本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





野田九浦

没年月日:1971/11/02

日本画家野田九浦は、11月2日老衰により東京吉祥寺の森本病院で死去した。享年91才。本名道三。明治12年12月22日東京に生れた。はじめ寺崎広業に師事し、明治29年東京美術学校日本画科選科に入った。翌年之を退学し、白馬会研究所に入って洋画を学んだ。一方また日本美術院研究生として日本画にも精進した。明治40年第1回文展「辻説法」が二等賞となり、一躍有名となった。この年大阪朝日新聞に入社し、大阪画壇のためつくした。その頃、巽画会審査員をつづけ、また官展で屡々に受賞し、審査員となった。昭和22年帝国芸術院会員となり、翌23年金沢美術工芸大学教授となった。同24年日展運営会理事、同33年社団法人日展顧問となった。着実な大和絵風画風を現代に生かし、考証的歴史画を得意とした。略年譜明治12年 12月22日東京下谷上根岸に生る。明治16年 一家をあげ北海道函館に転居。明治22年頃、遊歴途上来函した南画家小西皆雲に就き、又北条玉洞経営の絵画専門学校に学び、又小学校卒業後函館商業学校へ入学した。明治28年 寺崎広業に伴われ上京、同画塾に入る。明治29年 東京美術学校日本画科選科に入る。明治30年 岡倉校長失脚騒動により同校を退学。明治31年 白馬会研究所で洋画を学ぶ。又日本美術院研究生となる。この頃正岡子規に就き俳句を習う。又渡欧の目的で仏国公使武宮田島大佐に仏語を学び、又暁星学校に通うなど仏語研究9ケ年に及んだ。明治32年 日本絵画協会共進会「王昌齢」明治40年 文展第1回「辻説法」(二等賞、文部省買上)。この年、滝精一の推挙で大阪朝日新聞社に入社し、夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を描き、また大阪画壇のためつくす。明治43年 第10回巽画会「天平美人」同展審査員。明治44年 第11回巽画会「天平美人」同展審査員。第5回文展「仏教東に来る」(褒状)明治45年 第12回巽画会審査員。大阪美術展を興す。大正2年 第13回巽画会審査員。第7回文展「天草四郎」(褒状)大正3年 第8回文展「梅妃楊貴妃」(褒状)大正4年 第9回文展「発願」(褒状)大正5年 大阪より帰京。大正6年 第11回文展「妙見詣」(六曲一双)(特選)大正7年 第12回文展「霊山縁起」(六曲一双)帝展無鑑審査となる。大正8年 第1回帝展「網場」(六曲一双)大正11年 第4回帝展「高原晴日」(六曲一双)大正13年 第5回帝展「金沙灘頭之美女」帝展委員となる。大正14年 第6回帝展審査員。昭和元年 第7回帝展審査員。昭和2年 第8回帝展審査員。昭和12年 第1回文展「一休禅師」昭和16年 第4回文展「武人武蔵」煌土社展「山荘における広業先生」昭和18年 第6回文展「鍛刀」昭和22年 帝国芸術院会員となる。第3回日展「猿簑選者」昭和24年 日展運営会常務理事となる。(~29年)昭和26年 第7回日展「獺祭書屋」金沢美術工芸大学教授となる。昭和28年 第9回日展「修道女」昭和29年 第10回日展「K氏愛猫」昭和30年 金沢美工大学退職。昭和33年 第1回新日展「晋其角」社団法人日展顧問となる。昭和34年 美術協会展「俑」。煌土社再興。昭和35年 煌土社展「藤三娘」昭和37年 第5回新日展「広業先生」昭和46年 11月2日午前零時45分死去。

佐波甫

没年月日:1971/10/31

美術評論家、本名大沢武雄・早稲田大学教授は、3月に脳血栓で倒れ、8カ月の入院生活の後に10月31日死去した。享年69歳。明治34年11月29日東京に生れた。昭和5年早稲田大学フランス文学科卒業。実業之日本社に勤務する傍ら坂崎坦に師事してフランス17、18世紀美術を研究し、また佐波甫の筆名で美術評論活動に入る。以下の記録は朝日新聞社および美術研究所刊行の「日本美術年鑑」によるものである。おびただしい数になる展覧会批評は省略した。昭和10年、「現代美術を制約するもの」(アトリエ12-8)、「美術は如何に発展するか」(みづゑ369)、「美術批評に就て」(アトリエ12-10)、「本年の洋画壇と今後の方向」(美の国11-12)、「帝院改現と復古主義の前進」(アトリエ12-7)。昭和11年、「前衛絵画の二方向-立体主義より抽象主義へ」(美術11-5)、「フェルナン・レジェ」(みづゑ379)「市民的なプライド」(美術11-2)、「芸術精神の没落」(みづゑ381)、「日本画と近代精神-市民絵画の提唱」(美之国12-3)、「日本画を如何に考えるか」(みづゑ372)、「絵画に於ける」(みづゑ372)、「意識の絵画について」(みづゑ376)「名井万亀氏の作品」(アトリエ13-9)、「猪熊絃一郎と宮本三郎」(みづゑ374)、「岡田謙三」「三岸節子」「海老原喜之助」(以上、みづゑ378)、「二三の絵画現象に就て」(アトリエ13-2)、「若き作家諸君に与ふ」(美之国12-9)。昭和12年、「ヒューマニズムについて」(美之国13-1)、「日本古典への関心」(美術12-6)、「日本前衛派作家論」(アトリエ14-6)、「光風会の青年作家たち」(現代美術4-2)、「安井曾太郎の今日的意義」(みづゑ383)、「小磯良平を語る」(同391)、「北川民次君の印象」(同393)、「今日の諸問題」(アトリエ14-3)、「ジョルジュ・ブラック」(みづゑ384)、「ピカソ論、上・中・下」(同386、387、389)、「ジョルジュ・ルオー」(同387)。昭和13年、「作家と精神力」(アトリエ15-12)、「我が国芸術の調和的性格に就いて」(みづゑ396)、「絵画精神の再建」(同400)、「日本画の現段階に就て」(南画鑑賞7-12)、「統制と自由」(アトリエ15-2)、「シャルダン」(みづゑ397)、「マチャス・グリューネワルト」(同399)、「クラナッハと独逸的なもの」(同403)、「ドーミエを想ふ」(図406)。昭和14年、「歴史性へのめざめ」(美術14-8)、アラン「絵画論」(訳・みづゑ421)、「近代絵画の特質-10年間を回顧して」(美之国15-4)、「ドランについて」(みづゑ410)、「ポール・ゴーガン」(同414)、「ドカとロートレック」(アトリエ16-12)。昭和15年、「新体制下の美術批評について」(アトリエ17-2)、「吉岡堅二と上村松篁」(美之国16-3)、「コンラッド・メイリ」(みづゑ424)。昭和16年、「須田国太郎」(みづゑ437)、「堂本印象」(美之国17-1)、「宮本三郎」(みづゑ436)、「戦争美術の新しい創造」(帝大学生新聞7.14)。昭和17年、「大東亜共栄圏と日本画」(国画2-3)、「仏印より帰りて」(国画2-2)、「二・三の提案」(新美術9)、「仏印の印象-図画教育その他」(「造形教育8-2)。これらの論説は国際文化振興会より派遣されてインドシナ、中国各地の美術を視察したことを示している。昭和18、19、20年「山口蓬春」(画論22)、「仏印の絵画」(新美術23)、「大東亜戦争と芸術」(国画3-1)。戦後は日本美術会結成準備を手はじめに重要な諸作家の論評を進めたことが、つぎの諸論説より明らかである。昭和21年より25年、「荻須高穂カザ・ロッサ」(解説・美術手帖11)、「井上長三郎」(アトリエ訪問、美術手帖16)、「小野竹喬」(三彩14)、「菊地契月」(同33)、「鶴岡政男論」(みづゑ524)、「徳岡神泉論」(三彩8)、「靉光の芸術」(アトリエ267)、「松本竣介」(みづゑ519)、「泰西名画展の意義」(同500)、「ラウル・デュフィ」(アトリエ272)、「シャルダン」(みづゑ498)、「フランス初期画家達」(同502)、「セザンヌを想う」(BBBB5)、「我が前衛美術について」(アトリエ262)、この間に著書「裸体デッサン」(寺田政明と共著、大同出版社)「裸体絵画」(同左)がある。 昭和23年より向南高校で教鞭をとり評論活動を離れるようになる。25年早大第二政経学部、第二法学部の仏語講師、同28年文学部専任講師となり、西洋美術史と仏語を担当した。同29年より31年までフランスを中心にヨーロッパで美術研究を行う。31年文学部助教授、36年教授就任。この間に本名の大沢武雄の名で「セザンヌの不安」(早大文研紀要3)、「ビザンチンとルネサンスの空間」(同9)、「セザンヌの作品研究」(同13)、「ロマネスク芸術研究」(綜合世界文芸Ⅺ)、「世紀末芸術」(美術史研究5)、著書「西洋美術史」(造形社、昭和34年、46年に改訂版刊行)、G、ケペッシュ著「造形と科学の新しい風景」(美術出版社、昭和41年共訳)。昭和46年3月脳血栓で倒れ、8ケ月の入院生活ののち1月31日に死去した。恩師坂崎坦、森口多里、児島喜久雄、板垣鷹穂、外山卯三郎らの評論家に次ぐ世代に属し、戦前の前衛美術が許される時期に評論活動を始め、戦後の混乱期には、新しい作家の紹介を行った代表的な評論家の一人であった。

川島理一郎

没年月日:1971/10/06

日本芸術院会員、日展顧問、新世紀美術協会名誉会員の洋画家、川島理一郎は、10月6日午前6時10分、脳出血のため、東京・品川区の昭和医大病院で死去した。享年85才。川島理一郎は栃木県足利市の機屋の家に生まれ、19才のとき渡米、ついでフランスに渡り、藤田嗣治らとフォーヴィスム、キュービスム以後の美術運動の渦中で学び、同地で第一次大戦を経験して帰国、その後も数回にわたり渡欧、作風は初期にはキュービスムの影響をうけたが、フォーヴィスムを基調として幾度か変転した展開をみせた。一時期は、蘭を好んで題材し、戦後には抽象的傾向となった。随筆をよくし『緑の時代』『旅人の眼』『美術の都パリ』などの著書がある。略年譜明治19年(1886) 3月9日、足利市に生まれる。明治23年(1890) 祖父母と東京に居住する。明治38年(1905) アメリカへ渡り、ワシントン、コーコラン美術学校に学ぶ。明治39年(1906) ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインに特待生として学び、褒状をえる。明治44年(1911) フランスへわたる。パリのアカデミー・ジュリアン、ついでアカデミー・コラロッシュに学ぶ。大正元年(1912) サロン・ドートンヌに入選する。フォーヴィスム、キュービスムなどの新運動の刺戟をうけ、ピカソ、レジェ、ザッキン、藤田嗣治などと交友、原始洞窟絵画、古代エジプト、ギリシャ、ローマの遺跡をたずねる。大正4年(1915) 第一次大戦下、藤田、ザッキンらと赤十字に参加したが、病をえてスペインのマラガに静養する。大正8年(1919) アフリカ、モロッコを旅行、アメリカを経由して帰国。個展を開催。大正9年(1920) 再渡仏し、コルシカ島へ旅行、サロン・ドートンヌに入選。2年間滞在する。大正11年(1922) 滞欧作200点をたずさえて帰国したが、関東大震災のため焼失。大正13年(1924) 三度目渡欧、フランス、イタリア、スペインを旅行。大正15年(1926) 梅原龍三郎とともに国画創作協会第二部(のち、国画会)を創設。昭和4年(1929) 4回国展に「森の朝」「ニースの祭日」「魚」他、パステル、デッサンを出品。昭和6年(1931) 6回国展に「裸婦スパニッシュ」(1~3)、「ニースの家」「ニースの海浜」「窓・エトルタ」「ルクサンブルグの朝」(1~2)他1点を出品。昭和7年(1932) 「池上早春」「ボスケ、デュロナード」他2点を国展に出品。昭和8年(1933) 「相思樹」「台湾歌妓」(1~5)を国展に発表。昭和9年(1934) 「巨木」「林間」「巨人踊の夕」(国展)昭和10年(1935) 「花」「森」(国展)、この年国画会を脱会する。昭和11年(1936) 女子美術学校の教授となる。昭和12年(1937) 文展審査員を依嘱される。昭和13年(1938) 陸軍嘱託となり従軍画家として北支に派遣される。2回文展に「九竜壁(北京)」を出品、文展審査員。昭和14年(1939) 再度北支へ派遣される。昭和16年(1941) 泰・仏印(タイ国、ヴェトナム)派遣される。昭和17年(1942) 泰国首相へ贈呈画使節として派遣される。昭和18年(1943) 8回文展に「南方の蘭花」を出品。陸軍省より記録画製作のためフィリッピンへ派遣される。昭和23年(1948) 日本芸術院会員に推挙される。昭和24年(1949) 5回日展「多摩川」昭和26年(1951) 7回日展「香港」昭和30年(1955) 新世紀美術協会の創立に参加し、名誉会員となる。「巴里現代美術館の浮彫」(11回日展)昭和31年(1956) 「中禅寺湖」(12回日展)、「らん花」(1回新世紀展)昭和34年(1959) 「蘭花」「巴里」「蘭花」「ポン・ヌフ」「嵐山にて」「窓」「マチスのアトリエ」(4回新世紀展特別陳列)、「鎌倉山風景」(2回日展)昭和36年(1961) 「鎌倉山」(日展)、「牡丹」(6回新世紀展)昭和39年(1964) 「浮世絵の誘惑」(7回日展)昭和41年(1966) 「雨と風の詩」(9回日展)、「太陽にうたう」(11回新世紀展)昭和44年(1969) 「浮世絵の誘惑(その二)」(改組1回日展)、「ルナ幻想」(14回新世紀展)

吉田政次

没年月日:1971/09/19

日本版画協会会員の木版画家吉田政次は、9月19日午後6時7分、胃ガンのため東京新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年54才。大正6年(1917)3月5日、和歌山県有田郡に生まれ、昭和9年(1934)に和歌山県立耐久中学校を卒業し、翌年上京、川端画学校に学び、昭和11年(1936)東京美術学校西洋画科に入学し、昭和16年(1941)に同校を卒業した。翌17年現役兵として中支に派遣され、昭和21年(1946)帰還し、同年東京美術学校研究科に入り、翌22年同科を修了した。昭和24年(1949)日本版画協会第17回展に木版画「働く父子」を出品、以後、毎年出品し、昭和27年同会会員となった。また、昭和25年(1950)、モダンアート協会が創立された第1回展に招待出品、同28年にモダンアート協会会友、翌29年会員に推挙されたが、昭和37年(1962)同会を退会した。両展に作品「静」シリーズ、「空間」シリーズを発表して注目され、昭和30年(1955)スイス・ルガーノ国際版画ビエンナーレ展に出品、31年(1956)スイス・チュリッヒ国際版画展に出品など国際展でも活躍し、昭和32年(1957)東京国際版画ビエンナーレ展において新人賞を受賞、昭和44年(1969)には、スペイン、バルセロナ市で開催された第8回ホアン・ミロ賞国際素描展に「門」を出品して大賞をうけた。作品略年譜昭和24年 「働く父子」昭和24年 「生の果て A、B」昭和26年 「若き交り A~D」「争い」「二人」「バレリーナの夢 A、B」昭和27年 「静 1~6」昭和28年 「静 19~32」昭和29年 「静・残されたもの 51~61」昭和30年 「静・残されたもの 66~68」「清楚(女優S・H嬢の映像)」「清楚(バレリーナM・T嬢の映像)」「団結・友愛・出発・建設」昭和31年 「森の精」「地の泉 1~4」昭和32年 「作品、新しき出発」昭和33年 「雷」昭和34年 「相対性絵画NO.5」「無限NO.2-3」「空間2~8」昭和35年 「静寂」「空間」昭和36年 「空間NO.5」「昔NO.6」昭和38-39年 「空間NO.21~39」昭和40年 「壁の中の白NO.4~5」「空間 50」昭和41年 「壁の中白NO.6」「空間 52」昭和42年 「除夜の鐘NO.1~2」「余韻NO.2」昭和43年 「躍動する心NO.1~5」

文挾克明

没年月日:1971/09/19

自由美術協会々員の文挾克明は、9月19日腸閉そくのため死去した。享年66歳。明治38年7月1日栃木県今市市に生れ、本名勝太郎。昭和18年までは勝と号し、以後克明と号した。画家を志して上京、大正11年川端画学校修了、大正15年日本美術学校を卒業した。昭和4年から種々の美術団体展に出品しはじめ、終始超現実主義傾向の独自な画境を示した。略年譜昭和4年~8年 国際美術内国展、白日会、1930年協会、槐樹社、東光会などの各展に入選。昭和6年~23年 独立美術協会展の第1回より第16回まで連続入選。昭和14年 陸軍従軍画家として中支へ渡る。河北新報に支那事変の絵と文、連載。昭和17年 独立美術協会会友に推挙される。昭和23年 「冷たき暴威」で独立美術賞受賞。昭和24年 「栄光の体型」を日本アンデパンダン展に出品。昭和25年 独立美術協会から自由美術家協会へ移籍。同時に受賞し、自由美術家協会会員に推挙される。昭和25年 胃癌の手術をうける。昭和33年 「抽象絵画の展開」展(国立近代美術館)に招待出品する。昭和44年 腸閉塞の手術をうける。昭和45年 朝日新聞紙上に東大名誉教授大塚久雄「わが道」のカットを担当連載する。昭和46年 2月、腸閉塞再手術。9月19日同病悪化で死去。

木村珪二

没年月日:1971/08/31

日展評議員、白日会常任委員の木村珪二は、8月31日死去した。享年67歳。明治37年6月2日兵庫県出石に生れた。石川県立金沢第一中学校を経て昭和2年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。在学中の大正15年第7回帝展に初入選してより、官展に出品を続け、その間、昭和13年第2回文展、翌年第3回文展で連続特選となり、戦後は日展で審査員を歴任。堅確な写実的作風で知られ、日展彫塑で重きをなした。昭和25年より白日会彫塑部の常任委員、同31年より日本彫塑家クラブ(のちの日本彫塑会)の運営委員、同27年より東京教育大学教授などをつとめた。

小野彦三郎

没年月日:1971/08/12

もと日展依嘱で無所属の洋画家小野彦三郎は、8月12日午前、肺ガンのため死去した。享年59才。小野彦三郎は明治45年(1912)2月11日、宮崎県諸県都に生まれ、宮崎県立小林中学校をへて、昭和13年(1938)帝国美術学校(現・武蔵野美大)を卒業、昭和17年5回文展に「鏡」が入選、戦後日展に連続入選し、昭和24年6回展で特選となった。昭和28年(1953)から2年間、留学生としてフランス滞在、帰国後、昭和30年から日展依嘱となった。一時、創元会に属したが昭和33年退会して同志と十一会を結成し、38年にはこれを退会し、無所属となり、昭和39年以降は毎年個展を開催(主として日本橋高島屋において)して作品を発表していた。日展出品作品略年譜昭和21:「午後」、昭和22:「頸節」、昭和23:「あじさい」、昭和24:「静思」(特選)、昭和25:「百日紅」、昭和26:「河」、昭和27:「門」、昭和30:「マロニエ」、昭和31:「樹」、昭和32:「三月堂」、昭和32:「舟」。

堀沢好一

没年月日:1971/08/12

二紀会同人の堀沢好一は、8月12日死去した。享年61歳。明治43年7月10日大阪府枚方市に生れた。大阪府池田師範学校卒業。中之島洋画研究所で国枝金三、鍋井克之に師事。昭和7年二科第19回展より第29回展まで出品。昭和22年二紀会展より同展に出品、同年第二紀会同人となった。

丸山栖鶯

没年月日:1971/08/03

太平洋美術会々員、日本水彩画会会友の丸山栖鶯は、8月3日、日光へ写生旅行中に脳出血のため急逝した。享年71歳。明治33年1月11日、水彩画家丸山晩霞の長男として長野県小諸市に生れた。本名節。大正13年3月東京美術学校彫刻科選科塑造部を卒業。その前大正11年第4回帝展に彫塑作品「恍」で初入選した。大正15年陶器彫刻研究のため大倉陶園に入社。昭和2年聖徳太子奉賛展賞を受け、翌3年には東久邇宮より銀盃を給わった。同5年には秩父宮家に作品御買上。同19年大倉陶園退社、長野へ移転し、同22年陶彫研究所を開設した。同26年長野県小諸より上京し絵画に専念することになった。同39年~46年、太平洋展へ出品、会員となった。同41年からは日本水彩画会展へも出品を続け、同45年には三宅氏賞を受け、会友となった。

松田文雄

没年月日:1971/07/09

一水会委員の洋画家・松田文雄は、7月9日午前11時45分、東京港区の慈恵医大附属病院において、ジン不全のため死去した。享年63才。松田文雄は、明治41年(1908)3月9日、京都市に生まれ、まもなく三重県出身の書家松田舒(号・南溟)の養子となり、東京、麻布小学校をへて大正9年(1920)東京府立第一中学校に進み、同14年同校を卒業、翌15年(1926)東京美術学校西洋画科に入学した。はやくから宗教・哲学書にしたしみ、早熟で、印象派以前の西洋絵画の官学派へ接近を試み、一方、児童画でも好評をえた。生涯を独身でとおし、晩年は半身不随と右眼失明などになやまされ闘病生活のなかで制作していた。略年譜1908 明治41 京都に生る1908 明治41 三重県人、松田舒の養子となる1920 大正9 東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校)入学1923 大正12 関東大震災、麻布区にて罹災1924 大正13 牛込区二十騎町に移転1925 大正14 東京府立第一中学校卒業、川端画学校でデッサンを学ぶ1926 大正15 東京美術学校西洋画科(東京芸術大学)入学、牛込区河田町に移転1928 昭和3 美術学校三年、和田英作教室に編入され、同教授の教えを受く、同年帝展に「T嬢立像」を出品初入選す1929 昭和4 2月6日義父舒死去1920 昭和5 帝展に「夕暮れ」出品1931 昭和6 東京美術学校卒業1932 昭和7 上海事変勃発、海軍従軍画家として上海に赴き同年帰国1934 昭和9 帝展に「老母の像」出品1938 昭和13 5月6日義母綏子死去1939 昭和14 文展に「大陸の子」出品1940 昭和15 紀元2600年奉祝展に「老鍛治屋」発表、一水会展に「萩咲く庭」「青衣座像」等を出品し、山下新太郎、石井柏亭の知遇を受く1941 昭和16 文展に「猫を抱く小孩」双台社展に「青衣」出品1943 昭和18 文展に「家鴨と小孩」双台社展に「雪国の少女」出品す1944 昭和19 陸軍美術展に「忠烈」「硫黄島決戦」「軍神山崎部隊長像」等を出品、この頃に藤田嗣治との交流あり、戦火をさけて世田谷区八幡山の農家に疎開1945 昭和20 東京大空襲により河田町のアトリエ焼失1946 昭和21 日展1月「小春日」10月「草に座す」出品、一水会会員に推挙さる1947 昭和22 日展に「庭にて」出品1950 昭和25 日展に「童女と仔犬」出品、新宿区若松町68の新画室に移転1951 昭和26 日展に「老漁夫」出品1953 昭和28 日展に「雪崖」出品1955 昭和30 一水会展に「荒天の犬吠岬」出品1956 昭和31 5月25日カトリックの洗礼を受く1957 昭和32 一水会展に「清流」出品1958 昭和33 一水会展に「風薫る」出品1960 昭和35 一水会展に「林檎の花咲く」日展に「庭に立てる」出品1961 昭和36 一水会展に「泉湧く」出品、会員優賞を受く1962 昭和37 一水会展に「奥黒部西沢小沢」出品1963 昭和38 一水会展に「奥黒部棒小屋沢」出品1964 昭和39 日展に「白い道」出品1965 昭和40 日展に「初秋の庭にて」出品1966 昭和41 5月27日半身不随となる、日展に「断崖」鈴木貫太郎記念館(千葉県関宿)に「大演習御召艦長門艦上の図」完成納入、一水会展に「新雪の剣岳」出品1967 昭和42 一水会展に「黒部の秘境祖母谷」日展に「木曾晩夏」出品1968 昭和43 一水会展に「秋立つ朝」日展に「雪原牧馬」出品、一水委員に推挙される1969 昭和44 1月糖尿性脱疽にて厚生年金病院入院、右足指一本切断、3月退院、一水会展に「夏の牧場」出品1970 昭和45 1月病気再発、慈恵医大病院入院、4月退院、7月友人石井光雄・五味悌四郎・佐藤保春・田中志郎と共に、日本自然派美術会を結成、7月末念願のイタリア旅行出発、ローマ法王に謁見す、8月帰国、9月慈恵医大病院入院、日を追って病状悪化し数回の手術を受く、12月第1回“日本自然派美術会展”開催1971 昭和46 7月9日慈恵医大病院にて死去、享年63才墓所、三重県鳥羽市天真寺に埋葬す、養父母の墓(碑銘、比田井天来揮毫)の側に友人一同記念碑を建立す(碑銘、比田井天来の息、南谷揮毫)1972 昭和47 7月6日から12日まで遺作展を新宿・小田急百貨店で開催(遺作展目録・年譜より)

中尾進

没年月日:1971/06/08

新制作協会洋画部会員で時代小説の挿絵でも活躍した中尾進は、6月8日、癌性腹膜炎のため東京・阿佐谷の河北病院で死去した。享年55才。中尾進は、本名鈴木益吉、大正5年(1916)5月27日、栃木県宇都宮市に生まれ、栃木県安蘇郡植野村尋常高等小学校を卒業、川端画学校、本郷研究所で学び、昭和15年(1940)荻須高徳に師事し、翌16年新制作派6回展に「古い家」が初入選した。翌17年5回文展に「日和」入選、同18年以後は新制作展に出品をつづけ、昭和21年(1946)10回展に「敗屋」「本郷湯島附近」「松坂屋のみえる風景」を出品して新作家賞をうけ、同31年(1956)「座す」「鳩」を出品。新制作協会会員に推薦され、昭和39年4月~7月欧米を旅行した。昭和30年(1955)前後から新聞雑誌の挿絵を描きはじめ、柴田錬三郎作「乱世流転記」(京都新聞)、司馬遼太郎作「城塞」(週刊新潮)など多くの時代小説の挿絵を担当した。その他、油彩作品には、「信濃の道」(昭和18)、「工場」「四谷駅」(同24)、「話」「鏡」(同26)、「生」(同28)、「滑走路」「赤い椅子の夢」「NOA NOA」(同30)、「弱法師」(同34)、「白」「黄」「赤」(同37)、「アクロポリス」(同39)、「風の影」「イスパニア」「黒い陽」(同40)などがある。

飯島敏三

没年月日:1971/06/04

一水会々員、日本水彩画会々員の飯島敏三は、6月4日あたかも銀座・銀彩堂にて前年に引続いての第2回目の個展開催中、心筋梗塞のため急逝した。享年59歳。明治45年1月4日埼玉県に生れ、昭和18年東京高等師範学校研究科を卒業した。まず水彩画からはじめ、昭和21年第10回大潮展特選、同25年第38回日本水彩画会展で受賞し、翌年第39回同展で水彩画会賞を受けると共に会員に推挙された。同34年一水会展で佳作賞を受け同36年一水会々員に推挙された。田崎広助に師事、日展には昭和26年初入選以来同45年まで10回の入選を重ねた。油絵、水彩共に穏健な写実的風景画に特色を示した。

剣持勇

没年月日:1971/06/03

インテリアデザイナーの剣持勇は、昨秋来抑うつ症にかかっていたが、6月3日東京都新宿区の剣持デザイン研究所二階所長室でガス自殺を遂げた。明治45年1月2日東京に生れ、昭和7年東京高等工芸学校木材工芸科(現千葉大学工学部)を卒業、直ちに商工省工芸指導所に入所した。同19年同所技師となり、同21年東京支所木工課となった。同27年産業工芸試験所意匠部長、同29年には日本ユネスコ国内委員会調査員に併任された。翌30年には工芸試験所を退職し、剣持デザイン研究所を設立した。同研究所は32年株式会社剣持勇デザイン研究所として発足、現代インテリアデザイン界の指導的地位にあって活躍した。また受賞も多く昭和33年ブラッセル万国博覧会日本館に対し、前川国男等と金賞を受け、同38年には第9回毎日産業デザイン賞、翌年ニューヨーク近代美術館20世紀デザインコレクションに「籐丸椅子」が選定された。そのほか、イタリアイエロドームス賞(昭44)、第15回毎日産業デザイン賞(45年)、日本インテリアデザイナー協会協会賞(昭46)などがある。主要作品昭和33年 香川県庁舎各室 家具昭和35年 ホテル・ニュー・ジャパン 内装、家具昭和36年 戸塚カントリークラブ 内装、家具昭和38年 北海道拓殖銀行丸の内支店 家具、展示昭和39年 京王百貨店全店 内装、家具昭和41年 国立京都国際会館 家具昭和43年 霞ケ関東京会館 内装、家具昭和43年 B-747(日航) 内装昭和46年 ライオン油脂K.K.内装、家具昭和46年 京王プラザホテル 内装、家具

平松宏春

没年月日:1971/06/02

彫金工芸家、日展評議員の平松宏春は、6月2日午前9時40分、前立せんガンのため関西電力病院にて死去した。享年75歳。明治29年1月7日兵庫県に生れ、本名礼蔵。彫金家桂光春に師事。昭和9年帝展初入選、以来戦後の日展工芸部有数の作家として毎年作品発表を重ねた。26年特選、29年日展審査員をはじめ、関西総合美術展、大阪府・市展など審査員をつとめること数回に及んだ。格調の高い作柄は宮内庁の買上にもなり、天皇皇后両陛下、東宮御所、常陸宮家への献上品となった。現代工芸美術家協会参与、大阪芸術大学教授をつとめた。大阪府芸術賞を受け、池田市名誉市民にあげられていた。

山口蓬春

没年月日:1971/05/31

日本画家山口蓬春は、5月31日肝臓障害のため、神奈川県葉山の自宅で死去した。享年77才。本名三郎、明治26年10月15日北海道松前市に生れ、大正3年東京美術学校西洋画科に入学し、同7年同校日本画科に転向、同12年卒業した。翌年松岡映丘の主宰する新興大和絵運動に参加し、この年第5回帝展に「秋二題」が初入選となった。翌年の「神苑春雨」についで出品した第7回帝展の「三熊野の那智の御山」が特選となり、帝国美術院賞となって一躍その名を知られるに至った。昭和2年第8回帝展出品の「緑庭」もつづいて特選となり、昭和3年第9回で推薦、翌4年審査員となった。また昭和6年7月には、中村岳陵、福田平八郎、横川毅一郎らと友交を主とする研究団体六潮会を結成した。昭和25年日本芸術院会員となり、同40年には文化勲章を受領した。作品は、復古大和絵調から次第に洋風表現に傾き、昭和7年第13回帝展「市場」にみられるような機知に富んだ近代感覚溢れる作品を生むに至っている。戦後は、斯様な傾向が更に助長され、明快な描写と色彩で、大和絵を見事現代に生かした蓬春芸術の本領を発揮した。代表作に「三熊野の那智の御山」「市場」「榻上の花」などがあり、著書に「日本画新技法」がある。略年譜明治26年 10月15日北海道松前市に生る大正3年 東京美術学校西洋画科入学昭和4年 第2回二科展入選昭和5年 第3回二科展入選昭和7年 東京美術学校日本画科に転向昭和12年 同校日本画科卒業昭和13年 「秋二題」第5回帝展昭和14年 「神苑春雨」第6回帝展昭和15年 「三熊野の那智の御山」(特選・帝国美術院賞、政府買上、御物)第7回帝展昭和2年 「緑庭」(特選)第8回帝展昭和3年 「潮音」(推薦)第9回帝展昭和4年 帝展審査員昭和6年 「波野」第12回帝展昭和7年 「市場」第13回帝展(政府買上、東京芸大蔵)昭和9年 「岩倉大使欧米派遣之図」明治神宮絵画館壁画揮毫昭和10年 帝国美術院改組に際し参与となる昭和14年 「秋影」第3回文展出品。審査員となる昭和22年 「山湖」第3回日展昭和23年 「濤」第4回日展(政府買上、東京国立近美蔵)昭和24年 「榻上の花」第5回日展(政府買上、東京国立近美蔵)昭和25年 日本芸術院会員となる。「夏の印象」6回日展昭和29年 日展常任理事となる昭和31年 8月、北京に於て開催された「雪舟等楊」逝世四百五十年記念式典に日本代表として参列昭和38年 5月、自選展開催 朝日新聞社主催(銀座、松屋)昭和39年 「春夏秋冬」四部作(昭和36年第4回新日展出品「秋」より四年間をもって完成。東京国立近代美術館蔵)昭和40年 文化勲章受領昭和43年 新宮殿壁画完成昭和45年 神奈川県文化財委員会と朝日新聞社主催にて横浜高島屋にて喜寿記念展開催昭和46年 5月31日 病没

津田耕造

没年月日:1971/05/25

もと日展出品の洋画家津田耕造は、5月25日動脈破裂のため死去した。享年79才。津田耕造は明治25年(1892)3月15日福岡県に生まれ、和田英作に師事、大正10年(1921)東京美術学校西洋画科を卒業。その後、病のため右足を切断し長く画業を休んでいたが、昭和5年前後から再び描きはじめ、主として肖像画を制作した。主要な作品に、「楢橋渡氏令嬢像」「島津忠承氏肖像」などがある。

水野清一

没年月日:1971/05/25

文学博士、京都大学名誉教授水野清一は5月25日、肝硬変のため京大病院で死去した。享年66才。明治38年3月24日神戸市に生れた。昭和3年京都大学文学部史学科卒業。4年4月より6年まで北京留学。6年1月京都市東方文化研究所研究員。同所員として昭和11年ごろから20年まで中国の竜門石窟、大同、雲崗の発掘調査に従事した。23年京都大学人文科学研究所教授。26年雲崗石窟の研究で朝日賞、27年同研究で学士院恩賜賞を受賞。「仏教芸術」編集委員。43年京都大学停年退職。「響堂山石窟-河北河南省境における北斉時代の石窟寺院」(長広敏雄共著、京都、東方文化学院京都研究所 12年)、「竜門石窟の研究」(長広敏雄共著 京都、東方文化学院京都研究所 16年)、「雲崗石窟-西暦五世紀における中国北部仏教窟院の考古学的調査報告、東方文化研究所調査、昭和15年-20年、」(長広敏雄共著、京都、京都大学人文科学研究所 26-30年)など編著書論文の数は多い。詳しくは退官記念論文集「中国の仏教美術」(平凡社、43年)参照。

阿部展也

没年月日:1971/05/07

イタリア、ローマ在住の洋画家、阿部展也は5月7日午前7時30分(ローマ時間、6日午後11時30分)、ローマのサルバドール・ムンディ病院で脳出血のため急逝した。享年58才であった。阿部展也は本名を芳文、大正2年(1913)2月4日、新潟県に生まれ、東京・小石川の京北中学校を4年で中退し、以後、独学で絵画を学び、はじめ独立展に出品、昭和12年詩画集『妖精の距離』(春鳥会刊)を出版、昭和14年(1939)には福沢一郎を中心とする超現実主義の団体、美術文化協会の結成に参加し同人となった。昭和15年ころ満州・蒙古に旅行、昭和16年(1941)からフィリッピンに滞在して、日本軍報道部の仕事に従事しポスター、写真、その他の諸企画にあたった。昭和21年(1946)帰国、美術文化協会に復帰したが、昭和27年(1952)同会を脱退、無所属となった。昭和26年(1951)サンパウロ・ビエンナーレ展、翌27年カーネギー国際美術展、28年インド国際美術展、30年ニューヨーク、ブルックリン美術館主催国際水彩画展、その他国内の国際展にも出品して活躍し、28年(1953)のインド国際展には日本美術家連盟代表として渡印し、約7ケ月インドに滞在した。昭和32年(1957)9月、渡欧してユーゴのドゥブロニックで開かれた国際造型芸術連盟第2回総会に日本代表として出席し、執行委員に選出され、昭和34年(1959)以降はローマに定住した。2期6年間、国際造型芸術連盟執行委員をつとめ、その間、重要事項採決にあたっては東洋諸国代表の中心的存在となって意向をまとめ、西欧諸国の独走をふせぐ役割をはたし、昭和35年(1960)には、グッゲンハイム賞、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展国際審査員にあげられた。昭和38年(1963)サン・マリノ・ビエンナーレ展、40年(1965)アメリカでの「日本の新しい絵画彫刻」展に出品、そのほか、ローマ、ミラノ、ヴェニスなどイタリア各地でグループ展、個展で作品を発表し、知的な探求心、旺盛な活動力と批評活動によって作品はつねに前衛的な作風を保持し、初期の超現実主義から晩年は抽象主義的作風へ移行した。かたわら、ブルガリアからアイルランドの各地を旅行してロマネスクの教会美術を調査し、数多くの写真資料を残している。遺体はローマのサン・ロレンツォ・バジリカ教会近くのカンポ・ベラノ墓地に埋葬された。作品略年譜昭和7年 「風景・道」(独立展)昭和9年 「静物」(独立展)昭和10年 「作品」(独立展)昭和11年 「作品A」『作品B』(独立展)昭和12年 「ムーヴマン」(独立展)昭和13年 「トルソ」「顕花植物」(独立展)昭和14年 「芽」「茎」(独立展)昭和15年 「地球創造説」「ひとで」「デッサン」(美術文化展)昭和16年 「支那芝居の顔」「内蒙古バタカルスム壁画模写」(美術文化展)昭和22年 「月環」(美術文化展)昭和24年 「アダム・イヴ」「生誕」(美術文化展)昭和26年 「デッサンA、B、C」「オタスケ」「アクロバット」「バレー」「ナメクジ」「航空機」(美術文化展)昭和27年 「神話(判字絵)」「一人相撲」「裸像」「夜明け」(美術文化展)、「埋葬」シリーズ3点(1回東京国際展)昭和28年 「座像」「顔」(2回東京国際展)昭和29年 「雨が降る」「予言者」(1回現代展)昭和30年 「体操」「人間」(3回東京国際展)昭和31年 「人間」「人間」(2回現代展)昭和32年 「Blind」(4回東京国際展)昭和34年 「作品」(5回東京国際展)昭和35年 「作品1」「作品2」(4回現代展)昭和36年 「作品1・マスプロダクション」「作品2・落ちる」(石版)昭和47年 京都、東京国立近代美術館『ヨーロッパの日本作家』展に「作品」「こだま」「R-15」「R-14」「R-23」「R-49」「R-4」の7点が陳列される。

手塚又四郎

没年月日:1971/05/05

美術教育学の長老手塚又四郎は5月5日腎不全のため埼玉県浦和市の埼玉中央病院で死去した。享年69才であり、国際美術教育学会(INSEA)副会長、造形基礎研究所長、日本美術教育連合理事、大学美術教育会議議長、技術教育研究会長、京都教育大学および立正女子大学教授、日彫クラブ理事を兼務していた。明治36年4月24日栃木県今市市に生れる。大正12年東京青山師範学校卒。昭和3年東京高等師範学校卒、同年熊本第一師範学校教諭として美術科を担当。同8年埼玉師範学校教諭。この時期に、昭和5年より朝倉塾で研修しつつある彫塑芸術を美術教育にとり入れることを提唱したと自筆の調書にある。山形寛著「日本美術教育史」によると、それより以前に霜田静志の総合的な美術教育論が発表されており、手塚の提唱がどのような意義をもちえたかここでは確かめる余裕がないが、図画を中心とした従来の美術教育においては何らかの積極的な意味をもっていたであろうことは想像に難くない。また、文部省中等学校図画工作教科書執筆委員となる。16年東京市視学官となり図画、工作、工業を担当。21年2月東京高等師範学校教授となり、彫塑学科を創設。24年8月東京教育大学教授。27年4月山形大学教授。34年より42年京都学芸大特修美術科主任教授。昭和6年ごろより彫塑と同時に絵画の制作にも携わり、春陽会、独立展、聖徳太子奉讃展に出品。日展には彫塑を出品。この間、昭和11年には朝鮮、満州の美術視察旅行、30年、35年、39年には国際美術教育会議に日本代表として出席。38年には文部省教育職員養成審議会美術特別委員会主査なども勤めた。41年以後国際美術教育者連盟副会長。著書に「美術教育概論」(教育大学講座)金子書房、昭和25年。「新しい図画、工作」(小・中学校教科書)東京書籍、26年。「造形教育」岩崎書店、26年。「日本工作教育史」(日本教育文化史大学)金子書房、29年。「ヨーロッパの造形教育」えくらん社。「世界の美術教育」美術出版社、38年。「色彩の芸術」美術出版社33年。「バウハウスの造形基礎」「造形美術の基礎」。他に28年より日本彫塑家クラブ刊行の「彫塑」を編集した。

児玉希望

没年月日:1971/05/02

日本画家の児玉希望は、脳血せんのため東京港区の慈恵医大病院で死去した。享年72才。本名省三。明治31年7月5日広島県高田郡に生れ、若くして上京し、川合玉堂の門下となった。大正10年第3回帝展「夏の山」が初入選で、以後連続入選している。昭和3年第9回展「盛秋」で特選となり、第11回展「暮春」もまた特選となった。昭和6年第12回帝展では推薦・無鑑査になり、翌年審査員となった。以来、帝文展の審査員をつづけ、官展の中心作家となり、戦後に及んだ。昭和27年第8回日展「室内」で日本芸術院賞となり、同33年には日本芸術院会員となった。そのほか、戦時中は美術及工芸統制協会の理事長をつとめ、戦後は社団法人日展の常務理事として運営につくし、その手腕を示した。戦前は戊申会、児玉画塾展等を、戦後は伊東深水、矢野橋村等と日月社を結成し、私塾系作家の制作促進を計った。また昭和32年には約1ケ年滞欧し、各地で水墨画展を開き、その後の代表作に「仏蘭西山水絵巻」(三巻)(東京国立近代美術館蔵)がある。なお、代表作の多くは、広島県立美術館に寄贈されている。

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