本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





三宅正太郎

没年月日:1992/04/29

帝京大学教授の美術史家三宅正太郎は4月29日午前3時46分、肺炎のため東京都板橋区の帝京大学病院で死去した。享年84。美術評論にも筆をふるった三宅は、明治40(1907)年10月2日、父の任地であった鹿児島市に生まれた。東京新宿区の余丁町小学校、府立第四中学校、浦和高等学校を経て、昭和2(1927)年東京大学文学部に入学。美学美術史学科に学んで、同5年卒業する。同7年読売新聞社学芸部に入り、同16年上海総局主任、同19年広東総局長を経て、サイゴン支局長を歴任。同21年読売新聞社を退いて新聞三社連合事務局主事となった。同40年2月、同局を退き、同年3月より跡見学園短期大学教授となる。同50年帝京大学教授となった。近現代美術を主に論じ、著書に『横顔の作家たち』(新自由社 昭和22年)、『作家の裏窓』(北辰堂 同30年)、『パリ留学時代』(同35年)、『画壇』(同39年)、『現代美術の東と西』(同48年)、『回想の画家達』(同61年)等がある。日本ペンクラブ、美術評論家連盟にも属した。

木島安史

没年月日:1992/04/27

千葉大学工学部教授の建築家木島安史は4月27日午後0時24分、心不全のため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年54。昭和12(1937)年5月9日、現在の朝鮮民主主義人民共和国黄海南道海州市に生まれる。同31年東京教育大学付属高校を卒業。同37年早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業し、同年インド・チャン・ディガール市大学設計事務所を経てスペイン・マドリッド市アントニオ・ラメラ建築事務所につとめる。この間同年9月よりスペイン・マドリッド高等工業エドアルド・トロハ研究所に留学。同41年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了して、丹下健三都市・建築設計研究所に入る。翌42年エチオピア・アジスアベバ市ハイレセラシェ1世大学講師となる。同45年芝浦工業大学非常勤講師となり、翌46年YAS都市研究所を設立するが、同年より熊本大学工学部助教授となり、同研究所を退く。同57年熊本大学工学部教授、平成3年千葉大学工学部教授となった。この間、昭和46年ザ・デザインハウス・蓼科、同49年ザ・デザインハウス・松下、同50年上無田神社公民館、同55年熊本市白川公園久世寿等の建築設計を行ない、同59年球磨村森林組合球泉洞森林館の建築では同年の日本建築学会賞を受賞。同63年瀬戸大橋記念博覧会空海ドーム、同64年アジア太平洋博覧会九州電力館等パヴィリオン建築をも手がけ、平成元年熊本県立東稜高校の建築により村野藤吾賞を受けた。また没後の同5年、小国町西里小学校によりくまもと景観賞、第7回いらか賞を受けている。

岡田淡雅

没年月日:1992/04/18

日本南画院常務理事の日本画家岡田淡雅は、4月18日午後11時15分肝臓ガンのため岡山県倉敷市の病院で死去した。享年78。本名は武一郎。大正2(1913)年12月8日岡山県倉敷市に生まれる。大阪で南画家矢野橋村に内弟子として学び、大阪美術学校日本画科本科を卒業した。昭和40年に師橋村が没したのちは、東京の横尾深林人に師事した。この間、昭和15年大阪毎日新聞・東京日々新聞主催紀元2600年奉祝展に「夕ぐれ」を出品、小室翠雲の主宰になる大東南宗院にも出品した。また昭和35年に再興された日本南画院で師橋村は同年副会長、39年会長となったが、淡雅も同展に出品。文部大臣賞、文化賞、院賞、会長賞、奨励賞などを受賞し、常務理事をつとめた。このほか大阪市展、大潮展にも出品。昭和58年には岡山県美術展の審査員を委嘱された。代表作に「梁川帰舟」「西瓜番」「阿哲残秋」「淡月」などがある。

ジョセフ・ラヴ (Joseph Love)

没年月日:1992/04/15

読み:じょせふらぶ  元上智大学文学部教授で、西洋美術、現代美術評論を執筆する一方、墨絵や木版画の制作にもあたったジョセフ・ラヴは、4月15日午後8時58分、急性肺炎のため、東京都多摩市の病院で死去した。享年62。1929年8月1日、アメリカ、マサチューセッツ州ウースターに生まれる。同56年ボストン大学神学部修士課程を修了し、同年イエズス会士として来日。64年に上智大学神学部修士課程を修了。67年にはアメリカ、コロンビア大学美術史科修士課程を修了した。後、再来日し、89年まで上智大学で美術史を教えた。現代美術評論もよくし雑誌「美術手帖」等に執筆。木版画や墨絵を制作する作家でもあり、61年の米国ワシントンD・Cにあるコーコラン美術館での個展をはじめ、66年ニューヨークのアロンゾ・ギャラリー、71年サンタ・クララのディセセット美術館、73年オーストラリア・シドニーのボニソン・ギャラリー等各国で個展を開いた。日本では1972年東京の南画廊での個展を皮切りに、75、76年東京のオオサカ・フォルム画廊で、78年から81年まで毎年ギャラリー手で、83、84年ギャラリーQで個展を開き、85年IBM川崎市民ギャラリー、90年にはINAXギャラリー、92年にはパルテノン多摩でも個展を開催した。80年代後半から体の自由を失なって車椅子生活に入り、詩人大岡信、谷川俊太郎ら友人の支援を得て活動していた。カトリック司祭でもあり、著書に『教えるヒント学ぶヒント』(新潮社 1982年)、『夜を泳ぐ』(リブロポート 1991年)がある。

江本義理

没年月日:1992/04/11

前東京国立文化財研究所保存科学部長で、文化財の非破壊検査など保存科学の権威であった江本義理は、4月11日午後3時、膿胸による食道大動脈破裂のため横浜市金沢区の横浜市立大病院で死去した。享年66。大正14(1925)年7月3日、東京市下谷区に、生物学者江本義数の長男として生まれる。学習院初等科、中等科、高等科を経て昭和20(1945)年4月東京帝国大学理学部化学科に入学。同23年3月同科を卒業して、同年4月から法隆寺国宝保存工事事務所の委嘱により、法隆寺壁画の調査に参加した。同年12月、国立博物館保存修理課保存技術研究室勤務となる。以後官制の変更にともない同25年9月、文化財保護委員会保存部建造物課保存科学研究室勤務、同27年4月東京文化財研究所保存科学部化学研究室勤務、同29年4月東京国立文化財研究所保存科学部化学研究室勤務となった。同42年3月、同部主任研究官、同46年5月同部化学研究室長となり、同50年4月から同62年3月停年退職するまで保存科学部長をつとめた。この間、同42年4月から平成4年4月まで東京芸術大学美術学部講師、同58年4月から同63年9月まで図書館情報大学講師、同63年4月から平成4年4月まで早稲田大学第一文学部講師、同63年6月からは永青文庫常務理事をつとめた。東京国立文化財研究所を退職後は、同所名誉研究員となったほか、平成2年4月に、同62年4月から講師をつとめていた昭和女子大学生活美学科教授となった。戦後、わが国の文化財の科学的調査方法が未確立な状況の中で、他分野の検査方法を文化財調査に取り入れる試みを続け、昭和30年、サイクロトロンによる放射化分析を行ない、その後は蛍光X線分析法を導入した文化財の析質調査・研究に力を注いだ。同34年に国の重要文化財に指定され、その後真贋が問題となった「永仁の壷」の調査に当たって用いたのもこの方法で、その調査結果が決定的な証拠となって同作品は36年3月31日に重要文化財指定を解除されている。こうした材料分析の他、文化財保存にも尽力し、同47年に発見された高松塚古墳壁画の保存のほか、敦煌、エジプト・ルクソールの王家の谷等、海外の文化財保存にもたずさわった。学界においても、文部省学術審議会専門委員、日本学術会議考古学研究連絡委員会委員、日本文化財科学会理事、同評議員、古文化財科学研究会副会長などをつとめた。主要論文に「古文化財の材質調査における蛍光X線分析法の利用」(「美術研究」220)、「蛍光X線分析による土器・瓦中の鉄・ルビジウム・ストロンチウム・イットリウム・ジルコニウムの定量」(「保存科学」16号)、“Coloring Materials Used on Japanese Paintings of the Protohistric Period & Related Topics”(第7回国際研究集会プロシーディングス)等があり、没後に『文化財をまもる』(アグネ技術センター刊)が刊行されている。年譜は同書に詳しい。

藤本韶三

没年月日:1992/04/04

「アトリエ」「三彩」「古美術」等の美術雑誌を刊行した美術ジャーナリスト藤本韶三は、4月4日午前0時8分、呼吸不全のため東京都目黒区の病院で死去した。享年95。明治29(1896)年10月3日、長野県下伊那郡に生まれる。同44年長野県立飯田中学校を中退して上京。写真製版印刷会社に勤める一方、白馬会葵橋洋画研究所に学び黒田清輝に師事する。のち、川端龍子、山本鼎の指導を受け、山本の農民美術研究所の仕事に参加する。同12年、山本らの勧誘により美術月刊誌「アトリエ」の編集に創刊時から従事。昭和14(1939)年まで編集長をつとめた。また同14年10月には雑誌「造形芸術」を創刊する。同16年、美術雑誌統制により「造形美術」を「画論」と改題、同18年再統制により大下正男らと日本美術出版株式会社を設立してその専務取締役となり、雑誌「美術」を発行した。同21年美術出版社から「みづゑ」を復刊するとともに月刊誌「三彩」を創刊。同32年造形芸術研究所出版部(のち三彩社と改称)を創立し、美術出版社から「三彩」を譲り受け、同誌の発行を続けた。同38年雑誌「古美術」を創刊。多くの画家、評論家と交遊し、また自ら多田信一、松原宿の名で評論にも筆をふるった。著者に『画室訪問1・2』(三彩社、昭和44年、同47年)『青龍社とともに』(美術出版社)などがある。

山本兼文

没年月日:1992/04/03

二紀会会員の彫刻家山本兼文は4月3日午前7時29分、筋委縮性側索硬化症のため鳥取市の鳥取赤十字病院で死去した。享年73。大正7(1918)年12月19日、鳥取県に生まれる。鳥取大学を卒業。昭和24(1949)年第34回院展彫刻部に「山添氏像」で初入選。以後同展には同26年から34年まで出品を続けた。同34年第13回二紀展に「和」で初入選。同35年第14回同展に「戒(1)」「戒(2)」を出品して褒賞受賞。同46年第25回同展に「戒」を出品して同人賞を受け、同48年同会会員に推された。同52年第31回同展に「石会」を出品して文部大臣賞受賞。院展には写実を基本とする人体像を主に出品していたが、二紀会に移ってからは抽象的作品を制作するようになった。石の量塊感を生かし、変形を加えた直方体を組みあわせた簡素な造形を特色とした。兼文の号も用いている。

胡桃沢源人

没年月日:1992/03/23

読み:くるみざわげんじん  日展参与で東光会関西支部長をつとめた洋画家胡桃沢源人は、3月23日午前1時15分、老衰のため長野県松本市の親類宅で死去した。享年89。明治35(1902)年8月6日、長野県松本市に生まれる。本名源市。大阪美術学校西洋画科に学び、同校在学中の昭和3(1928)年第9回帝展に「小犬」で初入選。翌4年同校を卒業ののち斎藤与里に師事した。官展に出品を続ける一方、斎藤与里らが創設した東光会展に同7年の第1回展から参加し、同年同会友、同10年同会員となった。同16年第4回新文展に「秋苑」を出品して特選、翌年第5回同展に「鳥禽舎」を出品して再度特選を受賞。同33年日展会員となる。大阪市立美術研究所講師として後進を指導するとともに、同39年4月に開校した浪速芸術大学の美術科教授をつとめ、美術教育にも尽力。花や小動物をモティーフに、平面性を強調した明るい画風を示した。

松久宗琳

没年月日:1992/03/15

読み:まつひさそうりん  延暦寺東塔五智如来像、大阪四天王寺丈六仏等を制作したほか、京都仏像彫刻研究所を設立するなど仏像制作の普及、教育にも尽力した仏師松久宗琳は、3月15日午後11時、心筋こうそくのため、京都市の自宅で死去した。享年66。大正15(1926)年2月14日、仏師松久朋琳の長男として京都市下京区に生まれる。本名武雄。昭和13(1938)年、朱雀第三尋常小学校を卒業して仏像彩色師八木秀蔵の内弟子となる。一方、日本画も学んだ。同15年12月、脊椎カリエスを患い実家に戻る。この病気により右脚の自由を失う。同16年仏師を志し、奈良、京都を巡って飛鳥、白鳳、天平時代の仏像を研究。同19年10月、陸軍の要請により成吉思汗像に金箔を施すため渡満し翌月帰国。同年12月京都高島屋の家具製造部員として再び渡満して翌年3月帰国する。戦後の同23年、木彫家佐藤玄々に入門。同25年陶芸家河井寛次郎のもとに通い、以後も交遊を続け、「用の美」等、芸術概念をはじめ多大な影響を受けた。同年父朋琳と共に愛媛県出石寺の「仁王像」を制作し、鎌倉時代以降希少となった「賽割法」を復活させた。同36年より宗琳を名のる。同37年、京都市山科区九条山に「京都仏像彫刻研究所」を設立し、工房による仏像彫刻の制作を目指す。同38年、戦災で失われた大阪四天王寺の「仁王像」を制作。同38年滋賀県延暦寺の「智証大師像」「聖徳太子像」(父と共作)を制作。同48年、京都山科区大宅に工房を設立する。同50年、京都大覚寺「五大明王像」を父と共に制作し、翌51年、京都金閣寺の「岩屋観音像」「四天王像」を制作する。同53年大阪四天王寺大講堂の「阿弥陀如来像」、同54年同寺太子奥殿の「聖徳太子像」「四天王像」を父朋琳と共に制作し、同寺より「大仏師」の称号を受けた。同55年延暦寺総持院の「五智如来像」を父と共に制作。同58年千葉成田山新勝寺の「五大明王像」「五智如来像」の制作にかかり、4年を費して完成。同寺より「大仏師」号を受けた。同寺には、平成3(1991)年にも「千手観音像」「弥勒菩薩像」「普賢・文殊菩薩像」を制作している。同59年1月、インドへ、同62年5月中国桂林へ、平成元(1989)年5月中国雲崗石窟へ赴く。晩年は国内の古寺をも多く訪れた。天平期の仏像を好み、天平仏の研究を基礎とする鎌倉期の仏師快慶を崇拝し、義軌や古典的様式を守って、流麗な像様を特色とした。個人様式を重視する近代の芸術観に対し、長い仏教彫刻史の蓄積が生んだ古典様式を貴重な遺産と見て踏襲する姿勢と共に、工房による制作を大規模に展開した点でも注目される。一方で、仏像制作を広く一般に普及させるべく、昭和39年に第1回宗教美術展を開催。同40年代前半には彫刻刀の電動研磨機を開発。同48年「宗教芸術院」を創設して講習会を開くなど一般への教育につとめた。著書も多く、『仏像彫刻のすすめ』(昭和48年 日貿出版社)、『仏像彫刻の技法』(同51年 同社)、『仏画と截金』(同52年 中川湧美堂)、『新しい仏像彫刻』(同59年 日貿出版社)などがあり、作品集に『松久宗琳の仏像彫刻』(同63年 秀作社)、『大仏師 松久宗琳』(平成4年 光村推古書院)、伝記に『日本人の魂を彫る』(長尾三郎著 平成2年 講談社)がある。作品の多くは、昭和60年に設立された松久仏像彫刻会館(京都市中京区御幸町三条下ル)に安置されている。

熊谷紅陽

没年月日:1992/03/14

読み:くまがえこうよう  遠州七窯のひとつ赤池町・上野焼窯元第15代で、茶陶作家として知られた熊谷紅陽は、3月14日午前9時20分、急性肺炎のため北九州市小倉南区の病院で死去した。享年80。明治45(1912)年2月13日、福岡県田川郡赤池町上野に、上野焼第14代窯元熊谷龍峰を父として生まれる。本名保正。昭和4(1929)年佐賀県立有田工業学校を主席で卒業し、以後父のもとで家業に従事。同18年軍の命により北満で製陶を始める。同20年10月、朝鮮半島より帰国して再び家業につく。同28年全国陶磁コンクールで受賞。同39年日本伝統工芸展に入選し、以後平成3年まで毎年同展に出品した。また日本陶芸展にも出品し、昭和60、62年、平成1、3年には同展無鑑査となった。茶陶、特に茶入れの作家として知られ、唐ものの第一人者とされた。古典的成形、簡素な釉の文様により、緊張感と古雅な趣をあわせもつ作風を示した。

木村東介

没年月日:1992/03/11

美術品蒐集家で古美術店「羽黒洞」の創立者であった木村東介は3月11日午前0時50分、心不全のため東京都文京区の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年4月8日、山形県米沢市に生まれる。米沢商業学校を中退して上京し、一時憲政公論社に入社して侠客となったが、のち美術商を志し、昭和7(1932)年、美術商「羽黒洞」を創立する。同11年東京・湯島に店舗を開く。柳宗悦、吉川英治ら広く文化人と交流し、肉筆浮世絵、大津絵、泥絵のほか、幕末、明治初期の洋画を蒐集。また、長谷川利行、斎藤真一ら異色の画家たちを無名時代から支援した。著書に『奥州げてとランカイ屋』『女坂界隈』『浮世絵渡世』等がある。

伊藤五百亀

没年月日:1992/03/04

彫刻家で日展参事、日本彫刻会理事の伊藤五百亀は、3月4日呼吸不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年73。写実を基礎とした人物像で知られる伊藤は、大正7(1918)年5月11日愛媛県新居郡に生まれた。多摩帝国美術学校彫刻科へ進み、吉田三郎の指導を受け、同校に4年間在籍する。吉田らが結成した白日会に出品(のち白日会会員)した他、昭和17年の第5回新文展に「女立像」で初入選し、翌年の第6回展では「鍬の戦士」で特選を受けた。戦後は日展作家として活躍し、同29年の第10回日展に「潮先」、翌年の第11回に「崖」で連続特選を受け、同31年の第12回日展に審査員に挙げられた。同33年、日展会員、同37年日展評議員となり、同49年の改組第6回日展に「うたかたの譜」で文部大臣賞を受賞、同57年には前年度の第13回日展出品作「渚」で日本芸術院賞を受賞した。この間、日展の彫刻部作家により組織された日本彫塑会(のち日本彫刻会)に同36年会員として参加し、のち同会の監事、理事を歴任した。同58年日展理事に就任、同62年からは参事となった。

栢森義

没年月日:1992/03/04

読み:かやもりよし  新世紀美術協会創立会員の洋画家栢森義は3月4日午前6時10分、肺しゅようのため東京都小金井市の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年11月9日、新潟県南蒲原郡に生まれる。本名政義。大正10(1921)年新潟県立三条中学を卒業して上京し、本郷洋画研究所に入る。岡田三郎助に師事。同15年第1回1930年協会展に入選。昭和2(1927)年第8回帝展に「浴後」で初入選。同3年第9回帝展に「赤い布を持つ婦人像」,同4年第10回帝展に「ピアニストN嬢」で入選する。同8年第20回光風会展に「食後」「食事」「若き婦人」「肖像」を出品して光風賞受賞。同9年第15回帝展に「K氏座像」で入選。同11年文展鑑査展に「微風」で入選する。新文展には同12年第1回展から出品し、同15年紀元2500年奉祝展に「緑蔭」を出品。この間の同13年光風会会員となる。翌16年の第5回新文展には「緑苑肖像」を無鑑査出品。同17年戦時特別展に「国土豊穣」を出品する。戦後は同22年第3回日展に「窓際」を出品し同24年第5回展まで日展に出品したほか、光風会展にも出品したが、同25年双方から退いた。同31年和田三造、大久保作次郎らが中心となって創立することとなった新世紀美術協会展に第1回展から参加。同34年第4回同展に「眠りオルガン」を出品して黒田賞、同51年第21回展では「いたち」で大久保賞、同53年第23回展では「愁夜曲」で和田賞を受賞した。初期には人物を配して季節の移りゆき等を表わし、写実を重視した作風を示したが、戦後は写実から離れ色や形の面白さを追求した詩的な画風へと展開した。昭和35年頃からガラス絵も描いており、明快な色調、平面的な画面構成の試みがなされている。平成3年、次男で画家の栢森琢也の編集になる『栢森義画集』が刊行された。

石黒孝次郎

没年月日:1992/03/02

古美術品蒐集家で古美術商でもあった石黒孝次郎は3月2日午前6時14分、心筋こうそくのため東京都港区の東京都済生会中央病院で死去した。享年75。大正5(1916)年3月28日東京に生まれる。昭和16(1941)年京都帝国大学法学部を卒業して三井物産に入社。応召を経て戦後の同21年西洋古美術商「三日月」を創立した。同33年高級フランス料理店「クレッセント」を東京芝に開き、同店5階の陳列室で自らの蒐集品を公開した。中近東、オリエントの古美術品を中心に蒐集し、『古く美しきもの2-石黒夫妻コレクション』(昭和62年)等の著書がある。

深谷徹

没年月日:1992/02/27

洋画家で日展評議員、創元会常任委員の深谷徹は、2月27日東京都千代田区の病院で死去した。享年78。大正2(1913)年11月22日群馬県前橋市に生まれる。本名徹。昭和8年群馬師範学校を卒業し教職に就いたが、その後上京し日本大学へ進み、同15年中退し再度郷里で教職についた。戦後再上京し、同28年渡仏、翌年までパリでグラン・ショミエールへ通い、同29年からはスペインへ転じマドリッド美術学校でフレスコ画を修め、翌30年帰国した。創元会展、日展に出品し、同27年の日展に「とりかごのある静物」で特選となった他、日仏具象派協会を結成し同31年第1回展を開催、また同年国際具象派協会展に参加した。同40年の日展出品作「集落」で日展菊華賞を受賞。風景画、静物画をよくし、晩年は郷里の風景をモチーフに多く描いた。

三木淳

没年月日:1992/02/22

読み:みきじゅん  日本写真家協会会長、日本写真作家協会会長などをつとめた報道写真家三木淳は2月22日午前0時47分、急性心不全のため東京都港区の慈恵医大病院で死去した。享年72。大正8(1919)年9月14日岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市)に生まれる。岡山県立岡山第一中学校を卒業して慶応大学経済学部に入学。在学中から写真家を志し木村伊兵衛、土門拳らを知り、昭和16(1941)年土門に弟子入りして文楽人形の撮影などの助手をつとめた。同18年慶応大学を卒業して野村貿易に入社。除隊後、同22年サンニュース・フォトス社に、翌年INP通信社に入社。同24年、ライフ誌に掲載されたシベリア抑留帰還旧日本兵の写真が世界的に注目されて、同年タイムライフ社に入社した。同社には同32年まで勤務し、この間、サンフランシスコ講和条約締結に出かける「吉田首相の顔」や「マッカーサー元帥、東京を去る」等をライフ誌に発表。また、同29年には国連軍報道班員として朝鮮戦争の撮影を行った。一方、同25年集団フォトを、同27年ニッコールクラブを設立。同32年タイムライフ社を退社してフリーランスとなり、世界各国に取材して「インカとブラジリア」「メキシコ写真展」「ニューヨーク五番街物語」「サンバ・サンバ・ブラジル」「私のニューヨーク」「ビートルズのリバプール」等の展覧会を開催。写真集に『写真メキシコ-遺跡の中の青春』(教養文庫)、『サンバ・サンバ・ブラジル』(研光社)、『写真創価学会』(河出書房)、『慶応義塾』(美術出版社)、『LIFEのカメラアイ』(小学館)等があり、その足跡は『昭和写真全仕事7 三木淳』(朝日新聞社)に詳しい。同49年ニッコールクラブ会長、同56年日本写真家協会会長となり、平成元年には日本写真作家協会を設立して同協会会長となった。また、昭和52年日本大学芸術学部教授となり、以後写真教育にもつとめ、同58年師土門拳の記念館が設立されると同館の初代館長となった。世界的に認められた日本の報道写真家としては先駆的存在であり、日本写真界の指導者的役割を果たした。

児玉幸雄

没年月日:1992/02/20

西欧の広場を描いた作品で知られる洋画家児玉幸雄は2月20日午後9時5分、心不全のため東京都港区の前田外科病院で死去した。享年75。大正5(1916)年8月9日、大阪市に生まれる。関西学院大学の美術部弦月会に参加し田村孝之介に師事。昭和11(1936)年全関西洋画展に初入選し、翌12年第24回二科展に「赤い背景の人形」で初入選。その後二科展には連年入選。同14年関西学院大学経済学部を卒業したのち入隊。同15年紀元2600年奉祝展には二科会から推薦されて「戦線風景」を出品した。戦後は同22年に創立された二紀会に第1回展から参加し、同年同会同人となる。同25年第4回二紀展に「家族」「夏の庭」を出品して同人賞を、同27年第6回同展に「黒い上衣」「画室の親子」「働く家族」を出品して同人優賞を受賞。同年同会委員となる。同31年東京に転居。同32年渡欧し、同34年日本橋三越、大阪阪急百貨店で渡欧作品展を開いた。その後、同40年に欧州、アメリカ、メキシコを巡遊したほか、同44年に渡欧。同46年以降は平成3年まで毎年渡欧して、欧州各地、特にフランスの広場、市場の情景を主に描き、二紀会のほかに日動画廊、梅田画廊等での個展で制作を発表して人気を博した。同51年病をえて二紀会を退会。その後は個展を中心に作品を発表していた。初期には人形や着衣の婦人像を多く描いたが、渡欧後は異国の人々の生活感と活力がみなぎる広場を主なモティーフとし、堅牢なマチエルとさざめくような色面による画面構成で、具象画界の実力派として認められていた。著書に石版画集『フランスの四季』『パリーの街角』(昭和56年)、石版画集『素顔のパリー』(同58年)等がある。

赤星亮衛

没年月日:1992/02/20

読み:あかぼしりょうえ  行動美術協会会員の洋画家で、絵本作家としても知られた赤星亮衛は、2月20日午前5時5分、心不全のため千葉県松戸市の東葛クリニックで死去した。享年70。大正10(1921)年11月22日、熊本県玉名市高瀬に生まれる。本名亮一。郷里の先輩である海老原喜之助に師事し、昭和27(1952)年第16回自由美術展に「裸婦」で初入選。あかね書房刊「ふしぎなランプ」で初めて挿絵を担当し、同41年サンケイ児童文化賞を受けた。同43年「森のメルヘン」で第23回行動美術展に初入選。同47年27回同展に「涅槃の時」「悟の時」を出品して行動美術奨励賞を受け、同48年同会会友となる。同60年第40回同展に「トレモスの謝肉祭」を出品して柏原記念賞を受賞。同64年同会会員となった。こうした油絵は、社会への風刺を潜めながらも明るく童画風である。その画風をいかし、「三びきのおばけ」「ぷっぷみみずく」などの絵本、「緑の電車は飛んだ」などの童話等、約500冊の本に挿絵を描いて好評を博した。

三谷十糸子

没年月日:1992/02/11

読み:みたにとしこ  女子美術大学学長もつとめた代表的な女流日本画家の一人三谷十糸子は、2月11日午前6時31分、ジン不全のため東京都杉並区の河北病院で死去した。享年87。明治36(1903)年7月28日兵庫県加古郡(現高砂市)に生まれ、本名敏子。大正11年兵庫県立第一高等女学校を卒業し、女子美術専門学校(現女子美術大学)に入学する。同14年同校を首席で卒業後、京都に移り、西山翠嶂の青甲社に入塾。昭和3年第9回帝展に「少女」が初入選し、翌年同第10回「露店」、5年第11回「独楽」、6年第12回「おとめ達」と出品した。7年第13回帝展で「女」が特選となり、それまでの暗い色調から澄んだ色調へと移行。翌8年第14回帝展で「朝」が再び特選を受賞し、9年同第15回展出品作「夕」は政府買上げとなった。戦後、昭和26年東京に移り、翌27年から母校女子美術大学で教授として教え、46年から50年まで学長をつとめる。この間、33年日展会員となり、39年第7回新日展で「若人の朝」が文部大臣賞を受賞、44年には前年の第11回新日展出品作「高原の朝」によって日本芸術院賞を受賞した。裕福な医者の家に一人っ子として育ち、少女時代に文学と詩にあこがれた三谷の作品は、モチーフに好んで少女を描き、厚く柔らかな色彩によるモダンで詩的な世界を展開した。40年日展評議員、48年理事、52年参事となり、日展のみならず女流日本画家の代表的作家の一人として活躍した。長女の三谷青子(日展会員)、さらにその長女の曽田朋子も、日本画家として活躍している。帝展・新文展・日展出品歴昭和3年第9回帝展「少女」、4年10回「露店」、5年11回「獨楽」、6年12回「おとめ達」、7年13回「女」(特選)、8年14回「朝」(特選・無鑑査)、9年15回「夕」(推薦)、12年第1回新文展「朝」(無鑑査)、13年2回「蟻」(無)、14年3回「月の暈」(無)、15年紀元2600年奉祝展「山家の雨」、17年第5回「風車咲く朝」、19年戦時特別展「豆の秋」、22年第3回日展「蓮」、23年4回「湯屋」(依嘱)、24年5回「草原」(依)、25年6回「花と娘」(依)、26年7回「鱒」(依)、27年8回「杜」(審査員)、29年10回「月の小徑」(依)、30年11回「私の夢」(依)、31年12回「三人の裸婦」(依)、32年13回「夜の海」(依)、33年第1回新日展「池畔有情」(会員となる)、34年2回「蝶」(審査員)、35年3回「少女と森」、36年4回「少女と森」、37年5回「野の花」、38年6回「秋の流れ」、39年7回「若人の朝」(審査員、文部大臣賞)、40年8回「若人の夏」、41年9回「小さな花束」、42年10回「夕」、43年11回「高原の朝」、44年第1回改組日展「夕」、45年2回「白い鳩笛」、46年3回「花野の朝」、47年4回「青い実」(審査員)、48年5回「爽やかな朝」、49年6回「朝野」、50年7回「夕」、51年8回「野」(審査員)、52年9回「野」、53年10回「棕櫚草の小径」、54年11回「林の朝」(審査員)、55年12回「山の花咲く」、56年13回「夕」、57年14回「月の出を待つ」、58年15回「笛の音」、59年16回「暮れ行く」、61年18回「暮れ行く」

殿敷侃

没年月日:1992/02/11

読み:とのしきただし  廃材を用いた作品で近年注目されていた造形作家殿敷侃は2月11日午後10時25分、肝臓がんのため島根県益田市の日赤益田病院で死去した。享年50。昭和17(1942)年1月22日、広島市に生まれる。3才の時に広島への原爆投下で父をなくし、間もなく母も失う。被爆当日は疎開先にいたが、2日後に広島市に帰ったため後に健康を害する。広島大学を中退し、同53年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作する。同56年第1回西武美術館版画大賞展でシルクスクリーン「作品2」が日版商買上賞を受賞。同50年代後半からインスタレーションを試み、古タイヤを野性の木々の枝にかけたり、捨てられたテレビ数十台で田を囲む等、廃材を利用した環境芸術を制作。近年の地球環境問題の高まりと並行して注目されるようになった。平成2年春、それまでの7年間の活動をまとめた『逆流する現実』を刊行。同年ヨーロッパを巡遊した。晩年は山口県長門市北浦に住んで制作していた。

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