本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1977/03/24 日 本画家中田晃陽は、3月24日心不全のため京都市右京区の自宅で死去した。享年75。本名一雄。明治34年5月9日神戸市に生れ、竹内栖鳳に師事した。昭和9年第15回帝展に「山の畑」が初入選し、昭和13年第2回文展では「緑蔭」が入選している。紀元2600年奉祝展には「河原」を出品し、戦後は日展に発表した。この間、大毎展、京都市展、関西展などに出品屡々受賞した。改組日展で会友となった。日展出品目録第3回日展 昭22 春晝第4回日展 昭23 春丘第5回日展 昭24 水辺第6回日展 昭25 洛北(特選)第7回日展 昭26 若狭座古山(無監査)第8回日展 昭27 初秋風景第9回日展 昭28 丘第10回日展 昭29 浅春第11回日展 昭30 池畔第12回日展 昭31 暮色第13回日展 昭32 新緑第1回新日展 昭33 新緑の杜第2回新日展 昭34 叢林第3回新日展 昭35 深秋第4回新日展 昭36 樹第5回新日展 昭37 丘第6回新日展 昭38 森(出品依嘱)第7回新日展 昭39 森(出品依嘱)第8回新日展 昭40 くぬぎ林(出品依嘱)第9回新日展 昭41 北山(出品依嘱)第10回新日展 昭42 水辺(出品依嘱)第11回新日展 昭43 淀(出品依嘱)
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没年月日:1977/03/22 大正後期に前衛的な美術運動の推進者で画家でもあった劇作家、演出家の村山知義は3月22日午前6時17分、横行結腸ガンのため東京・千駄ヶ谷の代々木病院で死去した。享年76であった。 村山知義は、明治34年(1901)1月18日、東京都千代田区に生まれ、大正10年(1921)第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科へすすんだが、同年12月哲学研究のためベルリンへ留学した。ベルリンへ着いて間もなく、同地の前衛的な芸術に熱中して絵画へ転じ、カンディンスキー、アーキペンコ、シャガールなどに傾倒、ロシア構成主義へひかれていった。特定の画家につくこともなく、画廊、展覧会をめぐって独学、「コンストルクチオン」「あるユダヤ人の少女像」(いずれも東京国立近代美術館蔵)、「美しき乙女に捧ぐ」などコラージュや抽象的な作品を製作し、デュッセルドルフの「若きラインラント」主催国際美術展に参加した。大正12年1月に帰国し、未来派、二科会系前衛集団アクションなどの活動が始まっていた大正期前衛美術運動の渦中にとびこむこととなった。大正12年5月、神田文房堂において「村山知義・意識的構成主義的小品展」を開催、ドイツから荷物が届かないままに帰国後の作品を展示、また美術雑誌に精力的に日本の前衛美術の批判や、自己の主張する意識的構成主義の論稿を発表した。同年7月には柳瀬正夢、尾形亀之助らとダダイズム的な集団マヴォ(MAVO)を結成し、8月展覧会を開催した。また翌大正13年7月には雑誌『マヴォ』を創刊(翌14年6月までに7号を発行)した。同年11月、築地小劇場第16回公演「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー作、土方与志演出)の舞台装置を担当し、その構成派的作風が注目され話題となった。また同13年10月、前衛的集団の合同呼びかけによって成立した三科造型美術協会に参加した。三科は展覧会開催と同時に大正14年9月30日、築地小劇場で「劇場の三科」を開催(今日のハプニングに近い)したが、その後解散、村山もしだいに美術から離れて演劇運動へ転進していった。
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没年月日:1977/03/21 洋画家、元一水会会員高森捷三は、3月21日心不全のため死去した。享年69。明治41年2月22日石川県鳳至郡に生まれる。大正14年画家を志望して上京、林重義に師事、翌年第13回二科展に「風景」2点が初入選、同年から二科展とともに日本水彩画会にも出品を続けた。昭和3年1930年協会研究所へ入り、翌年には同展にも出品したが、同5年日本プロレタリア美術家同盟へ加盟し、同年の第三回展に大作「被告会議」他を出品したが撤回され、翌第4回展には、「東セルの兄弟しっかりやろう」、第5回展「労働者習作」を発表した。同7年日本共産党員となったが同年検挙され同9年出獄、翌10年から再出発して二科展に出品した。同12年からは一水会に出品したが、同5回展以後は展覧会出品を止めた。戦後、同21年同士と現実会を組織したが翌々年解散、同34年には友人と斑会を組織した。また同25年から8年ぶりに一水会にも出品をはじめ、同26年会員となり、同29年第16回一水会展出品作「船のおかみさんたち」で優賞を受けたが晩年は退会し無所属となった。同38年3月から11月まで渡欧、主にパリを中心に各国を巡遊し、翌年滞欧作による個展を開催した(文春画廊)。一水会の出品作には他に、「水の上」(第14回)、「火」(第17回)などがある。
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没年月日:1977/03/21 洋画家、日本水彩画会会員丹野良輔は3月21日死去した。享年77。明治32年11月18日青森市に生まれ、青森県立師範学校卒業後上京し曾宮一念に師事、また同舟社でデッサンを学んだ。昭和23年日本水彩展の出品作で三星絵具賞を受け日本水彩画会会員となり、同25年委員となった。また、光風会展、新槐樹社展にも出品、同36年新槐樹社会員、翌37年同委員となった。日本水彩展の出品作には、「静物」(第39回)「岬の家」(第41回)「外房漁港」(第45回)「曇り日の磯」(第60回)などがある。
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没年月日:1977/03/11 彫刻家、日展参与、日本彫塑会委員長の中川清は、3月11日じん不全のため東京都文京区の東大付属病院で死去した。享年79。明治30年5月21日、滋賀県長浜市に生まれ、大正12年東京美術学校彫刻科を卒業後、同研究科、別科を修業。大正4年二科展に洋画を出品して初入選した。同13年第5回帝展に「腰かけた女」が初入選、以後毎年官展に出品を続け、昭和2年第8回帝展で「立女」が特選、同12年からは文展無鑑査となった。戦後も日展に出品を続け、同27年第8回展に審査員として「裸婦」を出品、以後6回審査員をつとめた。同38年、人間の運動感を表現した「あるく」(第5回日展)で日本芸術院賞を受賞した。同33年日展評議員、同44年日展理事を経て、同48年日展参与に就任する。また、この間東京教育大学講師などを歴任した。日展への出品作に「女と布」(改組第1回)、「萋」(第3回)、「仰視」(第6回)などがあり、他に「三木武吉像」(香川県高松市)、「村上藤一像」(滋賀県長浜市)、「唐獅子(一対)」(東京、静嘉堂文庫)などの作品がある
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没年月日:1977/03/11 日本画家亀井玄兵衛は、3月11日肝臓ガンのため京都市上京区の上京病院で死亡した。享年75。本名英一。旧号藤兵衛。明治34年3月25日和歌山県湯浅町で生まれ、大正8年上洛し、山田耕雲師方に寄寓した。初め号藤兵衛を名乗り、昭和28年玄兵衛に改めた。昭和7年京都絵画専門学校を卒業、引続き研究科に入学した。早くより創作木版画を手がけ帝展、春陽会等に作品を発表した。前者に「理髪室」(11回帝展)があり、後者には「花」(第11回)、「車中」(第12回)、「椿花二種」(第13回)などがある。昭和12年以降は専ら青竜社に作品を発表し、昭和41年同社解散に至るまでここを拠点とした。この間、昭和17年社友に推挙され、同25年社人となり、また屡々受賞している。同社解散後は同年6月同志と東方美術協会を創立、昭和52年東方美術協会第11回展では、最後の作品となった「花籠」を出品した。また毎日新聞社主催の日本国際美術展、現代日本美術展にも招待出品し、前者に「風景」(第3回)、「台風」(第4回)、「かいぱん」(第5回)など、後者に「谷」(第1回)がある。そのほか京都、大阪等での個展も数多く開催している。川端竜子に私淑し、師の作風でもあった豪快な画面に特色を示した。青竜社出品目録昭和12年 9回「甲胄」(二曲一双)昭和14年 11回「舩鉾」(二曲片双)昭和15年 12回昭和16年 13回「渓」(二曲一双)昭和17年 14回「懸繍」昭和18年 15回「野鍛冶奉公」(六曲片双)昭和20年 17回「深秋」昭和21年 18回昭和22年 19回「S先生」昭和23年 20回「賀茂の踊子」昭和25年 22回「母子像」昭和26年 23回「つきふるゆき」昭和27年 24回「谷水」昭和28年 25回「顔」「少女」昭和29年 26回「石」「奔流」昭和36年 33回「みのり」昭和37年 34回「くつみがき」昭和38年 35回「捻じれた樹」昭和39年 36回「文楽」昭和40年 37回「観音立像」
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没年月日:1977/03/08 彫刻家、新樹会会員木内克は、3月8日急性肺炎のため、東京都荒川区の関川総合病院で死去した。享年84。明治25(1892)年6月27日、水戸市に生まれ、同45年水戸中学五年生在学中の夏、帰省中の東京美術学校彫金科教授海野美盛の指導を受けた。大正3年海野と相談し彫刻に専念することを決意、この年朝倉文夫の彫塑塾に入る。同5年第10回文展に「平吉」が初入選、以後出品を続け、同9年には第2回帝展に「手」を出品した。翌10年ヨーロッパに留学、ロンドンからパリへ移り、パリではグラン・ショミエール研究所へ通い、ブールデルの指導を受ける。同11年からサロン・デ・ザンデパンダンに出品、翌12年にはブールデルの推薦で第1回サロン・デ・チュイルリ展に「ギタリスト」を出品(昭和3年まで毎年出品)、同13年からサロン・ドートンヌにも出品した。また、昭和2年にはパリ郊外の陶芸家ラシュナルのアトリエで初めて陶芸を試み、この年藤田嗣治、原勝郎らとラシュナルの展示会に招待出品、同5年頃からギリシャのアルカイック彫刻に心をひかれテラコッタの技法を修得する。同10年12月帰国し藤沢市に居住、翌11年第23回二科展に「女の顔」「女のトルソ」「猫」を出品、特待を受け、翌年会友に推挙された。また、この頃から同16年までマジョリカを制作、同15年東京上野桜木町33番地の朝倉文夫分塾に転居した。同16年二科会を退会、文展無鑑査となる。戦後は、同23年第2回新樹会展に招待され、「猫」「首」「マスク」などの滞欧作多数を出品して注目を集め、同26年に新樹会会員となった。この年第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「婦人坐像」を出品、また「臥像」で第3回毎日美術賞を受けた。以後新樹会展に出品を続けるとともに、選抜秀作美術展(第1~9回招待出品)、現代日本美術展、日本国際美術展、国際具象派美術展などに出品、同40年の第1回現代日本彫刻展には16点を出品した。同45年、「木内克の全貌」展(茨城県立美術博物館)を開催、同年紺綬褒章を受け、また第1回中原悌二郎賞を受賞した。翌年の春、ローマに出かけ蠟型ブロンズの制作を試み、ギリシャ、パリを経て帰国、この年『わたしのどろ箱』(求龍堂)を刊行した。同47年木内克をテーマにした映画「土くれ」と「木内克とその作品」が完成、文部省芸術祭記録映画部門の最優秀賞に選ばれた。また、同年勲三等瑞宝章を受賞。同49年『定本木内克』(現代彫刻センター)を刊行、東京と大阪で刊行記念展を開催し、茨城国体のためのモニュメント「女神像」を完成、また『エーゲ海に捧ぐ』(UNAC TOKYO)を刊行した。テラコッタの彫刻に素朴で力動感みなぎる独自の作風を示したが、晩年は大胆にデフォルメされた裸婦像も手がけた。主要出品目録1916 第10回文展「平吉」(初入選)1917 第11回文展「老い」「動揺」1918 第12回文展「パンツ」1920 第2回帝展「手」1922 サロン・デ・ザンデパンダン「猫」「立像」1923 サロン・デ・ザンデパンダン「顔」「猫」(木彫)第1回サロン・デ・チュイルリ展「ギタリスト」1924 サロン・デ・ザンデパンダン「女の首」、サロン・ドートンヌ「わたしの家族」1925 サロン・デ・ザンデパンダン「女立像」1926 サロン・ドートンヌ「猫」「立像」1927 サロン・デ・ザンデパンダン「男のトルソ」1928 サロン・デ・ザンデパンダン「猫」1936 第23回二科展「女の顔」「女のトルソ」「猫」(特待)1937 第24回二科展「女」「鬼の首」(会友)1938 第25回二科展「犬」1940 第27回二科展「トルソ」1942 第5回文展「2602年」1946 新日本美術展(朝日新聞社主催)「猫」(受賞)1947 第3回日展「女と布」1948 第2回新樹会展(東京・日本橋、三越)「猫」「首」「マスク」など滞欧作(招待)1949 第3回新樹会展「牧神の午後」「坐」「波」「トルソ」「ひだり」「動き」(1948年作)(特別出品)1950 第1回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)「アクルピ」(招待)。第4回新樹会展「立像」「伏せる女」「トルソー」「裸婦」など。木内克彫刻小品展(銀座松坂屋)「アマゾーン」「おどり」など。1951 第2回選抜秀作美術展「トルソ」(招待)。(第9回展まで毎年招待出品)。第5回新樹会展「手をつく女」「手を上げる女」「手のあるトルソ」「臥像」(第3回毎日美術賞)など。第1回サンパウロ・ビエンナーレ「婦人坐像」1952 第3回選抜秀作美術展「寝ている女」(第5回新樹会展)。毎日美術賞7作家自選展(東京・上野、松坂屋)「臥像」など12点。第6回新樹会展「猫」「裸婦A」など。日本現代美術展(文部省主催)「寝ている女」1953 第4回選抜秀作美術展「猫」(第6回新樹会展)。近代彫塑展「西洋と日本」(東京・国立近代美術館)「トルソ」。第7回新樹会展「裸婦」「うずくまる」など。1954 第5回選抜秀作美術展「横向き臥像」「坐像」「トルソー」。第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)「女坐像」「見つけたポーズ」。第8回新樹会展「裸婦ASF」など。1955 第6回選抜秀作美術展「見つけたポーズ」(第1回現代展)。第3回日本国際美術展(毎日新聞社主催)「女」「おとな」。第9回新樹会展「手をつく女」「腰かけた裸婦」など。1956 第7回選抜秀作美術展「立っている女」。第2回現代展「女」「寝ている女」。第10回新樹会展「女と布」「寝ている女」など。「日本の彫刻・上代と現代」展(東京国立近代美術館)「女の顔」「トルソ」「女と布」「見つけたポーズ」1957 第8回選抜秀作美術展「女」(第2回現代展)。第4回国際展「女」、第11回新樹会展「女」「坐像」「手を上げる女」1958 第9回選抜秀作美術展「坐像」(第11回新樹会展)。第2回国際具象派美術展「手のあるトルソB」。第3回現代展「手のあるトルソ」「実験作」、第29回ヴェネツィア・ビエンナーレ「見つけたポーズ」「手のあるトルソ」など5点。第12回新樹会展「首」「手のあるトルソ」「裸婦A・B」など。1959 「戦後の秀作」展(東京国立近代美術館)「見つけたポーズ」。第5回国際展「婦人坐像」、第13回新樹会展「坐像」など。1960 第3回具象展「小品」、第4回現代展「トルソ」、第14回新樹会展「寝ているトルソ」「女A・B」1961 第6回国際展に「婦人立像」、第15回新樹会展「立っている女」「女と猫」など。「近代日本彫刻の流れ」展(東京国立近代美術館)「女の顔」1962 第5回現代展「坐像」(優秀賞)。第16回新樹会展「裸婦」など。1963 第7回国際展「足のあるトルソ」、第17回新樹会展「人間立像」「裸婦」1964 「滞欧作とその後」展(東京国立近代美術館)「女の顔」「猫」「寝ている女」など。第5回具象展「裸婦」、第18回新樹会展「コロナ・レリーフ」。「近代日本の名作」展(東京国立近代美術館)「女」1965 第8回国際展「コロナ」。第19回新樹会展「椿姫」など。第1回現代日本彫刻展(宇部野外彫刻美術館)に作品16点。1966 第7回現代展「布をもったポーズ」、第20回新樹会展「女のトルソ」「ねむり猫」など。1967 第9回国際展「微笑」、第21回新樹会展「聖母マリアの像」「天女」など。1968 第8回現代展「露柱」、第22回新樹会展「自刻像・生活」「露柱」。1969 第9回現代展「坐像」、第23回新樹会展「人魚」。「日本近代彫刻の史的展望」(宇部野外彫刻美術館)「手をつく女」「アルカイックな首」など。1970 第24回新樹会展「女人誕生」。1971 第25回新樹会展「マリア」「飛天」。1972 第26回新樹会展「エーゲ海に捧ぐ」。1973 第27回新樹会展「人魚」、「近代美術史におけるパリと日本」展(東京国立近代美術館)「女」。1974 第28回新樹会展「ツルの首」。1975 第29回新樹会展「鶴」「裸婦」1976 第30回新樹会展「裸婦A」「テラコッタ1」など。
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没年月日:1977/02/23 日本画家宇田大虚は、2月23日肺ガンのため京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年78。本名喜三郎。明治32年12月28日大阪市に生れ、大阪育英高等学校を卒業し、堂本印象の東丘社に入塾した。最初は花鳥を専門とし、東丘社幹事をつとめた。日展には昭和24年第5回展以降殆ど毎回の出品が見られ、主なもの下記の通りである。「池頭」(昭24)、「閑日」(昭26)、「建設」(昭27)、「船骨」(昭33)、「網を干す」(昭35)、「静閑」(昭43)など。
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没年月日:1977/02/05 陶芸家、二代諏訪蘇山は2月5日老衰のため京都市の富田病院で死去した。享年86。本名虎子、石川県に生まれ、明治25年青磁で知られる初代諏訪蘇山の養女となり、大正11年二代蘇山を襲名し、昭和45年養子修に三代目を襲名させた。戦前では清水焼では珍しい女流陶芸家として話題を呼び、花鳥を配した青磁の花瓶や香炉を得意とした
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没年月日:1977/01/29 日本画家川崎小虎は、1月29日老衰のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年91。本名隆一。明治19年5月8日、中野金之助、あゆの長男として岐阜市に生まれた。家は名古屋に在ったが、父が岐阜県庁に勤務のため同市で生まれた。祖父川崎千虎は、明治画壇の大家として知られ、父は余技に南画と詩文をよくし、母も画道に親しんだ。岐阜師範附属尋常小学校に入学したが在学3年にして上京し、祖父千虎に大和絵を学んだ。根岸尋常小学校に入学するが、千虎が佐賀県有田陶芸学校長に赴任したため同行し、白川尋常小学校に入学、同時に有田陶芸学校専科で絵画と図案を学んだ。明治30年再び上京し、根岸尋常小学校に再入学した。またこの頃近くに小堀鞆音、安田靱彦がいて、屡々訪問して絵や故実を学んだ。同32年岐阜にもどり、翌年岐阜県立岐阜中学校に入学し、昆虫や植物に親しんだ。明治35年(1902)川崎千虎は68歳をもって没するが、その後は門下の小堀鞆音に師事し、同38年東京美術学校に入学した。在学中下村觀山、川端玉章、寺崎広業、小堀鞆音、結城素明、松岡映丘に日本画を、藤島武二、和田英作に洋画を、高森砕巌に南画をそれぞれ学んだ。明治43(1910)年東京美術学校を卒業し、その後3年程小、中学校図画教師として教職にあった。また同45年には新日本画の研究会行樹社を同窓の広島晃甫、川路柳虹らと結成し、赤坂三会堂で3回程展覧会を開催した。大正になってからは作品を主として文展、帝展に発表し、前者には「花合せ」(10回)があり、後者には「伝説中将姫」(2回)、「萌え出づる春」(6回)などがある。この間、大正6年31才で神谷清子と結婚し、翌年長女すみ子が、ついで翌8年次女あい子が誕生し、大正14年には長男鈴彦が誕生した。この年、帝展委員に推挙され、昭和2年には帝展審査員となり、以後帝展、新文展、日展等屡々審査員をつとめた。また大正12年第1回展を開催した日本画会革新には毎回出品をつづけ、昭和4年第7回展には後年代表作となった「オフィリヤ」の出品がある。この年帝國美術学校(現武蔵野美術大学)の教授となり、次男春彦が出生している。翌昭和5年には朝鮮美術展(9回)審査のため渡鮮し、各地に写生旅行を行い、その後も台湾、満蒙へ写生旅行をしている。昭和6年師の小堀鞆音は没したがその門下生による革丙会、東京美術学校卒業生の東邦画会等に官展外では出品し、さらに昭和14年には小堀鞆音門下生の朱弦会が結成され、これにも出品した。翌昭和15年には従軍画家として北支、満蒙へ旅行、また長女すみ子が東山魁夷と結婚した。昭和17年には第21回朝鮮美術展審査員として渡鮮し翌18年には東京美術学校教授となった。またこの年、加藤栄三、山本丘人、山田申吾、小堀安雄、東山魁夷の5名で國土会を結成し、のち高山辰雄、橋本明治らも加わり毎年高島屋で展覧会を開催し第7回に及んだ。翌19年東京美術学校教授を辞任し、山梨県中巨摩郡落合村に疎開し多くの写生をのこしている。戦後は、日展、日本画院展を中心に作品を発表、また昭和36年3月には初めての個展を日本橋高島屋で開催、15点を出品し、この年5月日本芸術院恩賜賞を受賞した。昭和38年77歳を迎え、その記念として喜寿記念展を銀座松屋で開催した。同42年には武蔵野美術大学名誉教授となったが、翌年1月脳血栓で倒れ入院した。半年後に回復するが以後左手で制作することが多くなった。昭和45年9月には大阪梅田阪神百貨店で、毎日新聞社主催により画業60年記念川崎小虎展を開催し、代表作70点を出品した。なお、没後の昭和53年2月にも山種美術館で「川崎小虎の回顧」展を開催し、約100点が出品された。 小虎はこのように大和絵に出発し、東京美術学校では他の伝統的諸画派及び洋画を学んだので、その作品は確かな日本画技法の上に立った、新しい感覚のものであった。作風は地味で堅実な傾向にあったが、画面は甘美な情緒の漂うロマンチックな画情の持味に特色を示した。なお晩年は水墨画も多く描いている。作品歴明治43年 「草合せ」(卒業制作)明治44年 「歌垣」2回國民美術展。明治45年 「雨後」「夜の蔵」「うどんげの花を植える女」「童謡(天平の少女)」「黒衣の支那美人」「朝の牧場」「聖書をもつ少女」行樹社展。大正3年 「月草」(初入選)大正4年 「人形作り」第3回國民美術展。大正6年 「御産養」第11回文展。大正7年 「起願」第12回文展。大正9年 「伝説中将姫」第2回帝展。大正10年 「囲碁」第3回帝展。大正11年 「丘の藥師堂」第4回帝展。大正12年 「釣二題」日本画会革新第1回展。大正13年 「春の訪れ」第5回帝展。「砂丘」日本画革新第2回展。大正14年 「萌え出づる春」第6回帝展。「青い鳥」日本画会革新第3回展。「狐火」第1回聖徳太子奉賛展。「西天求法」第7回帝展。昭和2年 「豆」「ばら」「茄子」日本画会革新第5回展。昭和3年 「ふるさとの夢」第9回帝展。「源氏物語絵巻」(11巻54帖)尾上柴舟を中心に松岡映丘、中村岳陵ら6名により制作。昭和4年 「オフィリヤ」日本画会革新第7回展。昭和5年 「こだま」第11回帝展。「踐祚」明治神宮奉讃会聖徳記念絵画館。「春」第5回東台邦画会展。昭和6年 「岩清水」第6回東台邦画会展。「荒凉」第12回帝展。「壺と翁草」「汀の朝」第10回革丙会展。昭和7年 「牧笛」第13回帝展。「つぐみ」第11回革丙会展。昭和8年 「童謡」第14回帝展。「柏に栗鼠」第8回東台邦画会展。「南国の鳥」第12回革丙会展。昭和9年 「森の梟」第15回帝展。「梟と雛」「壺に猫柳」第9回東台邦画展。「木菟」第13回革丙会展。「枯木に梟」第14回愛知社展。昭和10年 「さぼてん」第10回東台邦画会展。「蘭」第14回革丙会展。昭和11年 「山・浜」文展招待展。「猿」「芥子」第11回東台邦画会展。「あざみと壺」第15回革丙会展。「麦と野鼠」日本画会革新第14回展。昭和12年 「焼野の春」第16回革丙会展。「そよふく風」第1回大日美術院展。昭和13年 「七面鳥」第2回新文展。「雲海」第13回東台邦画会展。「ひまわりとかんな」第2回大日美術院展。昭和14年 「崖」第3回新文展。「麦とギリシャ壺」「さぼてん」「砂丘の夕」第3回大日美術院展。「小兎」「冬瓜に鼠」「海芋」第1回朱弦会展。(小堀鞆音門下)昭和15年 「沼の生活」ニューヨーク万國博。「木蓮」紀元2600年奉祝展。「沼三題」「冬日」「みそさざい」第2回朱弦会展。「磯風」第2回日本画院展。昭和16年 「雄飛」第4回新文展。「雨後の砂浜」海洋美術展。「砂浜」「葉牡丹」第4回大日美術院展。「南国攻略戦」陸軍美術展。「雪の朝」第3回日本画院展。昭和17年 「仔鹿」「海芋」第5回大日美術院展。「向日葵の実」第4回日本画院展。「摘草」「仔犬」昭和18年 「蒙彊の秋」第6回新文展。「黍に雀(金風)」「兎」「早春」「仔鹿」「昼顔(あひるの子に昼顔)」「初夏」第1回國土会展。「砂丘」第6回大日美術院展。昭和21年 「木の実拾い」第1回日展。「木の間に遊ぶ」第2回日展。昭和22年 「支那町の宵」第3回日展。昭和23年 「佐保姫」第4回日展。「麦秋」第2回毎日現代展。「若葉の林」第8回日本画院展。昭和24年 「小梨の花」第5回日展。「裏町」第9回日本画院展。昭和25年 「仔兎」「ばら」第6回國土会展。「卓と野草」第6回日展。「裏町」「橋」昭和26年 第1回森々会展。川崎塾々展「野の草」第7回國土会展(國土会解散)。「舗道」第7回日展。昭和27年 「山羊」第2回森々会展。「白鳳凰」桑港現代美術展。「ジャンク」第8回日展。「カラーの花」第12回日本画院展。絵師の旅絵巻制作。昭和28年 「つる草(夕顔)」第3回森々会展。「鵜戸の産屋」第9回日展。「秋の園」第13回日本画院展。昭和29年 「葉牡丹」第4回森々会展。「望郷」第10回日展。「洋蘭」第14回日本画院展。「若芽」第7回美術協会展。昭和30年 「城外」第11回日展。昭和31年 「薄氷」第12回日展。「たこ壺に猫柳」第16回日本画院展。昭和32年 「砂丘」第13回日展。「秋の草」第17回日本画院展。「クリスマス草」第10回美術協会展。「春の女神」深川八幡宮のために制作。昭和33年 「白土の丘」第1回新日展。昭和34年 「靜韻第2回新日展。「秋の草」第18回日本画院展。「樹蔭(仔狸)」第12回美術協会展。「勅使参向図」靖国神社大祭記念のため制作。昭和35年 「室内」第3回新日展。「裏町」第13回美術協会展。昭和36年 川崎小虎作品展「猫柳」「麦」「野草」「陽だまり」「秋果」「アロウカシヤ」「あざみ」「白い花」「七面鳥」「梟」「稲むら」「灯」等(日本橋・高島屋)「秋瓷」第4回新日展。昭和37年 「銅鐔」第5回新日展。「よしきりの巣」「梟」「滝」(以上水墨画)昭和38年 「沈鐘」第6回新日展。昭和39年 「薄明」第7回新日展。昭和40年 川崎小虎水墨画展「孤舟」「野の鳥」「ガード下の夕」等、(日本橋・高島屋)「深山の春」第8回新日展。昭和41年 「白い花」第9回新日展。昭和42年 「ななかまど」第10回新日展。昭和43年 「曠野」第11回新日展。昭和44年 川崎小虎作品展「猫柳」ほか20数点。(銀座・村屋)「海辺」改組第1回日展。昭和45年 川崎小虎展「仔犬」ほか30点(北辰画廊)画業60年記念川崎小虎展(梅田阪神百貨店・毎日新聞社主催)「初夏の森」改組第2回日展。昭和46年 川崎小虎水墨画展「荒磯」「富士山」「鵜」ほか38点(北辰画廊)。「谷間の雨」改組第3回日展。昭和47年 川崎小虎展。水墨と陶器(北辰画廊)「雪靜か」改組第4回日展。昭和48年 「森の梟」(絵と随筆集明治書房)。川崎小虎作品展(ミニチュアによる)(高島屋)「仔鹿の秋」改組第5回日展。昭和49年 「墨彩画の歩み」川崎小虎展(「林」「薫風」「蕗のとう」「雪の街灯」等、銀座松屋、北辰画廊)昭和50年 「日本の四季展」(陶芸家坂倉新兵衛と共催)「行く秋」改組7回日展。「曠野」「水辺」制作。昭和51年 川崎小虎展(北辰画廊)。「七面鳥」改組8回日展。「秋」制作。昭和52年 川崎小虎展(北辰画廊)1月29日没昭和53年 2月「川崎小虎の回顧」展開催。(山種美術館)3月川崎小虎追悼展(北辰画廊)9月、日本画の巨匠川崎小虎展(名古屋松坂屋)昭和54年 川崎小虎小品展(北辰画廊)
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没年月日:1977/01/29 日本画家で彫刻もよくした山田眞山は、1月29日過労による脳血センのため沖縄県宜野湾市の自宅で死去した。享年91。明治18年那覇市に生れ、14才で上京した。戦前は中国の北京美術学校教授をつとめ、帰国後の昭和10年には明治神宮外苑絵画館の「琉球藩設置」の壁画を制作し代表作となった。戦後は昭和32年以来、糸満市摩文仁の丘に建つ平和記念堂に安置するための平和像の制作に打込み、その完成が間近であった。
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没年月日:1977/01/19 洋画家、日展会員で十柯会創立会員の柳瀬俊雄は、1月19日肺がんのため東京港区白金台の東京医科学研究所付属病院で死去した。享年66。明治43年大阪に生まれ、東京の旧制五中卒業後、日本大学へ進んだが中退、文化学院を経て昭和5年本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事、春台美術協会会員となり、のち中村研一の指導を受けた。同8年帝展に初入選し、以後官展に出品を続けた。戦後の同21年光風会会員となり、同26年第5回日展に「仰臥」で特選・朝倉賞を受賞、翌27年光風会評議員、同審査員、日展委嘱となった。同36年ヨーロッパに遊学、同39年新日展第7回展に出品した「開幕」で菊華賞を受け日展会員となった。同42年第10回日展では審査員をつとめた。同45年光風会を退会する。改組日展への出品作には、「樹下聴音」(第1回)、「横臥母子」(第4回)、「オダリスク」(第5回)、「対話」(第9回)などがある。
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没年月日:1977/01/16 金沢美術工芸大学名誉教授、美術史家秋山光夫は、老衰のため1月16日、東京都世田谷区の自宅で死去した。享年88。明治21年4月3日、三島大社宮司秋山光條、安子の長男として静岡県田方郡に生まれた。秋山家は、古く甲州武田に仕えたが、武田滅後三州岡崎に住した。その後元文年中江戸に出て北町奉行与力となり、幕末まで七代にわたりその職をついだ。その間学芸、風雅の道を嗜む者多く、維新後光條は国学の素養を生かして明治政府の神祗官を務め、出雲大社ほか各官幣大社を歴任し、三島についで八阪神社宮司となり一家は京都に移った。光夫は、京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学したが、芸術への愛着断ち難く、京都帝国大学文科大学哲学科に転じて美学美術史学を専攻、大正2年7月卒業した。ついで大学院に入り、京都絵画専門学校などで美術史を講じたが、大正7年3月、図書頭兼帝室博物館総長、鴎外・森林太郎の推輓により宮内省図書寮に奉職、大正13年6月宮内省御物管理委員、15年4月帝室博物館監査官となった。昭和4年12月より同6年6月まで、海外における東洋美術研究及び美術館の施設研究のため欧米10ヵ国へ留学したが、その成果はやがて東京帝室博物館新館(13年12月開館、現東京国立博物館本館)の設備や陳列計画のなかに生かされ、また在外日本美術品の学界への紹介となった。同14年ベルリン日本美術展覧会委員、同16年6月文部省重要美術品等調査委員会委員となり、同17年7月東京帝室博物館学芸課長に就任、同20年8月退官した。同年10月日本美術協会専務理事、同25年4月金沢美術工芸短期大学教授、同30年4月金沢美術工芸大学教授、同40年2月金沢美術工芸大学長、同年5月石川県文化財専門委員となり、同42年11月金沢市文化賞を受賞、同44年3月学長を辞し、同年4月名誉教授となった。その他就任した役職としてはブリヂストン美術館参与、文化学院理事等がある。学長退任帰京後もなお調査研究への意欲衰えず、論文の執筆も行われたが、作歌や画作に心を澄ますことが多くなり、死去の前年末近くまで画筆を離さなかった。死去に際し勲三等に叙せられ、瑞宝章を授けられた。その調査研究は、昭和2年以来毎秋特別調査に従事した正倉院御物に関するものをはじめ、絵巻物・中国画にも及んだが、その中心は桃山時代から江戸時代に瓦る絵画史研究であって、先駆的業績も少くない。論文の多くは『日本絵画史論攷』(昭和18年)に収められている。このほか著書として『御物若冲動植綵絵精影』(昭和2年)、『桃山時代障壁画集』(昭和4年)、『二条離宮障壁画大観』(昭和15年)、『青山荘清賞』日本画篇第二(絵巻物、昭和18年)があり、『東山水墨画集』、『宋元名画集』 の編纂に参画した。歌集に『開扉抄』(昭和41年)がある。
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没年月日:1977/01/11 彫刻家、新樹会出品者土方久功は、1月11日肺炎のため東京都新宿区の東京電力病院で死去した。享年76。明治33年7月13日東京市小石川区に生まれ、大正6年学習院中等科卒業後、同13年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業。昭和2年2月丸善画廊で初の個展を開催、同4年3月ミクロネシヤ、西カロリン群島のパラオ島へ渡航し、遺跡、慣習、伝承等を調査蒐集、同6年10月にはヤップ離島サトワヌ島に入り以後7年間滞在して島民土俗、民話等を採集した。同13年末再びパラオ島へ移り翌年春帰国、同年南洋庁物産陳列所嘱託となり、帝国大学人類学教室(収集品を同教室へ寄贈)及び南洋文化協会で南洋土俗蒐集品を展観、また、この年新古典派協会へ特別出品し会員となったが、夏には再度パラオに赴き同17年3月まで滞在した。帰国後、陸軍軍属として民族班に加わり、同年から同19年3月まで北ボルネオに滞在し北ボルネオ軍政府調査室に勤務した。戦後は昭和25年から日本アンデパンダン展、読売アンデパンダン展に木彫を出品、同26年丸善画廊で個展を開催したのをはじめ、主に南洋に取材した木彫レリーフによる作品を発表、また同42年からは水墨画による小品展も開いた。この間、同30年第9回新樹会展に招待出品し、以後同51年第22回展まで毎年出品を続けた。新樹会展への出品作に、「パラオ連作」(木彫、第9回展)、「仁王」(木彫レリーフ、第12回)、「ガルミゾの大女」(木彫レリーフ、第17回)、「洗身池」(水彩、第25回)などがある。著書に『パラオの神話伝説』(大和書店)、『サテワヌ島民話』(三省堂)『流木』(小山書店)、絵本『おおきなかぬー』(福音館書店)など
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没年月日:1977/01/05 洋画家、新構造社会員武藤弘之は、1月5日頸骨々折のため死去した。享年64。明治45年3月3日埼玉県入間郡に生まれる。埼玉師範学校卒業後、昭和6年から岡田三郎助に師事、同8年白日会展に入選し、以後旺玄会、新構造展に出品入選した。同15年渡鮮し京城に在住、同17年第22回朝鮮総督府美術展出品作「街」が総督府買上げとなり、翌年円光会会員となる。同21年引揚げ後挿絵界で活躍、同36年新構造社会員となり、同45年第42回新構造展に「冬の虹」で三村賞を受賞、同48年の第44回展では「壁」で岡田賞を受賞、さらに同51年の第48回展では「武蔵野の森」で東京都知事賞を受けた。この間、同46年に坂戸美術協会をおこし会長となったほか、埼玉県美術教育連盟副連盟長、入間地区美術教育研究会長をつとめた。
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没年月日:1976/12/23 共立女子大学家政学部教授、元東京国立文化財研究所美術部長中川千咲は、肝不全のため、12月23日午後11時30分、東京大塚の癌研究所附属病院で死去した。享年66。わが国美術史学及び文化財保護事業の先覚者中川忠順の次男として、明治43(1910)年4月3日、東京で出生、昭和9(1934)年3月早稲田大学文学部史学科を卒業し、同年4月帝国美術院附属美術研究所(現在の東京国立文化財研究所の前身)に入り、47(1972)年3月定年により退官するまで38年間在職した。この間昭和16(1941)年6月応召して21(1946)年6月まで兵役にあり、また官制改正により美術研究所が国立博物館の附属機関となった22年(1947)5月から26年(1951)1月まで、兼任で東京国立博物館陳列課に勤務したが、再び組織規程の改正によって同年2月から研究所に戻った。30(1955)年6月、東京国立文化財研究所美術部資料室長、44(1969)年4月美術部長となったが、一貫して研究資料の充実に尽瘁し、また、美術部の運営と発展に不撓の努力を続けた。 専門の工芸史の分野では研究を凝集した「日本の工芸」の著があり、特に古陶磁を中心とする意匠と文様に関して新分野の開拓につとめ、古九谷、古伊万里、仁清等の色絵から中国陶磁に及ぶ別項の如き多数の論考が見られる。開国百年記念事業会編「明治文化史美術編」に執筆した「明治の工芸」は、従来等閑視されていた時代の工芸史に体系的整理を加えた画期的な労作であったが、これを機に伝統的技法による現代陶芸に研究領域を拡げ、「板谷波山」などの作家論を著わすとともに、29(1954)年以来日本伝統工芸展の審査委員として、現代工芸の発展と技術者の育成に尽力するに至った。35(1960)年11月には東京都文化財保護審議会専門委員となって都文化財の調査指定に協力し、36(1961)年4月より43(1968)年6月まで文化財保護委員会事務局に併任、45(1970)年3月文化庁文化財保護審議会臨時専門委員、47(1972)年7月には専門委員として、無形文化財の調査指定、保護活用にあたり、49(1974)年12月からは通産省伝統的工芸品産業審議会専門委員として、伝統産業の育成繁栄に指導的役割を果した。 また23年(1948)以来順次早稲田大学、慶應大学、東京芸術大学、武蔵野美術大学、工学院大学、東京造形大学等諸大学の非常勤講師として、48年(1973)4月からは共立女子大学家政学部教授として、永年にわたり広く後進の指導育成にもつとめた。没後、勲四等旭日小綬章の追贈を受けた。主要編著書目録書名 出版社 年月古九谷(陶器全集8) 平凡社 33.7日本の工芸 吉川弘文館 38.11板谷波山伝(吉沢忠共著) 茨城県 42.4原色日本の美術19・陶芸(田中作太郎共編) 小学館 42.10板谷波山(出光美術館選書)美術出版社 44.6明治の工芸(日本の美術41) 至文堂 44.9赤絵(日本の美術71) 至文堂 47.4陶器講座11日本5江戸前期2 雄山閣 47.12仁清(陶磁大系) 平凡社 49.3九谷焼(日本の美術103) 至文堂 49.12板谷波山(近代の美術33) 至文堂 51.3現代の陶芸 1.2.5.8.9 講談社主要論文目録巻 年月古九谷色絵花鳥文大平鉢解説 美術研究 44号 10.8能作生塔 解説 美術研究 46号 10.10古九谷花鳥文中皿 解説 美術研究 49号 11.1孔雀文磬 解説 美術研究 49号 11.1長尾氏蔵五鈷鈴解 美術研究 52号 11.4色鍋鳥芙蓉菊文様大皿 美術研究 62号 12.2所謂南蛮唐草の一種について 美術研究 159号 26.2織部銹絵角皿 ミュージアム 5号 26.8九谷焼 ミュージアム 20号 27.11紫外線による古陶磁の実験 美術研究 168号 28.2中国古陶磁の文様 ミュージアム 25号 28.5高麗青磁と青磁象嵌の文様について 美術研究 175号 29.5高麗青磁と象嵌鳳凰雲鶴文小箱 解説 美術研究 175号 29.5古九谷意匠瞥見 陶説 18号 29.9光学的方法による古美術品の研究―工芸 東京国立文化財研究所 30.3古九谷意匠の一考察 美術研究 180号 30.3高麗象嵌青磁の模様(世界陶磁全集13 朝鮮) 河出書房 30.10嘉靖万暦の模様(世界陶磁全集11元明) 河出書房 30.12高麗青磁透彫筥 大和文華 19号 31.3織部焼の意匠 美術研究 185号 31.3明治の工芸(明治文化史美術篇) 開国百年紀念事業会 31.3再興九谷および九谷系(世界陶磁全集6 江戸下) 河出書房 31.5清朝陶磁の画題(世界陶磁全集12清朝) 河出書房 31.8明治期窯業と宮川香山 美術研究189号 31.11江戸時代の工芸上・下(日本文化史大系) 小学館 32.5青白磁水注 大和文華 27号 33.9古瀬戸の文様 美術研究 201号 33.11法花茄紫地牡丹孔雀文壺 大和文華 31号 34.1柿右衛門・古伊万里・鍋島の文様 陶説 74号 34.5いわゆる祥瑞丸文装飾のある古九谷について 美術研究 207号 34.11明治・大正期の陶芸(日本美術大系) 講談社 35.1仁清作色絵罌粟文茶壺 ミュージアム 111号 35.6安土桃山時代―現代の陶芸(日本美術史下) 美術出版社 35.12日本・東洋の陶芸(玉川百科大辞典) 誠文堂新光社 36.5仁清意匠の一考察 美術研究 216号 36.5伝統工芸と民芸(世界美術全集11(日本近代) 角川書店 36.9染付の文様 ミュージアム 126号 36.9工芸と意匠(世界美術全集5 日本平安2) 角川書店 37.1嘉靖襴手瓶の意匠 美術研究所 223号 37.7呉須赤絵の蓮と牡丹の模様 ミュージアム 138号 37.9青白磁童子模様瓶について 美術研究 229号 38.7いわゆる高台寺蒔絵の一硯箱と高台寺の蒔絵 美術研究 235号 39.7近世の工芸(世界美術大系日本美術近世) 講談社 39.7織部焼の意匠 日本美術工芸 320号 40.5明治後期陶磁工芸の一動向 美術研究 240号 40.5古九谷 月刊文化財 24号 40.9桃山のデザイン(世界美術全集8 日本桃山) 角川書店 40.10平安の工芸意匠 日本美術工芸 326号 40.11古伊万里色絵婦女図壺の一作品 美術研究 246号 41.5明治期の陶芸 ミュージアム 203号 43.2仁和寺蔵宝相華蒔絵宝珠箱の文様について 美術研究 256号 43.3明治末大正初期の陶芸 美術研究 261号 44.12江戸時代陶芸の流れ ミュージアム 235号 45.10明治百年の古九谷研究 (古九谷) 集英社 46.7丸文のある古九谷の二作品 美術研究 275号 46.11古九谷色絵蓮にかわせみ図解説 国華 968号 49.5「仁清」京文化を土で焼出した名匠 歴史と人物 42号 50.2
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没年月日:1976/12/16 日本画家幸田春耕は、12月16日心筋こうそくのため京都市の鞍馬口病院で死去した。享年79。本名賢。明治30(1897)年1月15日徳島県名西郡に生れ、大正8(1919)年山元春挙に師事した。昭和9年京都市立絵画専門学校卒業、官展に出品、帝展第9回「軍鶏」、第10回「群鶏」、第15回「睡蓮」などがあり、昭和16年第4回新文展「水禽」、昭和22(1947)年第3回日展「蓮池」、第3回「立木」があり、新日展第1回では「向日葵」、第3回「向日葵」、第4回「睡蓮」などがある。そのほか、紀元2600年奉祝展「蓮」がある。昭和49年無所属となったが、専ら花鳥画を描きつづけた。カトリック教徒。
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没年月日:1976/12/03 日本画家川上拙以は、12月3日心筋こうそくのため京都の専売公社病院で死去した。享年75。本名昌薫。明治34(1901)年5月1日愛媛県新居郡に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業した。西山翠嶂に師事し、第4回帝展に「淨瑠璃寺」(二曲屏風一隻)が初入選した。ついで第5回「平和」、第6回「浅春余情」、第8回「馬郎婦」、第11回「孟母」(二幅対)、第12回「青葡萄」、第13回「池畔」などがある。昭11年文展招待展には「清風聽声」を出品し、京都市展、大阪市展などにもそれぞれ委員、無鑑査等により出品している。戦後は、第6回日展(1950)に「浦上の廃堂」(出品依嘱)、第9回「姉妹」(出品依嘱)、第12回「斎座」(出品依嘱)などがあり、昭和33年改組後も第1回展(1958)「緑衣の女」(出品依嘱者)、第3回「赤い作業場」などの作品がある。以上のほか所属画塾の塾展青甲社展にも出品し、戦前は風景花鳥を得意としたが、戦後は人物画を多く描いた。
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没年月日:1976/11/20 銅版画家、東京芸術大学教授駒井哲郎は、11月20日舌癌肺転移のため東京築地の国立ガンセンターで死去した。享年56。大正9(1920)年6月14日東京都中央区に生まれた。慶応義塾普通部在学中にエッチング研究所に銅版画の技法を学び、昭和13年東京美術学校油画科に入学、在学中の同16年第4回文展に銅版画を出品入選し、翌17年卒業した。同23(1948)年日本版画協会展に銅版画を初出品して受賞、会員に推され、同25年には春陽会展に初出品受賞、翌26年同会会員になるとともに、この年国際展としては日本が戦後はじめて参加した第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「束の間の幻影」で受賞し、版画家としての地歩を築いた。同27年ルガーノ国際版画展で受賞、パリのサロン・ド・メイに出品、翌28(1953)年浜口陽三らと日本銅版画家協会を設立、同29年3月渡仏しパリ国立美術学校版画科に学び翌年12月帰国した。また同46年には東京芸術大学助教授に就任、翌47年教授となった。鋭い線をもつ独自の技法でわが国銅版画界に新境地をひらいたが、とくに詩画集にすぐれた仕事を残し、安東次男との『人それを呼んで反歌という』などがある。没後その技法を明らかにした『銅版画のマチェール』(美術出版社昭和51年)が刊行された。略年譜大正9年(1920) 6月14日東京都中央区に生まる。大正12年 9月1日関東大震災に会い五反田にあった家へ移る。昭和9年 麹町にあった室内社画廊で、メリオン、ホイッスラー、ムンクなどの銅版画を見る。同所にあったエッチング研究所(西田武雄主宰)で銅版画の技法を習う。昭和13年 慶応義塾普通部卒業。東京美術学校油画科入学。昭和16年 第4回文展に銅版画入選。この頃より麻布桜田町に住む。昭和17年 東京美術学校油画科卒業。昭和18年 東京外国語学校フランス語専修科卒業。昭和19年 平田重雄に建築設計の教えを受ける。応召。昭和20年 復員後、軽井沢の疎開先に落着き、油絵、銅版画を制作。年末から世田谷区駒沢に住む。昭和23年 日本版画協会展に戦中、戦後に製作した銅版画を初出品し受賞、恩地孝四郎らに注目され会員に推挙さる。昭和25年 春陽会展に初出品し受賞。「現代フランス創作版画展」(東京国立博物館)の批評を『みづゑ』に書く。昭和26年 第28回春陽会展に「夜の魚」「人形と小動物」他10点を出品、同会会員になる。第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「束の間の幻影」受賞。第7回サロン・ド・メイ出品。『マルドロールの歌』(ロオトレアモン 青柳瑞穂訳木馬社)の銅版挿絵を制作。昭和27年 第2回ルガーノ国際版画展に出品優秀賞。第8回サロン・ド・メイ「時間の迷路」出品。春陽会「裏庭」他4点出品。実験工房に参加。昭和28年 第2回日本国際美術展、「Radio activity in my room」「エチュード」出品。第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に「Poison de la unit」他5点出品。資生堂画廊で銅版画による最初の個展を開催。日本銅版画家協会設立に加わり理事になる。昭和29年 養清堂画廊で個展。3月渡仏、長谷川潔を訪ねる。5月にエドモン・ド・ロチルドコレクションの素描と版画展を見る。パリ国立美術学校のビュラン教室(ロベール・カミ教授)へ入る。昭和30年 レバークーゼン美術館での「パリの日本人画家展」、リュブリアナ国際版画ビエンナーレに出品。12月帰国。昭和31年 第2回現代日本美術展に「作品A、B」を出品。南画廊で個展、久保貞次郎を知る。昭和32年 日本国際美術展に「或る終曲」出品。小山正孝と『愛しあふ男女』(ユリイカ)刊行。昭和33年 現代日本美術展に「夜の森」「樹木」出品。ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「思い出」「束の間の幻影」「樹木」出品。南画廊で個展、安東次男を知る。昭和34年 日本国際美術展に「鳥と果実」を出品しブリヂストン美術館賞を受賞。第5回サンパウロ・ビェンナーレ展に「調理場」他9点出品。渡仏。昭和35年 南画廊で個展。現代日本美術展に「置かれた首」「静物」を出品。安東次男との詩画集『からんどりえ』(ユリイカ)、青柳瑞穂との『睡眠前後』(大雅洞)刊行。昭和36年 日本国際美術展に「二つの円周」、春陽展に、「青い家」出品。昭和37年 東京芸術大学美術学部、多摩美術大学の非常勤講師を委嘱される。フィレンツェ美術アカデミアの名誉会員となる。現代日本美術展に「受難」「晩餐」を出品。昭和38年 10月20日交通事故にあう。日本国際美術展に「版画」を出品。昭和39年 詩画集『距離』(永田茂樹 昭森社)、『断面』(馬場駿吉 昭森社)を刊行。昭和40年 日本国際美術展に「大洪水」出品。昭和41年 詩画集『人それを呼んで反歌という』(安東次男 ギャルリー・エスパース)、『詩集』(福永武彦 麦書房)、『鵜原抄』(中村稔 思潮社)を刊行。現代日本美術展に「食卓にて」「洪水」を出品。昭和42年 日本国際美術展に「孤独」、近代日本の版画展(東京国立近代美術館)に「束の間の幻影」「木ノ葉と飛んでいる鳥」出品。昭和43年 石川淳作『一目見て憎め』(俳優座公演)の舞台装置、衣裳を担当。『エッチング小品集』(版画友の会)を刊行。現代日本美術展に「オーフォルト1、2」を出品。昭和44年 現代日本美術展特別陳列「現代美術20年の代表作」に「森」出品。『季刊芸術』第3号から「銅版画の技法」を書き始める。『野間宏全集』第一巻に銅版画挿絵10点を制作。昭和45年 自由が丘画廊で個展。野間宏『夜のコンポジション』(青地社)、埴谷雄高『九つの夢から』(青地社)、金子光晴『よごれていない一日』(弥生書房)のため銅版画制作。昭和46年 東京芸術大学助教授となる。金子光晴の書画との銅版画展開催(小田急百貨店)。現代日本美術展に「星座A,B,C」出品。昭和47年 東京芸術大学教授となる。昭和48年 自由が丘画廊、渋谷西武百貨店で個展。詩画集『蟻のいる顔』(中央公論社)刊行。『駒井哲郎銅版画作品集』(美術出版社)刊行。昭和50年 7月渡仏、長谷川潔を訪ねる。11月パリのジュンヌ・グラビュール・コンタンポレーヌに招待出品。『恩地孝四郎画集』特製本(形象社)のために銅版画作成。自由が丘画廊で個展開催。昭和51年 11月20日死去。没後『銅版画のマチェール』(美術出版社)刊行。「アトリエC-126プリントショウ-師駒井哲郎に捧ぐ」展が銀座みゆ画廊で開催される。
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没年月日:1976/11/18 建築学者、日本建築学会名誉会員森井健介は、11月18日午後3時2分脳軟化症のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年88。明治20(1887)年12月23日東京市小石川区で生まれ、同44年東京帝国大学工科大学建築科を卒業、同年早稲田大学理工学部講師となり、大正3年10月東京美術学校教授に就任、昭和19年6月まで教鞭をとった。昭和25年から同32年までは法政大学教授をつとめ、その後もひきつづき同大学講師のほかその他の機関で教えた。その間、大正6年からと同9年から各2ヶ年日本建築学会理事として、昭和3年から同16年までは同会管事として同会の運営に尽力、同36年日本建築学会名誉会員に推挙された。また、宮内省内匠寮臨時蟻害調査事務嘱託(大正3年10月―同9年12月)、日本工学会事務嘱託(昭和5年1月―同9年12月)もつとめた。専門の建築学のほか、幅広い活動の中には関西地方風水害対策委員会委員なども含まれる。
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