本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1976/11/15 南部釜師の記録選択無形文化財南部茶の湯釜の技術者、鈴木盛久は、11月15日午前0時25分、肝臓ガンのため岩手県盛岡市の盛岡赤十字病院で死去した。享年80。鈴木盛久は本名を繁吉(はんきち)といい、明治29(1896)年2月14日盛岡市に生まれ、15才のときから父の先代盛久に鋳造技術を学んだ。以後、盛岡にあって伝統的な南部鉄器製法の技術を研究し、大正13(1924)年、釜師として第13代盛久を継ぎ、その活躍は海外にも知られた。昭和49(1974)年には南部鉄器の伝統的技術保持者として国の無形文化財の技術者の指定をうけている。略年譜明治29年(1896) 2月14日、盛岡市に生まれる。大正12年 盛岡市長より模範技術士の称をうける。昭和4年 ベルギーのリエージュ万国博に出品、金賞をうける。昭和21年 日展に入選、以後毎回入選昭和27年 日展出品作「八卦文独楽釜」特選となる。第5回岩手日報文化賞をうける。昭和31年 秩父宮妃献上の茶の湯の湯釜を制作昭和32年 日ソ国交回復記念日本工芸美術展に出品、その技術をソ連から高く評価され、その作品はソ連の美術館へ収蔵される。昭和33年 岩手県紫波郡高金寺の梵鐘を制作。昭和34年 ベルギー・ブリュッセル万国博に出品、グラン・プリをうける。盛岡市制70周年記念文化芸術功労者に選ばれる。黄綬褒章をうける。昭和35年 日展委嘱となる。アメリカ・ウォーカー美術館現代デザイン展に出品。昭和36年 東京日本橋三越において第1回茶の湯釜展。昭和37年 大阪・好友クラブにおいて茶の湯釜展。昭和38年 東京日本橋三越において第2回茶の湯釜展。昭和39年 北九州市小倉区の浄土寺の梵鐘を制作。昭和40年 東京日本橋三越において第3回茶の湯釜展。昭和41年 岩手日報90周年記念行事として同社主催の茶の湯釜展を開催。この年、勲六等単光旭日章をうける。昭和44年 東京日本橋三越において第4回茶の湯釜展。昭和47年 東京日本橋三越において第5回茶の湯釜展。昭和48年 盛岡市にて喜寿記念茶の湯釜展。昭和49年 文化庁より記録選択無形文化財の技術者の指定をうける。昭和50年 岩手日報社主催の重要無形文化財指定記念展を開催。盛岡市本誓寺の梵鐘を制作する。昭和51年 11月15日、盛岡赤十字病院にて没。勲五等雙光旭日章をうける。
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没年月日:1976/11/14 皮革工芸(革染)作家の楠田撫泉は、肺炎のため、11月14日、京都市の平松外科病院で死去した。享年82。本名は信太郎で、明治27(1894)年2月14日、京都市に生まれた。始め日本画家の三宅呉暁に師事し、後、革染の製作を専門とするようになった。昭和2年帝展以降、帝展、文展、日展等に出品して独得の技法を生かした革染作品を発表した。日展依嘱作家。戦前のパリ万国博で金賞を受賞(外務省買上げ)した。
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没年月日:1976/11/10 日本画家木村斯光は、11月10日心筋こうそくのため、京都市の鞍馬口病院で死去した。享年81。本名健吉。明治28(1895)年5月9日京都市に生れ、京都市立美術工芸学校、同絵画専門学校卒業。大正7(1918)年菊池契月に師事した。同10年第3回帝展に「春宵」が初入選し、以後連年入選をつゞけ、第10回展に「牟礼の義経」では特選となり、翌年には無鑑査出品となった。帝展末期の頃には病がちのため出品もなく、その状態が戦後28年までつゞいた。昭和29年第10回日展に「静謐」を出品、第12回展では依嘱出品として「薄暮」を出品した。新日展にも委嘱出品し、「イヤリング」(第1回)、「序ノ舞」(第3回)、「鼓」(第6回)、「応接間の女」(第10回)などがある。昭和44(1969)年日展改組後は出品を止めたが、同48年には「京の百景」(京都府主催)のために「時代祭」を描いている。また昭和26年から29年にわたり東京三越で個展を開催、同42年には悠采会を設立し、京都高島屋で展覧会を開き、10回に及んだ。作品は専ら人物画を描き、ことに美人画を得意とした。主要作に「立華」(第6回帝展、京都市美術館蔵)、「牟礼の義経」(第10回帝展)などがある。
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没年月日:1976/11/05 重要無形文化財・伊勢型紙突彫技術保持者の南部芳松は、脳血栓のため、11月5日、三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年82。三重県鈴鹿市出身で、明治27(1894)年9月20日生まれ、明治39年4月、小学校を卒業してすぐから実兄の南部藤吉に師事して地元の伝統産業、伊勢型紙の彫刻師として厳しい修業を積み突彫の技術を受け継ぎ、その第一人者であった。昭和30年2月にその技術の重要無形文化財保持者に指定された。自身の技術研究を行う傍ら後継者の育成にも努め、昭和14年から昭和18年までと昭和21年から昭和29年まで伊勢染型紙彫刻組合長を務めた。昭和35年11月紫綬褒章受章、昭和40年11月勲五等雙光旭日章受章、昭和46年11月三重県民功労賞受賞。
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没年月日:1976/11/05 漫画家南部正太郎は、脳内出血のため11月5日兵庫県宝塚市の大室病院で死去した。享年57。大正7(1918)年11月23日大垣市に生まれ、昭和12年大阪市立都島工業学校建築科を卒業した。卒業後置塩建築事務所に勤務し、戦後漫画家となる。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、当時、大阪新聞と朝日新聞に連載した「ヤネウラ3ちゃん」は人気を得、代表作となった。作品にはそのほか「アブ山8之助」「のんびり君」などがあり、日本漫画家協会(関西支部)に所属する。生涯独身。
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没年月日:1976/10/31 洋画家、挿絵画家土井栄は、10月31日急性心衰弱のため埼玉県入間市の原田病院で死去した。享年60。本名栄司。大正5(1916)年1月9日山形県飽海郡に生まれ、昭和9年から本郷絵画研究所で岡田三郎助、辻永、中村研一らに師事、同13年菊池寛の小説の挿絵でデビュー以来、主に新聞、雑誌小説の挿絵画家として活躍した。はじめ自由美術協会に属したが、同39年退会し、同年の主体美術協会創立に参加、会員として制作活動を続けた。この間同40年以来3回にわたり欧州・地中海方面へスケッチ旅行にでかけ、たびたび個展を開催した。主体美術展の主な出品作に「牛と馬とA」(第8回)「轍」(第11回)「コンポジション」(第12回)などがある。
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没年月日:1976/10/27 日動画廊社長の長谷川仁は、10月27日午前1時45分、心不全のため東京・代々木中央鉄道病院で死去した。享年79。長谷川仁は、明治30(1897)年10月9日、牧師の家の14人兄弟姉妹の第7子として東京市牛込区に生まれ、明治43年茨城県笠間町立尋常小学校をおえ、私立聖学院中学をへて大正14(1925)年3月明治学院神学部を卒業。同年10月には長野県飯田の教会に牧師として赴任したが翌年東京へ帰り、横浜の海岸教会牧師から東京千住の食堂手伝いなどのあと、昭和3(1928)年友人の弟で洋画家であった松村建三郎の助言で洋画商を志し、秋に横浜貿易会館で洋画大展覧を開催、翌4年洗足幼稚園、5年多摩川園で日本洋画綜合展などを開いて基礎をつくり、昭和6(1931)年東京日本橋3丁目高能ビル1階に画廊「大雅城」を開いたが、同年9月には閉鎖、続いて11月3日に日本動産保険会社社長粟津清亮の援助で京橋区銀座5丁目の同保険会社ビル1階に「東京画廊」を開いた。翌7(1932)年1月に店名を「日動画廊」と改称、以後、同所でほとんど洋画だけ(一時期、工芸品も扱った)の画商として活動し、今日の洋画商界の先駆となった。個展としては昭和7年4月の草光信成水彩・油絵展を第1回展として、その後、鈴木千久馬展、高間惣七展、翌8年には木下義謙・雅子滞欧作品展(3月)、大沢昌助展(9月)など、9年にはブラジル経由で帰国した藤田嗣治の個展(2月)、海老原喜之助展(6月)などを開催した。特に、藤田嗣治展は大成功をおさめて注目された。その後の戦前の主な個展をあげると、毎年の藤田嗣治、海老原喜之助展などのほか、猪熊弦一郎展(10年11月)、中西利雄展(11年5月)、北川民次メキシコ展(12年11月)、野田英夫展(13年4月)、佐伯祐三遺作展(同9月)、松本竣介展(15年10月)などがあり、そのほかに個展を開いて画家としては、岡田謙三、山本鼎、三雲祥之助、児島善三郎、津田正周、熊谷守一、野間仁根、桂ユキ、林倭衛、福沢一郎などがある。また、個展開催はないが作品を扱った重要な画家としては藤島武二があった。戦後も、昭和20年9月の三岸節子展を皮きりに、各個展、画廊企画によるグループ展などをつぎつぎと開き、洋画界の発展に寄与した。昭和23年国際美術協会を組織してジュネーブ、パリで日本現代美術展を開き、28年藤島武二顕彰会を組織して本郷新作藤島武二像を東京芸術大学に寄贈、31年日本洋画商協同組合が設立されたとき理事長に就任し5期にわたってその任にあった。昭和39年銀座7丁目に新たに日動本店を開き、それを記念して太陽展を企画、第1回展を開催、同42年には若い世代の美術家のために昭和会をおこし昭和会賞を設け、以後両展とも毎年継続して開催した。昭和39年(1964)には月刊美術雑誌『絵』を創刊し、また個人画集などの美術書の刊行にもあたった。昭和40年(1965)には私財を投じて郷里の茨城県笠間市に財団法人笠間美術館を設立、多くの画家の自画像、パレットを蒐集した特色ある美術館として知られるにいたっている。東京銀座の画廊のほか、大阪、名古屋、熊本、仙台、米子などに支店を開設、昭和48(1973)年10月にはパリに進出してフォブール・サントノレ街にパリ日動を開設した。 美術界・美術市場におけるこうした功績によって、昭和42年藍綬褒賞をうけ、翌43年笠間市名誉市民となり、51年にはフランス政府よりコマンドール文化勲章をおくられた。著書に、『洋画商』(昭和39年)『へそ人生』(昭和49年、読売新聞社刊)がある。
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没年月日:1976/10/07 越前奉書紙づくりで重要無形文化財和紙づくり保持者(人間国宝)である岩野市兵衛は、10月7日脳血せんのため福井県今立郡の自宅で死去した。享年75。明治34(1901)年9月14日福井県今立郡に生れ、大正5年高等小学校卒業後、15才で家業の越前奉書の製紙に従事し、60年近く奈良時代と同じ伝統的な製法を守った。越前奉書は、木材パルプなどを混入せず、原料はコウゾだけによる手すき和紙で、武家の公用紙に使われた格調高いものである。今でも記録用紙や版画用紙として使われる。昭和43年手すき和紙の越前奉書をすくことで人間国宝に指定された。現在この伝統的な越前奉書をすくのは岩野のところだけで、伝統的製法を深く研究し、その長所を守り、優れた越前奉書をすくことに専念していた。昭和35年(1960)には桂離宮松琴亭の襖壁紙をつくっている。昭和46年11月勲四等瑞宝章。同51年11月従五位叙位。
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没年月日:1976/10/02 東京芸術大学名誉教授、建築家の岡田捷五郎は、10月2日午前5時30分、急性肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年81。岡田捷五郎は、号を蕉巴(しょうは)、明治27(1894)年11月24日、東京市牛込区に生まれ、大正2年早稲田中学校卒業、同4年4月東京美術学校図案科第2部(建築科)に入学、9(1910)年3月卒業、卒業制作によって日本美術協会より銅牌をうけた。大正9年3月~11月滝川工務店に勤務して建築設計に従事したが同年12月~11年11月まで赤羽工兵第一大隊に服務、除隊後は、兄岡田信一郎の建築設計事務所で設計を担当、大正13年11月から同15年1月まで建築視察のためヨーロッパ、アメリカを歴遊した。帰国後も岡田信一郎事務所において設計監理に従事し、一方、昭和2年(1927)6月から母校の東京美術学校建築科講師となり後進を指導、同18年5月には同校教授となった。また、昭和5年6月から11月には北アメリカ、カナダの各地を視察旅行し、昭和7年兄信一郎没し、そのあとをうけて建築設計事務所を自営した。昭和24年6月、東京芸術大学教授、37年3月停年のため退職、名誉教授となった。退職後は、南建設株式会社相談役、信建築事務所顧問、日本建築士会理事、及び理事長などをつとめた。昭和39年7月建設大臣より表彰状並びに銀盃、同40年11月には勲三等瑞宝章をうけ、没後、正五位に叙せられた。 設計監理に当った主なる作品に、銀座伊東屋、明治生命保険会社本社々屋、黒田清輝記念館(以上、兄信一郎設計に協力)、琵琶湖ホテル、高千穂ビル、京都田付商店、太陽生命保険会社京都支社、日本出版クラブ、旺文社本館などがある。
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没年月日:1976/09/26 日本芸術院会員鈴木翠軒は、9月26日、心不全のため東京都港区の済生会中央病院で死去した。享年87。本名春視。号は翠軒のほか、送夢、流萍、剪燭庵など。明治22(1889)年1月5日愛知県渥美郡に長尾久治郎の五男として生まれ、大正2年鈴木た志と結婚、改姓した。明治44年愛知県第一師範学校第二部を卒業、大正5年文部省習字科検定試験に合格、同8年上京し、丹羽海鶴に師事する傍ら府立五中教諭、開成中学教員を経て、昭和5年二松学舎修業、同年泰東書道院理事となる。同7年から13年まで文部省嘱託として「国定甲種手本」を揮毫、また同8年から24年まで文部省中等教員検定試験委員をつとめ、小中学校の書道教育に大きな影響を与えた。戦後も昭和27年、高等学校検定教科書「現代書範」、28年、小学校検定教科書「新書き方」を揮毫した。23年日展審査員、25年日本書作院会長、33年日展評議員、35年日展常務理事をつとめたが、44年日展改組に伴い、日展役員を辞した。31年から青雲会を主宰し、雑誌「青雲」を刊行した。32年第12回日展出品作品「禅牀夢美人」によって芸術院賞受賞、34年芸術員会員、43年文化功労者、49年勲二等瑞宝賞を受賞した。漢字は初唐の楷書をもとに空海、橘逸勢、嵯峨天皇の三筆を研究し、かなは寸松庵色紙をもとに枯淡な中に力強い書風を生みだした。著書に「翠軒書談」、「新講書道史」、「新説和漢書道史」、「翠軒いろは」などがある。参考「書人翠軒」(伊東参州編・昭和36年 二玄社)。
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没年月日:1976/09/11 ブリヂストンタイヤ(株)の創業者、ブリヂストン美術館創立者、久留米市名誉市民の石橋正二郎は、9月11日午前1時24分パーキンソン氏病のため東京日比谷病院で死去した。享年87。明治22(1889)年2月1日福岡県久留米市に生まれ、同39年久留米商業卒業。昭和6年ブリヂストンタイヤ(株)を設立、同38年まで社長をつとめたのち会長に就任、同48年からは相談役となった。東西の美術品の蒐集家としても知られ、レンブラント、モネ、セザンヌ、ゴッホなどのヨーロッパ絵画や、青木繁、坂本繁二郎ら日本作家の著名な作品は、昭和27年に設立されたブリヂストン美術館に収められ親しまれている。また、同29年ヴェネツィアのビエンナーレ日本館、同44年に東京国立近代美術館の建設費を寄贈したほか、久留米市の石橋文化センターの寄贈、私立久留米大学の設立など、文化、教育事業に尽した功績は大きく、この間、共立女子学園理事、津田塾大学監事、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、東京国立博物館の各評議員、日伊協会会長などをつとめた。これらの活動に対し、同33年藍綬褒賞、35年仏国よりレジョン・ドヌール勲章、36年伊国よりメリスト勲章を、39年には勲二等瑞宝章を受けた。没後従三位に叙し勲一等瑞宝章を追贈された。
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没年月日:1976/09/01 もと二科会会員、無所属の洋画家、名井萬亀は、9月1日午前7時50分、脳軟化症のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年80。名井萬亀は、明治29(1896)年2月1日、広島市に生れ、広島中学校から海城中学校に編入学、卒業後上京して本郷洋画研究所に学んだ。兵役に服務したあと家事に従事するかたわら絵画にたずさわったが、大正15年(1926)渡仏し、昭和8年(1933)まで滞在しサロン・ドートンヌ、アンデパンダン展など出品した。昭和11年東京上野で滞欧作による個展を開催、翌12年第24回二科会展に「静物」「風景」の2点を出品入選している。戦後は一時二科会に属したが直に脱退した。読売アンデパンダン展にも出品したが、その後は主として個展を開催して作品を発表していた。
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没年月日:1976/08/24 洋画家、版画家のアート・クラブ会員、小野木学は、8月24日午前3時30分、じん臓がんのため東京・千代田区の九段坂病院で死去した。享年52。小野木学は、大正13年(1924)1月13日東京都杉並区に生まれ、戦中から病弱であったため療養生活にあって絵画を独学独習、昭和28年(1953)第17回自由美術展に初めて作品「民話」を出品入選となった。昭和32年自由美術協会会員に推挙されたが、同38年退会し、以後は主として個展で発表活動をつゞけ、また版画でも国際展に出品授賞するなどの活躍をみせた。沈んだ色彩と簡潔なフォルム、独特の幾何学的な抽象絵画で注目され、また、絵本作家としても知られ、絵本挿画の制作も多いが、文・絵ともに作者の自作による『さよならチフロ』(こぐま社刊)、なかでも『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)は昭和45年度(1970)の第19回小学館絵画賞を授賞した。内外のいくつかの美術館にも作品が収蔵され、今後の活躍が期待されていた。略年譜大正13年(1924) 1月13日、東京・杉並区に生まれる。昭和28年 10月、第17回自由美術展に「民話」入選。大村連、加藤一らとグループ金曜会を結成。昭和30年 10月、第19回自由美術展「説得」出品。昭和31年 5月、村松画廊で第1回個展を開催。5月村松画廊で第2回個展。昭和32年 10月、第21回自由美術展「木馬と少年」、佳作賞を受け、会員に推挙される。昭和33年 8月、第2回シェル美術賞展に入選、佳作賞。10月、第22回自由美術展「装馬」「かほ」昭和34年 6月、村松画廊で第3回個展。10月、第23回自由美術展「戦史」。シェル美術展出品、2等賞をうける。昭和35年 秋山画廊で第4回個展。第4回安井賞展に出品。昭和36年 渡欧。10月、第25回自由美術展「ユニコーン」。昭和37年 渡欧。10月、第26回自由美術展「普通の風景」1、2。駿河台画廊企画展に出品。昭和38年 6月、秋山画廊で第5回展個展。自由美術協会を脱会。グループ金曜会を退会。昭和39年 5月、第6回現代日本美術展コンクール部門に「普通の風景」入選。秋山画廊で第6回個展。この年、埼玉県熊谷市駅前の藤間病院に砂岩によるレリーフの壁画装飾「生成」を制作する。昭和40年 4月、椿近代画廊で早川重章との二人展。7月、秋山画廊で第7回個展。昭和41年 9月、秋山画廊タブローによらない作品展に出品。昭和42年 9月、秋山画廊で第8回個展。昭和43年 7月、秋山画廊で版画展。11月、第6回東京国際版画ビエンナーレ展に「風景―RO」「風景―Y」出品。昭和44年 6月、秋山画廊で第9回個展。この年、第8回リュブリアーナ国際版画ビエンナーレ展に出品、ユーゴスラビア買上げ賞。この年、アメリカ、シンシナティ美術館に作品収蔵される。昭和45年 アメリカ、ロックフェラー財団に作品収蔵される。自作絵本『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)により第19回小学館絵画賞をうける。昭和46年 5月、第七画廊で第10回個展。7月、ギャラリー・ムカイで版画による個展。ブリュッセル現代日本画展に出品。昭和47年 東京国立近代美術館に版画「風景(点)―A」「風景―706」「風景―S.H.I」購入収蔵される。ポンベイ現代日本版画展、ワルシャワ現代日本版画展にそれぞれ出品する。雑誌『群像』の装幀を年間担当する。11月、第七画廊で第11回個展。昭和48年 横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。11月、みゆき画廊で版画による個展。昭和49年 1月、第七画廊で第12回個展。同月、くぼた画廊で第13回個展“小野木学の軌跡”開催。11月、横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。同月、アテネ画廊版画グループ展“伍人”に出品。メキシコ現代日本版画展に出品。第6回日本芸術大賞候補にあげられる。昭和50年 1月、第七画廊で第14回個展。3月、九州サン画廊(久留米市)作品展に出品。7月、ギャラリー・ココ、スルガ台画廊のグループ展に出品。10月、大分O.B.S美術サロン作品展に出品。この年、文化庁、熊本県立美術館に作品収蔵される。昭和51年 7月、スルガ台画廊のグループに出品。ベルギー・ゲント現代日本版画展に出品。イタリア・フェラーラ現代版画展(南天子画廊企画)に出品。8月24日、東京・千代田区九段坂病院において死去。
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没年月日:1976/08/16 日本画家、日本画府理事池田幸太郎は、8月16日老衰のため東京都世田谷区で死去した。享年81。明治28年(1895)3月28日佐賀郡に生まれ、大正2年佐賀中学卒業後上京し、川端画学校で結城素明の指導を受けた。大正10年東京美術学校日本画科卒業、在学中から同14年頃まで本郷洋画研究所に通い人体デッサンを続けた。同14年帝展に「染井釣堀の図」が初入選し、徳田秋声の推奨を受けるなど、昭和初期にかけて一連の東京風物を描いたが、昭和8年頃から官展出品をやめ、専ら独自の制作活動を行った。この間、外房他に毎年写生に出かけ風景画を多く残したほか、昭和38年には請われて日本画府に所属、理事として同展に出品を続けた。代表作に「咏子の座像」(1921年)「朝市」(1927)「隅田川」(1933)など。
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没年月日:1976/08/12 日本画家茨木杉風は、8月12日胃炎のため中野区の自宅で死去した。葬儀は新宿区信濃町の千日谷会堂で新興美術院葬をもって行われた。享年78。本名芳蔵。明治31(1898)年2月8日滋賀県近江八幡市の海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れ、八幡商業学校を卒業した。大正9(1920)年3月水墨画に新境地を展開した近藤浩一路に師事し、4月太平洋画会研究所に入学した。大正11年第9回院展に「八木節」が初入選し、昭和5(1930)年日本美術院院友となった。翌年2月渡欧し、エジプト、フランス、スペイン、イタリアなどを巡遊し、この年帰国した。昭和12(1937)年、日本美術院院友を辞して、同志10名、(茨木杉風、小林三季、小林巣居、鬼原素俊、芝垣興生、保尊良朔、吉田澄舟、内田青薫、田中案山子、森山麥笑)と、「自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する」目的をもって、あらたに公募団体新興美術院を創立した。以後、同院を主もな発表の場として制作活動をつづけた。戦時中は海軍報導班員として南方に派遣され、海軍記録画「潜水艦の出撃」を制作した。戦後は、戦争のため中絶していた新興美術院を同志8名(旧同人6名に他2名。)で再興、再興新興美術院第1回展を昭和26年6月東京都美術館に開催した。戦後も専らここを舞台に活動をつづけた。代表作に「近江八景」(6曲4双、1943)「南海驟雨」(6曲1双、1944)「しぶき」(4曲1双、1951)などがある。その作品はいづれも写生にもとづく水墨画で、郷里琵琶湖の風景を好んで描いたが、そのほかにも欧洲風物や、京洛風景など幅広く取材され、色彩をほどこした一種粘りのある筆致は、清雅な特有の作風を示した。略年譜明治31年(1898) 2月8日、近江八幡市、海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れる。大正9年 3月、近藤浩一路に師事。同年4月、太平洋画会研究所へ入学。大正11年 第9回院展「八木節」入選昭和5年 日本美術院院友となる。昭和6年 2月渡欧、エジプト、フランス、スペイン、イタリーを主に西欧美術研究、同年帰朝。昭和12年 日本美術院院友を辞して同志10名と公募団体新興美術院を創立、その会員となる。昭和13年 第1回展「漁村冬日」出品。昭和18年 第6回展「近江八景」6曲4双出品。昭和18年 6月1日、海軍報道班員として南方に派遣され、海軍省委嘱の記録画作成の写生をなし8月帰還す。昭和18年 11月末、海軍記録画「潜水艦の出撃」横6.9米、竪2.5米の大作を完成、海軍省納入。昭和19年 大東南宗院に「奥州平泉桜」(2曲1双)、「三千院の初夏」出品。海洋美術展に「南海驟雨」(6曲1双)出品。昭和20年 4月、郷里近江八幡に疎開す。11月、郷里に於て紙本小品個展開催。昭和21年 東京の画室、無事のため3月帰京す。5月、越後与板にて「与板十二景」完成。7月、三越にて同志と小品展を開催。昭和25年 10月、戦争のため中絶せる新興美術院を同志8名と再興、その創立会員となり、事務所を自宅に置く。昭和26年 6月、再興第1回新興美術展を東京都美術館にて開催、「しぶき」(4曲1双)出品。同年11月同院秋季展を銀座三越にて開催、「雪晨」出品。昭和28年 1月、朝日新聞社秀作美術展に「浅草」出品。昭和30年 12月、社団法人新興美術院の認可あり同法人理事となる。昭和45年 漱石文学全集(集英社)「我輩は猫である」(第1巻)の挿絵を描く。昭和51年 8月12日、自宅にて逝去。昭和51年 10月26日、日本橋三越本店に於て、個展を開催。
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没年月日:1976/07/15 版画家、日本版画家協会会員、国画会会員山口源は、7月15日午後11時36分静岡県 沼津市の岩井医院で死去した。享年79。本名源吾。明治29(1896)年10月23日静岡県富士郡(現富士市)田子浦柳島19番地に生まれた。青少年期を台湾で過し、その頃版画家藤森静雄を知ったのが後年版画へ進む機縁となる。大正12年関東大震災後上京し藤森に再会、その後恩地孝四郎の門を叩き、日本創作版画協会展に出品した。戦中から戦後しばらく続いた恩地を中心とする版画家の研究会一木会に加わり、ここで関野準一郎らと知り合った。また、昭和18年日本版会協会会員、同24年には国画会会員となった。同19年10月頃沼津市へ疎開し、晩年に至るまで当地で制作を続け、同31年養清堂画廊での個展以来毎年個展を開催したほか、同33(1958)年3月第5回スイス、ルガノ国際版画展でグランプリ受賞、同年6月スイス、グレンヘンのトリエンナーレで佳作賞を受けるなど、木版による抽象の作風は戦後柔軟な成熟をみせた。代表作に「能役者」(ルガノ、国際版画展、1958)「許容」(グレンヘン国際版画展1958)「熱望」(日本版画協会展、1974)など。
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没年月日:1976/07/13 日本画家で舞台美術、TVの分野にも活躍した鳥居清忠は、7月13日肺ガンのため神奈川県伊勢原市の東海大附属病院で死去した。享年75。明治33(1900)年11月21日鳥居派七代目宗家の家に生れ、大正3(1914)年立教中学を中退して小堀靹音に師事し、大和絵、有職故実を学んだ。翌年には言人と号し、絵の修業をする傍ら“演芸画報”などの挿絵や、芝居の絵番附などを描いた。大正7年(1918)芝居絵に関連する画だけにあきたらずして、鏑木清方に師事して、美人画を学んだ。昭和4(1929)年には鳥居派八代目を継承し、この頃より“言人版画”という美人画版画を数多く制作した。昭和10年号を清言と改め、専ら作画生活をつづけ、昭和27年美人画「髪」が第8回日展に入選した。昭和16(1941)年父七代目清忠死去により、昭和37(1962)年父の名跡をついで清忠と改名した。鳥居派は、抑揚ある線描、けばけばしい泥絵具、瓢箪のような足の形など独特の様式を具え、歌舞伎の絵看板などとは不離の関係にあって懐しいものだが、清忠のあと後継者がない。清忠のほか、戦争中から昭和45年の春まで歌舞伎の看板は、先代清忠の弟子鳥居忠雅がかいていた。昭和45年忠雅急逝し、清言が再び歌舞伎の看板をかくようになった。なお清忠は昭和41(1966)~47(1972)日本大学芸術学部演劇科の講師をつとめ、舞台美術について教えていた。
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没年月日:1976/07/01 武蔵野美術大学教授、西洋美術史専攻の瀬戸慶久は、7月1日、午前6時50分、肝不全のため東京・赤坂の虎の門病院で死去した。享年49。瀬戸慶久は、大正15(1926)年9月29日、東京都杉並区に生まれ、東京高師附属中学校をへて、昭和22年早稲田大学文学部芸術学科に入学、昭和25(1950)年3月卒業、同大学文学部大学院にすすみ西洋美術史を専攻し昭和29年同大学院を修了して早稲田大学文学部助手となった。昭和34年(1959)4月武蔵野美術大学講師、同39年4月武蔵野美術大学助教授となり西洋美術史の講義を担当、同44年(1969)4月同美大教授となった。西洋の近世美術史、とりわけスペイン美術史を専門に研究をつづけ、かつその成果を発表していた。昭和45年朝日新聞主催スペイン美術展では実行委員をつとめた。主要な著書、訳書、論文は下記のとおりである。主要著作目録* 著書・訳書スペイン絵画のルネッサンスとバロック(世界名画全集8) 平凡社 昭和35年9月ブリューゲルとその時代(共著、別冊みづゑ33) 美術出版社 昭和37年7月ゴヤの生涯(共著、別冊みづゑ) 美術出版社 昭和37年10月幼想の絵画(近代世界美術全集8) 社会思想社 昭和38年9月芸術形式の起源(ハーバード・リード著) 紀伊国屋書店 昭和41年7月ゴヤ(ホセ・グディオル著) 美術出版社 昭和41年10月西洋美術事典(共訳、ピーター・マリー著) 美術出版社 昭和43年4月エル・グレコ(レオ・ブロンスタン著) 美術出版社 昭和44年7月イギリス 2、作品解説(原色世界の美術9) 小学館 昭和45年3月ドイツ・オーストリア1作品解説(原色世界の美術) 小学館 昭和45年グレコ、ベラスケス、ゴヤ作品解説(スペイン美術) 朝日新聞社 昭和46年12月グレコ、ベラスケス、ゴヤ(ファブリ研秀 世界美術全集5巻) 研秀出版 昭和50年8月* 論文、書評エル・グレコの現代における評価について 早大文学部編 綜合世界文芸 昭和29年7月ザーリス著「古代とルネッサンス」(書評) 美学30号 昭和33年9月エル・グレコの作品解釈の問題 美学35号 昭和33年12月レンブラントの生涯 学燈59-11 昭和37年11月原作と再作品―複製の問題 美術史研究4号 昭和41年3月絵画の技法―素地の材料と道具 武蔵野美大編研究紀要5 昭和43年3月ペヴスナー著「美術アカデミーの歴史」(書評) 中央大学「学員時報」 昭和49年9月
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没年月日:1976/06/27 日本画家猪田青以は、6月27日食道ガンのため京都市の京都府立病院で死去した。享年70。本名安治郎。明治39(1906)年1月24日京都市に生れ、昭和2年(1927)京都市立絵画専門学校を卒業した。西村五雲に師事し、昭和13(1938)年五雲没後は、山口華楊によって継承された画塾晨鳥社幹部としてあり、官展に出品した。昭和6(1931)年第12回帝展に「閑日」が初入選以来入選を重ね、帝展ではそのほか第13回「晩春」、第14回「軍鶏」、第15回「閑」などの出品がある。新文展では昭和13年(1938)第2回文展「日午」、同15年紀元2600年奉祝展「神苑の花」第6回「闘魂」などがある。戦後の日展では昭和30(1955)年第11回「ウーダン」、第12回「白い花」、第13回「菱」ほかがあり、日春展にも第1回(1966)展「花咲くほてい草」(奨勵賞)ほか数多くの出品がみられ、第3回展「篠」では日春賞となり、第9回「川の畔」では外務省買上げとなった。そのほか関西における関西綜合美術展、日本画審査員、京都府総合日本画展、京展で受賞するなどの活躍がみられ、また川島浩との二人展(1961)、青以素描展(1966)なども開催している。
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没年月日:1976/06/26 独立美術協会会員の洋画家、高畠達四郎は、6月26日午前4時7分、心筋こうそくのため東京都港区の自宅で死去した。享年80。高畠達四郎は、明治28(1895)年10月1日、東京神田の雑穀問屋村新(屋号)に生まれ、東京高等師範学校附属小、中学校をへて慶応義塾大学理財科(現・経済学部)に入学したが、画家を志望して中退し、帝展に出品したあと、大正10(1921)年渡欧、昭和3(1928)年までフランスに滞在した。その間、アカデミー・ランソンでモーリス・ドニ、ピエル・ボナールなどに学び、滞仏後半期には、アンドレ・ドラン、モイーズ・キスリングなどの作風に傾倒し、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンに出品した。藤田嗣治、福島繁太郎、辰野隆らと交友し、福島コレクションにも関係した。帰国後、国画会に作品を発表したが、昭和5年、伊藤廉、林武、三岸好太郎らと独立美術協会を創立、以後、独立展を中心に活躍して作品を発表した。戦後しばらくは疎開先の熱海市に居住し、昭和26(1951)年第5回美術団体連合展に出品した「暮色」で第3回毎日美術賞(昭和27年1月)を受けた。素直な自然観照による素朴な、プリミティヴィスムを感じさせる独自な様式を確立し、以後、ほとんど風景を主として製作したが、昭和28(1953)年の渡欧を皮きりにその後しばしば渡欧し、内外の風景を多く描いた。昭和51年5月、生涯にわたる大回顧展を開催したが、その1ヶ月後に死去した。略年譜明治28年(1895) 10月1日、東京市神田区に高畠新吉・たまの四男三女の末子として生まれる。家業は雑穀問屋、屋号村新。明治32年 4月、東京女子高等師範学校幼稚園に入る。同窓にのちの仏文学者鈴木信太郎がいた。明治35年 4月、東京高等師範学校附属小学校に入学。同窓に鈴木信太郎、石川欣一、福島繁太郎、荘清彦、岩崎彦弥太がいる。この頃、駿河台、湯島の聖堂、神田明神など行動範囲がひろがる。明治41年 3月、東京高等師範学校附属小学校卒業、唱歌、図画、体操の成績がとくに良かった。4月、東京高等師範学校附属中学校に入学、担任教師諸橋轍次、柔道、水泳、野球などのスポーツに熱中する。柔道初段大正2年 3月、東京高等師範学校附属中学校を卒業。4月、第七高等学校文科、海軍兵学校に合格するも入学せず。大正3年 4月、慶應義塾大学理財科に入学。大正5年 12月、画家志望の念強まり、慶応義塾大学理財科を中退、しばらく本郷洋画研究所に通う。大正8年 2月、光風会第7回展に出品、初入選となる。大正10年 10月、第3回帝展に「Hの肖像」が入選となる。11月、神戸を出帆、渡仏の途につく。12月、パリ着、ト゛ランブル街に落ちつく。大正11年 1月、アカデミー・ランソンに通いはじめる。講師にモーリス・ドニ、ピエル・ボナール、エドワール・ビュイヤールなどがいた。このとし、地震学の石本巳四雄、仏文学者辰野隆、山田珠樹、音楽の加藤成之らと知り合い、観劇や音楽会にともに行く。ベルギー、ドイツ、オーストリー、ハンガリー、イタリアなどにも旅行する。大正12年 このとし、アトリエをロルヌ街に移す。同番地に福沢一郎、中山巍、大石七介がいた。このころアンドレ・ドラン、アンドレ・ロート、モーリス・ドニ、モイーズ・キスリングに傾倒する。秋、友人の福島繁太郎がパリに来、旧交をあたためる。大正14年 10月、第6回帝展に「冬のカッシス」が入選する。滞仏中サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンにも出品。このとし、友人の鈴木信太郎をパリに迎える。昭和3年 8月、滞仏7年の生活を終えて帰国、小石川区に居を構える。9月、第15回二科会展に「シャティヨン風景」「プチ・ジャン」「静物」を出品。昭和4年 5月、梅原龍三郎のすすめにより第4回国画会展に滞欧作12展、「厨」「ダルレー広場」「浴女」「裸体」「少女」「シャチオン」「顔」「フォンテンブロー」「肖像」「春日風景」「風景」「静物」を出品、会友に推される。昭和5年 2月、第5回国画展に「静物1」「静物2」「郊外風景」「子供」「女」を出品、会員となる。3月、第2回聖徳太子奉讃美術展に「老人」を出品。11月、三岸好太郎、児島善三郎、林武、林重義、清水登之、伊藤廉、川口軌外、中山巍、鈴木亜夫、鈴木保徳、福沢一郎、里見勝蔵、小島善太郎とともに独立美術協会を設立、創立会員となる。昭和6年 1月、第1回独立展に「プチ・ジャン」「コンポジション」「二人少女」など10点を出品。2月、石川文子と結婚す。昭和7年 1月、長男正明生まれる。3月、第2回独立展に「汽車内」「黒衣少女」など6点を出品。4月、父新吉没(84歳)。昭和8年 3月、第3回独立展に「卓上花束」「出稼の群」「雪景」を出品。9月、長女由貴子生まれる。昭和9年 3月、第4回独立展に「レダ」「鶴」を出品。5月、母たま没(78歳)。昭和10年 3月、第5回独立展に「石膏と花束」「漁港」「静物」「店頭」「馬と人」を出品。東京府美術館10周年記念現代綜合美術展に「老人」(1930)がえらばれる。昭和11年 4月、第6回独立展に「薔薇」「金鵄」「海岸」「静物(石膏)」を出品。昭和12年 3月、第7回独立展に「海女」「海幸」を出品。4月、帝国美術学校西洋画科教授となる。昭和13年 3月、第8回独立展に「彫刻室」「鳩」「窓」を出品。7月、日動画廊で初の個展「高畠達四郎第1回近作展」を開催、「石膏と花」「果物」など20展余を出品する。昭和14年 3月、第9回独立展に「夜雪」「ランプと女」「花」「岬」を出品。昭和15年 3月、独立美術協会第10回記念展に「農夫」「働く男」「静物」を出品。7月、二男未明生まれる。10月、紀元2600年奉祝美術展に「夜店」を出品。昭和16年 3月、第11回独立展に「由貴子(八歳)の像」「春野」「漁村」を出品。昭和17年 3月、第12回独立展に「岩村造船所」「花束」「角力」を出品。昭和18年 3月、第13回独立展に「収穫」「富士」「熱海」「静物」を出品。このとし、満州を旅行する。昭和19年 2月、第14回独立展に「新京の関帝廟」「満州の街」を出品。昭和20年 4月、小石川のアトリエ、空襲で焼ける。熱海市の別荘に移居する。このとし、第2次世界大戦終結。昭和22年 4月、第15回独立展に「由貴子の像」「熱海」「バラ」「冬曇」を出品。6月、第1回美術団体連合展に「曇」「麦畠」を出品。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に「未明の像」「熱海風景」を出品。10月、第16回独立展に「樟樹」「西野元氏像」「静物果物」「春庭」を出品。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に「街道」を出品。10月、第17回独立展に「風景」「無電局」「冬」「夏」を出品。昭和25年 3月、フォルム画廊で個展を開催。5月、第4回美術団体連合展に「熱海梅園」を出品。10月、第18回独立展に「橋(釧路)」「春(熱海)」「霧(釧路)」を出品。昭和26年 1月、第2回秀作美術展に「熱海梅園」がえらばれる。2月、第3回読売アンデパンダン展に「静物」を出品。5月、第5回美術団体連合展に「暮色」を出品。10月、第19回独立展に「巴里広場」「プチ・ジャン」を出品。第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「熱海風景」を出品。12月、フォルム画廊で個展を開催。昭和27年 1月、「暮色」(第5回美術団体連合展出品作)に対して第3回毎日美術賞が贈られる。第3回秀作美術展に同作品がえらばれる。2月、第4回読売アンデパンダン展に「畑」を出品。5月、第1回日本国際美術展に「春」「麦」「風景」を出品。東京芸術大学講師となる。10月、第20回独立展に「浅間山」「浅間山(夕)」「八ツ岳」を出品。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「浅間山」がえらばれる。2月、第5回読売アンデパンダン展に「城」「瀬戸内海」を出品。3月、東京芸術大学講師を辞す。渡仏。9月、国立公園絵画展に「琴平宮」を出品。10月、第21回独立展に「ノートルダム」「パリの遊覧船」「河」「戴冠式」を出品。昭和29年 2月、イギリスをまわって帰国。3月、サヱグサ画廊で高畠達四郎滞欧作油絵鑑賞展を開催、16点を出品。5月、第1回現代日本美術展に「コロップの林」「救命船」を出品。10月、第22回独立展に「肖像」「初秋梅園」を出品。昭和30年 5月、第3回日本国際美術展に「裸木と海」「春雪(熱海)」を出品、佳作賞を受賞する。10月、第23回独立展に「家」「静物」「梅園紅葉」を出品。昭和31年 1月、第7回秀作美術展に「春雪」がえらばれる。4月、神奈川県立近代美術館で高畠達四郎・岡鹿之助の二人展が開催され、69展が出品される。5月、第2回現代日本美術展に「梅」「山脈」を出品。10月 第24回独立展(創立25周年記念)に「裸木」「花と浅間」「樹木(熱海風景)」を出品。このとし、居を港区に移す。昭和32年 1月、第8回秀作美術展に「梅」がえらばれる。5月、第4回日本国際美術展に「石垣と木」を出品。10月、第25回独立展に「岬(伊豆赤沢)」「唐松と雲」を出品。昭和33年 1月、第9回秀作美術展に「岬」がえらばれる。2月、第2回国際具象派美術展に「望洋」「樹蔭」を出品。5月、第3回現代日本美術展に「風景A」「風景B」を出品。10月、第26回独立展に「丘(保土ヶ谷)」「山桃と海」「馬車」を出品。昭和34年 1月、第10回秀作美術展に「丘(保土ヶ谷)」がえらばれる。5月、第5回日本国際美術展に「春樹」を出品。10月、第27回独立展に「花と浅間山」「熱海」「道と海」を出品。11月、毎日美術賞10年記念展に「暮色」(1951)、「戴冠式」(1953)、「滞船(江之浦)」(1958)、「自転車」(1959)、「浅間山」(1959)がえらばれる。昭和35年 1月、第11回秀作美術展に「道と海」がえらばれる。4月、第3回国際具象派美術展に「樟と海」を出品。5月、第4回現代日本美術展に「岬(熱海)」「風景(熱海)」を出品。10月、第28回独立展に「大王崎灯台」「双柿樹」を出品。このとし、親友福島繁太郎没(65歳)。昭和36年 5月、第6回日本国際美術展に「風景」を出品。10月、第29回独立展に「巨樹」「高原と馬」を出品。昭和37年 4月、武蔵野美術大学講師となる。5月、第5回現代日本美術展に「風景(軽井沢)」「漁港鵜原」を出品。国際形象展に創立同人として参加し、第1回展に「漁村(須崎の家)」「高原風景」「石垣の村」を出品。このとし、新橋演舞場のどん帳「双思樹」完成。昭和38年 5月、第7回日本国際美術展に「櫟と空」を出品。7月、北京、上海で開催の現代日本油絵展に「高原と馬」を出品。10月、第2回国際形象展に「蝶を狙う魚」「雪景(軽井沢)」「乗馬高原」「画家と家族」を出品。第31回独立展に「村落(軽井沢)」「窓辺静物」を出品。昭和39年 1月、第15回秀作美術展に「暮色」がえらばれる。2月、武蔵野美術大学教授となる。3月、渡欧。パリ、ベニス、フィレンツェ、マドリード、バルセロナをまわる。5月、第6回現代日本美術展に「白と栗毛」を出品。昭和40年 1月、帰国。6月、「毎日美術賞受賞作家シリーズ・高畠達四郎展―受賞作から滞欧作へ-」が毎日新聞社の主催により東京高島屋、大阪大丸で開催される。10月、第33回独立展に「初秋浅間」「秋果静物」を出品。このとし、大阪中之島住友生命ビルに壁画「幻想のパリ」を完成。昭和41年 1月、第17回秀作美術展に「花のノートルダム」がえらばれる。5月、第7回現代日本美術展に「古寺(ヴェズレー)」を出品。6月、神奈川県立近代美術館の近代日本洋画の150年展に「静物」(1954)がえらばれる。10月、長野県信濃美術館の日本の洋画100年史展に「ノートルダム」(1964)がえらばれる。第34回独立展に「軽井沢風景」「秋果静物」を出品。第5回国際形象展に「ダリアの静物」「初秋浅間高原」を出品。12月、渡欧。昭和42年 10月、南仏、イタリア各地、ポルトガルなどで制作し帰国する。第35回独立展に「オーヴェル古寺」「ニースの冬」を出品。近代洋画名品展(名古屋)に「プチ・ジャン」(1928)がえらばれる。昭和43年 2月、パリで藤田嗣治の葬儀に参列。4月、フランス、イタリア、ポルトガル各地の風景を主題とした滞欧作品展を日動画廊で開催。5月、第8回現代日本美術展に「二重橋」を出品。10月、第36回独立展に「京子の像」「モンテカルロ」を出品。昭和44年 5月、第9回現代日本美術展―現代美術20年の代表作展―に「裸木と海」(1955)がえらばれる。10月、第37回独立美術展に「初秋浅間」「ニース散歩道」を出品。昭和45年 10月、第38回独立展に「エトルタ」「浅間山」を出品。昭和46年 4月、東京国立近代美術館の近代日本美術における1930年展に「プチ・ジャン」(1928)、神奈川県立近代美術館の戦後美術のクロニクル展に「暮色」(1951)がえらばれる。10月、第39回独立展に「離れ山」「犬吠埼燈台」を出品。昭和47年 10月、第40回独立展に「サンクルー(パリ郊外)」「ニース夜景」を出品。マントン、べチネア、サンマルコの風景を主とした小品展を日動画廊で開催。新潟県美術博物館の近代日本洋画の巨匠たち展に「暮色」(1951)、「静物」(1955)がえらばれる。昭和48年 10月、第41回独立展に「シシリー・カルタジローネの町」「セーヌ河岸」を出品。昭和49年 10月、第42回独立展に「上高地」「ヴィンチ村」を出品。昭和50年 3月、茨城県立美術博物館の近代日本洋画の巨匠展に「暮色」(1951)がえらばれる。10月、第43回独立展に「浅間山」「花」を出品。昭和51年 1月、水彩素描展を日動画廊で開催。4月、日本の四季展に「暮色」(1951)がえらばれる。5月、日本経済新聞社主催「素朴な心の巨匠・高畠達四郎展」が東京・高島屋で開催される。6月26日午前4時7分、心筋コウソクのため東京都港区の自宅で死去。7月3日 東京・青山葬儀所において独立美術協会葬(喪主・妻文子、葬儀委員長土方定一)として告別式が行われる。同日、旭日中綬章を贈られる。(本年譜は、昭和51年5月の「素朴な心の巨匠・高畠達四郎展」目録所収の年譜〔作成・弦田平八郎〕より転載、一部を訂正、追加した)
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