早川良雄

没年月日:2009/03/28
分野:, (デ)
読み:はやかわよしお

 グラフィックデザイナーとして、長らく現役で活躍した早川良雄は、3月28日午前11時33分、肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年2月13日、大阪市福島区生まれ。両親に姉、弟、妹という家族構成であったが、母親は早川がまだ少年時代に39歳の若さで亡くなっている。小学生の頃より絵が得意であったことから、担任教師の勧めで1931(昭和6)年、開校間もない大阪市立工芸学校工芸図案科に入学。同校教師で当時新しかったバウハウスの教育理論を実践した画家山口正城から影響を受ける。デザインに対する関心はこの時期より芽生え、いくつかの公募展で受賞を重ねる。卒業翌年の37年、三越百貨店大阪支店の装飾部に入社。ウィンドウ・ディスプレイの仕事などを担当し、舞台装置やインテリア・デザインといった空間デザインの仕事を覚える。しかし翌38年に召集され日中戦争に従軍。京城(現在のソウル)で終戦を迎える。同年秋に帰国後、大阪市役所勤務を経て、48年親友であったデザイナー山城隆一の推薦により近鉄百貨店宣伝部に入社。ここで制作した「秀彩会」ポスターが、デザイン専門誌『プレスアルト』で紹介されるなど評判となる。49年関西を代表するデザイナーであった今竹七郎のアシスタントとして働いていた千畑梅と結婚。50年来阪した亀倉雄策と出会う。亀倉は早川のポスターの斬新なデザイン感覚に驚き、これが契機となって51年、亀倉や原弘、河野鷹思らが結成した日本宣伝美術会、通称日宣美に、関西の若手デザイナーたちとともに参加。また同年大阪で画家瑛九を中心にデモクラート美術家協会が結成されると山城らと参加。泉茂吉原英雄らジャンルを超えた芸術家たちとの交流を深めた。52年近鉄を退社しフリーランスとなると、54年には大阪心斎橋に早川良雄デザイン事務所を立ち上げる。事務所は知己であったカロン洋裁研究所校長国松恵美子から洋裁学校の一室を提供されたもので、その縁から、この時期同研究所の生徒募集ポスターを多数制作。早川の代名詞となった「カストリ明朝」と呼ばれる独特の書体が多く用いられた。52年には神戸三宮のセンター街にできた喫茶店「G線」のインテリアや什器をコーディネイトするなど多方面に仕事を展開。55年国際グラフィックデザイナー連盟(AGI)会員、58年第8回日宣美展会員賞受賞など、次第にデザイナーとしての評価も高まり、「グラフィック’55」や60年世界デザイン会議への参加を通して、その存在が広く知られるようになると、61年に東京事務所を銀座に開設。以後東京での活動を本格化させていく。その後も66年ブルーノ・グラフィックアート・ビエンナーレ展(チェコ)二等賞、67年日本サインデザイン協会第2回SDA賞金賞ならびに銀賞、78年第13回造本装幀コンクール通産大臣賞、84年日本宣伝賞第5回山名賞など、多くのコンクール等で受賞を重ね、一方では70年日本万国博覧会の色彩基本計画への参画、87年「世界デザイン博覧会’89名古屋」のためのポスター制作をはじめとする多くのイヴェントや、京阪百貨店、伊奈製陶(INAX)などの企業ポスター、ロゴマークの制作、さらに『文学界』、『日経デザイン』など雑誌の表紙デザインも手がけるなど、広範に活動を展開する。また、個性的なイラストは画家としての活動へと広がり、68年から始まる「顔たち」と「形状」の両シリーズにおいて優れた色彩感覚と構成力を発揮し、30年以上続くシリーズとなった。2002(平成14)年には大阪市立近代美術館(仮称)コレクションによる大規模な回顧展が開催された他、歿後となる10年には東京国立近代美術館、11年には国立国際美術館にて相次いで回顧展が開催された。82年紫綬褒章受章、88年勲四等旭日小綬章受章。60年以上を第一線のデザイナーとして活躍した早川は、また多くの後進デザイナーたちに影響を与え慕われた存在であった。

出 典:『日本美術年鑑』平成22年版(465-466頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「早川良雄」『日本美術年鑑』平成22年版(465-466頁)
例)「早川良雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28453.html(閲覧日 2024-11-03)

以下のデータベースにも「早川良雄」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top