本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





江馬進

没年月日:1973/06/04

日本画家江馬進は、6月4日肝臓ガンのため京都市の自宅で死去した。享年63歳。明治43年1月29日京都に生まれ、昭和8年京都絵画専門学校を卒業、西山翠嶂画塾青甲社に所属した。昭和5年第11回帝展「山の池」が初入選し、戦後は専ら日展に出品した。昭和34年以降牧人社の一員として風景画を描いた。風俗研究家・江馬務氏の従兄。

河野國夫

没年月日:1973/05/20

舞台美術家河野國夫は、5月20日細網肉しゅのため東京港区の日赤病院で死去した。享年59歳。大正3年2月22日アメリカ、ロスアンゼルスに生れた。昭和7年現在の九段高校を卒業、昭和10年東京高等工芸造型科を卒業した。同11年野砲第一聯隊第七中隊第4班、砲兵本科幹部候補生となった。同18年には東宝演劇部設計課に入社し、昭和34年日本テレビ放送網美術部に入社した。新劇関係の舞台美術家として活躍したが、最近はテレビの美術も手がけ、日本舞台テレビ美術家協会専務理事であった。第1回毎日演劇賞・装置賞受章。主要作品 舞台=「罪と罰」「ハムレット」「蛙昇天」「かもめ」「アンネの日記」「山鳩」「ビルマの竪琴」。テレビ=「荒野」「ひとりぽっち」「赤い陣羽織」「つくし誰の子」。著書「舞台装置の仕事」(昭和40年)。

鷲頭ヨシ

没年月日:1973/05/14

重要無形文化財・小千谷縮越後上布苧績み技術保持者の鷲頭ヨシは、脳軟化症のため、5月14日、新潟県小千谷市の小千谷総合病院で死去した。享年92歳。新潟県小千谷市の出身で、新潟県魚沼地方に伝わる三百年来の高級麻織物の糸を作る苧績み技術の伝承者。7歳頃から技術を習得し、現在約600人いるといわれる苧績み技術の中でも第一人者といわれ、昭和45年4月にその技術保持者に指定された。

宇野宗甕

没年月日:1973/04/28

陶芸家の宇野宗甕(本名宗太郎)は、心臓麻痺のため、4月28日、京都市の自宅で死去した。享年85歳。京都市出身で、初代宇野仁松の長男、二代仁松を継承した。京都市立美術工芸学校卒業後、京都市立陶磁器試験場で陶芸を学び、また父の名工初代宇野仁松に師事、中国陶磁、特に南宋の青磁研究家として知られる。セントルイス、ミラノ、シアトルの博覧会で金賞を受賞、昭和27年「辰砂」、昭和32年「青磁」で無形文化財記録保持者に選ばれた。昭和40年紫綬褒章、昭和42年勲四等瑞宝章、京都府美術工芸功労章を受章。作品は東京国立博物館、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、ボストン博物館などに買い上げられている

六谷紀久男

没年月日:1973/04/26

重要無形文化財・伊勢型紙錐彫技術保持者の六谷紀久雄は、喘息のため、4月26日、三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年66歳。三重県鈴鹿市の出身で、大正末期から地元の伝統産業、伊勢型紙の彫刻師として厳しい修行を積み、錐彫の技術を受け継ぎ、その第一人者で、昭和30年2月にその技術の重要無形文化財保持者に指定された。自身の技術研究を行う傍ら後継者の育成にも努めていた。

成子佐一郎

没年月日:1973/04/23

滋賀県無形文化財保存会長、県指定無形文化財手漉和紙技術者成子佐一郎は高血圧による肝性昏睡のため、4月24日、大津市の自宅で死去した。享年61歳。明治44年5月7日大津市に生まれ、昭和5年3月近江八幡商業学校を卒業後、手漉和紙製造の技術に専心、近江雁皮紙専門の技術者となる。昭和17年2月には宮内省御用達となり、同18年11月には工芸技術保存資格者に認定、同32年県無形文化財に指定、同42年滋賀県無形文化財保存会長、同43年労働大臣より優秀技能章を受ける。全国手漉和紙連合会に所属、主要作品は平家納経修理による紙、タイムカプセルEXPO70「風俗絵巻」の用紙、桂宮本万葉集複製のための用紙等。昭和50年4月に妻の成子ちかも滋賀県無形文化財に指定された。

長谷川塊記

没年月日:1973/04/16

彫刻家、日展会員の長谷川塊記は、4月16日脳軟化症のため東京都北区の自宅で死去した。享年75歳。明治31年11月29日鳥取に生れた。本名は枡蔵。大正9年秋上京して朝倉文夫に師事するとともに昭和4年東京美術学校彫塑別科を修業した。大正13年第5回帝展に「少女立像」が初入選してより、終始官展に作品を発表し続けた。昭和16年には文展無鑑査となった。また朝倉文夫に師事した関係で、東台彫塑展、朝倉塾展、塊人社展などにも参加出品した。戦後は日展に出品し、昭和29年に特選、30年無鑑査、31年より依嘱、36年審査委員をつとめ、37年日展会員となった。43年には再度審査員をつとめた。また日彫会の古参会員として活躍した。例年の展覧会発表以外の作品には、弘法大師像(木彫)横浜八聖殿(昭8)、丈六釈迦座像(鋳銅)神戸市追谷霊園(昭和15)、菅公立像(鋳銅)埼玉県東吾野小学校(昭13)、緬羊像(鋳銅)大阪泉大津市駅前(昭20)、湖女像(鋳銅)鳥取市湖山湖畔(昭30)、地蔵尊像(鋳銅)福島県昌源寺(昭44)などがある。

上野直昭

没年月日:1973/04/11

日本学士院会員・東京芸術大学名誉教授上野直昭は、4月11日、心不全のため、国分寺市の自宅で逝去。享年90歳。明治15年11月11日、上野昭道の長男として兵庫県に生れ、東京正則中学校・第一高等学校を経て、明治41年7月、東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)を卒業した。爾来65年間、美学・美術史学者としての研究活動、大学の教育と管理、美術館・博物館の運営と文化財の保護等、その貢献は多方面にわたって顕著である。 明治44年より大正10年まで、大塚保治教授の主宰する美学研究室の副手となり、大正5年、東照宮三百年祭記念会が帝国学士院に委托した研究費の補助を得、東大講師中川忠順指導のもとに、絵巻物の調査研究に当った。その研究成果は、戦後刊行された「絵巻物研究」に収載されているが、心理学・美学の素養を基礎として、美術史上の問題を取り扱いながら、形式と内容の両面から、、また時間性と空間性の観点から絵巻物の構造に対する独自の考察を試み、わが国の近代的絵巻物研究に先鞭をつけ、永く後進の準繩となった。美術史研究の業績の著しいものとしては、そのほか、日本の上代彫刻、東西美術の比較芸術学的研究等をあげることができる。 大正13年、美学美術史研究のため欧米在留を命ぜられ、大正15年、京城帝国大学教授に任じ、昭和2年帰国後、法文学部美学美術史第一講座を担任し、昭和16年まで在職したが、その間、昭和5年より翌年まで交換教授としてベルリン大学において日本美術史を講じ、また同7年より10年の間、九州帝国大学教授を兼務し、同10年より12年の間、京城帝国大学法文学部長の職に在った。昭和19年、東京美術学校長に任命され、昭和24年東京芸術大学発足とともに学長となり、昭和36年まで在職した。昭和41年、愛知県立芸術大学の創立に際して学長に就任、逝去の前年までその職に在った。 昭和15年国宝保存会委員となり、昭和27年文化財保護審議会専門委員を辞するまで、国の文化財保護事業に参画し、昭和16年より19年まで大阪市立美術館長、昭和24年に半年間国立博物館長の職に在り、そのほか帝室博物館顧問、正倉院評議会々員、国立博物館・国立近代美術館・国立西洋美術館評議員等を委嘱された。 以上ひろく学術上、研究教育上の功績により、昭和21年、帝国学士院会員に、昭和34年、文化功労者に選ばれ、昭和39年勲二等に叙し旭日重光章を授けられ、また昭和34年、ドイツ連邦共和国より、大十字功労章を贈られた。 略歴明治44年9月 東京帝大文科大学副手(→大正10年3月)大正9年4月 東京女子大学講師(→13年11月)大正13年10月 京城帝国大学予科講師嘱託大正13年10月 美学美術史研究のため満2年間ドイツ、イタリア、ギリシャ及びアメリカ合衆国へ在留を命ぜられ、11月出発大正15年4月 京城帝国大学教授、法文学部美学美術史講座担任昭和2年3月 帰学昭和2年6月 美学美術史第一講座担当昭和5年2月 日本協会主事としてドイツ国との交換教授のためドイツ国へ出張(→6年7月)昭和7年5月  九州帝国大学教授を兼任、法文学部美学美術史講座担任(→10年4月)昭和10年5月 京城帝国大学法文学部長(→12年8月)昭和15年12月 国宝保存会委員昭和16年1月 京城帝国大学教授を辞任昭和16年2月 大阪市立美術館長昭和19年5月 同辞任昭和19年6月 東京美術学校長兼工芸技術講習所長昭和19年6月 帝室博物館顧問昭和21年4月 文部教官昭和21年8月 帝国学士院会員昭和22年7月 正倉院評議会々員昭和22年12月 国立博物館評議員昭和24年4月 文部事務官兼文部教官昭和24年4月 国立博物館長兼東京美術学校長昭和24年5月 東京芸術大学々長事務取扱昭和24年7月 国立博物館長を免じ文部教官専任、東京芸術大学長昭和25年12月 文化財専門審議会専門委員昭和27年9月 国立近代美術館評議員昭和30年7月 フランス美術館設置準備協議会委員(→33年6月)昭和32年5月 日本学士院会員としてブラッセルに於いて開催される国際学士院連合第31回総会出席の序スエーデン、ドイツ、ベルギー、フランス、スペイン、イタリア及びギリシャの各国における音楽学校及び美術学校の教育課程についての調査研究のため外国出張昭和33年7月 国立西洋美術館設置準備協議会委員昭和34年3月 国立劇場設立準備協議会委員昭和34年4月 国立西洋美術館評議員昭和36年12月 任期満了により東京芸術大学退職昭和37年10月 東京芸術大学名誉教授昭和39年4月 文化女子大学家政学部教授(非常勤)昭和41年4月 愛知県立芸術大学々長昭和47年6月 同辞任昭和48年4月 死去に際し正三位に叙し銀盃一組を賜わる。 主要著作目録 *単行図書精神科学の基本問題 岩波書店 大正5年10月哲学辞典 岩波書店 大正11年10月美と崇高の感情性に関する考察(翻訳) 岩波書店 昭和14年1月上代の彫刻 朝日新聞社 昭和17年6月Fruhzeitliche Plastik Japans 朝日新聞社 昭和18年日本美術史 上代篇 河出書房 昭和24年4月絵巻物研究 岩波書店 昭和25年1月日本美術の話 宝文館 昭和27年11月源氏物語絵詞小論 東京芸術大学 昭和31年3月明治文化史8 美術編 洋々社 昭和31年3月日本彫刻史図録 朝日新聞社 昭和32年5月Woodblock Reproductions of the Genji Picture Scrolls Tokyo University of Arts 昭和38年邂逅 岩波書店 昭和44年3月*論文集・全集・講座作期の与へられた古絵巻物について「松本博士還暦記念論文集」絵巻物に於ける時間と空間との関係に対する一考察「大塚博士還暦記念美学美術史研究」岩波書店 昭和6年1月最近ドイツに於ける大学改革問題岩波講座「哲学」 昭和7年11月エレクテイオンのカリアテイデについて京城帝大法文学会「西洋文芸雑考」 昭和8年12月鎌倉時代の絵画 岩波講座「日本歴史」 昭和9年11月ギリシャ建築と朝鮮建築 特に柱について―比較芸術学の一つの試み―「速水博士還暦記念心理学哲学論文集」岩波書店 昭和12年天平彫刻について「天平彫刻」 小山書店 昭和19年11月三月堂群像「東大寺法華堂の研究」 大八洲出版 23-9東大寺の彫刻「図説東大寺」 朝日新聞社 27-9古代の彫刻 平凡社世界美術全集日本・古代 昭和27年11月平安時代の文化と書道 平凡社書道全集日本平安3 昭和30年4月法隆寺を想ふ 近畿日本叢書「大和の古文化」 昭和35年9月想ひ出「博物館ノ思出」東京国立博物館 昭和47年11月*定期刊行物などヰルヘルム・ヴントの想ひ出の記 思想3~5 大 10-12 大11-1、2日本国宝全集の発刊 思想 18 大12-3絵巻物について 思想 19 大12-3絵巻餓鬼双紙考察 思想 28 大13-2デルフィよりオリムピア迄 思想 133 昭8-6海印寺行 画説 13 昭13-1夏目さん 図書 37 昭14-2信貴山縁起について 図説 30 昭14-6エドムント・ヒルデブラント 図書 54 昭15-7伴大納言絵詞 美術研究 142 昭22-3レオナルドの皮肉 世界 19 昭22-7人及び芸術家としてのレオナルド・ダ・ヴィンチ西欧学芸研究 1 昭24法隆寺の柱 仏教芸術 4 昭24-6大塚保治先生 心 3-5 昭25-5室生寺釈迦像 芸術新潮 1-9 昭25-9大塚保治博士の思想 美学 4 昭26-2仏像形態学試論 大和文華 1 昭26-3飛鳥彫刻について Museum 3 昭26-6文学の絵画化(信貴山縁起第一巻について)文学 19-5 昭26-5絵巻物考断片一主として表現形式についてMuseum 6 昭26-9文化財は保護されているか―薬師寺日光菩薩の問題をめぐって―芸術新潮3-12 昭27-12高貴な絵 国立博物館ニュース 昭29-3玉依姫再礼讃 大和文華 13 昭29-3安井曾太郎追憶 心 19-3 昭31-3古都随想1~12 芸術新潮 7-5~8-4 昭31-5~32-41、2法隆寺の金堂 3アクロポリス逍遥4、5、7~9柱の美学 6古都の美10建築心理学の一節 11、12建築心理学の諸問題学究生活の思ひ出 思想 385 昭31-7中川忠順先生の追憶 大和文華 21 昭31-10裸体像について 心11-7 昭33-7人と教育(レオナルド・ダ・ヴィンチ)木曾教育 12 昭33-12正倉院ファンタジー Museum 104 昭34-11田中豊蔵のこと(同氏著日本美術の研究序) 昭35-10藤田亮策君追憶 大和文化研究 6-3 昭36-3岡倉先生 岡倉天心展目録 昭37-10美学者の散歩 芸術新潮157~168 昭38-11岡倉天心の講義 2、3三月堂を憶ふ4田中豊蔵のこと 5、6薬師寺の美学7モーツァルトの手紙 8フェノロサの美術論9日本的なるもの、伊勢神宮とパルテノン10フィレンツェの数日 11、12欧州の美術行脚日本美術の性格 月刊文化財 13 昭39-10失はれた古寺巡礼 芸術新潮 193 昭41-1長久手独居之記 研修あいち 48 昭和43-1

横山操

没年月日:1973/04/01

日本画家横山操は、4月1日脳卒中のため東京都調布市の慈恵医大附属病院で死去した。享年53歳。大正9年1月25日新潟県西蒲原郡に生れ、川端画学校日本画科に学んだ。昭和15年第12回青竜展に「渡船場」が初入選したが、この年応召し、終戦までの5年間中国各地を一兵卒として歩いた。戦後さらに5年間のシベリア抑留生活をつづけ、25年復員した。翌年の青竜展で画生活に戻り、「塔」「熔鉱炉」「炎々桜島」などの大作を発表、「炎々桜島」では青竜賞となった。彼の作品の特色であるブラックを強調した線を、画面に縦横に駆使した激烈な作風は、画壇に一時爆発的ブームを引きおこした。しかし、一方ではこのような傾向に対する批判もまたないわけではなかった。斯くて昭和37年には青竜社を脱退し、無所属となった。以後、日本の伝統的水墨画の発展に意欲を示し、「瀟湘八景」「越後十景」等の作品がある。昭和46年発病し、半身不随となったが、左手で制作をした「武蔵野風景」などの作品もある。年譜年令大正9年(1920) 1月25日、新潟県西蒲原郡に生まれる。昭和12年 17 3月、県立巻中学校卒業。上京。昭和13年(1938) 18 この年光風会展に「街裏」(油彩)を出品、初入選する。昭和14年(1939) 19 川端画学校日本画部に入学。新興美術院に「隅田河岸」を出品。昭和15年(1940) 20 9月、第12回青龍展に「渡船場」を出品、初入選する。12月、召集。中支派遣鏡部隊に所属し、長沙作戦に参加。昭和20年(1945) 25 この年、終戦と同時にシベリア、カラガンダ、23区第9収容所に抑留され、26番炭坑において石炭採掘に従事する。昭和25年(1950) 30 1月、帰国復員。一時郷里に帰る。4月、春の青龍展を見る。この頃再び上京、不二ネオン会社のデザイン部にてデザインの仕事をし、銀座森永の広告塔などをデザインする。9月、第22回青龍展にソ連抑留中の印象を追憶してかかれた「カラガンダの印象」を出品。昭和26年(1951) 31 4月、春の青龍展に「カザフスタンの女」を出品。この作品も「カラガンダの印象」同様抑留中のカザフスタン共和国、カラガンダ地方の印象をもとにその風俗を描いた。5月19日、杉田基子と結婚。この頃、青龍社研究会に入会。9月、第23回青龍展に「沼沿いの町」を出品。この年、青龍社社子に推挙される。昭和27年(1952) 32 3月5日、長女彩子生る。4月、春の青龍展に「千住風景」を出品。9月、第24回青龍展に「灯台」を出品。昭和28年(1953) 33 4月、春の青龍展に「白壁の家」、「横卧」を出品。「白壁の家」は春展賞を受ける。9月、25周年記念青龍展に「ショーウィンド」、「駅前広場」を出品。「ショーウィンド」は奨励賞を受ける。昭和29年(1954) 34 3月、春の青龍展に「青春」、「熱海月明」を出品。「青春」は春展賞を受ける。8月、第26回青龍展に「変電塔」、「舞妓」を出品。「変電塔」は奨励賞を受ける。社友に推挙される。大井庚申塚のアパートに移転。また、不二ネオン会社社長―故瀬川氏の好意により、会社事務所(鶯谷)の2階を借り大作に着手する。昭和30年(1955) 35 3月、春の青龍展に「十文字」を出品、春展賞を受ける。この作品は、東京電力火力発電所にある通称―お化け煙突―の投影をもとに描かれた。8月、第27回青龍展に「対話」を出品、奨励賞を受ける。この年、青龍社新人による小品会―踏青会―に6点出品。また「ブランコ」(スケッチ)を描く。昭和31年(1956) 36 1月、第1回個展を銀座松坂屋で開き、「網」、「熔鉱炉」、「架線」、「川」、「木」を出品。2月26日、世田谷区に移転。3月、春の青龍展に「ビルディング」を出品、春展賞を受ける。5月、桜島写生のため旅行。8月、第28回青龍展に、「炎々桜島」を出品、青龍賞を受ける。この賞は社人以外の作品を薦賞する第一賞であり、受賞者は28年間のうち操を含む2名だけである。この年踏青会に8点出品。また「舞妓」を描く。昭和32年(1957) 37 1月、朝日新聞社主催第8回選抜秀作美術展に前記「炎々桜島」を出品。3月、春の青龍展に「時化」「樹」を出品、「時化」は春展賞を受ける。6月、取材のため、北海道旅行。7月、毎日新聞社主催、現代美術10年の傑作展(渋谷東横デパート)に前記「川」を出品。8月、第29回青龍展に「塔」「踏切」を出品。「塔」は奨励賞を受ける。この作品は、上野谷中天王寺の五重塔焼失時に取材され描かれた。11月、朝日新聞社主催今日の新人’57展(日本橋白木屋)に前記「樹」「網―部分―」を出品。この年、踏青会に10点出品。また「時化」(未発表)を描く。昭和33年(1958) 38 1月、第2回個展を銀座松坂屋で開き、「夕張炭鉱」、「昭和新山」、「鉄骨」、「家」、「闇迫る」、「仲仕」、「母子」を出品。同月、第9回選抜秀作美術展に前記「塔」を出品。3月、春の青龍展に。四日市港の所見をもとに描かれた「港」を出品。春展賞を受ける。5月、毎日新聞社主催第3回現代日本美術展に「犬吠」を出品。受賞候補となる。6月、佐久間ダムへ取材旅行、帰途上高地に立ち寄る。8月、大阪大丸にて個展を開く。9月、第30回青龍展に「ダム」を出品。社人に推挙される。10月、吉祥寺みつぎ画廊で開催の素描展に数点出品。11月、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展に前記「塔」を出品。この年、坦々会(日本橋白木屋)に「大正池」、「網」を出品。野生派第1回展(日本橋三柳堂画廊)に「野の夕」、「灯台」を出品。昭和34年(1959) 39 1月、青々会(日本橋三越)に「雪峡」を出品。同月、第10回選抜秀作美術展に「ダム」を出品。3月、銀座村越画廊主催第1回轟会―横山操、加山又造、石本正三人展―に「朔原」、「大正池」、「夕映桜島」を出品。同月、春の青龍展に「網」を出品。5月、毎日新聞社主催第5回日本国際美術展に「峡」を出品。優秀賞を受ける。6月、みづゑ賞選抜・新しい水彩15人展(銀座松屋)に「網」を出品。みづゑ準賞を受ける。9月、第13回青龍展に「岳」を出品。この作品は妙義山へ登った時の印象をもとに描かれた。同月、双樹洞画廊主催第1回9月会に「岳」を出品。この年孔雀画廊主催第1回百合会展に「茜」、踏青会に「道」を出品。昭和35年(1960) 40 1月、第11回選抜秀作美術展に「峡」を出品。3月、春の青龍展に「送電源」を出品。4月、兼素洞にて小品の個展を開き、「水映」、「朝」、「火の山」、「道」、「流星」、「明ける海」、「波涛」、「茜の道」を出品。5月、第4回現代日本美術展に「波涛」を出品。6月、新潟県大和百貨店にて個展を開き、前記「熔鉱炉」、「炎々桜島」、「昭和新山」「夕張炭鉱」、「闇迫る」、「家」、「川」、「灯台」他小品数点を出品。同月、現代美術の焦点シリーズ第1回展(日本橋白木屋)に大作「富士」を出品。8月、第33回青龍展に「建設」を出品。この作品は黒部第四ダムに取材し描かれた。同月、東洋美術館画廊主催第1回地上会展に「舞妓」を出品。12月、三鷹市に移転。この時、過去を絶ち新しく出発する事こそ真の芸術家の生き方だと考え、これまでの作品の大半を焼却した。この年、国立近代美術館主催日本画の新世代展に前記「熔鉱炉」、「塔」、「朔原」、「山湖」を出品。また「潮来の夕」「MADO(窓)」を描くこの頃「暁富士」を描く。昭和36年(1961) 41 1月、第12回選抜秀作美術展に前記「建設」を出品。3月、春の青龍展に「船渠」を出品。同月、第2回轟会に「富士雷鳴」、「早春」、「夕原」、「灯台」、「波涛富士」を出品。4月29日、取材のため渡米、約40日間滞在、主にカリフォルニアを回る。5月、第6回日本国際美術展に「黒い工場」を出品。8月、第33回青龍展に「グランドキャニオン」を出品。この年、兼素洞にて横山操・福王寺法林新作2人展を開き、―アメリカ5題―「ニューヨークシティー」、「コロラド」、「ブルックリン橋」、「ヨセミテの滝」、「マンハッタン」―を出品。昭和37年(1962) 42 1月、第13回選抜秀作美術展に「波涛富士」を出品。3月、青龍展に「金門橋」を出品。同月、第3回轟会に「イーストリヴァーの朝」、「イーストリヴァーの夕」「ウォール街」を出品。5月、第5回現代日本美術展に「ウォール街」を出品。夏、青龍社脱退。社は第34回青龍展に出品予定の超大作「十勝岳」(高さ8尺×横24尺)を縮小するよう要請するが、これを聞き入れず、このことが脱退の直接原因となる。11月、兼素洞主催第1回荒土会に「荒土耕人」、「叢々富士」、「晴日」を出品。第3回地上会展「晴るゝ日」出品。昭和38年(1963) 43 1月、脱退後第1回の個展―生まれ故郷越後の山水を主題にして―(2・4-12東京画廊「海」「雪原」他数点を出品。)2月、神戸高島屋にて個展を開き「白梅」、「紅梅」「赤富士」等を出品。3月、第4回轟会に「紅白梅」、「早春」を出品。5月、第7回国際美術展に「雪峡」を出品。6月、屏風絵展(6・14-19松屋)を開き「瀟湘八景」を出品。この頃青梅に別荘を建てる。7月、小品展(7・15-20関西画廊)11月、第2回荒土会に「伊豆富士」、「武蔵野の朝」を出品。小林一哉堂創立五拾周年記念展「伊豆富士」出品。日比谷公会堂緞帳、リッカービルの壁画を完成。昭和39年(1964) 44 1月、第15回選抜秀作美術展に前記「海」を出品。3月、第5回轟会に「湧雲富士」を出品する。5月、第6回現代日本美術展に「高速四号線」を出品。同月、ニューフジヤホテルの壁画「赤富士」完成。9月、アメリカ及びヨーロッパに旅行。イタリア旅行中シエナのホテルにて心臓発作をおこす。病状回復後帰途に着くが、途中フィリピン・マニラに立ち寄る。11月、第3回荒土会「ヴェニス」、「湖の秋」、「月下富士」出品。「ウォール街」東京国立近代美術館買上となる。また船原ホテル・ヒルトンホテルの壁画完成。昭和40年(1965) 45 前年より心臓病のため休養する。3月、第6回轟会「パリ郊外」、「黎明パリ」出品。6月、病後早々太陽展(銀座日動画廊)に「ふるさと」出品。9月、多摩美術大学で日本画科教授として加山又造と共に実技の指導にあたる。11月、第4回荒土会「イタリアの丘」、「祇王寺の秋」出品。同月、高燿会展(高島屋)「遠きノートルダム」出品。小林一哉堂画廊主催横山操・加藤東一・麻田鷹三人展「黎明」「凱旋門」「晴るゝ日」出品。昭和41年(1966) 46 3月、第7回轟会「水の都」、「朱富士」出品。4月10日、川端龍子死去。龍子の死は横山に「おやじを失ったよう」な悲しみを与えた。5月、第7回現代日本美術展に「万里長城」出品。同月青龍社解散。6月、中国旅行。香港―広州―長沙―武漢―九江―廬山―南昌―上海―北京と回る。北京では10日間滞在し、明の13陵、8達嶺、万里長城等で写生をする。8月、村越画廊主催中国の旅草描展に「東陵の丘」、「夕凪の泊船」、「長城万里」、「柳映」、「飛燕」、「九江風景」、「河南山水」、「天壇」、「霽れゆく長江」、「江畔の街」を出品。11月、第5回荒土会「天壇」、「塔のある風景」出品。同月、日本橋高島屋主催加山又造・横山操二人展「茜山水」、「紅白梅図」、「暁富士」、「富嶽」出品。昭和42年(1967) 47 3月、毎日新聞社主催現代日本画三人展―横山操・石本正・加山又造―(神戸そごうデパート)前記「瀟湘八景」出品。10月、名古屋松坂屋にて個展を開き「富士」、「茜」、「残雪富士」等を出品。昭和43年(1968) 48 4月、銀座彩壺堂主催水墨「越路十景」展を開く。5月、第8回現代日本美術展「TOKYO」出品。6月、日本橋高島屋主催第1回球琳会日本画展「遠富士」出品。6月~9月 日本経済新聞社主催近代日本画名作展(於レニグラード―エルミタージュ・モスクワプーシキン両美術館)「送電源(32回青龍展)」出品。11月、第6回荒土会「風渡る」、「遠富士」、「冬の山」出品。同月、春秋会展に「朝霜(水墨)」、「清雪富士」出品。この年横山操・加藤東一・麻田鷹司3人展に「奥入瀬の秋」を出品。文化庁主催大正・昭和名作美術展に出品。また、千葉県民会館の緞帳を制作。昭和44年(1969) 49 11月、轟会10周年記念展(日本橋高島屋)に富士八景(「冬富士」など)を出品。同月、第7回荒土会「紅葉富士」、「朱富士」を出品。この年第2回球琳会日本画展に「黎明富士」、彩壺堂主催彩春会に「峠の道」を出品。昭和45年(1970) 50 6月、第3回球琳会に「むさし野」を出品。この年青梅の別荘にアトリエを新築。昭和46年(1971) 51 春、第20回5都展に「暮雪」を出品。4月、神奈川県立近代美術館主催戦後美術のクロニクル展に「雪原」を出品。同月29日、脳血栓のため入院。1週間ほど意識不明が続き、右半身不随となる。8月、伊豆のリハビリテーションセンターに入院するが、本人の強い希望により11月3日に退院。好きな酒を絶ち自宅にて左手で制作にかかる。11月、第8回荒土会に「雪富士」を出品。この年「清雪富士」を描く。昭和47年(1972) 52 2月、東京国立近代美術館主催戦後日本美術の展開展に「塔」を出品。11月、第13回轟会に「静かなる風景」、「月」を出品。この年一哉堂主催芳樹会展「むさし野」出品。この頃雑誌「新潮」の表紙(48年度)12カ月分を制作したり、明治座や歌舞伎座の公演目録表紙を手がける。昭和48年(1973) 53 1月、朝日新聞歌俳壇の挿画(水墨)4点を手がける。2月、第9回荒土会に「茜」、「峡」を出品。3月26日 作画中再び脳卒中のため昏倒。これが「絶筆」となる。27日 病状悪化。入院。4月1日 逝去する法名 景享院篁風玄彩操志居士。深大寺に葬る。9月4日-10月7日追悼特別展「横山操の回顧」

足立源一郎

没年月日:1973/03/31

春陽会会員、日本山岳協会会員であった洋画家の足立源一郎は、3月31日午前1時45分、胃ガンと老衰のため鎌倉市の自宅で死去した。享年83歳であった。足立源一郎は、明治22年(1889)7月8日、大阪市、南船場の一角にある石油商の家に生れた。父弥助、母浅野。明治37年第一高等小学校を卒業すると道修町の絵具屋(薬種問屋か?)に丁稚奉公にだされたが、翌年父の急死にあい、その年京都市美術工芸学校に入学した。明治39年、京都岡崎に関西美術院が開設され、それにも出席し浅井忠、鹿子木孟郎らの指導をうける。明治40年には上京して太平洋画会研究所に入り、柚木久太のすすめで大正3年(1914)渡欧し、パリにあってグラン・ショミエール、アカデミー・ランソンに通う。第1次世界大戦に遭遇するがリヨンや南仏に難をさけ、大正7年(1918)ロンドンを発って帰国した。ロンドン滞在中には松方コレクションの蒐集に尽力している。帰国後は、院展洋画部に出品して同人となり、さらに春陽会創立に参加、以後終始、春陽会展を中心に作品を発表したが、大正12-15(1923-26)第二回滞欧、昭和11年(1936)日本山岳画協会創立、同13年、14年、15年と毎年、中国、旧満州、朝鮮に写生旅行、同19年にも中国、朝鮮に旅行した。日本国内も各地に写生旅行し、後半期は山岳風景の画家として知られた。 略年譜明治22年(1889) 7月8日父弥助、母浅野の四男として大阪に生る。明治28年 足立弥助願念寺本堂に須弥壇寄進明治32年 大阪市立久宝小学校より東区立第一高等小学校に進む。明治37年 第一高等小学校を卒業し絵具屋に奉公す。明治38年 1月12日、弥助死亡。4月、京都市美術工芸学校入学。11月、褒状二等「洋食器」。秋期修学旅行で伊勢方面に行く。同輩に奥村林暁、加井民次郎など。明治39年 3月2日、京都岡崎に関西美術院開設、そちらにも出席、先輩に安井曾太郎、梅原良三郎など。同輩に黒田重太郎など。夏、富士山に登り箱根、伊豆を巡る。垂水海岸に滞在。明治38-39年、京都市美工校の写生、採点あるもの20数点あり。明治40年 殆んど関西美術院に移る。12月16日、浅井忠没。明治39年、40年の京都及び大阪の鉛筆デッサン多数。明治41年 上京し太平洋画会研究所に学ぶ。明治42年 徴兵検査の為大阪へ還る。同行奥村。中仙道をへて伊香保、安中、妙義を訪れ、木曾街道をたどる。明治41年-大正3年の間の消息殆んど不明。白馬会研究所や美校にも研究に通った。九段の暁星へフランス語及び会話の勉強に通う。この間の友人に奥瀬英三、金山平三、柚木久太、大久保作二郎、若山為三、鍋井克之等がある。房州、箱根、伊豆半島、伊豆七島、高野山、紀州、瀬戸内海等へ足を運んだ。大正3年 柚木久太、金山平三らのすすめにより柚木久太をたよって渡仏する。4月、パリ着、ホテル・オデッサに泊まる。後シテ・ファルギェールに移る。グラン・ショミエール、アカデミー・ランソンなどに学ぶ。オーヴェル・シュール・オワーズにガッシェを尋ねる。ベルリッツに通いノイローゼ気味となり、プルターニュへ旅行する。フイニステル地方に迄足を伸ばし、モエラン、ケルゴエ、ル・プールデユを訪れる。7月28日、第1次欧州戦争始まる。8月上旬、リモージュへ疎開する。島崎藤村、柚木、金山、正宗得三郎と同行。2週間で帰国の為リヨンへ向う。10月11日、……リオンの足立より手紙にも絵具を注文あり……(『懐中日記』、川島理一郎)、11月、パリへ戻る。大正4年 パリ滞在。7月、ブルターニュへ行く。パンポール、イル・ブレア等。森田恒友同行。鹿子木孟郎渡仏。大正5年 4月11日、願念寺鐘楼献堂供養。春、サヴォアに写生行。夏、チュルサックに滞在。コント・フルールの城館に泊る。プレ・イストリックの遺跡研究に過す。大正6年 1月、黒田重太郎パリ着。2月上旬、イタリア旅行に発つ。2月17日、サヴォアよりトリノへ。2月18日、トリノよりジェノヴァ着。3月8日、アマルフイ。3月17日、ペスタムにギリシア遺跡を訪う。3月18日、ナポリ滞在1週間目となる。3月18日、ローマ着。3月20日、アツシジ。3月21日、ペルージヤ。3月22日~25日。フィレンツェ滞在。4月3日、再びローマよりナポリへ。5月上旬、ニースを経てパリへ戻る。大正7年 4月、帰国の為ロンドンに向う。同行黒田重太郎。ロンドンで船待ち中に赤沼智善、山辺視学を知る。第1次松方コレクションの選択にたづさわる。5月中旬、ロンドンを発ちプリマスに向う。6月15日頃、船団出港。ケープ・タウン、マダガスカル経由日本へ向かう。因幡丸、8月20日上海に向け香港を発つ。大正8年 春、奈良へ移る。第1日曜写生会始まる。4~5月、第1回自由展覧会、於大阪天王寺美術館。主な出品者、浜田葆光、赤松鱗作、住田良三、普門暁、古谷新、藤堂杢三郎、林重義、向井潤吉、鶴丸梅太郎、小沢、安田、青木大乗、岩佐なら、他。9月12日~19日第6回日本美術院展出品、計20点。青き眼の女、アルプ・マリチームの風景、ニース郊外、ひじを突く女、登り道、チューリップ、風景、ブロドウス、ナチュールモルト、眼を粧う女、カーニュの村、冬の午前、アプレミディ、カーニュの冬、アルプ・マリチーム、女の習作、ビーボアン、オリビエの村、画家像、イルルブレアの夏。9月、足立源一郎を挙げて同人となす。(日本美術院)大正9年 7月17日~19日、足立源一郎小品展、大阪資生堂階上にて。ベトイユの春、村、セーヌ河岸、ムードンの冬、アブニュー・ド・ブルトゥイ、コロンブの運河、ポン・ヌーフ、サヴォアの夏、郵便局、モンマルトル、サンクルーの秋、パリ南郊の秋、ヴェルサイユの庭、春秋(ブルターニュ)サンクロア村、地中海岸、クアルチエ・オートイユ、プラス・ド・ラ・コンコルド、ドルドーニュ、トリノの冬、アルノ河岸、アルバノ村、アルバノ湖、カステル・サンテルモ(ナポリ)、ソレント街道、プラツア・サンタ・カテリナ、オリーブ園、カーニュ早春、静物、奈良。9月1~29日、第7回日本美術院展。首里早春、日盛り、静物、画家像、真玉橋、カクス・ノアール、佐渡山殿内、アトリエの午後、沖縄風景、南島冬雨、ポロネーズ、画家像。同年、徳川頼寧婦人像、静物(ケシ)他。「三代家死没の巴里美術界」(中央美術9月号)。大正10年 翻訳『ドオミエ』(日本美術学院)。翻訳「クロード・モネを訪う」マルセル・ペイ。(中央美術6月号)大正11年 1月14日、春陽会創立初顔合せ。於本郷燕楽軒、小杉未醒、森田恒友、長谷川昇、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎、梅原良三郎以上会員、岸田劉生、萬鉄五郎、木村荘八、中川一政、椿貞雄、今関啓二、石井鶴三、山崎省三、以上会友。11月、農商務省、並に文部省、欧州工芸視察練習生。同年、那智枝と結婚(旧姓安本)。翻訳「オーエル時代のセザンヌ」、「巴里に於けるセザンヌとの交遊」、「セザンヌが画家になる迄」。ギュスターブ・コキオ著、(中央美術)。著書、『人物画を描く人へ』(日本美術学院)。大正12年 2月16日、農民美術基金集めに山本を同道し岸本吉左衛門を訪問。2月、神戸解纜、第2回渡仏。4月、パリ着、ソメラールのパンションに入る。後ヴィラ・デ・カメリヤへ移る。5月4~27日、春陽会第1回絵画展覧会於竹の台陳列館。静物(けし)、母の像、静物(さざんか)、あねもねの花、高畑の冬、風景。9月、東欧の農民美術調査の途次ウィーンにて関東大震災を知りパリへ戻る。同行岸本彦衛。12月~24年2月、クロ・ド・カーニュに避寒。12月24日、クロ・ド・カーニュ。古美術行脚『大和』刊行。辰巳利文、小島貞三著、アルス刊。大正13年 春、ルーブル美術館にて「キリスト降誕」ルイニ作模写、3ヶ月を要す。アトリエにて裸婦其の他。12月~25年春イタリア旅行。10月25日、グリンデルワルト。パテ・ベビー1式購入、製作は昭和9年頃迄続いた。大正14年 3月7~29日、第3回陽春会展、裸体。人物。夏、帰国。10月頃、九科会発足。著書『ルウッソオ』アルス刊。ヴアン・エイク以前のアギニヨン派絵画、(アトリエ 1~3月号)。大正15年 2月16~3月20日、春陽会第4回展、闘牛の男、浴後、ブルターニュ風景、水辺の女。5月13日、母浅野死亡。著書他、『ポンペイ壁画集』アトリエ社。「ぽーる・フエルジナン・ガッシュ」(アトリエ 1~5月号)。昭和2年 正月、東京府下荏原郡へ移る。春より自由学園へ美術の講義にゆき始む。意匠部を指導23年迄つづく。4月22日~5月15日、春陽会第5回展覧会、於東京府美術館。奈良の雪、夏の草花、うゐーとみもざ、けし、雑草とひなげし。『世界美術全集』委員 平凡社刊 昭和5年迄。昭和3年 4月27日~5月14日、春陽会第6回展。奈良新緑、春日山。この年房州へ写生行?、著書『現代西欧図案集』宝文館。昭和4年 4月27日~5月15日、春陽会第7回展。尾瀬沼小品(1)、(2)、肖像、会津燧岳、御宿風景。陽春会事務局を小杉方より移す。自由学園第7回美術展。第1回工芸展。風俗人形、臘染、手織等指導。昭和5年 4月23日~5月14日、春陽会第8回展、焼嶽、穂高嶽新雪、上高地初秋、窓辺、時雨、秋霽れ、秋の朝、小梨平初夏、上高知初夏、五月雨るる穂高。4月自由学園創立十周年記念美術工芸展の準備のため、ニュージーランド文様及び高山植物をテーマとして生徒の制作を指導。この年劔岳、他。昭和6年 4月11日~5月3日、春陽会第9回展。八ヶ嶽遠望、甲斐路の春(1)、(2)、穂高残雪、五月雨、常念小舎より、新緑。第1回新興美術展(企画実施)於大阪。自由学園工芸研究所設立。現在(昭和49年)に致る迄不変の需要ある「コルクの積木」は足立の発案、煉瓦をモデュールとした寸法である。この年家形山スキー行他。著書『技法研究洋画基礎』宝文館。『自由学園工芸図案集』自由学園工芸部。『技法研究風景』宝文館。昭和7年 春陽会第10回展。雨後の高瀬入、白馬嶽遠望、針の木遠望、雪景、高原散策、曙、仙丈岳、初秋の劔嶽、仙水峠の春。5月、尾瀬沼行、森田が国立公園協会(内務省管轄)の依頼で尾瀬沼を描くことになり同行した。夏、大東京市発足により東京市大森区となる。この年乗鞍嶽写生行、他。著書、セザンヌ大画集第2巻『人物』アトリエ社。「山の写生『山岳講座』第5巻255~315頁、共立出版。昭和8年 春陽会第11回展。ばら(一)、(二)、飛騨の秋、会津燧岳、尾瀬沼解氷、春、解氷期の南アルプス縦走。七月、北海道行き。秋、自由学園第1回工芸展、於大阪三越。足立の指導により1年の準備期間をかけて開催されたが、入場者は2万人を越した。昭和9年 4月、自由学園工芸研究展、於三越本店。4月22日~5月13日、春陽会第12回展。後立山の春、花、白馬連峰。6月、日本山岳会々員となる。推薦者、茨木猪之吉、中原万次郎。後、陶器に依る日本山岳会の略章をデザインす(現行)。6月12日~17日、山の絵展覧会、於日本橋高島美術部。針の木岳遠望、湖畔新緑等、計60点。7月上旬、西黒沢、白鷺の池、写生行。7月24日~29日、乗鞍岳写生行。8月13日~22日、水昌小屋中心に写生行。9月12日、この近辺奧穂高岳写生行。10月27日~30日、裏妙義写生行。11月、自由学園工芸研究所第2回工芸展。於東京・大阪三越。12月4日~9日、高山より乗鞍岳写生行。同行藤木九三。右以外、冬期五色温泉、冬期雲竜峡(日光)、菅平(自由学園O・Bと共に)ら写生行。昭和10年 4月28日~5月20日、春陽会第13回展。鳥帽子嶽、石楠花、西鎌尾根、F氏像、東沢の夕。六月。日光湯の湖近辺写生行。他に乗鞍岳、甲州、劔嶽写生行。昭和11年 3月、日本山岳画協創立。A・A・A(Association des Artistes Alpins)。会員、足立源一郎。茨木猪之吉、石井鶴三、丸山晩霞、中村清太郎。4月。春陽会第14回展覧会。甲斐駒ヶ嶽。 劔嶽三趣(朝・昼・夕)、甲斐ヶ根の春。3月16日~5月17日、神戸商大山岳部に同行して台湾写生行。3月16日、神戸解纜。20日、台北。21日、東勢。22日、対劔美角、烏来。23日、ビスタン社・サラマオ峠。24日、シカヨウ社。25日、ヒマナン路26日、マクラハ渓。27日、ガンテリエ。28日、キレットイ、インタシンバジン。29日、南湖連峰幕営。30日、スムツタ。4月5日、ヤボラン断崖、プスラユ尾根。7日、大覇尖山の肩。8日、上テンシピヤナン鞍部。12日、土湯温泉。13日、羅東。15日、ラジオ放送「美化山東」。20日、新高山北峯。21日、日月潭。5月6日、漢水。16日、台南赤嶺楼泊。17日、平安。6月中旬~下旬、土佐、高松写生行。8~9月、阪大理工学部の為壁画2面。助手、佐藤他1名、目白、自由学園講堂にて製作。10月23日~26日頃、日本山岳画協会第1回旅行。木曾福島、藪原、小木曽、境峠、野麦峠。同行者、石井鶴三、茨木猪之吉、中村清太郎、計4名。他に乗鞍岳、志賀高原、上越、蔵王等写生行。昭和12年 4月11日~5月4日、春陽会第15回展覧会。霧巻くヤボラン山。春の新高南山。★萊主連峯、台北の娘、新高山主峯、南湖大山の朝、大覇尖山、新高山。次高山の北端。7月17日~月末、利尻島、礼文島、写生行。夏、小画室を箱根に設く。9月下旬、日光(小米平、曲り廊下入口、赤薙)写生行。10月25日~11月13日、阿蘇、霧島、雲仙写生行。11月25日、足立の指導による自由学園工芸研究所作品、布地15種、パリ万国博にて受賞。金牌、「山と波」タピスリ。他に銀牌、銅牌。穂高、志賀高原、霧ヶ峰、妙高、蔵王等、写生行。12月26日~1月7日、北海道スキー写生行。鯉川温泉→ニセコアンヌプリ→土狩→札幌→北見→上富良野→十勝吹上温泉→泥流→帰京。昭和13年 4月9~27日、春陽会第16回展覧会。雪の朝(十勝岳麓)、春畫、乗鞍岳と木曾御嶽、かぐろへる穂高。5月下旬→8月上旬、朝鮮北支写生行。5月19日、春陽会大阪展3日目、朝出発、夜9時興安丸乗船。20日、慶州。21日、金夷信墓、鮑石亭、他。22日、北州河原。23日、仏国寺。24日、慶州、夜京城に向う。27日、京城発内金剛に向う。28日、摩訶衍。29日、迦葉洞。30日、玉女峯。31日、朝陽瀑。6月2日、昆廬峯。3日、動石洞。4日、神渓寺より温井里。5日、極楽峴。6日、薬柳相。7日、海金剛より京域。19日、羽仁もと子より北京生活学校について相談をうけ、北京行を依頼され承諾する。20日、水原。7月3日迄京城。7月17日、奉天、北陵其の他。19日、北京・天壇、北海公園。22日、大同日之出屋泊、雲崗鎮。24日厚和。26日、北京南海公園。8月2日迄北京にて生活学校指導。9月28日。夜大阪発。30日、小倉、夜興安丸乗船。10月4日、正陽寺。10月5日、弥勒峯、中内院、温井里。5日以後海金剛。17日、関城。11月上旬帰京。12月20日頃八ヶ岳山麓写生行。12月27日~1月3日、蔵王高湯写生行。同行袋一平。他に志賀高原、上越、信夫高湯方面等、写生行。昭和14年 4月23日~5月14日、春陽会第17回展覧会。谷川岳カタズミ尾根、市の倉沢、大同石仏第20窟、大同石仏第17窟、大同石仏第3窟、大同石仏第20窟、大同石仏寺、夏の北京。4月、倉田白羊追悼講演会、並に遺作展に出席、信州上田。4月24日~7月下旬、満州北支写生行。4月24日夜東京発、滞阪。28日、のぞみにて京城着、半島ホテル。29日、茨木猪之吉に会う。30日、李王職美術館。午後発、5月1日、奉天。2日、鞍山。4日、遼陽。5日、海城。7日、廟台無量観に泊。8日龍泉寺。20日、ハトにて新京へ。21日、吉林。24日迄吉林。25日、新京経由哈爾賓へ。30日迄哈爾賓。28日、泉靖一他1名の慰問に当る。29日、山下一夫、西島と太陽島に遊ぶ。6月3日迄佳木斯。3日、牡丹江着。4日、綏芬河、立上秀二に会う。愛河にて下車、小杉二郎(放庵二男)を井上芳部隊に慰問。5日、ハルピンに戻る。6日、哈爾賓を発つ。17日~19日、承徳。21日、古北口站。23日~26日、北京。27日、青竜橋。28日~9日、大同。7月1日、張家口。下旬帰京。日時不詳。乗鞍岳、八ヶ岳、甲州、上高地、安曇野、野尻湖、尾瀬沼等写生行。足立の指導に依り自由学園工芸研究所が1年掛りでニューヨーク・サンフランシスコ万国博のため制作した壁掛、希望の曙を現す「東亜の黎明」はニューヨーク市の永久保存品に指定された。12月28日~1月5日、大島式根島写生行。日時不詳。3月中旬、遠見尾根より五竜岳、拇池、八方尾根、志賀草津、他写生行。著書『山に描く』古今書院。昭和15年 4月8日~17日、春陽会第18回展覧会、北京風景(北海公園)、北京好日、春の五竜岳。5月2日~6日、山嶽画展、銀座、青樹社。上高地新秋、朝霧、他計24点。8月5日~9日、山嶽画展。大阪・東・道修町青樹社支店。甲斐駒岳、小梨咲く上高地、他計15点。8月31日~10月中旬、満州写生行。8月31日、神戸より扶桑丸乗船。9月3日、大連着。5日、鞍山着、箱崎、津田治七。6日、奉天、ヤマトホテル泊。7日、「大陸」にて錦県着。8日、北鎮。11日、北鎮発医巫閭山。12日閭山。14日、金州城。15日、東京城、義県、鏡泊湖。11月下旬、赤城、榛名写生行。秋、第4回文部省美術展覧会。紀元2600年記念に聖峯試練を出品。日時不詳。蔵王、大和路他。自由学園工芸研究所、作品を輸出工芸新興展に出品。織物ベットカバー、1等賞、和紙★纈染、3等賞。著書『人物画の描き方』崇文堂。此の年文部省買上げ作品あり。昭和16年 1月20日頃、蔵王写生行。4月12日~25日、春陽会第19回展覧会。穂高3題(冬、初冬、新秋)、蔵王樹氷。4月下旬、庄内、羽前写生行。5月下旬、岩木山近辺写生行。6月上旬。千曲川水源方面写生。6月20日~24日、八甲田方面写生行。象潟鳥海山、等。7月6日~9日、山嶽画展覧会。日動画廊。槍穂高遠望20号、蔵王山の樹氷8号、穂高新緑15号、他計28点。7月下旬、紀伊写生行、大台ヶ原、有田、保田。8月5日~9日、8月5日、甲府にて清沢久吾に会う。6日、喜多恒雄を迎え夜叉神峠へ。8日、北岳頂上。9日、夜帰京。11月、7日(樽で手に入るのはこれが最後と思われるので)、太平山を山本の仲介で皆で飲む会。幹事、山本・足立、案内先、石井柏亭、長谷川昇、青山義雄、中川紀元、中村研一、中山魏、『山本鼎の手紙』380頁。11月9日、那智、南紀写生行。日時不詳、蔵王、朝日磐梯、甲州、上越へ写生行。昭和17年 1月17日前後、甲斐、佐久往還写生。2月、土佐写生行。3月中旬~4月中旬、内金剛、外金剛写生行。4月、春陽会第20回展覧会。吾妻高原、会津駒ヶ嶽、甲斐路早春、7月23日~8月7日、白頭山行。11月7~11日、第2回油絵山嶽展覧会、日動画廊、嶽麓初夏(吉田)15号、志賀高原の秋12号、他計35点。昭和18年 1月17日~23日、近作油絵展覧会。大阪・三越。霞む集仙峯、初夏の青木湖、他計20点。4月18日、春陽会第21回展覧会。粉雪降る丸池、霞む集仙峯、志賀高原笠ヶ嶽。4月、山本鼎春陽会に戻る。足立仲介。10月16日~20日、第6回文部省美術展覧会。委員、審査員、★巌霧湧出品。日時不詳、写生行。上高地穂高、甲斐路。昭和19年 3月24日、蘇州(26日迄)、夜水谷清、井出、大鹿。3月26日、上海へ戻る。4月9日、華翔号にて舟山列島に向う。10日、定海。11日、東嶽廟。12日、定海・中和里。13日、鎮家門。14日、普陀山島短姑街頭。15日、定海に戻る。16日、普陀山。17日、帰途。18日、朝上海。21日宜興。22日、十里長山。28日、蘇州。29日、常熟。5月6日、棲霞寺。7日、蕪湖、巣県。8日、巣県、合肥。10日、爐橋鎮。12日嘉善。4月7日~18日、春陽会第22回展覧会。出品作品無し。7月25日~8月19日、穂高写生行。7月25日、西穂独標。8月2日、前穂高岳。8月5日、西穂高岳。8月16日、西穂山荘。8月19日、ジヤンダルム。9月9日~10月下旬、北支行。9月9日、東京発。10日、下関ホテル泊、バスなし。11日、前7時、興安丸乗船、18時釜山着。12日、8時京城通過、18時鴨緑江。13日、13時05分、奉天通過、15時山海関、24時00分、北京着。勝直義、徳光出迎。14日~10月下旬、北京。15日、生活学校に羽仁氏を尋ぬ。16日、瑠璃廠同古堂にて斎白石に印を依頼。17日、三菱大倉と孔子廟、★和宮、等東北隅を巡る。21日防空演習ある由にて、在室作画。22日、徳光、一氏、王石之に会う。24日、中海公園の新聞学院、楠恭。25日、展覧会目録原稿を一氏へ、楠に会う。25日、飯山より鄭文公下碑拓本を求む。北京空襲。27日、大陸画報打合せ。10月5日~7日、北京飯店6階別室にて個展。12日、斎白石刻印出来。18日、羅城巡り。19日、広梁門。11日、帰国。著書『ヴアン・ゴッホ』アトリエ社。昭和20年 2月、箱根へ疎開。4月15日、空襲にて田園調布のアトリエ焼亡。パリ時代より戦時中に制作した一切の画布、スケッチ類、書籍を失う。春、箱根植物のデッサン。秋、別府、大分、臼杵方面。昭和21年 4月28日、水郷写生行。5月29日~6月6日、春陽会第23回展。作品なく出品せず。7月8日、上高地槍、穂高、写生行約10日。10月下旬から11月上旬、大和、紀伊方面。10月24日、有田、保田。26日~29日、熊野。27日、静。11月4日、中ノ坊(当麻)。日時不詳、第1回国民体育大会ポスター原画(油彩)。昭和22年 2月24日~3月7日、春陽会第24回展。槍ヶ岳二題、(霧、日暈)。3日~5日、北九州行。3月19日、小田原より上京、交通会社専門委員に出席、石川一郎、中村研一他に会う。夜行にて門司に向う。21日、門司着。22日、小倉にて月原俊二。4月5日~6日、和布刈。11日~18日、若松、下関。22日~5日福岡岩田屋にて個展。5月7日~10日、小倉市井筒屋にて個展、九重山4点、関門風景5点、信州山岳風景13点、富士2点、九州岳連、九州タイムズ。5月4日、講演会「近代美術の傾向」主催門司市基督教青年会。5月15日、由布院。7月、上高地、槍、穂高写生行。9月下旬~11月上旬、九州、屋久島方面。9月24日、九重、10月16日~28日、屋久島。11月16日、別府、阿蘇、竹田。日時不詳、梅雨明け頃?野麦峠、境峠、同行者、石井鶴三、茨木猪之吉、中村清太郎、計4名。昭和23年 3月31日~4月13日、春陽会第25会展。北鎌尾根の槍ヶ嶽。5月、唐津、菊地、鉾立峠、臼杵。6月7日、涸沢、穂高方面。10月11日、第3回国民体育大会記念九重登山を兼ね九州行、別府、九重、臼杵、耶馬渓他。日時不詳、八甲田山、十和田湖、志賀高原。昭和24年 3月15日~21日、加治木、霧島、高千穂。4月2日~7日、鹿児島桜島。4月1日~16日、春陽会第26回展覧会。或る朝の槍ヶ岳。7月8日、日本山岳画協会再出発打合せ会。連絡事務所、東京都大田区、日本山岳画協会仮事務所。通知発送先、足立源一郎、石川滋彦、高田誠、石井鶴三、宮坂勝、上田哲農、河越虎之進、中村清太郎、山川勇一郎、加藤水城、中村善策、山下品蔵、春日部たすく、奥田脩太郎、吉田博。7月上旬~8月上旬、横尾、涸沢、奧穂(重太郎小舎中心)。日時不詳、草津、志賀高原、上越、蔵王、乗鞍他。昭和25年 4月10日~26日、春陽会第27回展覧会。前穂高北尾根、北穂高岳南峰、横手山。5月、長崎滞在。夏、槍穂高。9月下旬~11月中旬、雲仙、長崎(附近)別府臼杵、邪馬渓。日時不詳、志賀高原、劔嶽立山、他。著書『山に描く』(再版)古今書院。昭和26年 春陽会第28回展覧会。朝の劔嶽。4月、湯檜曾、谷川岳。5月、谷川岳、天神小屋、12日、田尻尾根。夏奥穂高岳。日時不詳、劔立山、後立山。昭和27年 3月箱根。3月下旬、穴山、韮崎。4月18日~5月4日、春陽会第29回展覧会。劔嶽八ヶ峯、穂高滝谷の断壁(県立近代美術館蔵)、北穂高嶽南峯、5月、秩父、三峠。7日~8日、西穂高岳と奥穂高岳。9月中旬、谷川岳市の倉沢。9月23日~28日、第13回日本山岳画協会展覧会。於三越本店7階。穂高ツリ尾根、北穂高南峯、滝谷第5尾根の頭、春の槍ヶ岳、梓川。10月10日~15日、苅込湖他。12月下旬、土樽方面。日時不詳、谷川岳(数次)日光、尾瀬。昭和28年 1月29日、土樽方面。3月7日、越生梅林。3月22日、苗場小屋。23日、苗場ヒュッテ。24日、武能、マチガ沢の上。4月、春陽会第30回展覧会。北穂高第2尾根、滝谷ドーム北壁。6月、北海道。6日、阿寒湖、愛別岳比布岳(厚生省、国立公園協会所蔵)。7日~8日、前穂高嶽、奥又白。9月10日~15日、松原湖、稲子牧、佐久高原。10月13日~16日、清津峡、飯士山。11月11日~12日、石廊崎。日時不詳、八ヶ岳々麓、蔵王、志賀、上越。昭和29年 4月17日~5月2日、春陽会第31回展覧会。滝谷の岩壁、母子。4月28日、阿蘇。5月2日、傾山。5月28日、菊池水源発帰京。6月7日~11日、金精峠、湯の湖。7月10日~25日奥穂ジャングルム、滝谷。9月末初、日光。10月中旬、北穂滞在。日時不詳、上越、朝日磐梯、他。穂高、70号。歌舞伎座蔵。昭和30年 3月末、深大寺。4月17日~5月3日、春陽会第32回展。穂高稜線にて、5月中~下旬、西黒尾根、奥利根、マチガ沢。6月25日、法師。夏、北穂高岳、奥穂高岳。9月21日、御座石場。24日、鳳凰小屋。25日、北岳。10月野麦峠。日時不詳、上越、鳥海山、八幡平、他。昭和31年 3月、吾妻山、4月30日~5月6日、春陽会第33回展覧会。北穂高岳南峰、朝 雲。5月17日、夜叉神峠。5月23日、折平。7月、稲住温泉、秋の宮温泉、磐梯山。日時不詳、北穂高岳滞在、他多方面。著書『山は屋上より』朋文堂。昭和32年 4月18日~5月4日、春陽会第34回展覧会。穂高岳南峰、30号。6日、スケッチ展。於大阪大丸。7日~8日、涸沢、奥穂高岳、北穂高岳。9月17日~21日、個展。於日動画廊。日時不詳、夏北穂高岳滞在、他多方面。昭和33年 4月上旬、塩尻峠、美しヶ原。4月27日~5月13日、春陽会第35回展覧会。奥穂高岳と涸沢岳、25号。5月~8月、箱根に仮寓。8月、神奈川県鎌倉市に移る。7月~8月、奥穂高岳、北穂高岳。日時不詳、八ヶ岳々麓、他。昭和34年 4月22日~5月8日、春陽会第36回展覧会。奥穂高岳と涸沢岳 25号。7月~8月、北穂高岳、奥穂高岳。9月中旬、丹沢。日時不詳、上越、蔵王、他多方面。昭和35年 3月20日~30日、八ヶ岳山麓。4月22日~5月8日、春陽会第37回展覧会。穂高岳三題、滝谷ドーム、40P。第2尾根、25F、北穂高岳、30F。4月、谷川岳。日時不詳。夏、北穂高岳滞在。八ヶ岳、他多方面。昭和36年 4月17日、羽田発。7月帰国、渡欧。イール・ド・フランス、シヤモニ、ツエルマットを中心として写生。日時不詳、山行多数。昭和37年 4月22日~5月7日、春陽会第39回展覧会。モンブランの針峯群、エギュー・デュ・ドリュ。7月~8月、上高地槍穂高。日時不詳、上信、安中、伊豆。昭和38年 4月、春陽会第40回展覧会。ブラッテンの礼拝堂、シャモニーの針峯群。日時不詳、北アルプス滞在、甲州、上高地、他。昭和39年 4月22日~5月8日、春陽会第41回展覧会。北穂高岳。7月、双六方面、10日間以上雨。10月初旬、裏尾瀬。11月上中旬、新潟山岳会のメンバーと佐渡へ。11月、三浦崎。日時不詳。北穂方面滞在、大磯、丹沢、上越。昭和40年 4月22日~5月8日、春陽会第42回展覧会。上高地初夏、7月~8月、槍ヶ岳北鎌尾根。日時不詳、槍・穂高岳方面滞在、多方面。昭和41年 4月17日~23日、大和紀伊の旅。4月22日~5月8日、春陽会第43回展覧会。槍ヶ岳北鎌尾根にて50F。7月~8月、開田高原、上高地、北穂滝谷を中心に滞在、西穂高岳。11日秩父方面。日時不詳、上信越、その他。神奈川県美術展始る。没年迄招待出品。3月のスキー行にて体力の限界を知り、永年親しんだスキー行中止す。昭和42年 4月1日、秋間梅林。4月22日~5月8日、春陽会第44回展覧会。北穂高岳南峯 50F。5月1日~9日、個展。於日動サロン。日時不詳、槍岳、北穂高岳、上信越方面。昭和43年 3月、第3回神奈川県美術展、実行委員。4月22日~5月8日、春陽会第45回展覧会。春の槍ヶ岳、5月、上高地、槍・穂高方面。日時不詳、甲斐路、その他。昭和44年 4月22日~5月8日、春陽会第46回展覧会。牡丹15F、穂高新秋。6月、甲州アヤメ平。7月、甲州、悪沢を見る。8月末、鹿島平。9月、アヤメ平。日時不詳、乗鞍岳、上高地、他。昭和45年 3月初、甲州穴山。4月22日~5月8日、春陽会第47回展覧会。初夏の鹿島槍。5月、上高地ウエストン祭の後鹿島に泊る。6月。高山より、開田高原、野麦峠。10月16日、千石尾根(西穂高)。7日、乗鞍岳一ノ瀬。12月5日頃、「霧の旅」にて可睡斎。日時不詳、上高地、穂高、上信越、他。昭和46年 4月22日~5月8日、春陽会第48回展覧会。初夏の穂高岳。5月、ウエストン祭の日に長屏に登り雪中より穂高連峯に別れを告げる。最後の自力による登山となる。乗鞍へ廻る。日時不詳、甲斐路、佐久往還、他。著書『日本の山旅』茗溪堂(奥付は1970なるも刊行は翌年となる)。昭和47年 3月、白内障手術の為日大板橋病院に入院、視力は「見えすぎる」程に恢復。4月22日~5月8日、春陽会第49回展覧会。劔岳新雪 20F8月、視力極めて良好なるも食事が進まず外来検査、即日入院し、月末に手術、胃を殆んど除去。9月、退院帰宅、極めて好調、11月末より不調を訴え、12月、額田病院に入院、点滴にて越年す。昭和48年 1月、調子良き日を見計いアトリエへ通って春陽会への出品作品を描く。29日、退院、自宅へ戻る。2月下旬、出品作を完成。3月31日永眠。痛みを訴えたが死の直前迄意識明瞭であった。4月5日、春陽会葬、於鎌倉七里ヶ浜ホテル。4月22日~5月8日、春陽会第50回展覧会。春の穂高岳徳本峠より。昭和49年 4月22日~5月8日、春陽会第51回展覧会。遺作室設けられ、チューリップ、10号1923、上海の娘、5号1943、ホテルモンブランの窓、5号1961、マッターホルン、25号1962、牡丹、10号1968と著書など陳列、石井鶴三遺作等併陳。(本年譜は足立朗、『神奈川県美術風土記・幕末明治拾遺篇』より転載)

木下孝則

没年月日:1973/03/29

木下孝則は、明治27年2月24日東京市四谷区に生まる。父友三郎は、和歌山県の出身で司法畑から後に明治大学総長となった人で、母は児島氏の三女。孝則は7人兄弟の長男で、三男は、やはり洋画家となった木下義謙である。孝則の洋画志望には、母方の叔父児島喜久雄(西洋美術史家)の影響によるところが大きかったといわれる。明治39年、学習院初等科卒業、次で中等科、高等科に進み、大正6年京大法科大学政治経済学科に入学、翌年東京帝国大学文科大学哲学科に再入学したが、大正8年東大も退学。この頃、小島善太郎、林倭衛、佐伯祐三その他との交友から、油絵を描き初め、大正10年第8回二科会展に「富永君の肖像」が初入選となった。続いて大正12年、13年に樗牛賞、二科会賞を受けたが、15年、1930年協会を設立。昭和2年には春陽会に会員として招かれ、しばらくは1930年協会展並びに春陽会展にも出品していた。昭和5年、春陽会を退会、フランス留学ののち、昭和11年一水会の創立に加わり、以後、毎年一水会展、戦後は更に日展にも出品し、双方の展覧会を主な作品発表の場としていた。一貫して婦人像を描きつづけ、穏健な写実派の作家として知られていた。戦後、一連のバレリーナの作品によって注目されたが、その他の婦人像も、すべて、都会の洗練された若い女性をモデルとして、明快単純な色調、優れた描写力が独自の作風を創り出していた。作品は殆ど女性像でそれもコスチュームが多かった。 略年譜(木下孝則回顧辰(和歌山県立美術館)目録より)明治27年 2月24日、東京四ツ谷区に、木下友三郎、鈴の長男として生れる。明治33年 学習院初等科入学大正6年 学習院高等科卒業、7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科入学大正7年 4月、東京帝国大学文科大学哲学科に京大在籍のまま、再入学、11月京大中退大正8年 東大を退学、小島善太郎、林倭衛、佐伯祐三、前田寛治、里見勝蒋、中山巍らと交友。大正10年 第8回二科展に「富永君の肖像」入選。9月渡仏大正12年 イタリアに数カ月滞在ののち、秋帰国、小島善太郎、児島善三郎らと円鳥会々員となる。大正13年 第11回二科会展に「針仕事をする女」「ゼレニフスカ夫人」「イヴォンヌ」など7点を出品、樗牛賞をうける。大正14年 第12回二科会展に「後向きの裸婦の習作」「読書する了子」「志津枝」等出品、二科会賞をうける。大正15年 第1回聖徳太子奉讃展に「K男爵夫人」出品、前田寛治、佐伯祐三らと1930年協会を設立昭和2年 3月、春陽会々員に推挙され、同展に「女流画家」「女優の像」等出品。1930年協会展に「少女像」を出品昭和3年 1930年協会展、春陽会展に出品後、5月、岡松参太郎の次女了子と結婚、妻と共に渡仏。昭和5年 春陽会を退会。昭和8年 サロン・ドートンヌに「ピンクのガウンをかけた女」を出品、帰国迄の間に「読書」「裸婦ナックレ」「赤衣の女」等を同展に出品する。昭和10年 帰国。昭和11年 9月、二科会々員に推される。第23回二科会展に滞欧作19点を特別陳列したが、10月小山敬三、硲伊之助、実弟木下義謙と共に二科会々員を辞退する。12月、一水会の創立に参加。昭和12年 6月、木下孝則洋画個人展を、大阪長堀高島屋で開き60点出品。9月、銀座日動画廊で帰朝展を開き60点を出品。11月、第1回一水会展に「O氏像」「K氏像」「ヴォーグ」出品。以後、毎年一水会展に1~2点を出品する。昭和24年 第11回一水会展に「一兵卒像」また、第5回日展に審査員として「肖像」出品。昭和25年 第12回一水会展に「N君像」、第6回日展に審査員として「バレリーナ」出品。この年からバレリーナをモデルとした作品を描きつづける。一水会、日展に毎年出品。昭和30年 神奈川県立近代美術館で木下孝則自薦展を開き、34点を出品。第17回一水会展「読書婦人」「婦人像」。11月第11回日展に参事、審査員として「室内婦人」を出品。昭和31年6月 木下孝則個展(上野松坂屋)9月 第18回一水会展に「M君像」「バレーダンサー」「室内婦人」を出品。10月、第12回日展に参事、審査員として「読書」を出品。同年「諏訪奨氏像」「油壺」等を制作。昭和32年5月 第4回日本国際美術展に「ピアノによるアイリーン」を出品。7月 現代美術10年の傑作展(渋谷東横)に「M君像」を出品。昭和32年9月 第19回一水会展に「ピアノによるアイリーン」を出品。昭和33年5月 第3回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「室内」を出品。9月 第20回一水会展に「バレーダンサー」「少女スラックス」「食卓」「T氏像」「T氏の花嫁」を出品。この時、委員回顧室に「M君像」を出品。昭和33年11月 第1回日展に評議員、審査員として「室内少女」を出品。昭和34年5月 第5回日本国際美術展に「婦人像」を出品。6月 第2回一水会会員展に(於新宿伊勢丹)「読書」を賛助出品。昭和34年9月 第21回一水会展に「ホームバー」「婦人像」「読書」を出品。11月 第2回日展に評議員として「婦人像」を出品。昭和35年5月 第4回現代日本美術展に「Y夫人像」を出品。6月 第3回一水会会員展に「裸婦」を賛助出品。9月 第22回一水会展に「裸婦習作」「食後」「パール夫人像」「梁瀬次郎氏像」を出品。11月 第3回日展に評議員として「食後」を出品。昭和36年5月 第6回日本国際美術展に「婦人像」を出品。9月 第23回一水会展に「バレーダンサー三人」「森夫人」を出品。昭和36年11月 第4回日展12「化粧」を出品。昭和37年4月 「週刊朝日」の表紙絵を翌年3月まで担当、バレエダンサー等の油彩画を掲載、各号巻末に自ら寸評を記す。昭和37年5月 第1回一水会委員展(於三越)に「靴下をはく女」を出品。同月、第11回五都展(五都美術連合会主催)に「花」を出品。雑誌No.424「着衣・裸婦・自画像の描き方」を著す。(大久保泰氏と共著)同月、第5回現代日本美術展に「バレーダンサー」を出品。6月 第5回一水会会員展に「牡丹」を賛助出品。9月 第24回一水会展に「裸婦」「バレー靴をはく」「婦人像」「マガジンを見る女」を出品。10月 個展開催(大阪高島屋)。同月、作品展(横浜市関内ギャラリー)開催。昭和37年11月 第5回日展に「裸婦」を出品。昭和38年5月 第2回一水会委員展に「婦人像」を出品。同月、第12回五都展に「バレリーナ」を出品。昭和38年9月 第25回一水会展に「立てる裸婦」「黒衣のバレーダンサー」出品。11月 第6回日展に「婦人像」を出品。昭和39年1月 雑誌1月号の表紙を担当。5月 第3回一水会委員展に「Giselle」を出品。6月 第7回一水会会員展に「バレーダンサー」を賛助出品。同月、個展開催(大阪高島屋)。7月 第1回太陽展(日動画廊)に「バレリーナ」を出品。同月、第18回文化人肖像写真展(於三越)に今井イサオ撮影の木下画伯肖像が展示される。同月、第2回丹砂会展(伊勢丹画廊)に「バレーダンサー」を出品。この頃、洋研展に「薔薇」を出品。9月 第26回一水会展に「ピアノによるバレーダンサー」(同名作品2点)「ヴアイオリンをひく女」を出品。10月個展開催(日動サロン)。11月 第7回日展に「ピアノの前の踊子」を出品。昭和40年3月 横浜市に新戸籍作製。5月第4回一水会委員展に「ピアノの前」を出品。同月、個展開催(大阪高島屋)。昭和40年6月 第8回一水会会員展に「ピアノの前」を賛助出品。7月 第2回太陽展に「バレーダンサー」を出品。9月 第27回一水会展に「智恵子像」「アイリン」「空色の女」を出品。11月 第8回日展に「黒衣婦人」を出品。この年、画壇選抜100人展に「踊り子」を出品。昭和41年5月 第5回一水会委員展に「水色の女」を出品。同月、第15回五都展に「バレリーナ」を出品。雑誌No.27に随想「自作を語る」を寄稿、表紙に「ばら」を掲載。6月 第9回一水会会員展に「ピアノの前のカンカン」を賛助出品。昭和41年9月 第28回一水会展に「かよ子像」「ルシルフィード」「マラゲニヤ」「るり子像」「手鏡」を出品。同月、現代日本大家油絵展(小田急)に「バラ」を出品。第4回丹砂会に「カンカンダンサー」を出品。11月 第9回日展に「八重子像」を出品。昭和41年12月 月刊新聞に随想「パリの思い出」を寄稿、カットに「花飾りをつけた女」(デッサン)を掲載。昭和42年5月 第6回一水会委員展に「読書」を出品。6月 第10回一水会会員展に「読書」を出品。7月 第4回太陽展に「バラ」を出品。昭和42年9月 第29回一水会展に「水色のベビードール」「コルドバの女」を出品。11月 第10回日展に「ベビードール」を出品。昭和43年3月 個展開催(日動サロン)。5月 木下孝則展(名古屋日動画廊)を開き、滞欧作2点を含めた40点を出品。昭和43年6月 に「随想交通問題等々」を寄稿。9月 第30回記念一水会展に「K子像」「ブルーネグリジェ」「ピンクネグリジェ」を出品。11月 第11回日展に「ブルーネグリジェ」を出品。昭和44年5月 第18回五都展に「三人のバレーダンサー」を出品。7月 第6回太陽展に「カーネーション」を出品。昭和44年9月 第7回丹砂会展に「白いバレーダンサー」、第31回一水会展に「後向きの裸婦」「ディバンの裸婦」「上田博士像」を出品。昭和44年11月 改組第1回日展に「水色のバレーダンサー」を出品。昭和45年5月 第9回一水会委員展に「バレーダンサー」、第19回五都展に「ばら」を出品。6月 女性の美・裸婦名作展(大阪読売新聞社主催、広島県市教育委員会後援、会場広島福屋)に「裸婦ナックル」を出品。9月 第32回一水会展に「裸婦とネグリジェ」「晴子プロフィール」「バレーダンサー」を出品。10月 第8回丹砂会展に「ピンクのネグリジェ」を出品。昭和45年 11月 第2回日展に「バレーダンサー」を出品。昭和46年5月 第10回一水会委員展に「バレーダンサー」、第20回五都展に「ピアノの前」を出品。同月、集英社刊の別冊付録「ドガの裸婦の絵に惹かれて」を執筆。9月 第33回一水会展に「ピアノに倚るバレーダンサー」「婦人像」「佐々木夫人像」を出品。11月 第3回日展に「バレーダンサー」を出品。昭和47年5月 第11回一水会委員展に「バレーダンサー」、第21回五都展に「ピアノの前」を出品。7月 第9回太陽展に「バラ」を出品。昭和47年9月 第34回一水会展に「ばら」「H夫人像」「北本先生像」を出品。昭和48年3月29日 心不全のため鶴見の自宅で死去。法名、彩照院絶法孝道居士。東京都雑司ヶ谷霊園に埋葬される。昭和48年9月 第35回一水会展に遺作コーナーが設けられ、「N嬢像」「後向きの裸婦」「バレーダンサー」等が展示される。昭和48年11月 勲四等旭日小綬章叙勲(3月29日付)。

石井鶴三

没年月日:1973/03/17

日本芸術院会員の石井鶴三は、3月17日午後10時20分、心臓衰弱のため東京都板橋区の自宅で死去した。享年85歳。4月2日正午から2時まで、葬儀及び告別式が春陽会葬(委員長・中川一政)として青山葬儀所で行われた。明治20年6月5日、東京・下谷に日本画家石井重賢(号・鼎湖)の三男として生れた。祖父は鈴木我古、長兄は柏亭と三代にわたる画家の家系である。数え12歳の時、千葉・船橋の農家、矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となったが、この頃、馬と遊ぶうちに馬体の不思議な触感に感動したのが彫刻を志す契機となったという。明治37年には実家石井へ戻り、4月から小山正太郎が指導する洋画塾「不同舎」へ通学してきびしい素描力を養い、また7月から長姉の嫁ぎ先の縁故にあたる加藤景雲の門に入り木彫の手ほどきを受け、翌年38年9月、東京美術学校彫刻科選科に入学し、43年同校卒業、さらに研究科へ進み大正2年ここも修了した。彼が明治末期から美術界の多方面にわたって活躍してきたのは、この青少年時代の基礎勉強と独自な探求姿勢によるもので、油彩・水彩画、版画、挿絵などにも多彩に秀れた才腕を発揮してきたが、それはとりもなおさず彼の芸術の本領が最もよく発揮された彫刻造型の追究に帰されるものと考えられよう。東京美術学校在学中、荻原守衛の彫刻に感動し、一時は「荒川嶽」に代表される文展出品があり、大正3年再興の日本美術院の彫刻部に入り、その研究所で中原悌二郎、戸張孤雁、佐藤朝山、平櫛田中、保田竜門らと研鑽を重ねた。明治の末期、荻原のフランスからの帰国を契機として漸く近代の扉を開いた日本の彫刻界では、荻原の夭折後その系譜がごく少数の同志が残る院展彫刻部に引き継がれ、官展流とは違った内省の強い写実主義が誠実に追究された。なかでも石井は、対象の表面的で安易なまとまりを避け、内面的な造型の骨格を明示しようとつとめた稀有な存在であり、その実現は「母古稀像」「俊寛」「藤村先生」「風(試作)」などの代表作に窺われるように、峻厳な造型の内発力を示す作調となって、昭和期院展或いは別の場でながく指導的役割を果した。同じく昭和19年から34年まで東京芸大教授として「石井教室」で指導された門生たちの中には、学生時代、造型の原理をきびしくたたきこまれた師恩の深さを今に感謝しているものが全く多い。その業績の大体は、下記の略年譜(信濃教育第1044号の特集・石井鶴三先生追悼号に所載の岡田益雄編のものを主に参照した)で推察されたい。 略年譜明治20年(1887) 6月5日東京市下谷区に生れる。父は重賢(号鼎湖)、母ふじの三男。兄は満吉(柏亭)。明治30年 父重賢没。明治31年 千葉県船橋町の農家矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となる。明治37年 実家石井家に戻る。小山正太郎の画塾不同舎に学ぶ。加藤景雲に師事。明治38年 9月東京美術学校彫刻科選科に入学。この頃より肺結核にかかり、20歳のとき医療を廃し、みずからの養生法をおこない快方に向う。明治39年 東京パックに入社、漫画をかく。苦学生の生活が続く。浅間山に登る。明治41年 第2回文展で荻原守衛の「文覚」に感動する。この頃から推古仏に関心を抱き、また埴輪の美にひかれる。明治42年 はじめて日本アルプスに登る。以後しばしば登山し山岳のもつ彫刻美にうたれる。明治43年 東京美術学校卒業、同校研究科に進む。明治44年 第5回文展に「荒川嶽」入選。大正2年 東京美術学校研究科修業。大正4年 日本美術院同人佐藤朝山のすすめで、日本美術院に入り、研究所で彫塑研究をはじめる。福田美佐を知る。第2回二科展に「縊死者(水彩)」入選。第2回日本水彩画会展に「溪谷」「小学校」他2点入選。大正5年 日本美術院同人に推される。第3回二科展に「井戸を掘る」「行路病者」(共に水彩)入選。大正6年 第4回日本水彩画会展に「峠」「山茶花」出品。大正8年 福田美佐と結婚し、東京・田端に移り住む。大正9年  個展(兜屋画廊)を開く。大正10年 東京・板橋中丸の新居に移る。日本水彩画会の会員に推挙される。上司小剣作「東京」に挿絵を描く。大正13年 日本創作版画協会の会員となる。上田彫塑研究会の講師となり、以後毎年夏期講習会において指導する。昭和45年(第46回)まで毎年続ける(但し昭20休講)春陽会会員となる。大正14年 中里介山作「大菩薩峠」の挿絵をかく。以後断続して昭和2年に及ぶ。大正15年 自由学園に美術を教える。(昭和15年まで)。「婦人像」(上田における第1回講習会の作品)を院展に発表。昭和4年 伊那の彫塑講習会の講師となる。(翌年まで2回、3回目からは有志による)昭和5年 院展に「俊寛頭部試作」「踊」を出品。「石井鶴三素描集」を刊行する。直木三十五「南国太平記」の挿絵をかく。昭和6年 院展に「浴後」「信濃男坐像」(上田彫塑講習作)を出品。昭和7年 子母沢寛作「国定忠治」の挿絵をか。昭和8年 長野の彫塑講習会の講師となる。3年続くが昭和11年から上田に合流する。昭和9年 「石井鶴三挿絵集」第1巻(光大社刊・「大菩薩峠」の挿絵)刊行。昭和11年 院展に「針塚氏寿像」「老婦袒裼」(上田の作)を出品。昭和12年 長野美術研究会の絵画講習の講師をつとめ、昭19・20休講しただけで昭和33年まで毎年続く。昭和13年 随筆集「凸凹のおばけ」刊行。吉川英治「宮本武蔵」の挿絵をかく。上田で春陽会絵画講習を開き、3年継続する。昭和14年 日本版画協会会長となる。昭和18年 北中国旅行。上田で「石井鶴三小品展」を開く。院展に「藤村先生坐像」出品。随筆集「凹凸のおばけ」(増補版)刊行。「宮本武蔵挿絵集」刊行。昭和19年 美術学校改組により、東京美術学校教授となる。昭和20年 8月7日妻美佐病没(58歳)甲州棡原の山荘へ往来、以後数年に及ぶ。和田光子(妹)と同居。昭和23年 岩手県に高村光太郎をたずねる。院展に「仕舞」(鷹野悦之輔像)を出品。昭和24年 上田彫塑研究会25周年記念展・講演会開催。昭和25年 院展に「肖像」(石黒忠篤氏)を出品。坂本繁二郎を九州にたずねる。日本芸術院会員に任命される。横綱審議会委員になる。昭和26年 「木曽馬1・2」を院展に出品。「藤村先生木彫像」の第二作に着手する。昭和27年 法隆寺金堂再建修理にあたる。翌28年まで続く。院展に「小学校教師像」(松尾砂氏像)を出品。昭和29年 6月、「石井鶴三彫刻展」を中央公論社画廊で開催。上田彫塑30年記念展・講演会を開催。昭和30年 子母沢寛「父子鷹」の挿絵をかく。和泉保之師につき、狂言、小舞などのけいこを続ける。昭和31年 信濃教育会発行「彫刻家荻原碌山」刊行。昭和33年 兄柏亭没する。院展に「校長像」(山浦政氏)を出品。中国旅行をする。昭和34年 東京芸術大学教授退官。同名誉教授となる。上田で35周年記念「石井鶴三作品展」開催(上小教育会主催)。昭和36年 2月日本美術院彫塑部解散。昭和37年 腸閉塞をわずらい、入院手術。昭和38年 和田光子の孫蹊子(昭和22年より同居)を養女とする。法隆寺中門仁王修理にあたる。昭和41年 ヨーロッパ旅行。昭和44年 相撲博物館長となる。昭和46年 2月病気のため入院。翌年4月退院、自宅で療養。昭和48年 3月17日午後10時20分、自宅で心臓衰弱のため死去。

佐川敏子

没年月日:1973/03/17

独立美術協会会員の女流画家佐川敏子は、乳ガンのため3月17日午後、東京・千代田区の宮内庁病院で死去した。享年70歳であった。佐川は旧姓で本名中間敏子、同じ独立美術協会会員で武蔵美大教授中間冊夫の妻であった。佐川は、明治35年(1902)10月3日、東京牛込区に生れている。父佐川栄次郎は地質学者であった。幼年時代を本郷で過し、誠之小学校に入り、のち仙台に移り、再び東京に帰ってお茶の水高等女学校をへて大正12年3月東京女子大学国文科を卒業した。初め日本画を椎塚蕉華に学んだが、1930年協会洋画研究所に通って洋画をはじめ、1930年協会展に出品した。昭和6年、独立美術協会第1回展から出品、以後、毎年出品し、その間に中間冊夫と結婚、一子荘介をもうけている。昭和14年第9回独立美術展に「樹海」「山峡」を出品して独立美術協会賞をうけ、昭和16年同会友に推された。戦後も同会に作品を発表、昭和24年会員に推挙された。独立展発足当初から唯一の女流作家で、初期の静物や風景からしだいに身辺の樹木や鳥などの親密感にあふれた主題に内省的で深みのある作風をみせてきた。作品略年譜(独立展出品作)昭和6年(1931)・静物 同7年・駒込風景、卵のある静物 同8年・ウクレレ、樹 同9年・名膏、梳る女、窓辺静物 同10年・風景と少女、静物 同11年・姉妹、夜の裸婦 同12年・砂地、女達 同13年・岩に倚る、女達 同14年・樹海、山峡 同16年・庭の雑草、高原に春来る 同17年・樹々、切通し 同18年・丘、森の下草 同19年・桃、森の下草 同22年・習作 同24年・石庭、樹と石 同25年・欅の庭、窓外、学院 同26年・厨房静物、窓 同27年・夜明け、ユリウス、壺 同28年・レモン絞り、画架、ストーブ 同29年・白い家、月夜 同30年・白い鳥、夜の鳥 同31年・少女と鳥、眠る踊子、裸婦 同32年・女、うづくまる女 同33年・白い鳥、鳥は夜とぶ 同34年・北方の鳥、山の風 同35年・けやき、日没けやき 同36年・月と鳥、日没けやき 同37年・雲と鳥、風の中の樹 同38年・冬の日、裸木 同39年・朝やけ、暮れてくる山

田中猛夫

没年月日:1973/03/15

二紀会同人の洋画家田中猛夫は、3月15日心臓マヒのため京都市の自宅で死去した。享年54歳。大正8年10月4日米領ハワイ州ヒロ市ワイアケアに生れ、1938年ヒロハイスクールを卒業した。1940年洋画勉学のため来日し、関西美術院に学んだ。1951年二紀会展に「朝」が初入選し、57年二紀会同人に推挙された。以後同会を中心に活躍をつづけ、10回展で奨励賞13・14・15回で引続き同人賞を得ている。また、1959年には安井賞候補の出品があり、60・61・62年には毎日選抜美術に出品している。なお、1962年グループ「生」展結成に際し、これに参加し、没する前年までこゝに所属した。作品は、暖色系の抽象画或いは具象画で、関西学院で後進の指導にあたっていた。二紀展出品主要作品次の通り。「朝」(5回)。「けし」(7回)。「漁港」母子(10回)。「姉妹」「猫と少女」(11回)。「漁村」「かまきり」「親子」(13回)。「無題」「年輪」(14回)。「年輪」「火の鳥」(15回)。「年輪」(17回)。「作品緑-A」(18回)「作品No.1」「作品No.3」(19回)。「かまきり」(26回)等。

松島蘇順泉

没年月日:1973/03/06

二科会会員の洋画家、松島蘇順泉は3月6日午後5時、心筋コウソクのため埼玉県北埼玉郡の自宅で死去した。享年73歳。松島蘇順泉は、本名を順、医師でもあった。医学生時代から絵を学び、郷里で開業医のかたわら牧野虎雄に師事して、戦前には帝展、槐樹社展などに出品、戦争中は軍医として従軍、戦後は、主として二科展、埼玉県展に作品を発表していた。 年譜明治32年(1899) 10月18日、埼玉県北埼玉郡の医家の長男として生れる。大正1年 原道尋常小学校を卒業、埼玉県立粕壁中学校に入学。大正6年 4月、粕壁中学校を卒業、東京慈恵会医学専門学校予科に入学。大正8年 葵橋洋画研究所に入り素描を学び、また辻永に作品をみてもらう。慈恵会医専の2年先輩吉田忍、1年先輩の鈴木良三と3人で踠土魔社を創立、毎年秋に講堂で展覧会を開く。大正10年 第2回中央美術展に「裸木の陽」入選。大正11年 10月、三科インデペンデント展に出品。大正12年 東京慈恵会医学専門学校を卒業、附属東京病院外科助手となる。第4回新光洋画会展に入選。第4回中央美術展に「玉乗り」入選。大正13年 第5回新光洋画会展入選。大塚つる子と結婚。大正14年 第12回光風会展に「画室の午後」「静物」入選。医業を継ぐために郷里埼玉へ帰る。昭和2年 第1回大調和展に「夢を行く人」入選。昭和3年 牧野虎雄に師事、第5回槐樹社展に「冬の静物」「残んの花」入選。第2回大調和展「冬近し」昭和4年 第6回槐樹社展「冬の静物」「金魚針」。第10回帯展に「秋立つ頃」入選昭和5年 第7回槐樹社展「金魚」「猫」。第17回光風会展「自画像」「秋晴れ」。第11回帝展「曇り日」入選。昭和6年 第8回槐樹社展「秋立つ頃」「初秋の庭」昭和8年 第20回二科展に「名残の花」入選。昭和10年 第3回東光会展「秋立つ頃」。第22回二科展「春浅き頃」。昭和11年 第23回二科展「秋晴れ」昭和12年 第24回二科展「野火」。12月召集を受け、2週間、軍医教育をうける。昭和13年 第25回二科展「秋立つ頃」。12月、軍医として南中国地方広東に出征する。昭和14年 広東近郊にて砲兵伍長の二科会会員野間仁根と会う。2月、海南島に赴任、「海南島だより」を内地の新聞に送る。7月、第1回聖戦美術展に「新海南島」入選。9月、海南島で個展。10月、汕頭に赴任。昭和15年 10月15日~20日、日本橋三越で南支那風景画展を日本ビクター主催で開催。昭和16年 7月・中国東北区(旧・満州)のハルピンへ赴任。昭和17年 満州建国10周年記念展に「開拓地の五月」を出品。特選金賞を受賞。第29回二科展「井戸端(満州風景)」。昭和18年 ビルマのラングーンへ赴任。日緬美術展に「パゴダの見える丘」出品、1等賞を受賞。昭和20年 ビルマで敗戦を迎え、英軍の収容所に入る。昭和21年 12月、ビルマより復員。昭和25年 第2回読売アンデパンダン展に「南の街」「男と女」出品。昭和30年 第40回二科展「スケッチブック」入選。昭和32年 第42回二科展「死の灰」。昭和33年 第43回二科展「ネット裏の六億」。昭和34年 第44回二科展「レーダーで見た画室」昭和36年 第13回読売アンデパンダン展「流水」「早春溪流」昭和37年 第14回読売アンデパンダン展「作品A」「作品B」。第12回埼玉県展に「早春」招待出品。第47回二科展「ゲリラ」。昭和38年 第15回読売アンデパンダン展「湖畔の秋」。埼玉県展「田園の詩」。第48回二科展「舞台裏」昭和39年 埼玉県展「卓上静物」。第49回二科展「幕内楽師」。昭和40年 埼玉県展「静物」。第50回二科展「房内」、創立50周年記念賞を受賞。昭和41年 埼玉県展「人々」。第51回二科展「建売住宅」、会友に推挙される。昭和42年 埼玉県展「五月の県北風景」。第52回二科展「新居の月」。昭和43年 埼玉県展「県北の秋」。第53回二科展「屋根裏の画室」。昭和44年 埼玉県展「窓外の花」。愛54回二科展「建売住宅」。昭和45年 埼玉県展「地生えの人」。第55回二科展「回顧展」、二科会会員に推挙される。昭和46年 埼玉県展「県北の秋」。第56回二科展「姑娘」、審査員となる。昭和47年 埼玉県展「マカオ寸景」、県展審査員。第57回二科展「バラエテイ」。昭和48年 3月6日、自宅にて逝去。本年譜は『赤蝶』19号に掲載されている「松島蘇順泉年譜」による。

大久保作次郎

没年月日:1973/02/28

日展顧問、新世紀美術協会創立会員の大久保作次郎は48年2月28日逝去した。享年83歳。明治23年11月24日大阪市に生れた。明治44年氏原家より叔父の大久保家を継ぐ。大正4年、東京美術学校西洋画科本科を卒業、同級に鍋井克之がいた。更に同校研究科に進み、大正7年終了、大正12年2月渡仏、現在奈良国際ホテルのロビーにあるボチチェリーの壁画模写は滞欧中の作品である。昭和2年5月帰国、第8回帝展審査員となり、また、昭和13年創立の槐樹社に同16年まで会員として在籍した。官展審査員をつとめるかたわら、昭和14年、鈴木千久馬、中野和高、安宅安五郎らと創元会を結成し、17年迄同展に出品していた。戦後は日展に出品、審査員となり、他に旺玄会々員となり、30年には、和田三造、川島理一郎、吉村吉松、柚木久太と共に新世紀美術協会を結成している。昭和34年日本芸術院賞を受賞、38年芸術院会員となった。風景画の他、明るい室内やテラス、樹下のベンチといった明るい外光の射す下での人物像を好んで描いている。作品はいづれも外光派の穏健な作風によっている。

西垣雄太郎

没年月日:1973/02/23

大阪市立大学文学部教授の西垣雄太郎は、2月23日午後1時50分、脳浮腫のため牧方市民病院で死去した。享年53歳。西垣雄太郎は大正8年(1919)5月27日、兵庫県豊岡市に生まれ、昭和19年(1944)9月東京帝国大学文学部教育学科を卒業、同24年9月東京大学部美学美術史学科大学院を修了、西洋美術史を専攻した。昭和26年(1951)4月、大阪市立大学文学部助手となり、同30年専任講師となった。主要な研究対象は17世紀スペイン絵画史で、昭和35年(1960)8月から翌36年8月までスペイン・マドリッド大学に留学し、昭和38年大阪市立大学文学部助教授に就任、同年教授に昇任した。主要な研究論文に「ベラスケス作の肖像について」(『人文研究』昭和41年)、「ベラスケスとエル・エスコリアールのパンテオン」(『人文研究』、昭和42)などがある。

土田文雄

没年月日:1973/02/22

洋画家、国画会々員土田文雄は2月22日脳軟化症のため、東京都中野区の自宅で逝去した。享年72歳。明治34年2月22日山形県米沢市絹織物製造業土田志賀蔵、母千代の長男として生れる。大正7年、米沢中学卒業後上京、川端画学校に入り藤島武二に師事する。大正10年、日本美術院洋画部に「海」を出品、画壇への初入選であった。大正12年から春陽会展に作品を出して毎回入選する。大正15年国画会創立とともに、傾倒していた梅原龍三郎の勧めによって国画会に出品するようになり、昭和4年、第4回国画会展「河岸の丘」他四点展入選、樗牛賞をうけ、昭和18年同会々員となった。この間文展の招待出品作家となって信州風景を出品していた。戦後も、国展の他、毎日新聞社主催の連合展、現代日本美術展等に出品、没年迄活発に制作をつづけ46年長年勤務の武蔵野美術大学を定年退職し、翌年渡仏、同地で暫く制作の予定であったが、体の調子悪く10月に帰国、そのまま病床の人となり誕生日の2月22日逝去した。 略年譜明治34年 2月22日山形県米沢市に生れる。大正7年 米沢中学卒業後上京、川端画学校に入学、藤島武二に師事する。大正10年 日本美術院展に「海」を出品する。昭和12年 第1回春陽会展に出品。大正14年 10月、松山市の錦織物製造業大西熊吉次女、次枝と結婚。大正15年 国画会の創立に際し、梅原龍三郎のすすめで同会に出品するようになる。昭和4年 第4回国画会展に「河岸の丘」昭和7年 国画会々友となる。昭和13年 この頃信州を好んで安茂里などに毎春旅行し、高原、湖畔などの作品を数多くつくる。昭和16年 文展に出品。昭和18年 第18回国画会展に出品、国画会々員となる。昭和22年~28年 毎日新聞社主催連合展に「緑林」、「新緑」「山湖」「中国服の女」「画室」「風景」等出品。昭和29年 武蔵野美術大学教授となる。(46年退職)昭和31年~38年 現代日本美術展及国際美術展に「風景」「海浜の朝」「秋の道」等出品。昭和32年 米沢市より功績賞を受ける。昭和47年 渡仏昭和48年 2月22日没

初山滋

没年月日:1973/02/12

日本童画家協会会員・日本版画協会名誉会員の初山滋は、2月12日午後0時5分、肺炎のため東京・板橋区の日大板橋病院で死去した。享年75歳。明治30年7月10日東京浅草に生れた。本名繁蔵。浅草田原町田島小学校を卒業、まもなく染物屋に奉公、染物下絵で才能を示し、明治44年井川浩崖に弟子入りして風俗画や挿絵の指導をうけた。大正8年以後、北原白秋、浜田広介、小川未明らの児童文学興隆期に、その童謡・童話集の装釘、挿絵に幻想的抽象的な画風で名声を確立した。また、昭和5年頃から木版画の制作もはじめ、個展や日本版画協会展で作品を発表した。昭和35年には、スイス、ルガノ国際版画展に出品した。42年6月、童画「もず」(至光社絵本)で国際アンデルセン賞の国内賞を受けた。41年には紫綬褒章、45年には勲四等旭日小綬章を受けた。

團伊能

没年月日:1973/02/09

元東大教授で、美術史のほかにも幅広い活躍をした團伊能は、2月9日心不全に肺感染症を併発し、神奈川県横須賀市民病院で死去した。享年80歳。号疎林庵。宗鳥。明治25年2月21日福岡県大牟田市に團琢磨の長男として生れ、大正6年7月東京帝国大学文学部を卒業した。翌7年3月、宮内省嘱託として海外に留学、同10年8月帰国した。同年11月欧米視察実業団随員として外遊、翌年5月帰国した。大正12年4月東京帝国大学講師となり、美術史を講じ、昭和3年助教授となった。昭和8年5月同職を退官し、国際文化振興会に入り常務理事となった。その後、昭和13年にはパリ万国博覧会理事として渡仏し、また同15年にはニューヨーク万国博覧会日本事務総長として渡米した。戦後は、昭和21年5月貴族院議員、翌年引続き参議院議員となり、厚生政務次官をつとめた。同25年参議院議員再選となり、同年冨士精密工業KKの社長となった。そのほか、日本美術協会々長(29年)、国際文化振興会副会長(30年)、ブリジストンタイヤKK取締役、プリンス自動車会社々長、九州朝日放送会社々長を歴任した。勲二等瑞宝章、スエーデン勲二等。仏オフシエアカデミー章(昭3)、ニューヨーク名誉市民。イタリー・グランド・オフシエ勲章等受領(昭6)。著書―「伊太利美術紀行」(大正13年)、「概観欧洲芸術史」(昭和7年)。

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