本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1993/10/18 読み:にしむらもとさだ 日展評議員、光風会評議員の洋画家西村愿定は、10月18日午前8時28分、肝臓ガンのため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年78。大正3(1914)年12月12日東京の小石川に生まれ、昭和14(1939)年、東京美術学校油画科を卒業、在学中から光風会、春台展等に出品し、同13年の第25回光風会展では、光風会賞を受けた。その後も、同展で各賞を受賞し、同16年に会友に推挙され、同21年に会員となった。また、戦後には同22年に銀座資生堂画廊にて初個展を開催したほか、同21年の第1回日展から出品をつづけ、同25年の第6回展では、「二人の女の構図」が特選となり、さらに第3回新日展の出品作「レゲンデ」が、菊華賞を受賞した。鋭角的なフォルムによる構成によって、独自の幻想の世界を描きつづけた。
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没年月日:1993/10/05 美術史家で、武蔵野美術大学名誉教授の町田甲一は、10月5日午後8時脳内出血のため東京都多摩市の天本病院で死去した。享年76。大正5年12月9日、東京市麹町区で生まれる。父は文・帝展で活躍した日本画家町田曲江。昭和11年3月東京府立第三中学校を病気のため二年遅れで卒業し、同年4月姫路高校へ進む。その卒業直前の昭和15年3月、治安維持法違反の疑いで検挙され(神戸詩人事件)、神戸橘拘置所などに18ケ月の長きにわたって拘禁された。昭和17年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し児島喜久雄に師事する。自身が述べるように(「めぐりあい-児島喜久雄先生のこと-」)、町田の美術史学の基礎をなす方法論は、師からの多大な影響のもとに形成された。昭和19年9月、同大学同学科を卒業し大学院へ進み、昭和21年9月には大学院在籍のまま長尾美術館へ勤務する。昭和22年12月、『天平彫刻の典型』(座右宝刊行会)を出版。昭和23年10月から東京大学大学院特別研究生。昭和24年3月、病気により長尾美術館を退職。翌年4・5月には胸部成形手術をうけ、以後昭和27年夏まで療養生活が続く。昭和28年4月東京教育大学講師、翌年4月助教授となる。昭和30年4月、『東洋美術史要説』上巻(深井晋司と共著、吉川弘文館)を刊行。また、同年12月、薬師寺金堂薬師如来像の調査をおこない、その成果を『薬師寺』(実業之日本社、昭和35年5月刊)として上梓する(後の昭和59年には、同書の改訂版がグラフ社から刊行される)。昭和30年から美術史学会常任委員(昭和55年まで)。昭和39年インドマハーボディ・ソサエティの招きにより渡印。昭和41年訪中。昭和43年、東京教育大学教授。この間、お茶の水女子大学、学習院大学、武蔵野美術大学、明治大学、東京大学等で講師を勤める。『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店刊、第2巻法隆寺二・第3巻法隆寺三・第6巻薬師寺・第14巻西大寺責任編集)の刊行が、昭和43年より始まる(昭和48年完結)。同書は、町田が編集委員代表として推進し、建築・美術の写真・解説・文献を可能な限り網羅した奈良美術史・建築史研究の基本資料であり、その意義は今日なお失われていない。また、この企画は町田の意向によって若手を中心とする多くの研究者を結集して進められた点でも画期的なものであった。昭和49年4月、名古屋大学教授。昭和52年には武蔵野美術大学教授となり、同62年に同大学名誉教授となる。平成4年勲三等瑞宝章受章。町田は、生涯一貫して、芸術としての仏像の追究に情熱を注ぎ続けた。その方法論は、リーグル、ヴォリンガー、あるいはヴェルフリンの理論に基づく自律的様式史観を前提としており、それを日本古代彫刻の様式区分論として展開させた一連の論考をあらわした(「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」他)。また、薬師寺移建・非移建問題においては様式論の観点から積極的に論陣を張り、天平「様式の父」としての金堂薬師寺三尊像の意義を繰り返し主張した。これらの論考は、論理性の希薄な従来の造形論から大きな飛躍を示し、その後の彫刻史研究に大きな影響を与えた。その他、人・芸術・文化に対する想いや自伝的内容を綴った随筆も多数残し、『仏像の美しさに憑かれて』(保育社、1986)、『仏教美術に想う』(里文出版、1994)などに収載されている。また異色な著作に、自身の体験を基に太平洋戦争前夜の高校生活を描いた小説『鷲城下にかげる』(神保出版会、1994)がある。同書には詳細な年譜・著作目録が付されており、また町田甲一先生古希記念会論『論叢仏教美術史』(吉川弘文館、1986)の巻末には論文を含んだ主要著作目録がある。 ○その他の主要編著書概説日本美術史 吉川弘文館 1965日本古代彫刻史概説 中央公論美術出版 1974東大寺法華堂の乾漆像(奈良の寺15) 岩波書店 1974奈良古美術断章 有信堂 1975大和古寺巡歴 有信堂 1976上代彫刻史の研究 吉川弘文館 1977古寺巡歴 保育社 1982仏像イコノグラフィ(岩波グラフィックス8) 岩波書店 1983南無仏陀-仏教美術の図像学- 保育社 1986法隆寺(増訂新版) 時事通信社 1987概説東洋美術史 国際書院 1989仏の道-仏像の歩みの歴史と広がり- 同朋舎出版 1990芸術(中国文化叢書7)(鈴木敬と共著) 大修館書店 1971市川市史1~7 吉川弘文館 1971~1974奈良の寺1~21 岩波書店 1973~1975大和古寺大観1~7(第1巻法隆寺・法輪寺・中宮寺責任編集) 岩波書店 1976~1978日本美術小事典(永井信一と共編) 角川書店 1979
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没年月日:1993/09/20 元日本美術家連盟理事長で日展参与の彫刻家山本稚彦は、9月20日腎不全のため東京都中野区の横畠外科病院で死去した。享年92。山本は明治34(1901)年4月29日東京・芝に木彫家山本瑞雲の子として生まれた。はやくから父瑞雲のもとで木彫に親しんだが、やがて塑造の道へ進み、大正15年東京美術学校彫刻科塑像部を卒業した。在学中の大正13年、第5回帝展に「永却の詩」で初入選し、以後帝展への出品を続け、新文展では無鑑査出品となった。戦前は官展の他、サンフランシスコ万国博などにも出品する。昭和16年応召し戦後旧ソ連エラプカに抑留され、3年間在官労功などに携わる側ら小仏像の制作を続け、これらの小仏像は「エカプカ仏」と呼ばれ供養する会ができた。同23年9月帰還し、同25年第5回日展に「寂寥」を出品し特選、ついで第6回、7回日展にも「静華」「芽ざす」でそれぞれ特選、朝倉賞を受賞した。同33年第1回新日展では「北のひと」で文部大臣賞を受賞。人物をモチーフに独自の造形世界を拓いた。日本現代美術展、日本国際美術展、国際具象展にも出品し、日展では評議員、参与をつとめた。また、日本彫塑家クラブ理事、日本美術家連盟理事長などを歴任した。
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没年月日:1993/09/15 日展参与の洋画家山本日子士良は9月15日午前1時49分、胃がんのため東京都板橋区の都老人医療センターで死去した。享年82。明治43(1910)年9月21日、奈良県磯城郡に生まれる。同45年父を亡くし、大正4(1915)年に大阪へ転居。同12年大阪市北区済美第二小学校尋常科を修了して高等科へ入学し、図画教師山口重慶に画才を見出されて画家を志す。同13年済美第二小学校高等科1年を修了して同年4月より私立浪速中学校に入学。昭和4(1929)年、同校を卒業して東京美術学校西洋画科に入学し、和田英作教室で学ぶ。同9年第2回東光会展に「踏切番」を出品。同年東京美術学校を卒業。同年より翌年にかけて兵役につく。その後も東光会展に出品する一方、同11年文展鑑査展に「歌姫」で初入選する。同12年、上京して熊岡絵画道場で熊岡美彦の指導を受ける。同15年第8回東光会展に「水辺群像」「婦人像」を出品してY氏奨励賞受賞。同年の紀元2600年奉祝展に「ともだち」を出品。同16年第9回東光会展に「惑る老技師の像」「自画像」「甦生を誓ひ合へる三人兄弟像」を出品して東光会賞受賞。同年第2回聖戦美術展に「戦野のオアシス」「雪中の弾薬輸送」を出品して朝日新聞社賞、同年の第1回日本航空美術展には「一機還らず」を出品して陸軍大臣賞を受賞した。同17年東光会会友となる。また、同年中支方面へ従軍画家として赴く。同18年東光会会員となった。同19年第8回海洋美術展に「大漁」を出品して海軍大臣賞受賞。同年春より終戦まで中支方面に出征し、この間にアトリエにあった作品全てを焼失した。戦後は第2回日展に「白服のM子」で初入選して以降日展に出品したほか、東光会への出品も続けた。同25年第6回日展に「いこい」を出品して岡田賞を受け、同26年日展依嘱。同42年第10回改組日展に「忙中の閑」を出品して菊華賞を受け、同46年日展会員、平成2年日展評議員、同4年日展参与となった。戦後間もない同21年より同45年定年退官するまで東京都新宿区牛込仲之小学校で教鞭をとる一方で制作をつづけ、明快な色面で構成した女性像を得意とした。昭和29年より板橋区に住んでおり、同56年9月板橋区立美術館で「山本日子士良展」が開催された。年譜は同展図録に詳しい。
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没年月日:1993/09/10 日本芸術院会員、二科会理事の洋画家寺田竹雄は9月10日午後5時21分、心不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年85。明治41(1908)年4月27日、福岡県糸島郡に生まれる。大正11(1922)年福岡県立中学修猷館を中退して渡米、昭和3(1928)年カリフォルニア州チーコ・ハイスクールを卒業、同6年カリフォルニア州美術専門学校を卒業、同年アートセンター美術協会会員、同7年サンフランシスコ・アート・アソシエーション会員、同8年ロスアンゼルス・アート・アソシエーション会員となる。同年より米国政府の壁画政策によってサンフランシスコ・コイト記念塔内に壁画を描き同9年カリフォルニア州壁画家協会の設立に会員として参加。同10年米国政府の依頼でカリフォルニア州サンタクララ郵便局内に壁画を制作。同年サンフランシスコ日本人美術家協会主事となった。同年10月帰国。同11年東京西銀座のコットンクラブに壁画を描き、以後も多くの壁画を制作した。同11年第23回二科展に「アメリカ風景」で初入選。以後同展に出品し、同13年第25回展に「見世物」「建設(フレスコ)」「壁画試作(フレスコ)」を出品して特待。同15年同会会友、同20年会員となった。同23年第32回二科展で会員努力賞、同28年第38回展には「よろこび(フレスコ試作)」等で同賞を受賞。同44年第54回二科展に「熱い国の女達」「果物ワゴン」を出品して青児賞。同51年第61回同展には「アラビアの女」を出品して内閣総理大臣賞を受賞して、同53年二科会常務理事となった。同59年、第68回二科展出品作「朝の港」で日本芸術院賞を受賞し、平成2年に日本芸術院会員に任命された。この間、同31年より32年まで、アメリカ、メキシコ、欧州、中近東を訪れ、同40年にも渡欧している。女性像、風景を得意とし、力強い構図の明快な画風を示した。国立競技場、アサヒ・ペンタックスビル、佐久市市庁舎、第百生命本社、松竹本社等に壁画を描いたほか、新聞挿絵に筆を染めた。日本美術家連盟理事、国際美術連盟国内委員長等をもつとめ、美術家の国際交流にも尽力した。 二科展出品歴第23回(昭和11年)「アメリカ風景」、24回「時間と空間の制限」「レール」、25回「見世物」「建設(フレスコ)」「壁画試作(フレスコ)」、26回「フェリーボート」、27回「地下道」「買出し」、28回「田園風景」「子供と山羊」、29回「憩時間」、31回(同21年)「街の女」「車内」「子供」、32回「街の女」「都会」「少女」、34回「裸婦」、35回「街」、36回「子供」「街」、37回「ユネスコ村」「サーカスの女」、38回「よろこび(フレスコ試作)」「貝殻のある静物(フレスコ試作)」「裸婦(フレスコ試作)」「ショウインドウをのぞく子供(フレスコ試作)」、「煙突の見える風景(フレスコ試作)」「再会(フレスコ試作)」「機械化された鳥(フレスコ試作)」「母子(フレスコ試作)」「防波堤(フレスコ試作)」「丘の上(フレスコ試作)」「顔(フレスコ試作)」、39回「ピアノの前の女」「三人の女」、40回(同30年)「街に生きる人々」、41回不出品、42回不出品、43回「メキシコ」「インドの家」「大地」、44回「沙漠地帯F」「沙漠地帯G」、45回「壁」「空から見た風景」「風景」、46回「マヤ(メキシコ)」「ハロ(メキシコの家)」、47回、48回「月光」「南の国」、49回「エトランジェー」、50回(40年)「アトリエの裸婦」「古いポスターのある壁」、51回「或る異国の港町」、52回「メキシコの女」、53回「古壁と入口」「がらくた屋の店番」、54回「熱い国の女達」「果物ワゴン」、55回(同45年)「夏の電車B」「夏の電車A」、56回「ポスターののある壁」「三人の女」、57回「楽屋」、58回「古都への想」、59回「果物屋は朝早く出かける」「シルクロードを行く」、60回(同50年)「重い荷物」「破戒」、61回「アラビヤの女」、62回「私の鳥たち」「鳩笛」、63回「洗濯する女(インド)」、64回「アフガニスタンの古い街」、65回(同55年)「フルーツワゴン」、66回「洗濯する女達(メキシコ)」、67回「川辺の母達」、68回「朝の港」、69回「港に近い小公園」、70回(同60年)「メキシコの果物ワゴン」、71回「泉」、72回「或る異国の港町の夜」、73回「Odalisque」、74回「アンティークショップの留守番娘」、75回(平成2年)「サーカスの人達」、76回「曲馬団の女王」、77回「ローラースケート」、78回「サーカス一家(未完成)」
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没年月日:1993/09/05 日展参与の日本画家山本倉丘は、9月5日心不全のため京都市上京区の西陣病院で死去した。享年99。花鳥画で知られ京都画壇の重鎮でもあった山本は、明治26(1893)年10月12日高知県幡多郡に生まれた。本名傳三郎。大正7(1918)年早苗会に入り山本春挙に師事、昭和8(1933)年京都市立絵画専門学校選科を卒業した。この間、大正15年第7回帝展に「麗日」が初入選し、卒業の年の第14回帝展出品作「菜園の黎明」は特選となった。春挙没後、昭和14年東丘社に入り堂本印象に師事した。戦後は日展に依嘱出品を続け、同31年第13回展に審査員として「冠鶴」を出品、同33年社団法人日展発足時に日展評議員となり、第1回展に「★」を発表した。同40年の第8回日展出品作「たそがれ」で、翌41年日本芸術院賞を受賞する。その後、同54年には日展参与となった。同53年京都市文化功労賞を受け、同56年京都府文化者、同63年京都府文化特別功労者として顕賞された。『山本倉丘画集』(同57年)がある。
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没年月日:1993/09/01 日展参与の洋画家川口雄男は、9月1日脳こうそくのため神奈川県鎌倉市の額田記念病院で死去した。享年85。明治41(1908)年3月21日兵庫県姫路市に生まれる。昭和9年東京美術学校図画師範科を卒業し、神奈川師範学校に奉職した。創元会に所属し、戦前は新文展にも出品した。戦後は創元会展、日展を中心に制作発表を行い、同26年第7回日展出品作「ペテロとパウロ」で特選、朝倉賞を受け、翌年の創元会展では「受難のキリスト」で会員努力賞を受賞するなど、はやくからキリスト教を題材にした作品で知られた。その後も日展に委嘱出品を続け、同38年社団法人日展第6回では「復活」を出品し菊華賞を受賞した。同41年日展審査員をつとめ、翌年日展会員となる。この間、同35年にはフランス、イタリアを巡遊し、また同42年にはアメリカを訪ねた。昭和59年日展参与となった。
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没年月日:1993/08/31 読み:ふじわらせいけん 大阪の風俗を描いて親しまれた画家藤原成憲は8月31日午後5時23分、老衰のため兵庫県姫路市の遠藤病院で死去した。享年91歳。明治35(1902)年2月28日、大阪に生まれる。本名国太郎。造幣局に勤務する父の転勤にともない、2歳のときにソウルへ移り、京城工芸学校陶画科存学中の大正6(1917)年に、同校を中退して上京、日本画、洋画を独学で学び、児童書等の挿絵で生計を立てるようになる。しかし、同13年の関東大震災で浅草から大阪に転居、その後風刺漫画雑誌「大阪パック」の編集長を4年間勤めるが、昭和4(1929)年に「大阪毎日新聞」に連載された「大阪夏の陣従軍記」の挿絵を担当する。これを機に、諸雑誌に漫画や風俗画を寄稿するようになり、また上方芸能人や文化人との交流が生まれ、その交流を通して人物画や文人画を描くようになる。同17年、北京翼賛会文化部長として北京に赴任し、同20年帰国。戦後は、雑誌『商店界』(誠文堂新光社)に「あきない史」を連載、また一般向けに絵画教室を設け俳画等を指導、この教室を後に「藤白会」(とうはくかい)と命名し、指導に専念した。同50年、大阪市民表彰を受ける。主著に『続浪花風俗図絵』(杉本書店、昭和47年)等があり、また『米朝落語全集』全6巻(創元社、昭和55-57年)の挿絵を担当した。
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没年月日:1993/08/26 読み:くわはらひろもり 女子美術大学名誉教授、二紀会委員の彫刻家桑原巨守は8月26日午後7時28分、呼吸不全のため東京都大田区の自宅で死去した。享年66。昭和2(1927)年7月15日、群馬県沼田市に生まれる。同24年東京美術学校彫刻科を卒業。関野聖雲に師事した。同38年第17回二紀展に「裸婦B」「裸婦A」で初入選し同年同人に推される。同41年第20回二紀展に「しゃがむ」を出品して同人賞受賞、同50年第29回展では「風と花(その2)」「砂山」で菊華賞を受賞した。同57年第2回高村光太郎大賞展に招待出品し、美ケ原高原美術館賞受賞。この間の同48年彫刻の森美術館に「Fur Coat」が設置され、その後も同館に「風と花」等が設置された。公共の場のための制作としては、広島市中央公園の「風と花」、北海道中標津町公民館の「讃太陽・中」、日比谷シティの「風と花」、「凱風新頌」、「風の戯れ」、神奈川県民共済ビルの「貝を聴く」、名古屋市名城公園内「水の広場」の「風」、三洋証券白金研修センターの「花のロンド」、静岡県清水市の「大空に」、群馬県渋川市の「讃太陽」、名古屋市通町公園の「讃太陽」、群馬県沼田市の「新頌麗陽」などがある。裸婦像を得意とし、そのポーズによって抽象的概念を暗示しようとした。著書に『彫刻の四季』(絵本)、『彫刻の出来上るまで』(ポプラ社)などがある。
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没年月日:1993/08/18 木版画家で日本版画協会理事長をつとめた橋本興家は8月18日午前10時14分、脳こうそくのため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年93。明治32(1899)年10月4日、鳥取県八頭に生まれる。大正9(1920)年鳥取県師範学校を卒業し、小学校訓導となる。同10年東京美術学校師範科に入学。同13年同校を卒業して富山県立女子師範学校及び併設されていた同県立高女の教論となる。同14年11月、東京府立第一高女(現 都立白鴎高校)教諭となって上京し、昭和31年に退職するまで同校で教鞭をとった。一方で、版画制作を続け、昭和12年第12回国画会展に「名古屋城」「大坂城」で初入選。また、同年第6回日本版画協会展にも出品し、以後両展に出品を続ける。同13年第2回新文展に「古城ろの門」で初入選。同14年第3回新文展に「古城早春」を、同15年紀元2600年奉祝展に「古城清秋」、第15回国画会展に「二の丸附近」を、同16年第4回新文展に「夏景名城」、第16回国画会展に「春の城」、同18年第6回新文展に「古城松山」を出品。同19年画文集『日本の城』(文・岸田日出刀、加藤版画研究所刊)を刊行する。戦後は同21年春の第1回日展に「牡丹」、同年秋の第2回日展に「アルプスと城」を出品するが、以後官展への出品はない。国画会展へは同21年同会が戦後に再開した当初から再び出品を始める。こ間の同21年版画集『古城十景』(加藤版画研究所刊)を刊行。同20年代後半は、東京都教育委員会の公立学校使用教科書採択に関する専門委員、文部省の教材等調査研究委員などで教育関係の委員、調査員を数多くつとめる。同31、33、35、38年に東京・日本橋三越で個展を開いたほか、同32年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展に姫路城をモティーフとした「菱の門」を出品し、以後35、37年の同展にも出品。同36年ローマ・日本現代版画展、同37年ルガノ国際版画ビエンナーレ展、同39年ストックホルム日本現代版画展にも出品し、国際的にも知られるところとなった。同49年より54年まで日本版画協会理事長をつとめる。同62年愛媛県立美術館に代表作75点を寄贈し、これを記念して展覧会を開催、同年鳥取県立博物館にも代表作88点を寄贈して記念展を開いた。翌63年には鳥取県堺港市に代表作199点を寄贈している。画業のはじめから日本の古城を好んでモティーフとし、伝統的な木版画の流れに新風を吹き込んだとして注目された。上記以外の画集に『日本の名城版画集』(昭和37年 日本城郭協会刊)、『日本の城』(同53年 講談社)などがある。
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没年月日:1993/08/13 読み:しまやしぜん 日展参与、名古屋芸術大学名誉教授の日本画家嶋谷自然は、8月13日呼吸不全のため名古屋市昭和区の聖霊病院で死去した。享年89。嶋谷は明治37(1904)年3月19日三重県志摩郡に生まれた。本名藤四郎。大正11年東京で矢沢弦月の門に入り、昭和5年第9回帝展に「網屋」で初入選した。同16年、京都の西山翠嶂に師事、翠嶂が主宰する画塾青甲社同人となる。戦後は同21年の第1回日展に「冬日」を出品、以後日展を中心に制作発表を行った。同25年第6回日展に「緑影」で特選、白寿賞を受け、翌年第7回日展に無監査出品した「丘」で連続当選、朝倉賞を受賞した。同30年の第11回日展で最初の審査員をつとめ、同33年日展会員に挙げられた。同54年改組第1回日展に「湖心」を発表、文部大臣賞を受賞した。また、同45年名古屋芸術大学教授に就任、退職後同校名誉教授となった。同48年中日文化賞を受賞する。
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没年月日:1993/08/07 一陽会常任委員の彫刻家中村輝は8月7日午後8時30分、脳出血のため横浜市中区の警友総合病院で死去した。享年80。大正2(1913)年1月26日、岐阜県大垣市に生まれる。本名二郎。昭和6(1931)年、東京美術学校図案科を中退。同10年帝国美術学校彫刻科を卒業する。在学中の同8年第20回二科展に「習作」で初入選。この頃は「暉」と号した。以後同展に出品を続け、戦後も同21年第31回二科展に「牛」を出品するが、同29年に同展への出品を停止し、同30年、一陽会の結成に参加して、同会会友となった。同31年第2回一陽展に「人馬」を出品して同会会員となる。同49年同会が委員制を採択するに際し、同会委員となった。同39年日本橋高島屋、同42年新宿ステーションビル、同48年西武百貨店渋谷店、同52年日動画廊で個展を開催。同63年大垣市制70周年記念として「中村輝彫刻展」を開催している。野外彫刻も多く、「金森吉次郎翁」(大垣公園、昭和25年)、「ダイアナ女神像」(京成電鉄谷津公園、同33年)、「鶏」(岐阜駅前、同34年)、「一粒の種(女神像)」(大垣市水上公園、同58年)等がある。初期には人体像を多く制作したが、のち馬を好んでモティーフとするようになり、人物と馬を組みあわせた像を得意とするようになった。一陽展出品歴1回(昭和30年)不詳、2回「人馬」、3回「A女」「ポーズ」「マダム」「裸」「少女」、4回「男神」、5回「火の記録」、6回「女体」、「女体エスキス」「馬」「青銅の鳩」、7回「女体」「騎乗」「深尾氏の首」、8回「歓喜」「風雪」「鳥郡」「鵜」、9回「方舟」、10回(同39年)「馬」「少女」、11回「馬」、12回「馬」「裸」「手」、13回「モンゴル人馬」、14回「群鳥」「鳥」、15回「馬」、16回「オロチヨンの火の鳥」、17回「馬」「馬」、18回「無題」「馬」、19回「古代の昼と夜の記憶」「馬」、20回(同49年)「女体」「駿馬」「一孤庵哄笑」、21回「原始(浮彫)」「武帝の汗血馬」、22回「女賊アマゾンの休日1」「女賊アマゾンの休日2」、「笛」、23回「躍上する馬」「駿馬」、24回「嘶く駿馬」、25回「酒神バッカス」、26回「舞上る(広場の為の試作)」、27回不出品、28回「酒杯を掲ぐ」、29回「女賊アマゾニ」、「一粒のたね」、30回(同59年)「青銅小品」「記念碑の為の未完原型」、31回「一粒の種」、32回「象徴の馬」、33回「浮彫無題」、34回「浜辺の女」、35回(平成元年)「駿馬」「馬」、36回「少年と馬」、37回「婦人と馬」、38回「由美坐像」、39回「駿馬」「鵜」
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没年月日:1993/07/29 読み:よねざわよしほ 東洋美術史家で、東京大学名誉教授、武蔵野美術大学名誉教授、元武蔵野美術大学長、国華社主幹の米澤嘉圃は、7月29日午前8時15分、肝機能障害による呼吸不全のため、東京都新宿区の慶応大学病院で死去した。享年87。明治39年6月2日、父万陸、母貴勢子の長男として、秋田県鹿角郡にて出生、芳男と命名された。4人の姉がある。幼年は、鉱山技師であった父の転勤にともない、秋田・東京・茨城・大分・東京と居を移し、大正13年3月、曉星中学校を卒業。つづいて昭和2年3月、福岡高等学校を卒業後、病弱のため一年浪人し、3年4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科へ入学した。かつて内藤湖南の父十湾の弟子であった板橋忠八に漢詩を学び、書画を愛蔵していた父万陸の文人趣味が、美術史学を専攻する機縁となった。6年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業後、同年4月より、東京帝国大学文学部副手となり、同時に同文学部大学院へ進んだ。同年6月、父万陸の死去にあたり芳男を嘉圃と改名している。この間、大学において教授瀧精一の指導をうけ、7年、処女論文「狩野正信の研究」を『国華』に発表した。8年5月、文部省重要美術品等鑑査事務嘱託となり、著名な収集家の所蔵品を調査して鑑識眼を養い、10年6月、東方文化学院助手に迎えられる。この頃「田能村竹田と蘐園学派」を『国華』に発表したが、直載な鑑識と画家の精神の洞察とが遊離しない米澤の美術史学の形成を知る。この間、8年3月に、父に続いて母を失う。9年2月、加藤信子と結婚。以後、二男一女をもうけるが長男長女を幼少で失った。東方文化学院助手となって以降、中国絵画研究に本格的に没入し、13年3月、東方文化学院研究員となり、この間、中国上代の作画機構や絵画思想に関する多くの論文を『東方学報(東京)』・『国華』等に発表。15年9月から11月には、初めて中国各地(大連・奉天・北京・大同)と朝鮮を視察し、山西の高地で眼にした黄土景観に感慨をうけ、風土と美術との関係に思索を深める端緒となった。17年10月、『国華』の編集員となり、戦後、東方文化学院が経済的基盤を失うと、23年4月、結城令聞・窪徳忠とともに、東京大学東洋文化研究所研究員へ転じ、27年10月、文部技官を併任し、40年5月まで東京国立文化財研究所美術部に研究員として所属した。24年5月以降、東京大学教授を併任し、さらに美術史学会設立に関わり常任委員となった。東大教授、『国華』編集委員、美術史学会常任委員として、以後、長きにわたって、東アジア全般の美術の動向を視野におさめた数々の論文と作品紹介を『国華』を中心に発表し、戦後における東洋・日本の美術史研究を領導した。42年3月、東大を定年退官するまで、国内はもとより海外における中国絵画の調査も精力的に実施し、35年5月から6月にかけて東洋文化研究所研究員の鈴木敬・川上涇とともに台湾を訪問、当時、台中にあった故宮博物院の所蔵絵画約1500件(約5000点)を調査し、37年には、戦後はじめて、中華人民共和国の招待をうけ、美術史研究者団(長広敏雄・藤田経世・宮川寅雄・吉沢忠・米澤嘉圃)を組織し団長として訪中、12月から翌1月まで、北京故宮博物院をはじめ、上海・南京・西安・広州の各博物館で、中国絵画を調査し、各地の国立美術学院を視察した。41年5月から6月、再度、中華人民共和国を訪問し、南京・蘇州・上海・杭州を巡礼し調査し、同年9月から10月、日本経済新聞社の企画する北斎展に随行し、モスクワ・レニングラードに滞在、モスクワでは雪舟と文人画について二度にわたり講演した。この間、東京大学文学部、東京大学教養部、金沢大学文学部、名古屋大学文学部で教鞭をとって後進の指導にあたり、講談社『世界美術体系』の中国美術編を編集して中国美術の啓蒙につとめている。学会関係としては、美術史学会常任委員のほか、27年4月から44年10月まで、日本学術会議東洋学研究連絡委員会委員、36年から晩年まで東方学会評議員をつとめ、とくに37年から41年まで、美術史学会代表として指導力を発揮した。42年3月、東京大学を定年退官し、同4月から武蔵野美術大学教授をつとめた東京芸術大学でも教鞭をとった。同5月に東京大学名誉教授となる。44年7月には武蔵野美術大学学長代行、49年4月より同大学評議員となり、53年3月、同大学を定年退職した。同6月、武蔵野美術大学名誉教授となる。退職後も人望あつく、同12月、武蔵野美術大学ならびに武蔵野美術短期大学の学長に迎えられ、学校法人武蔵野美術大学理事となって学校の運営に携わっている。この間、42年8月から9月、アメリカ、ミシガン大学で開催された第27回東洋学者会議へ出席し、石濤について発表、鈴木敬とともにアメリカ各地の美術館・個人コレクションを調査したほか、48年8月~9月、欧州を旅行し、パリのチェルヌスキー美術館、ストックホルム極東美術館等、各地の美術館を訪れた。執筆活動も盛んで『国華』を中心に数々の論文と作品紹介を発表するとともに、朝日新聞社刊行の『東洋美術』、小学館刊行の『原色日本の美術』、講談社刊行の『水墨美術体系』、小学館刊行の『名宝日本の美術』等、主な美術全集の編集委員・監修者として尽力し、学問の啓蒙につとめている。文化財行政にも大きく寄与し、25年12月、文化財専門審議会、文化財保護審議会(改正後)の専門委員(絵画彫刻部長)、47年7月、高松塚総合学術調査会委員、同11月、東京国立博物館評議会評議員、55年11月、文化財保護審議会委員などの要職を歴任し、長らく国宝・重要文化財の指定に深く関与している。52年4月、勲二等旭日中綬章をうけた。52年8月、国華主幹となって以降、平成元年の『国華』創刊百年記念事業の実現に老齢を省みず尽力し、『国華論攷精選』上・下巻の出版、「室町時代の屏風絵展」(於東京国立博物館)の開催、「特輯東洋美術選」上・下(『国華』1127~28号)、「国華賞」の創設を果たし、新たに明治美術を『国華』掲載の対象とする指針を定めた。米澤の研究対象は、中国古代より現代までの絵画全般から朝鮮・日本の絵画におよび、文献を駆使した基礎研究を徹底して行う一方で、それまでの作品から遊離した高踏的な美学や画家の系統論に終始していた中国絵画史を、作品の実査と鋭い鑑識にもとづいて再検証し、実証的な近代学としての水準に高めた功績はきわめて大きい。具体的な形の変化に中国美学の最高理念をなす気韻論の変遷をあとづけながらも、作品分析の隘路に陥ることのない米澤の統一的視点に立った実証的研究は、近代における西洋美術の方法論を直接的に応用する試みと一線を画している。共感をもって語られる画家の精神の洞察と中国の自然や風土への深い見識こそが、『国華』誌上における膨大な数の優れた作品紹介とともに、その研究を支える母胎であった。唐代の画家呉道玄や明清の文人画家、南宋の繊細な絵画への愛着は、豪放磊落かつ繊細な審美眼をあわせもつ米澤の人柄を偲ばせる。日本美術についても東アジアを視野におさめた広い観点から検証する必要性を唱え、今日における研究動向の指針となっている。以下、主要著作と主要論文を年代順に掲載する。主要論文はすべて『米澤嘉圃美術史論集』に収録されている。米澤の執筆全般については『米澤嘉圃美術史論集(下巻)』に附す戸田禎佑編「著作目録」がある。尚、武蔵野美術大学美学美術史研究室米澤先生の喜寿を祝う会編「米澤嘉圃先生年譜・業績目録」も参照されたい。 主要著作『中国絵画史研究(山水画論)』(東洋文化研究所、昭和36年3月)(平凡社、昭和37年)『世界美術体系 8 中国美術』編集(講談社、昭和38年12月)『世界美術体系 10 中国美術』編集(講談社、昭和40年5月)『東洋美術 1 絵画 1』共編(朝日新聞社、昭和42年4月)『東洋美術 2 絵画 2・書』共編(朝日新聞社、昭和43年8月)『水墨画』(原色日本の美術11)共著(小学館、昭和45年4月)『請来美術(絵画・書)』(原色日本の美術29)共著(小学館、昭和46年9月)『八大山人・揚州八怪』(水墨美術体系11)共著(講談社、昭和50年5月)『白描画から水墨画への展開』(水墨美術体系1)共著(講談社、昭和50年12月)『米澤嘉圃美術史論集(上)巻』(国華社、平成6年6月10日)『米澤嘉圃美術史論集(下)巻』(国華社、平成6年6月10日)主要論文狩野正信の研究『国華』494・495・496号(昭和7年1・2・3月)田能村武田と蘐園学派『国華』540・541・542号(昭和10年11・12月、11年1月)東洋画の画布(Bildtafel)の形成に就いて『国華』654・655号(昭和21年9・10月)中国近世絵画と西洋画法『国華』685・687・688号(昭和24年4・6・7月)費丹旭筆美人図について『国華』701号(昭和25年8月)李蝉の花卉画冊に就て-揚州八怪論-『国華』722号(昭和27年5月)張風とその芸術 『大和文華』18号(昭和31年1月)中国古代における顔料の産地東京大学『東洋文化研究紀要11冊』(昭和31年11月)中国の美人画平凡社『中国の名画-中国の美人画』(昭和33年5月)李迪の生存年代についての疑問『国華』804号(昭和34年3月)長谷川等伯筆松林図の画風について『国華』814号(昭和35年1月)中国絵画史における持続と変化-序にかえて-講談社『世界美術体系(8)中国美術1』(昭和38年12月)禹之鼎筆楽春園図巻 『国華』870号(昭和39年9月)中国絵画の歩み講談社『世界美術体系(10)中国美術3』(昭和40年5月)書法上からみた石濤画の基準作『国華』913号(昭和43年4月)李森筆鬼子母劫鉢図巻について『国華』921号(昭和43年12月)東アジアにおける群像表現『国華』963・968号(昭和48年11月、49年5月)中国古代説話画の表現方法岩波書店『文学』42~48号(昭和49年)徐渭と八大山人講談社『水墨美術体系11』(昭和50年5月)漢代彫刻の動態表現 『国華』1000号(昭和52年8月)中国の金銀泥画朝日新聞社『光悦書宗達画金銀泥絵』(昭和53年3月)寒林山水図屏風覚書 『国華』1042号(昭和56年5月)現代中国美術の群像表現-莊兆和作難民図の場合-『国華』1051号(昭和57年5月)能阿弥画をめぐって 『国華』1060号(昭和58年2月)黄土の思出-その色と形-『国華』1076号(昭和59年9月)雲中麒麟図(絵紙)-呉道子の画風を偲んで-『国華』1078号(昭和59年12月)気韻生動考 『国華』1110号(昭和63年1月)中国古代の画魚 『国華』1127号(平成元年10月)正倉院の山水画をめぐる諸問題『国華』1137号(平成2年8月)気韻生動の源流を探る-「古代」分期への試み-『国華』1142号(平成3年1月)唐代における「山水の変」 『国華』1160号(平成4年7月)中国絵画における詩的表現『国華』1168号(平成5年3月)中国古代における器物の図形-「空間構成」『国華』1171号(平成5年6月)上林苑闘獣図の画風-書と画の筆法-『国華』1178号(平成5年11月)
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没年月日:1993/07/05 一創会会員の挿絵画家成瀬数富は7月5日午前8時57分、肝臓がんのため東京都世田谷区の吉川病院で死去した。享年73。大正9(1910)年1月、広島市に生まれる。高等小学校を卒業後、17歳で上京。宮本三郎らに絵を学び、挿絵画家として活躍。朝日新聞に連載された川口松太郎の小説「新吾十番勝負」をはじめ、東京新聞の連載小説の花登筺「氷山のごとく」(昭和54~56年)、三好徹「戦士たちの休息」(同58年)、毎日新聞連載小説の古川薫「天辺の椅子」(平成3~4年)などの挿絵を描いた。昭和54年3月に創立された一創会に参加し、出品を続けた。
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没年月日:1993/07/04 日本版画協会会員の版画家鈴木信吾は、7月4日午後5時31分、脳しゅようのため東京都品川区の病院で死去した。享年49。昭和19(1944)年5月19日、中国の満州に生まれる。同41年立教大学を卒業後、2年間彫金を学ぶ。同43年、シロタ画廊で、油絵の個展を開催する。同45年、日本美術家連盟の版画工房に入り銅版画の技法を学び、同46年、シロタ画廊で版画の個展を開く。同47年第40回日本版画協会展で同協会賞受賞。同年第3回版画グランプリ展、第6回現代美術展に出品。翌48年より54年まで滞欧し、はじめは油絵を描いたが、後半はアトリエ内で版画を研究する。この間の同49年第1回フランス・ツール市国際展、フランス・リヨン現代日本画展に出品。同51年ベルギー・オスタンド市ヨーロッパ絵画賞展に出品して銅メダル賞を受賞。翌年フランス・ヴィトリ・スウ・セイヌ市絵画展にも出品。帰国後は、東京版画研究所に学んだ。同52、56年および平成元年にはアメリカで開催された国際ミニアチュール展、昭和57年には韓国で行なわれた第2回韓国国際ミニアチュール展、同60年アメリカでの国際メゾチント・コンペティション、同62年イタリア・ビエラ国際版画展、同64年イギリス・ブリストル国際ミニチュール版画展に出品するなど、国際的に活躍した。国内でも平成2年第3回ミヤコ版画賞展ミヤコ賞受賞。昭和50、56、61年および平成2年にガレリア・グラフィカで個展を行なったほか、版画日動展、静岡県立美術館で開催された「フュージョン展」等、多くの展覧会に出品した。銅版画を得意とし、「サンマルタン運河シリーズ」を描いたマニエル・ノワールのほか、銅版にビュランで点を置いていく点描法、ステイプル・エングレーヴィングで高い評価を得た。代表作に「五月の小箱」、「小さな秋」「deja vu」等がある。没後の平成6年名古屋のギャラリー審美で個展が開かれた。
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没年月日:1993/06/30 読み:さかもとみきお 日展会員で、創元会会員の洋画家坂本幹男は、6月30日午後7時30分、腎不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年81。明治45(1912)年1月1日、熊本県玉名郡に生まれる。昭和9(1934)年、東京美術学校師範科を卒業、以後愛知県、群馬県、神奈川県で教職につき、同47年に退職した。また、画家としては同11年の文展に初入選、戦後は同22年の第3回日展から出品をつづけ、同35年の第3回改組日展では、「少女と鳩」が、同37年の「合奏」がそれぞれ特選となった。さらに創元会にも、戦前の同17年の第2回展から出品し、戦後も会員として出品をつづけた。日常の生活から取材したアンティームな情感を感じさせる作品を描いた。
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没年月日:1993/06/24 読み:さたかつ 日本ガラス絵協会代表の洋画家佐田勝は6月24日午後1時24分、食道ガンのため東京都新宿区の東京医大病院で死去した。享年78。大正3(1914)年10月13日、長崎市に生まれる。幼少時、台湾、熊本、和歌山、北海道、姫路、東京などに住み、東京の攻玉社中学を卒業後、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事する。昭和14(1939)年3月同校を卒業、同年5月福沢一郎を中心とした美術文化協会結成に参加。戦時中の一時中断をはさんで同21年まで同人として出品するが、同22年からは自由美術家協会に会員として移り、同35年に退会し、美術グループ「同時代」を結成、同50年に解散するまで発表をつづけた。以後は無所属として、社会に関心を向けた独自の作品を描きつづけた。また、同14年から25年まで、芝浦工業専門学校(現在の芝浦工業大学)建築科で講師として、後に助教授として教鞭をとった。同26年には日本ガラス絵協会を創立した。ほかに、『美術用語辞典』(造形社、昭和40年)、『異端の画家たち』(共著、造形社、昭和44年)などの著作がある。
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没年月日:1993/06/18 読み:いのだしちろう イノダコーヒー社長、二科会会員、京都文教短期大学名誉教授の洋画家猪田七郎は6月18日午後6時57分、食道がんのため京都市上京区の京都府立医大病院で死去した。享年75。大正6(1917)年11月3日、京都市上京区に生まれる。京都の私立第二工業高校を中退。二科会の洋画家錦義一郎に師事し、昭和23(1948)年第33回二科展に初入選。同33年同会会友に推挙される。同37年3月から5月まで欧米を旅行。同年第47回二科展に京都祇園祭りの鉾を描いた「鉾」を出品して会員に推挙された。同38年3月、約1カ月間の中南米、北アメリカの旅に赴く。同42年第52回同展に「惑る物語」を出品して会員努力賞を受賞。京都市展、関西総合美術展にも出品した。仏像、伝統芸能など、日本の伝統的なものに取材する作品が多く、昭和40年代からは舞妓を主に描いた。画面の背景空間を簡略にして主要なモティーフを大きくとらえ、コントラストの強い明暗表現を特色とする作風を示した。同38年に京都家政短期大学服飾衣裳科講師となって油彩画を教え、同40年同大教授となったほか、京都文教短期大学でも教鞭をとった。
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没年月日:1993/05/31 国画会会員、日本版画協会名誉会員の版画家笹島喜平は5月31日午前9時40分、呼吸不全のため栃木県芳賀郡益子町の西明寺普門院診療所で死去した。享年87。明治39(1906)年4月22日、栃木県芳賀郡に生まれる。昭和2(1927)年4月、東京府立青山師範学校(現東京学芸大学)を卒業して教員生活に入る。独学で洋画を学び同11年、郷里の陶芸家浜田庄司の紹介により棟方志功に師事。平塚運一にも指導を受けた。同15年第15回国画会展に「南豆の海」で初入選。同16年第4回新文展に「山道」が入選し、これによって版画家となることを決意する。同18年第18回国画会展で会友に推される。同20年教職を退いて版画家として独立。同23年第16回日本版画協会展に「新秋古刹」「戦災跡芋畑」を出品して同会会員となる。同24年第23回国画会展に「油地獄板画冊」を出品し、同会会員に推挙される。このころから三越劇場での歌舞伎版画に取り組み、その制作を通じて写楽を知った。同25年日本版画協会を退会し、同27年棟方志功らと日本板画院を創立。同29年より毎年、東京日本橋高島屋で個展を開催。この間、同32年第1回東京国際版画ビエンナーレに「漁村」「山湖B」で入選。以後第5回展まで招待出品。同34年第33回国画会展に拓版画「風ある林」「森」を出品し、拓本を参考に、バレンを用いず版木に紙をあてて上から押す「拓刷り」技法を示して注目された。同40年、畦地梅太郎らと新秋会を結成し同48年まで毎年出品。同年笹島喜平版画展を益子町公民館で開催。同41年スイス、ザイロン市での第4回国際版画展に出品する。同42年第9回サンパウロ・ビエンナーレ展に「吉祥天A」「吉祥天B」「風神・雷神」などを出品。同43年3月笹島喜平版画展を足利市民会館ギャラリーで開く。同47年イタリア・ミラノ現代国際版画展に出品。同49年9月、畦地梅太郎、北岡文雄らと朴林会を結成する。同51年古稀を記念して『笹島喜平画文集』(美術出版社)を刊行。同53年笹島喜平版画展を水戸市文化センターで開催する。同57年喜寿記念笹島喜平展を東京日本橋高島屋で開催した。同展出品作は栃木県立美術館に所蔵されている。作品集に『笹島喜平版画作品集』(美術出版社 昭和39年)、画文集『一座』(美術出版社 昭和42年)。『笹島喜平版画集』(講談社 昭和55年)。『半画人・笹島喜平画文集』(美術出版社 昭和57年)等がある。仏教関係の尊像、社寺を描くことが多く、白黒の明快な対比、版木の彫痕が紙に凹凸としてあらわれる力強い作風を特色とした。
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没年月日:1993/05/31 春陽会会員で、元東京芸術大学美術学部教授の中谷泰は、5月31日午後8時40分急性腎不全のため東京都渋谷区の代々木病院で死去した。享年84。本名は泰一(たいいち)。明治42(1909)年5月20日、三重県松阪市に生まれる。昭和4(1929)年、上京して川端画学校、ついで春陽会洋画研究所に学んだ。同5年の第8回春陽会展に「街かど」が初入選。同7年より同会に出品をつづけ、同13年には「楽園追放」他で春陽会賞を受け、同18年に同会会員となった。同17年頃には、春陽会の創立会員である木村荘八に師事するようになり、それは木村が没するまでつづいた。また、同14年の第3回新文展に「秋日」、同17年の第5回新文展に「水浴」をそれぞれ出品、特選となった。戦後は、春陽会にひきつづき出品をするほか、同26年の第4回日本アンデパンダン展にも出品し、日本美術会に入会した。同時期の作品は、家族や静物をモチーフにしたアンティームな画風であったが、同28年制作の「乳房」(第30回春陽会展)、翌年の「流田」(第2回平和美術展)をさかいに、農民、漁夫などの労働者とその生活を主題に、社会的な意識の強い表現主義的な作品を描くようになった。しかし、同30年に初めて炭坑町を、翌年には愛知県瀬戸市を訪れ、その風土に強くひかれるようになると、その画面からは社会性が退き、人間のたゆまぬ労働で作り上げられた炭坑のボタ山や陶土の採掘跡をモチーフに油彩画の堅牢なマチエールと造形性が追求されるようになった。とくに、同33年の第35回春陽会展出品の「陶土」(東京国立近代美術館蔵)、翌年の第5回日本国際美術展に出品し、同展優秀賞を受賞した「陶土」などの代表作が描かれた。同46年には、東京芸術大学美術学部教授に任命され、同52年まで勤めた。また、同63年には、三重県立美術館において初期から近作にいたる油彩画99点、水彩・素描58点、版画9点による初めての本格的な回顧展が開催された。平成5年の第70回春陽会展に出品した「村の往還」が最後の発表となった。
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