本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





江藤哲

没年月日:1991/09/21

日展参与、東光会会員の洋画家江藤哲は、9月21日午後5時30分、肺動脈りゅう破砕のため鹿児島市の病院で死去した。享年82。明治42(1909)年5月21日、大分県東国東郡に生まれる。本名哲。大分県東国東郡竹田津尋常小学校を経て、昭和2年同県杵築中学校を卒業。同3年東京高等工芸学校図案科に入学。和田香苗、永地秀太に師事。同4年同舟舎に通い始める。同6年東京高等工芸学校図案科を卒業し、通産省特許局に勤務する。同局には工芸学校時代の校長であった松岡寿がいた。同8年熊岡美彦の主宰する熊岡道場に通い始め、同年第14回帝展に「人物」で初入選。翌9年第2回東光展に「緑の着物」「像」で初入選し、第15回帝展にも「黒衣座像」で入選する。同11年第4回東光展に「四人」「画架の前」を出品してY氏奨励賞受賞。同12年第5回同展に「緑衣」「レストラン」を出品して東光賞を受け、翌13年同会会友となる。同14年第7回東光展に「猫の居る庭」「室内」「庭」を出品して再びY氏奨励賞を受け同会会員に推される。戦後も日展、東光展に参加し、同22年第3回日展では小出楢重の自画像に触発されて描いた「画家の像」で特選受賞。同40年日展会員となる。同43年特許庁を退職し、同年夏に欧州へ渡りオランダ、イタリア、ギリシア、スペイン、フランスを3カ月間巡遊。同48年夏にも欧州を旅した。同52年東光会副理事長、同53年日展評議員となり、同55年第12回日展に「静物」を出品して内閣総理大臣賞を受けた。同61年日展参与、翌62年日展評議員となる。特許庁を退いた後、毎年個展を開く一方、同46年より56年3月まで名古屋芸術大学教授として後進を指導。また同47年より隔年で『江藤哲デッサン画集』を出版。平成2年には人物、風景、静物、デッサンの4巻からなる『江藤哲画集』を刊行している。人物、風景、静物と幅広い題材を描き、堅持な写実にもとづきながら、モティーフを知的に配置し、面的にとらえる落ちついた画風を示した。 帝展、新文展、日展出品歴第14回帝展(昭和8年)「人物」、第15回「黒衣座像」、文展鑑査展(同11年)「裸婦群像」、第1回新文展(同12年)「二人」、第2回「母子」、第3回「人物」、紀元2600年奉祝展(同15年)「二人」、第1回日展(同21年春)「花と少女」、第2回(同年秋)「花」、第3回(同22年)「画家の像」(特選)、第5回「画家の像」、第6回「夏の子供達」、第7回「雨と子供」、第8回「海浜」、第9回「座像」、第10回(同29年)「座像」、第11回「座像」、第12回「座像」、第1回社団法人日展(同33年)「座像」、第2回「座像」、第3回「座像」、第4回「父子」、第5回「座像」、第6回「夏」、第7回「魚屋」、第8回「屋台店」、第9回「夏」、第10回「朝市」、第11回「夏」、第1回改組日展「初秋」、第2回「野道」、第3回「静物」、第4回「菖蒲花」、第5回「静物」、第6回「静物」、第7回「静物」、第8回「静物」、第9回「小菊のある静物」、第10回(同53年)「室内静物」、第11回「室内静物」、第12回「静物」、第13回「室内静物」、第14回「野菊」、第15回「犬吠埼」、第16回「犬吠埼」、第17回「糸車のある静物」、第18回「がくあじさいの花のある静物」、第19回「犬吠埼風景」、第20回(同63年)「果物のある静物」、第21回「松林」

山田新一

没年月日:1991/09/16

日展参与、光風会名誉会員の洋画家山田新一は、9月16日午後7時10分、肺炎のため京都市の病院で死去した。享年92。明治32(1899)年5月22日、台北市に生まれる。父の任地である甲府、東京、青森、北海道小樽、栃木で幼少年期を過ごし、大正6(1917)年宮崎県都城中学校を卒業。同年川端画学校に入る。同7年東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二に師事し、佐伯祐三と交遊する。同12年東美校を卒業して同校研究科へ入学。同年京城より昭和20(1945)年の第二次世界大戦終戦まで同地に住んだ。この間、朝鮮総督府京城第二高等普通学校常勤講師をつとめ、大正13年第3回朝鮮美術展に「花と裸女」を出品して3等賞受賞。昭和8年同展では昌徳宮賜賞を受け、同11年同展参与となった。また、大正14年「リューシャの像」で第6回帝展に初入選。以後同展に出品を続ける。昭和3年より同5年までフランスに滞在し、アカデミー・グラン・ショーミエールでアマン・ジャンに師事。滞仏中はサロン・ドートンヌに出品した。戦後は京都に住み、日展に出品を続けるとともに、同23年より光風会展にも出品し、同年同会会員に推された。同25年第6回日展に「湖上客船」を出品して同展岡田賞を受け、同35年日展会員、光風会評議員、同52年日展参与となった。一方、京都工芸繊維大学、京都女子大学、関西日仏学館で教授をつとめるとともに、同27年開設のヤマダ洋画研究所で後進を指導した。同59年、宮崎県の記念事業として画業60年展を開催。明るく穏やかな色調で室内の婦人像を描くのを得意とした。 帝展、新文展、日展出品歴第6回帝展(大正14年)「リューシャの像」(初入選)、7回「少女の像」、8回「W博士家族」、11回(昭和5年)「読後」、12回「女とグロキシニヤ」、文展鑑査展(同11年)「江畔」、第2回新文展(同13年)「三角巾を持てるF・Y像」、3回「赤いジレ」、2600年奉祝展「庭に憩ふ」、4回「R嬢像」、5回「樹蔭」、戦時特別展(同19年)「うすれ日の北京」、第3回日展(同22年)「九月の庭」、4回「初秋の庭にて」、5回「初秋の子供達」、6回「湖上客船」(岡田賞)、7回「ヨットと遊ぶ」、8回「ヨットの姉妹」、9回「湖畔小憩」、10回(同29年)「ヨットクラブにて」、11回「庭の前」、12回「湖畔のボートハウスにて」、13回「ヨットのかげ」、第1回社団法人日展(同33年)「湖畔の午後」、2回「山荘晩夏」、3回「窓辺」、4回「夏日」、5回「休息」、6回「うすれ陽の琵琶湖」、7回「曇日の比良」、8回「白いシュミーズのダニエル」、9回「初夏の朝」、10回「椅子の人」、11回「リスボンのジュデイト」、改組第1回日展(同44年)「亜麻色の髪のスジー」、2回「窓辺のエディット」、3回「マキシのMelle Annie」、4回「ドミニック像」、5回「スペインの衣裳」、6回「踊る女」、7回「パンタロンのジャニヌ」、8回「休息するジャニンヌ」、9回「フラメンコ」、10回(同53年)「ソファーの裸婦」、11回「長椅子の裸婦」、12回「新秋の装」、13回「椅子に凭る」、14回「裸婦」、15回「夏の装」、16回「ソファーにもたれるカーレン」、17回「ヴァレリー」、18回「盛夏の装」、19回「秋のおとずれ」、20回(同63年)「惜春(フレデリック)」、21回「赤衣」、22回不出品

中村博直

没年月日:1991/09/09

日展理事、日本彫塑会理事の彫刻家中村博直は、9月9日午後零時2分、肺がんのため東京都国立市の自宅で死去した。享年74。大正5(1916)年9月15日神奈川県愛甲郡に生まれる。昭和12(1937)年3月、沢田政廣に入門して木彫を学び、同21年第1回日展に「春庭」で初入選。以後同展に出品を続け、同24年第5回日展に「立女」を出品して特選。同35年第3回社団法人日展に「立つ少女」を出品して再び特選となり、同39年日展会員となった。同40年日本橋高島屋で初めての個展を開催。同57年第14回改組日展出品作「女性」で同展文部大臣賞を受け、翌58年同展に出品した「静秋」などにより同61年度日本芸術院賞を受賞した。裸婦をモチーフとして季節の趣を表わす作品を得意とし、古典的木彫技法を用いて、西洋的に理想化された人体像を彫りあげた。 日展出品歴第1回日展(昭和21年春)「春庭」、2回(同年秋)「秋日」、3回「潮風」、4回「男」、5回「立女」(特選)、6回「若き女」、7回「希望」、8回「裸女」、9回「女性」、10回(同29年)「裸婦」、11回「女性」、12回「深秋」、13回「初秋」、第1回社団法人日展(同33年)「若い女」、2回「裸婦A」、3回「立つ少女」(特選)、4回「秋冷」、5回「女」、6回「望洋」、7回「深みゆく秋」、8回「滴露」、9回「裸女」、10回(同42年)「静観」、11回「秋流」、第1回改組日展(同44年)「初秋」、2回「壷を持つ女」、3回「炎夢」、4回「若い女」、5回「そよ風」、6回「秋想」、7回「衣をまとう女」、8回「女性」、9回「残暑去り初秋の頃」、10回(同53年)「腰かけた女性」、11回「水辺」、12回「粧い」、13回「パラソルを持つ女」、14回「女性」(文部大臣賞)、15回「静秋」、16回「炎夢」、17回「女」、18回「炎夢」、19回「好日」、20回(同63年)「夢」、21回「清楚」、22回「暖秋」

高橋剛

没年月日:1991/09/05

日展理事、日本彫刻会理事、東京家政大学名誉教授の彫刻家高橋剛は、9月5日午前10時24分、脳出血のため東京都新宿区の病院で死去した。享年70。バレリーナをモチーフとした作品で知られた高橋は、大正10(1921)年8月31日、山形県酒田市に生まれた。本名剛。祖父は宮彫り師、父は日本美術院所属の仏教彫刻家。父に師事して木彫を始め、昭和15年上京。翌16年東京美術学校彫刻科に入学。関野聖雲に師事して同21年同科を卒業する。同22年第3回日展に「夏に立つ」で初入選。同24年より北村西望に師事する。同29年第10回日展に「バレリーナ」を出品した後、このモチーフを中心に追い求め、同31年第12回日展では「踊り子」で特選、翌32年第13回同展では「バレー・ダンサー」で,翌33年第1回社団法人日展では「振付」で3年連続特選を受賞。同35年同会会員となった。同56年改組第13回日展に異色のモチーフをとらえた「房総の女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同61年には前年の第17回改組日展出品作「稽古場の踊り子」で日本芸術院賞恩賜賞を受けた。同62年日本彫刻会理事、委員長に就任。昭和30年代中頃まで木彫を中心に制作したが、のち塑像に転向し、鍛えぬかれたバレリーナの肉体をモチーフに、そこに宿る清新な精神の表出を試みた。同37年より東京家政大学で教鞭をとり同62年同大名誉教授となったほか、同60年より金沢美術工芸大学でも非常勤講師として後進を指導。同63年大阪心斎橋大丸で個展を開いている。 日展出品歴第3回(昭和22年)「夏に立つ」、4回「希望」、8回「水着」、10回(同29年)「バレリーナ」、11回「ハーブを持つバレリーナ」、12回「踊り子」(特選)、13回「バレー・ダンサー」(特選)、社団法人日展第1回(同33年)「振付」(特選)、2回「清光」、3回「立った女」、4回「バレエの女」、5回「踊子抄」、6回「朝の踊り子」、7回「渚」、8回「やすらぎの像」、9回「石を擲つ若者(ヨハネ伝)」、10回(同42年)「バレリーナ’67」、11回「踊り子’68」、改組第1回(同44年)「爪立てた踊り子」、2回「バレエの女」、3回「バレエ・ダンサー」、4回「朝」、5回「レッスン」、6回「鳥と遊ぶ」、7回「踊り子’75」、8回「鏡前に立つ踊り子」、9回「浴」、10回(同53年)「潮」、11回「静なるプリマ」、12回「庄内浜」、13回「房総の女」(内閣総理大臣賞)、14回「踊り子の朝」、15回「髪を持つ」、16回「輝くプリマ」、17回「稽古場の踊り子」、18回「クラシックバレエの女」、19回「開演前(瞑想する踊り子)」、20回(同63年)「磯」、21回(平成元年)「花の精」、22回「腰かけた女」

浦崎永錫

没年月日:1991/08/29

大潮会会長の洋画家で『日本近代美術発達史』の著者としても知られた浦崎永錫は、8月29日午前2時25分、老人性肺炎のため東京都板橋区の病院で死去した。享年91。明治33(1900)年沖縄の那覇に生まれる。大正10(1921)年に上京し川端画学校に入学。藤島武二に師事して洋画を学ぶ一方、検定で小学校教員免許を取得。夜間工業学校の図画教師となり、自由画、用器画、高等図学などを教授。美術関係文献の調査、収集にも興味を持ち、昭和5(1930)年、教師をやめて雑誌「美術界」を刊行。同時に明治期の資料調査にあたった。同10年、美術教育者たちの作品発表の場として大東会を設立。その存続を望む声にこたえて同会を発展解消させて翌八年大潮会を結成。写実に立脚した作品を健康な美術であるとして、それを美術教育者たちの求めるべき美術として提唱し、その発表の場を提供することを活動として唱った。戦後も同会を率い、のち同会会長に就任。同会に作品を発表する一方、明治期の美術に関する詳細な資料にもとづき、昭和49年『日本近代美術発達史・明治篇』(東京美術)を刊行。資料収集の綿密さが高く評価されている。

山内豊喜

没年月日:1991/08/25

読み:やまのうちとよき  もと自由美術家協会会員の洋画家山内豊喜は、8月25日午後10時42分、肺がんのため東京都中野区の病院で死去した。享年80。明治44(1911)年8月7日、茨城県真壁郡に生まれる。昭和7(1932)年、川端画学校を修了。日本美術学校に進むが同9年に中退する。同17年第4回美術文化展に「北鮮の漁場」で初入選しその後も同展に出品。同20年同会会友となったが、同23年に退会。翌24年、第13回自由美術展に「風景」2点で初入選し、以後同会に出品を続ける。同26年同会会員となり、同29年、コングレス・カルチュアル・フリーダムの招聘により渡仏してグラン・ショーミエールに学んだ。同40年、アジア財団の支援により再渡仏。同年自由美術家協会を退会し、以後、東京、パリ双方を拠点に活動した。風景画を多く描き、同55年及び56年に東京、愛宕山画廊で個展を開いたほか、各地で個展を中心に作品を発表した。国内にとどまらず日本文化フォーラム主催国際青年美術家展運営委員をつとめるなど、国際的な場を後進にも開いた。

中村節也

没年月日:1991/08/20

独立美術協会会員の洋画家中村節也は8月20日午後5時2分、じん不全のため、群馬県高崎市の第一病院で死去した。享年85。明治38(1905)年11月3日、群馬県邑楽郡に生まれる。大正13(1924)年前橋中学校を卒業して東京美術学校に入学。在学中の昭和2(1927)年第14回二科展に「読書」で初入選。1930年協会にも参加し、同4年「裸婦と鳥篭」「婦人像」「裸体」を出品して1930年協会賞、翌年同会奨励賞受賞。同4年東美校を卒業。同7年独立美術協会展に「女絵師」「五九郎獅子(対立)」「百姓」を初出品して海南賞を受け、翌8年第3回同展に「肖像」「山」「画室」「母子閑日」を出品して独立賞受賞、同11年同会会員となる。同34年米国ロシクルーシャン美術館及びクロッカー美術館で個展を開催。同36年サンフランシスコ市のJ・A・C(ジャパニーズ・アートセンター)の招聘により渡米し油彩画を指導。同39年第32回独立展に「神樹」「アリゾナ」を出品してG氏賞を受けた。同49年インド、スリランカに取材旅行し、その翌年、昭和元年から50年までの画業を追う回顧展を東京の日動サロンで開催した。同51年、中近東、西欧に渡り、その後もエジプト、メキシコ、東南アジア諸国を訪れて遺跡シリーズを描いた。物の形を正しくとらえる以上に色彩の効果に意を用い、明快な緑、青などを多用して、作家自身の心に映ずる対象の姿を再構成した作風を示した。晩年は群馬県美術会名誉会長を務めた。

浅野清

没年月日:1991/08/19

法隆寺昭和大修理に参加したことで知られ、元興寺文化財研究所長をつとめた建築学者浅野清は、8月19日午前10時55分、多臓器不全のため、愛知県瀬戸市陶生病院で死去した。享年86。明治38(1905)年、名古屋市に生まれ、大正15(1926)年名古屋高等工業学校建築科を卒業。昭和9(1934)年、法隆寺国宝保存工事事務所技手となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。同20年、同事務所所長、同23年国立博物館奈良分館勤務となり、同27年より奈良学芸大学助教授と奈良国立文化財研究所研究員を併任した。同28年奈良学芸大学教授、同31年大阪市立大学教授、同43年大阪工業大学教授、同48年愛知工業大学教授として、古建築の復原調査・研究を後進に指導。同57年元興寺文化財研究所所長兼副理事長、平成2(1990)年同理事長兼所長となった。この間、昭和26年に「上代建築の復原的研究」で日本建築学会賞受賞、同27年「奈良時代を中心とする日本建築遺構の復原的研究」で京都大学より工学博士の学位を受ける。また、同60年には「建築遺構ならびに遺跡にたいする実証的研究方法の確立と復原研究による日本建築史学および関連史学への貢献」で日本建築学会大賞を受賞。社寺建築のみならず、民家研究でも知られ、著書に『奈良時代建築の研究』(中央公論美術出版、昭和44年)、『法隆寺の建築』(同、同59年)、『大阪府の民家』1~3(大阪府文化財調査報告、大阪府教育委員会)などがある。その業績、著作については「建築史学」18号(平成2年3月)、『浅野清著作目録作品集』(近畿大学理工学部建築学科建築史研究室・愛知工業大学建築学科建築意匠研究室編 昭和60年)、『協会通信 特集号 浅野先生を偲ぶ』(財団法人文化財建造物保存技術協会 平成3年10月)に詳しい。

遠藤典太

没年月日:1991/08/08

春陽会会員の洋画家遠藤典太は8月8日午前2時10分、心不全のため横浜市中区の横浜市立港湾病院で死去した。享年88。明治36(1903)年1月10日福岡県大牟田市に生まれる。三井三池工業学校応用化学科に学ぶが大正7(1918)年2年次で退学。三井鉱山会社三池事務所に勤め、同13年画家を志して上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事。同15年第4回春陽会展に東京大学構内の三四郎池を描いた「池」で初入選。以後同会に出品し、また、昭和4(1929)年春陽会研究所が設立されるとここに学び、小杉放菴、山本鼎、森田恒友、石井鶴三、中川一政らの指導を受けた。同6年第9回春陽会展で春陽会賞受賞。同9年同会会友となり、戦後の同22年同会会員に推挙された。同52年第54回春陽会展に「栢槙」を出品して第54回展賞を受賞。風景画を得意とし、身近な題材をとらえ、鮮やかな色を激しい筆触で用いてその筆触によって画面に動きを生み出す画風を示した。 春陽会展出品略歴第4回(大正15年)「池」(初入選)、5回(昭和2年)不出品、10回(同7年)「子供の顔」「三池風景」「天草風景(二)」「天草風景(一)」、15回(同12年)「雨後」「池畔」「山ふところ」、20回(同17年)「シクラメン」「磯辺」「山家」、30回(同28年)「教会堂」「街角の家」「港」、35回(同33年)「運河の舟」「運河」「山手の破家」、40回(同38年)「古いバラック」「木立」、45回(同43年)「神ノ木台部落」「神ノ木台風景」、50回(同48年)「丘の部落(2)」「丘の部落(1)」、55回(同53年)「栢槙」、60回(同58年)「さるすべりの木」、65回(同63年)「諸磯風景(その二)」

吉田光邦

没年月日:1991/07/30

京都大学名誉教授で京都府京都文化博物館長であった東洋科学技術史家吉田光邦は、7月30日午前1時33分、急性心不全のため、京都市左京区の京都大学医学部付属病院で死去した。享年70。大正10(1921)年5月1日、愛知県西春日井郡に生まれる。愛知一中、第八高等学校を経て、京都大学理学部に入学。昭和20(1945)年、同大理学部宇宙物理学科を卒業し、龍谷大学予科教授となる。同21年、東方文化研究所嘱託となり、同24年京都大学人文科学研究所に助手として入所。同33年同所講師、同35年同助教授、同52年同教授となった。この間、同31年京大学生イラン調査隊長として海外調査し、同34年、39年には京大イラン、アフガニスタン、パキスタン学術調査隊に隊員として参加。東南アジア諸民族の物質文化を調査した。人の技術として産業、芸術をとらえ、同30年『日本科学史』、同35年『砂の十字路』、同38年『錬金術』、同41年『やきもの-技術・生活・美学』、同45年『明清時代の科学技術史』(藪内清と共著)、同47年『中国科学技術史論集』などを刊行。同44年に京都大学より文学博士号を受けた。同40年後半から19世紀の日本を研究対象とするようになり、同53年京都人文科学研究所共同研究班「一九世紀日本の情報と社会変動」を主宰。特に万国博覧会を19世紀の特色ある事象ととらえ、同60年『万国博覧会』、同61『万国博覧会の研究』を刊行した。同59年京都大学人文科学研究所所長に就任。また、同年日本産業技術史学会を設立して同学会会長となった。同61年京都大学を退官し同大名誉教授の称号を受ける。平成2年京都府京都文化博物館長、同3年京都造形大学教授に就任。朝日陶芸展審査員のほか、京都府文化財保護審議会委員、文化庁文化財保護審議会専門委員、国立歴史民俗博物館評議員などもつとめた。著作には、他に『吉田光邦評論集1~3』(昭和59年)、『日本と中国-技術と近代化』などがある。

田中稔

没年月日:1991/07/30

国立歴史民俗博物館情報資料部長の田中稔は7月30日午後7時、肺がんのため東京都港区の病院で死去した。享年63。昭和3(1928)年2月18日、愛知県知多郡に生まれる。同27年3月、東京大学文学部国史学科を卒業。同年文化財保護委員会事務局美術工芸課に勤務し、同28年7月、奈良国立文化財研究所歴史研究室へと転じた。同39年4月平城宮跡発掘調査部史料調査室長となり、同52年埋蔵文化財センター長に就任した。同56年国立歴史民俗博物館設立準備室に加わり、運営協議員をつとめ、平成元(1989)年からは運営協議会会長となった。また、たびたび館長事務を代行し、昭和58年3月から4月同館開館前後には井上光貞初代館長の急逝により実質上の副館長として館の運営を指導した。同館開館とともに歴史研究部教授となり、同59年7月情報資料研究部教授となって情報資料研究部長を併任した。同館の展示には準備段階から参企し、展示計画の中心にあり、特に「王朝文化」「印刷文化」の常設展示はその構成になる。橘女子大学、東京女子大学、早稲田大学、法政大学で講師を歴任し平成2年11月から嵯峨美術短期大学でも教鞭をとった。

豊口克平

没年月日:1991/07/18

日本の工業デザイン界の重鎮、豊口克平は、7月18日午後3時48分、肺性心のため神奈川県鎌倉市の清川病院で死去した。享年85。明治38(1905)年11月16日、秋田県に生まれ、同県立秋田工業学校を卒業して大正14(1925)年に東京高等工芸学校工芸図案科に入学。昭和3(1928)年に同校を卒業。同4年、研究団体形而工房を結成。同8年、商工省(現通産省)産業工芸試験所に入り、輪出工芸品や家具のデザインに新機軸を打ち出し、同34年に退職するまで工業デザイン界の近代化に貢献した。その後、同34年より武蔵野美術大学教授として教鞭をとったほか、同35年、豊口デザイン研究所を設立。35年第1回モスクワ日本産業見本市会場デザイン、36年より41年まで日本巡航見本市船さくら丸展示設計、44年大阪万国博覧会協会ディスプレイデザイン顧問などを担当。また、同29年より48年まで日本インダストリアルデザイナー協会理事、同33年より日本インテリアデザイナー協会理事となり、それらの理事長を歴任。同49年、双方の名誉理事となった。同52年、武蔵野美術大学名誉教授となり、平成2(1990)年には通産省デザイン功労賞の第1回受賞者に選ばれた。著書に『標準家具』『デザイン戦術』などがある。

瀬戸團治

没年月日:1991/07/01

日展参与の彫刻家瀬戸團治は7月1日午後5時45分、心不全のため長野県岡谷市の病院で死去した。享年85。明治38(1905)年9月13日、長野県辰野町に生まれる。大正11(1922)年同県上伊那郡伊北農商学校農科を卒業。同13年上京して鶴田吾郎に洋画を学び、翌年曽宮一念に学ぶ。昭和2(1927)年頃より太平洋画会研究所に入り、中村不折、中村彝、中川紀元らに師事。同4年郷里に帰り小学校教員となり、以後11年間在職する。この間の同8年、構造社の斎藤素巌に彫刻を学び、翌年構造社展に初入選、以後出品を続ける。また、同11年文展鑑査展に「女の首」で初入選。13年第2回新文展にも「K子胸像」で入選。同19年帰郷し、農業を営みながら制作を続ける。戦後も日展に出品を続け、同25年第6回日展出品作「たか子さん」、翌26年第7回同展出品作「静姿」で2年連続特選受賞。同33年日展会員となり、同57年同参与となった。人物像、肖像を得意とし、写実を重視した堅実な作風を示した。動きの少ない静的なポーズを好み、モデルの存在への敬意を漂わせる。 新文展、日展出品歴昭和11年鑑査展「女の首」、第2回新文展(同13年)「K子胸像」、4回「立女」、5回「立つ」、6回「男」、日展第1回(同21年春)「裸婦」、2回「男の胸像」、3回「裸婦座像」、4回「裸婦」、5回「女の首」、6回「たか子さん」(特選)、7回「静姿」(特選、朝倉賞)、8回「信濃の娘」、9回「五三年夏の作」、10回(同29年)「静立」、11回「立女」、12回「直立」、13回「立女」、社団法人日展第1回(同33年)「黒塚(市川猿之助氏)」、2回「山によせて」、3回「坦路」、4回「立像」、5回「月光」、6回「静」、7回「静立」、8回「静夜」、9回「香」、10回「裸の塔」、11回「三面」、改組第1回(同44年)「裸像」、2回「一九七〇年作」、3回「裸身仏心」、4回「二柤一如」、5回「龍膽」、6回「静寂」、7回「晨」、8回「如人」、9回「土器を持つ」、10回(同53年)「寂」、11回「山びこ」、12回「首」、13回「女の首」、14回「男の首・D」、15回「画人N先生」、16回から21回(平成1年)不出品

土本悠子

没年月日:1991/06/25

人形劇団『ピッコロ』に所属し、舞台美術、人形の制作を担当した土本悠子は、6月25日午後11時42分、がん性腹膜炎のため東京都板橋区の東京都老人医療センターで死去した。享年58。昭和7(1932)年9月30日、神奈川県国府津に、映画脚本家山崎謙太の長女として生まれる。都立神代女子高校を経て、同31年、早稲田大学文学部史学科を卒業。同大入学とともに八田演劇研究所研究生となり、同37年頃より人形劇団『ピッコロ』に所属して人形つかいと人形制作に従事。人形劇団『プーク』の主宰者川尻泰司に師事、同45年より50年代を通じて人形作家として活躍した。代表作に同58年NHKに連続人形劇『ひげよさらば』の人形がある。

菅野矢一

没年月日:1991/06/15

読み:すがのやいち  日本芸術院会員の洋画家菅野矢一は、6月15日午後零時12分、間質性肺炎のため東京都大田区の中島病院で死去した。享年84。明治40(1907)年1月19日、山形市に生まれる。本名彌一。山形商業学校を中退し、小学校代用教員、会社員を経て、画家を志して上京。川端絵画研究所に学び、昭和11(1936)年文展鑑査展に「黒牛」で初入選。同14年より安井曽太郎に師事する。翌15年第5回一水会展に初入選。以後同展に出品を続ける。戦後の同21年同展会員となる。同28年渡欧し、パリのグラン・ショーミエールに学び、ゴエルグ、クラヴェに師事して翌29年帰国。同年第16回一水会展に「赤いコート」など滞欧作を出品して同会会員優賞受賞。同30年第11回日展に「裸婦」を出品して特選、同35年第3回新日展に「海のみえる丘」を出品して再び特選となる。また、同37年第5回日展に「岬の夕」を出品して同展菊華賞を受け、同41年日展会員となった。同46年北極圏に取材旅行。同54年にはスペインへ赴き、同年第11回改組日展に「白い太陽」を出品して同展文部大臣賞受賞。同55年中国雲南省奥地を訪れる。同56年第13回改組日展への出品作「くるゝ蔵王」により同年度日本芸術院賞を受け、同61年日本芸術院会員となった。初期には人物画も描いたが、後に風景画を中心に制作するようになり、海や山など広大な自然を明快な色面でとらえた清新な画風を示した。晩年は「奥の細道」シリーズを手がけ、同60年及び平成元年に日本橋三越での個展で発表している。 日展出品歴第1回(昭和21年春)「雪国」、2回(同年秋)「M子立つ」、4回(同23年)「雨の町」、6回(同25年)「婦人像」、7回「婦人像」、11回(同30年)「裸婦」(特選)、12回「赤いブラウス」、13回「冬山」、社団法人日展第1回(同33年)「夏山」、2回「山脈秋意」、3回「海のみへる丘」(特選)、4回「北国にて」、5回「岬の夕」(菊華賞)、6回「富士」、7回「雲と富士」、8回「樽前の野にて」、9回「教会の丘」、10回「蔵王残照」、11回(同43年)「大雪山」、改組第1回(同44年)「男鹿にて」、2回「石狩の野」、3回「白夜」、4回「蒼い岬」、5回「眺望」、6回「松島」、7回「平原にて」、8回「陽は昇る」、9回「陽はまた昇る」、10回(同53年)「平原」、11回「白い太陽」、12回「霧の岬」、13回「くるゝ蔵王」、14回「濕原にて」、15回「蔵王」、16回「雷鳴の浜」、17回「島の夕」、18回「月と山と」、19回「平原」、20回(同63年)「霧の峰」、21回「山峡の灯」

岡崎勇次

没年月日:1991/05/30

日展および光風会の会員で広島修道大学教授をつとめた洋画家岡崎勇次は5月30日午後8時11分、肝不全のため広島市中区の病院で死去した。享年66。大正13(1924)年9月25日、広島県因島市に生まれる。昭和19年9月、大阪青年師範学校を卒業。同26年第7回日展に「波止場付近」で初入選後、同展に出品を続けたほか光風会展にも出品し、同30年第41回光風会展では「帰船」「やぐら船」でA氏賞、翌31年第42回同展では「赤い船A」「赤い船B」で光風特賞を受け、同年同会会友、同35年同会会員となった。また、同34年第2回新日展では「白い船」で特選受賞。同35年渡仏し、パリのグラン・ショーミエールに通うなどして1年間滞在する。海の風景に多く題材をとり、白を基調色として少ない色数で画面をまとめる。対象の形を明瞭にあらわさず、色面で処理する画風を示す。著作もよくし、著書に『色彩の造形美学』『黒から白へ 生命をみつめる岡崎勇次』がある。同58年中京新聞社・因島市の主催で「岡崎勇次」展が開かれた。

山崎隆夫

没年月日:1991/05/25

国画会会員の洋画家山崎隆夫は、5月25日午後9時50分、心不全のため、神奈川県藤沢市の病院で死去した。享年85。明治38(1905)年7月13日、大阪市東区に生まれる。昭和5(1930)年神戸大学経済学部を卒業。三和銀行に勤務する一方、小出楢重、林重義に洋画を学び、同7年第2回独立展に「新聞紙の擴がれる卓上」で初入選。同会には同12年第7回展まで出品し、翌13年には国画会展に「住吉川風景」「西洋蘭」「花と影の静物」「静物」「海の見える風景」で初入選し国画奨学賞を受賞。翌14年の同展には「千日紅」「梅花」「三輪車、提灯」「庭」を出品して二年連続して国画奨学賞を受け、同15年同会同人となる。また、官展にも出品し、同13年第2回新文展に「阪神水害地風景」で初入選。第6回展まで連年同展に出品した。戦後は国画会展を中心に発表。同30年前後から画風は著しく再現的写実を離れて抽象化したが、晩年は具象画の中で、対象を幾何学的形態と純化した色彩でとらえる画風へと展開した。

富岡益太郎

没年月日:1991/05/20

明治期の日本画家富岡鉄斎の孫で、鉄斎美術館の初代館長をつとめた富岡益太郎は、5月20日午後2時25分、肺炎のため、京都市北区の自宅で死去した。享年83。明治40(1907)年9月17日、京都市上京区に生まれる。健康上の理由から中学校を中退し、源豊宗、梅原末治に美術史を、本田陰軒に漢文を学ぶ。昭和2(1927)年より同8年まで源豊宗らと共に仏教美術の雑誌を刊行。鉄斎研究家として知られ、昭和50年に兵庫県宝塚市に設立された鉄斎美術館の初代館長として、同61年まで在職した。

清宮質文

没年月日:1991/05/11

読み:せいみやなおぶみ  詩的な心象世界を版画で謳う元春陽会会員の版画家清宮質文は、5月11日午後4時54分、心筋こうそくのため東京都杉並区の山中病院で死去した。享年73。大正6(1917)年6月26日、洋画家清宮彬の長男として、東京府豊多摩郡に生まれる。四谷区第五小学校を経て、昭和10(1935)年麻布中学校を卒業。同年夏、同舟舎絵画研究所に入り、駒井哲郎と出会う。同12年東京美術学校油画科に入学。藤島武二に師事し、四年からは田辺至教室に学んで、同17年3月同校を卒業。在学中、版画教室で銅版画を試みる。東美校卒業の年の6月、長野県上田中学校の美術教師となるが翌年3月辞任。同年9月に上京し、翌19年慶応義塾工業学校の美術教師となる。同年応召。同20年慶応義塾工業学校に復職し、同24年に同校を辞して商業デザインに従事。同26年より27年まで商業デザイン会社に勤務するが、同28年8月、東美校の同級生による「ゲフ(䲜)の会」の結成に参加し、これをきっかけに制作に専念するとともに、木版画を始める。同29年第31回春陽会展に「巫女」で初入選。以後同展に出品を続け、同31年同会準会員、同32年同会会員となった。同33年11月、東京のサヱグサ画廊で初個展開催。同35年12月、東京の南天子画廊で個展を開いて以降、同画廊を作品発表の場とする。同37年第3回東京国際版画ビエンナーレ展に「枯葉」「蝶(ある空間)」を招待出品。同48年第10回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに木版画10点よりなる画集「暗い夕日」を出品。同49年第51回春陽会展に「告別」を出品したのを最後に同会へは出品せず、同52年同会を退会して無所属となる。同61年南天子画廊より『清宮質文作品集』(現代版画工房編)を刊行。版画の可能性を複製性よりも造形的特色に認めてモノタイプを中心に制作し、深い思索を背景に、静謐で詩的な独自の画風を示した。没後の平成3年7月、南天子画廊で追悼展が行なわれている。なお、年譜は『日本現代版画 清宮質文』(玲風書房 平成4年12月)に詳しい。

末永雅雄

没年月日:1991/05/07

高松塚古墳の発掘を指導するなど、日本の考古学界に多大な貢献をした文化勲章受章者、橿原考古学研究所初代所長の末永雅雄は、5月7日午後2時30分、心不全のため大阪府大阪狭山市の自宅で死去した。享年93。明治30(1898)年6月23日、大阪府大阪狭山市に生まれる。小学校を卒業後、水戸学の系統をひく史学を学び、のち考古学と有職故実の個人指導を受けた。大正15(1926)年より京都帝国大学文学部考古学教室で「日本考古学の父」とされる浜田耕作の指導を受け、昭和9(1934)年『日本上代の甲冑』を上梓して同11年に帝国学士院東宮御成婚記念賞受賞。同著と同16年刊行の『日本上代の武器』により、東アジア文化史の視点に立ち、出土品の実証的研究にもとづく独自の方法論を確立した。一方、奈良県の嘱託として石舞台古墳、橿原遺跡などの調査に当たり、同13年橿原考古学研究所を設立。自由な私塾的雰囲気の中で多くの優れた研究者を育て、同26年より同所所長をつとめた。また、後進を率いて桜井茶臼山古墳、和泉黄金塚、新沢千塚古墳群などを調査し、同47年高松塚古墳の発掘を指導したことで広く知られた。また、同25年より関西大学で教鞭をとり、同27年より同43年まで同大教授をつとめ、同大名誉教授となったほか、大谷大学、龍谷大学、大阪市立大学、大阪学芸大学、大阪経済大学などでも教鞭をとった。同55年文化功労者に選ばれたのを機会にすべての役職から退いたが、その後も『古墳の航空写真集』を自費出版するなど、その実証的方法論にもとづく研究、著作をつづけ、同63年、考古学界で初めての文化勲章受章者となった。

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