本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





入江波光

没年月日:1948/06/09

日本画家入江波光は、6月9日京都市上京区の自宅で胃病のため逝去。享年62。明治20年京都市に生れた。本名幾治郎。同35年森本東閣に師事、この年京都市立美術工芸学校に入学、同38年卒業。同40年同校研究所に入学、同42年京都市立絵画専門学校新設され、その第2学年に入学し、同44年卒業した。この間明治40年第1回文展に「夕月」を出品入選した。大正2年京都市立美術工芸学校教諭に任ぜられ、同7年絵画専門学校助教授となり、国画創作協会に「降魔」を出品、授賞された。同8年同協会同人となり、第2回展に「臨海の村」、翌9年第3回展に「彼岸」を発表した。同11年京都府から英、米、伊へ出張を命ぜられ、同12年帰朝。同13年第4回国展に「虹」、同14年の第5回国展に「ローマ郊外」、昭和3年第7回国展に「摘草」を発表した。同11年京都絵画専門学校教授に進み、同13年北京、大同に出張、翌15年朝鮮美術展審査のため朝鮮に出張した。同15年文部省から法隆寺壁画の模写を依嘱され、晩年はほとんどこれに没頭した。その間仏画及び水墨画に、洗練された技法を示した。

狩野探道

没年月日:1948/06/04

日本美術協会審査員狩野探道は6月4日心臓麻痺のため東京中野の自宅で死去した。享年59。名を守久といい、明治23年東京に生れた。探幽を祖とする鍛冶橋狩野家の12世で、明治36年14歳で狩野応信に就き始めて狩野派の画法を学び、その没後荒木探令に師事した。大正4年東京美術学校日本画科を卒業以降専ら日本美術協会に出品し、同会委員、同会第一部審査委員、展覧会幹事をつとめた。代表作に東京都養正館壁画「天孫降臨図」美術協会第100回展出品の「徐上小景」等がある。

小早川清

没年月日:1948/04/04

日本画家小早川清は4月4日東京都大田区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年50。明治32年福岡市博多に生れた。大正13年第5回帝展に入選して以来帝展に出品を続け、第14回展の「旗亭凉宵」は特選となつた。昭和11年以後は文展無鑑査となり、その他日本画会、青衿会等にも会員として多くの作品を発表していた。専ら艶麗な美人画を画き、帝展時代には長崎を舞台とした異国情緒の溢れた画材を好んで画いた。帝展出品作に「長崎のお菊さん」「蘭館婦女の図」、文展に「春琴」「行く春」等がある。

中村大三郎

没年月日:1947/09/14

京都美術専門学校教授、日本画家として知られた中村大三郎は9月14日膽石病で京都市右京区の自宅で療養中、腸閉塞を併発し死去した。年50。明治31年京都に生れ、大正8年京都絵画専門学校を卒業、在学中文展12回に「懺悔」を出して入選、帝展2回「静夜聞香」4回「燈籠大臣」は特選となり、その後「婦女」「髪」などの印象的な現代女性をえがいて進出した。審査員をつとめること数回、昭和10年には帝国美術院指定となり、かたわら母校に教鞭をとつていた。後期の作品としては「三井寺」(新文3)、「鸚鵡小町」(奉)、「山本元帥」(新文6)などがある。

安田半圃

没年月日:1947/09/08

日展無鑑査の日本画家安田半圃は9月8日疎開先の熱海市で耳下腺肉腫のため死去した。享年59。別号光見、名は太郎、明治22年新潟県に生れ、水田竹圃にまなび、文展11、12回に入選、帝展には10回出品して推薦となつた。南画院の同人として南画山水を主とし、新文展にも出品していた。

野口謙次郎

没年月日:1947/05/21

日本画家野口謙次郎は5月21日死去した。享年50。明治31年佐賀県に生れ、大正12年東京美術学校日本画科を卒業した。大正10年第3回帝展以後官展に出品し、昭和15年第15回帝展には「奥入瀬」に特選を受けた。

北野恒富

没年月日:1947/05/20

美人画家として知られた関西画壇の重鎮北野恒富は5月20日大阪府中河内郡の自宅で心臓麻痺のため急死した。享年68。明治13年金沢に生れ、名は富太郎、都路華香につき、大阪に出て野田九浦らと大正美術会をおこし、大正4年大阪美術会を創立、同7年には水田竹圃らと茶話会を設立した。文展第4回に「すだく虫」、5回に「日照雨」を出して知られ、大正3年再興美術院展が開かれると共にこれに作品を発表、大正6年同人となり、情緒濃厚な美人画によって特異の存在をうたわれた。昭和10年帝国美術院無鑑査に指定された。院展の出品作を列記すれば、「願の糸」(1)、「鏡の前」(2)、「道頓堀」(3)、「湯の宿」(6)、「茶々」(8)、「夕べ」(10)、「浴後」(11)、「むすめ」(12)、「涼み」(13)、「朝」(14)、「宵宮の雨」(15)、「戯れ」(16)、「阿波踊」(17)、「宝恵籠」(18)、「口三味線」(20)、「花」(22)、「大童山」(23)、「お茶室へ」(24)、「五月雨」(25)、「夕空」(26)、「幾松」(28)、「真葛庵の蓮月」(29)、「薊」(30)があり、そのほか聖徳記念絵画館壁画の「御深曽木」新帝展の「いとさん、こいさん」などの注目される作がある。

石崎光瑤

没年月日:1947/03/25

日本画家石崎光瑤は3月25日死去した。享年64。明治17年富山県に生れ、竹内栖鳳に師事した。大正元年第6回文展に入選以来毎回出品し、文帝展審査員をつとめた。大正5、6年及び昭和8年に印度に旅行し、大正11、12年には欧州を巡つた。昭和10年帝国美術院改組とともに指定となり、昭和11年に京都市立美術専門学校教授におされた。帝国美術院賞をうけた「熱国研春」や「燦雨」「春律」等の代表作があり、写実を生かした華やかな装飾画風を示した。

木谷千種

没年月日:1947/01/24

閨秀日本画家木谷千種は1月24日大阪府河内郡の自宅で死去した。享年53。名を英といい、吉岡政二郎の女として明治28年大阪に生れた。池田蕉園、北野恒富、菊池契月に師事し、大正4年文展第9回以来官展に出品、女性的な人物画をよくした。近松研究家木谷蓬吟の夫人で私塾「八千草会」を開き後進の指導にも当つていた。

前田荻邨

没年月日:1947/01/19

京都市立美術専門学校助教授、晨鳥社同人、前田荻邨は1月19日京都市上京区寺町今出川の自宅に於て心臓麻痺で死去した。享年53。本名を八十八といい、明治28年兵庫県に生れた。大正5年京都市立美術工芸学校、同8年京都市立絵画専門学校、同10[※11とあるのを10に修正してある]年同校研究科を卒業した。なおこの間西村五雲画塾に学んだ。第2回展以後引続き帝展に作品を発表し、昭和6年第12回展の「潮」は特選となり、同9年には帝展推薦となつた。新文展以後は無鑑査として活動を続け、西村五雲の門弟により組織されている晨鳥社の総務を勤めていた。他方京都市立美術学校教諭、京都市立絵画専門学校助教授として教育面に力を尽していた。

柴田安子

没年月日:1946/07/27

旧新美術人協会々員柴田安子は7月27日世田谷区の自宅で逝去した。明治40年9月秋田県平鹿郡の素封家に生れ、番町、千代田高等女学校卒業後松岡映丘に師事し、木之華社会員となり、次いで青龍社に作品を発表した。昭和13年福田豊四郎、吉岡堅二らにより、新美術人協会が設立されてからは同会々員として毎年新傾向の日本画を発表し、注目された。戦後新日本画の革新を目指して起つた創造美術の結成を前に死去したものである。主な作品昭和10年 牧婦 青龍社7回展昭和11年 めうはど 春の青龍展昭和11年 女仲仕 春の青龍展昭和12年 わかれ 春の青龍展昭和13年 花 新美術人協会1回展昭和14年 叢林 新美術人協会2回展昭和15年 灑衣 新美術人協会3回展(研究会員賞)昭和16年 搗杵 新美術人協会4回展昭和17年 帽、小児 新美術人協会5回展昭和18年 山脈、落下傘工場 新美術人協会6回展昭和19年 木材供出 決戦美術展

吉田秋光

没年月日:1946/06/21

日本画院同人吉田秋光は山梨県中巨摩郡の疎開先で6月21日急性肺炎で死去した。享年60。本名は清二、昭和20年金沢に生れ、同43年東京美術学校日本画科を卒業した。大正6年第11回文展以来、帝展・新文展等に出品、第4回帝展には特選となりその後無監査・審査員等として活躍した。そのほか日本画院同人、巴会々員であつた。

赤井龍民

没年月日:1945/12/01

日本画家赤井龍民は12月1日北海道の旅先にて客死した。享年48。名は義一、明治31年兵庫県に生れ、大正7年入洛して菊池契月の門下となり、大正11年第4回帝展に「乳搾る家」が初入選し、第7回帝展に「島影暮韻」入選、その後数度入選していた。

飛田周山

没年月日:1945/11/22

旧帝展審査員飛田周山は11月22日逝去した。享年69。本名正雄。明治10年茨城県に生れ、20歳の時から久保田米僊に学び、後竹内栖鳳に学び、更に前期日本美術院研究科に入り、傍、橋本雅邦に師事した。39年文部省より国定教科書の挿絵を嘱託されてから昭和16年まで従事した。大正元年第6回文展に「天女の巻」を出し褒状を受け、第9回文展に「星合のそら」を出し再び褒状を受け、爾来毎回出品し特選を受ける事2回に及び、大正9年第2回帝展に「文殊菩薩」を出しこの年から無鑑査出品となつた。第6回帝展以来審査委員となり、改組文展になつてからも出品を続け、一方日本画院にも属して作品を発表していた。略年譜明治10年 2月26日茨城県多賀郡に生る明治29年 久保田米僊につく明治30年 竹内栖鳳につく明治33年 日本美術院研究科に入り、橋本雅邦につく明治39年 文部省より国定教科書挿絵揮毫を依嘱さる、昭和16年まで継続す明治40年 文展第1回「維摩」入選大正元年 文展第6回「天女の巻」褒状大正4年 文展第9回「星合のそら」褒状大正5年 文展第10回「わたつみの宮」大正6年 文展第11回「幽居の秋」特選大正7年 文展第12回「崑崙之仙窟」無鑑査大正8年 帝展1回「神泉」特選大正9年 帝展2回「文殊菩薩」無鑑査大正10年 帝展3回「伝説の淵」、帝展推薦となる大正11年 平和記念博覧会「残燈」大正14年 帝展6回「天の真名井」、帝展委員となる大正15年 帝展7回「業火」「更生」「慈光」、帝展委員となる昭和3年 帝展9回「山月滞雨」帝展審査員となる昭和4年 中国に出張す昭和5年 伯林日本画展「月天」「騰竜」、帝展11回「澹雲籠月」、朝鮮美術審査員となる昭和7年 帝展13回「暁日」昭和9年 帝展15回「明暉」昭和10年 帝国美術院指定となる、文展(招待展)「暁山雲」昭和12年 文展第2回「白雲巻舒」昭和13年 文展第3回「降魔」昭和16年 文展第5回「敵国降伏」昭和17年 文展第6回「洽光威八荒」昭和18年 朝鮮美術審査員となる昭和20年 11月22日没

尾竹国観

没年月日:1945/05/18

文展無鑑査尾竹国観は5月18日疎開先で逝去した。享年61。名亀吉、明治13年新潟市に生れ、高橋大華、小堀鞆音に師事、15歳にして富山博覧会で褒状を得、爾来、日本美術協会、各地の絵画共進会、前期日本美術院、各種勧業博覧会等に出品、しばしば受賞して声明をあげた。文展へは第3回に「油断」を出して一挙に2等賞、5回に「人真似」(3等賞)「忍耐」、6回に「勝鬨」(褒状)、8回「仮睡」、9回「血路」(3等賞)、10回「文姫帰漠」、11回「住吉」 12回「磯」と活躍したが 後年は振わなかつた。兄に尾竹越堂、竹坡があり、兄弟作家として知られていた。門下に織田観潮等がある。

荒井寛方

没年月日:1945/04/16

文展無鑑査、日本美術院同人荒井寛方は4月21日※旅先の福島県郡山市で急逝した。享年68。本名寛十郎。明治11年栃木県に生れ、22歳の時上京、水野年方の門に入り歴史画を研究した。明治40年第1回文展に入選、第2回には「出陣」を出品して3等賞に推され、3回4回5回文展に続けて入賞、第7回には「来迎」を出品した。大正4年日本美術院第2回展に「乳糜供養」を出品して同人に推され、翌大正5年タゴール翁に招かれて渡印、彼地の美術学校に教鞭をとり其間アジャンター洞窟に赴き壁画を模写した。大正7年帰朝の後は専ら院展に出品し、仏教的題材を印度の壁画やミニアチュールの表現を取入れて描いた。大正15年渡欧、ローマの史蹟を探り帰朝後も毎年院展に仏画を出品、昭和14年法隆寺壁画模写を文部省より依嘱され、15年以来専心模写を続けたが未だ完成を見ない中に急逝したのは誠に惜しむべきであつた。著作に「阿弥陀院雑記」がある。略年譜明治11年 8月15日栃木県に生る、荒井藤吉長男明治32年 父素雲の道にすすみ上京、水野年方門に入る、その後国華社に勤務す明治40年 第1回文展「菩提樹下双幅」入選明治41年 第2回文展「出陣」3等賞明治42年 第3回文展「射戯」3等賞明治43年 第4回文展「車争ひ」褒状明治44年 第5回文展「竹林の聴法」褒状大正2年 第7回文展「来迎」、父素雲没大正3年 再興第1回院展「暮れゆく秋」大正4年 第2回院展「乳糜供養」、この年同人となる大正5年 タゴールに招かれて渡印、ビヂツトラ美術学校に教鞭をとる、滞印中アジャンター洞窟内壁画を模写大正7年 8月帰国、第5回院展「仏誕」大正8年 第6回院展「雪山の★姿」大正9年 第1回寛方会を開催、第7回院展「摩耶夫人の霊夢」大正10年 第8回院展「光輪」大正11年 第9回院展「楽土」大正12年 第10回院展「涅槃」大正13年 台湾へゆく、第11回院展「当麻」大正14年 中村岳陵とともに渡支、第12回院展「喜怒哀楽」大正15年 渡欧、伊太利を中心にローマ遺跡を廻り、各国を巡遊昭和2年 第14回院展「玄弉と太祖」昭和3年 第15回院展「黒駒」昭和4年 第16回院展「寿星」「どんど焼」昭和5年 伊太利日本美術展「清流」「猫」、第17回院展「普賢」昭和6年 明治神宮絵画館壁画「富岡製糸場行啓」、第18回院展「竜虎」昭和8年 目黒雅叙園に六曲一双「釈尊降誕図」、第20回院展「草味」昭和10年 帝国美術院指定となる、第1回文展「鬼子母」昭和11年 第23回院展「澄潭映大悲」昭和12年 第24回院展「紅葉狩」昭和13年 第25回院展「天地和平」昭和14年 第26回院展「仏耶一如観音マリア」昭和15年 高島屋に個展ひらく、この年より法隆寺金堂壁画模写にかかる昭和16年 第28回院展「摩利支天」昭和20年 4月16日※福島県郡山駅で急逝

野口小蕙

没年月日:1945/04/02

日本美術協会委員野口小蕙は4月2日脳溢血の為死去した。享年68。名は郁、明治11年東京に生れ、母小蘋に師事し南画をよくした。14歳のときはじめて日本美術協会に出品、その後種々の展覧会に作品を発表して名を知られた。かつて小室翠雲の夫人であつたが故あつて離別したものである。

小室翠雲

没年月日:1945/03/30

帝室技芸員、帝国芸術院会員小室翠雲は3月30日帝大病院で逝去した。享年72。名貞次郎、明治7年群馬県に生れ、南画を田崎早雲に学んで、日本美術協会でしばしば受賞、同協会委員、日本画会及び南画会の幹事として次第に名声をあげた。明治40年には高島北海、望月金鳳、荒木十畝、佐久間鉄園、山岡米華、田中頼嶂、益頭峻南などとともに正派同志会を組織して文展新派に対抗、文展第9回以来審査員として、「青山白雲」「雪中山水」「春景秋景山水」「四時佳興」はいずれも3等賞をうけ、第7回の「寒林幽居」はことに好評で2等賞におされた。帝展にも1回以来しばしば審査員をつとめ、大正11年には渡支して画嚢を肥した。13年帝国美術院会員となり、以後南画壇の重鎮として大いに活躍、昭和6年にはベルリン日本画展に際して渡欧、その滞欧作を日本南画院10回展に陳列した。帝展時代の主要作としては「広寒宮」「南船北馬」「周濂渓」「田家新味」「承徳佳望」などがあり、いずれも現代南画の高峰をを示す生々とした作である。官展以外には日本南画院を指導し、昭和17年には大東南宗院を設立して、日華南画壇の交歓をはかつた。絵のほか漢詩、書もすぐれ、昭和19年には帝室技芸員の一人に加つたところであつた。略年譜明治7年 8月31日群馬県に生る、小室牧三郎長男明治22年 画家たらんとして故郷を出ず、日本美術協会に出品して褒状を受く、足利の田崎早雲に師事、南宗画を学ぶ明治31年 師早雲没明治32年 上京、苦学す、その後日本画会に属し同会及び日本美術協会で活躍す明治40年 正派同志会を組織して文展に反対し、その副委員長となる明治41年 文展2回「青山白雲」(3等賞)明治42年 文展3回「雪中山水」(3等賞)明治43年 文展4回「山海の図」(2等賞)明治44年 文展5回「春景山水」「秋景山水」(3等賞)大正元年 文展6回「四時佳興」(3等賞)大正2年 文展7回「寒林幽居」(2等賞)大正3年 文展8回「逍遥」(審査員)大正4年 文展9回「駒ケ嶽秋粧」(審査員)大正5年 文展10回「天空海濶」(審査員)大正6年 文展11回「層巒群松」(審査員)大正7年 文展12回「碧澗有響」「江山欲暮」(審査員)大正8年 帝展1回「春庭」「秋圃」(審査員)大正9年 帝展2回「春雨蕭々」(審査員)大正10年 田近竹邨、山田介堂、池田桂仙、山田竹圃、矢野橋村等と日本南画院を創立す、帝展3回「南船北馬」(審査員)大正11年 帝展4回「海寧観潮」(審査員)大正12年 京橋の宅で震災にあう、粉杢切を焼く、後焼け残つた蔵幅を売り立てて崇文院叢書刊行会をかく大正13年 帝国美術院会員となる、帝展5回「春暖」大正14年 帝展6回「広寒宮」大正15年 帝展7回「灼春」、叙正5位昭和2年 帝展8回「周濂渓」昭和3年 帝展9回「春風駘蕩」、大礼記念章授与せらる昭和4年 帝展10回「濯足万里流」昭和5年 ドイツ日本画展に代表として渡欧、帝展11回「田家新味」昭和6年 帝展12回「石人無語」昭和7年 帝展13回「天台」昭和8年 帝展14回「紫罨」昭和9年 高島屋に個展ひらく、帝展15回「承徳佳麗」昭和10年 三越に個展をひらく、日本南画院解散、環堵画塾解散す昭和12年 文展1回「白乾坤」昭和13年 文展2回「軍犬」昭和14年 文展3回「明鏡止水」昭和15年 紀元二千六百年記念奉祝美術展「林鳥仁浴」、毎日日本画展「芦雁」昭和16年 8月大東南宗院をひらく、文展4回「九方皐」昭和17年 満洲国献納画「蘭」、大東南宗院展「薫風」、文展5回「鳶飛魚躍」、満洲国献納展「春風図」、三越に個展ひらく昭和18年 文展6回「瑞昌」昭和20年 3月30日没

橋本関雪

没年月日:1945/02/26

帝室技芸員、帝国芸術院会員橋本関雪は2月26日京都の自邸で狭心症のため逝去した。享年63。名関一、明治16年旧明石藩の漢学者橋本海関の息として生れ、家学を父にうけたが、まもなく片岡公曠に南画を学び、36年には竹内栖鳳門に入つて画技をすすめた。38年には日露役に従軍、41年には上京して谷中に寓居し、第2回文展以後連続出品して屡々受賞、大正8年帝展第1回から審査員として活躍した。文展では「失意」「琵琶行」「片岡山のほとり」「松下煎茗」等に褒状、「遅日」「南国」「猟」は2等賞、「寒山拾得」「倪雲林」はいずれも特選、推薦となつた第12回では「木蘭」を出していよいよ名声をあげた。大正2年初めて中国に渡り、その後中国旅行は60数回に及んでいる。大正10年渡欧してフランス、ドイツ、イタリヤを歴遊、昭和2年にも再度渡欧した。昭和9年帝室技芸員におされ、10年の改組では帝国芸術院会員となつた。帝展時代に入つて「木蘭詩」「聖地の旅」「長恨歌」「訪隠図」「玄猿」などの優作があり、暢達自在の筆技と覇気あふれた豪快な風格をもつてうたわれた。晩年の力作としては建仁寺の襖絵が著名であつた。支那風物地誌についての造詣も深く、文章、詩、短歌にも、独自の格調を盛つている。著作も数多く、「関雪随筆」「南画への道程」「石涛」「浦上玉堂」「支那山水随緑」「南を翔ける」等があり、その他非売品として出したものに「走井」「不離心帖」「玉堂事考」「国民百人一首」などがある。略年譜明治16年 11月10日神戸市に生る、父は旧明石藩儒者橋本海関明治23年 湊川尋常高等小学校に入学し、かたはら家業を父にうく明治24年 片岡公曠の門に入る明治36年 竹内栖鳳に師事す明治38年 満州軍司令部嘱託として従軍明治41年 上京、谷中に寓居、第2回文展「鉄嶺城外の宿雪」入選明治42年 文展第3回「失意」(褒状)明治43年 文展第4回「琵琶行」(褒状)明治44年 文展第5回「片岡山のほとり」(褒状)「異見王達磨を送る」大正元年 文展6回「松下煎茗」「後醍醐帝」(共褒状)大正2年 京都に移住す、この年初めて中国にゆく(その後60数回ゆく)、文展第7回「遅日」(2等賞)大正3年 文展第8回「南国」(2等賞)「後苑」(無鑑査)大正4年 文展第9回「猟」(2等賞)「峡江の六月」(無鑑査)大正5年 文展10回「寒山拾得」(特選)「煉丹」(無鑑査)大正6年 文展11回「倪雲林」(特選)大正7年 文展12回「木蘭」(無鑑査)文展推薦となる大正8年 第1回帝展審査員となる、帝展1回「郭巨」「遊踪四題」大正9年 帝展2回「木蘭詩」「林和靖」大正10年 渡欧、フランス、ドイツ イタリヤ等を歴遊大正11年 帝展審査員となる、帝展4回「聖地の旅」大正14年 帝展6回「相牛」「摘瓜図」大正15年 聖徳太子奉賛展「仙女図」、第2回渡欧昭和4年 帝展10回「長恨歌」昭和5年 仏国政府より勲1等を受ける昭和8年 帝展14回「玄猿」昭和9年 帝室技芸員となる昭和10年 帝国美術院会員となる、個展をひらく昭和11年 文展招待「唐犬図」昭和12年 文展「赴征」昭和13年 東京三越に個展をひらく昭和14年 戦争記念画「軍馬二題」(朝日賞)「恵日東帰」「残照」「春かえる」「戦塵」「河霧」「流民」、紐育万国博「霧猿」、戦争美術展「江上雨来る」昭和15年 建仁寺襖絵を完成す、「生生流転」「伯楽」「深秋」「蕭条」「寒山子」、毎日日本画展「柳蔭馬を洗ふ」昭和16年 文展4回「夏夕」、戦争記念画展「両面愛染明王」昭和17年 飛行機にて南方を歴遊す、文展5回「防空壕」、満州国慶祝展「髪」、軍用機献納展「春潮」昭和18年 文展6回「霜」昭和19年 戦争美術展「黄浦江の朝」、文展7回「香妃戎装」昭和20年 2月26日没

山川秀峰

没年月日:1944/12/29

文展無鑑査山川秀峰は12月29日脳溢血の為逝去した。享年47。本名嘉雄、明治31年京都に生れ、鏑木清方・池上秀畝に師事した。昭和3年第9回帝展に「安倍野」を出品して特選となり、11回帝展の「大谷武子姫」は再び特選、翌6年には無鑑査となつた。第13回展の「序の舞」、二千六百年奉祝展の「信濃路の女」等の優品がある。また青衿会を伊東深水と共に催し、美人画の開拓に努めていた。帝展文展出品目録大正8年 帝展1回 振袖物語(対) 初入選大正9年 帝展2回 郷秋の唄大正13年 帝展5回 夢(二曲屏風半双)大正15年 帝展7回 宮古路豊後掾昭和2年 帝展8回 蛍(四曲屏風半双)昭和3年 帝展9回 安倍野 特選昭和4年 帝展10回 盲女朝顔昭和5年 帝展11回 大谷武子 特選昭和6年 帝展12回 素踊 無鑑査となる昭和7年 帝展13回 序の舞昭和8年 帝展14回 蔭に憩ふ昭和9年 帝展15回 アコーデオン昭和13年 文展2回 佳日昭和14年 文展3回 彼岸昭和15年 奉祝展 信濃路の女昭和17年 文展5回 月輪

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