本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





佐藤紫煙

没年月日:1939/03/10

日本画家佐藤紫煙は3月10日逝去した。享年65。本名文治郎、明治6年岩手県に生れ、瀧和亭に就いて花鳥を学び衣笠豪石に山水画の描法を受けた。明治29年明治天皇日本美術協会へ行幸の際、御前揮毫を仰付けられ、大正天皇に献上の揮毫まで凡20回の光栄を担つた。明治30年京都府全国絵画共進会に出品の「秋蘭図」は1等賞、翌31年日本美術協会展には2等賞を受け、40年文展に対抗して開かれた正派同志会第1会展には3等賞を受けている。大正7年秋には文展審査に慊らず南北画系作家と共に建白書を時の文相に提出したことがある。

加藤英舟

没年月日:1939/02/15

故西村五雲と共に竹内栖鳳門下の先輩として知られた加藤英舟は2月15日逝去した。本名栄之助、明治6年名古屋に生る。初め名古屋の奥村石蘭に学び、同23年京都府立画学校に入学、幸野楳嶺の薫陶を受けたが、楳嶺没するに及び岸竹堂に師事し更に竹堂の没後竹内栖鳳の門に入つた。花鳥動物を得意とし、その画風は質朴温雅、伝統的技巧を守り、小品の花鳥画に佳作を遺した。文展第6回出品の「かすみ網」で褒賞を受け、昭和3年帝展委員に推薦された。主なる作品には、文展第2回出品の「野狐の図」、同第4回「秋晴の図」、同第6回「かすみ網」、同第9回「大羽打」、帝展第2回「小さき夢のさまざま」、同7回「花の市」、同8回「秋の園」、同第10回「湖辺の秋」、同第12回「巨椋早涼」、同第14回「秋の脊戸」等が挙げられる外、京都東本願寺黒書院の障壁画を揮亳をしてをり、又大正11年、皇后陛下の関西行啓に際しては川崎家よりの献上画を謹作した。

小川芋銭

没年月日:1938/12/17

日本美術院同人小川芋銭は1月以来中風のため茨城県牛久沼畔の自宅に於て静臥療養中のところ12月17日逝去した。享年71歳。少年時代本多錦吉郎画塾に洋画を学び、又同時に日本画をも独学し、同40年前後には平民新聞、読売新聞等に主として農民を主題とした漫画を執筆、大正4年迎へられて珊瑚会々員に、同6年日本美術院同人に推薦された。 明治29年以降は概ね郷里牛久に住し、専ら沼畔の風物に取材した。仕事は姶んど水墨及び水墨淡彩に一貫し、東西画の素養に基く独自の南画を創作して後年の構図、筆意の逞しさは宋元画に想到せしむるものがある。晩年は漂渺として明快に向ひ、六曲一双「江村六月」或ひは二曲一双「桃花源」は其の人柄と特色を示すと共にこの作者として珍らしい大作であらう。尚、書及び俳諧にも造詣があり、老荘の学に親しみ、好んで河童を描いたことは有名である。画号は明治20年頃より大正10年頃まで牛里(俳句に多く用ゆ)、草汁庵、芋銭、大正11年頃より晩年まで芋銭子、莒飡子等を用ひ、昭和3年頃稀に字銭子を用ひた。略年譜年次 年齢明治元年 2月18日赤坂溜池、山口筑前守藩邸に、小川伝右衛門賢勝の長男として生る。幼名不動太郎、後茂樹吉と改む明治4年 4 一家山口氏旧領牛久村に帰農明治11年 11 東京に出で京橋区新富町某小間物商の丁稚となる、此頭より余暇を偸みて絵を学ぶ明治13年 13 親戚本多錦吉郎の画塾彰技堂に洋画を学ぶ明治17年 17 濁力洋画の研修に従ひ、又市隠抱朴斎に就て漢画を問ふ明治19年 19 機縁ありて加地為也に画事を問ふといふ明治21年 21 朝野新聞に客員となる明治24年 24 此頃朝野新聞に漫画を掲載、初めて芋銭の号あり明治26年 26 父の命により帰国し農事に従ふ、余暇を愉みて画作す、翌々年妻を迎ふ明治40年前後 同30年頃以降、いばらき新聞、雑誌文芸界、平民新聞、東亜新報、国民新聞、雑誌ホトトギス 読売新聞等に挿絵、漫画等を描く明治41年 41 「草汁漫画」を刊行す明治44年 44 東京三越に小杉未醒と共に芋銭未醒漫画展を開く大正4年 48 平福百穂、川端龍子、森田恒友等の組織する珊瑚会々員となる大正6年 50 珊瑚会第3回展出品「水郷二題」外4点 日本美術院同人となる、同院第4回展出品「沢国五景」大正7年 51 院展第4回試作展出品「雪景」、珊瑚会第4回展出品「百魔絵巻」「虚陵米価」等、院展第5回「峡谷朝雷」「峡谷秋草」「陶土之丘」大正8年 52 珊瑚会第5回展「抱甕痴」、院展第6回「樹下石人談」、同院同人作品展「恍惚郷」大正10年 54 日本美術院米国展出品「水虎と其脊族」「若葉に蒸さるゝ木精」、院展第8回「山彦の谷」大正11年 55 同院第8回試作展「朧夜」、院展第9回「沼四題」(桧原、鰌取り、小鰕漁、家鴨小屋)大正12年 56 同院第9回試作展「白雲想」、院展第14回「水魅戯」、茨城美術展創立会員となり、「樹間如水人如魚」を出品大正13年 57 同院第10回試作展「新緑潤国土」院展第11回「夕風」「芦花浅水」大正14年 58 同院第11回試作展「月輪穿沼」、院展第12回「野干燈」大正15年 59 聖徳太子奉讃展出品「早夏清朝」、院展第13回「丹陰霧海」昭和2年 60 同院第12回試作展「雪姥と黒狐」昭和3年 61 院展第15回「浮動する山岳」「荒園晴秋」、還暦記念として「芋銭子開七画冊」を刊行昭和4年 62 同院第14回試作展「畑のお化け」、院展第16回「止水」「怒涛」昭和5年 63 院展第17回「積雨収」「太古香」、羅馬開催日本美術展出品「河伯安住所」昭和7年 65 同院第16回試作展「十二橋」、院展第19回「海島秋来」昭和9年 67 院展第21回「反照」昭和10年 68 帝院改組に当り参与に推さる、日本美術院第19回試作展「長沙散歩」、8月「雲巒煙水」「江村六月」六曲塀風一双成る、院展第22回「雪巒煙水」昭和11年 69 帝国美術院第1回展「暁烟」、院展第23回「聴秋」昭和12年 70 院展第24回「湖上迷樹」、11月日本橋東美倶楽部に、草汁会主催の名を以て自己発意による古稀記念新作展開催、「新嘗之慈雲」外約60点出品、古稀記念として「芋銭子開八画冊」刊行昭和13年 71 2月東京俳画堂より「河童百図」公刊、12月17日没(主として「故小川芋銭遺作展」目録による)

木島桜谷

没年月日:1938/11/03

旧帝展審査員木島桜谷は最近神経過労症に悩みつつあつたが11月3日大阪府枚方附近に於て京阪電車に触れ不慮の災禍の為急逝した。享年62歳。 本名文治郎、字文質、別に龍池草堂主人、聾廬迂人の号を用ひた。明治10年3月6日京都の商家に生る。少年の頃より今尾景年の門に入り傍ら儒者山本亡羊に就て経学を修めた。明治32年全国絵画共進会に「瓜生兄弟」を出品して営内省の御買上に浴したが之が出世作となつた。次で文展第1回出品の六曲一双「しぐれ」が2等賞を受領し、その後勢に乗じて毎回赫々たる成績を続け、名声を馳せた。爾後数次に亙り文帝展審査員に選ばれたが、帝展第14回に「峡中の秋」を出品、某の後は展覧会作品を示さなかつた。人となり志操堅固を以て聞え、晩年は筆硯に尊念する外は詩書を友として世交より遠ざかつてゐた、その画風は四条円山の形式を継承しつつ己の工夫を加へ平明な親しみある筆意を示して居た。作品年譜明治32年 金国絵画共進会「瓜生兄弟」3等9席明治33年 美術協会展「野猪」2等1席明治34年 美術協会展「剣の舞」3等5席明治35年 美術協会展「咆哮」2等1席明治36年 内国勧業博「揺落」3等明治37年 美術協会展「桃花源」2等1席明治38年 美術協会展「古来征戦幾人回」4等1席明治39年 美術協会展「奔馬」明治40年 美術協会展「田舎の秋」2等1席明治40年 文展第1回「しぐれ」2等明治41年 文展第2回「勝乎敗乎」2等明治42年 文展第3回「和楽」3等明治43年 文展第4回「かりくら」3等明治44年 文展第5回「若葉の山」2等大正元年 文展第6回「寒月」2等大正2年 文展第7回「駅路の春」審査員大正3年 文展第8回「涼意」無鑑査大正4年 文展第9回「うまや」大正5年 文展第10回「港頭の夕」大正6年 文展第11回「孟宗薮」大正7年 文展第12回「暮雲」大正10年 帝展第3回「松籟」大正11年 帝展第4回「行路難」大正13年 帝展第5回「たけがり」大正14年 帝展第6回「婦女三趣」大正15年 帝展第7回「遅日」昭和2年 文展第8回「灰燼」昭和3年 文展第9回「えもの」昭和5年 文展第11回「望郷」(?奴に於ける蘇武)昭和6年 文展第12回「画三昧」昭和7年 文展第13回「つのとぐ鹿」昭和8年 文展第14回「峡中の秋」

森村宜稲

没年月日:1938/10/04

日本画家、日本美術協会審査員森村宜稲は予て神経痛の為名古屋の自宅に於て加療中の処10月4日急性肺炎のため逝去した。享年68歳。 幼名悌二、雲峰と号し、別に稲香村舎と号した。明治4年12月26日儒者森村宜民の子として名古屋に生る。幼にして木村雲渓の門に入り、後また日比野白圭に就て大和絵を学んだ。古くより日本美術協会に出品し、後同会の審査員となり、又文展に出品して、昭和6年帝展推薦に挙げられた。主として大和絵の手法を継承し、又雪舟、探幽に私淑し、殊に晩年は田中納言、浮田一蕙の研究に従ひ、自らは多く省筆の作に特色を発揮し小品を得意とした。代表作には展覧会出品画の外に聖徳記念絵画館の壁画がある。尚稲香画塾を開いて門下の養成に当つて居た。作品略年譜文展以前「志賀寺花見」 明治24年京郡絵画共楽会出品、2等賞御用品「信長」 名古屋共進会「栄華物語田植」 日本美術協会「万蔵楽」 日本美術協会「春宵」 明治画会「雨中江村」 明治画会「鴬宿梅」 久迩宮殿下御下命画文帝展大正元年 旧文展第6回「尚歯会」褒状大正3年 旧文展第8回「奈良祭」大正4年 旧文展第9回「勅箭」大正15年 帝展第7回「野干」昭和2年 帝展第8回 「六代乞請」昭和7年 帝展第13回「火柱妙供」昭和8年 帝展第14回「小瀬餌飼」昭和9年 帝展第15回「槙立つ山」昭和11年 文展第1回「西行と聖」昭和12年 文展第1回「颶風」其他日本美術協会、東海美術協会毎年出品聖徳記念絵画館壁画「農民収穫御覧」桑港博出品「奈良祭」金牌受領日独展 「鶉」米国展 「鴛鴦」仏国展 「養老行幸」日満展 「芦葉神祖」

西村五雲

没年月日:1938/09/16

帝国芸術院会員西村五雲は宿病の糖尿病のため京都府立病院に入院加療中のところ9月16日逝去した。享年62。 明治23年岸竹堂に師事し、同26年日本美術協会に初出品入賞した。師の没後、同32年竹内栖鳳の門に入つた。大正2年京都市立美術工芸学校の教諭に就任同3年夏頃より病床に臥し、大正7年頃に至り漸く病臥のまま小品製作に着手し得るやうになつた。同9年帝展委員に推薦せられ、13年京都絵画専門学校教授に任ぜられた、昭利8年帝国芸術院会員を仰付られ、同11年絵専教授を辞した。 主に病気が凶で大作は寡なく、文展出品の「咆哮」「まきばの夕」「秋興」、帝展の「日照雨」「秋茄子」及び新文展の「麦秋」等がその主なもので、概して花鳥、魚貝、菜果を主題とする小品に数多くの製作を残した。 竹堂、栖鳳両師の画風を摂取し、就中栖鳳の筆意を祖述せる点で其の後継者としての地位にあつたが、衷に自らの写実に発する領域を拓きつつ、渾然として穏雅な画格を完成して居た。尚長年画塾晨鳥社を開いて門下の育成に当つた。略年譜年次 年齢明治10年 11月6日京都市に生る。本名源次郎明治23年 14 岸竹堂に学僕して入門す明治26年 17 日本美術協会展「菊花図」出品、褒状明治30年 21 岸竹堂に死別す 全国絵画共進会「梅花双鶴」4等賞。後素青年会「虎」第9席明治32年 23 第2回全国絵画共進会「群鷲争餌」4等賞、竹内栖鳳に師事す明治33年 24 京郡美術協会「柳岸薫風」3等賞明治36年 27 第5回内国勧業博覧会「残雪飢虎」褒状明治40年 31 文展第1回「白熊」3等賞明治43年 34 京都美術学校教諭心得被命明治44年 35 文展第5回「まきばの夕」褒状大正2年 37 文展第7回「秋興」褒状 京都市立美術工芸学校教諭に被任大正3年 38 夏頃より神経衰弱症の為病欧大正7年に及ぶ大正7年 42 此年あたりより病欧のまヽに小品制作始まる大正11年 46 日仏交換展「老猿」大正13年 48 第5回帝展委員被仰付。京都市立絵画専門学校教授被補。大正14年 49 第6回帝展審査員大正15年 50 第7回帝展審査員昭和2年 51 第8回帝展審査員昭和4年 53 巴里日本美術展「冬の渓流」「五月晴」 第10回帝展審査員昭和5年 54 羅馬開催日本美術展「淡光」昭和6年 55 伯林現代日本美術展「閑日」。米国トレド日本画展「午間」。暹羅展「栗鼠図」。帝展第12回「日照雨」文部省買上。同展審査員昭和7年 56 帝展第13回「秋茄子」宮内省御買上昭和8年 57 帝院会員被仰付。大礼記念美術館評議員を依囑さる。京都市美術教育顧問依嘱せらる。昭和9年 58 珊々会第1回展「冬暖」昭和10年 59 珊々会第2回展「砂丘」昭和11年 60 京都市立絵画専門学校教授を辞す。昭和12年 61 帝国芸術院会員被仰付 春虹会展「猿猴」、文展第1回「麦秋」文部省に寄贈、同展審査員三越綜合展「虎」昭和13年 62 第3回京都市展「園裡即興」市質上。本山竹荘依囑の「秋霧」2尺5寸横物絶筆となる。

橋本独山

没年月日:1938/08/15

臨済宗相国寺派前管長橋本濁山は胃癌の為8月15日相国寺内林光院で遷化した。享年70歳。 明治2年越後に生れ、少年の頃画家を志し、富岡鉄斎に帥事したことがあるが、中年出家して峨山和尚の法を嗣ぎ明治42年相国寺派管長となり、昭和8年迄其の職にあつた。南苑、流芳、対雲等と号し、其の禅余に揮毫せる書画は夙に世の重んずるところとなつてゐた。

渡辺公観

没年月日:1938/07/20

日本自由画壇同人渡辺公観は7月20日逝去した。享年61歳。 名耕平、明治11年1月20日滋賀県大津に生る。同27年京都美術工芸学校に入り、翌年退学、森川曽文に師事す。同35年曽文長逝後他門に入らず独自研究を続けた。文展には第1回及び第8回より12回迄出品、大正8年井口華秋、広田百豊と共に日本自由画壇を創立し、爾後毎年同展に出品した。同展第13回出品の「放牧」二曲一双は代表作に推される。

稲田吾山

没年月日:1938/07/15

日本画家稲田吾山は7月15日鎌倉建長寺境内の寓居で逝去した。享年59歳。 本名伊之助、明治13年米沢市に生れ、東京美術学校を経て、寺崎広業に師事し、旧美術研精会の委員であつた。

津端道彦

没年月日:1938/04/03

日本画家津端道彦は予てより神経痛のため加療中のところ4月3日逝去した。享年71歳。 明治元年10月21日新潟県中魚沼郡に生る。同19年上京、福島柳圃に南宗派を家び、同27年山名貫義に就て住吉派を、又29年旧平戸藩絵師片山貫道に土佐派を、又松原佐久に有職故実を学んだ。同35年日本美術協会歴史部の主事を委嘱され、同43年には同会第一部委員に嘱託された。又帝国絵画協会、巽画会の会員、日本画会の客員であつた。明治天皇、大正天皇の御前揮毫の光栄に浴したことがあり、文展では又2等賞1回、3等賞2回、褒状1回を受けた。又日本美術協会其他に於ては銀牌及銅牌を受けること数十回に及び5度宮内省御買上の栄に浴して居る。作品略年表明治35年 「足利忠綱宇治川先登」日本美術協会育英部展明治39年 「富士牧狩図」歴史展覧会明治40年 「嵯峨野の月」東京勧業博覧会明治41年 「勿来関」文展第2回3等賞明治42年 「龍田川図」襖4枚、大阪天満宮明治43年 「紅梅金鳩図」「紅葉白菊図」杉戸4枚、大阪天満宮明治43年 「闘鶏図」朝鮮総督府明治44年 「うたげの装」文展第5回褒状明治45年 「杣山会戦之図」屏風一双、日本美術協会展大正元年 「火牛」文展第6回2等賞大正2年 「真如」文展第7回3等賞其他 大本山総持寺紫雲台襖 大阪豊国神社「八十島祭絵巻」3巻、杉戸4枚

松岡映丘

没年月日:1938/03/02

帝国芸術院会員松岡映丘は近年心臓性喘息を病み療養中3月2日小石川雑司ヶ谷の自宅で逝去した。享年58歳。 本名輝夫、明治37年東京美術学校を卒業、同41年同校助教授となり、大正3年文展に「夏立つ浦」を出品、大和絵に新機軸を示して注目され、次で5年吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織した。文展にはその後「室君」、「道成寺」、「山科の宿」を出品して特選を贏ち得た。同7年美校教授、8年帝展審査員に就任、同10年門下を率ゐ新興大和絵を提唱する絵画運動「新興大和絵会」を創立した。昭和4年帝展出品の「平治の重盛」が院賞となり翌5年伊太利展開催に際し渡欧、同年帝国美術院の会員を仰付られた。同7年の帝展には「右大臣実朝」を出品。同10年東京美術学校教授を辞し、国画院を創立して盟主となり、大和絵による新民族絵画の建立を提唱、同12年の第1回展に六曲一双屏風「矢表」を出品したが、之が大作の絶筆となつた。 制作の上では人物画を得意とし、武者絵を最も多く作つたが、常に典雅なる画格を備へ、又「室君」「伊香保の沼」等に於ては優婉な一面を発揮した。大正3年の「夏立つ浦」以来従来の土佐絵を現代的に再生し、普遍化するに大なる指導的役割を果した。 尚古来の絵巻物、武具服飾等の故実の方面に造詣深く、又教育者としても優れた業績を挙げ、更に演劇方面に貢献せる処も少なくなかつた。略年譜年代 年齢明治14年 7月9日兵庫県神崎郡田原村に生る。(松岡操五男)明治32年 19 東京美術学校日本画科に入学、丹青会展「北の屋かげ」出品明治37年 24 東京美術学校日本画科主席卒業明治38年 25 神奈川県立高等女学校教諭兼神奈川県師範学校教諭となる明治40年 27 神奈川県女子師範学校教諭を兼任、明治40年8月右教職を辞す明治41年 28 東京美術学校助教授となる大正元年 32 第6回文展「宇治の宮の姫君達」出品大正2年 33 第7回文展「住吉詣」褒状、宮内省御買上大正3年 34 第8回文展「夏立つ浦」大正4年 35 第9回文展「御堂関白」3等賞、政府買上大正5年 36 吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織、第1回展「いでゆの雨」「若葉の山」「春光春衣」、第10回文展「室君」特選制最初の首席大正6年 37 金鈴社第2回展小品数点、第11回文展「道成寺」特選2席大正7年 38 東京美術学校教授に任ぜらる 金鈴社第3回展「枕草紙絵巻」其他、第12回文展「山科の宿」特選主席大正8年 39 東京女子高等師範学校教授を兼任 金鈴社第4回展「紅玻璃」「燈籠大臣」、第1回帝展「目しひ」 第1回帝展審査員に推挙さる、御神宝桧扇絵の揮毫を嘱託さる大正9年 40 金鈴社第5回展「伊豆の絵巻」 第2回帝展審査員大正10年 41 金鈴社第6回展「銀鞍」其他、第3回帝展「池田の宿」 第3回帝展審査員、新興大和絵会結成さる大正11年 42 金鈴社第7回展「更級日記」其他、第4回帝展「霞立つ春日野」 3月平和記念東京博審査官嘱託、金鈴社解散大正12年 43 日本画会客員となる大正13年 44 第5回帝展審査員大正14年 45 第6回帝展「伊香保の沼」、第6回帝展審査員大正15年 46 第7回帝展「千草の丘」昭和2年 47 明治天皇御神像奉納昭和3年 48 第9回帝展「さ月まつ浜村」、同展審査員、静岡県茶業組合よりの献上画「富嶽茶園」を謹作、朝鮮ポスター展審査官、御大典奉納名古屋博及国際美術審査員昭和4年 49 第10回帝展「平治の重盛」院賞昭和5年 50 2月羅馬開催日本美術展の為渡欧、日本美術展「屋島の義経」「伊衡の少将」「時雨ふる野路」「東海」 第11回帝展「即興詩人」 帝国美術院会員仰付らる、新興大和絵会解散昭和7年 52 第13回帝展「右大臣実朝」昭和8年 53 5月第12回朝鮮美術展審査の為渡鮮 第14回帝展「花のあした」昭和9年 54 第15回帝展「安土山上の信長」昭和10年 55 9月国画院創立、東京美術学校教授を辞す昭和11年 56 明治神宮聖徳記念絵画館壁画「神宮親謁」を完成、文展第1回展審査員昭和12年 57 国画院第1回展「矢表」「後鳥羽院と神崎の遊女達」 帝国芸術院会員仰付らる昭和13年 58 3月2日没

小村大雲

没年月日:1938/02/20

日本画家小村大雲は2月20日郷里島根県簸川郡平田町に帰省中逝去した。享年56歳。 本名権三郎。明治16年島根県に生る。18歳の時、京都に出で、一時都路華香に師事したが、明治36年山元春挙塾早苗会に転じ、そこで名を成した。大正元年第6回文展出品の「釣日和」が3等賞となり、其後続いて3等賞を3回、特選を2回獲得し、同8年推薦され、その後は2度帝展の委員に就任した。文展、帝展の出品目録は左の通りである。文展第6回 「釣日和」3等賞文展第7回 「放ち飼」3等賞文展第8回 「憩ひ」3等賞文展第9回 「東へ」3等賞文展第10回 「画舫」特選文展第11回 「神風」特選文展第12回 「古代の民」帝展第1回 「佐登」推薦帝展第3回 「美哉蒼窮」帝展第4回 「剛敵」帝展第5回 「往時追懐」帝展第8回 「清風山月」帝展第9回 「梁風子」帝展第12回 「黄金の茶室」帝展第14回 「三蔵渡印」以上

渡辺晨畝

没年月日:1938/02/11

日本画家渡辺晨畝は2月11日逝去した。享年72歳。 慶応3年11月3日福島県安積郡多田野村に生る。荒木寛畝の門に花鳥を学ぶ。日本画会、日本美術協会々員となり、孔雀の絵を得意としてゐた。大正7年支那に漫遊、北京に於て日華聯合絵画研究会を組織し、同10年及び13年に日華聯合展を開催、又昭和9年には新京に日満聯合展を開催した。満洲国皇帝の知遇を辱ふし、日満支三国美術の交驩に貢献せる処大であつた。尚、東方絵画協会幹事の任にあつた。

太田義一

没年月日:1937/10/01

日本画家太田義一は10月1日逝去した。明治24年山形県に生る。大正4年東京美術学校を卒業、帝展入選8回に及び、尚帝国女子専門学校の講師の職にあつた。

片山牧羊

没年月日:1937/08/26

日本画家片山牧羊は宿痾の為め広島県の郷里に於て静養中の処8月26日逝去した。明治33年尾道に生る。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでゐた。

西井敬岳

没年月日:1937/07/04

自由画壇同人西井敬岳は7月4日逝去した。本名敬次郎。明治13年福井県に生れ、同35年京都に出で山元春挙に師事、師の没後早苗会評議員として今日に至る。旧文展の入選8回に及び、又同志と共に日本自由画壇展覧会を組織し、毎次同会に出品した。尚文展第7回に「怒涛」を出陳、皇后宮御用品として御買上の光栄に浴した。

野沢如洋

没年月日:1937/06/11

日本画家野沢如洋は、6月11日脳溢血の為逝去した。本名三千治。慶応元年弘前に生る。明治25年京都に出て、独力画法を研究、日本美術協会に毎回出陳して屢々受賞し、28年には1等賞を受領宮内省御買上の栄に浴した。37年支那に渡り、各地を巡歴、在留8年に及ぶ。又大正8年欧米美術行脚の途につき、翌年帰朝、昭和5年東京に転住し、爾後数次個展に依り作品を発表した。同11年弘前市に於ける秩父宮殿下御仮邸に伺候、御前揮毫の栄に浴した。

中村春楊

没年月日:1937/05/04

早苗会々員中村春楊は、宿痾の為5月4日京都太泰の自宅に於て逝去した。本名新太郎。明治24年京都に生れ、同40年故山元春挙に師事し、同門下生を以て組織する早苗会の一員として今日に至つた。大正7年文展第12回に初入選してより帝展を通じて入選10回に及んで居た。

高木長葉

没年月日:1937/04/21

日本画家高木長葉は4月21日永眠した。享年50歳。四日市市の出身、大正8年より?々個展に依り作品を発表し、同9年同志と共に蒼空邦画会を結成、日本画の創造運動に従つた。昭和4年銀座資生堂に意匠部長として入社し、翌年同社より広告美術の研究を目的として欧洲へ出張し、同10年に退社してゐたものである。

落合朗風

没年月日:1937/04/15

明朗美術聨盟主宰落合朗風は4月12日急性肋膜炎の為赤十字病院に於て逝去した。享年42。本名平治郎。明治29年東京芝区に生る。大正3年画家として立つことを決心し、京都の小村大雲に約半歳ほど師事した。同4年明治絵画会に「后興」を出品、翌年21歳の時第5回文展に「春永」が初入選した。次で8年院展に六曲一双「エバ」を出品し、是が出世作となつた。同10年院展と袂別、13年第5回帝展に「三十三間堂」を出品以後昭和6年迄殆ど毎回出品したが、帝展の内情に嫌焉たるところあり、之と袂別し、青龍社の主張に共鳴して同展第3回に「華厳仏」を出陳し、青龍賞に推奨された。昭和7年青龍社展第4回に「那覇の麗人」を出品、同人に推挙さる。次で同9年、惟ふ処あり、川口春波と青龍社を離脱し、明朗美術聨盟を創立。同年上野松坂屋に創立記念試作展を開催した。爾来同聨盟を率ゐて画壇に活動し、昭和12年3月下旬明朗美術春季試作展の出品画「春夏秋冬」四幅対を完成、又4月1日に紙本横物「白椿」を完成したが翌日から臥床し、同作が絶筆となつた。 其の画風は質朴で、舒情的な題材が多く扱はれ、甘美な色彩と装飾的形式化を其の特徴とした。明朗展第2回出品の「かまくら」は形式の発展を示す佳作であり、将来を期待せしめた作家であつた。作品略年表年次 年齢大正4年 20 明治絵画会第6回展「后興」六曲半双大正5年 21 第5回文展「春永」大正8年 24 第6回院展「エバ」六曲一双大正9年 25 第7回院展「島村余情」対幅大正10年 26 第8回院展「肥牛」四曲半双大正13年 29 第5回帝展「三十三間堂」大正15年 31 第7回帝展「洛外風趣」四幅対昭和2年 32 第8回帝展「梅ケ畑ノ麦秋」昭和3年 33 第9回帝展「漁村」昭和4年 34 第10回帝展「南房漁港」昭和5年 35 第11回帝展「内陣」昭和6年 36 第12回帝展「秋の北山」、第3回青龍展「華厳仏」、上野松坂屋に於て第1回個展開催昭和7年 37 第4回青龍展「那覇の麗人」八曲大屏風 上野松坂屋に於て第2回個展開催昭和8年 38 第5回青龍展「浴室」二曲大屏風、「室内静物」AB、上野松坂屋に於て第3回個展開催昭和9年 39 第1回明朗展「人魚」金地六曲一双、「東京風景三題」一、不忍池二、銀座三、地下鉄昭和10年 40 上野松坂屋に於て第4回個展開催、第2回明朗展「常夏の国」六曲大屏風一双、「三人の音楽隊」「道化」「画人の像」昭和11年 41 5月上野松坂屋に於て第5回個展開催、第3回明朗展「かまくら」二曲一双、「我が庭の眺め」二曲一双、「遊踪処々」、11月海軍大演習御召艦比叡の御座所奉掲画「章魚」の図を献上昭和12年 42 明朗美術春季試作展 春夏秋冬「春夢」「彩浜」「秋垣」「雪余」四幅対、「秋柿」

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