秋山光夫

没年月日:1977/01/16
分野:, (学)

金沢美術工芸大学名誉教授、美術史家秋山光夫は、老衰のため1月16日、東京都世田谷区の自宅で死去した。享年88。明治21年4月3日、三島大社宮司秋山光條、安子の長男として静岡県田方郡に生まれた。秋山家は、古く甲州武田に仕えたが、武田滅後三州岡崎に住した。その後元文年中江戸に出て北町奉行与力となり、幕末まで七代にわたりその職をついだ。その間学芸、風雅の道を嗜む者多く、維新後光條は国学の素養を生かして明治政府の神祗官を務め、出雲大社ほか各官幣大社を歴任し、三島についで八阪神社宮司となり一家は京都に移った。光夫は、京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学したが、芸術への愛着断ち難く、京都帝国大学文科大学哲学科に転じて美学美術史学を専攻、大正2年7月卒業した。ついで大学院に入り、京都絵画専門学校などで美術史を講じたが、大正7年3月、図書頭兼帝室博物館総長、鴎外・森林太郎の推輓により宮内省図書寮に奉職、大正13年6月宮内省御物管理委員、15年4月帝室博物館監査官となった。昭和4年12月より同6年6月まで、海外における東洋美術研究及び美術館の施設研究のため欧米10ヵ国へ留学したが、その成果はやがて東京帝室博物館新館(13年12月開館、現東京国立博物館本館)の設備や陳列計画のなかに生かされ、また在外日本美術品の学界への紹介となった。同14年ベルリン日本美術展覧会委員、同16年6月文部省重要美術品等調査委員会委員となり、同17年7月東京帝室博物館学芸課長に就任、同20年8月退官した。同年10月日本美術協会専務理事、同25年4月金沢美術工芸短期大学教授、同30年4月金沢美術工芸大学教授、同40年2月金沢美術工芸大学長、同年5月石川県文化財専門委員となり、同42年11月金沢市文化賞を受賞、同44年3月学長を辞し、同年4月名誉教授となった。その他就任した役職としてはブリヂストン美術館参与、文化学院理事等がある。学長退任帰京後もなお調査研究への意欲衰えず、論文の執筆も行われたが、作歌や画作に心を澄ますことが多くなり、死去の前年末近くまで画筆を離さなかった。死去に際し勲三等に叙せられ、瑞宝章を授けられた。
その調査研究は、昭和2年以来毎秋特別調査に従事した正倉院御物に関するものをはじめ、絵巻物・中国画にも及んだが、その中心は桃山時代から江戸時代に瓦る絵画史研究であって、先駆的業績も少くない。論文の多くは『日本絵画史論攷』(昭和18年)に収められている。このほか著書として『御物若冲動植綵絵精影』(昭和2年)、『桃山時代障壁画集』(昭和4年)、『二条離宮障壁画大観』(昭和15年)、『青山荘清賞』日本画篇第二(絵巻物、昭和18年)があり、『東山水墨画集』、『宋元名画集』 の編纂に参画した。歌集に『開扉抄』(昭和41年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(253-254頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「秋山光夫」『日本美術年鑑』昭和53年版(253-254頁)
例)「秋山光夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9754.html(閲覧日 2024-03-29)

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