藤井浩佑
彫塑家、日本芸術院会員藤井浩佑は7月15日午前5時40分急性スイ臓炎のため熱海市の自宅で逝去した。享年75歳。本名は浩佑(ひろすけ)。明治15年11月29日東京神田に生れ、父祐敬は九条家出入りの唐木細工師であつた。はじめ不同舎へ通い、満谷国四郎に師事してデッサンを学び、第四中学を経て明治40年東京美術学校彫刻本科を卒業した。同年第1回文展に「狩」を出品して以来、第9回文展にいたるまで出品をつづけた。その間第4回文展出品の「髪洗」は褒状を受けて出世作となり、コンスタンタン・ムニエの影響の濃い「トロを待つ坑婦」(第8回文展3等賞)など初期の代表作がある。大正5年9月日本美術院同人に推薦された。昭和11年日本美術院を退き、同年帝国美術院会員、翌年帝国芸術院会員となり、その後官展に作品を発表し、戦後も日展に参加し、斯界の長老として重きをなした。日展では同展運営会理事、逝去後の秋開かれる新日展では顧問ということになつていた。没後勲三等に叙せられ瑞宝章を贈られた。「梳髪」や「浴女」など、日本風裸女の普遍的な姿態を、情趣深く表現するのに長じた独特な作風を示した。作品には諸展覧会発表作の他、彼としてはめずらしいものに、孫娘を妻としたのが縁で作つたアンパンの元祖、木村安兵衛夫婦の座像(鋳鍋・大正7年11月除幕、東京浅草田中町東禅寺境内)がある。
作品略年譜
明治40年 第1回文展「狩」
明治41年 第2回文展「まぼろし」
明治42年 第3回文展「秀ちやん」「疲労」
明治43年 第4回文展「疲れたるモデル」「ものおもふ女」「髪洗」(褒状)
明治44年 第5回文展「石割」「伏したる肉」「鏡の前」(3等賞)
大正元年 第6回文展「海」「帰る坑夫」「潭」(3等賞)
大正2年 第7回文展「女」「若者」「坑内の女」(3等賞)
大正3年 第8回文展「婦」「トロを待つ坑婦」(3等賞)
大正4年 第9回文展「早朝の霊拝」「或女の顔」「髪」
大正5年 第3回院展「白眼」「髪梳く女」「若き少女の顔」
大正6年 第4回院展「鋳像の色つけ」
大正7年 第5回院展「海の女」「かぢめ運ぶ女」「合せ鏡」
大正8年 第6回院展「湯のあと」「裸1・2・3」
大正9年 第7回院展「迎火」「浴」
大正10年 第8回院展「鏡に向て」「浴」「座せる女」
大正11年 第9回院展「春」「水浴」「萌え出る蕨」「浴泉」
大正12年 第10回院展「静かな水」「恐怖と悔悟」「化粧」「浴女」「湯を前に」
大正13年 第11回院展「髪」「踵をふく女」「海女」「髪をあむ」「脱衣の女」
大正14年 第12回院展「浴」「浴み」「小瑠璃」「裸」「足をふく女」
大正15年 第13回院展「裸婦」「水浴」「背を拭く女」
昭和2年 第14回院展「足を拭く女」「爪を切る女」「壼をかかへる女」
昭和3年 第15回院展「魔女」「浴女」「黒髪」「水浴の女」「水鏡」
昭和4年 第16回院展「脱衣婦」「浴女」「髪」「浴」
昭和5年 第17回院展「脱衣」「をどり」「浴女」「腰のみの」「犬(エヤデルテリア)」「髪」
昭和6年 第18回院展「浴み」「ポルゾイ」
昭和7年 第19回院展「梳る女」「浴女」「土用波」
昭和8年 第20回院展「化粧」「浴女」
昭和9年 第21回院展「浴女」「水浴」
昭和11年 文展(招待展)「手鏡」
昭和13年 第2回文展「鏡」
昭和14年 第3回文展「浴女」
昭和15年 紀元2600年奉祝美術展(前期)「裸女」
昭和16年 第4回文展「腰かけた裸婦」
昭和17年 第5回文展「泳後」
昭和18年 第6回文展「崔氏菩薩」
昭和21年 3月第1回日展「裸婦」
昭和21年 10月第2回日展「無題」
昭和22年 第3回日展「浴女」
昭和23年 第4回目展「腰かけた裸婦」
昭和24年 第5回日展「少女立像」
昭和25年 第6回日展「浴女」
昭和26年 第7回日展「裸婦」
昭和27年 第8回日展「浴女」
昭和28年 第9回日展「女の顔」。この年より浩佑と称す
昭和29年 第10回日展「浴女」
昭和30年 第11回日展「裸女微笑」
昭和31年 第12回日展「踊女」
昭和32年 第13回日展「鏡の前」
昭和33年 第1回日展(新日展)「裸婦」(遺作)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「藤井浩佑」『日本美術年鑑』昭和34年版(151-152頁)
例)「藤井浩佑 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8802.html(閲覧日 2024-12-02)
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- ■美術界年史(彙報)
- 1952年03月 昭和二六年度文部省買上美術品決定