本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1992/02/10 読み:あかしぼっけい 日展、現代工芸展などで活躍した漆芸家明石朴景は2月10日午前6時50分、急性心不全のため高松市の自宅で死去した。享年80。明治44(1911)年10月1日、香川県高松市に生まれる。本名聖一。昭和9(1934)年東京美術学校図案科を卒業。和歌山県漆器試験場勤務を経て、同17年高松工芸学校教諭となる。戦後の同21年秋第2回日展に「華紋蒟醤色紙筥」で初入選。以後同展に出品し、同33年第1回新日展に「夜を聞くレコードキャビネット」を出品して特選受賞。同39年より日展依嘱となり、同41年日展審査員をつとめた。同43年日展会員となる。同52年第19回社団法人日展に「薫風婉然」を出品して会員賞を受けた。戦後、一時京都市立美術大学助教授、高松市立美術館学芸員をつとめた後、同44年より高松短期大学教授となった。朴景とも号し、花、魚等の自然の形をもとに大胆に図案化を加え、幾何学文様と組みあわせ、黒や朱の漆の地色を生かした斬新なデザイン感覚を示す作品を制作した。平成4年3月13日より郷里高松市立美術館で「明石朴景展」が開かれ、その業績が本格的に回顧された。
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没年月日:1992/02/06 日展評議員の鋳金家岸澤武雄は2月6日午後0時25分、肺炎のため埼玉県川口市の済生会川口総合病院で死去した。享年80。明治45(1912)年2月2日、埼玉県川口市に生まれる。昭和13(1938)年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業。同年第3回実在工芸展に入選するが、この年に入隊する。同22年川口市立南中学校教師となり、同年第3回日展に「瑞鳥香爐」で初入選。同24年第5回日展に「金工銀錯花紋青銅壷」に入選して以後連年日展に出品する。同28年第9回日展出品作「汀(花器)」で特選朝倉賞受賞。同38年日展会員となり、同年同評議員となった。また、同29年高村豊周の主宰する同人「対象」に参加。同36年現代工芸美術家協会の設立に参加し、同38年同会常任委員、同40年同会理事となった。同25年より27年までは川口市立西中学校、同27年から45年までは埼玉県立川口高校で教員をつとめつつ、制作を発表。初期の作品は壷、花瓶といった容器の形態をとったが、昭和40年代には直接実用とは結びつかない装飾板の制作が多くなり、花、鳥、星等をモチーフに明快な色彩で童画的作風を示した。戸田市役所の平和像なども制作している。
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没年月日:1992/02/03 水彩画家で日本水彩画会理事、示現会理事の阿部広司は、2月3日心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年81。明治43(1910)年3月28日、現在の福島県いわき市に生まれ、福島県立磐城中学校、東京府青山師範学校を経て、昭和9年東京高等師範学校図画手工専修科を卒業した。卒業後、群馬県立高崎中学校、東京女子高等師範学校などで教え、戦後は東京都教育委員会に奉職、公立中学校校長などを経て、同45年からは日本女子体育短期大学教授をつとめた。この間、はやくから水彩画を専門とし、戦後の同24年に日本水彩画会会員、翌年には示現会会員となって制作発表を行った。また、同23年から日展にも連続入選し、同28年の日展出品作「東京駅八重洲口」は「週刊朝日」の表紙を飾った。作品は他に「大島の秋色」(同37年)、同49-52年間の連作「漁港」などがある。
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没年月日:1992/01/20 洋画家で東京芸術大学助教授の山川輝夫は、1月20日胆管閉塞のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年51。昭和15年東京に生まれる。同39年東京芸術大学油画科を卒業、卒業制作は「無いものねだり」で、大橋賞を受賞した。同41年同大学大学院を修了。同44年から49年まで女子美術短期大学非常勤講師をつとめたのち、同56年東京芸術大学助教授に就任した。同61年から翌年にかけて、文部省在外研究員としてイギリスで研修を行った。国際形象展、十騎会展、黎の会展、杜の会展などのグループ展と個展で制作発表を行い、平成4年にはみゆき画廊で瀧徹との二人展を開催した。没後、平成4年4月に東京芸術大学芸術資料館で、山川輝夫遺作展が開催され、卒業制作から近作のシリーズに至る30余点が出品された。
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没年月日:1992/01/16 写真家の入江泰吉は、1月16日脳こうそくのため奈良市の国立奈良病院で死去した。享年86。大和路の社寺や仏像、風物を撮り続けた入江は、明治38(1905)年11月5日奈良市に生まれた。大正12年、奈良女子師範付属高等小学校高等科を卒業、同15年写真技術修得のため大阪へ出、昭和8年大阪市南区鰻谷仲之町15に独立し写真技術一般の営業を始め、また、写真家としての活動も開始した。同12年、アマチュア写真研究会「光藝倶楽部」を創立主宰する。同16年、日本報道写真協会に加入。同19年に戦災に遇い奈良市水門町49に転居、以後、奈良風物の撮影に当り、とくに終戦直後の混乱期に古都の文化財が破壊されるのを恐れ、大和路の社寺などの撮影に専念するに至った。同23年、東京で「仏像写真展」を開催したのをはじめ、同33年には写真集『大和路』を出し写真家として本格的にデビューした。この間、国画会写真部会員として、同展に制作発表も行う。“滅びの美しさ”を主情的に表現する作風で知られ、風景撮影では古代のイメージを重んじ、自動車や電柱を徹底的に排除した。同51年、「古色大和路」「萬葉大和路」「花大和」の三部作で、写真家としては土門拳についで二人目の菊池寛賞(第24回)を受賞した。同56年、我が国では初の写真個人全集『入江泰吉写真全集』全8巻(集英社)を出版する。この他、伝教伝導文化賞、日本写真協会功労賞など受賞も多く、出版物は共著も含めて百冊を越える。没後の平成3年5月、入江泰吉の全作品8万点余を収めた奈良市写真美術館が開館した。
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没年月日:1992/01/14 読み:たけしまたくいち 名古屋工業大学名誉教授の建築史家竹島卓一は、1月14日午前11時46分、心不全のため東京都北区の自宅で死去した。享年90。東洋建築史の研究で知られ、日本学士院賞恩賜賞を受けた竹島は、明治34(1901)年4月29日、三重県上野市大字大野木に生まれた。昭和2(1927)年東京帝国大学工学部建築科を卒業。同4年東方文化学院が設立されると同時に入所し、関野貞らと共に中国各地を調査、中国の建築、陵墓の研究に従事する。同8年東京帝国大学大学院修了。同12年8月より14年8月まで召集により北支・中支に赴く。同17年名古屋高等工業学校教授となり、同24年同校が名古屋工業大学となって後も同校で教鞭をとった。戦前完成していた学位論文「営造法式の研究」は、同20年3月の空襲により焼失したが、戦後再度著し、同25年東京大学から博士号の称号を受けた。この研究は同45年『営造法式の研究(一)(二)(三)』(中央公論美術出版)として刊行され、こうした一連の「営造法式の研究」に対し、同48年日本学士院賞・恩賜賞が贈られた。同40年名古屋工業大学を停年退官し同年より47年まで神奈川大学工学部、同47年から同51年まで国士館大学工学部で教授をつとめた。他の著書に『遼金時代の建築と其仏像』(龍文書局 昭和19年)、『中国の建築』(中央公論美術出版同45年)、『建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題』(同、同50年)などがある。一方、古建築の解体修理、復元にも従事し、昭和25年から31年まで法隆寺国宝保存工事事務所長として同寺五重塔、金堂等の解体修理にあたり、同45年日本万国博覧会古河館の東寺七重塔模造設計、同52年法輪寺三重塔の設計等を手がけた。伝統的建築技術を深く理解し、さらに科学的知識、洞察を加えて、近代の保存修復に一指針を示した。
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没年月日:1992/01/01 「伊勢型紙」の縞彫りで国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の児玉博は、1月1日午後10時58分、尿管腫ようのため三重県鈴鹿市の中勢総合病院で死去した。享年82。明治42(1909)年10月13日、三重県白子町に生まれる。父房吉に幼少時から伊勢型紙の技術指導を受けた。大正13(1924)年白子町立工業学校を卒業。翌年父の死去により上京し、浅草の伊藤宗三郎に入門して同家の職人となり、縞彫を中心に修業を重ねた。昭和4(1929)年独立して日本橋に開業。同8年、型付師小宮康助の型紙を彫り、以後康助、康孝父子の江戸小紋染に欠かせぬ存在となった。同17年戦火を避けて郷里へ帰った。戦後は縞小紋が不人気でもあり、同23年より同39年に停年退職するまで百五銀行本店に勤務しつつ、型紙の制作を続けた。日本伝統工芸展にも出品。曲一寸(約3センチ)幅に30本もの縞筋を引く精致な技で知られる。同52年津市の石水会館で「児玉博作品展」が開かれ、同61年三重県民功労賞を受賞した。
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没年月日:1991/12/31 一水会会員の洋画家堀忠義は、12月31日脳出血のため金沢市の伊藤病院で死去した。享年86。明治37(1904)年11月13日石川県金沢市に生まれ、県立金沢第二中学校を経て、昭和4(1929)年文化学院美術科を卒業した。在学中の同3年第15回二科展に「茶亭の見える風景」で初入選し、以後同展へ6回入選した。同7年から翌年にかけて渡仏、サロン・ドートンヌ(1932年)に出品した。同12年、第1回一水会展以来同展に所属し戦後の同21年一水会会員に推挙された。日展へも第1回から出品し、同25年の第6回展に「犀川春好日」で岡田賞を受賞した。この間、同8年から18年まで母校の文化学院美術部に勤務し、同19年金沢へ疎開し以後同地で制作活動を行った。一水会展への出品作に「青い馬車」(2回)「多摩川初秋」(7回)「大浦天主堂」(19回)などがあり、犀川を題材にした作品も多い。
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没年月日:1991/12/19 読み:ちゅうどうけんいち 日展評議員の染色家中堂憲一は12月19日午前3時5分、肺がんのため京都市上京区の京都府立医大病院で死去した。享年70。大正10(1921)年2月14日、神戸に生まれる。昭和17(1942)年、京都市立絵画専門学校図案科を卒業。民間会社の意匠部に勤務しながら、同24年第5回日展に「染色『童』屏風」で初入選。同33年第1回社団法人日展に「型染『帰浜』」を出品して特選受賞。同40年日展会員となった。また、京都府工芸展、現代工芸美術家協会にも参加し、日本新工芸家連盟理事をもつとめた。型染を得意とし、人物、風景を多くモチーフとして、対象の形を大胆に簡略化した斬新なデザイン、色数を限った明快な色調の作風を示した。 日展出品歴日展第5回(昭和24年)「染色『童』屏風」、8回「和染つみ荷」、10回「臈染屏風『村』」、11回「染屏風『豊漁』」、12回「型染屏風『鋤く人』」、12回「型染絵『石切る島人』」、第1回新日展(同33年)「型染『帰浜』」(特選)、2回「漁場」、3回「土と人」、4回「型染『風車の花』」、5回「型染『沈陽』」、6回「暮帰」、7回「悶」、8回「型染『湿原』」、9回「祭舞」、改組第1回(同44年)「紙神」、2回「幻舞」、3回「命運の秘布」、4回「阿弥陀ケ峯秘布」、5回「心炎布」、6回「緋の衣」、7回「神扉布」、8回「起風凧絵大布」、9回「命運の記号」、10回(同53年)「鷺の精」、11回「女霊の能」、12回「二人静」、13回「曼珠沙華」、14回「行脚」、15回「型染絵『風の道』」、16回「猊下」、17回「櫻の舞」、18回「行く道」、19回「港の灯火」、20回(同63年)「風近し」、21回(平成元年)「出漁」
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没年月日:1991/12/17 独立美術協会会員の洋画家水島清は、12月17日午前10時、胃がんのため横浜市の国立横浜病院で死去した。享年84。明治40(1907)年7月、新潟県水原町に生まれる。大正13(1924)年東京京華中学校を卒業、昭和2(1927)年に東京美術学校西洋画科に入学した。同4年第16回二科展に「女の像」で初入選。同年より林武に師事し、1930年協会にも出品する。翌5年にも二科展に出品するが同6年の第1回展から独立展に参加し、出品を続ける。同8年東京美術学校を卒業。同9年応召し同21年に復員。戦後も独立展に参加し、同28年「海郷」「水中花」を出品して独立賞を受賞、同30年同会会員に推される。同36年に渡欧。同41年第34回独立展に「横たわる裸婦」を出品してG賞を受けた。強く激しい筆致、緊迫した構図、コントラストの強い色彩を用い、フォーヴィスムを強く意識した画風を示し、独自の空間構成を論じた。同56年インド、ネパールを旅し、西洋的空間のとらえ方から東洋の生命のエネルギーに触発された空間把握へと移行。この頃よりパーキンソン症候群にかかり、闘病しつつ制作を続けた。死去の数日後の12月22日から、東京の望月画廊で「水島清エスキース展」が開かれた。
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没年月日:1991/11/24 東京大学名誉教授の建築家星野昌一は、11月24日午後2時30分、肺炎のため東京都港区の赤坂病院で死去した。享年83。明治41(1908)年5月20日、京都府舞鶴に生まれる。昭和6(1931)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業して同科助手となる。同13年同助教授、同17年同教授となり、同44年停年退官するまで長きにわたり、後進の指導にあたった。同44年より61年までは東京理科大学教授として教鞭を取る一方、同44年に設立した星野研究室一級建築士事務所代表取締役として活躍。千葉県庁舎(昭和36年)、千葉市役所(同37年)、松阪市庁舎(同44年)、オリンピック記念青少年センター体育館(同46年)、安田火災本社ビル(同51年)、同社大阪ビル(同57年)、同社千里ビル(同60年)、同社北海道ビル(同62年)、東京工芸大学(平成2年)等、公共建築を多く手がけ、機能と美観を融合させた新たな方向を示した。
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没年月日:1991/11/24 京都工芸繊維大学名誉教授、美術史家土居次義は、急性呼吸不全のため京都市山科区の東山老年サナトリウムで死去した。享年85。明治39(1906)年4月6日大阪市天王寺区に生まれる。京都の第三高等学校に学んで昭和6年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。同大学文学部副手を経て昭和10年10月より恩賜京都博物館鑑査員を勤め、同21年4月に恩賜京都博物館長に就き、同22年12月同館を退官。この間、昭和15年恩賜元離宮二条城事務所兼務、同20年3月より1年間京都市文教局文化課長に転出して京都市の文化財の疎開にかかわる仕事を行なった。その後、昭和24年4月より京都工芸繊維大学教授。同45年同大学を定年退職した。また、徳島県文化財専門委員(昭和33年9月)、京都府文化財保護審議会委員(同40年10月)、文化財保護審議会専門委員(同44年3月)、京都国立博物館評議員会評議員(同56年1月)を歴任した。 昭和28年12月文学博士(日本美術史)。昭和44年に京都新聞文化賞、同49年11月に紫綬褒賞、同55年4月に勲三等旭日中綬章、同60年12月に京都府文化賞特別功労賞が授けられ、同62年11月に京都市文化功労者表彰を受けた。京都帝国大学では美学美術史を専攻して沢村専太郎教授(1884~1930)に師事し、在学中より京都の寺院に所蔵される障壁画の調査にたずさわる機会をえて日本近世絵画史の研究を行なった。ジョバンニ・モレリの鑑識方法を応用して絵画細部にあらわれた特徴を比較する研究方法を採り、従来巨名作家の伝承をもつのみだった無款の障壁画の作者推定に説得力ある議論を展開した。土居は一連の研究によって山楽、山雪、松栄、光信、孝信らの狩野派など主要画家の作風を明らかにするとともに、基準作品と史料の発掘に努めて桃山時代の絵画史研究の基礎確立に大きく貢献した。長谷川等伯の子久蔵と同一視されていた信春を等伯と同一人とする新説を昭和13年に発表するなど、長谷川等伯と長谷川派の研究に尽力して桃山画壇における同派の意義を明らかにした点が特筆される。また、江戸時代の画家研究においても得意とするフィールドワークを生かした多くの研究を発表した。主要著書『等伯』(東洋美術文庫・第7巻)アトリヱ社、昭和14年『京都の障壁画』(京都市観光課編)桑名文星堂、昭和16年『桃山障壁画の鑑賞』寶雲社、昭和18年『山楽と山雪』桑名文星堂、昭和18年『日本近世絵画攷』桑名文星堂、昭和19年『山楽派画集』桑名文星堂、昭和19年『近世絵画聚考』芸艸堂、昭和23年『襖絵』(アート・ブックス)講談社、昭和31年『等伯』(日本の名画・第1期)平凡社、昭和31年『長谷川等伯・信春同人説』文華堂書店、昭和39年『桃山の障壁画』(日本の美術・第14巻)平凡社、昭和39年『障壁画』(日本歴史新書)至文堂、昭和41年『若沖二井絵』マリア書房、昭和42年『近世日本絵画の研究』美術出版社、昭和45年『永徳と山楽』(人と歴史・日本18)清水書院、昭和47年『渡辺始興 障壁画』光村推古書院、昭和47年『長谷川等伯』(日本美術・第87号)至文堂、昭和48年『元信・永徳』(水墨美術大系・第8巻)講談社、昭和49年『讃岐金刀比離宮の障壁画』マリア書房、昭和49年『三竹園美術漫録』講談社、昭和50年『狩野山楽/山雪』(日本美術絵画全集・第12巻)集英社、昭和51年『長谷川等伯』講談社、昭和52年『狩野永徳/光信』(日本美術絵画全集・第9巻)集英社、昭和53年『山楽と山雪』(日本の美術・第172号)至文堂、昭和55年『花鳥山水の美-桃山江戸美術の系譜-』京都新聞社、平成4年この他、発表論文の目録が『近世日本絵画の研究』(昭和45年)に、略歴が『花鳥山水の美』(平成4年)に掲載される。等伯を中心とした長谷川派の研究は『長谷川等伯』(昭和52年)に集大成された。
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没年月日:1991/10/29 日本染織文化協会名誉会長の染織文化研究家上村六郎は10月29日午前10時40分、ジン不全のため京都市上京区の小柳病院で死去した。享年97。明治27(1894)年10月10日、新潟県刈羽郡に生まれ、京都高等工芸学校で染色学を学ぶ。ひき続き京都帝国大学工学部工業化学教室で染色学・繊維学を学んで卒業後同大助手となった。その後、関西学院大学理工科講師を経て、武庫川女子大学教授となり、昭和25年、大阪学芸大学教授となる。早くから日本の古代染織に興味を持ち、同5年『萬葉染色考』(辰巳利文と共著)を著し、同9年には『日本上代染草考』を刊行。宮内庁の委嘱により正倉院御物裂の調査に当たったほか、布以外の材料にも研究を広げ、同31年和紙研究会代表となった。大阪学芸大学を退いたのちは新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学学長を歴任したのち四天王寺女子大学教授並びに日本染織学園園長を兼務。最晩年は旭川市の優佳良織工芸館内国際染織美術館館長をつとめる一方、研究、著作に専念した。東南アジアを含む広い文化圏の中に日本を位置づけ、上代からの日本の染織、色彩文化を生活に根ざした視点からとらえた。元人(げんじん、もとんど)とも号す。主な著書には以下のようなものがある。昭和5 萬葉染色考 辰巳利文共著昭和6 丹羽布昭和9 日本上代染草考昭和18 日本色名大鑑 山崎勝弘共著昭和25 (日本色名大鑑)昭和34 染色通論昭和39 丹羽布縞帳昭和40 暮らしの染色昭和41 日本の草木染昭和48 ジャワの染色昭和54 上村六郎染色著作集1~6(全巻)昭和55 日本人の生活文化史(3)昭和55 萬葉色名大鑑昭和57 沖縄染色文化の研究昭和61 (昭和版)延喜染鑑平成元年 日本の草木染
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没年月日:1991/10/27 東京芸術大学名誉教授で国画会員でもあった洋画家彼末宏は10月27日午前4時15分、呼吸不全のため東京都港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年64。暗色の地に明るく鮮やかな色点がきらめく独自の画風で知られる彼末は、昭和2(1927)年8月31日、東京で生まれたが、その後北海道へ移り、同20年北海道立小樽中学校を卒業。陸軍士官学校へ進むが、志望を転向して翌21年東京美術学校に入学し、梅原龍三郎に師事する。同26年梅原が退官すると、久保守に師事。同27年同校を卒業。同29年同校油画科助手となる。同31年第30回国画会展に「森」を初出品。同32年には「CIRQUE」で国画会賞を受賞し,翌33年同会会友となった。また、同年西欧学芸研究所から奨学金を受けて渡欧する。同35年第34回国画会展に「城跡」を出品して国画会会友賞を受け、同会会員に推される。同37年国際具象派美術展(朝日新聞主催)、同40年「具象絵画の新たなる展開」展(東京国立近代美術館)に出品する。同44年東京芸術大学助教授、同55年同教授となり、同63年退官して名誉教授となるまで長く教鞭をとって後進の指導にあたった。この間、同38年サヱグサ画廊で個展、同53年及び57年には高島屋で個展を開き、同60年有楽町アートフォーラムで「彼末宏展」、平成3年には東京芸術大学資料館で退官記念展が開催された。初期から写実を離れた詩的な具象画を描き、戦後の抽象絵画、アンフォルメル運動の中で、対象の形態を明瞭に表わさず、色彩のハーモニーに重点を置いて画面を構成する抽象画とも見まごう制作を展開。同47年6月には国画会を退き、無所属となって活動した。 国画会展出品歴第30回(昭和31年)「森」、31回「CIRQUE」、32回「昔の戦争」、33回不出品、34回「城跡」、35回(同36年)「船」、36回「画室」、37回「花」、38回「工場のある街」、39回「原始時代」、40回(同41年)「黄色いサーカスのための音楽」、41回不出品、42回「天馬」、43回不出品、44回「NOIR」、45回(同46年)不出品、46回不出品
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没年月日:1991/10/15 新興美術院副理事長の日本画家廣本進は、10月15日午後3時55分、心不全のため京都市左京区の市田病院で死去した。享年94。明治30(1897)年8月11日愛知県蒲郡市に生まれ、本名同じ。山元春挙門の川村曼舟の内弟子となり、その関係から大正7年春挙の画塾早苗会に入塾。師曼舟は、春挙没後、早苗会を主宰した人物である。その後、京都市立絵画専門学校に学び、昭和7年同校研究科を卒業。この間、在学中の昭和3年第9回帝展で「赤目の溪谷」が初入選で特選を受賞、注目を集める。翌4年パリで行なわれた巴里日本美術展に選抜されて「溪谷」を出品し、6年の伯林(ベルリン)日本画展覧会に「春溪」(デュッセルドルフに巡回)、同年のトレド日本美術展に「霽雪白帝城」、同年タイ・バンコクで行なわれた暹羅日本美術展に「三河湾」を出品。11年文展鑑査展には「香落峡」を出品している。戦後、38年新興美術院(25年再興)の京都支部設立に伴い、理事として同院に参加。以後同院に出品し、50年第25回展「有声」が文部大臣奨励賞、平成3年第41回「寝覚の床」等の四季連作が内閣総理大臣賞を受賞。平成2年から同院理事長をつとめた。この間、昭和55年比叡山延暦寺東塔院の大壁画「安楽行品」2面、58年大津市坂本町の日吉大社全景、59年大津市寿長生郷の各岩壁35体観音像線描、63年大津市坂本の瑞応院襖絵(比叡山全景)を揮毫。風景画と仏画を得意とした。61年には京都市芸術文化協会賞を受賞している。
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没年月日:1991/10/13 読み:よしかたいび 日本芸術院会員で平成2年文化功労者に選ばれたほか日展常務理事、現代工芸美術家協会副会長をつとめていた萩焼作家吉賀大眉は、10月13日午前5時5分、解離性大動脈リュウ破裂のため、山口県萩市の都志見病院で死去した。享年76。大正4(1915)年2月8日、山口県萩市に萩焼作家吉賀要作の長男として生まれる。本名寿男。幼時から父に学び陶芸の道に志し、昭和7(1932)年、萩商業学校を出て商工省京都陶磁器試験所に入所。ここで沼田一雅に出会って陶彫を学び、それがきっかけとなって同8年東京美術学校彫刻科に入学。同13年同科を卒業。同年の第2回新文展に彫塑「女」を出品して初入選。同15年の奉祝展にも「女」で入選した。同15年沼田一雅の窯に通い師事したほか、板谷波山、清水六和などにも指導を受け、同17年には加藤土師萌の窯に通う。同18年11月、萩に戻って制作に入る。同年第6回新文展に「陶花器」で入選。戦後も日展に出品を続けたほか、同26年全国陶芸展に「象嵌四方花瓶」を出品して奨励賞受賞。同30年第11回日展に「壷(貼線文)」を出品して北斗賞、同31年第12回日展では「花器」で同賞、同32年第13回日展では「顔」で特選および北斗賞を受賞した。翌33年、社団法人となった第1回日展に「陶花器 人物」を出品して特選、同36年同会会員となる。この頃までは掛分けや白萩釉を得意としたが、ギリシアやエジプトのアラバスターの器物に魅かれ、これを陶で試みて新境地を開き、同44年改組第1回日展に「暁雲」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同46年、前年の日展出品作「連作暁雲」により日本芸術院賞を受け、同57年日本芸術院会員となったほか、現代工芸術美家協会副会長に就任した。「大眉白」と呼ばれる白釉、「大眉井戸」と呼ばれる井戸茶碗など、独自の技法、作風で知られ、光のドラマの演じられる暁や朝の空の様を柔かい色調で陶にあらわして、萩焼に現代感覚を生かした新たな世界を開いた。平成2(1990)年4月、東京日本橋三越で「作陶50年 吉賀大眉展」が開かれている。 新文展、日展出品歴第2回新文展(昭和13年)「女」(彫)、奉祝展(同15年)「女」(彫)、第6回新文展(同18年)「陶花器」、日展第2回(同21年秋)「麦文花瓶」、3回「草花文水盤」、7回「玉簾文花器」、8回「萩釉シマ文花瓶」、9回「線文花瓶」、10回(同29年)「陶花器『線と角による構成』」、11回「壷(貼線文)」(北斗賞)、12回「花器」(北斗賞)、13回「顔」(特選)(北斗賞)、社団法人日展第1回(同33年)「陶花器 人物」(特選)、2回「花器」、3回「白釉横線文花瓶」、4回「白釉花瓶」、5回「白釉壷雪層」、6回「陶壷幻影」、7回「白萩釉方壷」、8回「白陶壷」、9回「陶壷暁雲」、10回(同42年)「深雪」、11回「燦」、改組日展第1回(昭和44年)「暁雲」(内閣総理大臣賞)、2回「連作暁雲」、3回「光芒」、4回「燦光」、5回「朝」、6回「長頚花器」、7回「広口花器『朝』」、8回「暁雲細口花器」、9回「平壷『雪海』」、10回(同53年)「連作平壷」、11回「連作『麦』」、12回「連作朝霧」、13回「朝霧大海」、14回「広口花器暁雲」、15回「連作 朝」、16回「映雲」、17回「連作映雲」、18回「円底壷映雲」、19回「平壷映雲」、20回(同63年)「暁雲細口花器」、21回(平成元年)「連作 朝」、22回「円底壷映雲」
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没年月日:1991/10/12 日展会員で漆工芸界の長老であった本間蕣華は、10月12日午後4時4分、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年97。明治27(1894)年4月8日山形県酒田市に生まれる。本名健蔵。同33年酒田尋常高等小学校に入学し、同41年同校高等科を卒業。同年鶴岡市在住の田村青畝に入門。大正4年に同門を修了し、翌5年より東京美術学校教授辻村松華に師事する。同10年第8回農商務省展に「菊文様蒔絵文台」を出品。同14年パリ万国装飾美術大博覧会に出品し銀賞受賞。翌15年フィラデルフィア大博覧会では一等賞を受ける。昭和2年頃より数年間、川崎小虎に絵画を学ぶ。同9年第15回帝展に「桧の木文庫」で初入選。同11年文展鑑査展では「柿文庫」で再び官展入選をはたし、同33年まで出品を続ける。同12年第1回新文展に「漆器硯筥」を出品して同会文部大臣賞、同14年第3回文展では「夕顔蒔絵手筥」で特選を受賞する。同28年より10年ほどの間文部省文化財保護委員会の依嘱を受け、国宝指定漆芸品の修理を行なった。同29年からの日本伝統工芸展に第1回展から出品を続け審査員もつとめた。同33年新日展会員となったが、直後に退会。同35年日展会員に復帰し、日本工芸会を退会した。同58年、郷里の山形県酒田市の本間美術館で本間蕣華漆芸展を開く。また、54年には随筆集「思い出すまま」をみちのく豆本の会から出版した。
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没年月日:1991/10/10 一陽会常任委員の洋画家高岡徳太郎は、10月10日心筋こうそくのため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年89。一陽会の創立会員であり、また、マネキン人形やインテリアの制作会社ノバマネキン社々長をつとめ、陶器の制作も行うなど多面な活動を展開した高岡は、明治35(1902)年7月27日大阪府堺市に生まれた。はじめ、大阪天彩画塾で松原三五郎に洋画の手ほどきを受けたのち、大正13年には、大阪信濃橋洋画研究所へ通い小出楢重に師事した。同年の第11回二科展に初入選した。また、岡田三郎助が指導する本郷絵画研究所へ通ったこともある。昭和6年、第18回二科展に「I氏立像」で二科賞を受賞し二科会友となる。同9年林武とともに靖国丸で渡欧、翌年にかけパリでは自由研究所へ通った。同10年の第22回二科展に「踊り子」「田舎」「モンスリー公園」他の滞欧作品を特別陳列し、翌年二科会会員に推挙された。戦後は東郷青児らと二科会を再建し、同28年の第38回二科展に「岩」で会員努力賞を受けたが、同30年の二科展開催前に鈴木信太郎、野間仁根等と同会を脱退して新たに一陽会を結成し、同会委員(同48年)、常任委員をつとめた。一陽会展への出品作に「朝顔」(1回)「海」(2回)「裸婦」(4回)「犬吠岬の海」(9回)「夏の山A」(15回)「海からの道」(20回)「漁村の晴日」(25回)などがある。
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没年月日:1991/10/05 北海道東海大学教授のデザイナー鈴木庄吾は10月5日午前4時15分、肺水腫のため、東京都中野区の病院で死去した。享年59。昭和7(1932)年7月27日、福島県いわき市に生まれる。同26年福島県立磐城高等学校を卒業し、東京芸術大学デザイン科に学んで同33年同校を卒業した。その後、静岡県工業試験場に入り、在職中にフィンランド中央工芸大学に赴き、北欧デザインを研究。伊勢丹研究所を経てフリーデザイナーとして活躍した。同59年北海道東海大学芸術工学部デザイン学科で教鞭をとり始め、翌60年同科専任教授となる一方、北方生活研究所所長をつとめた。インダストリアル・デザインを専門とし、日本流行色協会参与、日本インテリア学会理事、北欧建築デザイン協会理事をつとめ、Gマーク審査員、北方産業デザイン振興事業専門委員でもあった。寒冷地の生活を深く理解し、その特色に適し、生活をいろどる工業デザインを生んだ。
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没年月日:1991/09/27 萩焼の第一人者で日本工芸会理事をつとめた陶工田原陶兵衛は、9月29日午前7時20分、心不全のため山口県長門市の病院で死去した。享年66。本名田原源次郎。宗陶とも号した。田原家は、萩焼の始祖である朝鮮人陶工李勺光の高弟赤川助左衛門の流れをくみ代々陶兵衛を名のる家柄で、源次郎は10代高麗陶兵衛の二男。大正14(1925)年6月19日、山口県長門市に生まれ、昭和19(1944)年旧制山口高等学校1年在学中に応召。同23年復員し、長兄の11代陶兵衛に就き家業を習った。同31年、長兄の急逝により12代陶兵衛を襲名。同44年第16回日本伝統工芸展に「萩茶碗」を初出品し、以後同会に出品を続ける。同47年日本工芸会正会員となり、同56年より同63年まで同会理事をつとめた。また、同56年山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定された。同60年中国文化賞受賞。用器としての機能と鑑賞対象としての美的価値との並存を目指し、茶道具を中心に制作。古味をおびた製形、「陶兵衛粉引き」と呼ばれる化粧がけに特色を示し、江戸期の釉薬を再現すべく研究を続けていた。
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