長谷川潔

没年月日:1980/12/13
分野:, (版)

パリ在住の銅版画家長谷川潔は、12月13日パリ市の自宅で老衰のため死去した。享年89。長谷川は、1891(明治24)年12月9日横浜市に生まれ、麻布中学卒業後、1911年頃黒田清輝の葵橋洋画研究所に入り素描を学んだのち、本郷洋画研究所で岡田三郎助藤島武二に油絵を学ぶ。ついで13年から自画自刻による創作板目木版画や木口木版画、銅版画の制作を始め、同人となった文学雑誌「聖盃」(のち「仮面」と改題)や、短歌雑誌「水甕」の表紙、口絵等の木版画をつくるなど、以後版画の研究、制作に専念、14年には来日中のバーナード・リーチに銅版画法について尋ねる。16年、永瀬義郎、広島晃甫とわが国初の版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、創作版画展を開催。18年、米国経由で渡仏し、以後一度も帰国することなく没年までパリを中心に制作活動を展開する。パリで23年からサロン・ドートンヌに出品、翌年にはデュフィーの勧誘でマチス、ピカソなども所属したソシエテ・デ・パントル・グラヴュール・アンデパンダンに入会。一方、当時フランスでは技法的には消滅に瀕していた特殊銅版画技法マニエール・ノワールの復興を行い、この技法に唐墨の深みをもつ色調による独自の表現を吹き込み注目されるに至る。25年には版画による第1回個展をパリのヌーベル・エソール画廊で開催、翌年サロン・ドートンヌ版画部会員(48年、絵画部会員にも推挙)となる。また、日本の団体では、28年に春陽会会員、31年日本版画協会創立会員となり出品する。34年、広重以後の日本版画を紹介した«L’Estampe Japonais Moderne et ses Origines»展に準備段階から尽力、翌年仏政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を受章する。戦後もサロン・ドートンヌをはじめ、国際現代版画展、フランス現代版画展、東京国際ビエンナーレ展等各種の展覧会及び個展で制作発表を行い声価を高める。64年フランス芸術院コレスポンダンス会員となり、66年にフランス文化勲章を受章、翌年パリ市の金賞牌が授与されるなど、日本よりフランスの方ではやくから評価がなされ、72年には、フランス国立貨幣、賞牌鋳造局の肖像メダルに、日本人では葛飾北斎、藤田嗣治につぐ三人目として刻される。死去の年にあたる80年、京都国立近代美術館で「長谷川潔展」が開催され、版画131点、油彩画22点が出品された。
長谷川潔年譜
1891年 12月 9日、横浜市に、第一国立銀行の神戸、横浜、さらに大阪の支店長となった長谷川一彦、欣子の長男として生まれる。姉・静江、幸子、弟・純、弘の5人姉弟の第3子であった。
1899年 この頃から、父から論語の素読をうけ、中国の拓本を手本に書を習わせられるとともに、書画骨董の鑑賞、日本画の筆法の手ほどきをうける。
1902年 父が第一国立銀行大阪支店長となったため一家は大阪に移り住み、愛日小学校に通う。
1904年 父・一彦が没したため、母と姉・幸子、弟・弘とともに東京にもどり、麻布に居をもとめ、鞆絵小学校に転校する。
1905年 麻布中学校に入学する。
1910年 麻布中学校を卒業する。母・欣子没す。
1911年 この頃、葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に素描を学び始める。
1912年 この頃、さらに本郷洋画研究所に入り岡田三郎助藤島武二に油絵を学び始める。文学雑誌『聖盃』の同人となる。
1913年 我国の伝統的木版画と異る、丸ノミを用いて描く如き方法による自画自刻の創作板目木版画や木口木版画・銅版画を制作し始める。『聖盃』は『仮面』と改題され、永瀬義郎とともに同誌の表紙、口絵等に木版画を作り、また短歌雑誌『水甕』の表紙や文学書の装幀にたずさわる。以後、板目木版画、木口木版画、銅版画の研究・制作に専念する。
1914年 この頃、フランスから銅版画用印刷機や付属道具一式をとりよせ、来日中のバーナード・リーチに銅版画技法についてたずねた。
1916年 永瀬義郎、広島新太郎(晃甫)とともに我国はじめての版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、東京・ミカド楼上及び読売新聞社において創作版画展を開催する。
1917年 日夏耿之介の第一詩集『転身の頌』に木版挿画及び装幀等をする。また堀口大学詩集及び多くの訳詩集に挿画、装幀をする。
1918年 11月、第一次世界大戦終結し、12月30日、春洋丸で横浜港を出帆しアメリカ経由でフランスに向かう。
1919年 4月 3日、フランス・アーブル港に入り、翌日パリに安着する。この年10月から1921年まで、健康回復のため南仏カンヌとカーネに滞在、またブルターニュ、アルカッション等に旅行し、油絵の外に木口木版、石版、銅版等あらゆる版画技法を研鑽する。
1922年 イタリアに旅行後、パリ18区の7Rue Montc-almに住居を定める。
1923年 この年からサロン・ドートンヌ(Salon d’Au-tomne)に出品し、漸次他のサロン及び展覧会へ油絵並びに版画作品を発表する。
1924年 第一次世界大戦後のフランス版画壇に大きな影響を与えたソシエテ・デ・パントル・グラヴール・アンデパンダン(Societe des Peintres Graveurs Independants)にデュフィーの勧誘により入会する。マチス、ピカソ、ドラン、スゴンザック、ヴラマンク、シャガール、マリー・ローランサン、デュフィー等、当時の新進画家団体である同協会展には、解散する1935年まで毎年作品を発表する。フランスにおいて当時ほとんど試る者のない、かつて17世紀オランダにおいて創始された特殊銅版画技法マニエール・ノワール(Maniere noire)<メゾチント>を苦心研究、かつクラシックな細点刻下地の外に、交叉線による独特の技法を創案し、近代的表現をもって復興、また誰も試みなかった純粋の風景画をマニエール・ノワールで制作し、フランス画壇に認められる。
1925年 パリのヌーヴェル・エソール(Nouvel Essor)画廊において版画の第1回個展を開催し、滞仏中の東久迩宮殿下の来観を受け、作品を買上げられる。この年多数の銅版画を制作し、サロン等に出品する。
1926年 フランス政府自治減債基金のため、パリ・ミディ新聞社主催のサロン・デュ・フラン(Solon du Franc)がガリエラ美術館(Musee Galliera)で開催され、指名出品により作品献金をする。出品の銅版画大作は当時パリの外国作家美術館であったジュ・ド・ポーム美術館(Musee de Jeu de Paume)の所蔵となり、ジョッフル元帥(Marechal Joffre)から礼状を受ける。また同年フランス政府救済を意味するパトリオティク・プール・ル・ルレーヴマン・デュ・フラン展覧会(Exposition Patriotique pour le Relevement du Franc)にも寄贈出品をする。サロン・ドートンヌの版画部会員に当選する。
1927年 東京で開催されたデルスニス招来の第1回仏蘭西現代美術展にフランス美術家作品中に、藤田嗣治とともに加えられ、渡欧後の作品が初めて日本で展観される。スイス・チューリッヒのギャルリー・ヴォルフスベルグ(Galerie Wolfsberg)において在仏日本美術家展が開催され、作品を出品し、展覧会の広告アフィッシュの図案並びにカタログの装幀をする。サロン・ドートンヌ等に出品する。東京での出版の『日夏耿之介定本詩集』(3巻)のため表紙用木口木版画3点、挿絵銅版画9点を制作する。
1928年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー(Salon des Tuileries)、サロン・デ・ザンデパンダン(Salon des Independants)、ギャルリー・ズィヴィー(Galerie Zivy)における日本美術家展、イギリスのマンチェスター展等に出品するほか、ソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボア・オリジナル(Societe des Graveurs sur Bois Original)展に出品し、同会会員に挙げられ、また春陽会々員となる。
1929年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、サロン・デ・ザンデパンダン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ(Societe des Peintres Graveurs Francais)展及びギャルリー・オドゥベール(Galerie Hodebert)における日本美術家展等に出品する。ビブリス誌31号(Miroir des Arts du livre et del’Estampe,31eFascicule“Byblis”)に銅版画オリジナル2点を挿入する。“Kiyoshi Hasegawa, Graveur Japonais”(P.J.Angoulvent 紹介文執筆)がパリのアルベール・モランセ(Albert Morance)書房から出版される。
1930年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、ギャルリー・ザック(Galerie Zack)の日本美術家展、ジュネーヴにおけるソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボワ・オリジナル展、春陽会展等に出品する。パリにおける第1回「航空と美術」国際展(Exposition “L’Aeronautique et L’Art”)に銅版画数点を出品、航空大臣1等賞金を獲得し、フランス航空クラブ(Aero Club de France)により「ニューヨーク上空のポアン・ダンテロガッション号)作品20点が買上げられる。パリのリブレリー・ド・フランス(Librairie de France)から出版の豪華限定版、26人短篇集“D’Ariane a Zoe”にデュフィー、スゴンザック、マリー・ローランサン、ブッサンゴウ、イーブアリッキス等とともに石版画挿画を担当する。ヌーヴェル・ルヴュー・フランセーズ(Nouvelle Revue Francaise)書房から出版のThomas Raucat著“L’Honorable Partie de Campagne”の銅版画口絵の制作を依頼される。パリのEdouard Joseph出版の『現代美術家辞典』(“Dictionnaire Biographique des Artistes Contemporains”)1930年版中に作品が掲載される。
1931年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及び春陽会展等に出品する。日本において日本創作版画協会が解散し、新たに日本版画協会が創立され会員となる。パリのラ・ジラフ書房(Editions de la girafe)から出版の“Les Colonies Francaises”にフランスの画家20名とともに挿画を担当する。
1932年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、サロン・ド・ルーヴル・ユニック(Salon de L’CEuvre Unique)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ザックでの展覧会、マドリッド及びシカゴでの展覧会、日本版画協会展、春陽会展等に出品する。ソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボワ・オリジナル出版の『フランス民謡集』(“Chanson Populaires Francaises”)中の第5集「支那の夜」(“Nuit de Chine”)に木口木版画挿画をする。イタリアに旅行する。
1933年 パリ・装飾美術館(Musee des Arts Decoratifs)におけるフランス版画30年展(Trente Ans de Gravure Francaise-de 1900 a 1933)、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びワルシャワにおいて開催の第1回国際創作木版画展(1erExposition Internationale de la Gravure sur Bois Originale)等に出品する。パリ・日本大使館に在任中の本野盛一子爵の仏訳『竹取物語』に銅版画(ビュラン刻)で多数の挿画をなし、元駐日フランス大使ロベール・ド・ビリー(Robert de Billy)氏を会長とするリーヴル・ダール協会(Societe du Livre D’Art)から“La Legende de la Demoiselle de Lumiere”の書名で豪華限定出版される。
1934年 サロン・デュ・タン・プレザン(Salon du Temps Present)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、及びアンヴェール市(Anvers)における展覧会等に出品する。フランスにおいて浮世絵版画から現代版画に至る日本の版画展を開催したことがなく、広重以後の作家について全く知られていないため、1931年頃から日本近代版画展の開催を立案しフランス当局と交渉してフランスにおける一切の準備を引きうけていたところ、これを機に岡田三郎助を会長として日本版画協会が創立され(1931)、当時パリ滞在中の岡田三郎助とフランスの国立工芸美術館長並びにフランス大使ロベール・ド・ビリーと最終打合せをし、東久迩宮殿下を総裁に戴き、日仏両国政府後援のもとに“L’Estampe Japonaise Moderne et ses Origines”と題する日本近代版画60点に及ぶ大版画展が実現する。パリにおける日本版画協会代表、文部省嘱託として、仏文カタログの作成と序文を執筆するなど大いに尽力し、予期以上の成功を収め、翌年リヨン、ジュネーヴ、ワルシャワ、ベルリン、マドリッドの各都市において開催、それぞれ好評を博し、欧米各国への我国文化紹介に貢献する。また、『アール・エ・メチエ・グラフィック』(“Arts et Metiers Graphique”)第40号に「日本版画展」(L’Exposition d’Estampes Japonaises)と題する紹介文を執筆する。パリのアルベール・レヴィ書房発刊の美術雑誌『アール・エ・デコラシォン』(Arts et D’ecoration)3月号にアンリ・エルツ(Henri Hertz)執筆の長谷川潔論が掲載される。
1935年 プチ・パレ美術館で開催の現代美術家展(Exposition des Artistes de ce Temps)、サロン・デュ・タン・プレザン、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。パリ市に作品が買上げられる。スペインに(7月29日から10月2日まで)旅行する。フランス政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール(Chevalier de laLegion D’Honneur)勲章を授与される。在パリ日本大使公邸におけるフランス大統領アルベール・ルブラン氏並びにルブラン夫人招宴の夜会のために、献立及びプログラム用の銅版画を作成し、同夜佐藤尚武大使から大統領と夫人に紹介され、同版画2点を献呈する。
1936年 ジュネーヴ及びマドリッドにおいて日本近代版画展を開催する。ポワチエ市(Poitiers)における展覧会並びにソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品し、フランス文部省に作品を買上げられる。また、北米における版画展に出品する。パリのフォンダッション・ロチルド会場における我国人形使節の日仏協会(Societe France-Japonaise)のレセプションのために招待状銅版画を作成する。
1937年 リヨン、ワルシャワ、ベルリンにおいて日本近代版画展を開催する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、セルクル・ド・ラ・リブレリー(Cercle de la Librairie)展、ギャルリー・ド・パリ(Galerie de Paris)での展覧会等に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセの会員に挙げられる。パリ・国際大博覧会「美術と技術」展第54部に招待出品し金賞牌を獲得する。パリに開催の国際版画会議に日本側代表者として出席、イエナ公会堂においてスライドを用い現代日本版画について講演をする。国立図書館版画部長ルモワンヌ(P.A.Lemoinne)の序文を付し、1929年から1936年に至る自選銅版画原作15点を収めた銅版画集“Garvures de Kiyoshi Hasegawa”を出版する。大英博物館版画部にアクアチント技法による銅版画「二つのアネモネ」(1934)が買上げられる。パリのデュシャルヌ絹商(Soierie Ducharne)で数種の銅版画草花図を絹裂地に模様化する。
1938年 サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ベルフォール市美術館(Musee de Belfort)、ボルドー市美術館(Musee de Bordeaux)や、シカゴでの展覧会、スーヴニール・ド・パリ(Souvenir de Paris)展、ギャルリー・ベルネーム・ジュヌ(Galerie Bernheim Jeune)における日本美術家展、春陽会展、日本版画協会展等に出品する。パリ市に作品が買上げられる。杉村陽太郎大使がパリ公邸にフランス大統領アルベール・ルブランを招宴するにあたり、献立及び夜会プログラム用の銅版画を作成する。パリ市へ「アレキサンドル三世橋とフランス飛行船」(1930)を寄贈する。パリ18区から14区3.Villa Seuratの現住所に移転する。
1939年 リル市におけるプログレ・ソシアル展(Exposition du Progres Social)、ギャルリー・ベルネーム・ジュヌ、ギャルリー・シャルパンチエ(Galerie Charpantier)及びシカゴでの展覧会等に出品する。フランス文部省に作品が買上げられる。第二次世界大戦勃発の風雲急となり、8月24日ついに動員告示、国内が騒然となったため、12月サルト県の斎藤豊作宅(Chateau de Venevelles)に疎開し、ル・マン(Le Mans)市の美術館長を知り、銅版画「ヴェヌヴェル風景」をル・マン市美術館に寄贈する。
1940年 3月、ヴェヌヴェルからパリに帰る。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びスイスでの展覧会等に出品する。パリが危険となったため、フランス政府がボルドーへ移ったのに伴い、日本大使館も同行、同胞約10名とともに大使館の自動車に同乗してパリを脱出、ボルドーに安着、続いてビヤリッツ市に移る。フランス政府、日本大使館がさらにヴィッシイへ移転したのち、9月4日パリに帰る。パリは占領地帯となり、食糧不足、生活増々困難となる中で制作を続ける。
1941年 パリは石炭欠乏、寒冷のため大いに降雪、市民の生活は更に困難を加え、しばしば病臥、喘息発作に苦しみつつ制作を続け、ギャルリー・シャルパンチエにおけるラ・ファム・エ・レ・パントル・エ・スキュルプトゥール・コンタンポレーン(La Femme et les Peintres et Sculpteurs Contemporains)展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・デ・チュイルリー、ギャルリー・ギオー(Galerie Guiot)における在パリ日本美術家10人展及びリエージュ市(Ville de Liege)での展覧会等に出品する。フランス文部省並びに国立図書館版画部に作品が買上げられる。
1942年 ギャルリー・シャルパンチエに開催の「水彩画1世紀)(Un siecle d’Aquarelles)展、「コローから今日までのフランス風景」(Le Paysage Francais de Corot a Nos Jours)展、「今日の浪漫的な花と果実」(Les Fleurs etles Fruits du Romantisme a Nos Jours)展、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ドラゴン(Galerie Dragon)、ギャルリー・ド・ベリ(Galerie de Berri)及びオルレアン市美術館(Musee d’Orleans)での展覧会等に出品する。ギャルリー・シャルパンチエにおいて12点の油彩草花図による個展(12Bouquets d’Hasegawa)を開催、好評を博し全作品売約となり、フランス文部省に作品が買上げられる。在仏同胞とともに家族一同日本へ国防献金をなす。
1943年 ギャルリー・シャルパンチエに開催の「フランスの庭」展、静物画(草花と果実)展、水彩画展、小品展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びオルレアン市に開催の水画展等に出品する。また、パリのオルフェーブルリイ・クリストフル(I’Orfevrerie Christofle)において開催の銀製品展覧会に図案を自ら彫った銀製大皿と銀製煙草入れを出品する。12月9日、パリにおいてミシェリーヌ・ビアンシ(Micheline Bianchi)と結婚する。
1944年 ギャルリー・シャルパンチエにおける水彩画展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グランヴール・フランセ展、ブザンソン(Besancon)市に開催の展覧会、ボルドー市のギャルリー・ゴヤ(Galerie Goya)での展覧会等に出品する。また、オルフェーブルリイ・クリストフルにおけるスポーツ展にテニスとフェンシング等の図案を彫った銀製品を出品する。8月15日頃からパリは数日間無警察状態となり、市内各所で流弾による死傷者が出るなどの中で自宅も襲われ、身辺に危険を感じ一時他所に難をさける。まもなくフランス軍先頭部隊がパリに入り、1ヵ月後自宅にもどる。
1945年 フランス現代作家5名とともに各自異る技法による銅版画を制作し、国立図書館版画部のアデマル(Jean Adhemar)の紹介文を付した限定版画集『銅版画』(“La Gravure sur Cuivre”)第1巻がアンジェ(Angers)市のジャック・プチ(Jacques Petit)書房から出版されたが、日独伊敗戦の結果同胞とともにパリの中央監獄及びトランシイの収容所(Camp de Drancy)に次々収監され、版画集も収容所で署名する。病弱の身体で苦難を味わうが、フランス知人有力者の尽力により約1ヵ月後無事出所する。7月に帰宅後もある期間警察に出頭、絶えず看視される生活を続け、心身ともに疲労しほとんど制作を停止する。
1946年 精神的打撃が徐々に薄らぎ漸次制作を始め、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。アシェト(Hachette)書房出版の雑誌『フェミナ』(“Femina”)に挿絵をする。夏期、ラニイ・ル・セック(Lagny le Sec)の村に滞在して多くの油絵を制作する。フランスの内務大臣事務室に掛けるため「瓶に挿したる罌粟」(油絵50号)1点とフランスの各省庁用として銅版画20点が、フランス文部省に買上げられる。
1947年 ギャリルー・シャルパンチエにおけるイタリア風景展、サロン・ドートンヌ等に出品する。夏期、ヴィレーヌ・ラ・ジュエル(Villaines la Juhel)及びシブール(Ciboure)に滞留して多数の油絵を制作する。アメリカのニューヨーク図書館版画部に銅版画「コップに挿したる野草」が買上げられる。
1948年 オルレアン市において油絵および銅版画の個展を開催する。サロン・ドートンヌに油絵2点、版画4点を出品し、既に版画部会員であったがさらに油絵部会員に当選する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。フランスの国立図書館版画部に版画作品が、フランス文部省に油絵静物画1点と銅版画12点が買上げられる。
1949年 プチ・パレ美術館に開催の国際現代版画展に、日本からは不出品のためフランス版画部の一員として出品する。サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会(Societe “Le Trait”)展、ユニオン・デ・ザール・プラスティックの「白と黒」(Union des Arts Plastique “Blanc et Noir”)展及びギャルリー・ラスパイユ(Galerie Raspail)での展覧会等に出品する。フランスの国立図書館版画部に作品が買上げられる。
1950年 東京と大阪で初めて開催された第1回フランス現代版画展覧会にフランス側から招待され参加出品する。ルーアン市美術館に開催の現代創作版画展、アソシアシオン・アミカル・エ・プロフェッシオネル・ド・グラヴュール・ア・ローフォルト(“Association Amicale et Professionnelle de Gravurs al’EauForte”)銅版画展、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、ギャルリー・ラスパイユでの展覧会等に版画を、ユニオン・デ・ザール・プラスティックの「庭と花と果物」展に油絵3点を出品する。フランス文部省に作品が買上げられる。
1951年 アミアン市(Amiens)に開催のル・トレ協会展、サロン・ド・メ(Salon de Mai)、フランス版画展、セルクル・ヴォルネ(Cercle Volney)におけるパリ展、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ラスパイユにおけるル・トレ協会展、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー(Salon du Dessin et de la Peinture al’Eau)等に出品し、フランス文部省に作品3点が買上げられる。ルーヴル美術館版画部銅版彫刻部門(Chalcographie)にビュラン刻銅版画「コップに挿した野花(春)」「コップに挿した種草(秋)」特別刷並びに銅原版2点が買上げられる。
1952年 ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ル・トレ協会展、カールスルーエ(Karlsruhe)における国際グラフィック美術展、ギャルリー・エリアン・ノルベルグ(Galerie Eliane Norberg)等における諸展並びにパリ市主催のバガテル(Bagatelle)の薔薇展に油絵と版画を出品する。日本における毎日新聞社主催の日本国際美術展に出品し、春陽会展に現代フランス版画陳列のためフランス版画家の選定とその作品発送等に尽力する。パリ市に作品が買上げられる。
1953年 サロン・デ・ザルティスト・デコラトゥール(Salon des Artistes Decorateurs)、サロン・ドートンヌ、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ルーアン市開催の展覧会、ル・トレ協会展、ランス市(Reins)における現代版画家12人展及びミラノ市における現代フランス版画展に出品する。ランス市に「窓辺の花瓶」、フランス文部省に作品3点が買上げられる。東京サエグサ画廊及び名古屋において個展を開催する。ミラノのラ・マンドラゴラ・エディトリス(La Mandragora Editrice)書房から出版されたガブリエル・マンデル(Gabriel Mandel)著『現代フランス版画』(“L’Incision Francais Contemporanea”)中に掲載される。
1954年 サロン・デ・ザルチスト・デコラトゥール、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ル・トレ協会展及びドイツでの展覧会等に出品する。オルレアン市及び大阪・富士川画廊において個展を開催する。ベルネ夫人(madame Paul Bernet)からパリに版画アカデミーの設立依頼を受けるが種々の理由のため承諾せず、のちヘイター(Hayter)版画研究所が開設された。パリのファロス(pharos)出版の『現代フランス人名辞典(1954-1955)』(“Dictionnaire Biographique Francais Contemporain”)に掲載され、また米国の美術館に作品が買上げられる。
1555年 プチ・パレ美術館におけるフランス在住外国美術家展に油絵を出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・ドートンヌ、ル・トレ協会展、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー展及びセルクル・ヴォルネ(Cercle Volney)に開催の在パリ日本美術家展に出品し、東京サエグサ画廊で第2回版画個展を開催する。フランス大統領のエリゼ宮における外国貴賓招宴のための献立用小型銅版画を制作する。
1956年 パリ市美術館における第1回国際現代造形美術展、フランス並びに諸国美術展に油絵及び版画を出品する。また、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・テール・ラタン(Solon des Terres Latines)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、リエージュ市(Liege)及びネヴェール市(Nevers)に開催の展覧会等に出品する。また、東京・ブリヂストン美術館、神戸市立美術館で開催の展覧会、朝日新聞社主催第1回日仏具象作家協会展、春陽会展、明治大正昭和名作美術展に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセの晩餐会献立用銅版画作成を委嘱される。東京サエグサ画廊及び大阪富士川画廊において版画個展を開催する。フランス文部省に作品7点が買上げられる。
1957年 パリ市美術館におけるサロン・デ・テール・ラタン及び国立近代美術館におけるソシエテ・ラ・ジュヌ・グラヴュール・コンタンポレーン(“La Jeune Gravure Contemporaine”)展に出品し、かつ同展に日本現代版画30点を特別陳列する。また、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、セルクル・ヴォルネにおける在仏日本美術家展、ランス市立図書館で開催の版画展、東京で開催の日仏具象作家協会展、第1回東京国際版画ビエンナーレ展、日本版画協会展、春陽会展及び神奈川県立近代美術館主催ユーゴスラヴィア版画展等に出品する。フランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。パリの美食家協会(Les Compagnons de la Belle Table)のために献立用小品銅版画を制作する。
1958年 サロン・ドートンヌ、サロン・ダール・リーブル(Salon d’Art Libre)、サロン・デ・テール・ラタン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、トゥールーズ市立図書館における出版展(Exposition d’Edition)、ル・トレ協会展、ガリエラ美術館(Musee Galliera)における在仏日本美術家展、コンピエーニュ(Compiegne)における日本美術家展等に出品する。東京・中央公論社画廊において1915年から1957年に至る回顧展を開催する。フランス文部省に6点、パリ市に2点の作品が買上げられる。
1959年 パリに開催の第1回国際フロラリイ(Floralies Internationales)展、サロン「ランコントル」(Salon “Rencontres”)に油絵を出品する。ル・トレ協会展、国立近代美術館におけるソシエテ・ラ・ジュヌ・グラヴュール・コンタンポレーン展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ディジョン市(Dijon)及びワシントンにおける展覧会、東京における日仏具象作家協会展に出品する。名古屋で個展を開催する。パリ市に作品が買上げられる。
1960年 サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品し、会員に当選、版画賞を受ける。サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、モントーバン(Montauban)、ストラスブール(Strasbourg)、マルセイユ、パリにおける版画展等に出品し、神戸の藤田画廊において版画個展を開催する。ミュルーズ市(Mulhouse)版画協会の所望により「小鳥と木の根」を制作する。フランス文部省に「玻璃球のある静物」が買上げられパリ近代美術館所蔵となる。また、パリ市に作品が買上げられる。パリ出版の『ル・クーリエ・グラフィック』(“Le Courrier Graphique”)107号にJ.R.トメ(J.R.Thome)執筆の長谷川潔の紹介文が掲載される。
1961年 サロン・ドートンヌ1961年度展覧会の鑑査員に推薦される。サロン・ナショナル・デ・ボザール、アミアン市(Amiens)及びナンシイ市に開催の展覧会に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展に出品し、同協会の委嘱によりオー・フォルト技法による風景銅版画を制作する。ガリエラ美術館に開催の在仏日本美術家展に油絵と版画数点を出品し、パリ市に2点が買上げられる。
1962年 ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、サロン・ナショナル・デ・ボザール、ギャルリー・デ・パントル・グラヴールでの展覧会、東京国際版画ビエンナーレ展、国際具象展、春陽会展等に出品し、東京・大丸画廊で版画個展を開催する。日本の文部省芸術課に昭和37年度秀作として作品2点が、またフランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。
1963年 サロン・ナショナル・デ・ボザール、パリとニューヨークで開催のソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ブタペストで開催の国際版画展、ギャルリー・ダール・ル・パルナス(Galerie d’Art le Parnasse)における8人展、ルーアン市に開催の「ピカソからビュッフェまでのフランス創作版画展」、サルラ市(Sarlat)での展覧会等に出品し、名古屋・横浜・関内ギャラリー及びパリのギャルリー・サゴ・ル・ガレック(Galerie Sagot le Garrec)で個展を開催する。国立図書館版画部、フランス文部省及びベルフォール美術館(Musee de Belfort)に作品が買上げられる。パリのマヌエル・ブルッケール出版社(Edition Manuel Bruker)から「現代版画の巨匠」豪華限定版叢書『長谷川潔の肖像』(銅版画オリジナル10枚挿画入)がトリスタン・クランソール(Tristan Klingsor)序文、ロベール・レイ(Robert Rey)著で出版される。ソルボンヌ大学チェルゴ講堂に開催の「銅版画におけるエステチックとテクニックの関係に就て」の講演にマニエール・ノワール銅版作品「薔薇と時」がスライドで映写される。
1964年 フランス芸術院コレスポンダン会員(Member Correspondant de l’Academie des Beaux-Arts)に当選し、学士院会議室において銅版画作品30余点を展覧する。フランス文部省からフランス国立美術学校1964年度版画科卒業制作試験官に任命され、フランス人教授とともに学生の作品を採点する。サロン・ナショナル・デ・ボザールの1964年度展覧会鑑査員に選ばれる。フォンテンブロー美術館(Musee de Fontainebleau)における米国の学生夏期講習学校に招かれ、学生のためにマニエール・ノワール銅版画作品を展覧し、デヴィノイ(Devinoy)校長が技法について説明する。ローマ日本文化会館に開催の日本美術家展、ブリュッセルにおける現代フランス版画展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展等に出品、フランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。また、日本の東京国際版画ビエンナーレ展、現代日本美術展、選抜秀作美術展、日本版画協会展及び春陽会展に出品し、横浜・関内ギャラリーで個展を開催する。
1965年 ポワント・エ・ビュラン(Pointe et Burin)版画協会1965年展に「長谷川潔頌」(Hommage a Kiyoshi Hasegawa)特別陳列をする。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ヴァンヌ美術館(Musee le Vannes)における版画展、ル・トレ協会展、ニューヨークにおける版画展、東ドイツでの版画展、第14回パリ市長展(La Mairie des XIVe de Paris)等に出品し、また日本版画協会展、美術出版社「戦後20年日本版画展」、国立近代美術館で開催の在外日本作家展、選抜秀作美術展に出品する。8月18日から10月4日までイタリアに旅行する。
1966年 フランス外務省を通じ文化省からフランス文化勲章(L’ordre des Arts et Letrres)授与の通知を受ける。サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品しマレ賞金(Prix Marret)を授与され、また現代日本美術展出品の「メキシコの鳩 静物画」が特別賞を受ける。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・テール・ラタン、ヴァルレア市(Valreas)での版画展、ジュネーブにおける日本版画展、国立図書館版画部主催の北アフリカとレバノンにおける版画展等に出品する。また東京国際版画ビエンナーレ展、選抜秀作美術展に出品する。シャトー・ド・フォンテンブロー(Chateau de Fontainebleau)における米国の学生夏期講習学校に招かれ、学生のためにマニエール・ノワール銅版画の展覧をする。『長谷川潔の肖像』天覧を賜わる。フランス出版の『ラルース大百科辞典』に姓名と銅版画の仕事について採録される。
1967年 サロン・ナショナル・デ・ボザール、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、オルレアン市に開催の国際フロラリイ展、ヴァンクーヴァーとルーマニアに開催の版画展、アソシアシオン・フランセーズ・ダクシオン・アルティスティック(“Association Francaise d’Action Artistique”)展等に出品、また日本国際美術展、春陽会展、日動画廊に開催のパリ展に出品し、東京松屋において銅版画個展を開催する。パリ市長からパリ市の金賞牌(La Medaille de Vermeille de la Ville de Paris)を授与され、日本から勲三等瑞宝章叙勲の報に接する。
1968年 1月 25日、パリの松井明大使公邸において瑞宝章授与式が行われる。ピッツバーグのカーネギー・メロン大学における国際20世紀植物画及び挿画展に出品、同大学のハント植物学ライブラリーに版画3点と『長谷川潔の肖像』が買上げられる。ル・トレ協会展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ主催のドイツ・ケルンにおける版画展、ギャルリー・デ・パントル・グラヴール主催のワシントンにおける版画展、フォンテンブローにおける日本美術展、東京の日動画廊の太陽展等に出品、また東京大丸美術部、プリンスホテル画廊及び京王百貨店において版画個展を開催する。美術出版社から1968年度「長谷川潔版画カレンダー」が出版される。ジャック・ラフィット出版社(Edition Jacques Lafitte)刊行の『フランス人名辞典』(“Who’s who in France”)に採録される。
1969年 ル・トレ協会展、カルヴァドス(Calvados)とドイツにおける版画展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・デ・パントル・グラヴールにおける「1000の版画」展及びミュルーズ市役所における「日本の日々1969」(Journees Japonaises 1969)展等に出品し、市立図書館に作品2点が買上げられる。また日本における国際形象展、現代日本美術展、日動画廊の太陽展、春陽会展、日本版画協会展に出品する。
1970年 国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、ギュスターヴ・ルーシー研究所における展覧会等に出品する。また日本における国際形象展に出品する。フランス国立貨幣・賞牌鋳造局において既に葛飾北斎と藤田嗣治の銅牌が作成されたが、日本の画家の3人目として長谷川潔の肖像を浮彫にしたメダルの鋳造が決定する。メモリアル出版社(Editions du Memorial)刊行のエドモン・デュ・サルス著『偉人功績録』(“Livre d’Or des Valeurs Humaines”)及びジャック・ラフィット出版社刊行の『フランス人名辞典(1969-1970)』に採録される。
1971年 ヴィロフレ・イヴリーン(Viroflay-Yvelines)における20世紀版画展、ラ・ヴィル・ド・サン-ブリウク(La Ville de Saint-Brieuc)におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品、またストックホルムに開催の小品版画展、東京の国際形象展に出品する。フランス国立貨幣・賞牌鋳造局において造られるメダル表面の肖像浮彫をチゾン・ミッシェル夫人(Tison Michel)が担当し、裏面の図案浮彫等を作家自身が制作を委嘱され、1972年春に鋳造が確定する。パリのアンパニタン書房(Inpenitent)から出版のマルセル・ベアリュ(Marcel Bealu)短編集“Ville Volante”の口絵を担当する。京都国立近代美術館における回顧展の開催及び版画集出版等の計画実現のための準備にとりかかる。
1972年 京都国立近代美術館及び東京国立近代美術館で開催の「ヨーロッパの日本作家」展にマニエール・ノワール作品11点を出品、全作品が京都国立近代美術館に購入される。
1973年 河出書房出版の『日夏耿之介全集』に版画挿画を担当する。同全集は造本装幀コンクールにおいて最高賞の文部大臣賞を受ける。
1976年 横浜市長から日仏両文の感謝状と黄金の鍵を授与される。
1978年 フランス彫刻家ジョルジュ・ゲラール(Georges Guerard)作成の長谷川潔の胸像(ブロンズ)が横浜市民ギャラリーの所蔵となる。
1979年 横浜市民ギャラリーにおいて版画個展が開催される。
1980年 大阪・フラワーコレクションギャラリー及び大阪フォルム画廊(東京、大阪)、東京松屋において版画個展が開催される。
京都国立近代美術館で<長谷川潔展>開催される。
(本年譜は<長谷川潔展>目録(1980年6月、京都国立近代美術館)所収の年譜から、主要事項を転載した。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(267-275頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「長谷川潔」『日本美術年鑑』昭和56年版(267-275頁)
例)「長谷川潔 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9970.html(閲覧日 2024-04-26)

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