本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





飯田清毅

没年月日:1972/04/06

行動美術協会会員の洋画家、飯田清毅はマヒ性腸閉そくのため4月6日午後9時5分、京都府警察病院で死去した。享年62才。飯田清毅は明治42年(1909)10月7日東京、神田西神田に生まれ、同志社大学専問部を中退、関西美術院で油彩画を学び、昭和6年(1931)二科会18回展から出品し、昭和14年会友に推挙され、同17年29回展で二科賞を受賞した。戦後は行動美術協会に会員として参加し、昭和30年からヨーロッパの各地へ旅行して取材した風俗を好んで描き続けていた。作品略年譜二科展:昭和6年18回展「糺の森」、7年19回展「北野風景」、8年20回展「憩ひ」、9年21回展「Y・S嬢」、10年22回展「ボクサー」、11年23回展「憩ひ」「洋装店」、12年24回展「海辺の男達」「緑蔭」、13年25回展「海風」「露台」、14年26回展「岩蔭」「卓上」、15年27回展「みぎは」「店」、16年28回展「浜辺」「雨の日」、17年29回展「河畔」「影絵」(二科賞受賞)、18年30回展「水族館」。行動展:昭和21年1回展「二人」「白い花」、22年2回展「画室の女」「Y子の像」、23年3回展「装ひ」、24年4回展「水浴」、25年5回展「岩蔭」、26年6回展「踊り子達」、28年8回展「みなと」「踊り子達」、29年9回展「岩蔭」「破船」、30年10回展「水辺人物」、32年12回展「ヴェニス」、33年13回展「絵はがき売り」「水汲み」「休日」、34年14回展「人物B」「人物A」、35年15回展「いけす」「岩と島」、36年16回展「馬と人A」「馬と人B」、38年18回展「いかだ」「集材場」、39年19回展「パリの雑誌屋」「材木と船」、40年20回展「オレンヂを運ぶ女」、41年21回展「ナザレの浜辺(ポルトガル)」「帽子売り(ポルトガル)」、42年22回展「船と女」、43年23回展「つどい」、45年25回展「風車と人物」「壷売る人」、46年26回展「西瓜売り(アカプルコ)」「模型のヨット」、47年27回展遺作「女と風車」「集材場」「船と女」「壷売る人」「帽子売り」。

東原方僊

没年月日:1972/03/28

日本画家東原方僊は、3月28日胃ガンのため死去した。享年85才、本名直太。明治19年3月4日岡山県邑久郡に生れ、同42年京都出て竹内栖鳳の門下となる。大正4年9回文展に「花林檎」(二曲一双)が初入選して以来、官展に数多く出品し、11回帝展では推薦となり、翌12回からは無鑑査となった。この間、国内、海外の展覧会に屡々出品し、また竹用画及び永平寺傘松閣、湊川神社格天井等の揮亳もある。作品は「鶏冠夜」(12回帝展)「白椿」(13回帝)「清秋」(14回帝)等花鳥画を得意とする。

鏑木清方

没年月日:1972/03/02

読み:カブラキキヨカタ  日本画家鏑木清方は、3月2日午後3時5分老衰のため鎌倉市の自宅で死去した。享年93才。本名健一。明治11年8月31日東京神田に、幕末の文人で毎日新聞社の前身である東京日々新聞の創設者であった條野採菊を父として生れた。明治24年14才の時、浮世絵の流れをくむ水野年方の門に入った。同27年「やまと新聞」に挿絵を執筆し、以後新聞諸雑誌に挿絵を描いて活躍した。明治34年には同志と烏合会を結成し、挿絵をはなれての制作に力をそゝぐ、この2回展には代表作の「一葉女史の墓」が発表された。同40年文展開設後は、挿絵界を退き専ら展覧界制作がつづけられる。文展では「鏡」(双幅)が初入選で褒状となり、以後殆ど毎年出品し、第11回「黒髪」が特選となった。帝展2回では委員となり、第8回の「築地明石町」では帝國美術院賞となった。昭和4年には帝國美術院会員、同12年帝国芸術院会員となり、戦後も日展を舞台に力作を発表して活躍し、29年文化勲章を受領した。官展のほか、明治期には烏合会があるが、大正6年には結城素明、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘らと金鈴社を結成(大正11年解散)し、ここでの作品に「薄雪」、「雨月物語」等がある。そのほか街の展覧にも独特の小品が寄せられ、また流麗な筆になる随筆をよくし、自伝の「こしかたの記」「続こしかたの記」のほか「築地川」「褪春記」「銀砂子」等著書が多い。清方が永い生涯の間に描きつづけた作品の中には、「三遊亭円朝像」や「築地明石町」のような洗練された画面の立派な大作が幾つか数えられる。しかし、之らの制作にも増して、清方の本領を発揮したものは、「註文帳」「築地川連作」のような小品の中にこそあるように思える。明治のはじめ東京下町に生れた彼は、父親が劇評や人情本を書く仕事の関係から、江戸末期の所謂文化人との接しょくの機会が多く、多感な時期に洗練された江戸人の教養を深く身につけて行った。明治、大正、昭和と激しい時代の変転の中で、今は遠く忘れ去られた佳き時代の種々を、肌こまやかな筆に描きあらわして行ったのが清方の芸術であったといえよう。玄人の粋に流れず、上流の野暮にならない、江戸ッ子の好んだいわゆる粋人柄という言葉であらわす美人は清方以外の筆にはないもので、清方美人画の心酔者の多いのもうなずける。そのほか「鰯」「朝夕安居」など、江戸ッ子の洗練された暮し振りなどの風俗画も清方芸術の独壇場であったといえよう。略年譜西紀 年号 年令1878 明11 1 8月31日東京神田に生れる。本名健一。父條野伝平(号を採菊)は、山々亭有人と名乗った小説家で、明治5年東京日日新聞を創刊し、後、やまと新聞を創立、その社長として知られる。1885 18 8 京橋鉄砲州、鈴木小学校へ入学。京橋に住む。1886 19 9 10月、やまと新聞創刊。1889 22 12 神田東京英語学校へ入学。1891 24 14 7月水野年方に入門。1892 25 15 家庭の事情あって学校をやめ、画業に専心。1893 26 16 京橋大根河岸祭礼行灯に三遊亭円朝の「塩原多助」を年方及び弟子たちと共に執筆す。師より清方の画号を与えらる。鷺流の狂言を習い日本橋倶楽部で初舞台を踏む。一家と共に本郷に移る。1894 27 17 「やまと新聞」に挿絵を執筆。回覧雑誌「筆花抄」に三保の羽衣をかく。牛込の貸席、琴富貴にて開かれる書画研究会に出る。1895 28 18 この頃、脚気を患う。10月円朝と栃木、佐野、田沼へ78日の旅をする(初旅)。湯島新花町に住む、1896 29 19 「東北新聞」「九州日報」等地方新聞や諸雑誌に挿絵を執筆す。この頃久松町の寺尾という型紙屋にて浴衣図案をかく(二年でやめる)。友人と松島仙台に旅する。1897 30 20 第2回絵協(日本絵画協会)に「ひなた」を初出品。7月小説雑誌「新著月刊」に口絵を描く。尾崎紅葉を知る。1898 31 21 第5回絵協「暮れゆく沼」。1899 32 22 第7回絵協「かざしの花」。人民新聞社に入社し挿絵を執筆。「新著月刊」に小説口絵。1900 33 23 第8回絵協「霜どけ」「紫陽花」。第9回絵協「琵琶行」。五月「新小説」に口絵。1901 34 24 6月、鰭崎英朋、池田輝方、池田蕉園、大野静方、河合英忠、山中古洞、山村耕花その他同志と烏合会を組織す。烏合会「金色夜叉」「横笛」「散りゆく花」「雛市」。人民新聞社を退社。読売新聞社へ入社。この頃新聞(「読売」「報知」)雑誌単行本の挿絵を盛んにかく。一家再び木挽町に住む。夏、安田松廼舎氏宅にて泉鏡花と初対面し、これより鏡花と親しくす。1902 35 25 烏合会「一葉女史の墓」「田舎源氏の黄昏」。日本美術院で開かれた第13回絵画共進会へ「孤児院」。この頃梶田半古に啓発さる。以後。しばらく公開展へ出品せず、烏合会のみに出品す。3月、「文芸倶楽部」鏡花「三枚続」の口絵執筆。小杉天外「魔風恋風」の挿絵を梶田半古の代りに執筆。秋、読売新聞社を退社。1903 36 26 烏合会「廃園の幻」「廃駅の夕」。日本美術院「秋宵」。この年、都筑照と結婚。自宅を紫陽舎となづける。1904 37 27 烏合会「佃島の秋」「深沙大王」「葉山の御夢」。1905 38 28 烏合会「日高川」「寄宿舎の窓」「曲亭馬琴」。1906 39 29 烏合会「断崖」「朧駕篭」。父伝平死去。(72才)1907 40 30 烏合会「抱一」「老嬢」。東京勧業博覧会「嫁ぐ人」。第1回文展「曲亭馬琴」落選。浜町河岸に移る。1908 41 31 第1回玉成会「花吹雪」「落葉時雨」。烏合会「あけびとり」。1909 42 32 第3回文展「鏡」双幅。烏合会「抱一上人」三幅対。長女清子生れる。1910 43 33 第4回文展「女歌舞伎」六曲一双、三等賞首席(震災焼失)。第10回巽画会「八幡鐘」。ロンドン日英博「水上の花」。1911 44 34 第5回文展「朝顔と駅路の女」二曲一双。東京勧業博「お七と吉三郎」。巽画会「春宵」。次女泰子生れる。1912 45 35 第6回文展「紅雨荘」二曲一双、落選。(震災焼失)。巽画会「若き人々」二枚折一双。12月浜松河岸より本郷に移る。1913 大2 36 第7回文展「かろきつかれ」「野崎村」。 挿絵の執筆より肉筆画の方へ進む。この頃長女病身の為、家族四人で雑司ヶ谷に家を借り養生す。1914 3 37 第8回文展「墨田河舟遊」二等賞。大正博覧会「芝居のお七」。この頃、神経衰弱となり小田原にて静養す。箱根塔の沢温泉に浴す。1915 4 38 第9回文展「晴れゆく村雨」二等賞首席。(震災焼失)。この頃、鈴木春信に最も親しむ。1917 6 40 第11回文展「黒髪」四曲一双特第一席。 結城素明、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘と金鈴社を起す。特に映丘と親しくす。第1回金鈴社「薄雪」。1918 7 41 第12回文展「ためさるる日」文展推薦となる。第3回金鈴社「遊女」二曲屏風。「早春」。1919 8 42 第4回金鈴社に梅蘭芳をえがいた「天女の舞」「悼花の歌」「絵草紙屋の店」。帝展審査員を任命さる。神奈川県金沢に遊心庵と名づけた控家を設け昭和13年まで時々静養に滞在。1920 9 43 第2回帝展「妖魚」。第5回金鈴社「晩凉」「道成寺」二曲屏風。「雪つむ宵」。郷土会「暮雲低迷」。祖母ふく死去(90才)。1921 10 44 第6回金鈴社「雨月物語」(妖蛇の巻八段)。「弁慶橋」「弁天山」。3月高島屋初個展「雪十題」(この中「三千歳」大正12年の震災にて焼失)。1922 11 45 第4回帝展「春の夜のうらみ」「権八と小紫」。郷土会「夜の梅」二曲屏風。金鈴社解散1923 12 46 二科会フランス展「採蓮」。郷土会「桜姫」。年方の未亡人、弟子達と計って、神田神社境内に記念の燈を建てる。本郷にて震災にあう。1924 13 47 高島屋個展「町駕篭」「粉雪」「濡鷺」「お仙の茶屋」「襟おしろい」。1925 14 48 第6回帝展「朝凉」。1926 15 49 「木場の春雨」。母ふみ死去(75才) この頃より牛込矢来に住む。1927 昭2 50 第8回帝展「築地明石町」帝国美術院賞郷土会「註文帳」12点。「浴後」。東京日日新聞挿絵「深川浅景」。1928 3 51 挿絵「濠端風景」。「長唄二十番」二十図。1929 4 52 イタリア展出品「道成寺」「鷺娘」「七夕」六曲一双。帝国美術院会員となる。12月静浦、修善寺、熱海を自動車にて7日の旅。1930 5 53 第11回帝展「三遊亭円朝像」。第1回七絃会「くろかみ」「滝野川観楓」。 ドイツ日本画展「水声」。聖徳太子奉讃展「大和路のある家」。「舞妓」「清元二十番」二十図。「新富町」「浜町川岸」。百穂、映丘の渡欧を送って2月20日東京を発ち家族と共に、自動車にて関西に初旅をす。1931 6 54 第2回七絃会「関の夕暮」「狐狗狸」「明鏡」。この秋より「初雁の御歌」の下書をする。1932 7 55 第3回七絃会「桜もみぢ」二曲一双。「聖徳記念絵画館壁画「初雁の御歌」。牛込の自宅を改築し、夜蕾亭と名づける。1933 8 56 第4回七絃会「目黒の柏莚」(戦災焼失)」。尚美会「夏の女客」「朗羅」御大礼記念献上屏風「讃春」。夏箱根小涌谷に保養す。1934 9 57 第15回帝展「妓女像」双幅(戦災焼失)。六潮会「にごり江」。第5回七絃会「鐘供養」「山茶花」。三越個展「おかる三態」「十種香」「三千歳」「助六」「梅王丸、桜丸」。第1回珊々会「祇園林の歌人」「うたひめ」「保名」「鏡獅子」。随筆集「銀砂子」「築地川」刊行。1935 10 58 第6回七絃会「初冬の花」。個展「明治風俗12ヶ月」(戦災焼失)。第2回珊々会「巣林子」。第1回踏青会「歌妓素描」。1936 11 59 改組第1回新帝展「慶喜恭順」。第7回七絃会「伽羅」。第2回踏青会「ほととぎす」。三越個展「隅田川に因む作」。挿絵倶楽部の顧問を引受ける。1937 12 60 第1回文展「鰯」。第8回七絃会「雪粉々」。「屠蘇」。芸術院会員。審査主任。随筆集「褪春記」刊行。1938 13 61 第9回七絃会「歌舞伎の始」。随筆集「芦の芽」「御濠端」刊行。秋、川越喜多院を訪れる。この頃東郊葛飾一帯に興味を惹かれる。1939 14 62 第3回文展「柳圃虫声」。第10回七絃会「お夏清十郎」「四季美人」。(由縁、宵宮、月影、淡雪の四幅対)。第5回珊々会「うき大尽」。1940 15 63 紀元2600年奉祝展「一葉」。個展「助六廓江戸桜」。1941 16 64 「富士詣」。「藤懸静也博士像」。1942 17 65 第12回七絃会「雪旦」。第6回珊々会「歌舞伎絵姿扇面八連作」。1943 18 66 第6回文展「阿竹大日如来」。第7回珊々会「築地川連作」画帳。第13回七絃会「菊佳節」。随筆集「柳小紋」。「連翹」刊行。1944 19 67 「高尾さんげ」。芸術院会員として陸海軍に「蕪」「蟹と童」をおくる。帝室技芸員となる。「清方随筆選集」刊行。戦争のため茅ヶ崎に疎開。1945 20 68 三浦謹之助博士八十の祝「三浦博士像」。東京の家戦災に罹る。静岡県御殿場に疎開。1946 21 69 第1回日展(日本美術展覧会)「春雪」。鎌倉市材木座に移る。東大入院。1947 22 70 珊々会「洋燈」。「静物小品15点、苦楽表紙」。1948 23 71 第4回日展「朝夕安居」。1949 24 72 第5回日展「先師の面影」。1950 25 73 第3回清流会「築地川春雨」。白寿会「雪見舟」。三越個展「八重垣姫」。「姫街道」「からかぜ」「大蘇芳年」。上野松坂屋にて朝日新聞社企画のもとに、「画業50年展」開催さる。代表作50点余。1951 26 74 第4回清流会「柳やおふじ」。白寿会「春宵怨」「春の浦曲」。1952 27 75 第5回清流会「夏ざしき」。五月会「大川の虹」。兼素洞展「吹雪」。柏風会「緑燈」。1953 28 76 第6回清流会「夏草」。白寿会「菊寿盃」。紫草会「白魚橋」。在外公館の為に「客室」製作す。十大家額装展(兼素洞)「吹雪」。1954 29 77 神奈川県立近代美術館にて回顧展開催さる。文化勲章を授けらる。鎌倉市新居に移る。1955 30 78 第7回清流会「朝顔」。白寿会「十一月の雨」。 1956 31 79 第8回清流会「道成寺道行」。白木屋にて毎日新聞社主催のもとに「清方名作展」開催さる。1957 32 80 薫風会「夏の武家屋敷」。9回清流会「遠い花火」「雨あがる」。「清方画集」刊行。1958 33 81 10回清流会「隅田川名所」(梅若塚)。1959 34 82 銀座松屋で朝日新聞社主催『清方下絵展』を開催。11回清流会「汐路のゆきかひ」出品。1960 35 83 浜奈寿会「金沢瀬戸の夕潮」出品。12回清流会「李の花影」。1961 36 84 随筆集「こしかたの記」(中央公論美術出版)刊行。1962 37 85 14回清流会「つゆのひととき」銀座松屋で『鏑木清方自選展』を開催。菅楯彦と共著「東京と大阪」(毎日新聞社)刊行。1963 38 86 15回清流会「棗の葉かげ」。1964 39 87 16回清流会「橋場真崎」。1965 40 88 横浜高島屋で『鏑木清方展』を開催。17回清流会「竹屋の渡」。1966 41 89 18回清流会「待乳雪景」。1967 42 90 19回清流会に「ままごと」を出品。随筆集「続こしかたの記」(中央公論美術出版)刊行。1968 43 91 20回清流会「牡丹の客」。1969 44 92 日本橋高島屋で個展『今様絵詞の会』を開催。21回清流会「笹団子」。1970 45 93 三越で個展『清方えがく心のふるさと-江戸十五題-』を開催。谷崎潤一郎著・鏑木清方挿絵「少年」(中央公論社)刊行。22回清流会「吹雪」。妻照死去。1971 46 94 銀座松屋で毎日新聞社主催『鏑木清方展』を開催。23回清流会「雪ころがし」。1972 47 95 3月2日 鎌倉雪ノ下にて没す。(鏑木清方画集・美術出版社、鏑木清方展-46年、目録参照)

松川烝二

没年月日:1972/03/01

女子美術大学教授松川烝二は3月1日十二指腸潰瘍のため都内世田谷区の自宅で死去した。享年60才。1911年(明治44)6月30日現在の都内中央区に生れ、1936年東京美術学校工芸部図案科を卒業。4月から森永製菓株式会社に、9月から森永食品工業株式会社に移り、38年8月に製品企画課長代理となったが、9月から44年11月まで兵役についた。兵役解除後は商工省工芸指導所嘱託となり、1947年3月同所第二設計室長となる。1948年4月から11月まで文部省初等中等教育局デザイン教育計画を担当。それと並行して48年4月より50年3月まで森永乳業の、49年4月より63年3月まで森永製菓株式会社の嘱託、47年8月より57年2月まで花王石鹸株式会社の製品企画を担当。54年4月から女子美術大学芸術学部ヴィジョン・コース担当。60年から65年まで日本パッケージ・デザイン協会理事。その間、森永TVタイム、デザイン、国際見本市タイヤ・パネル・デザイン、デラックスおよびワンカップ大関デザインを製作。62年2月には前年度パッケージ・デザインにより通産大臣賞受賞。

広野殷生

没年月日:1972/02/29

洋画家春陽会会員広野殷生は3月6日に都内大田区の自宅で死去しているのが発見され、2月末に没したと推定された。享年55才。1919年(大正8)6月25日に静岡県に生れた。生家は古くから旅館を営んでいたが、1935年頃、軽い胸部疾患で郷里ですごしているときに描いた作品を地方美術展に出品して特選となったのがきっかけで、両親にそむいて東京にでて苦学しながらの画家生活に入った。1938年から1945年まで兵役についた。1949年に毎日連合展出品。1950年中部春陽会賞受賞。その後まもなく米国に渡り、コロンビア大学に留学し53年に帰国。この年春陽会会員となる。この間「カリフォルニヤ美術展」と「米国共進会美術展」に出品、「特選」と自ら記している。1954年フランスにゆき、パリの美術学校に留学したという。56年帰国。57年に春陽会で滞欧作を発表。同年東京銀座松坂屋で、また名古屋県立美術館で、58年には大阪フォルム画廊で滞欧作の個展。1959年から60年にかけてポルトガルと香港にゆく。61年度早稲田大学講師。1958年荒木季夫の編集する「造型」誌(第4巻6号)に特集号として取上げられた。

吉原治良

没年月日:1972/02/10

具体美術協会の主宰者であり、国際的にも活躍していた、もと二科会会員の吉原治良は、2月10日午後7時15分、クモ膜下出血のため兵庫県芦屋市立市民病院で死去した。享年67才であった。吉原治良は明治38年(1905)1月1日、大阪市に三代つづいた油問屋の老舗の家に生まれ、愛珠幼稚園から愛日小学校、北野中学校へと進み、9才のとき兄をなくし、11才のとき母を喪なった。中学時代から絵画に対する関心はたかまり、油彩画を独習し、大原コレクションのルノアールの作品や松方コレクションのセザンヌの「廃屋」、ゴッホの「ひまわり」につよい影響をうけた。中学卒業後、関西学院高等商業部へ入学、胸部疾患のため転地、その後芦屋へ転居した。関西学院時代には辻愛造、伊藤慶之助、赤松進らの艸園会に入り、また弦月会にも入り神戸学生美術展などに出品した。昭和3年(1928)、関西学院高等商業部を卒業し、そのまま専攻科に進学在籍したが、この卒業の年、3月に大阪朝日会館の大ホールで魚を題材とした静物58点による最初の個展を開催した。同年には学院を退学し、父の経営する製油会社に入って勤務のかたわら絵画に熱中した。この頃、フランスから帰国していた洋画家上山二郎を知り、その影響をつよく受けた。上山二郎の紹介で東郷青児、藤田嗣治を知るようになった。やがて藤田のすすめで二科展に出品するようになり、長谷川三郎、海老原喜之助、島崎鶏二、山口長男、岡田謙三らと交友し、昭和13年(1938)に設立された二科会内の前衛的な集団九室会にも参加した。第二次大戦後の二科会再建には会員として参加したが、昭和34年(1959)以降には二科展への出品はみられず、同45年(1970)には退会した。一方、昭和27年(1952)から国際展、海外展で活躍をはじめ、また、彼の周辺に参集した関西の若い画家たちと具体美術協会(The Gutai Art Association)を創設して、現代美術の運動を活溌に展開してきた。作風は、初期にデ・キリコ、ついでモンドリアンの影響をうけ、戦前から幾何学的な抽象絵画を制作していたが、戦後の早い時期には、鳥と少女像(吉原人形と呼ばれた)の連作から、しだいに再び抽象的な作風に移行し、晩年には円型を主題とした連作で注目を集めた。略年譜昭和3年(1928) 関西学院高等商業部を卒業、専攻科に進むが退学。芦屋在住の画家上山二郎に兄事する。東郷青児をしる。昭和4年(1929) 10月、大阪朝日会館で第1回個展、藤田嗣治をしる。結婚する。昭和9年(1634) 再帰国した藤田と会い、すすめられて(21回)二科展に出品、「帆柱」「麦稈帽と仕事着」「錨と具の花」「風景」「朝顔の女」の5点入選。東京銀座紀伊国屋画廊にて個展昭和12年(1637) 二科展に「夜・卵・雨」「図説」「隔世」「気象」「窓」を出品、特待となる。昭和13年(1938)「作品イ」「作品ロ」二科展に出品、会友に推薦される。藤田嗣治を顧問とし、斎藤義重、山口長男、山本敬輔らと九室会を結成する。昭和14年(1939) 二科展:「作品1」「作品2」「作品3」昭和15年(1940) 二科展:「雪イ」「雪ロ」昭和16年(1641) 二科展:「夕立に翔ぶ飛行艇」「くちなしの花と貝殻」昭和17年(1942) 二科展:「菊イ」「菊ロ」昭和18年(1943) 二科展:「空」「火山」昭和20年(1945) 兵庫県三田、大沢村へ疎開昭和21年(1946) デザイン、商品デザイン、ディスプレイ、舞台装置などを手がける。二科会再建に会員として参加し、「邂逅の像」「群像」「像」を出品。昭和22年(1947) 二科展(32回):「顔A」「顔B」「立話」「子供の顔」「女達」「子供達」昭和23年(1948) 二科展:「顔」「小さな噴水」。芦屋市美術協会を結成、代表となる。昭和24年(1949) 二科展:「鳥と人間」「涙を流す顔」「嬉しい日の少女」。日米21人展に出品。昭和25年(1950) 二科展:「少女と七羽の鳥」。大阪朝日会館の緞帳を作成。昭和26年(1951) 6月、東郷青児・吉原治良二科2人展を神戸元町画廊にて開催。大阪府芸術賞を受賞。二科展:「夜の鳥」「夜」「鳥と人々」。昭和27年(1952) カーネギー国際美術展(サンフランシスコ)に「暗い日曜日」を出品。サロン・ド・メエ(パリ)に「牧場」「作品」「原始」。第1回日本国際美術展に「絵A」ほか2点を出品。須田剋太、津高和一、植木茂らと現代美術懇談会を創る。昭和28年(1953) 第2回日本国際美術展:「作品A」「作品B」「作品C」。岡山葦川会館の緞帳を作成。二科展:「作品」。昭和29年(1954) 第1回日本現代美術展「作品A」「作品B」。二科展:「作品」。12月、具体美術協会を結成し、現代美術運動を展開。昭和30年(1955) 機関誌『具体』1号を刊行(14号まで)。第3回日本国際美術展「作品」。二科展:「作品」。芦屋市美術協会主催で芦屋川畔で野外モダン・アート実験展を開催。第1回具体美術展(東京小原会館)を開く。昭和31年(1956) 神港新聞アンデパンダン展に具体グループ特別室をつくる。7月、野外具体美術展(芦屋川畔)。第2回具体美術展(東京小原会館)昭和32年(1957) 第4回日本国際美術展:「作品」。第3回具体美術展(京都市美術館)を開催、出品。産経ホール(東京、大阪)で第1回舞台を使用する具体美術展を企画構成し演出する。二科展:「作品A」「作品B」。ミシェル・タピエを知りタピエが組織した世界現代美術展に出品する。第3回具体美術展(東京小原会館)。昭和33年(1958) 第2回舞台を使用する具体美術展(大阪朝日会館)。タピエと共同主催による“新しい絵画世界”展(大阪、長崎、広島、東京、京都)。第5回具体展(東京小原会館)。具体ニューヨーク展(マーサ・ジャクソン画廊)を開催のため渡米ヨーロッパを巡遊。二科展:「作品」。カーネギー国際美術展に出品。昭和34年(1959) 第5回日本国際美術展「作品」。アルテ・ノバ展(トリノ)、第11回プレミオリソーネ展、具体トリノ展(フィギェラティブ画廊)に出品。8~9月、第8回具体美術展(京都市立美術館、東京小原会館)。メタモルフィズム国際展(パリ、スタドラー画廊)。昭和35年(1960) 第4回現代日本美術展「作品1」「作品2」。アドバルーンを利用して外国作家18名、具体グループ12名によるインターナショナル・スカイ・フェスティバルを開催。日本人作家4人展(マーサ・ジャクソン画廊)に出品。昭和36年(1961) 第6回日本国際美術展「作品」。コンティニュテ・エ・アバンギャルド・オ・ジャポン展(トリノ)に出品。第10回具体美術展(大阪・東京高島屋)。第12回プレミオリソーネ展。この年二科会理事となる。昭和37年(1962) 第11回具体美術展(大阪高島屋)、ストラクチュアとスタイル展(トリノ近代美術館)に出品。9月、大阪中之島にグタイピナコテカ(具体美術館)を創設する。具体グループと森田モダンダンスとの共同公演による前衛的美術と舞踊「だいじょうぶ月は落ちない」(大阪高島屋)の企画、構成、演出。昭和38年(1963) 第12回具体美術展(東京高島屋)、第13具体美術展(大阪高島屋)。第7回日本国際美術展「作品」。グランパレ国際展(パリ)に出品。現代美術の動向展(国立近代美術館京都分館)に出品。昭和39年(1964) グッゲンハイム国際美術展に出品、セントルイス大学美術館に買い上げられる。第5回現代日本美術館「作品」。第14回具体美術展(大阪高島屋)。戦後の現代日本美術展(神奈川県立近代美術館)、現代日本美術展(ワシントン、コーコラン画廊)に出品。兵庫県文化賞を受賞。昭和40年(1965) 第8回日本国際美術展「作品」。ヌル国際展(アムステルダム市立美術館)にグタイ特別室を設けるため渡欧。第15回具体美術展(大阪グタイピナコテカ)。新しい日本の絵画と彫刻展(ニューヨーク近代美術館)、具体パリ展(スタドラー画廊)に出品。第16回具体美術展(東京京王百貨店)。昭和41年(1966) 具体オランダ展(ハーグ、オレッツ画廊)、第2回ローザンヌ国際展、第1回国際芸術見本市に出品。昭和42年(1967) 具体オランダ小品展(ロッテルダム、デザインハウス)に出品。吉原治良展(東京画廊)。第9回日本国際美術展「白い円」、最優秀賞を受賞。具体オーストリア展(クラーゲンフュール)。第2回国際芸術見本市に出品。具体美術協会に対し神戸新聞社平和賞をうける。第19回具体美術展(東京セントラン美術館、大阪グタイピナコテカ)。昭和43年(1968) 第8回現代日本美術展「白い円」「白と黒の円」。昭和44年(1969) 第4回国際芸術見本市に出品。日本万国博美術展展示委員となる。昭和45年(1970) 日本万国博美術展現代の躍動の部に出品。同展屋外展示にグタイグループと共同制作。万博お祭り広場における「音楽・デザイン」、具体美術まつりなどをプロデュースする。万博みどり館の美術展示を構成。第20回具体美術展(大阪グタイピナコテカ)。芦屋市民会館ルナ・ホールの壁画制作。二科会を退会する。昭和49年(1971) 第2回インド・トリエンナーレ展に出品しゴールドメタルを受賞。第10回現代日本美術展構造としての自然部門に「作品」3点を出品。近代日本美術における1930年展(東京国立近代美術館)、戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)に出品。昭和47年(1972) 2月10日没。従五位勲四等旭日小綬章を追贈される。

中川紀元

没年月日:1972/02/09

二紀会名誉会員の洋画家中川紀元は、心筋こうそくのため、2月9日午前10時、東京田無市の田無病院で死去した。享年79才であった。中川紀元は、明治25年(1892)2月11日、長野県上伊那郡に漢学塾を開いていた有賀家の次男に生まれ(結婚して中川の姓となる)、本名を紀元次。諏訪中学校を卒業して東京美術学校彫刻科に入学したが、病のため2ヶ月で中退し、帰郷して小学校教師となった。再度上京して大正2~3年(1913~4)ころには代々木山谷に住む。本郷洋画研究所、太平洋画研究所などに学び、また島村抱月の芸術座の舞台装置に小林徳三郎の手伝いなどをしている。特に石井柏亭、正宗得三郎に師事し、大正4年(1915)第2回二科展に出品して初入選となり、大正8年(1919)渡欧しアンリ・マティスの指導を受け、同10年(1921)帰国したが、その間にも二科展に出品し、大正9年第7回展で「ロダンの家」他4点を出品、樗牛賞をうけ、大正10年8回展では「立てる女」他7点を出品、二科賞を受賞した。この滞欧の成果は日本における第二次フォーヴィスムの移植として歴史的な意味をもったが、大正11年(1922)には神原泰、矢部友衛、古賀春江らと二科会内での前衛的なメンバーによってグループ・アクションを結成し、新しい美術運動を推進した。大正12年(1923)には二科会会員に推挙された。昭和8年(1933)二科会員を辞して無所属となったが昭和10年、再度二科会に復帰した。昭和13年には従軍画家として中国の戦線におもむいており、また大正11年からは文化学院美術科で実技指導にもあたった。戦後、昭和22年(1947)旧二科会の有志とともに二紀会を結成し、作風はしだいに油彩による野趣にとんだ南画的なものとなっていった。昭和39年(1964)、長い期間にわたる美術界への貢献によって日本芸術院恩賜賞を受賞した。作品年譜(旧二科会展、二紀展出品作)二科会展:大正5年(1916)3回展「青五氏の肖像」、同6年4回展「煙草を吸う女」、同7年5回展「自画像」「女」、同9年7回展「ロダンの家」「読書の女」「人形を抱く女」「女の顔」「坐像」、同10年8回展「水彩エチュード1」「水彩エチュード2」「デッサン1」「デッサン2」「散歩」「立てる女」「アラベスク」「猫と女」、同11年9回展「腰かけた女」「裸婦」「化粧」、同12年10回展「野菜(水彩)」「入浴」「裸体(水彩)」、同14年12回展「花」「裸女佇立」「J氏像」、同15年13回展「母子」「ラヂオを聴く」、昭和2年14年回展「ヨネ野口氏肖像」「O氏像」「採蓮」、同3年15回展「夏庭」「花」「映画撮影」「S氏像」、同4年16回展「空中の感情と物理」「K夫人の顔」、同5年17回展 「毛扇」「緑衣」「川田芳子像」、同6年18回展「熱叢」、同7年19回展「野と子供」、同8年20回展「清水先生の像」、同10年22回展「無題」、同11年23回展「青い団扇」「驟雨来」「静物」「少女」、同12年24回展「白衣少年」「徒然」「猫静物」「月夜の山」、同13年25回展「子供と猫」、同14年26回展「人物」「風景」、同15年27回展「こども」「御嶽晴天」「青嵐」、同16年28回展「菩薩像(一)」「菩薩像(二)」二紀展:昭和22年(1947)第1回展「村の風景」「夏の朝の伊那の谷」「夏の駒ヶ岳」、同23年2回展「夏の山」「静物」「初秋の谷」、同24年3回展「静物」「コンポジション」、同25年4回展「村の秋」「伊那の谷」、同26年5回展「青い風景」「黄色い風景」、同27年6回展「友の像」、同28年7回展「花の子供ら」「山村風景」「夕陽の山」、同29年8回展「朝の山」「人物」、同33年12回展「郊外風景1」「郊外風景2」、同34年13回展「月と富士のある風景」「人物」、同35年14回展「子供」「赤い富士」、同37年16回展「樹間小景」「白い街」、同38年17回展「人物」「風景」、同39年18回展「風景」「人物」、同41年20回展「子らの窓」、同42年21回展「郊外風景」「隅田川」、同43年22回展「ボサツ傾」「窓辺の消閑」、同44年23回「高原雲煙(霧ヶ峰)」「煙霞レジャーの娘たち」、同45年24回展「山の遊び」、同46年25回展「ホトケ坐像」、同47年26回展遺作「坐せる女」「裸婦」「読書の秋」「栗色の帽子」「キャフェ」「白い衿の婦人」「立てる女」「街」「化粧する女」「隅田川」「中国美人」「ホトケの坐」「窓辺消閑」

酒井精一

没年月日:1972/01/22

洋画家酒井精一は、1月22日死去した。号碧亭。明治24年11月18日東京に生れ、郁文館中学卒業後、本郷絵画研究所、日本水彩画会研究所に学び、また渡仏して、アカデミーコラロシーに学んだ。帰国後二科会に出品し、「早春の海辺」(6回二科展)「田舎の家」「南仏風景」「ルノアール家の近傍」「ロアン河畔の秋」(13回二科展)等がある。専ら風景画を描き、昭和になってからは、台湾、房総風景などがみられる。一水会創立後はこれに属し、「河畔」(第1回展)「初秋の高原」「湖畔」(7回展)がある。戦後昭和29年第16回展で会員となり、「吊橋のある風景」「安良里風景」を出品している。「吾妻山の見える家」「高遠にて」(34回一水会展)が最後の作品となった。

土佐林豊夫

没年月日:1972/01/12

日展評議員土佐林豊夫は1月12日、胆臓癌で飯田橋の東京厚生年金病院で死去。享年64才。1907年(明治40)9月19日に山形県鶴岡市に生れた。1929年(昭和4)東京高等工芸学校彫刻科卒業、翌年同研究科を修了した。同年辻永に師事。1931年第12回帝展に油彩画が初入選し、以後、文展、日展、光風会に出品した。1949年には光風会の親しい友人たちと共に青季会を結成し、毎年1回展覧会を開いた。1943年光風会では岡田賞、47年および48年の日展でそれぞれ特選になり、1958年度と、64年度には日展審査員となり、66年に同評議員に就任した。主要作品は43年光風会展「老母像」、47年日展「子供」、48年日展「母子」、54年光風会展「糸車」、58年光風会展「果実」、69年日展「繋」など。

今井五郎

没年月日:1972/01/11

重要無形文化財、結城紬技術保持者の今井五郎は、1月11日午前9時30分ごろ、税金の青色申告説明会がある小山市役所に行くため自宅近くの停留所でバス待ち中、心臓マヒを起し、近くの病院に運ばれる途中で急逝した。享年61歳。葬儀は13日午後1時から栃木県小山市の自宅で行なわれた。今井は小山市の出身で、小学校を卒業して間もない14歳のときから、男物の亀甲がすりを染める際、糸をくくって模様をつける家業の結城つむぎの「かすりくびり」の技術を習った。昭和31年4月、「結城紬技術保存協会」が国の重要無形文化財の指定を受けたときの代表者となった。45年まで栃木県本場結城紬織物協議会理事とし後継者の育成に尽くした。

永井宏

没年月日:1971/12/12

洋画家永井宏は、12月12日病気のため東京都杉並区の自宅で死去した。明治44年2月10日神戸市に生れた。昭和11年帝国美術学校本科洋画科卒業。在学中の同10年第5回独立美術展に初入選し、以後出品を続け会友となった。その間JAN創立にも参加したが、同15年には退会した。その後無所属となり、丸善画廊などにて個展を4回開き、制作活動を続けた。一方東京都千代田区神田にある富士建物管理株式会社の代表取締役でもあった。

田辺三重松

没年月日:1971/12/09

行動美術協会会員の洋画家、田辺三重松は、12月9日午前11時30分、東京都練馬区の自宅で心臓喘息発作のために死去した。享年74才であった。田辺三重松は、明治30年(1897)9月1日、函館市の商家に生まれ、大正5年(1916)北海道庁立函館商業学校を卒業した。その後洋画を独習、昭和3年(1928)15回二科展に二点が初入選、また道展に入選、長官賞をうけた。石井柏亭、安井曾太郎、児島善三郎らの指導をうけ、二科展に出品を続け、昭和18年(1943)二科会会員に推挙された。戦後は、昭和20年(1945)同志と行動美術協会を設立し、雄大な北海道風景を大きな筆勢で描いた風景作品を発表してきた。略年譜昭和3年(1928) 「荷揚げ場」「花草」の二点が二科展(15回)に初入選。昭和4年 「夏の曇り日」「港の午後」(二科展)昭和5年 「造船場町」(二科展)昭和6年 「北国早春の展港」「寿子立像」(二科展)昭和7年 「トラピスト修院の夏」「ハリスト教会堂」(二科展) 昭和9年 「五稜廊」「白き溶岩と駒ヶ岳」(二科展)昭和10年 「チキユ岬」「淀泊」(二科展)昭和11年 「初秋大沼」「飛沫」(二科展)、この年二科展特待となる。昭和13年 「夏の洞爺湖畔」「羽黒山参道」「北洋の荷揚げ」二科会会友に推される。昭和14年 「有珠岳」「燈台の見ゆる岬」(二科展)。大陸前線部隊報道班からの依頼により、野戦絵画展覧会に特別出品する。昭和15年 「新緑の港」「入江夏景(北海道有珠湾)」(二科展)。紀元二千六百年奉祝展に出品。昭和16年 「初夏の山容」「船」(二科展)昭和17年 「岬の午後」「晩春の耕地風景」、二科賞を受ける。昭和18年 「湿地と這松」「残雪のある漁港」、二科会会員に推挙される。北部軍報道部員として北千島派遣部隊に従軍し、新聞紙上に北方通信を連載する。昭和20年 11月、行動美術協会創立に参加する。全北海道美術協会創設に参画する。昭和22年 「緑の池畔」「おつけの浜」「夏の展望」(行動2回展)昭和24年 北海道文化賞を受賞昭和25年 北海道新聞文化賞を受賞する。昭和26年 「原始林」「雪影」「時雨ふる山湖」(行動6回展)昭和28年 「碧い湖(摩周)」「白い林(阿寒)」「朝霧(阿寒)」(行動8回展)昭和30年 「湖畔の白樺」「大雪山と山峡」(行動10回展)昭和31年 「函館港風景」「秋の草原」「断崖の海」(行動11回展)。厚生省の依頼により国立公園「夏の中禅寺湖」を制作する。昭和32年 「夏の大雪山」(行動12回展)。この年、函館市より東京練馬区に転居する。昭和33年 「開墾地」「秋晴るる山湖」「白い裸樹」(行動13回展)昭和34年 「黒い林」「芦の湖畔」「白い断崖」「噴煙の山」(行動14回展)昭和35年 「雌阿寒噴煙」「夏の横浜港」(行動15回展)。「昭和新山」文部省買上げとなる。昭和37年 「草原」「はまなすの砂丘」「白い砂浜」(行動16回展)昭和38年 「積丹の海」「夏の雌阿寒岳」(行動17回展)昭和38年 国際具象派展に出品、6月~12月アメリカを経てヨーロッパへ旅行する。昭和39年 「グランドキャニオン」「フィヨールドの船着場」(行動19回展)昭和40年 「支笏湖」「燈台のある草原」(行動20回展)。東京日本橋高島屋にて個展「スイスとノルウェーの山」を開催する。昭和41年 「黒岳と桂月(大雪山)」「霞沢岳と梓川」(行動21回展)昭和42年 網膜剥離症を病み、右眼失明。昭和43年 「日高の浜」「氷海」(行動23回展)昭和44年 「神威岬」「十勝岳」(行動24回展)昭和45年 「昭和新山」「照りかげる裏大雪」(行動25回展)。東京銀座彩壺堂において個展を開催する。昭和46年 「噴煙桜島」「早春富士」(行動26回展)。12月9日死去し、14日東京築地本願寺において行動美術協会葬として葬儀が行なわれた。

藤江志津

没年月日:1971/11/28

日本水彩画会々員の藤江志津は、11月28日東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76歳。明治28年2月15日都下青梅市に生れた。高等女学校卒業後、大正9年藤江醇三郎に嫁し台湾台北市に住まった。昭和5年から東京都世田谷区の現住所に居住。昭和9年第21回日本水彩画会展より昭和45年第58回同展にいたるまで連続出品した。また戦前昭和13年二科会第25回展より第29回展まで数回入選。その他、朱葉会展や白日会展にも出品、終始、水彩画に専心し、水彩画界の古参作家として認められていた。

伊川鷹治

没年月日:1971/11/28

春陽会会員の洋画家、伊川鷹治は、11月28日午前零時、皮膚ガンのため東京・築地の国立ガンセンターで死去した。享年72歳。伊川鷹治は、明治31年(1898)12月28日、長野県小県郡に生まれ、中学校を卒業後、大正6年(1917)上京して赤坂葵橋の白馬会洋画研究所に入所して5年間黒田清輝に師事し、その後、白滝幾之助、山形鼎らの指導をうけた。昭和5年(1930)春陽会8回展に「あんこうなど」が初入選、以後同会展毎回出品、昭和11年(1936)から木村荘八、中川一政らの指導をうけ、昭和18年同会18回展に「文楽人形」「花」「風景」「魚貝」を出品、春陽会賞をうけ、翌19年「文楽の楽屋」「風景」などによって春陽会会友に推された。一方、昭和7年(1932)、銀座資生堂において第1回個展、以後、昭和23年までに5回同所において個展を開催した。昭和23年(1948)春陽会会員に推挙され、美術団体連合展などにも出品した。主要作品に、上記のもののほか、「秋庭」「馬込別れ坂」「菜園の秋」(昭和23)、「春の庭」(昭和23)、「桜行く頃」(昭和24)などがある。

駒井和愛

没年月日:1971/11/22

考古学者駒井和愛は11月22日心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。東京大学名誉教授、早稲田大学客員教授、文化財審議会専門委員であった。明治38年1月11日東京都浅草区に生れ、昭和2年早稲田大学文学部東洋史学科卒業。同年東京帝国大学文学部副手となり、翌3年から19年まで中国大陸の考古学的調査と研究に従事した。この間13年に東大文学部講師、東方文化学院研究員となる。20年東大文学部考古学科助教授。21年東大で文学博士の学位受領。26年教授就任。21年より30年まで日本女子大講師。21年より35年まで早大講師。27年日本学術会議東京学研究運絡委員(41年まで)。34年以後文化財専門審議会専門委員となる。同年立教大学大学院講師(45年まで)。40年東大を定年により退官し名誉教授となる。42年より早大客員教授。45年文化財功労者として表彰される。46年11月22日没。戦後昭和29年文部省在外研究員として国際東洋学者会議に出席し、また32年新中考古学視察団に加わって中国を訪問している。著書「東京城」「上都」「牧羊城」「曲阜」「支那古器図攻」「中国考古学研究」「中国古鏡の研究」「竜江」「楽浪郡治址」「北海道環状列石の研究」「オホーツク海、知床半島の遺跡」「登呂の遺跡」その他。

吉原甲蔵

没年月日:1971/11/17

元示現会創立会員の吉原甲蔵は、11月17日死去した。享年72歳。明治32年1月22日佐賀県東松浦郡に生れる。昭和2年数え29歳の時から画道に入り、太平洋画会研究所に学んだ。戦中は太平洋美術学校講師をつとめた。昭和3年第9回帝展に「自画像」が初入選してより官展に出品、同11年文展鑑査展に「母と子供」が入選、この作品は東西両朝日新聞のカレンダーに採用された。同14年第35回太平洋画会展出品の「室内」で太平洋画会賞を受け、同会会員に推挙された。戦後昭和23年示現会創立に際し参加、会員となったが、晩年は同会から離れた。

滝一夫

没年月日:1971/11/07

陶芸家、日展会員、佐賀大学教授の滝一夫は、11月7日午後6時35分、直腸ガンと尿毒症のため京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年61歳。明治43年2月13日福岡市に生れ、修猷館中学を経て昭和13年東京美術学校彫刻科卒業。最初、昭和8年帝展彫刻部に初入選、同10年第11回国展彫刻部に入選、翌11年第12回国展彫刻部では褒状を受賞するなど彫刻に専心したが、美術学校卒業後まもなく陶芸に転じ、瀬戸市陶磁器試験所及び国立京都陶磁器試験所に於て10数年陶磁研究に従事した。その間、昭和15年紀元二千六百年奉祝展に入選、戦後は日展工芸部に作品を発表し続け、昭和29年第10回日展「春」特選、同30年第11回日展「緑釉飛鳥文壺」無鑑査、北斗賞受賞、同32年より日展依嘱、同36年第4回日展において新審査員、翌37年日展会員となった。同41年第9回日展でも審査員をつとめた。一方、同25年にはイタリアのファエンツァ陶磁器博物館に作品が収納され、同27年第1回現代日本陶芸展で朝日新聞社賞、翌28年第2回同展で朝日新聞社奨励賞を受けた。同37年第3回国際陶芸展(チエッコ、プラハ)で銀賞を受賞、同年第1回現代日本工芸美術展の審査員をつとめ、同40年にはベルリン芸術祭へ出品するなど国内外共に顕著な活動を示した。なお、昭和31年から没前まで佐賀大学美術科教授をつとめた。死去に当って勲4等旭日小綬章に叙せられた。

関四郎五郎

没年月日:1971/11/07

春陽会会員の洋画家、関四郎五郎は、11月17日午後、心筋梗塞のため長野県東筑摩郡の自宅で死去した。享年63歳。関は明治41年(1908)4月23日、長野県松本市に生まれ、昭和10年(1935)春陽会13回展に初入選、昭和13年に上京して二科会研究所に入所して熊谷守一の指導をうけた。春陽会展に出品をつづけ、また昭和18年(1943)6回文展、同21年1回日展にも出品入選している。昭和16年、18年と満州へ学生旅行、昭和19年(1944)に浅間温泉に疎開し、アトリエを建て、以後、同地に居住し、昭和25年に洋画研究所を開設し、同23年からは長野県展審査員を数度つとめ長野県地方の美術振興にも尽力した。昭和22年(1947)春陽会会友、同31年同会会員に推挙された。日本橋三越で前後6回個展を開き、昭和43年(1968)同所において画業35年展を開催した。主要な作品に、「春雪」(1956)、「春寒」(1965)、「アルプスの空」(1967)、「朝の太陽」(1971)などがある。

大沢海蔵

没年月日:1971/11/05

日展評議員、光風会理事の洋画家、大沢海蔵は、11月5日午後3時32分、心筋コウソクのため東京・中野の中野総合病院で死去した。享年65歳。大沢海蔵は、明治39年(1906)11月1日、名古屋市に生まれ、愛知県立明倫中学校を卒業、大正13年(1924)川端絵画研究所に入り、岡田三郎助、辻永に師事した。国展、中央美術展、白日展にも出品したが、昭和3年(1928)、光風会15回展に出品、光風賞を受賞、同年9回帝展に「庭」入選、以後、光風展、官展に出品をつづけ、昭和4年光風会会友、同9年会員に推挙され、同15年には岡田賞をうけた。昭和13年2回文展において「草むら」特選となる。昭和27年日展審査員、以後、5回審査員をつとめ、同31年ヨーロッパ各国を旅行、昭和36年、4回日展では「ホルンのある静物」で文部大臣賞をうけた。上記作品のほか、「庭」(昭4)、「秋晴」(昭9)、「初秋の高原」(昭21)、「信に楽し」(昭24)、「円テーブル」(昭26)、「風薫る」(昭29)、「ローマ」(昭32)などがある。

平賀亀祐

没年月日:1971/11/04

パリ在住のサロン・ナショナル会員の洋画家平賀亀祐は、11月4日午前10時(現地時間)、心臓発作のため、パリ市の自宅で死去した。享年83才。平賀亀祐は、明治22年(1889)三重県に生まれ、青年時代に移民としてアメリカへ渡り、絵画を勉強しその後フランスへ移り、生涯のほとんどもフランスですごし、フランスの官展で活躍した。略年譜1889 明治22年 9月25日、三重県志摩郡に生れる。1906 明治39年 9月、三重県移民として渡米。サンフランシスコ美術学校に入学。1909 明治42年 サンフランシスコの加州大学美術科に転校。1914 大正3年 カリフォルニア美校全生徒の作品展にて1、2、3等受賞。特待生となり学費の免除を受ける。1915 大正4年 同校卒業。1916 大正5年 この年より1925年までロスアンゼルスに居住して苦学する。1925 大正14年 渡仏、アカデミー・ジュリアンで2年間学び、ルシアン・シモンに師事する。1926 大正15年 ル・サロンに2点入選。パリ モンマルトル、ディアム画廊で個展を開く。1927 昭和2年 サロン・ナショナルに風景画入選。サロン・ドームに3点入選。帰米、ロスアンゼルスにて第1回個展を開く。金門学園社交室にて作品展開く。オリンピック・ホテルにて個展を開く。ポートランド、淀川亭にて作品展を開く。1929 昭和4年 帰米、第2回展をロスアンゼルスにて開く。滞欧中の作品を金門学園社交室にて展観する。スタンフォード大学のアート ギャラリー常盤クラブにて作品展を開く。アンバサイダーホテル広間にて作品展を開く。1930 昭和5年 ニューヨーク ミルチ アートギャラリー、パリ シャルパンチエール画廊にて個人展を開く。フランス政府買上げ、ロアン美術館買上げ。1932 昭和7年 帰米、第3回個展をロスアンゼルスにて開く。フィラデルフィア、デンバー、ニューヨークを訪れる。ニューヨーク ミルチ アートギャラリーにて作品展を開く。1934 昭和9年 パリ、春のル・サロンにて銅賞を受ける。1935 昭和10年 4月、三重県山田駅前県立商工奨励館別館にて個展を開く。1938 昭和13年 ル・サロンにて銀賞を受ける。1941 昭和16年 第2次世界大戦おこる。敵国人として半年以上収容される。1945 昭和20年 大戦終る。戦時中サロン・ドートンヌ(秋季展)レクスポジション・ユニヴェセル(世界展)などに出品する。1954 昭和29年 ル・サロンにて金賞ならびにコロー賞を受ける。美術文化勲章、学士院賞を受ける。4回つづいて入選のため会員に推薦される。1955 昭和30年 50年ぶりに日本に帰国、朝日新聞社主催「平賀亀祐滞仏作品展」をブリヂストン美術館で開く。大阪高島屋にて作品展を開く。横浜市紅葉ケ丘県立図書館にて作品展を開く。東京交詢社にて作品展を開く。高知市にて個展を開く。1960 昭和35年 帰朝、東京、大阪ほか日本各地で個展を開く。1961 昭和36年 日本政府より勲三等に叙勲される。1962 昭和37年 浜名湖老人ホーム建設資金として作品を寄贈する。1963 昭和38年 東京日本橋 造形ギャラリーにて、造形主催の個展を開く。1964 昭和39年 高知市にて個展を開き、伊勢市にて個展を開き、札幌にて作品展を開く。1965 昭和40年 3回目の帰国、造形ギャラリーにて個展を開く。1966 昭和41年 「平賀亀祐喜寿記念」展が東京、日本橋三越にて開催される。「画集・平賀亀祐」出版される。(平賀亀祐喜寿記念展目録より転写)

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