榎戸庄衛
読み:えのきどしょうえ
洋画家の榎戸庄衛は、4月12日午後3時50分、急性肺炎による急性心不全のため茨城県東茨城郡大洗町大貫町の自宅で死去した。享年85。榎戸庄衛は、明治41(1908)年9月20日、茨城県西茨城郡岩瀬町に生まれ、大正14(1925)年、県立笠間農学校本科を卒業。その後上京して、昭和7年、太平洋美術学校洋画科本科を卒業する。翌年、第14回帝展に「母と子」が初入選。さらに同17年の第5回新文展に入選した「秋果豊収」が特選となり、翌年の第6回新文展に「九龍壁(北京)」(茨城県近代美術館蔵)を招待出品。以来、同24年の第5回日展「浴後」まで、官展に出品をつづけた。一方、同16年には、安宅安五郎、大久保作次郎、鈴木千久馬等が結成した創元会に参加、翌年には会員となって出品をつづけた。同24年、同会を退会、新たに牛島憲之、須田寿、有岡一郎とともに立軌会を結成、同34年の第11回展まで出品をつづけた。画風は、戦前の手堅く、平明な描写によるものから、戦後は様式化した具象表現へと変わり、さらに抽象表現主義的な形態の解体がすすみ、一切の団体に属することがなくなってからは、士俗的な記号を中心に独自の抽象表現を築いていった。そうした作品は、所属する会派をこえて選抜される選抜秀作美術展(朝日新聞主催)や、日本国際美術展(毎日新聞社主催)などに、たびたび出品された。また、同40年には、茨城県から、第2回茨城文化賞を受けた。
出 典:『日本美術年鑑』平成7年版(345頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月26日 (更新履歴)
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例)「榎戸庄衛」『日本美術年鑑』平成7年版(345頁)
例)「榎戸庄衛 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10603.html(閲覧日 2024-09-17)
例)「榎戸庄衛」『日本美術年鑑』平成7年版(345頁)
例)「榎戸庄衛 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10603.html(閲覧日 2024-09-17)
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- ■美術界年史(彙報)
- 1960年04月 榎戸庄衛、立軌会を退会
- 1949年04月 立軌会創立
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