本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





太田忠

没年月日:1971/04/29

新制作協会会員の洋画家、太田忠は急性心不全のため、4月29日に広島県三次市の三次中央病院で死去した。享年63才。太田忠は、明治41年(1908)3月2日、広島市に生まれ、大正12年(1923)4月、広島において国鉄に就職、昭和13年三次市に転任、昭和38年(1963)定年退職した。少年時代から絵を好み、勤務のかたわら描き続けていたが、昭和12年ころ、機関車好きの故中西利雄に認められて小磯良平を紹介され、以後、小磯良平の指導をうけ、すすめられて新制作展に出品、昭和13年、新制作派協会3回展に「丘を走る汽車」が初入選、昭和16年6回展「雪景」「牛市場」「発電所の見える雪景」で岡田賞をうけ、同23年12回展に「巨木のある風景」「池畔の森」「道」を出品して新作家賞を受賞、同26年15回展「ガードのある風景」「K村の朝雪」「備後の風景」によって新制作協会15周年賞をうけ、昭和27年、会員に推薦された。そのほか、美術団体連合展1~5回(昭和22~26年)、日本国際美術展(昭和28、30年)、日本現代美術展(昭和29、31年)、秀作展(昭和27年)などに出品、外遊二回、機関士出身の特異な画家として知られた。作品略年譜(新制作展出品作)昭和14年 「汽車の見える風景」「鉄橋を走る汽車」昭和15年 「巨木のある風景」「汽車の走る風景」昭和17年 「炭屋」「水車小屋」昭和18年 「雪景」「山村」昭和21年 「備後の牧場A、B」「雪景」昭和22年 「小奴可村」「池畔雪景」昭和24年 「道後山雪景」「小奴可村」「巨木」昭和27年 「トンネル風景」「橋のある風景」昭和28年 「工場のある風景」「汽車の見える風景」昭和34年 「村のサーカス」「農家」「山村」昭和36年 「山村の秋」「飛騨の山A、B」昭和37年 「備後の山A、B、C」昭和39年 「村の遊園地」「雪景」「夕照」昭和40年 「村の市場」「山村の秋」「雪景」昭和42年 「雪景暮色」「山村秋景」昭和44年 「農村の秋A、B」昭和45年 「農村の秋オーベルニュ地方A」「農村の秋」

宮田重雄

没年月日:1971/04/28

医学博士で国画会会員の洋画家、宮田重雄は、4月28日午後4時45分、ジン硬化症による尿毒症のため東京・田無市の田無病院で死去した。享年70才。宮田重雄は明治33年(1900)10月31日、名古屋市の13代続いた医師の家に生まれ、愛知第一中学をへて慶応大学医学部にすゝみ、大正14年(1925)卒業した。愛知一中時代から伊藤廉らと共に絵を描きはじめ、草土社の画風にひかれ、慶応大学在学中の大正12年(1923)、春陽会第1回展に「横浜風景」が入選した。その後、梅原龍三郎に師事、大正14年国画会洋画部発足と同時に国画会展に出品したが、昭和2年(1927)パリに留学しパスツール研究所で血清研究のかたわら絵を描き、ユトリロ、アンリ・ルッソーの影響をうけ、昭和5年(1930)帰国、国画会展に作品を発表、翌6年会友に推され、また昭和7年医学博士となる。昭和8年中島飛行機製作所田無病院に勤務、昭和13年(1938)、北支派遣軍見習士官の軍医として北中国にいき、大同に駐屯し石仏を描き、帰国後、個展を開催、このときの作品が生涯を通じての代表作となった。この年国画会会員となる。昭和16~17年(1941~42)には満州へ派遣された。戦中・戦後田無病院長をつとめ、戦後は、ラジオ放送「廿の扉」のレギュラーメンバーとなって広く知られ、また、獅子文六の新聞連載小説「自由学校」、「箱根山」、「てんやわんや」、「青春怪談」などの挿絵を担当、その他、日曜画家の集団チャーチル会の主要な指導者であり、俳句、小唄をもよくし多方面に活躍した。著書に「ユトリロ」「フランス近代名画撰」「大同小異」などがある。作品略年譜国画会展出品作品-「波止場」「赤坂風景」(昭5・5回)「ヴィリエ・シュル・モラン」(1~2)「ヴィルフランシュ」(1~3)、「ヴィリエのエグリーズ」「ギョームの門(シャルトル)」「長崎風景」他9点(昭6、6回)、「ヴィルフランシュ」「カーニユ、ホテル」「郊外」「掛角」「土場」(昭7、7回)、「少年」「静物」(昭8、8回)、「卓上」「花」(昭9、9回)、「牡丹」「城」(昭10、10回)、「少女」「日蓮崎」「堂ケ島の朝」(昭12、12回)、「松と入江」(昭13、13回)、「雲崗第十一窟」「雲崗石仏」「雲崗石仏頭」(昭15、15回)、「微笑仏(大同)」「遅日」(昭16、16回)、「金堂内陣」(昭18、18回)、「読書」(昭22、21回)、「ボレロの娘」(昭23、22回)、「ミモザ裸婦」「ミモザ卓上」(昭24、23回)、「旅日記」(昭29、28回)、「恩師細谷教授像」(昭30、29回)、「長崎の丘」(昭33、32回)、「ヴエンス海岸通」(昭35、34回)、「焼岳晩秋」「石庭新緑」(昭38、37回)、「山桜」(昭44、43回)

大津雲山

没年月日:1971/04/22

日本画家大津雲山は、4月22日老人症心不全のため、神奈川県秦野市の自宅で死去した。享年86才。本名一三。明治18年1月神奈川県中郡で生れ、松林桂月に就き南画を学んだ。大正10年第3回帝展「山水」が初入選し、その後第8回展、9回展等に出品がみられる。代表作「長江帰舟図」「武陵桃源図」等。

伊東静尾

没年月日:1971/04/20

二科会会員の洋画家伊東静尾は、4月20日午後、尿毒症のため福岡県久留米市の小野外科医院にて死去した。享年68才。伊東静尾は明治35年(1902)10月25日、福岡県浮羽郡に生まれ、大正4年福岡県立明善中学校に入学、大正8年(1919)同校を中退して上京、日本美術学校に入学、同12年(1923)卒業、郷里へ帰った。昭和4年(1929)、坂本繁二郎に師事し、昭和10年(1935)22回二科展に「高良台」が初入選、以降、二科展に出品をつづけ、昭和25年(1950)会友に推挙され、同29年(1954)同会会員となり、昭和41年フランス、サロン・ド・コンパレゾン展、42年サロン・ドートンヌ展、44年コペンハーゲン国際展などにも出品した。二科展出品作品略年譜昭和25年 「交響」「素朴なる状景」昭和26年 「村童と馬」「情熱の花房」昭和27年 「馬屋」「村内」昭和29年 「作品A・浮立」「作品B写型」昭和30年 「流転」「激動」昭和31年 「結合」「分裂」「交響」昭和35年 「道(溜)」1~3昭和36年 「土」「土」昭和41年 「土」昭和42年 「土と共に」「土と共に」昭和43年 「石紋1」「石紋2」

宮芳平

没年月日:1971/03/30

国画会会員の洋画家、宮芳平は、3月30日、京都市において死去した。宮芳平は、号を木念、歌人宮柊二の叔父にあたり、明治26年(1893)6月5日新潟県北魚沼郡に生まれ、新潟県立柏崎中学校を卒業、大正3年(1914)大正博覧会展に入選、東京美術学校西洋画科に入学したが、大正7年(1918)中途退学した。中村彝に師事し、また森鴎外の知遇をうけ、山本鼎の指導をうけた。大正4年(1915)、第9回文展に「海のメランコリー」が入選、大正12年(1922)清水多嘉示の後任として長野県立諏訪高等女学校に奉職、以後、諏訪市に居住し、戦前には、独立展、旺玄社展に出品したが、昭和15年(1940)より国画会展に出品、昭和32年国画会会友、同36年(1961)会員に推挙された。昭和31年(1956)銀座兜屋画廊にて第1回の個展、昭和40年(1965)銀座松屋、同45年(1970)東京と諏訪で個展を開催した。昭和41年(1966)、ギリシャ、イタリア、フランスを旅行、紀行文等に『聖地巡礼』がある。国展出品作品略年譜「冬山」(昭15)、「霧」(昭21)「荒土を耕す」(昭22)、「雪解くる頃」「秋日」(昭24)、「雪の朝」(昭27)、「まだら雪」(昭29)、「冬枯の梢」(昭30)、「風景」(昭31)、「風景その1、雪解くる頃」(昭32)、「月ある夜の湖」「月ある夜の山」(昭33)、「作品・門」「作品、おしどりの池」(昭34)、「枯れた蓮」(昭35)、「麓の村々」(昭36)、「山とみづうみ」(昭38)、「枯れた蓮」(昭40)、「きはざし」(昭41)、「富士」(昭44)、「さざなみ」(昭45)

谷角日沙春

没年月日:1971/03/21

日本画家谷角日沙春は、脳溢血のため3月21日京都市北区の自宅で死去した。本名久治。明治26年8月22日兵庫県美方郡に生れ、菊池契月の塾に学んだ。第12回文展に「智恵頂ける児」が初入選し、以後専ら官展に出品し、主なものに「髪すく女」(第2回帝展)、「淡日さす窓と女」(第3回帝展)、「遊女の絵」(第4回帝展)、「囲碁」(第5回帝展)、「寵人」(第10回帝展)、「洛北の佳人」(第14回帝展特選)等がある。新文展、日展等にも出品したが、のち日展を離れて独自の道を歩み、また仏画をかいた。作品は、大正期特有の異風な傾向から、師契月ゆずりの端正な表現へと移り、その方向は仏画の世界にも生かされていた。

大月源二

没年月日:1971/03/18

洋画家大月源二は、急性気管支炎、高血圧、糖尿病等を併発し、3月18日死去した。享年67才。明治37年2月19日北海道函館市に生れ、東京美術学校油絵科を昭和2年に卒業した。その後プロレタリヤ美術運動に参加し、都新聞に沖一馬のペンネームで昭和11年から17年位まで政治漫画を描いた。また文展、一水会等にも出品し、戦時中故郷に疎開し、北海道生活派会を設立し、北海道風景を多く描いた。主要作に「告別」(昭4プロレタリヤ美術展)、「ホロンバイル草原の仔牛たち」(昭18文展)、「花ひらくオホーツクの岸」(昭34草炎会展)等があり、著書に「レーピン」がある。

今村竜一

没年月日:1971/03/09

大阪市立美術館長今村竜一は3月9日、大阪市立大学付属病院で骨肉腫のため死去した。享年62才。明治41年5月13日兵庫県姫路市に生れた。姫路中学、姫路高校を卒業した。ついで昭和7年東京大学文学部美術史学科卒業後は副手として大学に残り、10年7月、東方文化学院に転職した。15年そこを退職して大倉集古館に勤務し、23年米軍第八軍横浜アーミー・エデュケイション・センターに転勤し、ついで24年10月大阪市工芸高等学校教諭と市立美術館嘱託とを兼ね、翌25年市立美術館学芸員となる。35年市立博物館創設事務室主幹となり、開館後はそこに勤務した。39年7月市立美術館長に就任し、現職中に死去した。専門は中国美術史であった。主な論文は次の通りである。「本邦古建築に於ける運材に就いて」(宝雲4)、「古建築の視覚形式に対する作家の営為に就いて」(同10)、「室町時代寺院建築年表1~3」(史跡と美術、28~30)、「鶴林寺本堂覚書1、2」(明照2-1、2合併号2-3)、「魏晉南北朝に於ける画家の師弟関係に就いて」(国華561)、「唐代に於ける絵画の鑒賞に就いて」(東方学報・東京2-1)、「支那上代散★画書攷」(国華554)、「尚書故実に就いて」(同579)、「張彦遠の絵画史観、上、下」(図、601、603)、「黄休復の画評」(画題、47)、「様式史書としての」(東方学報、東京9)。

西川辰美

没年月日:1971/03/07

漫画家西川辰美は3月7日食道静脈癌破裂のため新宿区東京医大病院で死去した。享年54才。東京の四谷に生れ、昭和9年京華商業卒業後、味の素株式会社に入社し20年までその広告部に在籍したが、12年から徴兵され、幹部候補生として陸軍中尉となる。昭和6年から漫画の投稿欄に採用されていたというが、京華商業在校中に近藤日出造の下に出入した。戦争末期から胸部の難病に苦しみながら漫画を描き、22年から漫画集団に参加した。25年から「主婦之友」誌上に「おトラさん」を連載し「文芸春秋漫画読本」にも同じシリーズを載せ続け読売少年版に「ゲンキ中学」、産経時事夕刊に「おかあちゃん」を連載する一流の流行作家となった。テレビ番組のレギュラー司会者としても活躍する多彩な才能をもっていた。

長谷川三千春

没年月日:1971/02/25

一陽会会員の洋画家長谷川三千春は、2月25日午後、食道ガンのため東京・文京区の自宅で死去した。享年60才。明治43年(1910)8月15日、広島県に生まれ、昭和9年(1934)京都高等工芸学校を卒業し、昭和11年都新聞社(現・東京新聞)に入社、昭和12年(1937)24回二科展に「菊と蝶」が初入選し、以後、二科展に「黄昏の街」(昭和13)、「津軽の漁村」(同14)、「風景」(同17)を出品、戦争中は技術関係の業務についた。戦後は二科展に復帰し、昭和29年特待となったが、昭和30年(1955)、一陽会創設に参加、同会会員となった。昭和39~40年、中近東からスペインへ旅行。作品略年譜「盛夏」「漁群」(昭和21)、「虫」(同22)、「浜辺」「午睡」(同24)、「ビールを呑む」(同25)、「涯地の漁港にて」(同26)、「飛ぶ雲」「孤独な雲」(同27)、「雲の散歩」(同28)、「秋田」「老朽船」(同29)、「浜辺の静物」(同30年、一陽展)、「浜辺」(同31)、「流木の歌」「海水浴場」「ながれ」(同32)、「白い道」「白い静物」(同33)、「原野より」(同34)、「開拓地にて」(同35)、「原野の街」(同36)、「原野の街・団地も流木」「終着駅」(同37)、「オホーツクの海」「オホーツクの村」(同38)、「糸車の譜」(同39)、「城塞・イスラエル」(同40)

小川千甕

没年月日:1971/02/08

日本画家小川千甕は、2月8日老衰により東京都世田谷区の自宅で死去した。享年87歳。本名多三郎。明治15年10月3日京都市六角通の元禄年間創業の書肆、12代小川多左衛門の次男として生れた。16歳で仏画師の家へ徒弟として入り、また浅井忠に洋画を学んだ。浅井没後京都市立陶磁器試験場技手となり、明治末年に東京に移住し、雑誌の挿絵等もかき、巌谷小波(博文館)のお伽噺などがある。明治45年、3年に渉り欧州諸国を遍歴し、大正3年帰国後二科会創立に参加した。其後作品は南画風表現に傾き、院展にも出品し、昭和17年大東南宗院委員として尽力した。戦後は高島屋、松坂屋等で個展をひらき作品を発表していた。滋味豊かな墨画と書を得意とし、また随筆をよくする。主要作に「游踪集」「炬火乱舞」「群像」等がある。

井上良斎

没年月日:1971/02/06

陶芸家、日本芸術院会員、日展顧問の井上良斎は、2月6日午後2時45分、脳軟化症のため横浜市立大学病院で死去した。享年82歳。明治21年9月4日東京浅草に生れ、本名井上良太郎。明治初年東京隅田川べりに窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、錦城中学校卒業の頃、明治38年より作陶に従事、その三代目となる。板谷波山に師事して研鑽多年。青・白磁・緑釉の壺、皿など独自の発色を示し、温厚な人柄そのままに気品の高い風格ある作調で愛好家に親しまれた。大正3年横浜高島町に移窯。昭和3年帝展初入選。翌4年三越本店にて個人展開催、以来約20回を数える。昭和18年文展無鑑査。戦後は日展に所属して同26年には日展依嘱、同28年から審査員を5回歴任、同33年評議員となる。同34年出品の「丸紋平皿」で芸術院賞を受賞。同41年日展理事、同年日本芸術院会員となる。同42年春勲三等瑞宝章を授与される。同年より社団法人現代工芸美術協会の副会長をつとめた。

野島青茲

没年月日:1971/01/27

日展会員の日本画家野島青茲は、心臓マヒのため東京都中野区の自宅で死去した。享年55歳。本名清一。大正4年4月8日静岡県引佐郡に生れ、昭和13年東京美術学校日本画科を卒業した。松岡映丘に師事し、のち中村岳陵門下となった。昭和24年第5回日展「博物館」、及び第7回「仮縫」で特選となり、昭和40年には「母子像」で文部大臣賞を受けた。また昭和19年より同24年にかけて法隆寺壁画模写に従事し、同42年にも同様法隆寺壁画模写事業に従っている。手堅い技法による着実な表現が、将来を期待されていた。

樋口一郎

没年月日:1971/01/12

創元会委員、日展委嘱の洋画家樋口一郎は、1月12日、脳いっ血のため東京世田谷区駒沢病院で死去した。享年63歳。樋口一郎は、明治41年(1908)5月17日岡山県倉敷市に生まれ、昭和2年(1927)太平洋画会研究所を出て、昭和8年14回帝展に「初秋」が初入選した。文展、日展に出品を続け、昭和16年(1941)創元会の創立に参加した。昭和24年(1949)日展出品依嘱となり、昭和30年から約1年半フランスに滞在した。 作品略年譜文・日展出品作品:「戦塵を洗ふ」(昭和14)、「水砧」(昭和16)、「彩廊」(昭和17)、「秋色富嶽」(昭和19)、「秋草の道」(昭和22)、「竹垣のある道」(昭和23)、「初秋」(昭和24)、「武蔵野の秋」(昭和25)、「秋の窓」(昭和26)、「妙高山秋色」(昭和27)創元会展出品作:「緑蔭」「丘」(昭和16)、「除虫菊の丘」「かしあげ」(昭和17)、「緑蔭」(昭和18)、「玉島風景」(昭和22)、「冬枯れし庭」(昭和24)、「早春の庭」(昭和25)、「富士二題」(昭和33)、「古城の見える風景」(昭和35)、「内海春潮」(昭和38)、「長崎の丘」(昭和40)、「秋」(昭和42)

平田松堂

没年月日:1971/01/09

日本画家平田松堂は、1月9日老衰のため保養先の山形県上山市で死去した。享年90歳。本名栄二。明治15年2月2日東京市牛込に明治時代の内大臣平田東助の二男として生れた。明治34年東京美術学校日本画科に入学、同39年同選科を卒業した。明治40年第1回文展「ゆく秋」が初入選し、以後つづけて官展に出品、屡々受賞した。主なものに「秋の色」(第4回文展褒賞)、「木々の秋」(第6回文展褒賞)、「小鳥の声」(羅漢柏)(六曲一双)(第8回文展三等賞)、「松間の春・松間の秋」(六曲一双)(第9回文展三等賞)、「羣芳競研」(四幅対)(第10回文展特選)などがあり、大正14年帝展委員となった。また大正5年より母校に教鞭をとり、同年図画師範科嘱託となり、同10年教授、昭和3年には師範科主任教授となり、同7年退官した。また同3年新設された大日本図画手工協会会長、師範科同窓会の錦巷会会長等をつとめた。

榊本義春

没年月日:1971/01/09

前美術院国宝修理所長榊本義春は1月9日尿毒症で没した。享年79歳である。明治25年4月1日奈良県吉野郡に生れ、奈良県吉野工業高等学校卒業後明治42年4月岡倉天心が奈良につくった日本美術院(院長新納忠之介)に就職し、大正6年に技手となって全国の国宝修理事業に従事する。大正9年国宝修理技師となり、各地の寺院に出張して修理を行った。戦後昭和21年1月に三十三間堂内に「美術院国宝修理所」として発足する際に所長に就任し、奈良から移った同修理所を現在の京都国立博物館内に定着させた。昭和34年退任し、それ以後も顧問として後進の養成に努めた。紫綬褒章(31年)、勲四等瑞宝章(41年)受賞。主な修理物件は唐招提寺金堂諸仏、鎌倉地方の諸仏。蓮華王院(三十三間堂)十一面千手観音千体仏のほとんど全てを修理、鳳凰堂阿弥陀如来坐像など。

榊原紫峰

没年月日:1971/01/07

日本画家榊原紫峰は、1月7日老衰により京都市北区の自宅で死去した。享年83歳。本名安造。明治20年8月8日日本画家榊原蘆江の次男として京都市中京に生れ、京都市立美術工芸学校卒業後、京都市立絵画専門学校に学び、明治44年第1回生として卒業した。大正7年村上華岳、入江波光、土田麦僊、小野竹喬らと国画創作協会を創立し、新しい日本画創造を目ざして活躍した。国画創作のほかは官展に出品し、昭和12年京都市立絵画専門学校教授、同24年同市立美術大学教授となった。同34年退職し、名誉教授となった。この間宇治平等院、醍醐寺三宝院、山科法界寺で壁画模写の指導にあたり、同37年には日本芸術院恩賜賞を授与された。作品は沈静荘重な画風を特色とし、代表作に「赤松」「獅子」「冬朝」「奈良の森」などがある。著書「紫峰花鳥画集」「花鳥画の本質」「紫峰芸術観」略年譜明治20年 日本画家・榊原蘆江の次男として、京都市中京区に生れる。本名、安造。明治40年 京都市立美術工芸学校日本画科卒業。「軍鶏」(卒業制作)引続き同校研究科に進む。この年父より紫峰正勝の画号をもらう。明治42年 京都市立絵画専門学校創設され、村上華岳、入江波光らと共に同校2年に編入。第3回文展に«動物園の猿»初出品、以後大正6年まで文展を中心に出品する。明治43年 「永き日」(褒状)第4回文展明治44年 絵画専門学校本科卒業、続いて研究科に入学。卒業制作«花曇り»を第5回文展に出品して3等賞を受賞。明治45年 「南園の一隅に於ける曲と眠り」第6回文展大正2年 「夕榮」(褒状)第7回文展大正3年 第8回文展出品«秋草»落選 第2回院展に出品する。大正4年 「白梅」第9回文展「秋草」第2回院展大正6年 「梅雨晴れ」第11回文展大正7年 小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花と共に国画創作協会設立の宣言をする。文展を離れて第1回国画創作協会展を開く。「青梅」出品。以後この国展に出品してゆく。大正8年 「赤松」第2回国展大正9年 「奈良の森」第3回国展大正10年 より12年まで、国展は、主力会員のヨーロッパ行きと関東大震災などのため休会する。大正13年 「雪柳白鷺の図」第4回国展大正14年 「蓮池」第5回国展昭和2年 「獅子」第6回国展昭和3年 「冬朝」第7回国展。国展第1部(日本画)解散を声明。昭和4年 第10回帝展の推薦となる。また翌昭和5年からは新官制による無鑑査となる。パリ日本美術展に«朝露»を出品。昭和5年 ローマ日本美術展に«風雪白鷺図»を出品。昭和12年 新文展開かれ、参与となる。絵画専門学校教授に就任。昭和14年 第3回新文展の審査員となる。昭和16年 小野竹喬、入江波光と三人展を開催する。昭和23年 京都市立美術専門学校の客員教授となり、翌年、同美術大学の教授に就任。昭和31年 この年から、宇治平等院、醍醐三宝院、日野法界寺で壁画模写の指導に当る。昭和36年 市立美術大学教授を定年退職、名誉教授となる。この頃から病床につく。昭和37年 日本芸術院恩賜賞を受ける。昭和44年 画業60年記念展を大阪・阪神で開催。昭和46年 1月7日、死去。画集に«紫峰画集»(大正13年、高島屋美術部)、«同»(大正15年、同)、«紫峰花鳥画集»(昭和9年、芸艸堂)、«紫峰スケッチ集»(昭和23年、全国書房)等、著書に«花鳥画を描く人へ»(昭和4年、中央美術社)、«花鳥画の本質»(昭和10年、芸艸堂)、«紫峰芸観»(昭和15年、河出書房)等がある。この他氏に関する論評及び参考図書等多い。(年譜京都市美術館年報昭和45年に拠る。)

勝平得之

没年月日:1971/01/04

木版画家で、もと日本版画協会会員であった勝平得之(本名・徳治)は、1月4日、胃ガンのため秋田市立総合病院で死去した。享年66才。勝平得之は、明治37年(1904)4月6日、秋田市で代々紙漉と左官を職とする家に生まれた。少年時代は家業を手伝い、後年、その紙に版画を摺ることとなったが、大正10年(1921)に浮世絵版画をみて、版画にひかれ、独習して同年末に墨摺りの木版画をつくり、秋田魁新聞に投稿、発表した。しだいに独学で多色摺り木版技術を習得し、秋田十二景の連作に着手、昭和3年(1928)、第8回日本創作版画協会展に「外濠夜景」「八橋街道」二点が入選した。 このころ木村五郎について木彫技術を学び、秋田風俗人形、秋田犬などを製作して生計をたてながら木版画をつくり、以後、卓上社版画展(昭和4~5)、日本版画協会展(昭和6年以後)、国画会展(昭和6~18)、光風会展(昭和9~31)、帝展・文展(昭和6年以後)にそれぞれ出品した。終始、郷土秋田の風物・風俗を題材として地方色豊かな作品をつくり、昭和26年秋田市第1回文化賞、昭和29年秋田魁新聞社文化賞、昭和37年河北文化賞をうけた。代表作に、つぎのようなものがある。「秋田十二景」(12枚、昭和3~13)、「千秋公園八景」(8枚、昭和8~12)、「秋田風俗十態」(10枚、昭和10~13)、「秋田風俗十題」(10枚、昭和14~18)、「花四題・春夏秋冬」(昭和13~14」、「農民風俗十二ケ月」(12枚、昭和24~26)、「米作四題」(昭和24~27)、「舞楽図八部作」(8枚、昭和18~24)、「祭四題」(昭和30~31)、「花売風俗十二題」(12枚、昭和35~34)、出版物に、「秋田風俗版画集」「秋田郷土玩具版画集」「雪橇」、「花の歳時記」「秋田歳時記」などがある。

滝川太郎

没年月日:1970/12/21

一水会会員滝川太郎は10年余りの闘病生活ののち昭和45年12月21日に没した。享年67才。明治36年3月25日、長野県松本市に生れる。太平洋画会研究所に学び、石井柏亭に師事する。文化学院図書館に勤め、また「国民美術」の編集に携わった。はじめ二科会に属していたが、一水会設立とともに一水会に出品する。フランス、スイス等に10数年滞在した。日本版画協会主催の浮世絵および現代版画展をスイス、ポーランド、ドイツ、スペイン、フランス、等の諸国の都市で開催するためにそれに随行した。俳句もつくり「玄鹿軒発句集」を刊行。太朗、太郎左、玄鹿子などを名乗る。一水会展出品作品7回(昭18年)「そよかぜ」「こさめノ後」。9回(22年)「I女子」「驟雨」「室内」。12回(25年)「あづみの柳蔭」。13回(26年)「さすらひの唄」。14回(27年)「淑秀女史像」。15回(28年)「小雨ふる渡場」「梅雨晴れ」。16回(29年)「佃島」「風の日」。17回(30年)「造船所塗替」。18回(31年)「佃の渡し」「東京港の風」。19回(32年)「虫をみる猫」。20回(33年)「佃島大観」「築地明石町の眺」。21回(34年)「小閑1」「小閑2」。22回(35年)「銀座より15分晴海の夕」「同上」。23回(36年)「黄波の巻」「八月の花」。24回(37年)「大風の海」「緑海岸」。25回(38年)「高浪」「夏水仙」。26回(39年)「小雨の葉山」。27回(40年)「庭の遊猫」。28回(41年)「昼の月」。29回(42年)「豊邦の土産」。30回(43年)「写実三角の浜唄」。31回(44年)「星座」。32回(45年)「月夜の漁師」

榧本亀次郎

没年月日:1970/12/14

榧本亀次郎は、明治34年2月27日奈良市に生れた。東洋大学国語漢文科中退ののち、大正8年奈良女子高等師範学校図書館に、次いで大正13年東京帝室博物館歴史課に勤務した。同14年東京美術学校文庫係となり、昭和5年には朝鮮総督府学務局宗務課長、兼同総督府博物館勤務となり終戦時迄楽浪古墳、古蹟などの発掘に従事していた。終戦により奈良に戻り、22年奈良国立博物館に勤務、26年同考古室長、27年東京国立博物館有史室長、35年奈良国立文化財研究所歴史研究室長を歴任し、39年同研究所平城宮跡発掘調査部長となり41年定年退職した。

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