本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





中島多茂都

没年月日:1970/07/30

日本美術院評議員、日本美術家連盟委員の中島多茂都は、7月30日死去した。享年70歳。本名保。明治33年静岡県沼津市に生れ、大正9年前田清邨に師事した。昭和4年第16回院展に初入選し、以後毎年日本美術院に出品、昭和20年「球岳」では日本美術院賞となり、同27年同人、38年「長崎三題」では文部大臣賞となった。主な作品に「金時山」「仙石原村」「瀞」「長崎三題」などがある。

相見香雨

没年月日:1970/06/28

美術史家相見香雨は6月28日老衰のため東京都滝野川の自宅で逝去した。享年97。相見香雨(本名・繁一)は、明治7年12月1日島根県松江市で生れた。松江中学卒業ののち早大の前身東京専門学校に学び、卒業後松江新報の編集に従事した。明治40年、大村西厓のもとで東洋美術大観の仕事を手助けし古美術研究に入った。明治43~大正元年ロンドン、パリに滞在。帰国後大正元年から審美書院の事実上の責任者となって「群芳清玩」その他の刊行に当った。その後、「精芸出版」社の仕事を担当「柳営墨宝」などを出版した。昭和元年日本美術協会に入り、同会のため美術品の収録作業に従事した。戦後は、27年文化財保護委員会美術工芸部門の専門審議会委員に就任、36年、美術史学における研究における功績に対し紫綬褒章を授与された。著述目録(図録・単行本)○群芳清玩 10冊 芸海社 大正元11~10、11○池大雅 1冊 美術叢書刊行会(東京) 大5、8○浅野侯爵家宝絵譜 1冊 芸海社(東京) 大6、2○好古堂一家言 1冊(帙入) 大8、12○雲州餘彩 上・下 2冊(帙入) 芸海社 大11、2○木内翁小伝 1冊 木内翁記念会 大11、11○柳営墨宝 1冊(帙入) 精芸出版(東京) 大11、12○日本古画大鑑 前編、後編 各2冊(帙入) 美術社刊(東京) 昭2年秋と3年夏○抱一上人 1冊 美術協会報告6、抱一百年忌特集、昭2、11。○宋元名画集 2部 聚楽社(東京) 昭7、1、以降○罹災美術品目録 1冊 国華倶楽部、昭8、8○渡辺崋山 寓画堂日記 1冊 観文楼叢刊第一。昭8、11○光悦・松花堂1冊「宗達と光琳」アトリエ社。昭14前後○文晁 アトリエ社。昭14前後○光琳 みすず書房。昭33、6、

黒田重太郎

没年月日:1970/06/24

洋画家黒田重太郎は、6月24日老衰のため京都市北区の自宅で逝去した。享年82歳。黒田重太郎は明治20年9月20日滋賀県大津市で生れたが、幼、少年期を大阪で過し、明治37年京都で鹿子木孟郎に洋画を学び、、翌38年浅井忠の門に入った。大正元年第6回文展に「尾之道」が初入選となり、同7年9月渡仏、帰国後大正8年第6回二科展にピサロの影響をみせる滞欧作「ケルグロエの夏」以下14点を特陳し二科賞を得、会員となった。大正10年再び渡仏しアンドレ・ロートの影響をうけ「港の女」「レスカール」「水浴の女」などキュビックな作品を帰国後の大正12年第10回二科会展に発表し二科会々員となった。第1回渡仏では画作の傍ら西洋美術史を学び、第2回渡仏では画論、技法史等を学び「セザンヌ以後」(大正8年)、「構図の研究」(大正14年)の著書がある。昭和18年二科会を脱会し、22年4月、同志9人と第二紀会を創立、以来同会に出品していた。また大正13年以来、鍋井克之、小出楢重等と信濃橋洋画研究所を開設、又昭和12年全関西洋画研究所を設立するなど関西を中心に後進の育成に尽していた。22年京都市立美術専門学校教授となり、京都市立美術大学洋画科主任教授を経て38年4月退官。同大名誉教授。44年芸術院恩賜賞受賞。二紀会名誉会員であり関西洋画界の最長老であった。なお著書に前記の他「小出楢重の生涯と芸術」(昭和30年、美術出版社)、「画房随筆」(昭和17年)その他10余種がある。二科会展における主な出品画は「三部作・閑庭惜春」(昭和8年)、「晩桜」(昭和9年)、「肇暑」(昭和11年)、「湖雨欲晴」(昭和18年)。なお、二紀会展における主な出品は「枯山水石組」(昭和28年)、「風の湖」(昭和29年)、「冬澗」(昭和30年)など。

清水対岳坊

没年月日:1970/06/19

漫画家清水対岳坊は、6月19日心筋硬そくのため東京都北多摩郡の自宅で死去した。享年86歳。大正、昭和初期に活躍した漫画界の草分けで、講談社の「キング」「少年倶楽部」「講談倶楽部」のさし絵や、新聞の政治漫画などで知られた。

寺畑助之丞

没年月日:1970/06/06

新構造社彫刻部代表の寺畑助之丞は、永らく病気療養中のところ、6月6日死去した。明治25年11月富山県高岡市に生れ、大正7年東京美術学校彫刻科本科を卒業した。大正9年朝鮮総督府技師となり、総督府新庁舎一般建築彫刻を担任した。朝鮮美術展覧会の第2・3.4回評議員及び審査員を、同第5回参与及審査員となり、昭和11年文展第3部無鑑査となった。東京高等工芸学校・東京工業専門学校教授をつとめ、構造社から昭和10年新構造社彫刻部に移り、彫刻・工芸部会員代表となった。そのほか、興亜造型文化連盟常務理事(会長-藤山愛一郎)、日本彫塑家倶楽部理事、愛知県常滑日本陶芸研究所々長等をつとめる。代表作-「母と子」

杵谷精一

没年月日:1970/05/31

彫塑家杵谷精一は、5月31日胃ガンのため東京杏雲堂病院で死去した。享年72歳。明治30年6月鳥取県米子市に生れ、明治45年米子市角盤町角盤尋常高等小学校高等科を卒業した。同年山陰日々新聞社石版部に入り、大正2年退社して上京、米子出身の彫刻家戸田海笛に師事した。同7~8年入営し、除隊後再上京し戸田師に就いた。大正9年日本彫工会第34回展に出品し、同11年には日本美術院第9回展に初入選し、以後入選22回に及ぶ。昭和36年同院彫塑部の解散により、同部有志と共に日本画府に合体し、日本画府彫塑部を新設し、その創立委員となった。主要作「首」(大正11年日本美術院)、「父の像」(大正14年)、「戸田海笛氏像」(日本美術院19回展)、「鈴木千代松先生像」(日本美術院21回展)

岡部長景

没年月日:1970/05/30

国立近代美術館初代館長で元文相の岡部長景は、5月30日急性心不全のため東京日比谷病院で死去した。号観堂で、明治17年8月28日東京赤坂に生れ、明治38年学習院高等科、同42年東京帝国大学法科を卒業した。岸和田城主の家系で、朝日新聞社主村山長挙の実兄にあたる。元子爵で、明治42年11月外交官補となり、米国ワシントン日本大使館在勤3年、英国ロンドン日本大使館在勤2年に及び、大正6年外務書記官となった。同13年外務省文化事業部長、昭和4年内大臣秘書官長兼式部次長となった。昭和5年貴族院議員に当選、同15年には帝室博物館顧問となった。昭和18年東条内閣の時文部大臣となり、戦後暫く伊豆に隠棲生活を送った。昭和27年東京国立近代美術館の発足にあたり、初代館長に就任、昭和39年11月ここを退いた。其他内閣美術振興調査会委員、日本育英会々長、国際文化振興会々長、日華絵画協会、日満文化協会々長、ローマ日本文化会館総長等を歴任し、現在社団法人尚友倶楽部理事長であった。

田中案山子

没年月日:1970/05/14

日本画家田中案山子は、5月14日肺気腫のため世田谷区の自宅で死去した。享年64歳。本名格男。明治39年東京都青梅市に生れ、田中以知庵に師事し、はじめ院展に出品した。同展に入選すること8回に及び、院友となった。また帝展にも出品している。昭和12年日本美術院を脱退し、元院友12名で改らたに新興美術院を結成、その創立同人となった。昭和16年小室翠雲らの南画人によって大東南宗院が設立されてからは第1回展委員となり、第2回からは審査員となった。同18年新興美術院の同人を辞し、大東南宗院、海洋美術展等に出品した。戦後、再興新興美術院同人となったが、三越本店における個展を主な発表の場とし、開催18回に及ぶ。主要作品に「神代村」「立場茶屋」「伊豆下田街道」「奥瀬」などがある。

雨宮治郎

没年月日:1970/05/13

日本芸術院会員の彫刻家雨宮治郎は、5月13日脳コウソクのため東京大塚病院で死去した。享年80歳。明治22年5月17日水戸に生れ、大正9年東京美術学校彫刻科本科を卒業、同12年同校研究科を卒えた。在学中の大正7年第12回文展に「落花」が初入選となった。その後第4回帝展より引続き官展に出品し、昭和6年第12回帝展審査員となった。翌年も同様で、昭和12年第2回及び同8回の文展審査員をつとめた。戦後は、第3回から屢々日展審査員となり、昭和32年には第12回日展出品作「健人」に対し日本芸術院賞を受け、同39年には日本芸術院会員となった。そのほか、昭和26年から同31年にかけ東京学芸大学教授をつとめ、昭和41年には日本彫塑会々長となった。日展顧問。作風は、堅実な写実的傾向に終始した。展覧会以外の作品の主なもの次の通り。「鍋島直彬公像」(昭10佐賀県鹿島市)(昭44同復元)「槍投」(昭35東京国立競技場)「秋田国体記念像」(昭37秋田県庁前庭)「楽園」(レリーフ)(昭38福岡市体育館)「救世大観音像」(昭39宮崎県一ツ瀬ダム)「板谷波山先生像」(昭40茨城県水戸博物館)「黒田清隆像」(昭42札幌市大通公園)「青年像」(昭44秋田市体育館前)「女人像」(昭45水戸博物館)

鳥居忠雅

没年月日:1970/05/13

歌舞伎絵師鳥居忠雅は、5月13日心筋こうそくのため東京都杉並区の自宅で死去した。享年65歳。本名上野克己。明治37年東京本郷の薬舗尾沢蒼生堂の長男として生れた。大正10年第七世鳥居清忠に入門、鳥居派の芝居絵を学んだ。昭和18年より歌舞伎座の絵看板を描き、戦後歌舞伎座、国立劇場、御園座などの絵看板、番付、筋書などを描いた。最後の作は、国立劇場昭和45年5月興行、宇野信夫作「柳影沢蛍火」となった。なお、作品は日本劇画院展に出品し、次のような出版物がある。「隈取十八番」(昭16木版画)「同上続巻」(昭18)「歌舞伎隈取図説」(昭18)木版画集「歌舞伎十八番」全三巻(昭27)

永田春水

没年月日:1970/05/01

日本画家永田春水は、5月1日東京虎の門病院で心不全のため死去した。享年81歳。本名良亮。明治22年2月18日茨城県に生れ、はじめ、荒木寛畒、寺崎広業、結城素明に師事し、大正2年東京美術学校日本画科を卒業した。大正2年より6年間国華社に入り古画研究に従事した。同9年渡欧し、燉煌発掘仏画模写などに約1年間たずさわった。文帝展に入選すること8回で、昭和6年帝展無鑑査となり、同11年には文展審査員となった。そのほか、海外展示の出品も多く、昭和15年には東京女子高等師範学校講師となった。なお官展のほか読画会幹部で、如春会を主宰した。「戦後は郷里藤代に移り、茨城県美術界の指導にあたり、茨城県南美術協会長となった。主要作に「雪晴れ」(1回帝展特選)「董苑麗日」(10回帝展特選)、がある。

岩崎又二郎

没年月日:1970/04/03

春陽会会員岩崎又二郎(本名又次郎)は4月3日急性心不全のため逝去した。享年72歳。岩崎又二郎は、明治31年3月22日京都市西陣に生れ、日本画塾に学んだのち京都市立絵画専門学校に入学、大正12年3月同校を卒業した。その頃、大正11年には帝国美術院第4回展に「本阿弥庵の秋」(日本画)、13年には帝国美術院第6回展に「金魚池」(日本画)が入選しているがその後洋画に転向し、大正15年春陽会第4回選に出品入選して以来、同会に洋画を出品しつづけ、昭和23年春陽会々友、28年春陽会々員となった。又、その間京都市美術展にも出品し、昭和12年「静物」、14年「竜門の雪」で受賞。さらに16年「冬の海」も受賞し、梨本宮買上げとなった。21年には「海」が大阪毎日新聞社賞となった。京都市美術展審査員で、京都平安女学院短期大学に勤務していた。友人、中村徳三郎、川端弥之助など。

武田晶

没年月日:1970/03/31

二紀会同人武田晶(号、クガ・マリフ)は昭和6年7月31日山口県玖珂郡に生れた。武蔵野美術学校西洋画科を中退、33年~35年の間、読売アンデパンダン展に出品、その間二紀展にも出品をしていた。38年二紀会展で「拒否と挑戦」「青のビジョン」か同会奨励賞となり、同人に推挙された。40年、椿近代画廊で個展開催、又同年二紀会展「メディア679」で同人賞をうけた。43年12月~44年1月渡欧45年3月31日38才で逝去した。共同石油宣伝課に勤務していた。

伊谷賢蔵

没年月日:1970/03/27

行動美術協会々員伊谷賢蔵は3月27日胆管炎のため逝去した。享年68歳。伊谷賢蔵は、明治35年2月23日鳥取市に生れた。鳥取第一中学校卒業後、京都高等工芸学校に入学、大正13年卒業後。更に洋画研究を志し、関西美術院に学んだ。二科会出品、同会々員となったが戦後行動美術協会を設立し、晩年迄同会で活動をつづけていた。大正9年 鳥取第一中学校卒大正13年 京都高等工芸学校卒、関西美術院に入所大正14年 春陽会展に出品、入選大正15年 二科会展に入選、以後昭和19年迄毎年二科会展に出品、全関西展にも入選し受賞、この年から昭和21年全関西美術協会解散まで例年出品する。昭和5年 全関西美術協会々員となる昭和6年 二科賞を受ける昭和7年 二科会々友となる昭和16年 二科会々員となる昭和19年 二科会解散昭和20年 終戦直後行動美術協会設立昭和21年 行動美術京都研究所、京都地方展の開設に尽力し、翌22年第1回行動美術全関西展を開いた。なお、昭和14年~18年の間、大同石仏を初め、古美術、風物・祝祭を研究、制作のため毎年華北に旅行した。昭和27年より40年まで京都学芸大(現教育大)西洋画科主任教授をつとめ、更に新設の精華短大の美術科主任教授となった。〔主要作品〕「C・M嬢」、「一椀親善」、「陸の港」(張家口)、「大同石仏」、(以上二科会)、「薄暮」、「琉璃渓」「由布岳残照」「阿蘇」「柘榴などの静物」「アンデス高原の女達」など。

伊東陶山〔3代目〕

没年月日:1970/03/16

日展会員の陶芸家伊東陶山は、3月6日道路横断中乗用車にはねられ、頭を打って死去した。享年70歳。本名信助。明治33年京都市に生れ、京都市立美術工芸学校絵画科を卒業した。大江良起に就いて画を学び、京都市立陶磁器試験所に入り釉薬研究を行った。また祖父初代陶山、父二代陶山に就き作陶技術を修め、昭和13年三世陶山を襲名した。昭和4年帝展初入選し、以後連年出品をつづけ、昭和8年「八重葎花瓶」は特選となり、皇太后陛下御買上となった。その他御用品、御買上の数も多い。また陶器研究のため中国、朝鮮に渡行すること前後3回に及び、戦後は日展に出品をつづけた。なお日展のほか、現代工芸展にも出品している。作品は、江戸中期から伝わる京焼の代表様式である粟田焼を伝承するもので、主な作品に上記ほか、「菊桜一対花瓶」(昭15)、「粟田晨光花瓶」(昭31日展作、日ソ国交記念展出品、ソ聯買上)、「粟田白梅花瓶」(東宮御所落慶御祝謹製)

島成園

没年月日:1970/03/05

日本画家島成園は、3月5日心筋こうそくのため死去した。本名成栄。明治25年大阪に生れ、同37年堺高等小学校卒業後、北野恒富、野田九浦に師事した。大正元年第6回文展に「宗右衛門町の夕」を初出品して入選し、褒状となった。同10年森本豊次郎と結婚し、昭和2年満州に移住した。同20年に帰国したが、この間画業は休止して居り、戦後は大阪高島屋で毎年個展を開いて作品を発表していた。作品の主なものに「祭りのよそほひ」(7回文展褒状)、「稽古のひま」(9回文展褒状)、などがある。

後藤貞二

没年月日:1970/02/28

後藤貞二は、2月28日逝去した。明治36年5月22日東京京橋に生れた。大正10年東京美術学校に入学、昭和元年同校卒業、その間岡田三郎助に師事していた。兵役を終えたのち昭和3年から5年迄フランスに留学、シャルダンの静物小品などに惹かれた。帰国後結婚、同7年春陽会に静物2点を出品、同会には9年にも2点静物画を出品した。13年新古典派のメンバーとなったが意見合わず退会、13年以後日本美術会アンデペンダン展に3年間出品したが、その後は一切の公募展に参加せず個展による発表を主とした。静物、人物が主で、いづれも対象に対する深い観照と愛情から生れた写実の作品であった。個展は、昭和16年第1回(銀座菊屋)、17年第2回(右同)、30年第3回(銀座資生堂)、36年第4回(銀座松屋)、38年第5回(右同)、41年第6回(東京プリンスホテル)又46年フジ・アートギャラリーで回顧展を開いた。

仁戸田秀吉

没年月日:1970/02/20

読み:にえだひできち  二科会々員、水彩連盟会員仁戸田秀吉は、2月20日、胃ガンのため逝去した。享年60。仁戸田秀吉は明治42年11月25日福岡県大牟田市に生れた。昭和2年大牟田市三井工業学校卒業。本郷絵画研究所に学んだ。昭和14年より18年迄、日本水彩画会展、東光会展、旺玄社展、大潮会展に出品。また昭和21年より44年まで二科会展及び水彩連盟会展に出品、各々の会員であった。昭和22年 水彩連盟会友推挙、24年奨励賞受賞昭和25年 水彩連盟会会員となる。大牟田市松屋デパートで個展開催昭和29年 二科会展で特待賞受賞昭和31年 二科会々友推挙昭和32年 8月、東京大丸デパートで第2回個展開催昭和38年 二科会々員となる。4月、東京大丸デパートで第3回個展開催。9月、水彩連盟と中華民国連合水彩画会との交換展のため代表として台湾に渡る。昭和41年 東京銀座壱番館画廊で第4回個展開催〔主要作品〕「春光」(毎日新聞社主催第5回美術団体連合展)、「十字架」(第25回水彩連盟展)、「仏花」(同28回展)、「パンジイA」(二科会第39回展)、「蝶とパンジイ」(同41回展)、「工場の見える風景」(同48回展)など。

松山省三

没年月日:1970/02/02

洋画家松山省三は、2月2日死去した。享年86歳。明治41年東京美術学校を卒業し、その後、黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、藤島武二らに師事して、白馬会系統に属し、官展にも出品した。大正4年、院展洋画部が出来て以来ここにも出品した。また画業のかたわら、明治44年わが国喫茶店の草分けとして知られるカフェー・プランタンを開店し、当時文人墨客の集合所となった。なお俳優河原崎国太郎は長男にあたる。

高橋辰雄

没年月日:1970/01/25

春陽会々員高橋辰雄は1月27日逝去した。明治37年仙台市に生れ、中学卒後代用教員を暫らく務めたのち昭和の初め上京、山本鼎の研究所、次で春陽会洋画研究所に学び、昭和4年「代々木の一部」、6年「放水路風景」などが同展で入選、殊に戦後は仕事も順調で昭和23年春陽会々友、26年会員に推され、風景、静物・花を主とし、澄んだ色調の、温雅で詩情に富んだ作品をのこしている。

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