美術親和会解散
1948年09月洋画関係画商の集りとして昨年結成された美術親和会は諸般の事情により解散した。
洋画関係画商の集りとして昨年結成された美術親和会は諸般の事情により解散した。
日展反対の動きが工芸作家の中にも起り、山鹿清華、楠部弥一ら京都工芸作家審議委員会が不出品を決議したのを始め、東京でも岩田藤七、香取正彦、北原千鹿、高村豊周、山崎覚太郎ら出品依嘱者、前審査員等三六名によつて今年度日展に不参加の決議がなされ、一四日共同声明を発表した。官展そのものに対する非難ではなく、芸術院の美術行政に対する反対が理由で、東京・京都・金沢・富山・新潟など全国主要作家が多数参加して大きな影響を生んだ。
正倉院御物など古代裂複製の研究によつて知られる竜村平蔵の西陣織展覧会がアメリカで開かれることになり一六日横浜から積み出された。
日本芸術院では二一日の芸術院第一部会で芸術院全員の責任で第四回日展審査員を選出し二七日発表した。
美術蒐集家として著名な横浜の故原富太郎の蒐蔵品の一部が国立博物館に購入された。ことに明治大正時代の院展系主要作品約六〇点が入つたのは注目される。
二一日日本芸術院第一部会で第四回日展の具体策が決定した。日展を芸術院主催で行い、従来の部を科に改め、第五科に書道を置き、無鑑査は芸術院が出品を依嘱する者に適用し、第二科審査員は芸術院会員のみとする等。
一月二六日の帝銀事件犯人容疑者として元文展無鑑査・元水彩画会委員テンペラ画会々長平沢大暲が二一日逮捕され、大きな話題となつた。
慶応大学講師西岡秀雄は気象七百年周期説によつて年輪の幅に伸縮を来すことから法隆寺用材の年輪を調査の結果、非再建論を立て一六日国立博物館で発表した。類推材料に乏しいが、従来の文献論様式論と異なる新論で注目された。
二一日開かれた日本芸術院総会において第一部会員として川島理一郎が決定し、一〇月五日に発令になつた。
渋谷駅頭のハチ公の銅像は昭和一九年取はずし供出されたが、前銅像の作者安藤照の令息安藤士によつて再び製作され、一五日除幕式を行つた。
全国美術教育連盟は理事会の協議によつて解散し、浦崎永錫らによつて新に美術教育懇談会が作られた。
日本芸術院々長の後任は第一部和田英作・鏑木清方、第二部山本勇造・志賀直哉、第三部信時潔・喜多六平太の各部二名の候補者選考委員によつて高橋誠一郎・柳田国男が推薦され、更に全員の投票によつて前文部大臣学士院会員高橋誠一郎が決定、一一日発令された。
総司令部民間情報局プラマー美術顧問は三〇日日展問題に関し、日展の改組と民主化に希望をもち、審査員、無鑑査制に対する疑問を解決して在野団体も快く協力するような内容を持たねばならぬとの談話を発表した。
教育刷新委員会では三〇日総会を開き日本芸術院の制度について検討し、三一日首相に対して建議案を出した。
大津市石山寺の国宝金銅聖観音立像が二〇日蓮華台と金銅厨子を残して盗まれた。
二二年九月埋没された登呂遺跡の発掘作業が再び二一日から開始された。
日展は芸術院主催で開催されることになつたが、国画会・自由美術家協会・春陽会・新制作派協会・独立美術協会・二科会・美術文化協会の七洋画団体は三日共同で不参加声明を出した。
一水会では一七日委員が集り、日展は芸術院主催によつて開かれるという見通しの下に開催の場合は参加することを確認した。日展休止説の安井曽太郎も会の意向には同調する態度を示した。
二二年に近代日本洋画展、西洋美術名作展などを開催した国立博物館では表慶館に日本と西洋の油画作品を常置陳列することとなり八日開館した。常設近代美術館への第一歩である。
戦後輸出品として重要視されて来た工芸品の水準を示し方向を示唆する日本輸出工芸展覧会が二二日から七月四日まで東京都美術館で開かれた。モデルルームが一般の注目を惹き、七月一日には天皇皇后両陛下が行幸啓になつた。