴ博農商務省下命「四季婦人図」明治27年(20才) 日本美術協会「美人掲簾図」出品、褒状2等。明治28年(21才) 幸野楳嶺死去、竹内栖鳳に師事する。日本美術協会「古代美人図」褒状2等。第4回内国勧業博覧会「清少納言」褒賞。京都御苑日本青年絵画共進会「義貞聴琴図」3等賞。明治29年(22才) 日本美術協会春季展「暖風催眠」褒状1等。日本美術協会秋季展「婦人愛児図」褒状1等。明治30年(23才) 日本美術協会秋季展「梅花粧図」3等賞銅牌。日本絵画協会「頼政賜菖蒲前」2等褒状 京都御苑内全国婦人製作品展「美人観音」1等褒状明治31年(24才) 京都御苑内京都絵画共進会「一家団欒」3等銅牌。日本美術協会「古代上臈図」3等賞銅牌。新古美術品展「重衡朗詠」3等銅牌。明治32年(25才) 京都新古美術品展「人生の花」3等賞。全国絵画共進会「美人図」「孟母断機」。日本美術協会「官女図」褒状2等。明治33年(26才) 日本絵画協会8回絵画共進会「花ざかり」銀牌。パリ万国博覧会「母子」銅牌。京都新古美術協会創立10周年回顧展「軽女惜別」2等銀牌。明治34年(27才) 京都新古美術品展「園裡浅春」1等褒状。第1回岐阜絵画共進会「吹雪」銅牌。絵画研究大会「半咲図」銅牌。昭和35年(28才) 日本美術院「時雨」3等賞。日本美術協会「少女図」3等賞銅牌。信太郎(松篁)生る。明治36年(29才) 第5回内国勧業博覧会「姉妹三人」2等銀賞2席。北陸絵画共進会「春の粧」銅牌。明治37年(30才) 新古美術品展「遊女亀遊」4等賞。セントルイス万国博「春の粧」銀賞。明治38年(31才) 新古美術品展「花のにぎはひ」3等銅牌。明治39年(32才) 新古美術品展「柳桜」3等銅牌。京都市初音小学校へ「税所敦子孝養図」を寄贈。明治40年(33才) 日本美術協会「虫の音」3等賞銅牌。北陸絵画共進会「花のにぎはひ」1等賞。第1回文展「長夜」3等賞。明治41年(34才) 2回文展「月かげ」3等賞。北陸絵画共進会「桜がり」1等金牌。新古美術品展「秋の夜」3等銅牌。明治42年(35才) ロンドン日英博「花見」。ローマ万国博「花の賑ひ」金牌大賞。新古美術品展「虫の音」3等銅牌。明治43年(36才) 第4回文展「上苑賞秋」3等賞。京都新古美術品展「人形つかひ」2等銀賞。10回巽画会「花」2等銀賞。明治44年(37才)「吹雪」「新粧」大正2年(39才) 第7回文展「蛍」3等賞。「化粧」大正3年(40才) 大正博覧会「娘深雪」2等銀賞。第8回文展「舞仕度」2等賞。大正4年(41才) 第9回文展「花がたみ」2等賞。大正5年(42才) 第10回文展「月蝕の宵」推薦。文展会場にて皇太后宮行啓、御前揮毫を命ぜられ「古代舞姫」謹作。大正6年(43才) 秋、皇太后宮京都へ行啓、公会堂にて「初春図」御前揮毫。大正7年(44才) 12回文展「焔」「天人」皇太后文展行啓の折「紅葉がり」御前揮毫。大正11年(48才) 4回帝展「楊貴妃」大正15年(52才) 聖徳太子奉賛展「娘」。8回帝展「待月」昭和3年(54才) 御大典記念御用画「草紙洗」昭和4年(55才) 伊太利日本画展「伊勢大輔」「新蛍」昭和5年(56才) 高松宮家御用画「春秋」二曲一双昭和6年(57才) ドイツ、ベルリン日本画展「虫ぼし」出品、同国政府の希望により同国々立美術館へ寄贈、同年7月同国より2等赤十字章を授けられる。昭和7年(58才) 「虹を見る」「蛍」昭和8年(59才) 高松宮家御用画「春秋」(双幅)昭和9年(60才) 京都市展「青眉」。15回帝展「母子」政府買上。母堂仲子刀自逝去。昭和10年(61才) 1回春虹会「天保歌妓」東京三越展「鴛鴦髷」「土用干」。京都1回五葉会「夕べ」。東京高島屋展「春苑」。昭和11年(62才) 2回春虹会「春宵」。京都2回五葉会「時雨」「柳蔭納涼」。文展招待展「序の舞」政府買上。京都表装展「秋の粧」昭和12年(63才) 3回春虹会「春雪」。学習院御用画「夕べ」。1回文展「草紙洗小町」政府買上。皇太后御用画「雪、月、花」昭和13年(64才) 2回文展「砧」東京高島屋珊々会「緑雨」4回春虹会「移らう春」昭和14年(65才) 5回春虹会「春鴬」珊々会「風」京都美術倶楽部30周年記念「鼓の音」昭和15年(66才) 6回春虹会「櫛」珊々会「若葉」春芳堂展「春便」本山幽篁堂展「春芳」三越展「冬雨」画室社展「春光」東西名家新作展「むしの音」ニユーヨーク万博「鼓の音」昭和16年(67才) 珊々会「夕べ」京都市展「晴日」7回春虹会「春に詠ず」5回文展「夕暮」11月約1ヶ月間中支旅行。芸術院会員に任ぜられる。昭和17年(68才) 満州国献納画「婦人愛児」昭和18年(69才) 「新蛍」「烈女はつ」6回文展「晴日」朝日新聞関西邦画展「晩秋」昭和19年(70才) 「牡丹雪」「待月」。帝室技芸員拝命。昭和20年(71才) 2月奈良県平城へ移転。昭和23年(74才) 高島屋白寿会「庭の雪」10月25日芸術院第一部日本画会員13氏と共に賜餐、11月3日文化勲章拝受。昭和24年(75才) 松坂屋巨匠展「初夏の月」絶筆、8月27日逝去、叙従4位。

下村為山

没年月日:1949/07/10

疎開先の富山県西礪波郡に於て脳溢血のため逝去。享年85。本名純孝、慶応元年愛媛県松山に生る。明治20年前後本多錦吉郎、小山正太郎に就て洋画を学び同23年の第3回内国勧業博覧会に「慈悲者の殺生図」を出品して褒状を受けた。はじめ明治美術会に加つて、その展覧会に出品したが、同30年頃から日本画に転じ、南画家として知られた。又正岡子規の門に入り、内藤鳴雪、高浜虚子等と共に俳句を学び、その方面でも知られていた。

長野草風

没年月日:1949/02/06

日本美術院同人の長野草風邪は2月6日横浜市の大橋家別荘で脳溢血のため逝去した。年65。明治18年10月4日東京に生れ、名は守敬、維新の閣老安藤信正の孫にあたり、5才頃母方の大叔母長野家の養子となつた。14才頃から邨田丹陵につき、20才頃川合玉堂に師事、草風と名のる。紅児会に入つて研究すると同時に、文展に出して早くもみとめられ「六の華」(1回)は3等賞、「朝と夕」(7回)は褒状となつた。大正3年院展再興とともにこれに参加し、同5年9月同人に推された。以後院展を舞台として活躍、大正12年、14年には支那旅行を企て画嚢を肥している。代表作には大正15年聖徳太子奉讃展の「高秋霽月」などがあげられる。

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