本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





白滝幾之助

没年月日:1960/11/25

日展会員白滝幾之助は脳軟化症のため東京都大田区の自宅で逝去した。享年88才。明治6年3月17日兵庫県但馬国に生れた。早くから父に別れ、母の手一つで育てられ、小学校卒業後は鉱山関係の仕事に奉職していた。明治23年上京して築地の工手学校に入学したが、和田三造の兄、和田正造にすすめられ生巧館画塾に入り画家となる決心をする。やがて黒田清輝の天心道場を経て美術学校に入学、明治31年に卒業した。この間、明治27年第4回内国勧業博覧会に「待ち遠し」が入選、褒状を受け有栖川官家買上となっている。38年、セントルイス万国博覧会を機会に渡米し、苦学しつつ、更に欧州に渡り、パリ、ロンドンに滞在して修業、7年後に帰朝した、米国、英国の留学によって肖像画に興味をおぼえ研究を重ねた。帰国後は文展に出品をつづけ、以後帝展、日展と戦後の晩年まで官展系の作家として、審査員として写実的作品を発表しつづけていた。 略年譜明治6年3月17日、兵庫県但馬国に生れる。明治23年 上京、工手学校、更に生巧館画塾に入り山本芳翠の指導をうける。又天心道場で黒田清輝に学び、美術学校に入学する。明治27年 第4回内国勧業博覧会に「待ち遠し」が入選、褒状をうける。明治31年 東京美術学校卒業。白馬会展に「稽古」出品明治38年 渡米、更に英仏に渡り44年帰国明治44年 第5回文展「老人肖像」「裁縫」(褒状)大正3年 第8回文展「野村氏の像」(二等賞)大正4年 第9回文展に無鑑査となり「撫子」「収獲」「某氏の像」を出品する。大正8年 第1回帝展「ハリス氏像」出品。大正9年 第2回帝展、「芍薬」「コンデル博士の像」出品。この年から審査員を屡々つとめ、以後官展の無鑑査出品をつづける。昭和3年 第9回帝展「マンドリーヌ」昭和6年 第12回帝展「松翁氏の像」昭和8年 第14回帝展「朝霧」昭和12年 第1回文展「新緑」出品昭和15年 奉祝展「富士」出品昭和23年 第4回日展「ミス・ムラタの像」昭和27年 26年度芸術院恩賜賞をうける。昭和28年 第9回日展「鶏舎」昭和35年 11月26日没

岸熊吉

没年月日:1960/11/23

古文化財の保存修理に長らくたずさわっていた岸熊吉は11月23日、脳溢血のため奈良市の自宅で逝去した。享年79才。明治15年1月8日福井市に生れた。中学時代に上京、明治31年東京美術学校図案科を卒業し、直ちに内務省宗教局国宝調査室で国宝建造物実測図のトレースの仕事に入っていった。同32年、京都府の社寺建造物修理技手を嘱託され、醍醐寺経蔵修理工場に、又本願寺飛雲閣修理工事場にも勤務した。大正10年奈良県技師に任ぜられ、以後退官までの20年間に県内国宝建造物約50棟の修理に関与した。その主なものは、東大寺南大門・転害門・大湯屋、興福寺東金堂、唐招提寺礼堂、当麻寺金堂・講堂、室生寺灌頂堂、春日神社本殿、石上神社拝殿その他がある。昭和9年、法隆寺国宝保存工事事務所より法隆寺国宝保存工事計画調査を嘱託され、更に16年、法隆寺国宝保存工事事務所長兼技師を嘱託された。20年同嘱託を解かれ、その後は文化財保護に関する各委員を委嘱され、34年には長年の功により紫授褒賞を授与された。

前川千帆

没年月日:1960/11/17

日展会員、日本版画協会相談役前川千帆は、11月幽門狭窄の手術ののち心臓衰弱のため17日逝去した。享年72才。本名重三郎。明治21年10月5日京都市に、石田政七の三男として生れた。同37年、父が死亡し、母方の親戚前川の姓をつぎ、関西美術院に学び浅井忠、次で鹿子木孟郎に3年間師事した。明治45年春上京、北沢楽天の東京パック社に入社、この頃から漫画に筆をとりはじめる。大正4年京城に渡り京城日報に勤め、更に6年東京に帰えり読売新聞、国民新聞社に勤務し、しばらくジャアナリズムの仕事に従っていた。大正8年第1回日本創作版画協会展に出品の頃から木版画の創作活動に入ったが、同時に新聞雑誌の挿絵、連続漫画も盛んに描き、「あわてものの熊さん」などで漫画家としても知られてもいた。版画は、版画協会展のほか、帝展、春陽会に出品する他、多くの版画と同じく、頒布会、或は小部数の出版による発表が非常に多い。各地を旅行したが特に中部から東北地方を愛したようで、東北地方の素朴な娘たちや温泉風浴、静かな風景を好んで描いている、其他、工場や、近代都会風俗を扱ったもの、草花図の類も少くないが、いずれも、木版の軽快な味を生かし、のどかで屈託のない画面をみせている。戦後は日展と日本版画協会展に出品していたが、35年「日版会」の創立に加わり、日本版画協会を退会し、相談役となったばかりであった。作品略年譜大正8年 第1回創作版画協会展に「病める猫」出品大正9年 第2回創作版画協会展に「雪の木場」出品昭和11年第4回創作版画協会展に「温泉(別所)」「郊外風景」その他出品、会員となる。以後同会には毎回出品する。昭和12年 関東大震火災にあい、再び読売新聞社に入社、連続漫画「あわてものの熊さん」を執筆、以後晩年まで、新聞、雑誌に漫画、挿絵、などをかいている。昭和2年 第8回帝展で初めて版画が受理されることになり「国境の停車場」を出品。昭和6年 第12回帝展に「屋上展望」第9回春陽会展「登山軌道」など出品。また新に、日本版画協会創立され、会員として加わり以後毎年出品。昭和16年 「浴泉譜」20回完成。「雑草」50回完成。その他「鰊場の女」「赤い手袋」等多数制作昭和17年 第7回文展「紙漉場」、新版画展に「庄内の女」「かくまきの女」その他出品。昭和19年 第9回文展に「訓練」出品、「続浴泉譜」20回完成昭和20年 4月、岡山県久米郡に疎開する昭和25年 第4回日展に「浴泉(第二)」出品。「花うり女」「梅林」その他。4月疎開先から上京、杉並区に居住昭和28年 第7回日展「温泉宿の二階」出品。他に「浴泉裸女」「踊り子」など昭和35年 日展会員となる。又日版会を創立したため日本版画協会を退会し、以後同会の相談役となる。10月4日幽門狭窄のため新宿の女子医大病院に入院、10月28日手術、11月6日再手術を行うも心臓衰弱のため17日逝去した。

金沢重治

没年月日:1960/11/17

創元会・日展会員金沢重治は、11月17日脳出血のため鎌倉市の自宅で逝去した。明治20年10月27日東京市本郷区に生れた。明治40年東京美術学校に入学、同45年西洋画科選科を卒業した。大正3年第8回文展に「裸体」が初入選となり10回、12回展を除いて毎回出品入選し、帝展第7回展の「晩夏」、更に第8回展の「庭」で特選をとり無鑑査となった。また、大正13年、牧野虎雄、吉村芳松、熊岡美彦等と槐樹社を創立し、昭和6年会の解散まで回展に出品、「冬の庭」などの作品がある。昭和15年12月、創元会の創立に参加し、回展では「山路」(4回展)、「梅」(8回展)「鎌倉妙本寺」(11回展)、「冬の鎌倉」(13回展)、芽ふく頃(14回展)などがあげられる。一方、日展には第1回展から出品のち出品依嘱者となって没年まで作品を送り「鎌倉風景」「横須賀線」「竹藪」「鎌倉安国論寺」「竹林」等がある。

福島繁太郎

没年月日:1960/11/10

美術評論家福島繁太郎は11月10日熱海市の自宅で動脈硬化症のため逝去した。明治28年(1895)東京生れ。大正10年(1921)東大政治学科卒業後すぐに英国に留学(1922年まで)、つぎにはフランスに定住(1923~34)し、やがてドラン、ルオー、ピカソ、マチス等現代絵画の大作家たちの優れた作品の蒐集に向い、一時それは100点以上に達した。これがいわゆる福島コレクションで、その特色は何よりも精選された作品よりなるところにあった。この大部分は日本にもたらされたため、日本現代美術史上無視しえない大きな影響を与えたと思われる(1955年4月「みづゑ」臨時増刊「旧福島コレクション」には76点掲載されている)。また彼はパリで評論家ワルドマー・ジョルジュを主幹とした高級美術雑誌「フォルム」を昭和3年(1928)から数年発行し、新人を発見することに努めたが、これは戦後銀座で画廊フォルムを経営し有望な新人を育成したことに連なるものである。なお美術評論家として新聞雑誌で活躍したが、「印象派時代」(石原求竜堂、初版昭和18年)「エコール・ド・パリ」Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ(新潮社昭和23~26年)「フランス画家の印象」(毎日新聞社昭和25年)「ピカソ」(新潮社昭和26年)「近代絵画」(岩波書店・岩波新書昭和28年)「ルオー」(講談社・アートブックス昭和29年)「ルオー・原色版画集」(新潮社昭和33年)等がある。

上野為二

没年月日:1960/09/04

日本工芸会々員重要無形文化財友禅染技術保持者上野為二は、9月4日京都市中京区の自宅で心臓衰弱のため死去した。享年59才。明治34年4月16日京都市に生まれたが、父親が明治後期から大正の友禅界における図案技術両面の第一人者であったから後に家業の友禅染を研究制作するようになった為二は生まれながらにして恵まれていた。大正5年京都美術工芸学校を中退し、その年西村五雲の塾に入って日本画を学び、大正9年には関西美術院に入って洋画を学んだ。こうして日本画・洋画を学ぶことによって染織図案の基礎を修得、大正14年ごろより父清江の指導下に家業手描友禅の本格的な修業に入り、研究制作に従事した。図案・技術共に優れ、特に加賀友禅の染織技法を研究して自己のものとした点、並びに絵羽模様として常に着装上からも安心のおける新しい立派な意匠であったこと等が注目されていた。昭和28年11月友禅染の技術を無形文化財に指定され、同30年5月重要無形文化財の友禅染技術の保持者に認定された。日本工芸会に属し、日本伝統工芸展に出品、審査員をつとめていた。

安宅安五郎

没年月日:1960/09/01

洋画家、日展会員安宅安五郎は、9月1日パーキンソン氏病のため逝去した。享年78才。明治16年4月22日新潟市に生れ、同43年東京美術学校を卒業した。同年第4回文展に「靴屋」「花壇」の二点が初入選となり洋画家としての第一歩をふみだした。翌年も入選、さらに第6回、7回展で「花園にて」、「緑の蔭」、が褒状となった。その後明るい戸外の、印象風の作風から、綿密な写実的描写に移り、帝展では、第1回展の「白蓮樹」、第2回展の「砂丘に立つ子供」、第4回展「裏通り」で連続3回特選をうけて無鑑査待遇となった。大正10年から翌年まで欧洲各地に遊学し、帰国後の作品は主観的な傾向に向い、第8回展「五人の子供」、12回展「浜の娘」14回展「刺繍」などがある。 なお、この間昭和3年に、明治神宮壁画「教育勅語下賜」を制作した。新文展、日展と終始官展系作家として活動していた。戦後は、日展には出品依嘱者として、又審査員として「ブドウと少女」、(第4回)、「北国の漁村」(7回)などの出品があるが作品は少ない。昭和31年、中国人民共和国対外文化協会の招きで日本文化代表団の一員として中国に赴いた。

佐藤一章

没年月日:1960/08/29

洋画家。東光会々員、日展評議員の佐藤一章は、8月29日、胃かいようのため東京世田谷の国立大蔵病院で逝去した。享年54才。本名章。明治38年岡山県小田郡に生れ、昭和4年東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中から帝展に出品し、昭和2年第8回帝展で「後向きの裸婦」が初入選となった。その後も帝展、に出品をつづけ、9年に「公記字号」で特選となり、つづいて新文展時代は無鑑査待遇をうけた。なお東光会は発足当初から参加し、会員として、運営委員として活躍していた。第二次大戦後は日展に審査員として、又出品依嘱者として作品を送っている。昭和25年岡山大学特設美術科教授となり30年迄勤務していた。写実的な作風で風景画が多い。 略年譜昭和2年 東京美術学校在学中、第8回帝展に「後向き裸婦」が初入選となる。昭和4年 東京美術学校西洋画科卒業。帝展には、この頃毎年出品する昭和5年 北支、満州、朝鮮に旅行昭和7年 東光会の創立に加わる昭和9年 第15回帝展出品の「公記字号」特選となる。上海、蘇州、杭州に旅行昭和11年~19年 文展無鑑査待遇をうける昭和21年 第1回日展「根雨の雪」昭和22年 第3回日展審査員「働らく少女」昭和23年 第4回日展審査員「雪の朝」昭和25年 第6回日展、出品依嘱「春潮」。岡山大学特設美術科教授となる。(30年退職)。又、この年岡山県文化賞受賞する。昭和26年 第7回日展出品依嘱者「残雪」昭和32年 第13回日展審査員、「残雪駒ケ岳」(政府買上)昭和33年 第14回日展日展評議員となる「老樹」出品。昭和34年 第15回日展「樹林」昭和35年 8月29日逝去。遺作「那須ケ岳」

古茂田守介

没年月日:1960/07/21

新制作派協会々員古茂田守介は、7月21日ゼンソク発作のため東京都目黒区の自宅で逝去した。享年42才、大正7年1月5日愛媛県松山市に生れ、北予中学卒業後、上京して猪熊弦一郎、ついで脇田和、内田厳等に師事した。昭和14年中央大学法科を中退し、大蔵省に勤務、翌年新制作派展に初入選した。更に翌16年外務書記生として北京大使館に勤務したが、18年に帰国し、戦後21年大蔵省を退官した。この年新制作協会に出品し新制作作家賞を受け、以後同会に連年作品を送り、25年同会々員となった。新制作協会の他造型版画協会、アンデパンダン、国際展、国際具象派展などの出品がみられ、個展を屡開催している。黄土色や暗褐色、くすんだ緑色等を主調とする静物画や裸婦は、独特の画風をもつものであった。主要作品歴昭和21年 「踊り子達」「臥せる女」10回新制作派協会展昭和22年 「踊子」「踊子を配せる群像」。11回新制作派協会展昭和23年 「踊る群像」「シュミーズの女」12回新制作派協会展昭和24年 「工房」「うづくまる裸婦」「背を向ける裸婦」13回新制作派協会展昭和26年 「両架を配した裸婦」「裸婦と静物」15回新制作派協会展昭和27年 「裸婦と街」「裸婦二人」16回新制作派協会展昭和28年 「二人の裸婦」「母子」17回新制作派協会展昭和30年 「静物」(1)(2)19回新制作派協会展昭和31年 「作品」(1)―(5)20回新制作派協会展昭和32年 「裸婦」(A)(B)21回新制作派協会展昭和33年 「腰をかけた裸婦」「体をひねった裸婦」22回新制作派協会展昭和34年 「干魚と水差」5回日本国際美術展

河合弥八

没年月日:1960/07/21

文化財保護委員会委員長河合弥八は、かねて胆のう炎のため東京医科歯科大学附属病院に入院中閉塞性黄疸を併発し、7月21日逝去した。明治10年静岡県に生まれ、同37年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、文部省に入り、のち佐賀県内務部学務課長、貴族院書記官、法制局参事官、貴族院書記官長等を経て、内大臣秘書官長、更に侍従次長、皇后太夫、帝室会計審査局長等を歴任した。昭和13年には勅選により貴族院議員に任ぜられ、同22年には静岡地区より参議院議員に選ばれ、同28年には参議院議長となった。政界引退後、同31年文化財保護委員会委員長となり、欧州に於ける日本古美術展、国立劇場建設準備等に手腕をふるった。政府はその逝去に当り、その生前の功を讃えて、従二位に叙し、併せて勲1等旭日桐花大綬章を贈り、天皇陛下より勅使の差遣があった。

大谷房吉

没年月日:1960/07/10

洋画家、国画会々員で株式会社明治屋専務でもあった大谷房吉は7月10日脳軟化症のため神戸市東灘区の自宅で逝去した。享年70才。明治23年4月17日和歌山市に生れた。明治41年慶応義塾商業学校卒業、国画会には第1回展より出品し、昭和9年第9回展で「無花果」「椿」「鷲巣山」ほか2点を出品し国画奨励賞をうけた。第10回展には「滝」外5点が入選、会友に推された。昭和12年会員、会友制を廃し同人制に改めたため、同会同人となる。18年、会は再び同人制を廃し会員、会友制を復活し大谷は新に会員となった。国画会に毎年作品を出し、また、奉祝展、新文展に「麓の朝」(4回)「全暉」(6回)などを出品したこともある。戦前の国展には「山荘」(15回)、「牡丹」「山麓秋色」(18回)戦後の作では「干魚」「赤絵と蜜柑」(23回)、「静物」「窓辺風景」(26回)、「厳島」(27回)、「石庭」(30回)などがある。

名取春仙

没年月日:1960/03/30

日本画家名取春仙は、3月30日東京青山の同家の菩提寺で妻繁子と共に自殺した。春仙は本名芳之助。明治19年東京市麻布区に生れた。中学時代から久保田米僊、金僊の司馬画塾に入門し、春僊と号した。仙は略字として用いた。明治30年代の作品には、「牧牛」(真美会・明治35)、「奈良の春」(丹青会・明治36)、「遮那王(牛若)」(日本画会・明治38)、「救世軍」(明治絵画協会・三等賞・明治40)などがある。結城素明、平福百穂に注目され新日本画運動に加わり旡声会に出品、「獅子と麟麟」「田舎の靴屋」など出品、また、「松助の顔」(43年)「韮山の太閤」(44年)もこの頃の作である。琅玕洞に度々出品し、やがて大観、観山に認められ日本美術院にも出品するようになった、また珊瑚会の創立にも加わり、「伊豆の春」「緑の裡の光」などがある。然し、大正8年頃から制作にも、生活にも懐疑的になり、余技であった劇画に逃避し、その後は演芸画報、その他新聞雑誌の口絵、挿絵に筆をすすめ、松坂屋、三越、伊勢丹などデパートに於ける劇画展、個展に屡々芝居絵を出品した。又、「大日本神典画巻」の制作にも着手している。挿絵には漱石の「三四郎」、藤村の「春」、長塚節の「土」の執筆があり、「金色夜叉画譜」(清美堂版)、「春仙似顔集」(渡辺版)その他一枚刷の版画制作も少くない。

瑛九

没年月日:1960/03/10

油絵・版画・写真の各部門で早くから前衛的な活動の軌跡を残してきた瑛九(本名杉田秀夫)は3月10日心臓障碍のため没した。1930年代の初期スュルレアリスム運動の一端としてフォトグラム、フォトデッサンに新鮮なヴィジョンを展開し、後エッチング、ついでリトグラフおよび油絵制作にもたずさわった。略年譜明治44年 4月28日宮崎市、眼科医杉田直の次男として生れる。大正14年 日本美術学校入学、1年で退学。昭和2~3年 美術雑誌「アトリエ」「みずゑ」等に美術批評を寄稿。昭和5~8年 写真雑誌「フォトタイムス」に写真および写真批評を発表。昭和9~10年 油絵制作に専念。昭和11年 新時代洋画展同人となる。この時から瑛九の名を用いる。外山卯三郎氏の手によりフォトデッサン作品集「眠りの理由」を出版。昭和12年 自由美術家協会創立参加、第1回展にフォトモンタージュ5点発表。第2回展をブリュツケ画廊で開催。昭和14年 宮崎市で個展開催。昭和15年 この頃から作品を制作しても発表しない。昭和24年 美術団体連合展、自由美術家協会展に出品。自由美術家協会展出品油絵作品「正午」「街」「コレスボンド」「出発」。昭和25年 10月上野松坂屋で第1回フォト・デッサン展を開く。第14回自由美術家協会展出品作品「海」「小さき生活」「キッサ店にて」。昭和26年 1月宮崎市商工会議所でフォト・デッサン展を開く、この時「瑛九後援会」がつくられ、パンフレット「芸術家瑛九」が出版される。2月宮崎県教育会館で個展開催。8月宮崎より上京。浦和市に住む。新樹会に出品。第2回フォト・デッサン集「真昼の夢」出版。油絵「妻の像」「雲と水」等製作。昭和27年 3月神田タケミヤ画廊でフォト・デッサン展。11月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。3月エッチング集「小さな悪魔」「不安な街」を出版。デモクラート美術家協会第1回展出品。昭和28年 8月神田タケミヤ画廊でエッチング展開催。「鳥夫人」「道のプロフィル」などエッチング多数制作。昭和29年 8月神田文房堂で油絵展開催。油絵「赤い輪」「駄々つ子」フォト・デッサン、エッチングを多数制作。昭和30年 1月高島屋でフォト・デッサン展、4月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。昭和32年 4月タケミヤ画廊でリトグラフ展、6月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。第1回国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ作品「旅人」「日曜日」出品。他にエッチング多数制作。昭和33年 5月武生市公会堂でリトグラフ展、8月大阪白鳳画廊で泉茂とリトグラフ展開催。油絵「丸1」「丸2」「午後」等制作。昭和34年 10月発病入院。11日埼玉県大宮小学校での現代日本洋画展にリトグラフ出品。油絵「黄」「翼」等制作。昭和35年 2月銀座兜屋画廊で個展開催。3月10日心臓機能不全のため神田淡路町同和病院で逝去。参考文献 久保貞次郎「淡九のフォト・デッサン」(みずゑ542 昭和25年12月)、長谷川三郎「手紙」(みづゑ552昭和26年8月)、滝口修造「瑛九のエッチング」(美術手帖74 昭和28年10月)針生一郎「瑛九-われを異色作家とよぶ」(芸術新潮11-3 昭和35年3月)滝口修造「ひとつの軌跡―瑛九をいたむ―」(美術手帖173 昭和35年5月)、オノサト・トシノブ「瑛九の芸術」(現代の眼66 昭和35年5月)。以上主として国立近代美術館「4人の作家」展(4月28日―6月5日)目録によった。

橋本朝秀

没年月日:1960/01/31

日展(第3科・彫塑)評議員、橋本朝秀は、1月31日午前10時6分心蔵衰弱のため東京医科歯科大学付属病院で死去した。享年60才。明治32年8月26日福島県安達郡に生れた。本名秀次、大正8年上京して本郷絵画研究所でデッサンを学び、山崎朝雲に師事して木彫を修業した(昭和3年まで)。大正14年第6回帝展に「幻想」初入選以来7・8・9・10回展と5回連続入選、「法悦」(11回帝展)と「悉地」(12回帝展)で特選、その翌年無鑑査となったのち、引続き文・日展に出品した。昭和18年第6回文展に審査員に挙げられ、また昭和23年弟4回日展出品の「飛天」は政府買上げとなり、第5回・第7回・第9回日展審査員となり、第10回出品の「華厳」で昭和29年度日本芸術院賞を受けた。この間、昭和4年仏蹟及び仏教美術研究のためインドに滞在6ケ月の遊歴をなし、昭和16年夏、蒙彊大同石仏研究のため中国へ赴き、帰路満州、朝鮮の仏像を研究して帰った。戦後は、特に作家生活の円熟完成期に入ると共に、山崎朝雲門下の逸材として頭角をあらわし、日展参事として、また新日展評議員として活躍し、木彫界の有力な存在であった。作風は伝統木彫を基盤にし、殊に晩年は知己有志と共に仏典に関する小研究会をもつなど、その造詣を深めるとともに自己の制作に活かし、主として仏像に独自の新しい解釈を試みたが、現代において伝統的な刀技法を保持する数少ない木彫家の一人であった。人格の円満誠実さと制作に対する一途の努力と精進は知友の間で誰しも敬服するところであった。尚、官展以外に日本美術協会、東邦彫塑院、日本彫塑家倶楽部(昭和31年副委員長)等の各展覧会に作品を発表した。また昭和30年、栃木県今市市・報徳館前建立の「二宮尊徳翁像」(報徳百年祭記念)の記念像作品がある。

上野山清貢

没年月日:1960/01/01

洋画家、「一線美術」創立会員上野山清貢は1月1日逝去した。亨年71才。明治22年北海道江別市に生れた。太平洋画会研究所に学び、のち、黒田清輝、岡田三郎助の指導をうけた。大正末期から官展に出品をつづけ戦後は日展に及んでいる。大正13年第15回帝展に「とかげを弄び夢見る島の小女」が初入選となり、つづいて第7回、第8回、第9回帝展で「パラダイス」、「F壌の支那服を纏える」、「室内」が連続特選となり画壇にみとめられた。以後無鑑査待遇をうけ帝展時代には12回展「嵐の前」13回展「暮色」15回展「ある日の広田外相」などがある。新文展になってからは、2回展「極北企業地風景」、3回展「摩周湖の秋」、奉祝展の「熱風」、5回展「鳩山氏像」等があげられる。尚塊樹社展で受賞したこともあり旺玄社展、全道美術展、一線美術展には毎回出品をつづけていた。一線美術は、昭和25年に岩井弥一郎、別府貫一郎等と創立した洋画団体である。又郷里北海道に、全道美術協会を設立し、展覧会をひらく等同地の洋画発展にたえず努力していた。昭和28年11月、北海道画壇に貢献した足跡を認められ北海道新聞社文化賞を受賞した。

北大路魯山人

没年月日:1959/12/21

陶芸家北大路魯山人は、12月21日、横浜市立医科大学(十全病院)で肝硬変のため逝去した。享年76歳。本名は房次郎。陶芸家としてのほかに、食通としても知られ、また、書や篆刻、画もよくした。明治16年3月23日、京都上加茂神社の社家に、社人北大路清操の次男として生まれた。しかし、出生前に父親が死亡していたため、次々と養父母が変り、愛情に恵まれない数奇な幼年期を過ごした。小学校を卒えると、直ちに薬屋に丁稚奉公したが、2、3年たつた頃、日本画家を志して薬屋をやめ、再び養家(福田)に戻る。日本画にかかる費用を、養父の篆刻の手伝いや書で稼いでいたところ、たまたま書家としての天稟を認められ、やがて書道と篆刻で立つことになつた。明治41年朝鮮に渡り、総督府の書記となつて書道と篆刻の研究に打ちこむ。後、総督府をやめて内地に戻り、明治末ごろから大正にかけては、京都の内貴清兵衛の許で、溪仙、麦遷、御舟等と交遊する。この頃から食通の才をあらわしはじめ、やがて上京して、駿河台で書と篆刻で生計を図るかたわら、大正10年には、京橋に美食倶楽部をはじめる。そこが震災で焼けてからは、美食倶楽部を星ケ岡茶寮に移し、昭和12年まで共同経営し、自ら厨房長となつて腕をふるい、政界財界の食通人の間に名声を博した。魯山人が作陶を始めた動機は、その折、自分の作つた料理を盛るのにふさわしい器がないという理由から、その食器も自分で作ろうとしたことにはじまる。こうして、料理に適した食器の研究、制作が続けられ、その手になる器皿は食器としての最上の効果を発揮するとまで称讃されるようになつた。 後、北鎌倉の窯場(神奈川県鎌倉市)に定住して作陶に専心、ますます陶芸家としての名声が高くなつた。また、イサム・ノグチの作陶上のよき師でもあり、そのイサム・ノグチとロックフェラーの招きで、昭和29年米国と欧州に遊び個展を開いた。この個展は、魯山人の名声を国際的なものにし、その評判は、更に、わが国の陶磁を世界に再認識させる契機ともなつた。魯山人は、終始一切の会に所属せず、独自の研究と作風で制作を続け、個展は70回近く開いたといわれるが、個展以外はどのような展観にも出品せず、完全に陶芸界を独歩した。その、稀に見る豪放な風格、広範な作域、格調高い作品で孤立する様相は、まさに不世出の巨匠が、他にぬきんでて、高く鋭く聳えている感があり、常時、わが国現代の陶芸界における無所属作家の筆頭にあげられていた。作陶上の芸域はひろく、中国明代の染付、赤絵、金襴手はもとより、わが国の志野、織部、黄瀬戸、信楽、備前、古九谷、乾山等の格調をよく自己のものとし、現代にその魅力を生かす手腕は驚くべきものがあつた。中でも特に、桃山茶陶風の志野、織部、備前を素材としたものが得意であつた。作調は、全く自由奔放、しかも創意に満ち、独自の風格を持つた優作が夥しく生まれている。しかるに、芸術上では優秀性を存分にあらわしたと思える稀代な個性、魯山人の性格は、一たび人間として社会生活を行うという段になるとまことに芳しくなかつたようである。その個性は強烈な癖となつてあらわれ、人人を遠ざからせたようで、人々が魯山人の人物に関して云々するのに、「我儘」、「奔放」、「傲慢」、「横柄」、「辛辣にすぎる苦言」、「相手の傷に指をさしこむような苛虐さ」、「罵声や放言にも似た作品批評や人物批評」、「驚くべき自画自讃」、「なんて嫌な、なんて憎たらしい奴」、「全く腹にすえかねる」等々……。このような、法外に我儘な、過度に奔放な言動がわざわいして、遂には肉親からも弟子からも離れられ、魯山人の芸術を高く評価する数多の人々からも極度に敬遠されたのは、魯山人にとつて事実まことに残念なマイナス面であつた。

山口正城

没年月日:1959/12/05

日本アブストラクト・アート・クラブ会員、国立千葉大学工学部工業意匠学科教授山口正城は、12月5日気管支肺炎のため逝去した。享年56歳。明治36年(1903)1月22日北海道旭川市の洋品店に生れた。大正15年(1926)東京高等工芸学校卒業後、大阪市立工芸学校教諭に就任し、以来デザイン教育にたずさわりながら、制作を続けてきた。自由美術家協会には第1回から出品し、3回展の小品5点は2・3の新聞評にも取上げられた。人間を取囲むすべてのものの中に美を探るのは美術家の常であるが、そこから美をパターンとして抽出し、意識的に造形の原理と照合し、原理に汲み込むということは実技家には少ない態度である。彼の日本美術界における位置の特異性はそこにあつた。そして純粋な形体構成に関心を抱く以上、高等数学や自然科学にも造詣が深く、多分に知的な興味を伴いながらも、ひからびたパターンの組合せに終ることがなかつた。作品は当初から全く抽象的であり、自由美術家協会展出品以外には制作の数は限られているが、近年になつて他の抽象展などにも出品するようになつた。日本紙に墨または淡彩の画面にカラスグチで引いた鋭い線でリズムを与えた最近の作品はしだいに認められてきたところであつた。デザイン学会前委員長。〔作品記録〕自由美術家協会1回展(1937)「形態No.3」(フオトグラム)、2回展不出品、3回展(1939)小品「分岐せるもの」「集合せるもの」「模倣せるもの」「対話態」「包囲せるもの」協会賞受賞、4回展(1940)小品連作「屈折」「分散」「分割」「分列」「拡散」「隔在」5回展から12回展まで不明、13回展(1949)「線群」(分離構造)、(屈折構造)、(習作)、14回展(1950)「モルペー」A、B、「線群」A、B、15回展不明、16回展(1952)「デッサン52-15」、17回(1953)「カノン」1(空虚における)、2(対抗における)、3(流動における)、4(休止に向う)18回展不明、19回展(1955)「溶けるカノン」、20回展(1956)「朝のカノン」21回展(1957)「凍るカノン」、22回展(1958)「朝の歌」日本国際美術3回展(1955)「鬼の執心」「鬼の変心」、4回展(1957)「夏のこだま」(水彩)、5回展(1959)「雷心」現代日本美術1回展(1954)「鬼の対話」A、B、(水彩)2回展(1956)「黒いカノン」「赤いカノン」、3回展(1958)「5月の雨」「炎の歌」抽象と幻想展(1953、国立近代美術館)「視線方向のカノン」日米抽象美術展(1955、国立近代美術館)「男鬼のささやき」「女鬼のささやき」世界の中の日本抽象美術展(1957ブリジストン美術館)「春のこだま」「おさないカノン」「冬の山彦」「たそがれ」世界の中の抽象・日伊美術展(1959・白木屋)「近づくもの」(遺作)(海外展)アブストラクト・アーティスト展(米・リヴァサイド美術館・1954)、ブルックリン国際水彩画展(米・1955)、アメリカ水彩画協会展(米・1957)、日本3人展(伊・1959)等に出品。〔デザイン〕山葉ピアノ・三協8ミリカメラ他〔著書〕「新しい紙の工作」新光閣1952、「デザイン小辞典」(共編)ダヴィット社1955、「機械とデザイン」河出書房1956、「デザインの基礎」(共著)光生閣1960、「造形とは」美術出版社1960 〔略歴〕明治36年 旭川市に生れる。大正15年 東京高等工芸学校卒業、大阪市立工芸学校図案科教諭昭和14年 京都市立第二工業学校玩具科教諭昭和14年 自由美術家協会を美術創作家協会と改称し会友となる。昭和15年 同会員昭和19年 滋賀県琵琶航空工業株式会社技師昭和22年 滋賀県高宮木工補導所長昭和23年 大阪市立工芸高等学校へ復帰昭和23年 6月、東京工業専門学校教授昭和24年 千葉大学工学部工業意匠学教室助教授昭和27年 同教授昭和28年 日本アブストラクト・アート・クラブ設立昭和34年 自由美術家協会退会・日本抽象作家協会設立昭和34年 12月5日死去

小早川篤四郎

没年月日:1959/11/27

東光会委員、日展会員小早川篤四郎は、11月27日東京都目黒区の自宅で心臓マヒのため逝去した。享年66歳。明治26年1月6日、広島市に生れた。幼少のころ、台湾移住、同地で兵役前に石川欽一郎に水彩画の手ほどきをうけている。兵役2年を終えて上京し、自活しながら本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助の指導をうけた。大正14年第6回帝展に「ジャワ婦人」が初入選となり、その後、第7回展をのぞき、昭和9年第15回帝展まで毎回入選して、12年の第1回文展では無鑑査となつた。また、この年9月、海軍に従軍を許されて、上海方面に出発し、その後も度々従軍して第3回文展「蘇州河南岸」など、戦争記録画の制作発表が多くなつていつた。一方、槐樹社にも参加して、同展で田中奨励賞を数回うけ、昭和6年会友となつたが、この年槐樹社は解散した。翌7年、東光会の創立に参加、会友となり、10年には会員に推され、晩年は同会委員であつた。又、戦後の日展では出品依嘱作家として毎年出品していた。 作品略年譜大正14年 第6回帝展「ジャワ婦人」大正15年 この年から槐樹社展で田中奨励賞を3年連続うける。昭和2年 第8回帝展「裸像」昭和3年 第9回帝展「裸体坐像」昭和4年 第10回帝展「仰臥裸婦」昭和5年 第11回帝展「少女全像」昭和6年 第12回帝展「水兵服」昭和7年 第13回帝展「裸女」昭和10年 2月第3回東光会展「桜井少将立像」「廟前」他昭和12年 第1回文展「黒い屏風の前」(無鑑査)昭和14年 第3回文展「蘇州河南岸」第7回東光会展。従軍報告画出品「塹壕と花」他昭和15年 紀元2600年奉祝展「庭」第8回東光会展「陣地小閑」「黒衣の少女」昭和16年 第4回文展「秦淮凉風」(無鑑査)第9回東光会展「庭」「広西前線」昭和17年 第10回東光会展「敵前上陸」「U夫人像」昭和19年 戦時特別文展「暁雲」第12回東光会展「印度洋海戦」「南衣」「魚雷射つ海兵」昭和22年 第13回東光会展「つれづれ」「新装」昭和24年 第5回日展「青衣」第15回東光会展「作州雪景」「初春」昭和26年 第7回日展(依嘱出品)「裸婦」第17回東光会展「城跡」「作北冬景」「春衣」昭和27年 第8回日展(依嘱出品)「黒屏風」第18回東光会展「城址の春」昭和28年 第9回日展(依嘱出品)「ヴェランダ」第19回東光会展「屏風の前」「歯科診療室」昭和29年 第10回日展(依嘱出品)「裸婦坐像」第20回東光会展「浅春画房」「早春城跡」昭和30年 第11回日展(依嘱出品)「婦人像」第21回東光会展「窓辺」「孔雀」昭和31年 第12回日展(依嘱出品)「黒いドレス」昭和33年 第1回日展(依嘱出品)「白かすり」第24回東光会展「婦人像」「五月雨頃所見」昭和34年 第2回日展「池畔」日展会員となる。第25回東光会展「茶羽織」「T女子像」「古城早春」

阿部次郎

没年月日:1959/10/20

東北大学名誉教授・日本学士院会員・日本芸術院会員阿部次郎は10月20日東北大附属病院で脳軟化症のため逝去した。享年76歳。明治16年8月27日山形県飽海郡に生れた。家は代々名主格の半農半商で、父は小学教員であつた。明治40年東京帝大哲学科を出たのち明治42年頃から夏目漱石の門に出入し、文芸評論にたずさわりながら、哲学・美学・文化史等の研究にも進んだ。とりわけ、ゲーテ研究、日本文化史研究は晩年まで続く研究課題であつた。柔軟な感性と高度の教養主義を背景とする人格主義の理想は、大正期知識人のある典型を示すものであるが、その影響は今日もなお絶えていない。 略年譜明治34年 第一高等学校入学明治37年 東京帝国大学哲学科進学明治42年 漱石門に出入する大正2年 慶応義塾大学で美学を講ずる。大正3年 トルストイ「光あるうちに光の中を歩め」新潮社刊(翻訳)「三太郎の日記」東雲堂刊大正4年 「三太郎の日記第弐」岩波書店刊大正5年 リップス「倫理学の根本問題」(抄訳)岩波書店刊大正6年 「美学」岩波書店刊創刊誌「思潮」主幹大正7年 「合本三太郎の日記」岩波書店刊大正8年 「ニィチェのツァラツストラ、解釈、並びに批評」新潮社刊大正9年 満州旅行大正10年 プラトン「ソクラテスの弁明」「クリトン」(久保勉と共訳)岩波書店刊東北大学法文学部へ招聘される大正11年 文部省在外研究員として渡欧「地獄の征服」「人格主義」岩波書店刊「北郊雑記」改造社刊大正12年 東北帝国大学教授になり、美学講座担当。昭和6年 「徳川時代の芸術と社会」改造社刊昭和9年 「文芸評論第二輯 世界文化と日本文化」岩波書店刊昭和14年 「ヰ゛ルヘルム・マイスター遍歴時代」(翻訳)上・下、改造社刊(「ゲーテ全集」)「秋窓記」岩波書店刊「ファウスト第1部」(翻訳)改造社刊(「ゲーテ全集」)「ファウスト第2部」(翻訳)改造社刊(「ゲーテ全集」)昭和15年 「英訳万葉集」日本学術振興会刊、序論分担執筆昭和16年 東北帝大法文学部部長に就任。軽度の脳出血発病。昭和17年 法文学部長を免ぜられる。昭和20年 東北帝国大学教授を停年退職。「万葉時代の社会と思想」「万葉人の生活」(日本叢書)生活社刊昭和21年 東北大学名誉教授の称号をうける。昭和22年 「阿部次郎選集」6巻 羽田書店刊日本学士院会員に任ぜられる。昭和24年 「残照」羽田書店刊昭和25年 「三太郎の日記補遺」角川書店刊昭和34年 10月20日死去

清水六和

没年月日:1959/08/01

日本芸術院会員清水六和は、8月1日京都市の自宅において逝去した。享年84歳。明治8年3月6日四世六兵衛の長男として、京都に生まれた。京都府画学校に学んだが、中退して、祥嶺と号して幸野楳嶺に日本画を学び、父四世六兵衛について陶法一般を学んだ。明治28年に楳嶺が没してからは、谷口香?に日本画の指導を受けた。明治29年に京都市立陶磁器試験場が設立されると、そこで特別な指導を受け「マジョリカ」の製法その他を研究、また初代の場長藤江永孝と全国の陶業地を巡つて陶技その他を見学、伝統的な清水焼の陶法の研修に加えて、広く種々な研究を重ねた。明治35年ごろからは、父四世の代作に勉め、大正3年には五世六兵衛を襲名した。その頃から頻々と各種各地の博覧会の審査員を委嘱された。大正11年、フランス政府からサロン装飾美術部の会員に推され、勲章を贈られる。昭和2年帝展工芸部創設の際には審査員に推され、以後、連続審査員。昭和5年には、帝国美術院会員となり、昭和12年には日本芸術院会員となる。昭和21年には五世六兵衛を隠退し六和と号し、六世六兵衛を長男正太郎に襲名さす。昭和33年3月新発足の日展では顧問となる。六和は長い生涯の半生以上を、京都陶壇における官展系の重鎮として送つた。その作風は、枯淡で素朴な渋味があり、更に、優雅な気品と独特の色沢を備える調子の高いものであつた。 略年譜明治8年 3月6日 四世六兵衛の長男として京都に生まれる。明治15年頃 この頃京都府画学校中退。幸野楳嶺に日本画を、父四世六兵衛に陶法一般を学んだ。明治28年 楳嶺が没したので、谷口香★に日本画の指導をうける。明治29年 京都市立陶磁器試験場が設立され、そこで特別な指導をうける。明治35年頃 この頃から父四世の代作に勉める。大正3年 五世六兵衛を襲名。大正5年 農展出品作「紅梅小禽花瓶」二等賞になる。大正6年 農展出品作「青華烏瓜花瓶」一等賞になる。この作品は宮内省御買上となり、後年我が皇室からスエーデン皇帝に御贈進の趣。大正11年 商工展出品作「染付春草花瓶」、無鑑査。フランス政府からサロン装飾美術部の会員に推され、オフシュド・ロルドル・ド・レトアル・ノアール勲章を贈られる。大正14年 仏国美術展出品作「音羽焼納涼美人掛額」これは仏国政府買上となる。大正15年 御物「着彩富貴長春花瓶(一対)」。太子展出品作「大礼磁仙果文花瓶」、審査員。これは京都市美術館蔵となる。昭和2年 第8回帝展に工芸部創設、審査員になる。以後、帝展連続審査員。この年の出品作「青華百日紅花瓶」昭和3年 第9回帝展出品作「古城文蒼二花瓶」「繍花文皿」。この中後者は久邇宮家御買上。昭和4年 第10回帝展出品作「磁製多宝塔香炉」。国際美術展出品作「青磁耳付花瓶」、審査員、これは外務省買上。昭和5年 第11回帝展出品作「磁製柘榴花瓶」。第2回太子展出品作「大礼磁草花文花瓶」審査員。京都美工展出品作「青華葡萄文花瓶」審査員。昭和6年 京都美工展出品作「青磁耳付花瓶」審査員。昭和7年 第13回帝展出品作「仙果文飾皿」昭和8年 第14回帝展出品作「魚★文天目茶★」昭和9年 第15回帝展出品作「台子飾(一揃)」板谷波山、香取秀真、赤塚自得、清水六兵衛の綜合作。昭和11年 2月改組第1回帝展出品作「耀星花瓶」10月の文展鑑査展及び11月の文展招待展に「陶磁飛★花瓶」を出品。昭和12年 6月14日、日本芸術院会員となる。昭和13年 第2回文展出品作「青磁花瓶」昭和15年 紀元二千六百年奉祝展出品作「陶秋草手炉」昭和16年 第4回文展出品作「青磁花瓶」昭和17年 第5回文展出品作「青磁花瓶」昭和19年 戦時特別文展出品作「国華花瓶」昭和21年 五世六兵衛を隠退し六和と号す。昭和22年 第3回日展出品作「清水窯水指」昭和23年 第4回日展出品作「青磁花瓶」昭和24年 第5回日展出品作「陶器紫翠★花瓶」昭和25年 第6回日展出品作「陶器新星文流★花瓶」昭和27年 第8回日展出品作「焼〆花瓶」昭和29年 第10回日展出品作「新雪窯花瓶」昭和30年 第11回日展出品作「青磁鶴首花瓶」昭和31年 第12回日展出品作「古稀釉花瓶」昭和33年 3月新発足日展の顧問となる。昭和34年 8月1日逝去。

to page top