墨跡水墨画国宝展

1957年09月

毎日新聞社では一〇日から一九日まで日本橋白木屋に於て、宋元及び鎌倉室町の墨蹟、水墨画の有名品を展観した。

東寺総合調査

1957年09月

朝日新聞社と東寺の協力により文化財保護委員会では東寺の霊宝蔵、宝蔵、三密蔵、金剛蔵の四宝庫の収蔵品をしらべる総合調査を、一二日から二八日まで行つた。総数二六〇〇点に及ぶ寺宝のうち、新しく国宝、重要文化財の候補と目されるものは約三〇点程あつた。

ABC賞

1957年08月

アド・アート・ディレクターズ・クラブでは同クラブ編「年鑑広告美術」に収載した作品中からABC賞を次のように決めた。 金賞-大橋正、銀賞-伊藤憲治、今泉武二、亀倉雄策、河野鷹思、竹岡良一、中井幸一、銅賞-石元泰博、北園克衛、花森安治、早川良雄、山城隆一他

造形芸術研究所設立

1957年08月

写真ライブラリーによる日本美術の出版などを行う造形芸術研究所が設立され、従来美術出版社より出されていた美術雑誌「三彩」が、総合美術雑誌として同所より発行されることになつた。

高村光太郎賞設定

1957年09月

高村光太郎記念会では、一〇日新しく高村光太郎賞を設定することを発表した。これは毎年彫刻と詩の二部門で優秀作品を発表した作家各一名におくられるもので、第一回は来年三月一三日故人の誕生日に発表され、れんぎようを愛好したことにより「連翹忌」と名づけた命日の四月二日に授賞が行われる。賞は「針は天極をさすいくら回されても」と刻まれた光太郎の木彫を原型にした盆と、副賞一〇万円で、賞金は遺族の提供した高村光太郎全集の印税約二〇〇万円の全額があてられる。

ソ連博物館長来日

1957年08月

ソ連で開催予定の日本工芸美術展に出す約五〇〇点の作品を審査するため、ソ連からプーシキン記念国立造形美術博物館々長Z・A・イバノビッチと東方文化博物館の極東文化課長G・O・ニコライエブナ女史が二七日来日した。

欧州展出品品目決定

1957年08月

明年欧州各地で開催の日本古美術展に出品される宝物の審議会が二七日国立博物館で開催され、絵画六五件、彫刻二七件の総数九二件、一四三点を決定した。

醍醐寺五重塔壁画模写

1957年08月

醍醐寺五重塔壁画の模写が、三二、三三年の継続事業で一三日から開始された。今年度は真言八祖と羽目板の天部の一部を一一月までに完成し、続いて来年度は心柱の覆板を行う予定。担当画家は鳳凰堂を担当した諸氏である。

毛越寺跡第三次発掘調査

1957年08月

二七日から九月一七日まで、毛越寺の第三次発掘が行われ一先す終了した。結果は1講堂の基壇が木造であつたこと、2嘉祥寺の西廊跡は単廊と複廊とからなり、下に堀水が流されていたこと、3大泉池東北部の常行堂前渚に舟入場とみられる入江が発見され、平安時代の庭園史に極めて重要な資料であることが明かにされた。

陸奥国分寺跡発掘

1957年08月

昭和三〇年からの継続事業として一日から二九日まで行われ、今年は七重塔の廻廊あとが発見された。奈良東大寺の様式を忠実に模し全国六九国分寺のうち最大と目されていたものであるが、これによつて、みちのくの信仰と栄華をあつめていたことが明らかになつた。

国際美術協議会発足

1957年08月

美術の国際交流を促進するため外務、文部両省及び文化財保護委員会などの国内美術機関代表が集つて国際美術協議会を作ることになり七日その発会式が行われた。委員長に学習院大教授富永惣一が決まり、事務局は当分国際文化振興会に置かれることになつた。

マチウ来日

1957年08月

フランスのアンフォルメル派に属する画家ジョルジュ・マチウが、日本で個展をひらくため二十九日来日した。展覧会は九月三日から九日まで日本橋白木屋で開催され、「禅」「鎌倉時代」等日本歴史に取材した風変りな題名の作品は人々の注目をひいた。

伊豆諸島の文化財調査

1957年07月

北伊豆諸島文化財総合調査団は前年度の御蔵、三宅両島調査に引続き、一三日から二九日まで利島、大島、新島、式根島、神津島の五島の文化財調査を行い、住居址の発掘、土器の発見のほか、一木造の平安時代仏像二五体を発見した。

ギメー博物館寄贈品展

1957年07月

日仏文化交流の一環としてさきにパリのギメー博物館から寄贈された美術品二二点が二日から一四日まで東京国立博物館で展示された。ハッダの仏頭など八点、トムシュクの泥造一〇点、クムトラの塑像一点、敦煌の麻布二菩薩像一点、、薄絹菩薩像二点で、いずれも四、五世紀から七、八世紀の学術的に非常に貴重な作品である。

衆議院文教委員会で美術行政を追求

1957年07月

九日行われた衆議院文教委員会で、社会党代議士高津正道委員は、政府の美術行政を追求した。芸術院の在り方、日展運営上の問題等が質問の中心であつたが、これに対し宇野文部省芸術課長が答弁にあたつた。なお同様質問がその後一〇、一二日の委員会でも引つづき続行され、一二日には高橋芸術院々長が出席して質疑応答が行われた。この事態は報道関係にも大きく扱われ、斯界にセンセーショナルな話題をなげ世間一般にも大いに注目をひくところとなつたが、その後日展改革問題は高津発言に端を発して種々対策が協議された。その結果、来年より日展、芸術院を分離し、また運営会の改善等が協議された。その結果、山崎覚太郎松田権六山鹿清華の三理事は事態の責任をとつて院長に辞表を提出したが、結局岩田藤七理事の辞任があつて三名の辞表は撤回されることになつた。なほ九月二八日の日展運営会臨時総会で、芸術院との分離は正式に決定された。

シエルデザイン賞設定

1957年07月

さきにシエル美術賞を設けたシエル石油会社では、今回デザイン賞を設定した。グラフィックデザインを公募して、授賞は一等一点一〇万円、二等一点五万円、三等四点各一万五〇〇〇円とし、九月授賞の発表が行われた。結果は次の通り、 一等-「働らく人」田保橋淳、準二等「石油」甲斐重夫、「海のファンタジー」伊坂芳太良、三等「石油」岩本朝彦、「石油」福田繁雄、「立体交差」高田宗治

東南アジア稲作民族文化総合調査団結成式

1957年07月

日本民族学協会主催、読売新聞社後援による東南アジア稲作民族文化総合調査は、九月一日からタイ、カンボジャを中心に開始されたが、その調査団結成式が六日東京会館で行われた。調査団は松本信広慶大教授を団長に、カンボジヤ班(班長松本団長兼務)とタイ班(班長阿部利夫東京外語大教授)の二手に分かれ調査がすすめられた。

谷中天王寺五重塔焼失

1957年07月

東京谷中の天王寺五重塔は六日未明放火により黒こげの骨組だけを残して全焼した。寛政三年(一七九一)の再建になり、総ケヤキの素木造で、幸田露伴の「五重塔」のモデルであつた。

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