本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1976/06/03 大阪市立美術館長西村兵部は心筋こうそくのため、6月3日、京都市の鞍馬口病院で死亡した。享年56。大正9(1920)年5月28日大阪市に生まれ、関西学院専門部文学部英文科を経て昭和19(1944)年9月台北帝国大学文政学部史学科を卒業した。奈良の育英高等学校教諭の後、昭和23年2月から昭和47年3月末まで奈良国立博物館に勤務し(その間、昭和36年4月から資料室長、昭和39年7月から普及室長、昭和42年1月に再び資料室長―美術室併任―、同年4月以降学芸課長)、昭和47年4月から大阪市立美術館長となった。この間、染織工芸史の研究を専門とし、正倉院宝物の古裂調査を宮内庁より委嘱されたり、奈良女子大学、京都市立芸術大学の非常勤講師もつとめた。従五位勲五等双光旭日章を追贈。染織工芸史の研究では特に上代裂の調査・研究に注目される数々の業績があった。主要著書エジプトの染織 有秀堂 昭和38年繍佛 角川書店 昭和39年正倉院展目録(染織・服飾特別展) 奈良国立博物館 昭和40年コプトの染織 美術出版社 昭和41年織物(日本の美術12) 至文堂 昭和42年毛利家伝来衣裳 講談社 昭和44年インド・東南アジアの染織 美術出版社 昭和46年紋織Ⅱ(日本染織芸術叢書) 芸艸堂 昭和46年漢唐の染織(共著) 小学館 昭和48年名物裂(日本の美術90) 至文堂 昭和48年故宮博物院図録―染織―(共著) 講談社 昭和49年紋織Ⅰ(日本染織芸術叢書) 芸艸堂 昭和50年
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没年月日:1976/05/08 漆芸家、岡山県重要無形文化財工芸技術保持者、日本工芸会理事難波仁斎は、5月8日午前3時胆石症、イレウスのため岡山市の川崎病院で死去した。享年73。本名仁次郎。明治36(1903)年2月27日岡山市に生まれ、大正13年岡山工芸学校塗工科を卒業、昭和2年から同33年まで母校で教えた。大正13年以来商工展に入選受賞したほか、帝展、文展、日展にも出品、日本伝統工芸展には昭和31年第3回展以来連続入選、第9回展では総裁賞を受賞した。同34年岡山大学教育学部特設美術科講師となり、同39年第22回山陽新聞文化賞、第21回中国文化賞、足守町文化功労賞、第16回岡山県文化賞を受賞、岡山県重要無形文化財工芸技術保持者に認定され、同49年には勲五等双光旭日章を受章した。図柄を直接描いてとぎ出す描蒟醤の手法を創案して新しい漆芸分野を開拓、同50年には「漆歴五十五難波仁斎回顧展」(天満屋岡山店)を開催した。代表作に「波文鉢」(昭和25年)「描きんま竹林文卓」(昭和37年)など。
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没年月日:1976/04/28 洋画家、光風会理事、日展評議員南政善は、4月28日午後0時36分心筋こうそくのため東京世田谷区の自宅で死去した。享年67。明治41(1908)年5月3日石川県羽咋郡(現羽咋市)に生まれ、昭和10年東京美術学校油画科卒業。在学中藤島武二に師事し、卒業の年第二部会に出品した「アコーデオン」で特選、以後官展、光風会展などに出品、同14年「赤いチョッキ」、同16年「霜鬢」で文展特選、同13年、17年の聖戦美術展では「砲列布置」「輸送船団」で夫々陸軍、海軍大臣賞を受けた。戦後も日展、光風会展で活躍、人物画を得意とし、写実的で堅固な作風を示し、同40年日展出品作「青衫の女」で文部大臣賞を受賞した。この間、同22年には光風会同志と新樹会を創立、同30年日展会員、同38年日展評議員となったほか、日展審査員等をつとめた。また、同44年光風会出品作「印度の女」は東京都美術館の買上げとなった。
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没年月日:1976/04/26 仏像彫刻家、洋画家高畠陽雲は、4月26日午前11時膀胱腫瘍のため大阪市の厚生年金病院で死去した。享年52。本名猪之吉。大正12(1923)年11月30日大阪市に生まれた。昭和20年8月6日の広島への原爆投下を体験し、仏像彫刻家の修行を始めたが、そのかたわら原爆投下の悲惨な光景を再現し後世に伝えようと油絵制作に取り組み、試行錯誤ののち同46年完成した「その瞬間」を広島市に、翌47年の「原爆炸裂」を長崎市に寄贈した。また、同50年には700号大の大作「原爆一号」を携えて渡米、国連ビルで展示するなど話題をよんだ。この間、数千枚にのぼる地獄絵を描き続けたほか、同45年原水爆物故者供養促進委員会を組織、同48年には福井市真宗三門徒派本山専照寺御影堂に被爆者の冥福を祈る「余間蓮華化生の図」を完成した。
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没年月日:1976/04/10 ボストン美術館アジア部名誉部長富田幸次郎は4月10日、老衰に肺炎を併発し、入院中のベス・イスラエル病院で死去した。享年86。明治23(1890)年3月7日京都市で生れた。父富田幸七、母ランで、父幸七は好室と号し漆芸家で、京都市立美術工芸学校教諭の職にあった。富田幸次郎は、明治39(1906)年京都市立美術工芸学校を卒業し、同校専攻科において漆芸研究中、農商務省海外実業練習生に選ばれ、同時に京都市嘱託として渡米し、ボストンに留学した。父幸七と、漆芸家六角紫水とは親交あり、六角紫水は岡倉天心の知遇を得て当時ボストン美術館に在任中であった。このような経緯から幸次郎の渡米が成ったともいわれる。ボストンに到着後、ボストン美術館日本部々長であった岡倉天心に迎えられ、農商務省海外実業練習生及び京都市嘱託のまま、ボストン美術館日本部嘱託員をなった。以後、支那日本部助手、同管理員、同副部長を歴任、昭和6(1931)年支那日本部を改称したアジア部部長に就任した。昭和38年73歳をもって、勤続56年にわたるボストン美術館を後進に道を譲るために引退した。この間専ら東洋美術の収集、整理と紹介につとめた。ボストン美術館日本部は、フエノロサ及び岡倉天心らの多大な尽力によって創設されたもので、特に東洋美術品の収蔵は約10万点も数え、その80%は日本美術といわれる。その資料的価値は世界第一であり、同美術館が世界的に有名なのも上記理由によるが、これらは創設者についで富田幸次郎の50有余年にわたる、不断の努力精進に負うものであることは、内外の関係者が等しく認めるところである。また美術を通じて米国人の間に多くの知己を有し、中でもハーバード大学付属フォグ美術館東洋美術部主任の地位にあった故ウォーナー博士とは多年に亙る深い親交を結んでいた。第二次大戦において、京都及び奈良が爆撃の被害を免かれたのは、もとより故ウォーナー博士の努力に負うところが大であったが、そのかげに富田幸次郎の尽力があったことは掩うべからざる事実である。美術館活動における功績のほか、このように米国人との交流、さらに識見、円満な人格が多くの尊敬を集め、大戦中も米国当局は抑留せず、アジア部長の職をも奪わないという異例の措置をとった。また在任中行った講演、著作など数多い。(本文及略歴は、茨城大学五浦美術文化研究所所報6号「富田幸次郎先生を偲んで」緒方広之執筆を参照した。)略歴明治23年(1890) 3月7日、京都市に生る。父富田幸七、漆芸家、京都市立美術工芸学校教諭。号好室。明治40年(1907) ボストン美術館支那・日本部部長岡倉天心の知遇をうけ、農商務省海外実業練習生及京都市嘱託のまま、ボストン美術館支那日本部嘱託員となる。昭和41年(1908) ボストン美術館支那・日本部助手となる。ニューヨーク、メトロポリタン美術館の臨時嘱託員として1年間勤務。明治42年(1909) 帝室博物館依嘱により、ボストン市在住蒐集家よりの寄贈受入のための選択の任に当る。ハーバード大学夏期講習を受講。農商務省実業練習生期間満了。京都市嘱託継続。明治43年(1910) 日英博覧会日本出品協会事務取扱を嘱託され、英国に滞在する。フランス、ベルギーを視察。明治44年(1911) 日本国内博物館視察の用務をおび出張。(第1回帰国)大正2年(1913) ボストン美術館支那・日本部の管理員となる。(この年岡倉天心没)大正5年(1916) ボストン美術館支那・日本部の副部長に就任。大正8年(1919) 美術調査の用務をおび帰国。(第2回帰国)大正12年(1923) Miss Hariet E. Dickinsonと結婚。大正13年(1924) 美術調査の用務をおび帰国。(第3回帰国)この間茨城県五浦を訪問、天心未亡人と会合し、天心の墓参をする。昭和6年(1931) ボストン美術館アジア部部長に就任。昭和10年(1935) ハーバード大学創立三百年記念事業である「日本古美術展」をボストン美術館で開催するため、借用要請の用務をおび帰国する。(第4回帰国)帰途印度、欧州を経由。昭和11年(1936) 前年要請の「日本古美術展」出品作品借用の用務にて、エジウェル館長とともに帰国。(第5回帰国)昭和14年(1939) ボストン美術館アジア部長とともに、セーラム市のピーポディ博物館日本部名誉部長に就任する。昭和16~20年(1941~1945) 日米開戦により、在留邦人は抑留されたが、何等制約を受けず、職も在任のまま継続された。さらに「戦争地域における、芸術的、歴史的記念物を保護救済することを目的とする委員会」の一員として、日本部主任ラングドン・ウォーナー博士を助け、日本の文化財保護のため尽力した。昭和28年(1953) 米国に帰化する。昭和33年(1958) ボストン美術館在勤50年を機に、東洋美術の調査を兼ね、世界周遊旅行の途次来日した。(第6回帰国)政府は多年米国に在って、東洋並びに日本美術の蒐集、整備、紹介等における活動に対し、また第二次大戦中の日本文化財保護の努力、その他一般文化面での功績に対し、勲三等瑞宝章を贈った。なおこの折、横浜市の「岡倉天心生誕之地記念碑」除幕式に出席し、又法隆寺に建立されたラングドン・ウォーナー博士の供養塔除幕式にも出席した。昭和34年(1959) 長年東洋美術研究に寄与した広汎な活躍に対し、ボストン大学から表彰される。昭和36年(1961) アメリカ美術科学会員に推される。昭和38年(1963) 後進に道を開くため、73歳を機にボストン美術館を退職する。9月、夫妻で日本訪問旅行する。(第7回帰国)秋、茨城大学五浦美術文化研究所に建立された岡倉天心記念館の開館式に出席する。昭和51年(1976) 4月10日逝去。著作目録○ ボストン美術館所蔵支那名画目録(漢―宋時代)第2版 1938年の編纂及解説○ ボストン美術館所蔵支那名画目録(元明清時代)初版 1960年の編纂及解説○ Encyclopaedia Britanicaの中Art, Screenの項執筆。○ 農商務省彙報、京都美術への報告、寄稿。○ Bulletin Of The Museum Of Fine Arts, Bostonへの東洋美術品の解説及紹介等。
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没年月日:1976/04/09 文学者で画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者の武者小路実篤は、4月9日、東京・狛江の慈恵医大第三病院で脳卒中に尿毒症を併発し死去した。享年90。武者小路実篤は、明治18(1885)年5月12日、東京市麹町区(現・千代田区)に生まれ、明治39(1906)年7月学習院高等科を卒業し、9月東京帝国大学社会科に入学したが、翌40年中途退学し、志賀直哉、木下利玄、正親町公正らと「十四日会」をつくり文学創作を始める。明治43(1910)年4月、上記の同志のほか、有島武郎、里見弴、郡虎彦、柳宗悦、児島喜久雄、有島生馬ら学習院同窓生と雑誌『白樺』を創刊した。『白樺』は、文学雑誌であったと同時に美術雑誌でもあり、ベックリン、クリンガー、ロダンからゴッホ、クールベ、マネー、セザンヌ、ついでフラ・アンジェリコ、エル・グレコ、ゴヤなど西洋絵画、彫刻の図版、評伝や評論を掲載した。第1巻8号(明治43年11月)ではロダン特集号、第2巻3号(明治44年3月)はルノアール特集、第2巻4号はマネー特集号等々と西洋美術の紹介につとめ、また一方、明治43年7月の南薫造・有島生馬滞欧記念絵画展を初めとして展覧会を開催、特に明治45(1912)年2月の白樺社主催第4回展では、ロダンから贈られたロダンの彫刻3点が出陳された。こうした白樺社の運動の中心人物として活躍し、その間、文学作品発表のほか、木下杢太郎と論争を交わしたり、後期印象派についての評論を発表したりもしている。画家たちとの交友のなかでは、特に岸田劉生との関係が濃密で相互に影響をもった。大正7年、宮崎県に「新しき村」を建設し、大正15年まで同地に住んだ。大正12年ころから絵画を描きはじめ、昭和2年新宿紀伊国屋で第1回「新しき村」展を開催している。昭和4年(1929)には第4回国画会展に「千家元麿氏肖像」他2点を出品、同6年12月には室内社で油絵の個展を開催、同10年第10回国画会展に「女の肖像」他4点を出品して国画会会友となった。昭和11年4月から12月ヨーロッパに旅行し各地の美術館を訪れ、「レンブラント其他」「名画の感激」など、さらに帰国した翌年には「巴里絵画雑誌」「マチス、ルオー、ドラン、ピカソ訪問記」などを発表した。その後のものでは、『画集と画論』(昭和17年)、『岸田劉生』『レンブラント』(昭和23年)などがある。個展は、昭和30年3月「10年間の作を集めた個展」(壺中居)、9月銀座サエグサで個展、31年1月「日本画個展」(新宿伊勢丹)、36年3月喜寿記念展(日本橋三越)、38年4月油絵個展(三越)、39年5月個展(壺中居)、41年2月「我が愛する書画展」(三越)、47年6月米寿記念展「福寿開」(吉井画廊)、50年個展(上野松坂屋)をそれぞれ開催した。
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没年月日:1976/04/05 洋画家、二紀会同人瀬尾暹は、4月5日結腸腫瘍のため死去した。享年70。明治39(1906)年3月4日名古屋市生まれ、明倫中学卒業。昭和6年二科展に「田代風景」が初入選し、以後同展に出品同17年会友となったが、戦後は同22年第1回二紀展に出品、翌23年二紀会同人となり同展に出品を続けた。また、同10年第1回愛知社展で愛知賞受賞、同12年汎太平洋博美術展で特選、同15年紀元二千六百年奉祝展で特選を受けた。同33年度中部在野美術団体連盟委員長をつとめたほか、東海学園で美術を担当、同45年以後愛知県私学協会美術研究主任として私学美術の振興にも尽力した。代表作に「五百羅漢堂」(昭和23年)「サンマルコ寺院」(昭和48年)など。
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没年月日:1976/03/25 洋画家、東光会委員村田宏治は、 3月25日死去した。享年71。本名枝川広治。明治38(1905)年5月10日茨城県筑波郡に生まれ、茨城師範学校卒業後、熊岡美彦に師事して洋画を学んだ。第2回文展に「読書」が初入選以後、東光会展を中心に作品を発表し、昭和38年同会会員、同50年委員となった。この間、同44年3月から5月まで南欧に取材旅行し、帰国後滞欧作の個展(東京銀座銀彩堂画廊他)を開催した。
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没年月日:1976/03/23 二紀会監事の洋画家、大兼実は、3月23日午前4時30分、気管支炎のため東京狛江市の自宅で死去した。享年67。大兼実は、明治41(1908)年10月21日、東京に生まれ、大正15年太平洋画会研究所に入所、昭和4(1929)年第16回二科会展に「池畔夏景」が初入選となり、昭和8(1933)年文化学院美術科を卒業、同9年中国の上海、蘇州、杭州、南京などに写生旅行、同12年渡欧した。初めローマの国立美術学校に学び、フレスコ画法を研修、イタリア各地を歴遊したあとパリに移り、アカデミー・グラン・ショミエールで学び、昭和19(1944)年まで滞在した。その間、サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナル・デ・ボザール、サロン・ド・チコイレリーなどに出品、昭和18(1943)年にはベルリンで個展を開いた。昭和20(1945)年に帰国し、翌21年第1回日展に出品、一水会会員に推挙され、同22年第3回日展では委員を依嘱されたが、二紀会創設に際してこれに参加し、以後、二紀会に作品を発表すると共に監事、委員として活躍した。二紀会出品主要作品年譜昭和23年2回展「青い服のマネカン」、同26年5回展「ソレント」「古い街」「パリの裏街」「雨後のパリ郊外」、同27年6回展「クロワートル」「ブルタニュ」「ピストロ」「古い街」、同29年8回展「博物館の庭」「ベランダ」「港街」、同31年10回展「窓」「艇庫の一隅」、同33年12回展「商館のバルコン」、同34年13回展「長崎商館のバルコン」「和蘭陀屋敷のテラス」「採光(天主堂の一隅)」、同36年15回展「長崎十二番館」「桜島」、同39年18回展「大和の民家」「大和の村」、同41年20回展「法隆寺の村」「斑鳩の里の小路」、同45年24回展「信濃路」、同47年26回展「今井の露路(橿原)」、同49年28回展「塔のある酒倉」、同50年29回展「石舞台古墳」
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没年月日:1976/03/23 洋画家、日本芸術院会員、独立美術協会会員野口弥太郎は、3月23日午前3時20分脳いっ血で入院中に肺炎を併発し東京千代田区の東京警察病院で死去した。享年76。明治32(1899)年10月1日当時の東京市本郷区に生まれ、大正9年関西学院中学部を卒業後翌10年川端画学校で油絵を学んだ。同11年二科展に「女」を初出品入選、その後も連続入選し頭角をあらわした。同15年1930年協会会員となり前田寛治に傾倒し、昭和4年渡仏、パリのグラン・ショミエールに学び、同6年サロン・ドートンヌに出品した「港のカフェー」は仏政府買上げとなった。同8年3月帰国、二科会会友を辞し、独立美術協会第2回展に滞欧作を出品、同会会員となり、以後林武、高畠達四郎らとともに同会の主要な作家として活躍した。この間、同27年から45年まで日本大学芸術学部教授をつとめたほか、同35年5月から37年4月まで再渡欧し36年6月にはパリのマルセル・ベルネイム画廊で個展を開催、同37年国際形象展に同人として参加、同39年には「セビラの行列」(第31回独立展)および滞欧作品展(38年銀座松屋)の諸作に対して第5回毎日芸術賞を受賞、同47年国際形象展出品作「那智の滝」により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また同50年勲三等瑞宝章を受章するとともに同年11月日本芸術院会員に任命された。パリ留学で身につけた自在なフォーヴ的筆致を日本の風景に適合させ、完成度の高い日本的フォーヴィズムの作風を示した。年譜明治32年(1899) 10月1日東京市本郷区に、銀行家野口弥三の長男として生まれる。明治39年 父の任地朝鮮仁川市の小学校に入学。その後東京市四谷第二小学校、錦華小学校などを経て、父の郷里長崎県諫早市の小野尋常小学校へ転校(明治44年7月~45年1月)、次いで神戸市の諏訪山小学校に転校。大正3年 関西学院中学部入学。成績優秀で人気が高く、絵画に長じ学校の油絵グループ弦月会で活動す。上級生に大森啓助がいた。大正6年 スポーツで身体をいため休学、その間さかんに油絵を試みる。大正9年 関西学院中学部を卒業。父母よりドイツ製油絵具セットなどを与えられ、恵まれた環境のうちに画家となる決心を抱く。このころ澤野菊枝を知る。大正10年 軽井沢に滞在して、画家たらんと強く決心す。この時の宿つる屋には芥川龍之介が同宿していた。のち東京原宿に居住、川端画塾に数週間通い油絵を学ぶ。この頃神田神保町の兜屋画堂で開かれた関根正二や村山槐多の展覧会を見て感心する。大正11年 代々木にアトリエを新築す。近所の初台に児島善三郎が居て交遊した。9月第9回二科展に「女」を初出品入選す。大正13年 9月第11回二科展に「少女と静物」「夏日夕景」「室内裸婦」の3点入選し注目さる。10月万鉄五郎が主宰する二科系新人グル-プ円鳥会第3回展に会員外として出品、万から個性的で近代的傾向の作品として高く評価さる。大正14年 澤野菊枝と結婚し、東京府豊多摩郡に居住す。9月第12回二科展に「室内」を出品。10月第4回円鳥会展に「草上假睡」他4点を出品す。大正15年 5月1930年協会第1回展が開かれたが、6月すすめられて古賀春江、林武らと共に会員となる。前田寛治を知り、その人と作品に深く感銘した。9月第13回二科展に「爪みがく女」「裸婦構図」「六月風景」「大山園風景」を出品。昭和2年 6月1930年協会第2回展覧会に出品、以後出品を続けた。9月第14回二科展に「室内裸婦」「坂の風景」を出品。昭和3年 1930年協会洋画研究所(東京市外代々木山谷160 山谷小学校前)が設立され、里見勝蔵、前田寛治、林武らと数十名の研究生を指導、風景画を担当した。9月第15回二科展に「塔のある風景」「画室の静物」「S嬢肖像」を出品。昭和4年 1月1930年協会第4回展に「男の肖像」「断崖」など7点出品す。大阪で渡欧記念の個展開催す。4月渡欧す。7月パリに到着、アレジアの塔やサクレ-ル寺院の見える部屋に落着く。グラン・ショミエ-ル画塾の自由な雰囲気を好み、自己の制作の方向をつかみ始めた。隣室に木下孝則がいた。ブルタ-ニュ地方に写生旅行す。9月第16回二科展に「水車」「奈良風景」「父母の肖像」を出品。昭和5年 1月木下孝則と南仏旅行し、クロ・ド・カ-ニュに伊藤廉の訪問を受く。間もなくパリに帰る。この年から同7年までサロン・ド-トンヌ、アンデパンダン展に出品した。このころカンバスに代えて紙を使い、絵具は薄塗りで明るく冴えた色感と単純化された造形の近代的感覚を目指した。また一時期、すべての絵具に墨をまぜて色調をととのえ、瀟洒な効果をねらった。11月独立美術協会の創立に際し参加を求められたが態度を保留した。昭和6年 2月リヨンに滞在し、夏ノルマンディに旅行す。この旅行に取材したサロン・ド-トンヌ出品の「ベルク-ル広場」「港のカフェ」は好評を博し、「港のカフェ」は政府買上となり、パリ市庁の美術館に納められた。その後イギリスに旅行す。9月二科会会友に推さる。昭和7年 パリで海老原喜之助、森田勝などと交遊する。富永惣一とロンドン、オランダ、ドイツに遊ぶ。板倉準三を加え、3人でイタリア、シシリ-およびギリシャを旅行す。また、スペインにも旅行し、グレコとヴエラスケスに感動す。サロン・ド-トンスに「巴里の眺」「門」など大作を出品。パリ、ヴィニヨン画廊での個展契約あり、大いに制作中、夏の終り頃左眼の故障を知り、治療す。個展制作を中止す。昭和8年 3月第3回独立展開催中に帰国。二科会会友を辞し、独立美術協会会員となる。昭和9年 3月第4回独立展に「カフェテラス」「門」「トレド風景」「青衣の女」「港のカフェ(下図)」「七月十四日祭(モンパルナス)」の滞欧作6点が特別陳列される。(独立美術15『野口弥太郎特集』以後毎回同展に出品を続ける。都新聞に挿絵を連載する。左眼の治療に専念する。昭和10年 3月第5回独立展に「リヨンの橋」「巴里の眺」(ともに昭和6年作)「カーニュ風景」を出品。3月東京府美術館10周年記念現代総合美術展に「父母の肖像」(二科出品より自選)を出品。10月独立秋期展に「風」を出品する。昭和11年 4月第6回独立展に「秋の風」「ギリシャ印象」を出品。6月個展を開催(20-24日、大阪・美術新論社画廊)。11月独立秋季展に「日光紅葉」を出品する。昭和12年 3月第7回独立展に「夜のレストラン」「南方の庭」「I氏肖像」を出品。3月独立全会員小品展に「グレコの家」他を出品。4月明治、大正、昭和三聖代名作美術展に「港のキャッフェー(下絵)」を出品する。昭和13年 3月第8回独立展に「スペインの子供達」「蕃人」「夜のレストラン」を出品。昭和14年 3月第9回独立展に「東北の人々」を出品。10月独立秋季展に「静物」を出品する。昭和15年 3月独立第10回記念展に「父の肖像」「港の朝」「札幌の屋根」「利尻富士」「青衣の女」を出品。5月個展を開催(18-21日、銀座資生堂、石原求龍堂、兜屋主催)、「南方の町」「巴里祭」など10余点を出品。10月紀元二千六百年奉祝美術展に委員として「アイヌの家族」を出品する。昭和16年 3月第11回独立展に「婦人肖像」「山と家」「軍人肖像」を出品する。昭和17年 3月第12回独立展に「上海」「Y氏肖像」「仏蘭西租界の眺」「婦人肖像」「黄浦江」を出品。上海に旅行し、7月上海風物個展(19-22日、銀座資生堂)を開催、「上海ガーデンブリッヂ」など25点を出品する。昭和18年 3月第13回独立展に「北越漁村」「S氏肖像」「山村雪景」「街道雪景」「キリン山雪景」を出品。このころ満州に旅行す。昭和19年 2月第14回独立展に「庄内の町」「働く人々」「海辺の神社」を出品。5月独立会員展に「海辺の喜び」を出品。11月個展を開催(20-26日、銀座美交社)。11月戦時特別文展に「田園小憩」を出品。12月川口軌外、中川紀元、児島善三郎らと6人展を開く(9-13日、銀座資生堂)。昭和21年 3月第1回新興美術展に「リヨンの橋」「ベルクール広場」などを出品。4月内田巌、福田豊四郎ら各派進歩的美術家らと日本美術会を創設し、委員となる。昭和22年 4月第15回独立展に「漁村の家」「農家の女」を出品。5月第1回現代美術総合展に出品、以後出品を続ける。6月第1回美術団体連合展に「江の浦風景」「漁村」「農家の庭」などを出品、以後5回展(最終)まで毎回出品す。6月大河内信敏、川端実、朝井閑右衛門らと洋画研究団体新樹会を結成、第1回展を日本橋三越で開催す。昭和23年 3月個展開催(日動画廊)。10月第16回独立展に「函館港」「唐津港」「岩内風景」を出品。10月近作油絵個展を開催す。(丸善画廊)。昭和24年 2月第1回アンデパンンダン展に「長崎の港」「若い女の肖像」などを出品、以後出品を続ける。5月水彩展開催(数寄屋画廊)。10月個展開催(丸善画廊)。昭和25年 1月現代美術自選代表作15人展に出品。10月第18回独立展に「港の広場(釧路)」「上場と山(日鋼室蘭)」「アイヌ老夫婦」を出品。10月個展を開催す(資生堂)。昭和27年 日本大学芸術学部教授となる。5月第1回日本国際美術展に「家と山」「黒ショールの女」などを出品す。以後毎回出品、7月熊谷守一、伊藤彪らと友誼的研究団体の白鳥会を創立、10月第1回展を開催(日本橋白木屋)、「2人の肖像」「波止場」などを出品す。8月阪神風物展(大阪梅田画廊)を開催す。10月第20回独立展に「橋のある風景」「裸女」「海」を出品す。昭和28年 第2回インド国際美術展に出品す。10月第21回独立展に「幼年像」「雲仙」を出品す。昭和29年 5月第1回現代日本美術展に「オランダ坂にて」「国際大通り」など出品。滞欧中を除き毎回出品す。昭和30年 日本橋高島屋で個展を開催、戦後10年の代表作(水彩を含め34点)を展観す。10月第23回独立展に「風景」「裸婦立像」を出品。昭和31年 10月第24回独立展に「花のある静物」「黒と白の静物」を出品す。昭和32年 10月第25回独立展に「アトサスプリ(硫黄山)」「オイナオシ浜」を出品す。昭和33年 第2回国際具象派美術展に「教会のある風景」「硫黄山(黄)」を出品、以後出品を続ける。10月第26回独立展に「目鏡橋(諫早)」「港」を出品す。昭和34年 10月第27回独立展に「諫早の目鏡橋」「日蓮上人像」を出品。11月神奈川県立近代美術館で鳥海青児との二人展開催さる。(美術手帖10月号「野口弥太郎」)。昭和35年 5月再び渡欧。6月第30回ヴェ二ス・ビエンナーレを見てパリに赴く。昭和36年 春スペインに旅行す。6月パリのマルセル・ベイネイム画廊で個展を開催、水彩を含め43点出品、レイモン・シャルメの推薦を受く。8月再びヴェニスに旅行。昭和37年 4月帰国す。国際形象展組織され、同人として参加、「まひるのグラナダ」「カーニュの古城」を出品、以後毎回出品を続ける。昭和38年 4月滞欧作品展および滞欧スケッチ展(銀座松屋)を開催。(画集『野口弥太郎滞欧作 1960-62』)。10月第31回独立展に「おまつり」を出品す。昭和39年 1月第31回独立展出品の「セビラの行列(おまつり)」および滞欧作品展の諸作に対し、第5回毎日芸術賞が授与さる。3月野口弥太郎展(日本橋白木屋)が開催され、初期から第二次滞欧作まで56点が展示される。(三彩3月号「野口弥太郎特集」、美術グラフ5月号「野口弥太郎を語る」)。10月第32回独立展に「長崎の風」を出品す。昭和42年 10月第35回独立展に「三人のアイヌ」を出品。昭和44年 第一次渡欧以来の左眼が再び悪化し治療に専念す。昭和45年 3月バリ島に写生旅行す。昭和46年 4月「近代日本美術における1930年展」(東京国立近代美術館)に「夜のテラス」「ベルクール広場」「フレンチカンカン」が出品さる。10月第39回独立展に「シャトーと馬」を出品。昭和47年 3月「那智の滝」で第23回芸術選奨文部大臣賞を受賞す。9月東京国立近代美術館開館20年記念「現代の眼―近代日本の美術から」展に「オランダ坂」「踏絵」「セビラの行列」が出品さる。10月第40回独立展に「那智の火祭」を出品す。昭和50年 10月第43回独立展に「タンジ-ルにて」を出品。11月日本芸術院会員となる。昭和51年 3月23日没(この年譜は『野口弥太郎画集』(昭和54年5月刊行予定日動出版)所収年譜を参照した。)
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没年月日:1976/03/05 漆芸家、重要無形文化財保持者高野松山は、脳軟化症のため3月5日午前8時15分東京文京区の自宅で死去した。享年86。本名重人。明治22(1889)年5月2日熊本市に生まれ、京都市立美術学校描金科卒業後、大正5年東京美術学校漆工科卒業、同研究科を修了し、さらに白山松哉に師事して蒔絵を学んだ。大正8年から昭和7年まで東京美術学校漆工科講師をつとめた。昭和7年「柏・木兔之図蒔絵衝立」、翌8年「乾漆おはぐろ蜻蛉筐」で各々帝展特選、同11年「蝦模様蒔絵手箱」で新帝展推奨となり、以後文展、日展を通じて蒔絵ひとすじに活躍した。同30(1955)年重要無形文化財(人間国宝)の指定制度ができるとその第1回の指定者に選ばれ、同35年日展評議員、同37年日展参与となり、翌38年日本漆芸会会長に就任、同40年には紫綬褒章を受章するとともに、美術工芸の伝統技術を守っている工芸家に与える第1回キワニス賞を受賞、同42年勲四等瑞宝章、同49年勲三等瑞宝章を受けた。白木に蒔絵する樹地蒔絵の手法の開拓者でもあった。代表作に「獅子蒔絵色絵箱」「蛤型千鳥香盒」「乾漆竹菓子器」など。
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没年月日:1976/02/25 洋画家、日展評議員、一水会常任委員納富進は、2月25日午後7時5分食道ガンのため長崎大学付属病院で死去した。享年64。明治44(1911)年5月12日佐賀県鹿島市に生まれた。昭和10年文化学院美術部を卒業、在学中の同8年第20回二科展に「青根風景」が初入選したが、同12年一水会展に初入選、同18年「北国」で一水会賞を受賞、また、同16年第4回文展に「故郷雨期」が初入選、翌17年文展で「往還」が岡田賞を受賞するなど、以後一水会展、日展を中心に作品発表を行った。戦後郷里鹿島市に居住したが、三鷹市にもアトリエを構え、主に村の風物をモチーフに簡明でおおらかな画風を築いていった。同36年一水会常任委員となり、同41年日展評議員となった。同44年第1回改組日展に出品した「竜王峠」で文部大臣賞を受賞、同45年佐賀県文化功労賞を受けた。また、浮立亭の筆名で随筆もよくした。没後、勲四等瑞宝章が贈られ、同52年には佐賀県立博物館で遺作展が開催された。
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没年月日:1976/02/03 慶長年間から300余年続く宮大工の当主伊藤平左エ門は、2月3日午後9時5分、脳血栓のため名古屋市の岡山病院で死去した。享年80。旧名次郎、諱正道。明治28(1985)年4月22日、伊藤満作の次男として名古屋市に生まれ、愛知県立第一中学校を経て、大正6(1917)年3月名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築科卒業、大正11年1月、十一代目伊藤平左エ門を襲名、社寺建築請負の家業を継いだ。昭和3年1月より約2ヶ月間、タイ及びインドの仏蹟を巡歴した。昭和26年11月一級建築士免許、昭和45年11月勲五等に叙し瑞宝章を授けられた。 伝統的手法による社寺建築の造営に従事し、寺院建築では設計施工121棟、設計3棟、施工10棟、神社建築では設計施工77棟、設計7棟、施工17棟、その他の建物5棟、物件18を数え、主要作品としては、昭和元年の兵庫・円教寺摩尼殿、同4年の東京・青松寺本堂、同10年の京都・金戒光明寺の大方丈ほか4件、同年の千葉・新勝寺内仏殿と書院、同28年の米国ニューヨーク近代美術館内の古典住宅、同32年の島根・出雲大社拝殿がある。なお論文、著書としては、「ポロンナルワの仏教建築」(東洋美術第12冊、昭和4年)、「★羅古代法輪に就いての考察」(東洋美術第11号、昭和6年)、「建築の儀式」(彰国社、昭和34年)、「古建築秘話」(鳳山社、昭和37年)、「宮大工十話」(毎日新聞社、昭和40年)を挙げることができる。
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没年月日:1976/02/03 日本彫塑会々員、日展委嘱の安達貫一は、2月3日急性心不全のため、中野区の自宅で死去した。享年78。明治31(1898)年3月21日島根県松江市に生れ、大正2(1913)年島根県松江工業学校木材工芸科を卒業した。16才の年に彫刻家を志して上京し、木彫家内藤伸に師事した。同7(1918)年の頃から彫塑を学ぶため彫刻家で東京美術学校教授の建畠大夢にも師事した。ついで大正10(1921)年には東京美術学校彫刻科塑造部に入学、同15(1926)年同科を卒業、同年4月より研究科に入った。作品は在学中の第5回帝展に「自刻像」首を初出品して、初入選となった。その後作品は主として官展に発表したが、そのほか直土会展、日彫展にも出品した。作品歴大正14年 第六回帝展出品 「彌五像」大正15年 第七回帝展出品 「拗た子供」昭和2年 第八回帝展出品 「北見の女」昭和3年 第九回帝展出品 「逍遙」昭和4年 第十回帝展出品 「絲遊」昭和5年 第十一回帝展出品 「虚」昭和6年 第十ニ回帝展出品 「少女」昭和7年 第十三回帝展特選 「三人の子供」昭和8年 第十四回帝展特選 「すもうとるこども」昭和9年 第十五回帝展推薦 「あそび」昭和13年 第一回文展無鑑査 「少年像」昭和14年 第二回文展無鑑査 出品作品不明昭和15年 第三回文展無鑑査 「若き男」紀元二千六百年奉祝美術展昭和16年 第四回文展無鑑査 「働く少年」直士会出品昭和18年 第六回文展無鑑査 「子供」昭和32年 新日本美術展覧会(日展)委嘱出品 「ひらく」昭和33年 日展委嘱 「髪を持つ少女」昭和34年 第二回日展委嘱 「希」昭和35年 第三回日展委嘱 「ボールを投げる少年」昭和36年 第四回日展委嘱 「少女」昭和37年 第五回日展委嘱 「裸婦」昭和38年 第六回日展委嘱 「少女」昭和39年 第七回日展委嘱 「女の像」昭和40年 第八回日展委嘱 「立膝の女」昭和41年 第九回日展委嘱 「女の像」昭和42年 第十回日展委嘱 「裸婦」昭和43年 第十一回日展委嘱 「裸婦」昭和44年 改組日展第一回展 「闘技」昭和45年 第二回日展委嘱 「佇む女」昭和46年 第三回日展委嘱 「裸婦」昭和47年 第四回日展委嘱 「裸婦」
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没年月日:1976/02/01 日展評議員、帝塚山学院大学教授文学博士田中塊堂は、2月1日、胃ガンのため大阪市の関西電力病院で死去した。享年79。本名英市。明治29(1896)年2月10日、岡山県小田郡に生まれた。大正11年大阪貿易語学校英専科卒。同13年川谷尚亨に師事し書を学んだが、かなは独学で古筆を研究した。相沢春洋と親しく、田中親美とも交遊があった。昭和6(1931)年泰東書道院第2回展から連続3回特選となり、同13年泰東書道院審査員、日本書道院審査員、14年平安書道会審査員、23年毎日書道展審査員、26年日展審査員を経て32年日展評議員、34年日本書芸院理事長となった。自らは千草会を主宰し、季刊誌「かな研究」を刊行した。その間、大阪女子商業学校、帝塚山学院高等女学校教諭をつとめ、41年帝塚山学院大学教授となった。古写経の研究でも知られ、昭和36年「写経史の研究」によって文学博士(竜谷大学)となった。35年大阪芸術賞、40年芸術院賞、50年勲三等瑞宝章を受賞した。代表作は「浜木棉」(38年毎日展出品)、著書に「日本写経綜鑒」(昭和28年 三明社刊)、「日本書道史」(昭和42年 仏教大学刊)「現代書道教室・田中塊堂」(昭和46年 筑摩書房刊)「日本古写経現存目録」(昭和48年 思文閣)などがある。
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没年月日:1976/01/23 洋画家、二紀会理事森英は、1月23日午後10時14分肝臓ガンのため東京、関東中央病院で死去した。享年68。明治40(1907)年3月31日香川県三豊郡に生まれ、昭和7年東京美術学校西洋画科卒業。同年からニ科会に出品したが、戦後同21年ニ紀会創立に参加し、以後同会の主要なメンバーとして活躍した。この間、同31年渡欧、同36年から38年までは壁画研究のため欧州、アメリカ、メキシコに滞在、帰国後同41年にかけて油絵としては世界最大の高さ3m幅33mの壁画「ル・ソレイユ」を宇都宮市の足利銀行本店に完成したのをはじめ、同45年観音寺市民会館壁画「タクロボ、宇宙賛歌」、同49年新宿住友ビル壁画「太陽」、同年成田ビューホテル壁画「星座」、同51年成城学園講堂壁画「武蔵野早春」など、つぎつぎに巨大な壁画を完成した。このほか代表作に「星座」三部作など。
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没年月日:1976/01/20 益子焼の陶芸家佐久間藤太郎は、1月20日午後1時15分胃ガンのため宇都宮市荒井胃腸科病院で死去した。享年75。明治33(1900)年8月10日栃木県芳賀郡に益子焼の窯元の子として生まれた。大正7年益子町立陶磁器伝習所を卒業、同13年浜田庄司が益子へ移って以来浜田に師事し、浜田に次ぐ益子焼の代表的作家として活躍、民芸陶器としての益子焼の隆盛に貢献した。この間、昭和2年国画会工芸部に入選、戦後は、同24年国画会会員となったほか、東京高島屋をはじめ各地で個展をしばしば開催、主なものに同31年作陶三十年記念展(栃木会館)、浜田・島岡・佐久間三人展(京都大丸)、同41年浜田庄司・佐久間藤太郎二人展(土岐市)などがある。同28年栃木県民芸協会理事に就任、同34年栃木県文化功労賞を受賞、同48年には勲五等瑞宝章を受けた。
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没年月日:1976/01/19 日本画家白井烟嵓は、1月19日肺ガンのため東京・世田谷の国立大蔵病院で死去した。享年81。本名白井龍。字瀧司。明治27(1894)年2月8日愛知県豊橋市に生れ、二松学舎を卒業した。大正6(1917)年南画家松林桂月に師事し、同9(1920)年第2回帝展に「幽栖」が初入選した。以後も帝展に出品をつづけ、第6回「山靈★雨」、第10回「秋林」、第14回「残★」、第15回「雨」、改組帝展「冰松」などがあり、新文展では第3回雨意」、第5回「松籟」などがある。戦後は日展に出品し、主もな作品として第2回「雨後」、第3回「山峡」、第4回「峡壁飛泉」、第5回「雲行雨施」(特選)があり、第6回では依嘱により「雪暮」を出品した。ついで第7回「蒼然暮色」、第8回「雪峰隔谷深」(白寿賞)、第10回「山湫雨余」、があり第11回「雨岫」以後依嘱出品になる。昭和33(1958)年社団法人日展となってから以後も委嘱出品として、第1回「一鳥不飛天地寒」、第2回「雨亦奇」、第3回「煙山晩鐘」、第4回「山雨将来」、第5回「浄池霜暁」、第6回「飛雪」、第7回「名号池」、第10回「竹林幽趣」、第11回(1968)「松」などの出品がある。またこの間、昭和15(1940)年には日本橋三越に、同32年及び35年には渋谷東横に個展を開催し、同36(1961)年第1回日本南画院出品「秀弧松」は文部大臣賞となった。官展のほか、日本画会、松子社展、日本南画院、後寿会、静賞会、南画院、日月社などにも出品した。画風は写生をもとに、古雅な風趣をもつ。なお青年時代(1918)外海家と養子縁組したが、のちこれを解消(1933)した。したがって帝展出品は外海烟巖とされるが、第14回展以降白井烟巖となり、新文展第3回展より、烟嵓を用いている。又渡辺崋山事蹟関係の功績により、豊橋市文化賞を受賞し、崋山出身地田原町名誉町民となる。
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没年月日:1976/01/17 陶芸家、滋賀県指定無形文化財信楽焼技術保存者高橋楽斎は1月17日午前8時40分老衰のため甲賀郡の自宅で死去した。享年77。本名光之助。明治31(1898)年10月31日甲賀郡に信楽焼の窯元の家に生まれ、大正4年京都陶磁器研究所に学び、翌5年から信楽町で製陶業に従事、同6年楽斎を襲名し古信楽焼の再現につとめた。昭和15年近畿工芸展、日本工芸会展で夫々特賞、大臣賞を受賞、翌16年商工省から信楽焼技術保存者の認定をうけた。同34年現代日本陶芸展に入賞、翌35年日展入選、同年ブルュッセル万国博陶磁器部門でグランプリを受賞した。同39(1964)年8月滋賀県指定無形文化財信楽焼技術保持者に認定された。上田直方とともに信楽焼の代表的作家で、ろくろ、焼成技術にすぐれた。
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没年月日:1976/01/17 京都大学名誉教授、嵯峨美術短期大学教授上野照夫は、1月17日午後0時8分心不全のため京都大学附属病院で死去した。享年68。明治40(1907)年10月22日徳島市に生まれ、大阪市立築港小学校、同府立市岡中学校、大阪外国語専門学校仏語科をへて、昭和4年大阪高等学校文科乙類卒業。同年京都帝国大学文学部に入学、哲学科美学美術史を専攻し植田寿蔵教授に師事、同7年卒業し大学院へ進んだ。翌8年京都帝大文学部副手(12年まで)となり、同12年京都大学勤務(15年までと17年から18年まで)を嘱託さる。同26年4月京都大学教養部教授となり、同43年6月に京都大学文学部教授に配置換え、同46年3月退官した。同年4月京都大学名誉教授の称号を受け、嵯峨美術短期大学教授となり没年まで教鞭をとった。この間、同23(1948)年『仏教芸術』創刊号に「印度仏教美術の研究―アルベルト・グリュンヴェ-デルの業績」「一印度美術史徒の感想」を発表、仏教芸術学会委員として、以後同誌の編集に携わったのをはじめ、同33年11月から翌年3月まで、京大関係者で組織されたインド仏跡踏査隊に参加し、長尾雅人らとインド各地の美術調査を行ったほか、関西大学、京都市立美術大学などでも教鞭をとり、また同46年から京都国立近代美術館、京都市美術館の評議員もつとめた。インド及び日本、東洋の美術史家として、とくにインド美術史研究者の草分けとして知られ、多くの論文、著書を残したが、一方同23年10月に結成されたパンリアル美術協会の指導的立場に立つなど、現代美術に対しても理解と影響力をもった評論家としても知られる。京大を退官するにあたって関係者によって出版された『ある停年教授の人間像』(永田書房、昭和46年)に、よくその人柄が偲ばれる。没後正四位に叙せられ勲三等瑞宝章が贈られた。主要著書目録『日本肖像画』(弘文堂 昭和15年)『日本美術図譜』(共著 弘文堂 昭和19年)『西洋美術図譜』(共著 弘文堂 昭和24年)『世界美術全集22 オリエント(3) イスラム』(共著 角川書店 昭和37年)『インド-カラーガイド』(保育社 昭和38年)『インドの美術』(中央公論美術出版 昭和39年 毎日出版文化賞受賞)『世界の文化3 インド』(編集 河出書房新社 昭和40年)『インド美術』(共著 日本経済新聞社 昭和40年)『世界の美術館32 カルカッタ美術館』(編集 講談社 昭和45年)『芸術の理解・美術芸術学編』(精華社 昭和45年)『インドの細密画』(中央公論美術出版 昭和46年)『インド美術論考』(平凡社 昭和48年)
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