本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1961/08/23 日本工芸会理事で、木画及撥鏤の技持に対して無形文化財の選定をうけていた木内省古は8月23日脳軟化症のため逝去した。享年79歳。本名友吉。明治15年7月東京向島で生れた。幼児から祖父喜八、父半古の指導をうけ三代にわたる家業の指物、螺鈿、木象嵌を学び、又、竹内久一、前田貫業に師事して彫刻、上代様の画法、書法を修得した。明治37年以降は、父半古に従って正倉院御物整理掛に出仕し、木画、螺鈿、撥鏤等の修理、復原、模作に従事するかたわら、天平文様の意匠、色彩を会得して玳★装、木画等に工芸、絵画、彫刻等各種技術を混然融合させる境地をひらいた。又大正年間には、朝鮮李王家美術品製作所に勤務して、半島、大陸の工芸技術を修得し、その作域をひろめている。代表的作品は多いが、主なものに正倉院御物紫檀木画双六局(昭和7年模作、東京国立博物館蔵)紫檀木画手筥(大正14年パリ万国装飾美術工芸博出品、金賞受賞)などがある。昭和28年文化財保護委員会より木画及び撥鏤の技術保存のため助成の措置を講ずべき無形文化財として選定され、翌29年東京芸術大学講師に任ぜられたが、生涯の大半を在野の一作家として終始し、ほとんど独力によって古来の伝統工芸技術の保存とその向上発展につとめた。その生前の功により没後の10月8日、褒賞条例により追章が贈られた。
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没年月日:1961/07/26 戦前、東京麹町に室内社画堂を経営し、夙くエッチング技法の推進普及につとめ、日本近代美術史の在野研究家として知られた西田武雄は、7月26日、昭和20年疎開したままの郷里、三重県一志郡で脳溢血のため死去した。号、半峰。享年67歳。明治27年7月11日三重県一志郡で、西田清蔵の5男として生れた。7歳の時横浜市大川福松家の養子となる。同42年横浜商業学校に入学、大正3年同校在学中、第8回文展に水彩画「倉入れ」が入選した。同7年東京本郷洋画研究所に入り岡田三郎助の指導を受けた。同10年支那旅行に出向き、上海にて天然痘にかかり2ヶ月入院、その間日本倶楽部で個展を開き、12月漢口へ出発、北京、天津、大連を経由して、翌11年8月帰国した。同14年日米ビルに画堂室内社を開き、芝川照吉、石井鶴三、木村荘八、小杉未醒、石井柏亭、田辺至、岡田三郎助、中沢弘光らの個展を催した。同15年6月丸善と共同主催にて燕巣会第1回展を開いた。昭和2年燕巣会第2回展を開く。同年日米ビルより麹町に移転した。同5年木星書院より「エッチングの描き方」を発行した。同6年「西田武雄デッサン集」を出版。「アサヒグラフ」へ正木不如丘作「第二診察簿」にエッチング挿絵を描く。同7年雑誌「エッチング」を創刊。同8年「画工志願」を出版、同10年「アサヒグラフ」(25巻10号)へ「回顧70年明治初期洋画」を執筆する。同13年4月麹町室内社画堂にて旧草土舎展を開く。また5月には銀座資生堂画廊にて岸田劉生展を開催し、7月には広山インキ株式会社を設立した。同14年一ツ橋高商図書館の蔵書票をエッチングで作製した。「みづゑ」419号に「岡田三郎助」を書く。同20年室内社画堂戦災に遭い郷里三重県一志郡に疎開、農家に居住した。妻女と別居し、以来郷里の新聞雑誌に寄稿、孤独を紛す為各地の知友にハガキ絵或いは狂歌を書き送った。同27年「アトリエ」9月号に「日本美書考」を執筆。この年1月1日よりハガキ絵と狂歌の普及を志して精励し、同36年7月26日没するまで、その発送のハガキ(7月23日発送の分が絶筆)が26,744通に達したという
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没年月日:1961/07/14 水彩画家細島昇一は、7月14日中野区の自宅で、脳溢血のため死去した。享年66歳。明治28年栃木県真岡市に生れ、栃木県師範学校を卒業後、久しく教員職にあり、昭和9年日本水彩展に「賓頭廬尊者」を出し、N賞を得て会員となった。その後図画教育書の編纂にたずさわり、その傍ら財団法人育英奨学会を創立し主事となる。戦後再び教職に戻り、昭和24年日本水彩画会幹事となり同会の運営に当った。また27年には示現会会員となり日展にも入選している。尚日本水彩画会会誌19号には多くの追悼の辞がよせられている。
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没年月日:1961/05/03 日本民芸運動の創始者であり、その運動を発展させ、それに理論的な根拠を与えた日本民芸館長柳宗悦は5月3日脳出血のため都内目黒区駒場の日本民芸館で死去した。72歳。略年譜1889(明治22)年 3月2日東京に生れる。1910年 友人志賀直哉・武者小路実篤らと「雑誌」「白樺」創刊。このころバーナード・リーチ(銅版画家、のち陶芸家)を知り、ブレークや民芸運動についてのちのちまで相互に影響し合う。1911年 「科学と人生」(籾山書店」出版。学習院高等科卒。1913(大正2年) 東京帝国大学文学部卒(心理学専攻)。1914年 「ヰリアム・ブレーク」(洛陽堂)出版。1919年 東洋大学宗教学教授就任(~1923年)。1921年 明治大学予科倫理学および英文講師就任(~1924)。「宗教的奇跡」(叢文閣)、「ブレイクの言葉」(叢文閣)刊行。1922年 「朝鮮の美術」(私版本)、「朝鮮とその芸術」(叢文閣)、「陶磁器の美」(私版本)、「宗教の理解」(叢文閣)刊行。1923年 「神に就て」(大阪毎日新聞社)刊行1924年 朝鮮京城府緝敬堂に朝鮮民族美術館を設立し朝鮮における蒐集品を陳列。1925年 京都同志社女学校専門部教授に就任。「木喰上人作彫刻」(木喰五行研究会)、「信と美」(警醒書店)出版。1926年 同志社大学英文科講師、関西学院英文科講師に就任(~1929年)。「木喰上人和歌集」(木喰五行研究会)刊行。1927(昭和2年) 「雑器の美」(工政会)刊行1928年 「宗教とその真理」(叢文閣)、「工芸の道」(グロリア・ソサエティ)刊行。1929年 米国ハーバート大学講師として渡米。「工芸美論」(万里閣)、「日本民芸図録」「初期大津絵」(工政会)刊行。1930年 ヨーロッパを廻って帰国1931年 月刊雑誌「工芸」創刊(第二次大戦後120号で廃刊まで重要な論文を掲載)、「ブレイクとホヰットマン」(2年間続いた月刊雑誌、寿岳文章との共著出版)。1933年 「民芸の趣旨」(私版本)、「蒐集に就て」(私版本)刊行。米国ハワイ大学講師としてホノルルに滞在。1934年 「美と工芸」(建設社)刊行。1935年 「美術と工芸の話」(章華社)刊行。1936年 日本民芸館開設。館長に就任。「Folk Crafts in Japan」(国際文化振興会)、「茶道を想ふ」(私版本)刊行。1937年 国際女子学園講師に就任。「美の国と民芸」(私版本)刊行。1938年 第1回沖縄旅行(沖縄県学務部の招聘による)。1939年 民芸協会同人と共に再度渡島し、調査と蒐集や製作指導を行った。雑誌「月刊民芸」創刊、(編集・式場隆三郎)1940年 専修大学教授に就任(~1944年)。「富本憲吉、河井寛治郎、浜田庄司作品図録」(民芸協会発行)、「琉球の織物」(民芸協会発行)刊行。1941年 東洋美術国際研究会常務理事に就任。「民芸とは何か」(民芸叢書・昭和書房)「茶と美」(牧野書房)、「工芸」(創元社)発行。1942年 「工芸文科」(文芸春秋社)、「工芸の美」(私版本)、「私の念願」(不二書房)、「美と模様」(私版本)、「藍絵の猪口」(工芸選書・私版本)、「雪国の蓑」(工芸選書・私版本)「琉球の陶器」(編集・民芸叢書・昭和書房)、「現在の日本民窯」(編集・民芸叢書・昭和書房)出版。1943年 「日田の皿山」(私版本)、「木喰上人の彫刻」(工芸選書・私版本)、「諸国の土瓶」(工芸選書・私版本)、「信と美」(新版)1944年 「和紙の美」(私版本)1945年 戦争苛烈のため3月に民芸館を閉鎖したが、12月には再開。1946年 日米教育委員となる。1947年 「民芸館案内」(私版本)刊行。1948年 「手仕事の日本」(靖文社)、松ヶ岡文庫の理事長となる。1949年 「美の法門」(私版本)刊行。1950年 「妙好人因幡の源佐」(大谷出版社)刊行。1951年 雑誌「大法論」に「南無阿弥陀仏」を21回にわたり連載しはじめる。1952年 柳個人の所有である住宅、敷地、調度の一切を民芸館に寄贈し、その登記を終る。国際工芸家会議に列席のため毎日新聞文化使節を兼て渡欧米。1953年 2月帰国。ホノルル大学での講演が「The Responsibility of Craftes Man」、「The Way of Tea」としてホノルル大学によって刊行。1954年 「柳宗悦選集」全10巻(「手仕事の日本」、「工芸文化」、「朝鮮とその芸術」「琉球の人文」、「物と美」、「民と美」がこの年出版)(春秋社)、「日本民芸館」(20周年記念私版本)刊行。1955年 選集(「工芸の道」、「茶と美」、「木喰上人」、「大津絵」、「南無阿弥陀仏」(大法論閣)刊行。1956年 「蒐集物語」(中央公論社)、「民芸の立場」(私版本)、「丹波の古陶」(私版本)刊行。12月重病に倒れる。1957年 7月から小康を得て執筆再開。文化功労賞授賞。沖縄タイムズより沖縄文化の貢献者として感謝状を受ける。「無有醜好の願」(私版本)出版。1958年 「民芸四十年」(宝文閣)、「棟方志功の板画」(筑摩書房)、「茶の改革」(春秋社)刊行。1959年 「心偈」(私版本)刊行。富山県砺波郡城端別院客舎の前庭に美の法門の記念碑建設される。1960年 朝日文化賞授賞。「民芸図鑑」第一巻(宝文閣)、「大津絵図録」(三彩社)、宗教選集(「南無阿弥陀仏」「宗教随想」、「宗教とその真理」)(春秋社)、「美の浄土」(私版本)、「日本の民芸」(宝文閣)刊行。1961年 「民芸図鑑」第二巻(宝文閣)、「法と美」(私版本)、宗教選集(「宗教の理解」)、「船箪笥」(私版本)刊行。5月3日永眠。5月7日、日本民芸館葬が行われた。
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没年月日:1961/04/08 日本美術院常任理事、文学博士斎藤隆三は、4月8日茨城県北相馬郡の自宅で老衰のため死去した。享年86歳。明治8年4月6日同地に生れ、同35年東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、明治40年より大正5年迄三井家家史並に事業史編纂の仕事に携った。大正3年日本美術院の再興に際し、横山大観らと経営者の一人となり、常任理事として今日に至った。昭和7年「江戸時代前半期の世相と衣裳風俗」の論文により文学博士となり、17年には財団法人岡倉天心偉績顕彰会専務理事となった。著書多く、主なものは次の通りである。守谷志 明治33年元禄世相志 明治38年近世世相史 明治42年新美術史 大正6年画題辞典 大正8年美術行脚古社寺めぐり 大正10年江戸趣味 昭和2年江戸時代前半期の世相と衣裳風俗 昭和8年江戸時代の風俗(岩波歴史講座) 昭和9年模様小袖講座(国際写真情報) 昭和6~10年江戸のすがた 昭和11年近世の飲食 昭和12年赤穂義士の考察 昭和12年Japanese coiffure(国際観光局叢書) 昭和14年近世世相史概観(創元選書) 昭和15年大痴芋銭 昭和16年日本美術院史(創元社) 昭和19年芸苑今昔 昭和23年史郷守谷 昭和30年芸苑雑筆 昭和32年横山大観(中央公論美術出版) 昭和33年岡倉天心(弘文館人物叢書) 昭和35年
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没年月日:1961/03/24 重要無形文化財「江戸小紋」の保持者小宮康助は3月24日肺気腫のため都立墨田病院で逝去した。本名定吉。享年78歳。明治14年東京都墨田区に農家の二男として生れた。12歳頃浅草小紋染をしていた浅野茂十郎に弟子入りして小紋染の技術を学んだ。26歳のとき独立し、昭和4年水質の関係で現住所の中川辺りに居を移し、以来江戸小紋の染上げに苦心を重ねた。こまかな模様染にすぐれ、とくに品のある独自の美わしい発色には定評があり、昭和30年1月重要無形文化財に指定された。
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没年月日:1961/03/24 洋画家小柴錦侍は、3月24日直腸癌のため死去し、東京四谷イグナチオ教会で葬儀が行われた。享年72歳。明治22年日本に於ける石版印刷の創始者として有名な、小柴英の二男として、東京都千代田区に生れた。九段暁星中学を終え、明治44年東京高等工芸学校を卒業後フランスに留学、9年間同地に滞在し、大正9年帰朝した。フランスではモーリス・ドニのアカデミー・ランソンに入学し、更にルーブル美術館学校に学び、欧州各国の絵行脚等もしている。帰国後は帝展に宗教画を多く発表し、第2回帝展「美しき五月マリアの月」、第4回「花つみて主の御母にささぐ」第7回「卒世やさしいサンタ・マリア」等があり、いづれも特選になっている。日本では、松岡寿、満谷国四郎、和田英作等に教えをうけ、帝展の他、創元会にも出品がみられる。戦時中は、軽井沢星野温泉に疎開し、制作をつづけていた
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没年月日:1961/03/20 彫刻家、京都学芸大学助教授清水礼四郎は3月20日朝、京都市左京区の自宅で、ゼンソク、心臓衰弱のため死去した。享年45歳。大正4年9月18日京都市東山区五条坂の陶芸の名家、5代目清水六兵衛の4男として生れた。現芸術院会員6代目六兵衛の実弟にあたる。昭和8年3月京都市立美術工芸学校卒業、同13年3月東京美術学校彫刻科塑造部を卒業、続いて同校研究科に進み、同15年3月修業した。在学中の昭和12年第1回文展に入選し、以来2600年奉祝展をはさみ、第6回文展まで連続入選した。終戦直前の同21年7月住居を京都に移し、同25年京都学芸大学彫刻科に講師として奉職、同27年同大学助教授となった。一方、戦後の日展にも作品を発表し、第5回日展(昭和24年)では「過ぎにし日」で特選に挙げられ、同34年まで毎年入選を続けた。戦前戦後を通じ、京都市展や関西総合美術展で授賞したり、審査員を勤めるなど、また日本彫塑家クラブ関西支部展などで、関西彫塑界の中心的な存在として活躍したが、これからという業半ばで逝ったことは惜しまれる。
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没年月日:1961/03/09 独立美術協会会員赤堀佐平は、3月9日朝胃ガンのため東京都下、立川中央病院にて死去した。享年57歳。明治37年3月31日岡山県勝田郡に生れ、大正13年3月大阪の関西甲種商業学校(現、関西大学附属一高)を卒業、しばらく家業を継いだが、昭和3年上京して洋画家を志し、東京代々木三谷の1930年協会洋画研究所に学んだ。同7年には第2回独立美術展に初入選し、同13年第8回展には、「岩と舟」「立木」で独立賞を受けた。同17年同会会友に、同19年準会員に推薦された。同19年第二次大戦のため郷里に疎開、戦後疎開中の同23年会員となった。翌年郷里より再び上京、都下南多摩郡の田園色豊かな環境にある農家の二階に妻子3人の戦後の画生活があった。傍ら南多摩郡稲城村の同村立第一小学校の教員を上京の年より同28年まで勤めた。昭和37年3月19日より25日まで、知己、先輩、同窓の多くが相寄り、銀座の文芸春秋画廊で遺作展を開催した。
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没年月日:1961/03/03 美術史家西村貞は3月3日腎臓腫瘍のため京都府立医大病院で死去した。67歳。1893(明治26)年12月12日大阪市に生れた。松原三五郎に洋画を習い、絵画専門学校に学び、明治大学中退後、主としてルネッサンス絵画を研究して1921(大正10)年から1923年にかけて欧州遊学。帰国後日本美術研究に転じ、奈良県下に石仏を調査した。そののち日本における西洋美術の受容に関する研究に進み、この間その研究の一環として茶道・庭園の研究も行った。彼は在野の研究家にふさわしく、官学派の美術史家が見落しがちな石仏・キリスト教初期洋風画等を精力的に調査し、その分野に最も基本的な諸研究を残した。「民家の庭」(1953、美術出版社)は1954年度毎日出版文化賞を受けた。主要著書目録「画の科学」(1928、中央美術社)、「南都石仏巡礼」(1929、太平洋書房)、「黄檗画像志」(1934、創元社)、「日本銅版画志」(1941、書物展望社)、「フラ・アンジェリコ」(アトリエ社)、「奈良の石仏」(1943、全国書房)、「日本初期洋画の研究」(1945、全国書房)、「キリシタンと茶道」(1948、全国書房)、「民家の庭」(1953、美術出版社)、「庭と茶室」(1955、講談社アートブックス)、「庭と茶室」(1957、講談社)、「南蛮美術」(1959、講談社)、「日本版画美術大系・民俗版画篇」(藤沢衛彦と共著、1961、講談社)、「キリシタン美術」(共編1961、宝文館)
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没年月日:1961/02/16 文化財専門審議会専門委員龍居松之助は、2月16日動脈硬化のため中野区の自宅で逝去した。享年77歳。号は枯山。明治17年1月9日、参事院書記生龍居頼三の長男として東京市京橋区に生れた。東京府立四中、学習院高等科を経て東京帝国大学文科大学の国史家に学び、明治44年卒業した。大正6年、同大学院に学び「我邦近世の住宅及び庭園の研究」をテーマとした。この前後から青山学院高等部講師、日本女子大学教授をつとめ、文化史を講じていた。大正7年、北支那、殊に北京を中心とする住宅、庭園の視察旅行を行い、また同年日本庭園協会を創立した。つづいて大正13年、同志と私立東京高等造園学校を設立、さらに日本造園学会、日本造園士会の設立にも参加、また早稲田大学理工学部、早稲田高等工学校で造園史の講義をするなど活発な動きを示している。昭和9年文部省より史蹟名勝天然記念物調査委員を委嘱され、戦後の昭和26年、文化財保護法設立に伴い文化財専門審議会名勝部会の委員となり32年までつとめた。造園学校は、昭和17年東京農大と合併し、農大教授となったが32年退職、早大も又30年に退職した。大正9年龍居庭園研究所を創設、公私園の設計、施工監督を手がけたもの多く、古名園の修理復旧にも従事し、また著書も多い。晩年の昭和33年、庭園保存事業の功により紫綬褒章を授与された。主要著書「大江戸の思い出」「女性日本史」「日本名園記」「日本式庭園」「近世の庭園」GARDENS OF JAPAN」
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没年月日:1961/01/31 東京学芸大学教授中野勇は1月31日狭心症のため東京都世田谷区の自宅で逝去した。享年63歳。明治30年7月19日東京都港区で生れた。大正15年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、更に大学院に学んだ。昭和4年から10年まで、同大学研究室副手を勤める傍ら、法制大学予科(昭和3年-9年)、成城高等学校(昭和8年-11年)の講師となった。昭和13年国際文化振興会に入り、副参事として、また調査部長として、日本文化の海外紹介のため、我国文化関係出版物の文献目録作成の仕事に当っていた。昭和21年から25年まで龍村織物研究所々員となり正倉院裂、古代裂の調査研究に従事した。その後、多摩美術大学講師(25年-26年)を経て、26年東京学芸大学教授となり、美学美術史を講じ、美術史方法論の研究に主力を注いでいた。著書に、ヴォーリンガ「ゴシック美術形式論」(昭和19年座右宝刊行会発行)の訳書がある。
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没年月日:1961/01/28 春陽会々員若山為三は、1月28日午前4時10分東京都世田谷区の自宅で脳内出血のため死去した。享年66歳。明治26年3月30日広島市に生れ、広島県立忠海中学を中途退学して同42年上京、同43年太平洋画会研究所に入って満谷国四郎に洋画の指導をうけた。大正11年渡仏し、5月パリのアカデミー・ランソンでモリス・ドニに就き、またアカデミー・グランショミエールでシャルル・ゲランに同13年初めの帰国まで学んだ。同14年第3回春陽会展に初出品し、昭和2年第5回春陽会展に、「浴後の幼児」他4点で春陽会賞を受けた。同5年第8回展にて、それまでの受賞者として無鑑査推挙となり、同9年春陽会々員に推挙された。以後死去に至るまで春陽会展に専ら作品を発表した。
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没年月日:1961/01/26 蝋型鋳造の無形文化財保持者佐々木象堂は、1月26日新潟県佐渡郡の児玉病院で急性肺炎のため死去した。78歳。彼は本名を文蔵と云い、1882(明治15)年3月14日に新潟県佐渡郡に生れたが、戸籍面は2年後の同月同日生になっている。1897年に、河原田小学校を卒業し、17歳ごろ画家を志して上京したが極度の近視眼のため帰郷し、1901年より佐渡郡沢根町宮田藍堂(初代)に蝋型鋳金を学び、1907年5月より河原田町で鋳金家として自立した。1913(大正2)年上京し農商務省(図案及応用作品)展(第一回)に出品入選し、また東京鋳金会展、日本美術協会展などに出品し、宮内省より数度買上げられた。1915・6年から象堂を号としている。1922年平和博覧会出品の「鋳銅菊花丸紋花瓶」は金牌を受賞した。1927(昭和2年)新たに工芸部が設けられた第八回帝展に出品した「鋳銀孔雀香炉」に特選を得て宮内省買上げとなる。1929年11月帝国美術院推薦となり、同年第10回帝展出品「金銅鳳凰置物」も特選となる。以後1931、1932、1934年に帝展審査員を務め、1935年には帝国美術院参与に推薦となる。1936、1937、1939年に文展審査員を務め、1940年には日本工芸美術展に展覧会委員依属となる。1938年には新潟市に越路焼窯新潟陶苑を興し、1945年まで郷土の陶器製作と弟子の養成にたずさわった。1944年戦禍を避けて佐渡に疎開し、戦後1947年真野町に真野山焼窯を創設し、再び陶芸と子弟を養成する。1945年より日展に依属出品を続け1953年より第5回日本伝統工芸展に蝋型鋳銅置物「釆花」を出品し文化財保護委員長賞受賞、同じく6回展には「蝋型鋳銅置物・瑞鳥」に日本工芸会総裁賞を受賞し、共に文化財保護委員会の買上げとなった。1960年4月重要無形文化財蝋型鋳造技術保持者と認定され、名実共に鋳金界の最長老の一人として活動していた。
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没年月日:1961/01/12 日本画家福永晴帆は、1月12日老衰のため、鎌倉市の自宅で死去した。享年80歳。明治16年5月15日山口県厚狭郡に生れ、同30年京都に出て森寛斎に師事した。明治41年伊藤博文に随行し、朝鮮、北京、上海を巡遊、43年には香港より欧州に渡り、英国ヴィクトリア美術学校に学ぶ。其後巴里に在って水彩、油絵を学び、大正4年帰国した。その年東京下谷に居を定め、文展に日本画を出品し、入選している。その後昭和に入って内親王方に花島画を献上し、又依頼され、東京商工会議所会議室に「桜と菊花」を描き、また靖国神社、仁和寺、伊勢、橿原、熱田神宮等に襖絵がある。戦後は、24年より10年程日本橋高島屋に毎年個展を開いていた。
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没年月日:1961/01/06 美術史家、東京国立博物館学芸部資料課長近藤市太郎は、昭和36年1月6日、横浜市大附属病院で、心臓マヒの為逝去した。享年50歳。明治43年3月19日東京都港区に生れた。昭和7年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、同9年11月に帝室博物館の研究員となり、20年に同館鑑査官となった。帝室博物館は戦後国立博物館として発足、26年には信発足の東京国立博物館の普及課長となった。その後さらに資料課長に転じたが、その間、国立博物館主催或は後援の形において各地で浮世絵展を開催し、企画、展示、講演に精力的な活動をつづけ、浮世絵を広く人々に理解させるために力を惜しまなかった。藤懸静也博士に師事し、近世絵画史のうちでもことに浮世絵を専攻し、新しい観点からの研究をすすめ、浮世絵研究家として広く国外にもその名を知られていた。没後、1月6日付で正五位勲五等に叙せられ瑞宝章を授けられた。又同日従四位に叙せられた。主 要 著 書昭和19年 「清親と安治」 アトリエ社昭和19年 「日本風景版画史論」(楢崎宗重と共著) アトリエ社昭和22年 「浮世絵の知識」 国立博物館奈良分館昭和27~28年 「日本美術全集第1巻、第2巻(絵画編) 東都文化出版昭和29年 「日本美人画選」上巻 東都文化出版昭和30年 「歌麿」(アート・ブックス) 講談社昭和31年 「歌麿」(日本の名画) 平凡社昭和31年 「肉筆浮世絵」 電通昭和32年 「初期風俗画」(日本の名画) 平凡社昭和33年 「宗達・光琳派国宝画集」 電通昭和34年 「浮世絵」(歴史叢書) 至文堂昭和35年 「東海道五十三次」 平凡社
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没年月日:1961/01/05 独立美術協会々員宮島佐一郎は、1月5日未明病気のため東京都中野区の自宅で逝去した。享年69歳。明治25年7月18日東京下谷区に生れた。本名佐太郎。明治大学商科を卒業した。画業は別に師承なく独学で、30歳をすぎてからやりはじめた。はじめ大正末の中央美術展や、昭和9年第2回旺玄社展に入選し、翌10年の第3回展には「竜村風景」「宇吉の里」など4点の風景画で中村彝氏賞を受け、第4回展で会友に推薦されたが、次の第五回展中に会友を辞退した。第九回旺玄社展まで出品を続けた。独立美術展には第五回展(昭和10年)から入選し、第11回展には「放牧日本」で独立賞を受賞し、同時に会友に推薦せられた。昭和19年準会員に推薦せられ、戦後同23年の第16回展で会員に推挙された。以来逝去に至るまで、主として明るく穏やかな、滋味に富んだ風景画を独立店に発表した。終戦後、所属の会を愛して、会の事務所に出入し、会務の手伝いなどに精励よくつとめ、責任感が強く、明朗円満な人間味はすべての人に好感をもたれた、ということである。昭和37年6月11日より16日まで、中央区京橋宝町のカワスミ画廊で遺作展が開かれた。
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没年月日:1961/01/05 春陽会々員栗田雄は、1月5日板橋区の自宅で逝去した。享年65歳。明治28年10月2日静岡県磐田郡に生れた。少年時代を浜松市で過し、大正6年3月より日本美術院研究室で洋画部同人の指導をうけ洋画家としての第一歩をふみだした。大正8年8月、東京に移住、9年第7回日本美術院に初めて「入出村」を出品したが、同年日本美術院洋画部同人の脱退と共に同院を離れた。大正10年日本版画協会々員、又12年、春陽会創立第1回展より同展に出品し、昭和2年第5回展で「野川」「川添」「初秋曇日」が春陽会賞となり無鑑査出品者に推された。昭和5年2月渡仏、6年11月帰国、10年には春陽会々員となった。
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没年月日:1960/12/26 日本学士院会員、文化財専門審議会専門委員和辻哲郎は12月26日心筋梗塞のため都内練馬区の自宅で死去した。71歳。略年譜1889(明治22)年 3月1日兵庫県神崎郡の医家の次男として生れた。1906年 第一高等学校入学。1912年 高瀬照と結婚。7月東京帝国大学文科大学哲学科卒業。1913(大正2)年 「ニイチエ研究」(内田老鶴圃)刊行。1915年 「ゼーレン・キエルケゴール」(内田老鶴圃)刊。1918年 「偶像再興」(岩波書店)刊。1819年 「古寺巡礼」(岩波書店)「ラムプレヒト近代歴史学」(訳書・岩波書店)刊。1920年 東洋大学教授(-1925年)。「日本古代文化」(岩波書店)刊。1922年 法制大学教授(~1925年)。慶應大学講師(一年間)1923年 「ブチャー希臘天才の諸相」(共訳・岩波書店)刊。1924年 ストリントベルク全集((2)「或魂の発展」、(3)「痴人の告白」共訳・岩波書店)刊。1925年 京都帝国大学文学部講師。同助教授、倫理学担当。1926年 「日本精神史研究」(岩波書店)。「原始基督教の文化史的意義」(岩波書店)刊。1927(昭和2)年 ドイツ留学。「原始仏像の実践哲学」(岩波書店)刊。1928年 帰国。1929年 竜谷大学文学部講師を兼任。「正法眼蔵随聞記」(校訂・岩波文庫)刊。1931年 京都帝国大学教授。1932年 大谷大学教授兼任。「原始仏教の実践哲学」により文学博士授与。1934年 「人間の学としての倫理学」(岩波全書)刊。東京帝国大学教授。1935年 「続日本精神史研究」(岩波書店)。「風土-人間学的考察」(岩波書店)、「カント実践理性批判」(岩波・大思想文庫)刊。1937年 「倫理学」(上)(岩波書店)、「面とペルソナ」(岩波書店)刊。1938年 「孔子」(岩波・大教育家文庫)、「人格と人類性」(岩波書店)刊。1939年 法隆寺壁画保存調査会委員。「改稿日本古代文化」(岩波書店)刊。1940年 「改訂日本精神史研究」(岩波書店)。1942年 「倫理学」(中)(岩波書店)、「ニイチエ研究」(改訂版・筑摩書房)刊。1943年 「尊皇思想とその伝統」(岩波書店)刊。東京帝国大学評議員(-1947年)。1944年 「日本の臣道・アメリカの国民性」(筑摩書房)刊。1946年 「ホメーロス批判」(要書房)刊。1947年 「改訂古寺巡礼」(岩波書店)刊。学術研究会議第一回会員。国立博物館評議員会評議員。1948年 「ポリス的人間の倫理学」(白日書院)、「ケーベル先生」(弘文堂・アテネ文庫)、「ゼーレン・キェルケゴール」(改訂版・筑摩書房)刊。生成会創立同人。機関誌「心」発刊。編集委員。1949年 停年により東京大学教授依願免官。「倫理学」(下)(岩波書店)刊。文教審議会委員。国立博物館陳列品鑑査委員。日本学士院会員。1950年 「鎖国」(筑摩書房)、「イタリア古寺巡礼」(要書房)、「近代歴史哲学の先駆者」(弘文堂・アテネ新書)、「ニーチェ・愛する人々へ」(共訳・要書房)刊。日本倫理学会創立、会長(-1960)。文化財専門審議会専門委員(第一分科会)。1951年 「新稿日本古代文化」(岩波書店)、「埋もれた日本」(新潮社)、「私の信条」(共著・岩波新書)刊。1952年 「日本倫理思想史」(上下)(岩波書店)。「鎖国」に対し読売文学賞授与。その賞金により日本倫理学会賞を設ける。1953年 「日本倫理思想史」に対し毎日出版文化賞授与。1955年 「日本芸術史研究第一巻」(岩波書店)刊。日本ユネスコ国内委員会委員。文化勲章授与。「桂離宮-製作過程の考察」(中央公論社)刊。1957年 中央公論1月より「自叙伝の試み」連載。正倉院評議員会評議員。1960年 12月26日永眠。30日青山葬儀所で葬儀が行われた。1961年 「和辻哲郎全集」(全20巻・岩波書店)刊行開始。
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没年月日:1960/12/12 奈良国立文化財研究所長藤田亮策は、狭心症のため12月12日急逝した。明治25年新潟県に生まれ、大正7年東京帝国大学文科大学国史学科を卒業した。はじめ文部省維新史料編纂官補、宮内属として維新史あるいは陵墓等の調査研究にあたった。大正11年、朝鮮総督府に招かれ、古墳調査事務嘱託、朝鮮総督府鑑査官、同修史官を経て京城帝国大学助教授、同教授を歴任した。この間、終始朝鮮地方の考古学の先駆者として活躍し多くの業績をのこした。終戦とともに帰国、東北帝国大学講師、東京芸術大学教授として後進の指導育成にあたった。また文化財保護委員会発足と同時に文化財専門審議会専門委員に就任、文化財保護行政の推進に尽力した。昭和34年8月奈良国立文化財研究所長に就任し、特別史跡平城宮跡の発堀調査を指導しつつあった。その他、日本学術会議会員、正倉院評議員、日本考古学協会委員長などをつとめた。逝去に際し、生前における学術文化及び教育に関する功績に対し、正3位勲2等瑞宝章が贈与された。また12月20日奈良国立文化財研究所に於て所葬が行なわれた。主要著書目録朝鮮古美術写真集(小泉顕夫共著) 昭和2年朝鮮古代文化(岩波講座日本歴史のうち) 昭和9年杉原長次郎氏蒐集考古品図録 昭和19年朝鮮古文化綜鑑(梅原末治共著) 昭和22年朝鮮考古学研究 昭和23年
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