本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





大智勝観

没年月日:1958/08/08

日本美術院同人大智勝観(本名恒一)は、数年来高血圧症で病臥中のところ、8月8目杉並区の自宅において、脳軟化症のため逝去した。勝観は明治15年1月1日愛媛県今治市に生れ、同35年東京美術学校日本画科を卒業、当時の1年志願兵として兵役に入り、歩兵少尉として日露戦役に従軍した。大正2年第7回文展に「雨の後」を出品し、3等賞を受領、翌大正3年には日本美術院再興第1回展に「聴幽」を出品し、そのカを認められて同人となつた。以後没するまで連年日本美術院に力作を発表し、長老格として重きをなし、また戦後は日展にも作品を送り参事をつとめた。なお昭和5年には伊太利において開催された日本画展覧会に参加する横山大観、平福百穂、松岡映丘、遠水御舟らの一行に加わり欧州を半年程漫遊し、この時の大観と共著の「渡伊スケッチ集」(昭和5年朝日新聞社発行)がある。作品は風景を主とし初期の頃は、大正期一般の風潮を反映した光をとり入れた自由な描法になる力作が多いが、次第に淡雅な様式化を帯びて、晩年に至つては更に緊密端正な傾向がみられる。略年譜明治15年 1月1日愛媛県今治市に生る明治35年 東京美術学校日本画科卒業明治37年 頃日露戦役従軍大正2年 第7回文展「雨の後」、3等賞大正3年 日本美術院同人、第1回院展「聴幽」大正4年 第2回院展「山色四趣」其1~其4大正5年 第3回院展「蛇ケ池」大正6年 第4回院展「桃の島」「わだつみの宮」大正7年 第5回院展「うしほ時」大正8年 第6回院展「秦准の夕」大正9年 第7回院展「夕に映ゆる山路」大正10年 第8回院展「雨に暮るる瀬戸」大正11年 第9回院展「幽窓」2月米国展国内展示会展「秋暮」「夕凪」大正12年 第10回院展「雨季四題」1白映、2夕映、3早映大正13年 第11回院展「盲来人」「閑庭」大正14年 第12回院展「人形の死」大正15年 第13回院展「窓外四題」(1良脊、2落雷、3晩秋、4雪夜)昭和3年 第15回院展「諦聴」昭和4年 第16回院展「梅雨あけ」昭和5年 8月朝日新聞杜より大観共著で「渡伊スケッチ集」出版昭和6年 第18回院展「惜春」昭和7年 第19回院展「一陽来復」昭和8年 第20回院展「爽涼」昭和9年 第21回院展「夕月」昭和11年 第23回院展「夕凪」「雪晨」昭和13年 第25回院展「縁蔭」昭和14年 第26回院展「立夏」昭和15年 第27回院展「皐月頃」昭和16年 第28回院展「暗香」昭和17年 第29回院展「小松の丘」昭和18年 第30回院展「乗鞍」「穂高」昭和22年 第32回院展「連山雨後」昭和23年 第33回院展「雪後」昭和24年 第34回院展「秋雨」昭和25年 第35回降展「爽涼」昭和27年 第37回院展「庭前宿雪」昭和28年 第38回院展「峠路」

藤懸静也

没年月日:1958/08/05

文化財専門審議会々長、国華社主幹、明治大学教授、文学博士藤懸静也は、8月5日前立腺肥大症のため東京逓信病院で逝去した。享年77歳。明治14年2月25日茨城県古河に生れた。第一高等学校を経て同43年東京帝国大学文科大学史学科国史科を卒業し、直ちに大学院に入つて日本美術史を専攻した。大正3年以来同大学文学部の副手をつとめるかたわら「国華」の編集をたすけた。また女子美術学校、日本大学の講師、国学院大学教授、帝室博物館学芸委員などを勤めた。昭和2年から翌年にわたり海外における日本美術史の資料調査、各国博物館の調査のため欧米を巡歴した。帰国後文部技師に任ぜられ、国宝鑑査官、国宝保存会幹事、同委員、重要美術品等調査委員会委員として国宝等の保存行政につくした。昭和9年東京帝国大学教授に任ぜられ、同16年定年で退官するまで後進の指導にあたつた。この間、昭和9年に文学榑士の学位を受けた。昭和20年瀧精一博士の後を継いで国華社主幹となり、「国華」編集の中心となつた。戦後、文化財専門審議会の設置と共に専門委員となり、晩年にはその会長をつとめた。また東京国立博物館評議員であつた。浮世絵版画を歴史的に系統づけた功績は大きく、多くの著書や論文がある。略年譜明治14年 2月25日茨城県古河に生る明治43年 東京帝国大学文科大学史学科国史科卒業、大学院入学。明治45年 女子美術学校講師を嘱託せらる大正3年 東京帝国大学文学部副手を命ぜらる(東京帝国大学)大正6年 国学院大学教授を命ぜらる大正11年 日本大学講師を嘱託せらる大正13年 願に依り東京帝国大学文学部嘱託を解かる(東京帝国大学)美術史に関する事項調査を嘱託さる(同前)史料編纂業務を嘱託さる(同前)昭和2年 帝室博物館学芸委員を被仰付(宮内省)。東京帝室博物館勤務を命ぜらる(同前)欧米諸国に於ける日本美術史に関する資料調査を嘱託さる(東京帝国大学)。欧米各国博物館調査を嘱託さる(帝室博物館)4月2日欧米へ向け出発昭和3年 3月29日帰国。6月文部技師に任ぜらる(総理大臣)。宗教局勤務を命ぜらる(内閣)昭和4年 国宝保存会幹事被仰付(内閣)昭和5年 国宝保存会幹事被免(内閣)国宝保存会委員被仰付(同前)依願免本官(内閣)。国宝保存会委員被仰付(同前)昭和7年 御物調査委員会臨時委員を命ぜらる(宮内省)昭和8年 重要美術品等調査委員会委員を依嘱さる(文部省)昭和9年 任東京帝国大学教授、叙高等官3等(内閣)文学部美学美術史第2講座担任を命ず(文部省)。文学博士の学位を授けらる(東京帝国大学)昭和15年 日本諸学振興委員会昭和14年度芸術学部臨時委員を嘱託さる(文部省)美術振興調査会委員被仰付(内閣)昭和16年 依願免本官、陞叙高等官1等(内閣)昭和20年 国華杜主幹となる昭和25年 文化財専門審議会専門委員を委嘱さる(文化財保護委員会)昭和27年 文化財専門審議会専門委員を委嘱され、第1及び第2分科会所属を命ぜらる(同前)昭和29年 文化財専門審議会尊門委員を委嘱され、第1及び第4分科会所属を命ぜらる(同前)昭和32年 文化財専門審議会尊門委員を委嘱され、第1及び第4分科会所属を命ぜらる(同前)昭和33年 8月5日逝去。8月8日青山葬儀所で告別式を行う主要著書目録浮世絵大家画集 大正4年 浮世絵研究会浮世絵 大正13年 雄山閣浮世絵の研究 昭和19年 雄山閣増訂浮世絵 昭和21年 雄山閣日本美術図説〔監修〕 昭和25年 朝日新聞社浮世絵(アルス・グラフ) 昭和27年 アルスJapanese wood-block prints 昭和25年 日本交通公社

金原省吾

没年月日:1958/08/02

文学博士金原省吾は、8月2日脳出血のため武蔵野市の自宅で逝去Lた。享年68歳。明治21年9月1日長野県諏訪郡の河西家に生れた。同43年長野県師範学校を卒業し、45年9月長野県北安曇郡の金原家の婿養子となつた。この年10月上京して翌大正2年早稲田大学予科に入学した。大正6年早稲田大学文学部哲学科を卒業、更に二カ年研究科に在籍して東洋美学及東洋美術史の研究を深め、その後は日本橋区第二実業補導学校、また日本美術学校講師をつとめていた。この頃から著述生活に入り大正13年「支那上代画論研究」「東洋画論」などを発行している。昭和4年帝国美術学校教授並びに教務主任となり、16年から18年迄、年1回約1カ月、満州国立建国大学教授として渡満している。24年新潟大学教授となり、30年文学博士の学位をうけた。更に31年東横女子短大講師、東京学芸大学講師を兼ね、武蔵野美術学校にも関係していた。東洋美術に関する著書多く、「支那上代画論研究」(大正13年岩波書店)、「東洋画概論」(大正13年古今書院)、「絵画に於ける線の研究」(昭和2年古今書廃)、「東洋美論」(昭和4年春秋杜)、「東洋美術論叢」(昭和9年古今書院)、「表現の問題」(昭和12年古今書院)、「支那絵画史」(昭和13年古今書院)、「日本美術論」(昭和14年河出書房)、「日本芸術の課題」(昭和15年河出書房)、「東洋美術論」(昭和17年講談杜)など50余冊に及んでいる。

藤井浩佑

没年月日:1958/07/15

彫塑家、日本芸術院会員藤井浩佑は7月15日午前5時40分急性スイ臓炎のため熱海市の自宅で逝去した。享年75歳。本名は浩佑(ひろすけ)。明治15年11月29日東京神田に生れ、父祐敬は九条家出入りの唐木細工師であつた。はじめ不同舎へ通い、満谷国四郎に師事してデッサンを学び、第四中学を経て明治40年東京美術学校彫刻本科を卒業した。同年第1回文展に「狩」を出品して以来、第9回文展にいたるまで出品をつづけた。その間第4回文展出品の「髪洗」は褒状を受けて出世作となり、コンスタンタン・ムニエの影響の濃い「トロを待つ坑婦」(第8回文展3等賞)など初期の代表作がある。大正5年9月日本美術院同人に推薦された。昭和11年日本美術院を退き、同年帝国美術院会員、翌年帝国芸術院会員となり、その後官展に作品を発表し、戦後も日展に参加し、斯界の長老として重きをなした。日展では同展運営会理事、逝去後の秋開かれる新日展では顧問ということになつていた。没後勲三等に叙せられ瑞宝章を贈られた。「梳髪」や「浴女」など、日本風裸女の普遍的な姿態を、情趣深く表現するのに長じた独特な作風を示した。作品には諸展覧会発表作の他、彼としてはめずらしいものに、孫娘を妻としたのが縁で作つたアンパンの元祖、木村安兵衛夫婦の座像(鋳鍋・大正7年11月除幕、東京浅草田中町東禅寺境内)がある。作品略年譜明治40年 第1回文展「狩」明治41年 第2回文展「まぼろし」明治42年 第3回文展「秀ちやん」「疲労」明治43年 第4回文展「疲れたるモデル」「ものおもふ女」「髪洗」(褒状)明治44年 第5回文展「石割」「伏したる肉」「鏡の前」(3等賞)大正元年 第6回文展「海」「帰る坑夫」「潭」(3等賞)大正2年 第7回文展「女」「若者」「坑内の女」(3等賞)大正3年 第8回文展「婦」「トロを待つ坑婦」(3等賞)大正4年 第9回文展「早朝の霊拝」「或女の顔」「髪」大正5年 第3回院展「白眼」「髪梳く女」「若き少女の顔」大正6年 第4回院展「鋳像の色つけ」大正7年 第5回院展「海の女」「かぢめ運ぶ女」「合せ鏡」大正8年 第6回院展「湯のあと」「裸1・2・3」大正9年 第7回院展「迎火」「浴」大正10年 第8回院展「鏡に向て」「浴」「座せる女」大正11年 第9回院展「春」「水浴」「萌え出る蕨」「浴泉」大正12年 第10回院展「静かな水」「恐怖と悔悟」「化粧」「浴女」「湯を前に」大正13年 第11回院展「髪」「踵をふく女」「海女」「髪をあむ」「脱衣の女」大正14年 第12回院展「浴」「浴み」「小瑠璃」「裸」「足をふく女」大正15年 第13回院展「裸婦」「水浴」「背を拭く女」昭和2年 第14回院展「足を拭く女」「爪を切る女」「壼をかかへる女」昭和3年 第15回院展「魔女」「浴女」「黒髪」「水浴の女」「水鏡」昭和4年 第16回院展「脱衣婦」「浴女」「髪」「浴」昭和5年 第17回院展「脱衣」「をどり」「浴女」「腰のみの」「犬(エヤデルテリア)」「髪」昭和6年 第18回院展「浴み」「ポルゾイ」昭和7年 第19回院展「梳る女」「浴女」「土用波」昭和8年 第20回院展「化粧」「浴女」昭和9年 第21回院展「浴女」「水浴」昭和11年 文展(招待展)「手鏡」昭和13年 第2回文展「鏡」昭和14年 第3回文展「浴女」昭和15年 紀元2600年奉祝美術展(前期)「裸女」昭和16年 第4回文展「腰かけた裸婦」昭和17年 第5回文展「泳後」昭和18年 第6回文展「崔氏菩薩」昭和21年 3月第1回日展「裸婦」昭和21年 10月第2回日展「無題」昭和22年 第3回日展「浴女」昭和23年 第4回目展「腰かけた裸婦」昭和24年 第5回日展「少女立像」昭和25年 第6回日展「浴女」昭和26年 第7回日展「裸婦」昭和27年 第8回日展「浴女」昭和28年 第9回日展「女の顔」。この年より浩佑と称す昭和29年 第10回日展「浴女」昭和30年 第11回日展「裸女微笑」昭和31年 第12回日展「踊女」昭和32年 第13回日展「鏡の前」昭和33年 第1回日展(新日展)「裸婦」(遺作)

水田竹圃

没年月日:1958/07/11

日本画家水田竹圃は7月11日心臓衰弱のため京大病院で逝去した。享年75才。本名忠治。別号満碧堂、積翠堂、水竹居、蟻池庵。自宅は京都市北区。明治16年2月14日大阪市に生れた。同30年大阪で姫島竹外の門に入つて南画を学び、また伊藤介夫に漢学の教えをうけた。大正元年第6回文展で「渓山滴翠」が初入選で褒状を受け、更に8回、9回展でも受賞し、同5年10回展では「早春」が特選となつて画壇に認められた。大正8年、京都に居を移し、同10年には河野秋邨らと日本南画院を創立した。日本南画院展には昭和10年解散するまて毎年出品し、帝展も大正15年第7回展に委員に推され、昭和12年以降の文展にかけて出品をつづけている。日展には第4回から出品依嘱者として作品を送つている。大正10年より画塾菁我会を主宰し南画の指導、興隆に尽力した。なお水田硯山は実弟、水田慶泉は長男である。主な作品は「普陀」「三峡」「秋声」「残照」「月光」など。作品略年譜大正元年 第6回文展「渓山滴翠」褒状大正3年 第8回文展「雲林清深」褒状大正4年 第9回文展「大華山実景」3等賞大正5年 第10回文展「早春」特選大正6年 第11回文展「秋山岑寂」無鑑査出品大正8年 第1回帝展「華岳仙隠」この後6回展迄出品なし大正10年 第1回南画院展「泰山」「牧羊」大正15年 第7回帝展「普陀」「三峡」帝展委員となる第5回南画院展「夏日湖畔」「夏」昭和4年 第10回帝展「絶墾飛泉」帝展審査員第8回南画院展「薬圃」「洞庭風雨」昭和6年 第12回帝展「千山一白」無鑑査第10回南画院展「水国秋雨」昭和7年 第13回帝展「澄秋」帝展審査員昭和12年 第1回文展「下賀茂春暁」無鑑査昭和13年 第2回文展「残照」無鑑査昭和14年 第3回文展「松轡暮靄」無鑑査昭和19年 戦時特別文展「高千穂峡」昭和23年 第4回日展「残雪在山」出品依嘱者として以後32年迄毎回出品昭和31年 第12回展「月光」

五島耕畝

没年月日:1958/06/11

日本画家五島耕畝は、6月11日新宿区の自宅で逝去した。享年76才。本名貞雄。明治15年4月3日茨城県に生れた。明治34年荒木寛畝のもとに入門し、36年には美術協会展で二等賞をうけ、翌年美術協会の会員となつた。つづいて美術協会、同研究会、或は美術研精会に出品して毎年連続して1~2等賞を受賞している。文展には2、5、8、9、10回展に出品し大正4年第9回展では「深山の秋」(6曲1双)が褒状となつた。帝展は第4回展から入選し、「桃」(第4回展)、「猫」(第5回展)、「長閑」(第7回展)などを経て、昭和4年第10回帝展で「池畔」を出品、5年第11回帝展から無鑑査待遇をうけた。帝展では「秋の裏園」(11回展)、「軍鶏」(15回展)などがある。いづれも、寛畝の系統をひく細密な花鳥画を特徴としている。昭和期の文展では17年第5回文展に★をかいた「後苑」などがあり、戦後、日展委員にもあげられたが、晩年は殆ど展覧会に作品を発表していない。

小場恒吉

没年月日:1958/05/29

元東京芸術大学図案科教授小場恒吉は、5月29日老衰のため、東京都中野区の自宅で逝去した。享年80歳。明治11年1月25日秋田市に生れた。郷里の中学に学び、同地の狩野派の画家につき指導をうけたのち上京、明治31年東京美術学校図案科に入学した。かたわら荒木寛畝に日本画を、岡本椿所について篆刻を学んだ。明治36年東京美術学校を卒業し、一時郷里の秋田工業学校に勤務したが、同41年東京美術学校雇、図案課助手となり、大正元年同校助教授となつた。この年から朝鮮古墳壁画模写、或は学術研究のため朝鮮に出張、大正5年には美校を辞し、朝鮮博物館事務を嘱託、また総督府学務局古墳調査課に勤務、朝鮮美術審査委員会委員などを兼務していた。大正14年6月、東京美術学校講師となり、工芸史授業を担任、同年更に美術学校から研究のため朝鮮に赴いた。昭和8年朝鮮総督府宝物古墳名勝天然記念物保存会委員を嘱託、年々渡鮮し古墳調査の傍ら高勾麗壁画の模写に従事した。昭和21年東京美術学校教授、24年には東京芸術大学及び同大学東京美術学校教授に任ぜられ27年3月まで教授として在任した。また昭和27年から29年まで同大学評議会評議員をつとめていた。紋様史の研究を専門とし、日本、中国及び朝鮮の古墳古建築の装飾から、絵画彫刻の絵紋様、又は一般古美術工芸品に現われた形態、若しくは紋様などを対象とするもので、実測にもとづく綿密な調査研究は美術界に寄与するところ大きく、研究の一部をなす「日本紋様の研究」は昭和25年に芸術院恩賜賞を受賞した。著書「朝鮮古蹟調査報告」「慶州南山の仏蹟」「楽浪王光墓」等。

吉田源十郎

没年月日:1958/04/04

漆工芸家、日展参事吉田源十郎は、胃潰瘍のため、4月4日世田谷区の自宅で逝去した。享年62歳。明治29年3月20日高知県安芸郡に生れ、石井士口(吉次郎)に師事し、漆芸を学び大正8年東京美術学校漆工科選科を卒業した。昭和2年第8回帝展にはじめて工芸部が設置されたが、翌年の第9回帝展で「麦の棚」が初入選となつた。その後連続入選し、昭和5年第11回展出品の「泉の衝立」、第14回展「トマトの図棚」は特選となり、昭和12年第1回文展の審査員となつた。昭和期の文展では17年、18年と審査員に推され、18年文展出品の「梅蒔絵飾棚」は芸術院賞(第2回)となつた。23年から金沢美術工芸短期大学教授に任命され、戦後の日展では審査員、参事の役をつとめていた。また、昭和12年造幣局嘱託となつたこともあり、戦後、目本漆工芸会を主宰、会長として漆工芸の発展に尽力していた。

西山翠嶂

没年月日:1958/03/30

日本芸術院会員、京都美術大学名誉教授西山翠嶂は、3月30日心筋梗塞のため京都市東山区の自宅で逝去した。享年78歳。本名卯三郎。明治12年4月2日京都に生れた。若くして竹内栖鳳の門に入り、また京都市立美術工芸学校に日本画を修めた。明治30年代からすでに京都の諸展覧会で受賞をつづけたが、その名を広く認められたのは文展以後である。明治40年第1回文展に「広寒宮」を出品して3等賞を受けたのをはじめ、その後つづいて受賞或いは特選となつた。文展時代の作品には「採桑」「未★の女」「落梅」などがある。大正8年帝展の開設とともに審査員に選ばれ、昭和4年帝国美術院会員に推された。帝展時代の主なものには「春霞」「木槿」「乍晴乍陰」「くらべ馬」「牛買ひ」などがある。帝展改組後芸術院会員となり、新文展の審査員もつとめた。この時期のものに「雨餘」「洛北の秋」などがある。昭和19年帝室技芸員を命ぜられ、栖鳳なきあとは京都画壇だけでなく日本画壇の長老として重きをなした。終戦後もたゆまぬ制作をつづけ、日展などに「黒豹」「山羊と猿」などを発表した。また日展運営会理事、芸術院会員選考委員をつとめ、美術の発展につくした。彼はまたはやくから母校に教鞭をとり、大正8年には京都市立絵画専門学校教授となり、さらに昭和8年から11年までその校長をつとめた。また大正10年頃画塾青甲社を創立して堂本印象、中村大三郎、上村松篁など多くの門弟を育成した。かように、彼の活動は多方面にわたつたが、昭和32年生の功労によつて文化勲章を授けられた。 彼の作域は人物、花鳥、動物、風景にわたるが、その得意とするところは人物、動物で、京都伝統の円山、四条派の写生を根底として作風を展開した。そのはじめ彼は、歴史人物画が多いが、次第に抒情味にあふれる人物画に移り、晩年は動物画や山水に洗練された技法を示した。その随筆に「大朴無法」がある。略年譜明治12年 4月2日京都に生まれる。父政治郎、母さと明治26年 竹内栖鳳の門に入る明治27年 京都市工芸品展「箕面瀑布図」褒状、日本美術協会展「鷹狩図」3等明治28年 第4回内国勧業博覧会「富士川水禽図」褒状、日本青年絵画共進会「対風牡丹図」2等明治29年 大阪私立日本絵画共進会「対風牡丹図」2等明治30年 第1回全国絵画共進会「義光勇戦図」2等明治31年 この頃から旧淀藩士中島静甫について国漢を学ぶ。京都新古美術品展「秋口喚渡の図」1等明治32年 京都市立美術工芸学校卒業。全国絵画共進会「村童」3等、第2回全国絵画共進会「迦葉哄笑図」3等明治33年 京都新古美術品展「韓退之図」3等、後素青年会展展「悉多発心図」優等1席明治34年 京都新古美術品展「沙陽」3等、日本絵画協会(日本美術院聯合)第11回絵画共進会「狂女」明治35年 京都市立美術工芸学校に奉職。小谷とみ子と結婚。京都新古美術品展「緑陰」3等明治36年 第5回内国勧業博覧会「詰汾興魏図」3等明治37年 7月満州、朝鮮へ旅行。京都新古美術品展「祝戸開き」3等、楳嶺翁10周年追悼展「地蔵菩薩」明治38年 関雪、五雲等8名で水曜会を結成、機関誌「黎明」を刊行、継続4年明治40年 第1回文展「広寒宮」3等明治41年 第2回文展「軒迷開悟」褒状明治42年 京都市絵画専門学校助教諭。第3回文展「花見」3等明治43年 竹内栖鳳東本願寺天井絵制作に際し、土田麦侭と助手をつとむ大正1年 第6回文展「青田」3等大正2年 妻とみ没大正3年 第8回文展「採桑」3等大正4年 竹内貞子と再婚す。第9回文展「農夫」3等大正5年 第10回文展「未★の女」特選大正6年 第11回文展「短夜」特選大正7年 第12回文展「落梅」特選大正8年 京都市立絵画専門学校教授となる。第1回帝展審査員に選ばれ、以降第10回帝展に至る。第1回帝展「春霞」大正9年 平和記念美術展審査員となる。第2回帝展「秣」大正10年 私塾青甲杜を創立。第3回帝展「錦祥女」大正12年 大毎主催絵画展「木槿」大正14年 聖徳太子奉賛美術展「竹生島」大正15年 第7回帝展「夕」。青甲社展「唐崎」昭和2年 青甲社展「粛条」昭和3年 今上天皇御即位の大典に際し御下命画「春曙」、久迩宮家より御即位の大典に際し御下命画「月下群鴎」をえがく昭和4年 帝国美術院会員となる。パリ日本美術展「雪中白鷹」。第10回帝展「乍晴乍陰」昭和5年 青甲杜展「飢鴉」。ローマ日本絵画展「乍晴乍陰」昭和6年 青甲杜展「東山洛雨」、暹羅国展「漁楽」、米国トレード展「闘鶏」、伯林日本画展「飢鴉」昭和7年 第13回帝展「くらべ馬」昭和8年 京都市絵画専門学校、京都市美術工芸学校々長となる。大礼記念京都美術館評議員昭和9年 第15回帝展「牛買ひ」、珊々会「ゆく秋」昭和10年 珊々会「宿鳧」、献上画「天馬」昭和11年 京都市絵画専門学校、京都市美術工芸学校を辞す。新文展招待展「竹生島」昭和12年 帝国芸術院会員、第1回文展審査員となる昭和13年 文展審査員。青甲社展「雨餘」、京都市美術展「牡丹」昭和14年 第3回文展「馬」、珊々会展「釆腕」、紐育万国博覧会「雨餘」昭和15年 紀元2600年奉祝美術展委員となる。奉祝美術展「洛北の秋」、大毎奉祝展「薄暮」昭和16年 珊々会「霧の海」、海軍省に「日出づる処」を納める昭和18年 産業戦士贈画展「暁に薫る」、京都霊山護国神杜に「神駿」を納める昭和19年 帝室技芸員となる昭和21年 妻貞子没昭和23年 著書「大朴無法」刊行昭和25年 京都市立美術大学名誉教授となる。東京新築歌舞伎座壁画「松涛月明図」昭和26年 日展運営会理事となる。青甲社30周年展「黒豹」、白寿会「石榴」昭和27年 第8回日展「山羊と猿」、日活国際会館サロン壁画「牡丹」、京都南座緞帳「鶴翼演舞」昭和28年 日本芸術院会員選考委員となる(32年まで)日本美術協会第6回展「新夏」昭和29年 日本美術協会第7回展「緬羊」、東横展「芦の湖」、東京大丸開店展「暁に馥る」昭和30年 無名会展「葉牡丹」「緬羊」、薫風展「暮韻」、青甲社展「歌舞伎絵」、宮中御下命画「暁に薫る」昭和31年 日本芸術院会館建設日本芸術院会員展「枯葉」、成和会「馥郁」、無名会展「早春」、青甲社35周年展「静物」、日本美術協会展「三宝柑」昭和32年 文化勲章を授与さる。松坂屋画廊開き展「日暖」、東横展「雹霜」、薫風会展「花篭」、成和会展「狗子」、白寿会展「雄心」、北斗会展「新竹」、高島屋50周年記念展「猩々」昭和33年 5都美術家連盟展「富獄」、京都能楽堂壁画「東山春月」。京都歌舞練場の依嘱により「東山春宵」を執筆、未完に終る3月30日没す。正3位勲2等旭日重光章を授与さる。

三村英一

没年月日:1958/03/27

新構造社創立会員三村英一は3月27日脳溢血のため東京都小金井市の自宅で逝去した。享年68才。明治23年4月11日広島県北婆原郡に生れた。同38年町絵師の徒弟となつたが41年白馬会に入り洋画を学んだ。その後、一時京都・大阪に居住し、明治44年から大正2年まで時々関西美術会展に出品していた。大正5年ショウインドウ会社に勤務、図案部主任、編集顧問などつとめたのち、大正9年から杉並区成宗に居住し、花卉栽培をはじめ園芸を副業として西部花卉協同組合の顧問を勤めつつ没年まで画道に精進、また新構造社の発展に尽力していた。昭和4年構造社展に「水辺」を出品以来同展に出品し、翌年会友、同7年会員になつた。また槐樹社展にも作品を送つた。構造社時代の作品に「武蔵野の夕陽」「牡丹」(8年)、「盛夏の頃」(9年)などがある。昭和11年帝展改組に関連して構造社が分裂した際、三村英一は代表となつて新構造社を結成、作品には「卓上」(14年)、「稔の朝」(14年)、「郷秋」(15年)、「初秋の午後」(17年)などを出品、戦後の連立展では「初夏の田園」(5回展)、「麦秋」(6回展)、「近郷の春」(9回展)、「湖畔の町」(16回展)などがあげられよう。

島村亮

没年月日:1958/03/20

日月社会員、旧南画院同人島村亮は3月20日厚木市の自宅で逝去した。享年57才。明治34年4月5日神奈川県愛甲郡に生れた。大正8年山内多聞の塾に入り、昭和6年5月多聞逝去迄門下生として学んだ。次で昭和7年から春陽会洋画研究所で3年間洋画を学び、更に9年から安田靭彦の門に入り火曜会々員として指導をうけている。作品は帝展及び昭和期の文展のほか、南画院、日月社の展覧会にも出品していた。南画院同人、南画人連盟創立委員であつた。点描風の南画で主な作品に「春甫」(昭和11年2月帝展)、「秋林」(昭和11年10月文展)、「春閑」(昭和12年文展)、「浅春」(昭和13年文展)、「春郊」(昭和15年奉祝展)、「里の春」(昭和17年文展)などがある。

田中以知庵

没年月日:1958/03/15

元日展審査員、日本画家田中以知庵(本名兼次郎)は狭心症のため、3月15日、川崎市の自宅で逝去した。享年64歳。旧号咄哉、別号一庵。明治26年7月14日東京市本所区に生れた。同42年春、松本楓湖塾に入門、翌年巽画会展に「清水寺」を初出品、また紅児会展に「扇面売」、美術研精会展に「陶淵明」を出品した。速水御舟と親交あり、紅児会、美術研精会で画才を認められたが、この頃から釈宗活師につき禅の研究も進め、大正元年同師から咄哉の号を、7年には別号一庵の居士号を受けている。春陽会の創立に客員として迎えられ、昭和の初めまで出品していたが、同4年に小室翠雲に推されて南画院同人となり、同展に移つた。尚美展には連年出品、また昭和13年文展に招待をうけ「仙苑」を出して以来文展、日展は尚美展とともに作品発表の主な場所となつた。他に個展、あるいは風堂、三良子らとの三人展などがある。略年譜明治26年 7月14日、東京市本所区で石鹸製造販売業田中彦太郎の次男として生れた。明治42年 松本楓湖塾入門明治43年 第10回巽画会展「清水寺」。紅児会展「扇面売」明治44年 第9回美術研精会展「陶淵明」大正元年 咄哉の号を釈宗活師より受ける大正2年 第10回研精会展「箱根山」「聞香」大正3年 研精会審査員となる大正7年 朝鮮に1年遊学、宗活師より一庵の号を受ける大正8年 研究団体、木鐸会を結成、第1回展に「塩原温泉」「宇津谷峠」。第11回研精会展「伊豆半島巡り」大正12年 第1回春陽会展に客員として招かれ、「伊豆風景」「林道」を出品大正13年 第2会春陽会展「緑陰浴客」。尚美会展「山茶花」この年から尚美展には毎年出品大正15年 第4回春陽会展「伊豆風景」「秋」昭和元年 帝劇「法場換子」の装置をする昭和4年 第7回春陽会展「十和田湖」「奥入瀬」。南画院同人に推され、第8回南画院展に「南浦遅日」出品昭和5年 小室翠雲と再び渡鮮第9回南画院展「★麗春夢」「煙雨」昭和6年 第10回南画院展「富士山麗五趣」この年から咄哉州と改める昭和7年 第11回南画院展「山」「海」昭和8年 第12回南画院展「水精」昭和9年 読売新聞連載小説、長谷川伸「鼠小僧唱祭」の挿絵執筆昭和10年 第14回南画院展「日之出」「入り陽」東京、大阪の高島屋で第1回個展開く昭和13年 第2回文展「仙苑」昭和14年 第3回文展「東海天」昭和15年 第4回文展「浄光」。奉祝美術展「豊潤」昭和21年 以知庵と改める昭和23年 第4回日展「冬の陽」。美術協会展「清澄」昭和24年 第5回日展審査員となり「山彦」出品。美術協会展「長閑」昭和25年 第6回日展(審査員)「白夜」。美術協会展「緑蔭浴客」昭和26年 第7回日展「甲州路」。美術協会展「多摩春耕」昭和27年 第8回日展「春の海」昭和28年 第9回日展「霜晨」昭和29年 第10回日展「月影」。美術協会展「水郷十二橋」風堂、以知庵二人展昭和30年 第11回日展「沼田の夕」以知庵近作発表会(三越)昭和31年 第12回日展「春の伊豆」。美術協会展「夏日水辺」。風堂、三良子、以知庵三人展昭和32年 第13回日展審査員として「潮」出品。風堂、三良子、以知庵三人展。新奥の細道展。美術協会展「多摩の夕陽」昭和33年 三人展、3月高島屋50周年記念展に「大和月ヶ瀬」出品、絶筆となる3月15日心筋硬塞のため逝去

太田聴雨

没年月日:1958/03/02

日本美術院同人、東京芸大助教授太田聴雨(本名栄吉)は、脳出血のため3月2日上野桜木町浜野病院で逝去した。享年61才。自宅鎌倉市山ノ内878。明治29年10月18日仙台市に生れた。同42年上京、43年から大正元年頃まで内藤晴州について日本画を学んだ。その後、友人とともに研究団体青樹社を結成したが11年には他の団体と合同し、第一作家同盟の運動に参加した。大正12年大震災ののち運動を離れ、昭和2年に改めて前田青邨に師事し、日本美術院に作品を送るようになつた。昭和5年第17回院展で美術院賞をうけた「浄土変」は院展への初出品であつた。その後は毎年入選し昭和11年に日本美術院同人に推されている。秀麗な作風で知られ、代表作の一つに「箏」のような、静雅な古典的作品があげられる。しかし一方では、「家郷」「青年」など、新しい時代意識を盛りこもうとした制作も試み、この両者の振幅の中に制作の道を求めようとしていたと考えられる。昭和32年銀座松坂屋における個展は、「双美」「光悦」など、新しい制作を展示し、仕事の方向にも、作風にも一転機を思わせたが翌33年急逝した。なお昭和26年以来、東京芸大助教授として没年まで後進の指導に当つていた。 主な作品に「浄土変」「お産」「種痘」「星をみる女性」「箏」「二河白道を描く」「苔寺須弥山石」などがある。作品略年譜昭和5年 第17回院展「浄土変」昭和6年 第18回院展「かつらぎのおびと」昭和7年 第19回院展「お産」昭和8年 第20回院展「杉橋検校」昭和9年 第21回院展「種痘」(京都市買上)昭和11年 第23回院展「船路」改組第1回帝展「星を見る女性」昭和14年 第26回院展「悲田院」昭和15年 第27回院展「大雅」昭和16年 第28回院展「壁画」昭和22年 第32回院展「箏」昭和23年 第33回院展「二河白道を描く」昭和24年 第34回院展「家郷」昭和25年 第35回院展「苔寺須弥山石」昭和28年 第38回院展「青年」昭和29年 第39回院展「浴泉」昭和30年 第40回院展「華山と椿山」昭和31年 第41回院展「牡丹芳」昭和32年 東京銀座松坂屋で個展開催昭和33年 3月2日没

横山大観

没年月日:1958/01/26

横山大観は、昭和32年暮以来気管支炎のため自宅で療養中であつたが、その後の衰弱はなはだしく、33年1月26日逝去した。享年89歳。本名秀麿。明治元年9月18日水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生れた。明治11年に一家をあげて上京、大観は湯島小学校から東京府中学校、東京英語学校に入学し、傍ら渡辺文三郎に鉛筆画を習つていた。21年母方の親戚横山家を継いで改姓、またこの年東京英語学校を卒業し、結城正明について日本画を学び、翌年、新設の東京美術学校に入学した。26年、「村童観猿翁」を卒業制作として同校を卒業、暫く母校の予備校教師となつていた。ついで、28年京都市美術工芸学校教諭となり京都に赴任、この頃、古美術の模写に従事し技法の研究につとめていたが、翌29年には東京美術学校に迎えられて帰京した。同年日本絵画協会の第一回共進会に「寂静」第2回展に「無我」などを出品、いずれも受賞している。31年、校長岡倉天心の退職とともに同校を退き、日本美術院の創立に参加し、評議員ならびに正員となつた。以来、日本美術院と日本絵画協会の聯合共進会に作品を発表し、天心の日本画革新運動の主要メンバーとなつて新時代の日本画創造に全力を傾けていつた。線描をすてて、いわゆる朦朧体の画法をあみだし、「屈原」「釈迦父に逢ふ」を制作した明治30年代は、新しい日本画をもとめての苦闘の時代であつた。その後、36年に印度、翌年は更に春草等と米国、欧州を巡遊し、帰国後は日本美術院の常陸五浦移転とともに観山、春草等と同時に移住し、研究をつづけていた。明治40年以来新設の文展にはたびたび審査員となり、「流燈」「山路」「瀟湘八景」などを送り新日本画の樹立に答えていつた。然し、大正3年には同志とともに文展を離れ、天心の理想をつぐ日本美術院の再興をはかつてその中心となつて活動した。この頃から、やがてとよばれる手法を用い、水墨による独自の様式をすすめ、「生々流転」のようなすぐれた山水長巻をつくりだしている。大正時代の日本美術院展では「遊刃有余地」「千ノ与四郎」「雲去来」「柿紅葉」などがあり、昭和期に「瀟湘八景」「夜桜」「海・山十題」「野に咲く花」、或は多くの御物、宮家の御用画などがある。昭和12年帝国芸術院会員となりまた、文化勲章の最初の受賞者となつた。この年から昭和期の文展にも出品するようになつた。しかし、昭和25年に芸術院会員は辞退した。晩年は院展のほか、白寿会、雪月花、無名会等画廊展にも出品し、小品が多かつたが、岡倉天心の壮大な東洋美術の理想をうけついだ唯一の作家として、また、明治、大正、昭和3代に亘る近代日本画史に輝かしい足跡を残している。略年譜明治元年 9月18日水戸市で水戸藩士酒井捨彦の長男として生れる。本名秀麿。明治11年 一家をあげて上京し、神田五軒町妻恋坂に居住明治14年 湯島小学校卒業、東京府中学校に入学明治18年 同中学校卒業、私立東京映語学校に入学、渡辺文三郎に鉛筆画を習う明治21年 母方の親戚、横山家を継ぐ。東京英語学校卒業、結城正明に日本画の手ほどきをうける。明治22年 2月東京美術学校に入学明治22年 7月東京美術学校日本画科卒業。卒業制作「村童観猿翁」(号秀麿)。卒業後しばらく東京美術学校予備校教師をつとめる。明治27年 神苑会に関係し、古画模写に従事、中宮寺の天寿国曼荼羅を模写する。明治28年 4月京都市美術工芸学校教諭となり、京都に移る。また、博物館から古画模写の辞令をうけ、古社寺を遍歴し模写に従事する。「浄瑠璃寺吉祥天扉絵像」「毛利家山水図」「禅林寺、山越阿弥陀三尊像」その他模写明治29年 3月京都市美術工芸学校を辞し、上京。5月東京美術学校助教授となる日本絵画協会第1回共進会に「寂静」(署名秀麿)明治30年 滝沢文子と結婚日本絵画協会第2回共進会「無我」(この作品から大観の号を用う。)同第3回共進会「聴法」明治31年 岡倉天心、東京美術学校長を辞任し、4月大観また同志とともに同校助教授の職を辞す。7月、日本美術院創立に際してその正員となる。下谷区に転居、11月日本美術院仙台展で東北に旅行する。日本絵画協会第5回共進会「屈原」「秋思」明治32年 日本絵画協会第7回共進会「夏日四題」(銅牌)「素尊」「厳子陵」「小春」他明治33年 日本絵画協会第8回共進会「長城」(銀牌)。音曲課題作品(上方唱)「菜の花」「寒天」他日本絵画協会第9回共進会「木蘭」(銀牌)、「牧童」他。5月から日本美術院岐阜展のため正員一同とともに岐阜、飛騨方面に旅行明治34年 夏、信州を廻り天滝川に遊ぶ日本絵画協会第10回共進会「老君出関」(銀賞)「煙柳」他。同第11回共進会「山間旅行」また研究会、互評会の課題作品に「戯猫」「秋の夕」「茂林青鷺」その他の作品がある明治35年 1月妻文子没す。3月、春草と頒布会を計画し真美会を結成、秋北陸に旅行第12回共進会「茶々淵」(銀牌)他。第13回共進会「迷子」(銀牌)「荷塘暁色」他。また研究会、互評会の課題応作「雪中晩帰」「隠棲」など明治36年 1月春草とともに印度に旅行、5月カルカッタで新作展をひらき7月帰国、秋に春草と近畿、中国地方を旅行第15回共進会「釈迦父に逢ふ」(銀賞1席)「夏の日」明治37年 2月岡倉天心、六角紫水とともに渡米、ニューヨークで絵画、漆絵展をひらく明治38年 4月、春草と英国に渡る。長女初音東京で死去、8月帰国明治39年 4月春草とともにロンドン・パリ展出品作を日本橋倶楽部で展観。「金華山」「宮の森雨中」など、7月遠藤直子と結婚、12月日本美衆院の常陸五浦移転とともに同地に移住する明治40年 4月父死去。11月京阪神に旅行、「第1回文展審査委員を命ぜられ、同展に「二百十日」「曙色」を出品明治41年 4月巽画会の審査員に選ばれる9月 五浦の住居火災で全焼、上京して上野池之端茅町観月橋畔に仮寓国画玉成会第1回展「煙月・凍月」明治42年 巽画会及び文展の審査委員となる第3回文展「流燈」。国画玉成会第2回展「春の月」明治43年 6月寺崎広業、山岡米華と中華民国に外遊し7月帰国、さらに米華と山陰地方に旅行、文展審査委員となる。第4回文展「楚水の巻」。橋本雅邦追善展「冬の柳」他に「日蓮上人」(現東博蔵)、「あをき」など明治44年 東京勧業博覧会審査委員となり同展に「水国の夜」第5回文展「山路」。他に絵画彫刻展に「晩鴉」(2曲1双)、「山路」(襖絵)など明治45年 菱田春草追悼展覧会「五柳先生」(6曲1双)第6回文展「瀟湘八景」。他に三越展「新竹図」「達磨」「朧夜」など大正2年 1月妻直子没す。文展審査委員となる第7回文展「松並木」。東台画会展「花★」他に「柳陰」(6曲1双)大正3年 大正博覧会鑑査委員となる。9月下谷区谷中に日本美術院を再興大正博覧会「若菜」。日本美術院再興(以下院展と略す)第1回展「游刃有余地」其他「長江之巻」など大正4年 3月観山、未醒、紫紅とともに汽車を使わぬ東海道旅行を行い、水彩写生と絵巻をつくる。10月未醒とともに荒川を秩父に遡り絵巻をつくる日本美術院第1回試作展「焚火」。第2回院展「竹雨」「漁樵問答」其他「東海道絵巻」など大正5年 日本美術院第2回試作展「長瀞」。第3回院展「作右衛門の家」。新作日本画展「山路」。琅★洞展「荒川絵巻」(大観、未醒作4巻)他に大観会の展観に小品多数を出品大正6年 第4回院展「秋色」「雲来去」「達磨」。琅★洞展「帰去来」。日本美術院同人作品展「出山釈迦」「漁楽」(6曲1双)など大正7年 第5回院展「千与四郎」(6曲1双)大正8年 第6回院展「山窓無月」「喜撰山」「羅浮仙」「八仙花」。日本美術院第5回試作展「雨後」。日本美術院同人作品展「春蘭」「羽衣」。大阪高島屋展「辰己橋夜雨」「糺の森秋雨」(洛中洛外雨10題の内)大正9年 第7回院展「柿紅葉」「月明」。美術院同人高野紀行作品展「高野旧道」(この年小杉未醒等日本美術院洋画部同人脱退し、洋画部なくなる)大正10年 第8回院展「老子」「洞庭の夜」「愛宕路」「紅蓮」。クリーヴランド博物館主催米国各都市巡回展出品作品展示会「しやが」「御社」「朝」「雨後」大正11年 第9回院展「夜」。第8回日本美術院試作展「朝霧」。三越主催観山・大観展「鶺鴒」「暮色」他。東京会展「華厳滝」大正12年 第10回院展「生々流転」(長巻)。日本美術院第9回試作展「茶梅」「雨」大正13年 第11回院展「早春」。日本美術院第10回試作展「春寒」。淡交会第1回展「杏子」「東山」「寒山拾得」他に皇太子殿下に献上の「御苑の春雨」など大正14年 第12回院展「山四趣」(雨・霞・風・雪)。日本美術院第11回試作展「夜梅」第2回淡交会展「夕顔」「春の夜」「鶉」大正15年 第13回院展「龍瞻」「暁靄」。第3回淡交会展「百合花」「曙色」「茄子」。聖徳太子奉讃展「湖上の雨」2月観山等とともに久迩宮家の御下命をうけ襖絵を制作。また皇后陛下に「鸚鵡」を献上昭和2年 第14回院展「瀟湘八景」。第4回淡交会展「雲揺ぐ」「八哥鳥」「胡瓜」。日本美術院第12回試作展「栗鼠」他、観山とともに早大図書館の壁画「明暗」を描く。他に御物「朝陽霊峯」昭和3年 第15回院展「蜀葵」。日本美術院第13回試作展「寒牡丹」他に御物「飛泉」。秩父宮へ献上「秩父霊峰春暁」、又御大典奉祝のため献上画の依頼あり「扶桑第一峰」「筑波山」「鹿島神宮」その他昭和4年 第16回院展「有明の月」。第5回淡交会展「双竜奪珠」(著色)「梅花」。日本美術院第14回試作展「隼」「双竜争珠」(水墨)。ローマの日本美術展への出品画「夜桜」(6曲1双)昭和5年 1月イタリア政府主催日本美術展参列のため夫人同伴で速水御舟、大智勝観と渡欧、6月帰国、7月帰朝講演をする。第17回院展「柚子」。第6回淡交会展「達磨」第2回聖徳太子奉讃展「菊花」。7月大観・観山渡伊スケッチ展をひらく、15点出品昭和6年 6月帝室技芸員となる第18回院展「紅葉」(6曲1双)。日本美術院第15回試作展「春暁」昭和7年 第19回院展「朝嶺」「暮岳」「林亭秋色」。日本美術院第16回試作展「雨」昭和8年 第20回院展「虫の音」(6曲1双、朝日文化賞をうける)。日本美術院第17回試作展「桐の冬」。第7回淡交会展「富士山」「桃」「夕月」昭和9年 第21回院展「朝霧」。日本美術院第18回試作展「三宝鳥」。第8回淡交会展「春風秋雨」「湖上皓月」「飛瀑」昭和10年 5月帝国美術院会員となる。第22回院展「飛泉」。日本美術院第19回試作展「五浦の月」第9回淡交会展「杜鵑」「八仙花」「浦風」「山桜」大楠公肖像画展(於美術院)「楠木正成像」昭和11年 帝国美術院第1回展「龍蛟躍四溟」(6曲1双)第23回院展「野の花」昭和12年 4月文化勲章令制定される初の受章者となる。6月帝国芸術院会員となる第24回院展「東海の浜」「夜探し」。第1回文展「雲翔る」。清光会展「林間遅日」昭和13年 第25回院展「梅花薫る」。第2回文展「皇太神宮」。日本美術院同人作品展「白砂青松」官幣大社氷川神社へ奉納「秋色武蔵野」。その他文部省から独総統への寄贈画など昭和14年 第26回院展「烟雨」「麗日」「潤声」、ニューヨーク万国博出品画展示会「夕月」。紀元2600年奉賛展「肇国創業絵巻」(11作家の合作の内大観は日輪を分担する)法隆寺上宮王院本尊大厨子建立奉賛美術展「不二霊峰」。読売新聞社講堂壁画「富士」昭和15年 第27回院展「首夏」。大観紀元2600年奉祝個人展「海に因む10題」「山に因む10題」。紀元2600年奉祝美術展(後期)「日出処日本・水墨」(陛下へ献上)皇后陛下へ献上「日出処日本・彩色」。秩父宮へ献上「勅題・漁村曙の図」昭和16年 第28回院展「耀く大八洲」画巻(陛下へ献上)。仏印巡回展内示会「竹林の月」昭和17年 1月財団法人岡倉天心偉績顕彰会成立し評議員理事長となる。10月同会で天心記念講演会を開き、大観の演題は「天心岡倉覚三先生」第29回院展「正気放光」「野に咲く花二題・蒲公英、蘇」。満州国建国10周年慶祝絵画展「松籟」昭和18年 5月社団法人日本美術報国会々長に推される第30回院展「中秋無月」。第6回文展「雨収」昭和19年 戦艦献納作品展「南溟の夜」等9点、戦時特別文展「神路山を拝し奉りて」その他海洋美術展など献納画の制作が多い。昭和20年 静岡県熱海市伊豆山に移住。日本美術報国会解散(会長大観)日本美術院小品展「秋色」「湖畔」昭和21年 第31回院展「竹外一枝」「春光る(樹海)」。第2回日本美術展「午下り」昭和22年 第32回院展「四時山水」(画巻)。日本美術院第2回小品展「あけぼの」「夜桜」昭和23年 第33回院展「蕭々夜雨」。日本美術院第3回小品展「朝暉」第1回白寿会展「蓬莱山」昭和24年 8月老齢を理由として日本芸術院会員辞任申し出る第34回院展「被褐懐玉」。日本美術院第4回小品展「春耀」。白寿会展「暗香浮動」。11月に上野松坂屋で大観画業60年展開催昭和25年 9月芸術院会員辞任をみとめられる。第35回院展「流れゆく水」。日本美術院第5回小品展「春光」昭和26年 第36回院展「漁火」。伊勢神宮式年遷宮奉讃綜合美術展「国破山河在」。白寿会「明珠」昭和27年 第37回院展「或る日の太平洋」。日本美術院第7回小品展「湖畔の雨」。第1回雪月花展「夜桜」。北斗会「白砂青松」昭和28年 第38回院展「月出皎兮」。白寿会「汀沙」。第2回雪月花展「上弦の月」「夏の夜」。北斗会「飛泉」。無名会「冬嶺」(勅題出船)。大観・玉堂双壁展「月四題」昭和29年 2月板谷波山とともに茨城県名誉県民に推される。8月上野池之端旧邸跡に新築の新居に引越す第39回院展「水温む」。白寿会「皎月万里天」北斗会展「朝暾」。雪月花展「吹雪」「花吹雪」大観・玉堂双壁展「砂丘に聳ゆ」「仲秋名月」他に大観展(三越KK創立50年記念)、無名会、丁亥会展など多くの展観に出品昭和30年 第40回院展「風蕭々兮易水寒」。第1回松竹梅展「白砂青松」「双竜争珠」。薫風会「漁火」丁亥会「洞庭秋月」その他無名会、北斗会などにも出品昭和31年 2月発病、一時重態となる無名会「正気放光」。第2回松竹梅展「竹外一枝」「六根清浄」院展をはじめ、例年の北斗会、白寿会、丁亥会など殆ど不出品昭和32年 東京都台東区名誉区民に推される。小康を得て制作、無名会展に「山川悠遠」。松寿会展「烟雨」。松竹梅展「紅梅」「暗香浮動」。日本美術院小品展「竹雨」その他柏光会、北斗会或は新作展などに小品を出品するも、11月の武蔵野に因む日本画展への「不二」が最後の出品となつた。昭和33年 2月26日逝去。正3位勲1等旭日大綬章を贈られる。28日築地本願寺で日本美術院葬

石垣栄太郎

没年月日:1958/01/23

長い間アメリカに滞在して活躍した洋画家石垣栄太郎は、1月23日脳出血のため三鷹市の自宅で没した。享年65才。明治26年12月1日和歌山県東牟婁郡に船大工の長男として生れたが、16才の時アメリカに在つた父に呼ばれて渡米した。はじめ太平洋岸でレストランのボーイ、皿洗い、ホテルの掃除人、美術骨董品の修理をしながらサンフランシスコの美術学校で絵画の勉強をはじめた。米詩人のウオーキン・ミラーの山荘を訪れ、芸術家仲間との接触で新しい世界が開けた。大正4年ニューヨークに赴き、芸術家街のグリーニッチ・ヴィレーヂに住んでアメリカの自由思想家や芸術家たちと親しく交り、またアート・スチューデント・リーグ美術学校に学んでジヨン・スローンに師事した。大正14年ニューヨークで開催された独立美術協会展に「鞭打つ」を出品してアメリカ画壇に認められ、以後毎年この展覧会に出品し、ニューヨーク・タイムズ紙、ヘラルド・トリビューン紙等にとりあげられて好評を得た。昭和4年ジョン・ノード・クラブの結成と同時にそのメンバーとなつた。また昭和14年美術家団体アーチスト・コングレスの結成に奔走して毎回その展覧会に出品した。ジョン・リード・クラブ結成後、メキシコの画家たちディエゴ・リベラ、オロスコ、タマヨなどと交り、とりわけオロスコの画風に惹かれた。またドーミエやゴヤなどの影響を受けた。昭和26年久し振りに日本に帰つた。彼は、はじめ立体派風の画風に出発したが、次第に写実的になり、風俗を主題にした庶民の生活を描き、また民衆の怒り、悲しみ、反逆を主題として制作した。作品略年譜大正14年 「拳闘」大正14年 「鞭打つ」大正14年 「街」大正15年 「二階つきバス」昭和4年 「新聞を見る」昭和6年 「リンチ」昭和12年 「アメリカの独立」(ニューヨーク・ハーレム裁判所壁画)昭和14年 「強風」昭和15年 「恐怖」昭和20年 「ニグロの酒場」

真野紀太郎

没年月日:1958/01/20

日本水彩画会名誉会員真野紀太郎は、1月20日東京都大田区で老衰のため没した。享年87才。号柱淵。明治4年5月8日名古屋市に生れた。明治12年上京、東京英語学校に普通学を修めたのち中丸精十郎並びに原田直次郎に就て油絵と水彩画を学んだ。のち専ら水彩画をえがき、明治40年大下藤次郎、丸山晩霞等と日本水彩画会研究所を設立、大正2年石井柏亭、南薫造等と日本水彩画会を結成し、以来その展覧会に毎回出品した。その間、大正10年から11年にわたり英、仏、独、伊等を巡遊、同12年には海軍練習艦隊に便乗して南洋諸島、濠州等を旅行、昭和7年には印度、ビルマ等を巡歴して制作した。その他台湾、上海、朝鮮、満州等には屡々赴いた。帰国の都度その作品を個展で発表した。昭和20年戦時中一時十和田湖に疎開したが同年帰京し、同23年画業60年記念展を、同26年80才記念展を開き、なお老を養いながら制作していた。はやくから私立日本中学校(現日本学園)の図画教師となり、のち理事をつとめた。その水彩画は所謂透明水彩画で、バラ花を最も得意とした。

坂上明司

没年月日:1958/01/17

白日会々員、水彩連盟会員坂上明司は、1月17日逝去した。享年34才。大正13年1月11日埼玉県秩父郡に生れた。昭和13年に上京、内閣印刷局彫刻課に勤務、翌年印刷局彫刻技能者養成所に入り、かたわら太平洋美術学校に学んだ。昭和16年、第一美術協会展に水彩画が入選、初めての作品発表であつた。17年から白日会展、日本水彩展に出品し18年には白日賞を受賞、東京みづゑ会展でみづゑ賞をうけた。20年に入営、大陸にわたるも翌年復員し、日展に「早春」、二科展に「緑陰」、白日会展に「5月の花」「春来る庭」を出品して白日賞をうけ会友に推された。22年水彩連盟同人となり、白日会では「春待つ村」「春陽」その他で奨励賞を受賞している。23年印刷局を退き、以後郷土研究のため生活の半ばを秩父に送り、没年まで水彩画の制作に専念した。25年白日会々員、27年水彩連盟会員になり、この頃から各地で個展を開いて活動し水彩画会では期待されていた新人であつたが1月17日東京都美術館借館団体の新年会に出席の帰途、事故死した。

椿貞雄

没年月日:1957/12/29

国画会々員椿貞雄は、12月29日千葉大学附属病院でホドキン氏病のため逝去した。享年61歳。自宅船橋市。明治29年2月10日米沢市に生れた。大正2年上京、正則中学校に転入したが、岸田劉生の個展に感動し、同3年劉生に師事した。大正4年草土社の結成に参加、更に巽画会、院展洋画部、二科会或は初期春陽会に出品する等、つねに岸田劉生と行動を共にし、作品も岸田の影響を最もつよくうけた。また、白樺同人武者小路実篤、長与善郎と識り、その人生観、芸術観は終生椿に大きな感化を与えた。昭和4年国画会に招かれて会員となり没年迄同会に所属、出品を続けていた。略年譜明治29年 2月10日山形県米沢市に生れた。大正2年 上京。大正3年 岸田劉生に師事する。武者小路実篤、長与善郎、木村荘八、河野通勢等と相識る。大正4年 岸田、木村とともに草土社を結成。大正9年 第1回個展を京都で開催。大正10年 9月、東京で最初の個展を開催。大正11年 岸田、中川一政等と春陽会の創立に参加。昭和2年 岸田、武者小路、長与などの提唱で第1回大調和展創立、為に春陽会を退会。昭和3年 第2回大調和展をひらき同会解散する。昭和4年 河野通勢とともに招かれて国画会々員となる。昭和7年 渡欧、ルーベンス、レンブラントに感銘し、この年帰国。昭和8年 4月銀座紀国屋ギャラリーで滞欧作品展開催、第8回国展「家族」。昭和15年 朝鮮、満州に旅行、紀元二六〇〇年奉祝展委員となる。昭和20年 群馬県碓氷郡に疎開、翌年迄滞在。昭和25年 第24回国展「蛙図」。この年孫の像を多くかく。昭和29年 この年から4年間、鹿児島、長崎を好み同地に写生旅行をくりかえす。昭和31年 第30回国画会展「孫二人」「工場裏」「孫」。昭和32年 第31回国展「桜島風景」「泰山木」。第5回目の長崎旅行より帰京、11月千葉大学附属病院に入院。12月29日逝去。病名ホドキン氏病。昭和33年 4月第32回国展で遺作40余点を陳列。

吉田種次郎

没年月日:1957/12/04

社寺修理技師、無形文化財指定保持者吉田種次郎は12月4日、奈良市の自宅で逝去した。享年87歳。明治4年9月12日奈良市に生れ、同36年より昭和27年迄国宝建造物の修理に、工事設計監督に従事していた。法隆寺南大門、西円堂細殿、東院鐘楼の解体修理のほか、県下社寺の修理にたずさわり、その規矩術の研究により、昭和27年無形文化財の指定保持者に認定され、また同30年2月多年の功績に依り紫綬褒章をうけている。32年12月4日勲5等に叙せられ瑞宝章を授与された。

大河内夜江

没年月日:1957/11/27

日本画家大河内夜江、本名政宜は11月27日没した。享年64歳。明治26年山梨県に生れ、京都絵画専門学校を卒業、菊池契月に師事した。大正10年第3回帝展に「山水」が初入選となり、同6回展に「八瀬早春図」を出品した。第7回展では「秋の大原」が特選となり、更に第8回展に無鑑査出品した「たにまの春」で再び特選を得た。その後無鑑査待遇をうけ新文展まで出品をつづけた。第二次大戦後は日本美術展覧会(日展)委員に挙げられたが、晩年は日展への出品はなく、作品発表も殆どみられなかつた。

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