本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





隈元謙次郎

没年月日:1978/01/25

美術史家隈元謙次郎は、1月25日前立腺がんのため、東京目黒の国立第二病院で死去した。享年74。明治36年(癸卯)1月28日鹿児島市に生れ、第七高等学校造士館理科乙類を経て、昭和3年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、大学院を同6年3月修了した。昭和7年6月当所の前身である、帝国美術院附属美術研究所に入り、日本近代美術の研究に従事した。以来没するまでの約半世紀近くを、専ら近代美術全般の調査研究と、研究所における基礎資料の収集整備に尽瘁した。研究面では昭和14年3月「明治初期来朝イタリア美術家とその功績」によって、前年イタリア政府中亜極東協会により設定された第一回レオナルド・ダ・ヴィンチ賞を受賞し、学界に一躍その存在を重からしめた。そのほか研究所機関誌の「美術研究」誌上に、逐次多数の精緻にして実証的論文を発表したが、これは昭和39年修正され、『近代日本美術の研究』として上梓された。この本に収録されるもの以外では、黒田清輝、浅井忠、藤島武二等の評伝、『黒田清輝日記』『十三松堂日記』等の編集がある。晩年は岡倉天心の研究をすすめ、氏を中心に大規模にして完璧を期した天心全集の刊行が企画されたが、その出版を見ずして了った。そのほか、研究所事業の一環として、昭和10年以来「日本美術年鑑」の刊行をつづけているが、その編集の指導に当り、その出版は美術界に寄与するところが少なくない。一方、その指導の下に整備された研究所の近代美術関係資料は、他に類をみず研究者をはじめ、その恩恵に浴するものは多い。以上研究執筆以外の美術行政面においても、東京国立近代美術館運営委員(昭27.9.1~41.3.31)、同評議員(昭46.3.1~53.1.25)として運営、購入等にあたり、東京都美術館においても同様、運営審議会委員、(昭40.4.1~52.3.31)これ以前は参與会委員として尽力した。また文化財保護審議会臨時専門委員として、近代美術の指定審議にあたり、文化勲章授賞選考委員(昭和50年度)もつとめ、或いはまた財団法人博物館明治村評議員(昭37.12~)として、その運営及び作品の収集に参与した。没後、明治美術の史的研究その他の功績によって第4回明治村賞が授与された。教育方面では、研究所在職中に女子美術大学の講壇にたち、退職後は、東京家政大学教授(昭41.4.1~49.3.31)として教鞭をとった。このように美術史学者としての広汎な活動がみられるが、とりわけ研究面での近代美術におけるパイオニヤ的その仕事は、未だ大筋においてこれを凌駕するとみられるものはなく、近代美術の研究にたずさわる者は、必ず一度は氏の研究を繙かねばならないのが常である。人柄はまた常に温厚篤実にして、時に磊落であり、酒を愛し薔薇づくりを楽しんだ。主要著作目録書名 発行所 発行年明治初期来朝伊太利亜美術家の研究 三省堂 昭和15年ヴァザリ美術家伝(1)-共訳 青木書店 昭和18年ヴァザリルネサンス美術家伝(1)-共訳 萬里閣 昭和23年黒田清輝素描集 国立博物館 昭和24年近代の洋画(上)―近代日本美術全集第3巻 東都文化交易 昭和28年近代の洋画(下)―同第4巻 同 昭和29年黒田清輝作品集 東京国立文化財研究所 昭和29年藤島武二 美術出版社 昭和30年黒田清輝名画集―文部省幻灯画第20集 文部省 昭和31年明治・大正・昭和「見る美術史」 アトリエ社 昭和31年黒田清輝―日本近代絵画全集第2巻 講談社 昭和37年浅井忠―同第1巻 同 昭和38年菱田春草の名作 長野県下伊那教育会 昭和37年浅井忠―日本近代絵画全集 講談社 昭和38年黒田清輝日記 中央公論美術出版 昭和41年黒田清輝 日本経済新聞社 昭和41年明治-日本絵画館9(共著) 講談社 昭和45年浅井忠 日本経済新聞社 昭和45年黒田清輝―近代の美術6 至文堂 昭和46年黒田清輝―日本の名画30 講談社 昭和47年浅井忠・黒田清輝―現代日本美術全集(共著) 集英社 昭和48年岡倉天心全集―全8巻、別巻(共編) 平凡社 昭和55年 主要論文目録題名 図書名 発行年明治以降日本美術の発達 日本諸学振興委員会報告第6篇 昭和15年岡田三郎助伝(共著) 画人岡田三郎助(美術出版社) 昭和17年明治洋画史上に於ける二潮流 美術研究叢書(2)(白鳳書院) 昭和22年明治前期の西洋画 世界美術全集(25)(平凡社) 昭和26年明治の美術 明治文化史第1巻(開国100年記念事業会) 昭和30年下村觀山 現代日本美術全集(1)(角川書店) 昭和30年明治期の洋画 同(2)(同) 昭和30年黒田清輝 同(2)(同) 昭和30年満谷國四郎 同(4)(同) 昭和30年明治時代の絵画・彫刻 図説日本文化史大系(11)(小学館) 昭和31年橋本雅邦 橋本雅邦名作展図録(東京国立博物館) 昭和32年南薫造画伯の作品 南薫造画集(同刊行会) 昭和32年佐伯祐三論 佐伯祐三(美術出版社) 昭和33年藤島武二 近代の洋画人(中央公論美術出版) 昭和34年明治期の絵画 日本美術全史(下)(美術出版社) 昭和35年近代洋画の発足 世界名画全集(22)(平凡社) 昭和35年戦時体制に組みこまれた絵画 同(24)(同) 昭和35年Intellectual and Aesthetic Current Japan,1775-1905 The Prubcupal Journal of World History Vol.VI(Baconmiere Neuchatel) 昭和35年和田英作の横顔 和田英作遺作展図録(大塚巧芸社) 昭和36年藤島武二の人と作品 世界名画全集続巻(6)(平凡社) 昭和36年佐伯祐三の人と作品 同(同) 昭和36年文明開化時代、紫派と脂派 世界美術全集(11)(角川書店) 昭和36年黒田清輝の生涯と作品 世界名画全集続巻(4)(平凡社) 昭和37年黒田清輝湖畔図(解説) 国華百粋(5)(毎日新聞社) 昭和22年高橋由一筆鮭図(解説) 近代日本美術資料(1)(国立博物館) 昭和23年田崎草雲筆秋山晩暉(解説)ほか 同(2)(同) 昭和24年淺井忠筆収穫(解説)ほか 同(3)(同) 昭和26年淺井忠筆洗濯場(解説)ほか 世界美術全集(11)(角川書店) 昭和36年下村觀山筆維摩黙然(解説)ほか 集古銘鑑(大倉文化財団) 昭和37年Yosai Kikuchi“Night encountor at Horikawa”ほか(解説) Catalogue of Contemporary Japanese Art(Kokusai Bunka Shinkokai) 昭和35年Kano Hogai “HiboKnanon”ほか(解説) Art Treasures of Japan Vol.2(Kokusai Bunka Shinkokai) 昭和35年シスレー村落ほか(解説) 西洋美術名作集(東京朝日新聞社) 昭和23年黒田清輝ほか 世界歴史辞典(平凡社) 昭和26-30年青木繁ほか 世界美術大辞典(河出書房) 昭和29-31年石川光明ほか 日本歴史大辞典(河出書房) 昭和31-35年淺井忠ほか 世界大百科事典(平凡社) 昭和30-33年油絵ほか 日本文化史辞典(朝倉書店) 昭和37年 定期刊行物高橋由一の生涯と作品 美術研究 59 昭和11年本邦洋画発達資料展観 美術研究 60 昭和11年ヴァザーリ「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(訳) コギト 52 昭和11年満谷國四郎遺作展覧会 美術研究 64 昭和12年ラグーザに就て 美術研究 68 昭和12年川上冬崖と洋画風 美術研究 79 昭和13年明治以降美術の変遷 文部時報 635-7 昭和13年黒田清輝と日新戦役 美術研究 88 昭和14年エドアルド・キョソーネに就て 美術研究 91・92 昭和14年アントニオ・フォンタネージに就て 美術研究 94 昭和14年カッペレッティ及びサン・ジョヴァンニに就て 美術研究 96 昭和14年滞仏中の黒田清輝 美術研究 101-2 昭和15年Contemporary Painting of Western Style in Japan Bullettin of Eastern Art.No.12 昭和15年昭和15年美術界概観 日本美術年鑑 昭和16年近時発見の帝王図 美術研究 119 昭和16年黒田清輝初期の作品 造型芸術 3ノ6 昭和16年黒田清輝中期の業績と作品 美術研究 113・115・118 昭和16年黒田清輝後期の業績と作品 美術研究 130・132・133 昭和18年速水御舟の素描 アトリエ 241・243 昭和21年黒田清輝初期の風景画 アトリエ 250 昭和22年黒田清輝と藤島武二 みづゑ 504 昭和22年高橋由一 博物館ニュース 27 昭和24年近代日本美術の系譜(洋風画) 博物館ニュース 36-39 昭和25年高橋由一の風景画 美術研究 160 昭和26年菱田春草「落葉図屏風」 ミューゼアム 9 昭和26年白樺派と美術界 明治大正文学研究 5 昭和26年日本洋画発達史 アトリエ 306-8 昭和27年美校の二教授 美術手帖 52 昭和27年今村紫紅の芸術 ミューゼアム 21 昭和27年自昭和21年至同25年美術界の展望(洋画、美術行政) 日本美術年鑑 昭和27年近代美術にあらわれた人間観 ミューゼアム 30 昭和28年藤島武二 中央公論 772 昭和28年昭和27年美術界概観(現代日本画、彫刻、建築) 日本美術年鑑 昭和28年黒田清輝作品補遺 美術研究 177 昭和29年近代リアリズムの出発 国立近代美術館ニュース 5 昭和30年昭和28年美術界概観(現代建築) 日本美術年鑑 昭和29年狩野芳崖晩期の作品 美術研究 184 昭和31年明治中期の洋画(一)―明治美術会を中心として 美術研究 188 昭和31年菱田春草「黒き猫図」 国華 775 昭和31年五姓田義松の人と作品 ミューゼアム 65 昭和31年安井曾太郎追悼 博物館ニュース 104 昭和31年日本に於ける近代美術館設立運動史(1―25) 国立近代美術館ニュース 25-93 昭和31-37年The Flowering of the Traditional Art of Nippon Asia Scene No.5 昭和31年昭和29年美術界概観(現代建築) 日本美術年鑑 昭和31年明治中期の洋画(二)―白馬会を中心として 美術研究 192 昭和32年高橋由一筆三宅康直像(解説) 国華 786 昭和32年横山大観の人と芸術 萠春 40 昭和32年近藤浩一路の作品 萠春 42 昭和32年橋本雅邦の人と作品 萠春 47 昭和32年昭和30年代の日本画と朦朧派 淡交特集 126 昭和33年昭和31年美術界概観(洋画) 日本美術年鑑 昭和33年明治初期の洋画 美術研究 206 昭和34年淺井忠筆グレーの秋 ミューゼアム 101 昭和34年華岳の生涯 萠春 66 昭和34年追悼和田英作 美術手帖 154 昭和34年真贋の話 国立近代美術館ニュース 60 昭和34年昭和32年美術界概観(現代美術、洋画) 日本美術年鑑 昭和34年五姓田義松に就て 美術研究 213 昭和35年小杉放庵の人と作品 萠春 80 昭和35年淺井忠水彩画展 みづゑ 658 昭和35年青木繁の「旧約物語」挿絵について 美術研究 217 昭和36年岡倉天心略年譜 国華 335 昭和36年ブレハの黒田清輝 みづゑ 672 昭和36年絵画史上の大きな足跡―黒田清輝展 毎日新聞 昭和36年2月4日日本人独特の油絵を樹立―藤島武二展 毎日新聞 昭和36年11月6日チャールズ・ワーグマンとその周辺 神奈川文化 8ノ8 昭和37年安井曾太郎「金蓉」ほか(美の美、解説) 日本経済新聞 昭和31―37年黒田清輝―わが郷土の名家(1) 萠春 128 昭和39年「朝妝」をめぐる裸体画の問題―近代日本の裸体画の受けとり方 現代の眼 126 昭和40年山本芳翠 美術研究 239 昭和40年原撫松「画家ヘンリーの像」 日本経済新聞 昭和42年1月27日藤島武二 現代の眼 152 昭和42年山本芳翠「臥裸婦」 日本経済新聞 昭和42年7月4日ラグーザ「日本の大工」 日本経済新聞 昭和42年6月9日明治・大正洋画史 三彩増刊 234 昭和43年淺井忠「グレーの秋」 日本経済新聞 昭和44年11月7日淺井忠「武士の山狩」 日本経済新聞 昭和44年11月24日高橋由一筆・日蓮上人像―新発見資料 三彩 340 昭和50年高橋由一筆・日蓮上人像(図版解説) 美術研究 299 昭和50年松岡寿追想 三彩 330 昭和50年ハーバート大学ホートン・ライブラリー蔵アーネスト・フェノロサ資料(1)~(16)(隈元編村形明子訳) 三彩 327、329、331、334、339、341、343、345、349、351、353 昭和50年~昭和52年

小出卓二

没年月日:1978/01/12

洋画家、行動美術協会会員小出卓二は、1月12日脳卒中のため大阪市大淀区の大阪回生病院で死去した。享年74。明治36年5月25日大阪市東区に生まれ、金沢医科大学薬学専門部を卒業後、大阪信濃橋洋画研究所に学んだ。昭和2年第14回二科展に「神戸風景」が初入選し、以後同展に出品を続け、同17年二科会会友となり「志摩風景」他を出品、同17年二科会会員となり「波船場」等を出品した。同20年11月、向井潤吉、田辺三重松、古家新ら二科会員9名とともに行動美術協会を設立し、翌年その第1回公募展を開催、以後同展に制作発表した。また、日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品し、同35年現代日本美術展に出品した「淀川夕景」で大阪府芸術賞を受賞した。この間、同23年から大阪市立美術研究所講師をつとめ、同30年には宝塚市美術協会々長に就任した。行動展主要出品作裸女群像 昭和22年 第2回あぢさいのある風景 昭和23年 第3回花火 昭和24年 第4回海 昭和25年 第5回揚編 昭和26年 第6回漁港 昭和27年 第7回淀川風景 昭和28年 第8回港内風景 昭和29年 第9回港内 昭和30年 第10回嵐峡 昭和31年 第11回瀬戸内風景 昭和32年 第12回Y港 昭和33年 第13回兵器廠跡と大阪城 昭和34年 第14回外房風景 昭和35年 第15回五カ所湾風景 昭和36年 第16回漁火 昭和37年 第17回仲浜の港 昭和39年 第19回淀川風景 昭和40年 第20回天王寺風景(A) 昭和41年 第21回大阪港 昭和43年 第23回淀川風景 昭和44年 第24回塔と牡丹 昭和45年 第25回神戸港(A) 昭和46年 第26回海峡夜景 昭和47年 第27回新淀川風景 昭和48年 第28回神戸港(再度山より) 昭和49年 第29回神戸港(山手より) 昭和50年 第30回初瀬風景A 昭和51年 第31回尻無川風景(A) 昭和52年 第32回牡丹 昭和53年 第33回

浜田庄司

没年月日:1978/01/05

陶芸家、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)、文化勲章受章者の浜田庄司は、1月5日急性肺炎のため栃木県芳賀郡の自宅で死去した。享年83。本名象二。明治27年12月9日神奈川県橘樹郡で生まれ、東京府立一中在学時から工芸へ関心を寄せ板谷波山を尊敬し、波山が教鞭をとる東京高等工芸学校窯芸科に入学、大正5年卒業した。同年、在学中識った先輩河井寛次郎が在職する京都陶磁器試験場に入り、河井とともに主に釉法の研究に携わり、またこの年富本憲吉との交遊が始まった。同8年バーナード・リーチを我孫子窯に訪れ、柳宗悦、志賀直哉とも識り、翌年初めて栃木県益子を訪れ、同6年リーチの誘いにより英国まで同行、セント・アイヴスの策窯を手伝い、同11年までリーチ・ポッタリで作陶を続け、翌12年ロンドンのパタソン・ギャラリーで最初の個展を開催、同13年帰国した。帰国後益子に入り(昭和6年登窯築窯)、また柳、河井らと民芸運動を起し、昭和10年代まで沖縄、山陰、東北、九州、朝鮮などに精力的に出向き民芸品調査を行う一方、作陶に励んだ。昭和4年国画会会員となり(同11年退会)、同6年月刊雑誌「工芸」の創刊に同人として参加、翌年大原孫三郎の知遇を得、同12年その寄付による日本民芸館理事に就任した。戦後の同24年第1回栃木県文化功労賞を受け、同27年には毎日新聞社の文化使節として柳、志賀とともに渡欧し各地で講演会、講習会を開いた。同28年、昭和27年度芸術選奨文部大臣賞を受け、同30年には、第1回の重要無形文化財技術保持者に指定され、同32年文化財専門審議会専門委員となる。同37年日本民芸館官庁に就任、同39年紫綬褒章を受け、同43年には文化勲章を受章した。また、同49年日本民芸協会会長に就任し、同年から益子の邸内に益子参考館の設立を準備、同52年開館した。著書に『自選浜田庄司陶器集』(昭和44年)、『無尽蔵』(同49年)、『窯にまかせて』(同51年)などがある。 ◆年譜明治27年 12月9日、神奈川県橘樹郡の母アイの実家で生れる。本名象二。父久三は東京芝明舟町で文房具店を営む。明治33年 溝ノ口小学校へ入学。絵と書を好む。明治37年 東京へ戻り、三田の南海小学校に転校。明治41年 東京府立一中に入学。明治43年 ルノアールの言葉を読み、工芸の道へ進む志を強くする。板谷波山を尊敬し、波山が教鞭をとる蔵前の東京高等工業学校へ進む決心を固める。写生に励み、また、書を丹羽海鶴に学ぶ。明治45年 この頃、銀座の三笠画廊で、バーナード・リーチや富本憲吉の楽焼を見て、心を惹かれる。大正2年 東京高等工業学校窯業科に入学。板谷波山に学び、先輩河井寛次郎を識る。かたわら白馬会研究所へ通いデッサンを習練。この頃、波山邸で山水土瓶を見、益子の名を知る。大正3年 光風会第3回展「風景」「裏の庭」(水彩)。大正4年 夏休みに、美濃・瀬戸・万古・信楽・伊賀・九谷・京都の窯場を巡る。帰途、京都市立陶磁器試験場に河井寛次郎を訪ね、卒業後就職する決心をする。大正5年 東京高等工業学校を卒業、京都市立陶磁器試験場に入り、河井寛次郎と主に釉法の研究に携わる。大和安堵村の富本憲吉を訪ね交遊始る。大正7年 夏、河井寛次郎と初めて沖縄へ行き、壺屋窯を訪れる。12月、神田の流逸荘のリーチ展で、初めてバーナード・リーチと識る。大正8年 5月、バーナード・リーチを千葉県我孫子窯に訪ね、柳宗悦・志賀直哉とも識る。夏、河井寛次郎と朝鮮・満州を旅し、冬は、東京麻布のリーチの東門窯を手伝う。大正9年 初めて栃木県益子を訪れる。6月、帰国するリーチの誘いにより英国へ同行。セント・アイヴスの築窯を手伝い、作陶を行う。大正10年 セント・アイヴスのリーチ・ポッタリーで作陶続く。エリック・ギルやメーレらを識る。大正11年 引続きリーチ・ポッタリーで制作。大正12年 春、ロンドンのパタソン・ギャラリーで最初の個展を催し、約80点を出品好評を得る。12月、第2回の個展(パタソン・ギャラリー)開き、年末ロンドンを発つ。大正13年 フランス、イタリア、クレータ、エジプトを経て、3月末帰国。河井寛次郎と再会して、京都五条坂の同家に2ヶ月滞在。河井寛次郎と柳宗悦を結ぶ。6月、栃木県益子に入る。12月11日、木村和枝と結婚、沖縄へ行く。大正14年 3月まで沖縄に滞在、壺屋窯で制作。12月、日本での最初の個展を銀座の鳩居堂で開く。以後、東京及び大阪で年次展を開く。4月柳・河井とともに伊勢へ旅する。その車中ともに雑器の美を称揚する運動について語り合ううちに「民芸」の造語生れる。年末、柳・河井と木喰上人の日記を追って紀州を旅する。大正15年 1月から4月まで京都五条坂の河井寛次郎方に滞在、彼の窯で制作する。益子での借間住いの制作が続き、秋から翌春にかけては沖縄壺屋窯で作陶。10月鳩居堂で個展。昭和2年 大阪の土佐堀青年会館および東京の鳩居堂で個展。年末から翌年にかけて、御大礼記念産業振興博覧会への出品物蒐集のため、柳・河井とともに、東北・山陰・九州の民芸品調査を行う。昭和3年 3月から5月、大礼博覧会出品の「民芸館」に作品を展示。11月鳩居堂で個展。昭和4年 国画会会員となる。第4回国画展、「絵高麗菓子器」他。以後同展へ出品する。4月、柳と渡欧し、5月、ロンドンのパタソン・ギャラリーで個展。リーチを訪ねたのち、欧州を巡遊し、11月帰国。帰国後、熊谷直之の依頼で買集めた英国の家具その他を東京鳩居堂などで展観する。昭和5年 1月、渡米中の柳の世話で、ハーヴァード現代芸術協会主催の日英現代工芸展に出品。4月、聖徳太子奉賛展に出品。9月益子に近村の農家を移築して住居とする。10月、大阪三越で、11月、東京鳩居堂で個展を開く。昭和6年 月刊雑誌「工芸」創刊。同人となり、しばしば寄稿する。益子の住居に三室の登窯を築く。10月、ロンドンのパタソン・ギャラリーで、11月、東京鳩居堂で個展を開く。「工芸」13号に「李朝陶器の形と絵」を執筆。昭和7年 倉敷で個展。山陰の諸窯を見学指導する。大原孫三郎の知遇を得る。秋、大阪三越と東京鳩居堂で個展。昭和8年 年末、現代日本民芸展準備のため、柳・河井と東北・九州を巡り、苗代川・竜門司などの民窯を見る。「工芸」25号に「滞英雑記」、29号に「リーチ・ポッテリー」を執筆。昭和9年 4月、来日したリーチを迎え、5月、長屋門を移築した仕事場でともに作陶。8月、柳・河井・リーチと各地を旅行する。現代日本民芸展のモデル・ルームの食堂を設計。昭和10年 「工芸」55号に「日田のせいべい壺」を執筆。昭和11年 5月、柳・河井とともに朝鮮満州を旅し、日本民芸館のために多くの蒐集をする。「工芸」68号に「河井のうけ方」70号に「新作展のこと」を執筆。第11回国画会展で棟方志功を見出す。国画会工芸部を退会。昭和12年 5月、再び柳・河井と朝鮮へ蒐集の旅。9月日本民芸館理事に就任。「工芸」75号に「陶枕」を執筆。「工芸」77号浜田庄司特輯を行う。昭和13年 「工芸」93号に「宋胡録など」を執筆。昭和14年 4月、日本民芸協会同人たちと沖縄壺屋窯を訪れ、翌年にかけて制作・蒐集・撮影などを行う。「工芸」99号に「壺屋の仕事」を執筆。「月刊民芸」創刊。昭和15年 5月、鳩居堂で富本・河井と3人展を開く。「富本憲吉・河井寛次郎・浜田庄司作品録」刊行。昭和16年 柳・河井と華北を旅行。6月、第1回現代陶芸美術展に出品。昭和17年 八室の大型登窯を築き、近村より民家を移築し、陶房・住宅・蔵などとする。昭和18年 6月、東京高島屋で河井と2人展を開く。こののち、戦争のため、旅行・展覧会など困難となるが、制作は続く。昭和22年 益子に天皇陛下を迎え、皆川マスの山水土瓶絵付をお見せする。国画会に復帰。昭和24年 第1回栃木県文化功労章を受ける。12月、日本民芸館で「陶器の技法」と題し講演。昭和27年 5月、毎日新聞社の文化使節として、柳宗悦・志賀直哉とともに渡欧。同月、富本、河井と三人展(東京高島屋)。各地巡歴ののち、8月、英国ダーティントンにおける国際工芸家会議に出席。リーチを作品展を開く。柳と北欧をめぐったのち、10月、リーチを加えて渡米。各地で講演会・講習会を催す。昭和28年 2月、柳・リーチとともに帰国。リーチを益子に迎え制作し、各地をともに旅行する。8月は、柳・河井・リーチと信州松本の霞山荘に滞在、共著「陶器の本」のための座談を連日行う。11月、大阪のリーチ・河井・浜田の3人展に出品。昭和27年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。昭和29年 2月、柳・リーチ・河井と「陶器の本」のために房州の浜田屋に滞在。日本伝統工芸展(日本橋三越)に出品。6月、大丸神戸店のリーチ・河井・浜田の陶芸3人展に出品。東京高島屋の富本憲吉を加えた陶芸4人展に出品。昭和30年 2月第1回重要無形文化財技術保持者に指定される。昭和31年 1月、札幌・宇都宮で「益子作陶30年記念展」を開く。4月、日本民芸館本館修理のため、抹茶盌50点の領布会を、柳の書幅・河井の茶盌とともに行う。10月、名古屋松坂屋で河井と新作陶芸展を催す。12月、東京三越で作陶展。昭和32年 文化財専門審議会専門委員となる。5月、12月、大阪・東京三越で作陶展。昭和33年 4月、12月、大阪・東京三越で作陶展。昭和34年 春、佐藤惣之助碑建立のため沖縄へ旅行。この後もしばしば沖縄を訪れ、壺屋で制作を行う。7月、北海道で芹沢銈介と2人展を、また柳宗悦書軸・浜田庄司作陶展を催す。12月、東京三越で新作陶展。昭和35年 6月、札幌で柳・河井とともに3人展を行う。11月、東京三越で新作陶器店。8月、「日本人の手・現代の伝統工芸」展(東京国立近代美術館)に出品。昭和36年 10月、東京三越で「浜田庄司作品展」を開き、朝日新聞社より柳宗悦編「浜田庄司作品集」を刊行。バーナード・リーチの来日を迎え、大丸で2人展を開く。11月、大原美術館の陶器館開館式に出席。昭和37年 前年死去した柳のあとを継いで日本民芸館館長となる。昭和38年 6月、次男晉作をともない渡米、各地で講習会・展覧会を開く。ワシントン日米文化教育会議に出席。メキシコ・スペインを旅して民芸品を蒐集する。昭和39年 1月、帰国。東京三越で旅行蒐集品展、日本民芸館で海外将来品展を開く。紫綬褒章を受ける。8月、現代国際陶芸展(朝日新聞社主催、東京国立近代美術館)に出品。昭和40年 2月、三男篤哉とニュージーランドに招かれ、講習会・展覧会を催す。オーストラリアで講習会を行い、香港経由で欧州を巡遊して4月帰国。10月、岡山天満屋の日本民芸館同人展に出品。昭和41年 妻和枝をともない米国旅行。留学卒業した次女比佐子を加えて欧州を巡る。朝日新聞社刊の作品集「バーナード・リーチ」を編輯。3月、ヴェネズエラ・コロンビアでリーチ、フランシーヌ・デル・ピエール、浜田3人展開催。11月18日、河井寛次郎死去。昭和42年 秋、ミシガン大学150年祭に招かれ、展覧会を開き、名誉学位を受ける。昭和43年 春、デンマークのコペンハーゲンで個展。和枝、比佐子を同道して、セント・アイヴスにリーチを訪ねる。7月、沖縄タイムス賞を贈られ、11月、文化勲章を受ける。昭和44年 1月、台湾を訪問。香港にリーチ夫妻を迎え、沖縄各地を旅行。5月、益子名誉町民となる。11月、朝日新聞社より「自選浜田庄司陶器集」を刊行。東京三越で「浜田庄司自選展」を開く。昭和45年 大阪万国博覧会の日本民芸館館長に就任。5月、12月、例年のごとく三越で作陶展。昭和46年 2月、沖縄で芹沢銈介、棟方志功と3人展。昭和47年 5月、朝日新聞社より「世界の民芸」(共著)、12月、日本民芸館より「浜田庄司七十七盌譜」を刊行。琉球電電公社の依頼により「沖縄の陶器」を監修編輯する。5月、大阪、12月、東京三越で作陶展。昭和48年 ロンドン王立美術大学より名誉学位を受ける。4月、来日したリーチとともに輪島を旅行。8月、スコットランドへ旅行。昭和49年 2月、日本民芸協会会長に就任。秋田県角館在の白岩窯復興についての調査を依頼される。4月から5月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載。6月、大阪三越で作陶展。9月、発病し、入院療養。10月、栃木県益子の邸内に益子参考館と陶器伝習所の設立を準備。昭和50年 1月、大阪阪神百貨店、2月、岡山天満屋百貨店で「浜田庄司・目と手」展。講談社より「河井寛次郎・浜田庄司・バーナード=リーチ」刊行。4月、退院し自宅で静養。秋より制作を再会、12月、東京三越で個展。益子参考館の石倉造展示館成る。昭和51年 制作と蒐集、また益子参考館の建設を続ける。9月、日本経済新聞社より「窯にまかせて」を刊行。秋、川崎市文化賞を受く。12月、東京三越で作陶展を開く。昭和52年 4月、益子参考館開館館長、理事長に就任。東京国立近代美術館において「浜田庄司展」が開催される。昭和53年 1月5日、急性肺炎のため益子町の自宅で死去(83歳)。3月、日本民芸館で浜田庄司追悼展。本年譜は、水尾比呂志編「浜田庄司年譜」(「浜田庄司展」図録所収昭和52年、東京近代国立美術館)、並びに「浜田庄司」展図録所収年譜(昭和56年山梨県立美術館他)を参照した。

坂崎坦

没年月日:1978/01/04

美術史家、朝日新聞社社友、文学博士坂崎坦は、1月4日心臓衰弱のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年90。明治20年3月18日兵庫県養父郡に生まれ、同43年早稲田大学英文科を卒業。大正2年朝日新聞社(東京)に入社し、同10年2月同社から留学、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーなどで学び、フランスでは印象派の画家モネに会い、同12年12月に帰国した。帰国後の昭和2年に「明治・大正名作展」を企画する。翌3年から朝日新聞社学芸部長をつとめ、同11年同社調査部長、同15年同社編集局顧問を歴任して、同16年退社した。この間、大正6年に日本美術に関する画論、随筆、伝記を編纂した『日本画談大観』を目白書院から刊行、昭和6年には編著『日本画論大観』をアルスから出版した。また、大正13年から母校早稲田大学の講師として西洋美術史を講じ、昭和12年には「十八世紀フランス絵画の研究」によって学位を受け、同年岩波書店から『十八世紀フランス絵画の研究』を出版した。朝日新聞社退社と同時に早稲田大学教授に就任し、同32年定年退職した。この他、実践女子大学、女子美術短期大学、法政大学、多摩美術大学などで教え、同52年まで武蔵野女子大学の講師をつとめていた。また、東京国立近代美術館評議員、国際文化振興会評議員などもつとめた。同40年に紫綬褒章を受け、同43年には勲三等瑞宝章をうけた。著書は他に『美術の話』(昭和4年朝日新聞社)、『ドラクロア』(同24年、アルス)、『フールベ』(同24年 風間書房)、『クールベ』(同51年 岩波書店)など。

水谷美三

没年月日:1977/12/29

彫金工芸師水谷美三は、12月29日脳血センのため京都市中京区、大宮病院で死去した。享年75。雅号美興。明治35年4月12日京都市下寺町の彫金師初代水谷源治郎の子として生まれ、二代目としてその業を継いだ。昭和35年京都知事技能最優秀賞、同45年京都市長技能最優秀賞、46年労働大臣技能最優秀賞など受賞。主要作品豊川稲荷御本堂角柱根巻波に亀文彫金 大正13年 源治郎、美三京都東本願寺山門丸柱根巻唐獅子文彫金 昭和初年 源治郎、美三国会議事堂御便殿内装飾金物彫金 昭和6年 源治郎、美三京都祇園祭り山鉾蘭縁並房掛金物彫金 昭和6年~昭和13年 源治郎、美三伊勢神宮御神殿内装飾金物彫金 昭和27年 美三大阪四天王寺金堂内丸柱御旗金具(幡)錺彫金 昭和33年 美三、醒洋(3代)高野山奥院燈籠堂内舎利塔壱基彫金 昭和40年 美三、醒洋中尊寺金色堂須弥壇孔雀金物彫金2点他 昭和43年 美三、醒洋

水清公子

没年月日:1977/12/25

洋画家水清公子は、12月25日老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年76。明治34年3月3日兵庫県姫路市に生まれ、兵庫県立高等女学校を卒業し、黒田重太郎に師事、戦前は関西美術院関係者で創設された白亜会に所属し昭和4年同会会員となり、同6年全関西展で朝日賞を受賞、翌7年無鑑査となった。同10年第22回二科展に「水蓮」で初入選し、以後同展に出品、同17年第29回展に「太田の沢」を出品して会友となった。戦後は同22年第二紀会創立に参加して同人となり、翌年第2回第二紀展に「母子像」と「美人草」を出品し同人努力賞を受賞した。以後同展に出品を続けた。人物や花を得意とし、京都の女流洋画家の草分け的存在であった。

鷲田新太

没年月日:1977/12/25

洋画家、光陽会元代表鷲田新太は、12月25日心筋こうそくのため東京都三鷹市武蔵境の日赤病院で死去した。享年77。明治33(1900)年9月19日、滋賀県野洲郡に生まれる。本名新一。大正8年兵庫県豊岡中学校を卒業し、同13年上京、川端洋画研究所で初めて木炭デッサンを学ぶ。昭和2年第5回春陽会展で「冬枯れ」が初入選、同4年東京美術学校師範科受験のため同舟社研究所に通ったが受験に失敗、同8年伊藤快彦の紹介で安井曾太郎に師事、この年新世紀美術協会展に出品、また第21回二科展に「冬日風景」が入選。同10年、美術雑誌『美之国』の編集員(筆名篠原巣一郎)となり編集に携わる。同11年川端龍子の知遇を受け、龍子主宰の「青龍社」の運営事務にあたった。同13年安井曾太郎門下生による「連袖会」第1回展に出品以後作品発表を断念した。戦後、同31年に光陽会に所属(翌年会員)、同年の第4回展から毎年出品を続けた。同43年第16回光陽会展に「河童不動」で文部大臣奨励賞、美術報知賞を受賞、また同年光陽会代表となった。同47年、71歳で初の個展を東京下村画廊、大阪フジヰ画廊で開催、独自のグワッシュによる「工場風景」や「俑人像」で注目された。翌年5月から約1年間パリに渡り制作に打込む。同50年「ピエロとその妻」等3点が東京国立近代美術館に所蔵され、翌51年東京フジヰ画廊で「サンハイトウ風景」「モンマルトルの坂道」「パリの裏通り」など60余点による「鷲田新太滞欧作品展」が開催された。

北川隆蔵

没年月日:1977/12/19

洋画家北川隆蔵は、12月19日死去した。享年67。雅号嚠三。明治42年10月1日滋賀県東浅井郡に生れ、太平洋美術学校、本郷研究所に学んだ。昭和18年第30回光風会展に「勤勞」が初入選し、以後戦後も同会に出品し、入選30回に及び、昭和45年同会々員となった。そのほか白日会、日展にも出品し、日展には昭和22年第3回展に「白い服」が初入選し、以後入選19回に至り、昭和51年同展会友となった。主要作品「水に生きる」(昭和50年)、「池畔」(昭和51年)ほか

横山大玄

没年月日:1977/12/04

日本画家横山大玄は、12月4日心筋コウソクのため東京都台東区の自宅で死去した。享年79。本名善信。京都伏見に生れ、東京の中学を卒え東京美術学校日本画科を卒業した。昭和初年故横山大観の夫婦養子となり、大観没後は自宅を大観記念館として開放し、大観の作品や資料を公開、その館長をつとめていた。院展には昭和8年第10回院展で初入選し、昭和27年第37回院展「竹林」で院友となり、第59回「弥生」で特待となった。

古家新

没年月日:1977/11/29

洋画家、行動美術協会創立会員古家新は、11月29日急性肺炎のため大阪府池田市の市立池田病院で死去した。享年80。明治30年6月19日兵庫県明石市に生まれ、京都高等工芸学校図案科を卒業。大正10年大阪朝日新聞に入社し、学芸部に所属、挿絵、スケッチ等を手がけた他、現在も用いられている週刊朝日の表紙文字を残し、昭和16年退社した。この間、大正15年第13回二科展に「入江」と他1点が初入選し以後同展への出品を続け、昭和12年二科会会友に推挙され、「夕月」他を出品同16年会員となりこの年の第28回展に「桜と城址」他を出品、同16年会員となりこの年の第28回展に「桜と城址」他を出品した。また、昭和3年から翌年にかけて渡欧、仏、伊、蘭等に滞在した。戦後は、同20年11月に結成された行動美術協会に創立会員として参加、翌年の第1回展に「霧」など3点を出品、以後同展へ出品を続けた。同36年には小豆島にアトリエを設け、以後の制作はこのアトリエでなされた。同36年、大阪市民文化賞を、翌37年には大阪府芸術賞を受賞、同51年には紺綬褒章を受けた。また、没後梅田近代美術館主催で遺作展(同53年10月31日-11月19日)が催された。行動展の出品作には、他に「波野」(第10回)、「早春の段々畠」(第18回)、「日の出」(第24回他)などがある。

大久保実雄

没年月日:1977/11/28

洋画会、二紀会理事、武蔵野美術大学評議員大久保実雄は、11月28日悪性リンパ腫のため東京立川市の立川共済病院で死去した。享年66。明治42年2月20日佐賀県伊万里市に生まれ、昭和8年帝国美術学校本科を卒業、同12年第8回独立展に「海浜」が初入選した。戦後は、同25年第4回展から二紀展に出品し同32年同人となり、同35年第14回展に「赤牛の群れ」「黒牛の群れ」を出品し同人優賞を受け翌年二紀会委員となった。同46年第25回展には「サーカスの人たち1」「サーカスの人たち2」を出品して鍋井賞を受賞、翌年二紀会理事に加えられ同50年「冬日」「絵のある部屋で」を出品し菊華賞を受賞した。また、この間武蔵野美術大学評議員をつとめた。二紀展への出品作には、他に「曲馬出場」(第11回)、「対話」(第19回)、「夜の家族」(第26回)などがある。

藤原建

没年月日:1977/11/25

備前焼の作家で岡山県重要無形文化財認定者藤原建は、11月25日急性心不全のため備前市の自宅で死去した。享年53。大正13年岡山県和気郡に生まれる。本名健。昭和21年復員後陶芸を志し、同29年北大路魯山人の下で修業、翌30年築窯した。同35年日本伝統工芸展に初入選、以後連続入選し、同37年には日本陶磁協会賞を受賞、同年デンマーク日本工芸展に出品した。同39年、日本工芸会正会員となり、翌40年には一水会正会員となる。同42年、陶歴20年を記念して「藤原建作陶展」(東京日本橋高島屋)を開催して「緋襷花入」「窯変徳利」などを出品した。同45年自宅に大窯を築き、同48年には岡山県重要無形文化財の指定を受けた。なお、備前焼人間国宝藤原啓の甥にあたる。日本伝統工芸展への出品作に「備前花入」(第10回)、「備前緋襷鉢」(第14回)などがある。

宮入行平

没年月日:1977/11/24

刀匠で重要無形文化財保持者の宮入行平は、11月24日心不全のため長野県上田市小林脳外科病院で死去した。享年64。本名堅一。大正2年、祖父の代からつづく坂城町の鍛冶屋に生まれた。刀匠として出発したのは、昭和12年24歳の時で、東京赤坂の刀匠栗原昭秀の日本刀鍛錬所に入門し、翌13年の処女作が大日本刀匠協会展で名誉賞となった。同15年には同展文部大臣賞を受賞した。戦後は郷里坂城町で作刀を始め、30年の日本刀剣保存協会主催の日本刀作刀の第1回美術審査会から同34年まで連続5回にわたり“日本一”の特賞を独占し、昭和38年3月、刀匠の重要無形文化財(人間国宝)として二人目の指定となった。その作風は豪壮堅実な相州伝といわれ、特に“古刀”の地はだは風格があり、独特なものといわれる。現在では奈良県の月山貞一氏とともに刀剣では二人だけの人間国宝で、戦後を代表する刀鍛治であった。

逸見梅栄

没年月日:1977/11/14

曹洞宗大本山総持寺宝物殿館長、元多摩美術大学教授、文学博士逸見梅栄は、心筋硬塞のため11月14日横浜市緑区の青葉台病院で死去。享年86。明治24年5月11日、山形県西村山郡谷地町(現河北町)に生まれ、大正6年東京帝国大学文科大学梵文学科卒業。同10年より3年間、曹洞宗留学生としてインドに滞在、昭和4年より3年間及び同13年より3年間、有栖川宮奨学金を高松宮家より受け、同9年東京帝国大学より文学博士の学位を授与された。昭和12年より同15年まで、毎年3ヶ月華北・満蒙に研究旅行を行った。昭和10年多摩帝国美術学校創立以来、同校が多摩造形芸術専門学校、多摩美術大学と改称改組せられたのちまで、ひき続き教授として在職し、美術学部長を勤めた。なお駒沢大学、立正大学、高野山大学、鶴見女子大学等に出講した。昭和45年に河北町名誉町民となり、同47年インドのタゴール誕生賞を受けた。勲三等瑞宝章受章。 インド美術、仏教美術研究の先駆者であり、主たる著述に『印度仏教美術考・建築篇』(昭和3年)、『印度美術図案集成』(9年)、『印度思想・美術思想』(岩波講座・東洋思潮、同)、『東洋文化の源泉・印度文化の源泉』(同、10年)『印度に於ける礼拝像の形式研究』(学位論文、東洋文庫論叢21、同)、『印度古代美術・資料ト解説』(16年)、『印度美術』(高田修と共著、19年)、『満蒙北支の宗教美術』(8巻、18年~)、『仏像の形式』(45年)、『中国喇嘛教美術大観』(50年)等がある。

前田青邨

没年月日:1977/10/27

日本画家前田青邨は10月27日老衰のため東京文京区本郷の順天堂医大附属病院で死去した。享年92。本名廉造。なお葬儀は29日鎌倉市の円覚寺で密葬が行われ、11月9日東京中央区築地本願寺で、日本美術院葬による本葬が執行された。青邨は、明治18年岐阜県恵那に生れ、小学校の頃から画才を示して、早くより画道への志をたてた。当初14才で上京するが、病のため一旦帰省し、満16才で再上京した。当時大和絵に造詣深い大家であり、また新聞小説に新味ある挿絵を描いて、時代の寵児でもあった梶田半古の画塾に入った。その頃、先輩に小林古径がいて、二人は小堀靹音門下の安田靱彦、松本楓湖門の今村紫紅らによる紅児会へ明治40年頃参加する。青邨は明治35年日本絵画協会日本美術院連合共進会へ「金子家忠」(三等褒状)が初入選するが、紅児会グループの人たちも同展への出品者であって、岡倉天心の指導を仰ぐこれら気鋭の青年作家たちはそのまま、再興院展への参加とつながっていく。青邨の日本美術院への参加は、師の梶田半古が院の幹部でもあったことからその宿縁ともいえるわけだが、再興院展以後における青邨の目覚ましい活躍は、瞠目すべきものがある。日本美術院は大正から昭和にかけて、さらに激動的な戦後にわたり、官展に対抗して日本画の理想を着実に発展させた。天心の意図した日本画の伝統に基盤を置いた新しい日本画の創造を、青邨らは深く追求しいわゆる新古典主義の作風を展開した。青邨の作品を概観すると、明治期は時代の一般的な傾向でもあった歴史画にはじまり、大正に入ってからは旅行による取材の、写生にもとづく風景画の作品が多く、「朝鮮之巻」「京名所八題」「燕山の巻」「イタリー所見」等が制作された。大正期にはこのほか、大正11年古径とともに日本美術院留学生として渡欧し、大英博物館で顧愷之筆と伝えられる「女史箴図巻」の模写など行い、大いに画嚢をこやすが、日本美術の優秀性を再確認するという日本画家としての根本的問題の解決を得、この研修旅行が画家としての転機をもたらしたと考えてよいであろう。昭和になってからは、5年に前年の院展出品作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞を受賞し、10年には帝国美術院会員となり、戦後昭和30年には文化勲章を受領し、世に大きく認められた。そして作品の上では、大正の写生による風景画に対し、昭和期には鋭い写生と、新しい大和絵風の技法による独特の肖像画の制作が声価を高めた。また晩年には東京芸術大学教授として後進の育成にあたり、文化財行政面でも、文化財保護委員会専門審議会委員、法隆寺金堂壁画再現模写事業総監督、高松塚古墳壁画模写総監督など委嘱され、これらに尽力するところ少なくなかった。青邨はまた若い頃から美術雑誌その他に直截な文章を載せているが、これらを集成した随筆集「作画三昧」(昭和53年新潮社)があり、日本経済新聞紙上連載の「私の履歴書」(昭和44年1月日本経済新聞社)も、同社から刊行されている。そのほかの著書に、スケッチによる「日本の兜」(昭和32年10月中央公論美術出版)がある。年譜明治18年(1885) 1月27日、岐阜県恵那郡に父前田常吉、母たかの二男として生まれる。本名廉造。生家はその頃、木曾への入口である街道筋に面し、乾物商をいとなむ。明治24年 4月、中津川尋常高等小学校に入学。明治30年 3月、中津川尋常高等小学校を卒業する。明治31年 母死去。上京し、叔父の経営する本郷根津の下宿屋「東濃館」に寄宿。明治32年 4月、本郷京華中学に入学。この頃、健康を害し、静岡県吉原の知人宅で2ケ月程療養生活を送り、一旦郷里に帰郷。明治34年 秋、再上京、親戚のつてで尾崎紅葉を知り紅葉のすすめで梶田半古の塾に入る。当時塾頭に小林古径がいた。明治35年 塾では古画の習得と同時に、写生に励み、また有職故実についての研究もつむ。この頃、師半古から「青邨」の雅号をもらう。「金子家忠」(3等褒状)第12回日本美術院・日本絵画協会共進会(初入選)明治36年 国学院大学聴講生になり、古典文学を学ぶ。半古の代筆で小栗風葉の新聞小説「青春」の挿絵を描き、また徳田秋声の連載小説の挿絵も描いた。「防箭」(褒状)第5回内国勧業博覧会。「夕顔」(1等褒状)第14回日本美術院・日本絵画協会共進会。「小碓」第15回日本美術院・日本絵画協会共進会明治37年 住居を半古塾から本郷菊坂の下宿の移す。明治39年 巽画会研究会に参加。「天照皇大神」(銅牌)第3回真美会展。「春遊」日本絵画展(日本美術院主催)。「粧ひ」(1等)廿日会明治40年 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英と研究をともにすすめる。「御輿振」(3等賞牌)東京勧業博覧会明治41年 「囚はれたる重衡」国画玉成会展(3等賞第1席)明治43年 国画玉成会幹事となる。「市」第11回紅児会展。「竹取物語」(絵巻)「鶏合せ」第12回紅児会展明治44年 横浜の豪商原富太郎(号三渓)より研究費の援助を受ける。「菅公」「鉢の木」第15回紅児会展。「法華経」「竹取」(褒状)第5回文展。「辻説法」日本美術社展明治45年 紅児会々場で岡倉天心から「にごりを取りなさい」との批判をうけ発奮する。11月、荻江節の家元初代荻江露章の妹、松本すゑと結婚。この年、健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。「椿」「須磨」第17回紅児会展。「二曲屏風」第18回紅児会展。「御輿振」(画巻)(3等賞)第6回文展大正2年(1913) 8月、紅児会解散。9月、長女千代子誕生。「橋合戦」「蝦蟇仙人と鉄拐」第19回紅児会。「月下洗馬」大阪高島屋月百幅会大正3年 10月、日本美術院同人に推挙される。神奈川県藤沢石上に移転する。この頃、小山栄達、磯田長秋、吉田白嶺らと絵巻物研究会を創める。「つれづれ草鼎の巻」(銅牌)東京大正博覧会「竹取」(其1=1段-12段、其2=13段-18段)(絵巻)「湯治場」(其1、其2、其3)再興記念日本美術院第1回展大正4年 朝鮮に旅行する。6月、次女正子誕生。「朝鮮の巻」(画巻)第2回院展。「渡船場」松屋東都大家新作展大正5年 神奈川県鶴見に転居。小林古径と関西に旅行する。「京名所八題」(八幅対、本願寺、三十三間堂、清水、祇園会、先斗町、四条大橋、上賀茂、愛宕山)第3回院展。「曳船」大阪高島屋双幅画会。「戦の巷」「丹霞焼仏」高島屋三都大家新作展大正6年 4月23日、梶田半古死去。神奈川県渡辺山に転居。「切支丹と仏徒」(双幅)第4回院展。「地獄変相」「江の島詣」日本美術学院記念展。「元寇殲滅」立太子礼奉祝文官献納画帖。「厳島舞楽」琅★洞展。「厳島詣」三越新作絵画展。「船」「武将」「立葵」日本美術院同人作品展大正7年 3月、大阪高島屋で、初の個展開催。3月、長男裕造誕生。日本美術院評議員に推される。「社頭」日本美術院同人展。「六歌仙」三越東西大家新作画展。「維盛最期之巻」(画巻)第5回院展大正8年 中国に旅行する(往路上海、南京、蕪湖、漢口、宜昌、新潭等で、復路は漢口、北京、奉天、朝鮮を経由する)。「早春」「晩秋」(双幅)日本美術院同人展。「燕山之巻」(画巻)第6回院展。「★魚」琅★洞展。「遊魚」三越絵画展。大正9年 延暦寺より伝教大師絵伝「根本中堂落慶供養の図」を委嘱され、小林古径と共に比叡山に赴く。日本美術院同人らと瀬戸内海写生行。「根本中堂落慶供養の図」比叡山延暦寺に納入「秋風五丈原」第7回院展。「入唐」琅★洞、院同人高野紀行展。大正10年 「鯰」「地獄変相」日本美術院同人米国巡回展。「遊魚」(六曲一双)第8回院展。大正11年 10月26日日本美術院留学生として、小林古径と共に約1年間泰西美術研究のため渡欧する。マルセーユ到着後、ローマに赴き、フィレンツェほかイタリア各地美術館を見学し、ついでパリに滞在している。「赤坂離宮御苑」東京府より英国皇太子へ献上大正12年 ロンドン滞在中、東北大学の依嘱によって、中国古代名画として有名な「女史箴図巻」(顧愷之筆)を、所蔵する大英博物館で古径と分担して模写を行う。模写実施に当っては、当時ロンドン滞在中の東北大学教授福井利吉郎の斡旋による。ロンドンから再びイタリアに赴き、さらにエジプト、その他各地を巡って8月22日帰国した。顧愷之筆「女史箴図巻」(模写)大正13年 「花賣」「彦火火出見尊」(絵巻)第11回院展。「沙魚」「摂政官御慶事記念東京府献納瑞彩帖。「芥子」尚美堂展大正14年 3月、長男裕造(8歳)をジフテリアで失う。4月、三女日出子誕生。11月、「女史箴図巻」(模写)の展観を行う。「やなぎはや」第10回日本美術院試作展。「伊太利所見」(三幅対)(ペルジャの山上市)(フローレンスの朝)(ポンテベッキヨの雨)第12回院展。「礼讃」尚美堂展大正15年 第1回聖徳太子奉讃美術展の鑑査委員となる。「漢江の朝霧」「漢水の夕」(双幅)第1回聖徳太子奉讃美術展。「冬瓜」尚美堂展。「瀬満王」東京会展。「五月雛」白日荘現代50大家新作展。「東海道」郷土美展。「芥子」松屋東西会昭和2年 3月、四女照子誕生。「羅馬使節」「西遊記」(画巻)第14回院展。「芥川」中央美術社主催東西大家展。「山幸海幸」(双幅)三越京都大家新作展。「祭日」尚美堂展昭和3年 この年再び健康を害し、夏の間那須鮎ケ瀬別荘に療養生活を送る。「祝い日」御即位記念御下賜品として依頼を受ける。「朝鮮の風俗」大婚25年奉祝文武官献上画帖「踊」尚美堂展。「あまご」白日荘展昭和4年 「洞窟の頼朝」第16回院展。「住吉詣」銀座美術園新作展。「粟」尚美堂展。「雪」東京会展。「那須スケッチ」第14回日本美術院試作展昭和5年 第2回聖徳太子奉讃美術鑑査委員。前年作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞受賞する。ローマ日本美術展に前年の「洞窟の頼朝」出品。日本美術院経営者に推挙される。「罌粟」(六曲一双)第17回院展。「大嘗祭」明治天皇聖徳絵画館。「鵜飼」「愛茶」第1回七絃会展昭和6年 「縫取」第2回七絃会展昭和7年 「石棺」第19回院展。「扇面散し」第3回七絃会展昭和8年 「鵜飼」「初茸」日本美術院同人展。「鵜飼」(三幅対)第20回院展昭和9年 満州国建国三周年記念美術展の審査員として渡満する。帰途熱河を回る。「鷹狩」(六曲一双)第21回院展(李王家買上)「武将弾琵琶」(満州国皇帝献上画)「絃上」日本美術院同人展。「大柿手に入る」第5回七絃会。「粧ひ」日本美術院試作展。「白鷺」東京会「乗合船」角谷二葉新作画展昭和10年 6月、帝国美術院改組され、その会員となる。「毛抜形」第19回日本美術院試作展。「唐獅子」(六曲一双)岩崎家よりの御即位記念献上画。「秋深し」「鷺」第6回七絃会展。「真鶴沖」第1回踏青会展昭和11年 2月、改組第1回帝回美術院展審査員。「観画」第1回新帝展。「白河楽翁」第23回院展。「唐獅子」(衝立)「蘭陵王」「白鷺」第2回踏青会展。「楯無」日本創作画協会展。「応永の武士」日本美術学院記念展。「原の白隠」「魚」第7回七絃会展昭和12年 6月、帝国芸術院会員に推挙される。「清正」第8回七絃会展。「名犬獅子」(畠時能)松島画舫新作展。「楽翁」(双幅)「凱旋武将」高島屋新作展昭和13年 5月、日満美術展審査のため二度目の渡満をする。帰途は新京から大同に赴く。10月、第2回新文展審査員。「大同石佛」第25回院展。「大楠公」第9回七絃会展。「鴨」「兎」高島屋新作画展昭和14年 歌舞伎座上演「太閤記」(吉川英治原作)の舞台装置担当。この年、北鎌倉に画室竣工。第3回新文展審査員。「朝鮮五題」(五面)第26回院展。「熊野御難航」(画巻一合作肇国創業絵巻ノ内)紀元2600年奉讃展。「猫」「豊公」第10回七絃会「洞窟の頼朝」三越日本画展。「豊公」高島屋新作画展昭和15年 歌舞伎座にて「続太閤記」の舞台装置担当。紀元2600年奉祝美術展審査員。「鵜」第27回院展。「阿修羅」紀元2600年奉祝美術展。「菊」第11回七絃会展。「月輪」昭和16年 「静物」第12回七絃会「椿」第1回尚絅会展昭和17年 「奎堂先生」第29回院展。「祝日」満州国建国十周年慶祝記念献納展。「凱旋の旗手」「静物」日本美術院同人軍用機献納作品展。「清正」日本画家報国会軍用機献納展。「関ヶ原の家康」第13回七絃会展。「陣中愛茶」高島屋現代名家新作展昭和18年 第6回新文展の審査員となる。昭和19年 7月、帝室技芸員に推挙される。「牡丹」「激流」「おぼこ」戦艦献納帝国芸術院会員美術展。「景清」「鉢」陸軍献納帝国芸術院会員美術展昭和20年(1945) 郷里中津川に疎開。8月、疎開先で終戦を迎え、11月、北鎌倉の自宅に戻る。昭和21年 第1回日本美術展覧会(日展)審査員。前年海軍兵学校よりの依頼画「大楠公」を湊川神社に納入する。「二日月」第1回日展。「魚絞」第31回院展。「大楠公」湊川神社奉納昭和22年 3月、柴田ギャラリーでスケッチ展開催。「郷里の先覚-夜明前の香蔵と景蔵-」(双幅)第32回院展。「豊公」「応永の武者」「かちかち山」(画巻)昭和23年 「洞窟の頼朝」第1回清流会展。「水鉢」五月会展昭和24年 1月、法隆寺金堂壁画焼損。「猫」「風神雷神」第34回院展。「真鶴沖」第2回清流会展昭和25年 12月、文化財保護委員会専門審議会委員。「鯉」(三面)第35回院展。「山鳥」第3回清流会展昭和26年 12月、東京芸術大学日本画科主任教授。「Y氏像」(安井曾太郎)第36回院展。「赤絵」日本美術協会展。「山吹」第4回清流会展昭和27年 4月、「古径・靱彦・青邨代表作展」(於銀座松屋)開催。「湯治場」第37回院展。「絵島詣」第5回清流会展昭和28年 「耳庵老像」(松永安左衛門)第38回院展「伊勢遷宮図」伊勢神社へ奉納昭和29年 10月、古稀記念「前田青邨展」(於東京銀座松屋、朝日新聞社主催)開催。「紅梅」(二曲半双)第39回院展昭和30年 6月、「前田青邨作品集」(大塚巧芸社)が前年の古稀展を記念して刊行される。11月、文化勲章受賞。郷里中津川市名誉市民となる。「出を待つ(石橋)」(二曲半双)第40回院展。「石橋」皇居仮宮殿饗応の間、壁面用に制作。「愛茶」「川の幸」第8回清流会展昭和31年 4月、東京芸術大学陳列館で「文化勲章受章記念前田青邨教授作品展」開催。7月、日本美術家連盟会長に推挙される。ブリジストン美術館の美術映画「前田青邨」が制作開始される。「浴女群像」第41回院展。「宇治川」第9回清流会展。昭和32年 川合玉堂に代り、皇后陛下の絵の指導役となる。文化財専門審議会委員を辞す。五月、「前田青邨写生展」(於銀座松屋)開催。「日本の胄」(中央公論美術出版)出版。ブリヂストン映画「前田青邨」完成。「プランセス」第42回院展。「洞窟の頼朝」日本美術院十大家名作展。「梅日和」第1回高樹会展昭和33年 「動物の舞踏会」「鵜」第29回ベニスビエンナーレ国際美術展。「みやまの四季」(六曲半双)第43回院展。「秋の花」第6回薫風会展昭和34年 1月、東京芸術大学日本画科主任教授を定年退職し、同大学名誉教授となる。「御水取」(御水取を迎える奈良の旧家、總別火(行事の支度)が堂の役人衆、わらび餅の茶屋・籠り堂・湯屋・食堂・行法を待つ参籠衆、鈴を振る咒師、御水取(若狭井)、松明をみる群衆、松明のぼる、内陣の幕をしぼる堂童子、達陀の行法、社頭の終了報告、二月堂は明けゆき)第44回院展。「遊魚」第11回清流会展。「景清」巨匠日本画展。昭和35年 5月、訪中日本画家代表団の団長として約1ケ月間、中国を旅行する。9月、「中国を描く前田青邨展」(於東京日本橋高島屋・日中文化交流協会・朝日新聞社主催。「赤い壁」(天壇)「黄色い屋根」(紫禁城)。「南の街」(広州)中国を描く前田青邨展。「貝」第12回清流会展。「魚」第4回恵下会展。「駒勇む」昭和36年 中津川市で恵下会記念展開催。10月、喜寿記念前田青邨展(於東京日本橋高島屋・朝日新聞社主催)。12月、「前田青邨作品集」(喜寿記念画集)が大塚巧芸社から刊行される。「白頭」、「洋犬」第46回院展、「牡丹」第13回清流会展昭和37年 9月、「前田青邨先生喜寿記念陶展」(荒川豊蔵賛助出品。香合、小品置物、茶碗絵付等)(於日本橋三越)「石棺」午前時」第47回院展。「紅白梅」ローマ日本文化会館壁面用昭和38年 「出羽の海部屋」(画巻)「鯉」第48回院展。「静物」(赤絵皿にリンゴ)「ペルシャの鉢」昭和39年 2年前依頼された日光二荒山神社宝物館壁画の完成を記念して、日光二荒山神社壁画完成記念「前田青邨壁画と発掘宝物展」(於東京日本橋三越)が開催された。「K氏像」「椿」「山霊感応」日光二荒山神社宝物館壁画昭和40年 「千羽鶴」「薔薇」「奥の細道」昭和41年 郷里中津川市に前田青邨記念館が設立される。「前田青邨展」(於横浜高島屋、朝日新聞社主催)「転生」(平櫛田中)第51回院展。「三浦大介」山種美術館開館記念展。「ペンギン」第1回神奈川県美術展昭和42年 法隆寺寺壁画再現事業の総監修に安田靱彦とともに就任。前田班は「10号大壁(薬師浄土)」「3号小壁(観音菩薩)」「12号小壁(11面観音)」の三面を担当し制作する。「胡猫」第22回日本美術院春季展。「蓮台寺の松蔭」第52回院展昭和43年 「大物浦」第53回院展昭和44年 「徒然草」(二面)第24回日本美術院春季展。「異風行列の信長」第54回院展。「須磨」第21回清流会展。「熊野詣」第21回白寿会展「真鶴ケ浜」「蘭陵王」「燃える水献上」「川魚」昭和45年 新宮殿「石橋の間」壁面として、昭和30年に仮宮殿のために謹作した「石橋」に加筆し新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作する。「腑分」第55回院展。「新石橋」(「紅牡丹」「白牡丹」)「連雀」「梅日和」「八橋」昭和46年 「米寿記念前田青邨展」(於3.30-4.4東京日本橋高島屋、4.13-4.18大阪高島屋、4.20-4.25名古屋松坂屋。朝日新聞社主催)11月、すゑ夫人(荻江露友)が古典荻江節継承者として日本芸術院第三部会員となる。「知盛幻生」第56回院展。「応永の武者」「宋磁壺紅白梅」「晩秋(1)」昭和47年 「前田青邨作品集」(朝日新聞社)刊行。高松塚古墳壁画模写の総監督を委嘱される。「鴨」日本美術院春季展昭和48年 高松塚古墳石室に入室。「奈良の鶴の子」日本美術院春季展。「水辺の春暖」「土牛君の像」第58回院展。「大楠公」五都展昭和49年 春、高松塚古墳壁画模写が完成。東京国立博物館で内示が行われる。2月、ローマ法皇庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシヤ夫人像」を完成、東京国立近代美術館でその贈呈式が行われる。「富貴花」第59回院展。「古事記」(絵巻)日本美術院春季展。「細川ガラシヤ夫人像」バチカン美術館昭和50年 5月14-7月6 東京国立近代美術館において「前田青邨展」が開催される(現存作家の個人形式展として「平櫛田中展」についで2回目の企画)。「鶺鴒」日本美術院春季展昭和51年 6月5-7月4 京都市美術館において「前田青邨展」(京都市(財)日本文化財団・京都新聞社・近畿放送主催)開催。昭和52年 10月27日、老衰のため死去。戒名は画禅院青邨大居士。「桃花」日本美術院同人小品展。「晩秋」五都展昭和54年 3月17日、前田青邨先生筆塚建立供養会施行(於鎌倉市東慶寺)。9月、前田青邨 三周忌記念展(於東京日本橋高島屋)

片岡華江

没年月日:1977/10/22

蒔絵師、国の無形文化財保存技術者(螺鈿)である片岡華江は、10月22日急性心不全のため川崎市の高津中央病院で死去した。享年88。明治22年8月20日東京都台東区に生まれる。本名照三郎。同38年東京美術学校教授川之辺一朝に入門し螺鈿文様の制作をはじめ、大正元年大正天皇並びに皇后御召車内部と食堂車の鏡縁の螺鈿文様を作製、同3年東京美術学校漆工科の螺鈿彫鏤技術の講師を委嘱され、昭和18年までつとめた。この間、昭和3年東京美術学校監造御飾棚螺鈿鳳凰菊文様を作製したのをはじめ、翌4年伊勢神宮式年祭にあたり、御櫛函、轆轤函の銀平文、雲鳥文を神宮司庁の監修によって作製、同年皇太后職の依頼により東京美術学校監造紫檀造果物棚の螺鈿柘榴文様を作成、同6年には東京美術学校監造国会議事堂皇族室扉ならび御帽子台の螺鈿文様を作製した。戦後の同32年、文化財保護委員会の依頼により螺鈿技術記録を作成、同年無形文化財保存技術者に認定された。同34年第6回日本伝統工芸展出品作「螺鈿鷺之図手筋」が文化財保護委員会買上となり、同年宮内庁侍従職の依頼で壺切御剣の鞘の螺鈿を修理。同37年教王護国寺蔵重要文化財刻文脇息一基並びに彩画曲物笥一式を保存修理、同39年には国宝中尊寺金色堂の保存修理に伴う宝相華文様螺鈿を作製した。同41年勲五等瑞宝章を受賞した。

宮川淳

没年月日:1977/10/21

美術評論家、成城大学助教授宮川淳は、10月21日肝臓がんのため東京世田谷区の厚生会玉川病院で死去した。享年44。昭和8年3月13日東京市大森区で生まれ、同12年外交官であった父の任地モスクワへ赴き同14年帰国、同20年4月には同じく父の任地哈爾浜へ伴われ哈爾浜日本中学校に転入、同21年引揚帰国後、東京都立大学付属高校を経て、同30年東京大学文学部美学美術史学科を卒業した。同年日本放送協会に就職したが、同38年4月評論「アンフォルメル以後」で美術出版社の第4回芸術評論賞を受賞し、同40年日本放送協会を退職した。同年4月成城大学講師となり西洋美術史を担当、同44年助教授となった。また、同43年7月に最初のヨーロッパ研究旅行に出かけたのをはじめ、同45年、48年、51年にも主にパリを中心にヨーロッパ各地を旅行したが、同51年2月から4月にかけて、パリ滞在中発病し、入院手術を行い帰国した。また、この間同46年には東京大学教養学部非常勤講師、翌47年から49年まで東京都立大学人文学部非常勤講師をつとめた。西洋美術史研究とともに前衛美術評論で活躍し、著書に『セザンヌとスーラ』(美術出版社1961年)『マティス』(平凡社世界名画全集別巻、1962年)『鏡・空間・イマージュ』(美術出版社1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(エディシオンエパーヴ、1967年)『引用の織物』(筑摩書房1975年)、『美術史の言説』(中央公論社1978年)があるほか、訳書に『イヴ・ボンヌフォア詩集』(思潮社)などがある。なお、没後成城大学教授となった。

大舘健三

没年月日:1977/10/14

洋画家、一水会会員大舘健三は、10月14日死去した。享年75。明治35年11月25日東京都に生まれ、大正9年川端画学校に入り藤島武二に師事、同11年東京美術学校西洋画科入学し、在学中太平洋画会、聖徳太子奉讃展に出品、昭和2年同校を卒業する際奨励賞を受け、引き続き研究科へ進んだ。翌3年和田英作教室の制作助手となった。同4年一水会に初入選し、以後同展へ出品を続け、戦後の同21年一水会会員となった。この他、日展、美術団体連合展などにも出品、同44年には山元好信と二人展を開催、5回展まで続け、同46年には六悠会を創立し制作発表した。戦後の一水会への出品作には、「童踊」(第9回)、「ふたり」(第15回)、「二女による構成」(第28回)、「閑庭」(第36回)などがある。

二瓶大三

没年月日:1977/10/11

洋画家、日本水彩画会会員二瓶大三は、10月11日脳血栓のため死去した。享年65。大正元年12月12日福島県岩瀬郡に生まれ、昭和7年福島県師範学校を卒業し、同13年県立相馬女子高校教論となり美術を担当した。同15年日本水彩展に初入選、同31年第33回春陽会展に「二本松雪景」が初入選、同41年春陽会会友に推挙され、同42年には第55回日本水彩展に「沼尻高原」「古城」を出品して会友奨励賞(美術報知賞)を受賞、翌年日本水彩画会会員となった。同46年東南アジアに写生旅行に出かけたのをはじめ、その後、印度、ネパール、イタリア、シルクロード、南フランスへと同51年まで写生旅行を重ねた。代表作に水彩の「月見草の咲く高原」、油絵の「安達太良山の四季」がある。

近馬勘吾

没年月日:1977/09/27

洋画家、太平洋美術会委員近馬勘吾は、9月27日死去した。享年83。明治27年9月21日岡山市に生まれ、同45年上京、翌大正2年に太平洋画会に入り中村不折、岡精一に師事、以後戦前、戦後を通じて同会と共に歩み、戦後は同会展の審査員をはじめ、太平洋美術学校で指導にもあたった。この間、大正11年から翌年にかけてロシアへ渡りアレキサンドルフスクなどに滞在、昭和36年には渡仏巡遊した。戦後の太平洋画会展出品作に、「或る日のエチュード」(52回)、「庭に来る鳥」(56回)、「礎石の人と」(60回)、「妻」(69回)など。

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