本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





宮次男

没年月日:1994/02/20

読み:みやつぐお  日本美術史家で実践女子大学文学部教授の宮次男は2月20日午前9時30分、肺がんのため東京都田無市の病院で死去した。享年65。宮は昭和3年6月2日、三重県鈴鹿市南若松町で出生した。同28年3月、東北大学文学部東洋芸術史学科を卒業し、同29年5月同大学文学部助手となる。同30年9月に東京国立文化財研究所美術部技術員、同33年7月に文部技官に任官した。昭和35年5月には東京国立文化財研究所における共同研究「醍醐寺五重塔の壁画」で日本学士院恩賜賞を授賞した。同47年主任研究官となり、同52年には情報資料部に配置換となる。この年6月、「金字宝塔憂陀羅の研究」により東北大学より文学博士号を授与される。同53年4月には美術部第一研究室長に、さらに同57年4月には情報資料部長となる。同62年3月に東京国立文化財研究所を退官し、4月に実践女子大学文学部教授に就任する。宮の研究対象は日本中世絵画を中心とするが、その関心は多岐にわたっている。特に絵巻物研究では『日本絵巻物全集』への関与によってもたらされた幅の広さを基礎に、合戦絵・高僧伝絵・寺社縁起絵から御伽草子、奈良絵本や絵解き研究までも視野に入れ、数々の論考を残している。また日本中世期の代表的なジャンルと目される肖像画においても、前後をみわたした肖像画史をこころみるなど、先駆的な足跡を残している。しかし博士論文のテーマに代表される法華経をテーマとした仏教説話画研究への関心は、東北大学での思師故亀田孜教授への傾倒を示すかのように終始かわることはなく、宮の研究のパックボーンを形成している。晩年は十王経や「往生要集』に関わる絵画に関心を収斂させていたかに見うけられるが、その成果を世に問いはじめていた途上での逝去であった。美術史学会常任委員、民族芸術学会評議員をつとめた。東京国立文化財研究所名誉研究員。定期刊行物所載論文など1965年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌75-5、昭和41年5月)日本の合戦絵1 奥州十三年合戦絵巻(日本美術工芸333、昭和41年6月)日本の地獄絵(日本美術土芸335、昭和41年8月)日本の合戦絵2 源平合戦絵(日本美術工芸337 昭和41年10月)長谷寺縁起(古美術15 昭和41年11月)一遍聖絵の錯簡と御影堂本について(美術研究244、昭和41年12月)伊保庄本北野天神縁起(古美術18、昭和42年7月)後三年合戦絵巻(日本美術工芸348、昭和42年9月)調馬図巻(古美術20、昭和42年12月)図版解説 弥勅来迎図(美術研究250、昭和42年12月)後三年合戦絵巻をめぐる三、三の問題 上、下(美術研究251、254、昭和43年2月、昭和44年2月)「井田の法談」―一遍上人絵伝断簡―(古美術21、昭和43年3月)聖徳太子伝絵巻(古美術21、昭和43年3月)古画に見る笑い(日本美術工芸354、昭和43年3月)雷神の美術(日本美術工芸359、昭和43年8月)日本の地獄絵(古美術23、昭和43年9月)十王地獄変相(古美術23、昭和43年9月)時宗の絵巻(日本美術工芸362、昭和43年11月)善光寺如来絵伝(古美術24、昭和43年12月)目連救母説話とその絵画―日連救母経絵の出現に因んで―(美術研究255、昭和44年3月)亀田孜博士の学風とその研究業績(文化33-1、昭和44年7月)地蔵菩薩と目連尊者(日本美術工芸371、昭和44年8月)足利義尚所持狐草紙絵巻をめぐって(美術研究260、昭和44年9月)金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図私見(仏教芸術72、昭和44年10月)大和文華館蔵「一遍上人絵伝」断簡をめぐって(大和文華51、 昭和44年11月)拾遺古徳伝絵残欠(古美術28、昭和44年12月)1969年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌79-6、昭和45年6月)絵巻入門1~34(本美術工芸390~425、昭和46年3月~49年2月)善光寺如来絵伝(国華931、昭和46年3月)研究資料 長谷寺縁起上、下(美術研究275、276、昭和46年11月、12月)雪渓筆獅子・虎豹図屏風一双(古美術35、昭和46年12月)谷文晃筆一偏上人絵伝(古美術36、昭和47年3月)研究資料 公刊 長谷寺縁起 詞書(美術研究278、昭和47年3月)拾遺古徳伝絵巻残欠―浄土開宗の段―(古美術38、昭和47年9月)研究資料 西行物語絵巻 詞書公刊(美術研究281、昭和47年10月)永徳元年の一遍上人絵伝残欠(古美術39、昭和47年12月)一遍上人絵伝残欠(金光寺本)(古美術39、昭和47年12月)立本寺蔵 妙法蓮華経金字宝塔曼陀羅図について(美術研究282、 昭和47年12月)海北友雪筆徒然草絵巻(古美術40、昭和48年3月)『平治物語』諸本中における平治物語絵巻の位置(美術研究289、 昭和49年2月)地蔵霊験記絵巻について(仏教芸術97、昭和49年7月)中世絵巻の展望(MUSEUM284、昭和49年11月)弘法大師絵伝残欠(古美術47、昭和50年1月)矢取地蔵縁起について(美術研究298、昭和50年3月)東寺本弘法大師行状絵巻―特に第十一巻第一段の成立をめぐって―(美術研究299、昭和50年11月)お伽草子絵巻―その画風と享受者の性格(国文学解釈と教材の研究 22―16 昭和50年12月)説話と絵巻(文学45-1、昭和52年1月)歓喜天霊験記私考(美術研究305、昭和52年3月)古代・中世秘画絵巻考(アート・トップ39、昭和52年4月)1976年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌86-5、昭和52年5月)金字宝塔曼茶羅 上、中、下 ―ユニークな仏教説話図―(日本美術工芸467~469、昭和52年8月~10月)金字法華経絵について(金沢文庫研究257、昭和54年5月)お伽草子絵巻と奈良絵本(萌春291、昭和54年9月)御伽草子と土佐光信―鼠草紙絵巻考―美術研究313、昭和55年3月)絵巻物に見る日本仏教―餓鬼草紙を中心として―(東洋学術研究19-1 、昭和55年4月)鎌倉時代の美術 高僧伝絵と縁起絵(世界の美術(週刊朝日百科) )113 、昭和55年5月)文学と絵巻のあいだ(国語と国文学675、昭和55年5月)法華経の絵と今様の歌(仏教芸術132、昭和55年9月)国宝・伴大納言絵巻(解説)(芸術新潮374、昭和56年2月)芭蕉の風貌(太陽(別冊37)、昭和56年12月)日本の説話画(古美術61、昭和57年1月)日本の変相(国文学解釈と鑑賞47-11、昭和57年10月)中世人生絵巻(芸術新潮395、昭和57年11月)研究資料 白描西行物語絵巻(美術研究322、昭和57年12月)絵解き≪昭和五十七年度大会シンポジウム記録≫(説話文学研究18、昭和58年6月)宋・元版本にみる法華経絵(上) (下)(美術研究325、326、昭和58年9月、12月)八幡大菩薩御縁起と八端宮縁起 上、中、下(美術研究333、335、336、昭和60年9月、昭和61年3月、8月)研究資料 永福寺本遊行上人縁起絵(美術研究339、340、昭和60年9月)永福寺蔵遊行上人縁起絵巻(古美術77、昭和61年1月)妙法寺蔵妙法蓮華経金字宝塔曼荼羅について(美術研究337、昭和62年2月)八幡大菩薩御縁起と八幡宮縁起 附載一、二(美術研究339、340、昭和62年3月、11月)出相観音経の諸問題(実践女子大学美学美術史学4、平成1年3月)源平合戦図屏風 海北友雪筆(古美術92、平成1年10月)十王経絵について(実践女子大学美学美術史学5、平成2年3月)両界曼荼羅(古美術95、平成2年7月)和字絵入往生要集について(国文学研究資料館文献資料部・調査研究報告12、平成3年3月)十王経絵拾遺(実践女子大学美学美術史学7、平成4年3月)十王地獄絵(実践女子大学美学美術史学8、平成5年3月)博物館学と文化財(MUSEOLOGY12、平成5年4月)単行図書掲載文献類型より写実へ 鎌倉時代の肖像画(日本絵画館4、昭和45年3月、講談社)肖像画(原色日本の美術23、昭和46年6月、小学館)平治物語絵巻の絵画史的考察(新修日本絵巻物全集10、昭和50年11月、角川書店)蒙古襲来繪詞について(新修日本絵巻物全集10)「後三年合戦絵詞」について(日本絵巻大成15、昭和52年11月、中央公論社)鎌倉時代肖像畫と似繪(新修日本絵巻物全集26、昭和53年9月、中央公論社)中殿御會圖について(新修日本絵巻物全集26)法華經繪巻について(新修日本絵巻物全集25、昭和54年6月、中央公論社)在米の弘法大師伝絵巻について(原色日本の美術27在外美術 、昭和54年7月、中央公論社)遊行上人縁起繪の成立と諸本をめぐって(新修日本絵巻物全集23、昭和54年9月、中央公論社)中世絵画の誕生(日本美術全集10、昭和54年9月、学習研究社)絵巻物(日本美術全集10)大画面による説話画(日本美術全集10)肖像画(日本美術全集10)駒競行幸繪巻(新修日本絵巻物全集17、昭和55年1月、学習研究社)小野雪見御行繪巻(新修日本絵巻物全集17)なよ竹物語繪巻(新修日本絵巻物全集17)宗俊本遊行上人縁起繪諸本略解(新修日本絵巻物全集23)極楽再現(日本古寺美術全集15、昭和55年3月、集英社)槻峯寺建立修行縁起について(新修日本絵巻物全集別巻1 、昭和55年11月、集英社)八幡縁起繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2、昭和56年2月、集英社)天稚彦草子繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2)鼠草紙繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2)祖師像と祖師伝絵巻(日本古寺美術全集21、昭和57年5月、集英社)妙心寺の肖像と頂相(日本古寺美術全集24、昭和57年9月、集英社)浄土教の絵画(全集日本の古寺8、昭和59年8月、集英社)高僧・祖師伝絵(全集日本の古寺4、昭和60年6月、集英社)縁起絵について―中世の社寺縁起を中心に―(全集日本の古寺5 、昭和60年7月、集英社)わが国の仏教説話絵(全集日本の古寺15、昭和60年5月、集英社)単行図書日本の美術56(昭和46年1月、至文堂)日本の地獄絵(昭和48年10月、芳賀書店)日本の美術33(昭和50年5月、小学館)金字宝塔曼荼羅(昭和51年3月、吉川弘文館)合戦絵巻(昭和52年11月、角川書店)日本絵巻大成15(昭和52年11月、中央公論社)日本の美術146(昭和53年7月、至文堂)絵巻と物語(昭和57年11月、講談社)日本の美術203(昭和58年4月、至文堂)日本の美術271(昭和63年12月、至文堂)

町田甲一

没年月日:1993/10/05

美術史家で、武蔵野美術大学名誉教授の町田甲一は、10月5日午後8時脳内出血のため東京都多摩市の天本病院で死去した。享年76。大正5年12月9日、東京市麹町区で生まれる。父は文・帝展で活躍した日本画家町田曲江。昭和11年3月東京府立第三中学校を病気のため二年遅れで卒業し、同年4月姫路高校へ進む。その卒業直前の昭和15年3月、治安維持法違反の疑いで検挙され(神戸詩人事件)、神戸橘拘置所などに18ケ月の長きにわたって拘禁された。昭和17年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し児島喜久雄に師事する。自身が述べるように(「めぐりあい-児島喜久雄先生のこと-」)、町田の美術史学の基礎をなす方法論は、師からの多大な影響のもとに形成された。昭和19年9月、同大学同学科を卒業し大学院へ進み、昭和21年9月には大学院在籍のまま長尾美術館へ勤務する。昭和22年12月、『天平彫刻の典型』(座右宝刊行会)を出版。昭和23年10月から東京大学大学院特別研究生。昭和24年3月、病気により長尾美術館を退職。翌年4・5月には胸部成形手術をうけ、以後昭和27年夏まで療養生活が続く。昭和28年4月東京教育大学講師、翌年4月助教授となる。昭和30年4月、『東洋美術史要説』上巻(深井晋司と共著、吉川弘文館)を刊行。また、同年12月、薬師寺金堂薬師如来像の調査をおこない、その成果を『薬師寺』(実業之日本社、昭和35年5月刊)として上梓する(後の昭和59年には、同書の改訂版がグラフ社から刊行される)。昭和30年から美術史学会常任委員(昭和55年まで)。昭和39年インドマハーボディ・ソサエティの招きにより渡印。昭和41年訪中。昭和43年、東京教育大学教授。この間、お茶の水女子大学、学習院大学、武蔵野美術大学、明治大学、東京大学等で講師を勤める。『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店刊、第2巻法隆寺二・第3巻法隆寺三・第6巻薬師寺・第14巻西大寺責任編集)の刊行が、昭和43年より始まる(昭和48年完結)。同書は、町田が編集委員代表として推進し、建築・美術の写真・解説・文献を可能な限り網羅した奈良美術史・建築史研究の基本資料であり、その意義は今日なお失われていない。また、この企画は町田の意向によって若手を中心とする多くの研究者を結集して進められた点でも画期的なものであった。昭和49年4月、名古屋大学教授。昭和52年には武蔵野美術大学教授となり、同62年に同大学名誉教授となる。平成4年勲三等瑞宝章受章。町田は、生涯一貫して、芸術としての仏像の追究に情熱を注ぎ続けた。その方法論は、リーグル、ヴォリンガー、あるいはヴェルフリンの理論に基づく自律的様式史観を前提としており、それを日本古代彫刻の様式区分論として展開させた一連の論考をあらわした(「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」他)。また、薬師寺移建・非移建問題においては様式論の観点から積極的に論陣を張り、天平「様式の父」としての金堂薬師寺三尊像の意義を繰り返し主張した。これらの論考は、論理性の希薄な従来の造形論から大きな飛躍を示し、その後の彫刻史研究に大きな影響を与えた。その他、人・芸術・文化に対する想いや自伝的内容を綴った随筆も多数残し、『仏像の美しさに憑かれて』(保育社、1986)、『仏教美術に想う』(里文出版、1994)などに収載されている。また異色な著作に、自身の体験を基に太平洋戦争前夜の高校生活を描いた小説『鷲城下にかげる』(神保出版会、1994)がある。同書には詳細な年譜・著作目録が付されており、また町田甲一先生古希記念会論『論叢仏教美術史』(吉川弘文館、1986)の巻末には論文を含んだ主要著作目録がある。 ○その他の主要編著書概説日本美術史 吉川弘文館 1965日本古代彫刻史概説 中央公論美術出版 1974東大寺法華堂の乾漆像(奈良の寺15) 岩波書店 1974奈良古美術断章 有信堂 1975大和古寺巡歴 有信堂 1976上代彫刻史の研究 吉川弘文館 1977古寺巡歴 保育社 1982仏像イコノグラフィ(岩波グラフィックス8) 岩波書店 1983南無仏陀-仏教美術の図像学- 保育社 1986法隆寺(増訂新版) 時事通信社 1987概説東洋美術史 国際書院 1989仏の道-仏像の歩みの歴史と広がり- 同朋舎出版 1990芸術(中国文化叢書7)(鈴木敬と共著) 大修館書店 1971市川市史1~7 吉川弘文館 1971~1974奈良の寺1~21 岩波書店 1973~1975大和古寺大観1~7(第1巻法隆寺・法輪寺・中宮寺責任編集) 岩波書店 1976~1978日本美術小事典(永井信一と共編) 角川書店 1979

米澤嘉圃

没年月日:1993/07/29

読み:よねざわよしほ  東洋美術史家で、東京大学名誉教授、武蔵野美術大学名誉教授、元武蔵野美術大学長、国華社主幹の米澤嘉圃は、7月29日午前8時15分、肝機能障害による呼吸不全のため、東京都新宿区の慶応大学病院で死去した。享年87。明治39年6月2日、父万陸、母貴勢子の長男として、秋田県鹿角郡にて出生、芳男と命名された。4人の姉がある。幼年は、鉱山技師であった父の転勤にともない、秋田・東京・茨城・大分・東京と居を移し、大正13年3月、曉星中学校を卒業。つづいて昭和2年3月、福岡高等学校を卒業後、病弱のため一年浪人し、3年4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科へ入学した。かつて内藤湖南の父十湾の弟子であった板橋忠八に漢詩を学び、書画を愛蔵していた父万陸の文人趣味が、美術史学を専攻する機縁となった。6年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業後、同年4月より、東京帝国大学文学部副手となり、同時に同文学部大学院へ進んだ。同年6月、父万陸の死去にあたり芳男を嘉圃と改名している。この間、大学において教授瀧精一の指導をうけ、7年、処女論文「狩野正信の研究」を『国華』に発表した。8年5月、文部省重要美術品等鑑査事務嘱託となり、著名な収集家の所蔵品を調査して鑑識眼を養い、10年6月、東方文化学院助手に迎えられる。この頃「田能村竹田と蘐園学派」を『国華』に発表したが、直載な鑑識と画家の精神の洞察とが遊離しない米澤の美術史学の形成を知る。この間、8年3月に、父に続いて母を失う。9年2月、加藤信子と結婚。以後、二男一女をもうけるが長男長女を幼少で失った。東方文化学院助手となって以降、中国絵画研究に本格的に没入し、13年3月、東方文化学院研究員となり、この間、中国上代の作画機構や絵画思想に関する多くの論文を『東方学報(東京)』・『国華』等に発表。15年9月から11月には、初めて中国各地(大連・奉天・北京・大同)と朝鮮を視察し、山西の高地で眼にした黄土景観に感慨をうけ、風土と美術との関係に思索を深める端緒となった。17年10月、『国華』の編集員となり、戦後、東方文化学院が経済的基盤を失うと、23年4月、結城令聞・窪徳忠とともに、東京大学東洋文化研究所研究員へ転じ、27年10月、文部技官を併任し、40年5月まで東京国立文化財研究所美術部に研究員として所属した。24年5月以降、東京大学教授を併任し、さらに美術史学会設立に関わり常任委員となった。東大教授、『国華』編集委員、美術史学会常任委員として、以後、長きにわたって、東アジア全般の美術の動向を視野におさめた数々の論文と作品紹介を『国華』を中心に発表し、戦後における東洋・日本の美術史研究を領導した。42年3月、東大を定年退官するまで、国内はもとより海外における中国絵画の調査も精力的に実施し、35年5月から6月にかけて東洋文化研究所研究員の鈴木敬・川上涇とともに台湾を訪問、当時、台中にあった故宮博物院の所蔵絵画約1500件(約5000点)を調査し、37年には、戦後はじめて、中華人民共和国の招待をうけ、美術史研究者団(長広敏雄・藤田経世・宮川寅雄・吉沢忠・米澤嘉圃)を組織し団長として訪中、12月から翌1月まで、北京故宮博物院をはじめ、上海・南京・西安・広州の各博物館で、中国絵画を調査し、各地の国立美術学院を視察した。41年5月から6月、再度、中華人民共和国を訪問し、南京・蘇州・上海・杭州を巡礼し調査し、同年9月から10月、日本経済新聞社の企画する北斎展に随行し、モスクワ・レニングラードに滞在、モスクワでは雪舟と文人画について二度にわたり講演した。この間、東京大学文学部、東京大学教養部、金沢大学文学部、名古屋大学文学部で教鞭をとって後進の指導にあたり、講談社『世界美術体系』の中国美術編を編集して中国美術の啓蒙につとめている。学会関係としては、美術史学会常任委員のほか、27年4月から44年10月まで、日本学術会議東洋学研究連絡委員会委員、36年から晩年まで東方学会評議員をつとめ、とくに37年から41年まで、美術史学会代表として指導力を発揮した。42年3月、東京大学を定年退官し、同4月から武蔵野美術大学教授をつとめた東京芸術大学でも教鞭をとった。同5月に東京大学名誉教授となる。44年7月には武蔵野美術大学学長代行、49年4月より同大学評議員となり、53年3月、同大学を定年退職した。同6月、武蔵野美術大学名誉教授となる。退職後も人望あつく、同12月、武蔵野美術大学ならびに武蔵野美術短期大学の学長に迎えられ、学校法人武蔵野美術大学理事となって学校の運営に携わっている。この間、42年8月から9月、アメリカ、ミシガン大学で開催された第27回東洋学者会議へ出席し、石濤について発表、鈴木敬とともにアメリカ各地の美術館・個人コレクションを調査したほか、48年8月~9月、欧州を旅行し、パリのチェルヌスキー美術館、ストックホルム極東美術館等、各地の美術館を訪れた。執筆活動も盛んで『国華』を中心に数々の論文と作品紹介を発表するとともに、朝日新聞社刊行の『東洋美術』、小学館刊行の『原色日本の美術』、講談社刊行の『水墨美術体系』、小学館刊行の『名宝日本の美術』等、主な美術全集の編集委員・監修者として尽力し、学問の啓蒙につとめている。文化財行政にも大きく寄与し、25年12月、文化財専門審議会、文化財保護審議会(改正後)の専門委員(絵画彫刻部長)、47年7月、高松塚総合学術調査会委員、同11月、東京国立博物館評議会評議員、55年11月、文化財保護審議会委員などの要職を歴任し、長らく国宝・重要文化財の指定に深く関与している。52年4月、勲二等旭日中綬章をうけた。52年8月、国華主幹となって以降、平成元年の『国華』創刊百年記念事業の実現に老齢を省みず尽力し、『国華論攷精選』上・下巻の出版、「室町時代の屏風絵展」(於東京国立博物館)の開催、「特輯東洋美術選」上・下(『国華』1127~28号)、「国華賞」の創設を果たし、新たに明治美術を『国華』掲載の対象とする指針を定めた。米澤の研究対象は、中国古代より現代までの絵画全般から朝鮮・日本の絵画におよび、文献を駆使した基礎研究を徹底して行う一方で、それまでの作品から遊離した高踏的な美学や画家の系統論に終始していた中国絵画史を、作品の実査と鋭い鑑識にもとづいて再検証し、実証的な近代学としての水準に高めた功績はきわめて大きい。具体的な形の変化に中国美学の最高理念をなす気韻論の変遷をあとづけながらも、作品分析の隘路に陥ることのない米澤の統一的視点に立った実証的研究は、近代における西洋美術の方法論を直接的に応用する試みと一線を画している。共感をもって語られる画家の精神の洞察と中国の自然や風土への深い見識こそが、『国華』誌上における膨大な数の優れた作品紹介とともに、その研究を支える母胎であった。唐代の画家呉道玄や明清の文人画家、南宋の繊細な絵画への愛着は、豪放磊落かつ繊細な審美眼をあわせもつ米澤の人柄を偲ばせる。日本美術についても東アジアを視野におさめた広い観点から検証する必要性を唱え、今日における研究動向の指針となっている。以下、主要著作と主要論文を年代順に掲載する。主要論文はすべて『米澤嘉圃美術史論集』に収録されている。米澤の執筆全般については『米澤嘉圃美術史論集(下巻)』に附す戸田禎佑編「著作目録」がある。尚、武蔵野美術大学美学美術史研究室米澤先生の喜寿を祝う会編「米澤嘉圃先生年譜・業績目録」も参照されたい。 主要著作『中国絵画史研究(山水画論)』(東洋文化研究所、昭和36年3月)(平凡社、昭和37年)『世界美術体系 8 中国美術』編集(講談社、昭和38年12月)『世界美術体系 10 中国美術』編集(講談社、昭和40年5月)『東洋美術 1 絵画 1』共編(朝日新聞社、昭和42年4月)『東洋美術 2 絵画 2・書』共編(朝日新聞社、昭和43年8月)『水墨画』(原色日本の美術11)共著(小学館、昭和45年4月)『請来美術(絵画・書)』(原色日本の美術29)共著(小学館、昭和46年9月)『八大山人・揚州八怪』(水墨美術体系11)共著(講談社、昭和50年5月)『白描画から水墨画への展開』(水墨美術体系1)共著(講談社、昭和50年12月)『米澤嘉圃美術史論集(上)巻』(国華社、平成6年6月10日)『米澤嘉圃美術史論集(下)巻』(国華社、平成6年6月10日)主要論文狩野正信の研究『国華』494・495・496号(昭和7年1・2・3月)田能村武田と蘐園学派『国華』540・541・542号(昭和10年11・12月、11年1月)東洋画の画布(Bildtafel)の形成に就いて『国華』654・655号(昭和21年9・10月)中国近世絵画と西洋画法『国華』685・687・688号(昭和24年4・6・7月)費丹旭筆美人図について『国華』701号(昭和25年8月)李蝉の花卉画冊に就て-揚州八怪論-『国華』722号(昭和27年5月)張風とその芸術 『大和文華』18号(昭和31年1月)中国古代における顔料の産地東京大学『東洋文化研究紀要11冊』(昭和31年11月)中国の美人画平凡社『中国の名画-中国の美人画』(昭和33年5月)李迪の生存年代についての疑問『国華』804号(昭和34年3月)長谷川等伯筆松林図の画風について『国華』814号(昭和35年1月)中国絵画史における持続と変化-序にかえて-講談社『世界美術体系(8)中国美術1』(昭和38年12月)禹之鼎筆楽春園図巻 『国華』870号(昭和39年9月)中国絵画の歩み講談社『世界美術体系(10)中国美術3』(昭和40年5月)書法上からみた石濤画の基準作『国華』913号(昭和43年4月)李森筆鬼子母劫鉢図巻について『国華』921号(昭和43年12月)東アジアにおける群像表現『国華』963・968号(昭和48年11月、49年5月)中国古代説話画の表現方法岩波書店『文学』42~48号(昭和49年)徐渭と八大山人講談社『水墨美術体系11』(昭和50年5月)漢代彫刻の動態表現 『国華』1000号(昭和52年8月)中国の金銀泥画朝日新聞社『光悦書宗達画金銀泥絵』(昭和53年3月)寒林山水図屏風覚書 『国華』1042号(昭和56年5月)現代中国美術の群像表現-莊兆和作難民図の場合-『国華』1051号(昭和57年5月)能阿弥画をめぐって 『国華』1060号(昭和58年2月)黄土の思出-その色と形-『国華』1076号(昭和59年9月)雲中麒麟図(絵紙)-呉道子の画風を偲んで-『国華』1078号(昭和59年12月)気韻生動考 『国華』1110号(昭和63年1月)中国古代の画魚 『国華』1127号(平成元年10月)正倉院の山水画をめぐる諸問題『国華』1137号(平成2年8月)気韻生動の源流を探る-「古代」分期への試み-『国華』1142号(平成3年1月)唐代における「山水の変」 『国華』1160号(平成4年7月)中国絵画における詩的表現『国華』1168号(平成5年3月)中国古代における器物の図形-「空間構成」『国華』1171号(平成5年6月)上林苑闘獣図の画風-書と画の筆法-『国華』1178号(平成5年11月)

菅沼貞三

没年月日:1993/02/20

読み:すがぬまていぞう  常葉美術館名誉館長、美術史家菅沼貞三は、心不全のため静岡県藤枝市立志太総合病院で死去した。享年92。明治33年12月11日静岡県小笠郡に生まれる。大正15年3月慶応義塾大学文学部美学美術史科を卒業し、同年11月より昭和3年4月まで京都帝国大学附属図書館嘱託勤務。昭和5年1月には開設をひかえた、東京国立文化財研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所の職員に採用され、同年6月より助手を勤めた。その後、嘱託を経て同18年4月美術研究所所員に任官した。同23年12月に研究所を退官するまで機関誌『美術研究』に健筆を揮い、同7年1月の創刊号より数多くの研究成果を公表した。退官後、静岡大学教育学部(同26年)、愛知大学文学部(同28年)非常勤講師などを経て、同36年4月慶応義塾大学文学部助教授、翌37年4月同大学文学部教授となり、同44年3月定年退職した。この間、同30年6月より同43年まで大和文華館研究員嘱託となり、同館の刊行する『大和文華』誌上に多くの論考を発表した。同45年4月愛知学院大学教授。同48年4月には常葉学園短期大学客員教授となって、同53年3月愛知学院大学を定年退職すると翌4月より常葉美術館名誉館長の職に就いた。また、昭和35年慶応義塾大学より文学博士の学位を得、静岡県文化財保護審議会委員(同27年3月より58年12月)、東京都文化財専門委員(同43年8月より46年7月)を勤めた。 美術研究所時代より文人画を中心に日本の近世絵画の研究を進めた。とくに郷里と縁の深い渡辺崋山の研究の基礎を確立して大きな功績をあげた。没後150年を記念して『定本・渡辺崋山』(全3巻、郷土出版社、平成3年)が常葉美術館の編集によって刊行されたが、崋山研究の基礎資料を集大成した本書に監修者・執筆者として参画したのが菅沼の最後の大きな仕事になった。主要論文「大雅の二作解説」(「三田文学」16-10、昭和4)「崋山の花鳥画」(「三田文学」17-11、昭和5)「狩野修理筆絵馬図-京都・妙法院蔵」(「美術研究」1、昭和7)「海北友松筆松竹梅図-京都・禅居庵蔵」(「美術研究」5、昭和7)「阿弥陀如来像-東京・八橋徳次郎氏蔵」(「美術研究」6、昭和7)「狩野探幽筆草木花写生図-東京帝室博物館蔵」(「美術研究」8、昭和7)「須菩提像・阿修羅像-奈良・興福寺蔵」(「美術研究」11、昭和7)「尾形光琳筆梅図-東京・津軽義隆氏蔵」(「美術研究」14、昭和8)「扇面古写経-滋賀・西教寺蔵」(「美術研究」16、昭和8)「崋山の肖像画」(「美術研究」18、昭和8)「なよ竹物語絵巻に就て」(「美術研究」24、昭和8)「長春の作品に就て」(「美術研究」28、昭和9)「金銅仏四躯-大阪・観心寺蔵」(「美術研究」32、昭和9)「応挙筆写生図巻-京都・西村総左衛門氏蔵」(「美術研究」34、昭和9)「正宗寺の蘆雪筆襖絵」(「美術研究」36、昭和9)「観蘭亭の障壁画」(「美術研究」39、昭和10)「金地院茶室の襖絵」(「美術研究」44、昭和10)「文晁筆公余探勝図に就て」(「美術研究」47、昭和10)「上杉重房像-神奈川・明月院蔵」(「美術研究」48、昭和10)「蕭白筆柳下鬼女図-東京美術学校蔵」(「美術研究」53、昭和11)「等伯筆猿猴図-京都・龍泉庵蔵」(「美術研究」56、昭和11)「法然上人像-茨城・常福寺蔵」(「美術研究」57、昭和11)「椿山筆中戸祐喜像-神奈川・鈴木八重氏蔵」(「美術研究」62、昭和12)「舞踏図-東京・梅原龍三郎氏蔵」(「美術研究」63、昭和12)「崋山筆于公高門図-新潟・中野忠太郎氏蔵」(「美術研究」64、昭和12)「椿山筆高久靄厓像-静岡・大谷喜太郎氏蔵)(「美術研究」65、昭和12)「弥勒菩薩像-大阪・野中寺蔵」(「美術研究」65、昭和12)「桜間清厓」(「美術研究」67、昭和12)「崋山の肖像画法に就て」(「南画鑑賞」6-7、昭和12)「大雅の三丘紀行」(「美術研究」73、昭和13)「光琳筆藤原信盈像に就て」(「美術研究」76、昭和13)「崋山筆滝沢琴嶺像」(「美術研究」83、昭和13)「光琳筆肖像画余談」(「星岡」97、昭和13)「崋山筆虫魚帖」(「美術研究」86、昭和14)「後藤祐乗画像を中心として」(「美術研究」95、昭和14)「椿山の肖像画」(「美術研究」100、昭和15)「崋山晩期の作品」(「美術研究」107、昭和15)「崋山の守困日歴(公刊)」(「美術研究」107、昭和15)「崋山覚書」(「塔影」17-1、昭和16)「崋山の特質」(「東美」7、昭和16)「崋山の守困日歴1~4」(「三田評論」520~523、昭和16)「続崋山の肖像画」(「美術研究」114、昭和16)「崋山の四州真景」(「美術研究」120、昭和16)「田原藩御日記抄について」(「南画鑑賞」11-7、昭和17)「崋山初期の作品」(「美術研究」129、昭和18)「崋山中期の作品」(「美術研究」132、昭和18)「崋山とその弟子椿山」(「清閑」16、昭和18)「光琳肖像考」(「芸文研究」1、昭和26)「光琳筆中村内蔵助像」(「大和文華」5、昭和27)「崋山の四州真景図」(「MUSEUM」28、昭和28)「崋山の人物素描画」(「大和文華」12、昭和28)「椿山の山海奇賞」(「国華」758、昭和30)「崋山筆証如上人画像」(「大和文華」17、昭和30)「北小路大膳大夫像」(「大和文華」18、昭和31)「婦人像解説」(「大和文華」24、昭和32)「黄檗の大雅」(「南画研究」2-3、昭和33)「禅宗画の本質」(「史学」30-4、昭和33)「松平定吉画像」(「大和文華」26、昭和33)「植松家の応挙と大雅」(「大和文華」30、昭和34)「絵馬風俗図解説」(「大和文華」32、昭和35)「崋山の于公高門図稿」(「三彩」124、昭和35)「駿牛図解説田中親美氏蔵」(「大和文華」35、昭和36)「十二月風俗図考」(「大和文華」37、昭和37)「大雅画禅の説」(「哲学」三田哲学会、46、昭和40)「自性寺の大雅堂」(「墨美」154、昭和40)「大雅研究序説」(「美学」65、昭和41)「山陽著賛の木米作画」(「大和文華」47、昭和42)「文人画の研究」(「美学」75、昭和43)「竹田の亦復一楽帖」(「哲学」三田哲学会、53、昭和43)「竹田の船窓小戯帖」(「芸文研究」29、昭和45)「崋山筆毛武遊記図巻-桐生付近素描図巻-」(「大和文華」73、昭和60)「大雅の「三丘紀行」-三老遊境想像にするにたえたり」(「墨」60、昭和61)主要著書『崋山の研究』座右宝刊行会、昭和22(木耳社より複刊、昭和44)『崋山』中日新聞社、昭和37『池大雅-人と芸術』二玄社、昭和52『渡邊崋山』(日本の美術162)至文堂、昭和54『渡邊崋山-人と芸術』二玄社、昭和57

今泉元佑

没年月日:1993/02/18

社団法人・日本陶磁協会監事の古陶磁研究家今泉元佑は2月18日午後1時9分、急性心不全のため東京都大田区の東急病院で死去。享年86。明治39(1906)年5月26日、佐賀県西松浦郡有田町に第11代今泉今右衛門の三男として生まれる。本名吉郎。早稲田大学第二高等学院を中退。備前の古陶磁のほか、特に古伊万里、鍋島、古九谷等の資料収集、研究を行った。家業の今泉商会に勤務する一方、昭和53年に古伊万里鍋島研究所を設立。著書に『眼の勝負』(昭和38年 徳間書店)、『色鍋島と松ケ谷』(同44年 雄山閣)、『日本の名陶 古伊万里と柿右衛門』(同45年 雄山閣)、『陶磁大系 鍋島』(同47年 平凡社)、『初期有田と古九谷』(同49年 雄山閣)、『日本のやきもの 鍋島』(同50年 講談社)、『初期鍋島と色鍋島』(同61年 河出書房新社)、『古伊万里と古九谷』『古伊万里の染付』(双方とも同62年河出書房新社)、『日本陶磁大系 鍋島』(平成2年 平凡社)等がある。

倉田三郎

没年月日:1992/11/30

東京学芸大学名誉教授の美術教育者、洋画家の倉田三郎は、11月30日心不全のため東京都武蔵野市の武蔵野赤十字病院で死去した。享年90。INSEA(国際美術教育学会)第4代会長をつとめるなど美術教育に功績のあった倉田は、明治35(1902)年8月21日東京市牛込区に生まれた。東京府師範学校(青山師範学校)本科を経て、東京美術学校師範科へ進み、大正15年卒業した。在学中から中央美術展、二科展等に出品、同13年からは春陽会展に出品を続け、また、同年麓人社同人画会を結成した(昭和9年解散)。卒業の年、愛媛県師範学校教諭となり赴任、二年後に東京府立第二中学校へ転じた。昭和11年、第11回オリンピック・ベルリン展へ出品、同年春陽会会長に挙げられる。戦後は同24年東京学芸大学教授に就任、以後、美術教育における中心的存在として活躍し、同33年のバーゼル第10回国際美術教育会議日本代表をつとめたのをはじめ、美術教育に関わる国際会議及び研究のため約40カ国を歴訪した。一方、文部省の教材等調査研究中高委員、教育教員養成審議会委員、大学設置審議会専門委員などの政府委員も歴任した。同41年、東京学芸大学を定年退官し同大学名誉教授の称号を綬与され、また、同年のプラハ国際美術教育会議において、INSEA会長に選出された。この間、制作発表は春陽会展の他、九夏会(昭和9年結成)、個展等において行なった。同57年、多摩信画廊で「倉田三郎画業60年傘寿記念展」が、同62年には青梅市立美術館で「倉田三郎代表作展」が、平成3年にはたましん歴史・美術館開館記念「倉田三郎展」がそれぞれ開催された。著書に『バルカン素描』(昭和31年)、『造形教育大辞典』(編著、同32年)、『木村荘八・人と芸術』(同54年)などがあり、美術教育に関する論文も多数ある。

山崎構成

没年月日:1992/10/17

都立科学技術大学名誉教授でからくり人形研究で知られた山崎構成は、10月17日午後1時25分、脳しゅようのため、東京都港区の慈恵医大病院で死去した。享年79。大正元(1912)年11月13日、京都市下京区に生まれる。本名久松。昭和13(1938)年上智大学文学部を卒業し、同26年から人形劇の調査研究を行なった。日本だけでなく、オランダ、スイス、西ドイツ、フランス、イタリアの人形戯を調査し、各国のからくり人形、人形戯を比較研究し、ミュンヘン市立人形劇博物館、ボフム人形劇協議会、西ベルリン人形劇団等に招聘されて講演を行なった。また、同52年日本演劇学会河竹賞を受賞。著書に『曵山人形戯 現状と研究』(東洋出版)、『曵山の人形戯』(東洋出版)等があり、自ら「茶運人形」「綾渡り人形」「闘鶏」「魚釣人形」等のからくり人形を制作した。

重森弘淹

没年月日:1992/10/13

武蔵野美術大学教授、東京総合写真専門学校長の写真評論家重森弘淹は10月13日午前7時15分、心不全のため東京都大田区の東邦大学大森病院で死去した。享年66。大正15(1916)年7月27日、岡山県上房郡に生まれる。昭和19(1944)年京都府立桃山中学校を卒業し、同21年同志社大学文学部に入学するが同23年4月に中退。同25年8月から月刊誌「いけばな芸術」の編集に従事。同30年6月上京し、この頃から安倍公房らが結成した「夜の会」に参加。同年より写真評論を始める。同32年多摩美術大学講師となり写真理論を講じ、翌年より武蔵野美術大学講師を併任。同33年9月東京フォトスクールを創立する。同41年、同校を学校法人写真学園東京総合写真専門学校と改め、同校理事長、校長を兼任した。同48年写真評論誌「写真批評」を創刊。同49年日本映像学会の設立に参加。同55年多摩美術大学ならびに武蔵野美術大学客員教授となったが、平成2(1990)年に武蔵野美術大学に映像画科を新設するのに伴って同科教授となり多摩美術大学を退いた。東松照明、奈良原一高らを早くから紹介するなど写真界の若手育成に尽くしたほか、北海道東川町国際写真フェスティヴァル等の審査員をつとめるなど、写真芸術の振興に寄与した。著書に『現代の写真』(社会思想社)、『広告写真を考える』(誠文堂新光社)、『写真芸術論』(美術出版社)、『現代のいけばな』(八阪書房)等がある。

林良一

没年月日:1992/10/02

筑波大学名誉教授の美術史家林良一は10月2日午前10時30分、肺炎による呼吸不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年74。大正7(1918)年4月24日、東京都港区に生まれる。昭和27(1952)年3月、東京大学文学部美学美術史学科を卒業。同32年3月東大大学院特別研究生を修了し、同年9月より多摩美術大学講師、同33年4月より日本大学芸術学部講師となった。同42年3月まで日大で教鞭をとる一方、同35年には東京教育大学講師、同38年には明治大学講師をつとめた。東西美術交渉史を専門とし、同37年8月に美術出版社から「シルクロード」を刊行、同書は翌38年に日本エッセイスト・クラブ賞を受けた。同42年東京教育大学講師となり、以後同大で教鞭をとり続けた。文様史、正倉院の研究でも知られ、『シルクロードと正倉院』(平凡社)をも著している。

油井一二

没年月日:1992/07/21

読み:ゆいいちじ  美術年鑑社社長で美術品蒐集家でもあった油井一二は、7月21日午後7月18分、肝不全のため東京都渋谷区の東海大学病院で死去した。享年82。明治42(1909)年10月30日、長野県北佐久郡に生まれる。大正13(1924)年三井尋常小学校高等科を卒業し、家業の自作農を継ぐが、昭和3(1928)年肋膜炎を患い、療養中に上京を決意。同年5月に上京して神東電業社を経営する義兄のもとで働きつつ、電気学校の夜間部で学んだ。同6年末、東亜美術協会に絵画の出張販売員として入社。同7年釜山、京城などに出張するが、同年4月、仕事に行き詰りを感じて東亜美術協会を退社する。その後、証券会社等へ転職を試みたのち、同8年1月、東洋美術協会に外交員として入社し再び絵画販売に従事する。同9年6月、荒井辰之助、清水栄一郎と共同出資し、日東美術協会を創立。以後、中国東北部、朝鮮半島、台湾等まで販路を広めた。同12年より14年まで、日中戦争に従軍し、同14年10月、日東美術協会を独力で再開。同16年11月、東京・上野広小路に美術店を開いた。戦後、同22年、肖像画の制作依頼を業務の一環として始めた。同23年、山田正道から「美術年鑑」復刊の相談を受け出資。同25年鉄販売、同28年人造米製造などを試みるが、同29年武者小路実篤の助言を得て再び絵画販売を始め、現代日本画を中心に販路を開いて成功をおさめた。同40年「美術年鑑」の権利を創刊者山田正道から買いとり、同年株式会社美術年鑑社を設立してその代表取締役社長となった。同46年「新美術新聞」を創刊。出版、絵画販売の一方で蒐集した作品の一部は郷里佐久市に寄贈し、同58年に開館した佐久市立近代美術館は、約780点の油井コレクションを母体としている。同館には平成2年に油井一二記念館が併設され、没後の同5年7月、同館で「開館10周年記念展「近代日本美術の流れと油井コレクション」が開催された。著書に『美の宝庫』(昭和51年、美術年鑑社)、自伝『風呂敷画商一代記』(同63年)、続風呂敷画商一代記『片目の達磨』(平成2年)等がある。

三宅正太郎

没年月日:1992/04/29

帝京大学教授の美術史家三宅正太郎は4月29日午前3時46分、肺炎のため東京都板橋区の帝京大学病院で死去した。享年84。美術評論にも筆をふるった三宅は、明治40(1907)年10月2日、父の任地であった鹿児島市に生まれた。東京新宿区の余丁町小学校、府立第四中学校、浦和高等学校を経て、昭和2(1927)年東京大学文学部に入学。美学美術史学科に学んで、同5年卒業する。同7年読売新聞社学芸部に入り、同16年上海総局主任、同19年広東総局長を経て、サイゴン支局長を歴任。同21年読売新聞社を退いて新聞三社連合事務局主事となった。同40年2月、同局を退き、同年3月より跡見学園短期大学教授となる。同50年帝京大学教授となった。近現代美術を主に論じ、著書に『横顔の作家たち』(新自由社 昭和22年)、『作家の裏窓』(北辰堂 同30年)、『パリ留学時代』(同35年)、『画壇』(同39年)、『現代美術の東と西』(同48年)、『回想の画家達』(同61年)等がある。日本ペンクラブ、美術評論家連盟にも属した。

ジョセフ・ラヴ (Joseph Love)

没年月日:1992/04/15

読み:じょせふらぶ  元上智大学文学部教授で、西洋美術、現代美術評論を執筆する一方、墨絵や木版画の制作にもあたったジョセフ・ラヴは、4月15日午後8時58分、急性肺炎のため、東京都多摩市の病院で死去した。享年62。1929年8月1日、アメリカ、マサチューセッツ州ウースターに生まれる。同56年ボストン大学神学部修士課程を修了し、同年イエズス会士として来日。64年に上智大学神学部修士課程を修了。67年にはアメリカ、コロンビア大学美術史科修士課程を修了した。後、再来日し、89年まで上智大学で美術史を教えた。現代美術評論もよくし雑誌「美術手帖」等に執筆。木版画や墨絵を制作する作家でもあり、61年の米国ワシントンD・Cにあるコーコラン美術館での個展をはじめ、66年ニューヨークのアロンゾ・ギャラリー、71年サンタ・クララのディセセット美術館、73年オーストラリア・シドニーのボニソン・ギャラリー等各国で個展を開いた。日本では1972年東京の南画廊での個展を皮切りに、75、76年東京のオオサカ・フォルム画廊で、78年から81年まで毎年ギャラリー手で、83、84年ギャラリーQで個展を開き、85年IBM川崎市民ギャラリー、90年にはINAXギャラリー、92年にはパルテノン多摩でも個展を開催した。80年代後半から体の自由を失なって車椅子生活に入り、詩人大岡信、谷川俊太郎ら友人の支援を得て活動していた。カトリック司祭でもあり、著書に『教えるヒント学ぶヒント』(新潮社 1982年)、『夜を泳ぐ』(リブロポート 1991年)がある。

江本義理

没年月日:1992/04/11

前東京国立文化財研究所保存科学部長で、文化財の非破壊検査など保存科学の権威であった江本義理は、4月11日午後3時、膿胸による食道大動脈破裂のため横浜市金沢区の横浜市立大病院で死去した。享年66。大正14(1925)年7月3日、東京市下谷区に、生物学者江本義数の長男として生まれる。学習院初等科、中等科、高等科を経て昭和20(1945)年4月東京帝国大学理学部化学科に入学。同23年3月同科を卒業して、同年4月から法隆寺国宝保存工事事務所の委嘱により、法隆寺壁画の調査に参加した。同年12月、国立博物館保存修理課保存技術研究室勤務となる。以後官制の変更にともない同25年9月、文化財保護委員会保存部建造物課保存科学研究室勤務、同27年4月東京文化財研究所保存科学部化学研究室勤務、同29年4月東京国立文化財研究所保存科学部化学研究室勤務となった。同42年3月、同部主任研究官、同46年5月同部化学研究室長となり、同50年4月から同62年3月停年退職するまで保存科学部長をつとめた。この間、同42年4月から平成4年4月まで東京芸術大学美術学部講師、同58年4月から同63年9月まで図書館情報大学講師、同63年4月から平成4年4月まで早稲田大学第一文学部講師、同63年6月からは永青文庫常務理事をつとめた。東京国立文化財研究所を退職後は、同所名誉研究員となったほか、平成2年4月に、同62年4月から講師をつとめていた昭和女子大学生活美学科教授となった。戦後、わが国の文化財の科学的調査方法が未確立な状況の中で、他分野の検査方法を文化財調査に取り入れる試みを続け、昭和30年、サイクロトロンによる放射化分析を行ない、その後は蛍光X線分析法を導入した文化財の析質調査・研究に力を注いだ。同34年に国の重要文化財に指定され、その後真贋が問題となった「永仁の壷」の調査に当たって用いたのもこの方法で、その調査結果が決定的な証拠となって同作品は36年3月31日に重要文化財指定を解除されている。こうした材料分析の他、文化財保存にも尽力し、同47年に発見された高松塚古墳壁画の保存のほか、敦煌、エジプト・ルクソールの王家の谷等、海外の文化財保存にもたずさわった。学界においても、文部省学術審議会専門委員、日本学術会議考古学研究連絡委員会委員、日本文化財科学会理事、同評議員、古文化財科学研究会副会長などをつとめた。主要論文に「古文化財の材質調査における蛍光X線分析法の利用」(「美術研究」220)、「蛍光X線分析による土器・瓦中の鉄・ルビジウム・ストロンチウム・イットリウム・ジルコニウムの定量」(「保存科学」16号)、“Coloring Materials Used on Japanese Paintings of the Protohistric Period & Related Topics”(第7回国際研究集会プロシーディングス)等があり、没後に『文化財をまもる』(アグネ技術センター刊)が刊行されている。年譜は同書に詳しい。

藤本韶三

没年月日:1992/04/04

「アトリエ」「三彩」「古美術」等の美術雑誌を刊行した美術ジャーナリスト藤本韶三は、4月4日午前0時8分、呼吸不全のため東京都目黒区の病院で死去した。享年95。明治29(1896)年10月3日、長野県下伊那郡に生まれる。同44年長野県立飯田中学校を中退して上京。写真製版印刷会社に勤める一方、白馬会葵橋洋画研究所に学び黒田清輝に師事する。のち、川端龍子、山本鼎の指導を受け、山本の農民美術研究所の仕事に参加する。同12年、山本らの勧誘により美術月刊誌「アトリエ」の編集に創刊時から従事。昭和14(1939)年まで編集長をつとめた。また同14年10月には雑誌「造形芸術」を創刊する。同16年、美術雑誌統制により「造形美術」を「画論」と改題、同18年再統制により大下正男らと日本美術出版株式会社を設立してその専務取締役となり、雑誌「美術」を発行した。同21年美術出版社から「みづゑ」を復刊するとともに月刊誌「三彩」を創刊。同32年造形芸術研究所出版部(のち三彩社と改称)を創立し、美術出版社から「三彩」を譲り受け、同誌の発行を続けた。同38年雑誌「古美術」を創刊。多くの画家、評論家と交遊し、また自ら多田信一、松原宿の名で評論にも筆をふるった。著者に『画室訪問1・2』(三彩社、昭和44年、同47年)『青龍社とともに』(美術出版社)などがある。

木村東介

没年月日:1992/03/11

美術品蒐集家で古美術店「羽黒洞」の創立者であった木村東介は3月11日午前0時50分、心不全のため東京都文京区の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年4月8日、山形県米沢市に生まれる。米沢商業学校を中退して上京し、一時憲政公論社に入社して侠客となったが、のち美術商を志し、昭和7(1932)年、美術商「羽黒洞」を創立する。同11年東京・湯島に店舗を開く。柳宗悦、吉川英治ら広く文化人と交流し、肉筆浮世絵、大津絵、泥絵のほか、幕末、明治初期の洋画を蒐集。また、長谷川利行、斎藤真一ら異色の画家たちを無名時代から支援した。著書に『奥州げてとランカイ屋』『女坂界隈』『浮世絵渡世』等がある。

石黒孝次郎

没年月日:1992/03/02

古美術品蒐集家で古美術商でもあった石黒孝次郎は3月2日午前6時14分、心筋こうそくのため東京都港区の東京都済生会中央病院で死去した。享年75。大正5(1916)年3月28日東京に生まれる。昭和16(1941)年京都帝国大学法学部を卒業して三井物産に入社。応召を経て戦後の同21年西洋古美術商「三日月」を創立した。同33年高級フランス料理店「クレッセント」を東京芝に開き、同店5階の陳列室で自らの蒐集品を公開した。中近東、オリエントの古美術品を中心に蒐集し、『古く美しきもの2-石黒夫妻コレクション』(昭和62年)等の著書がある。

竹島卓一

没年月日:1992/01/14

読み:たけしまたくいち  名古屋工業大学名誉教授の建築史家竹島卓一は、1月14日午前11時46分、心不全のため東京都北区の自宅で死去した。享年90。東洋建築史の研究で知られ、日本学士院賞恩賜賞を受けた竹島は、明治34(1901)年4月29日、三重県上野市大字大野木に生まれた。昭和2(1927)年東京帝国大学工学部建築科を卒業。同4年東方文化学院が設立されると同時に入所し、関野貞らと共に中国各地を調査、中国の建築、陵墓の研究に従事する。同8年東京帝国大学大学院修了。同12年8月より14年8月まで召集により北支・中支に赴く。同17年名古屋高等工業学校教授となり、同24年同校が名古屋工業大学となって後も同校で教鞭をとった。戦前完成していた学位論文「営造法式の研究」は、同20年3月の空襲により焼失したが、戦後再度著し、同25年東京大学から博士号の称号を受けた。この研究は同45年『営造法式の研究(一)(二)(三)』(中央公論美術出版)として刊行され、こうした一連の「営造法式の研究」に対し、同48年日本学士院賞・恩賜賞が贈られた。同40年名古屋工業大学を停年退官し同年より47年まで神奈川大学工学部、同47年から同51年まで国士館大学工学部で教授をつとめた。他の著書に『遼金時代の建築と其仏像』(龍文書局 昭和19年)、『中国の建築』(中央公論美術出版同45年)、『建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題』(同、同50年)などがある。一方、古建築の解体修理、復元にも従事し、昭和25年から31年まで法隆寺国宝保存工事事務所長として同寺五重塔、金堂等の解体修理にあたり、同45年日本万国博覧会古河館の東寺七重塔模造設計、同52年法輪寺三重塔の設計等を手がけた。伝統的建築技術を深く理解し、さらに科学的知識、洞察を加えて、近代の保存修復に一指針を示した。

土居次義

没年月日:1991/11/24

京都工芸繊維大学名誉教授、美術史家土居次義は、急性呼吸不全のため京都市山科区の東山老年サナトリウムで死去した。享年85。明治39(1906)年4月6日大阪市天王寺区に生まれる。京都の第三高等学校に学んで昭和6年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。同大学文学部副手を経て昭和10年10月より恩賜京都博物館鑑査員を勤め、同21年4月に恩賜京都博物館長に就き、同22年12月同館を退官。この間、昭和15年恩賜元離宮二条城事務所兼務、同20年3月より1年間京都市文教局文化課長に転出して京都市の文化財の疎開にかかわる仕事を行なった。その後、昭和24年4月より京都工芸繊維大学教授。同45年同大学を定年退職した。また、徳島県文化財専門委員(昭和33年9月)、京都府文化財保護審議会委員(同40年10月)、文化財保護審議会専門委員(同44年3月)、京都国立博物館評議員会評議員(同56年1月)を歴任した。 昭和28年12月文学博士(日本美術史)。昭和44年に京都新聞文化賞、同49年11月に紫綬褒賞、同55年4月に勲三等旭日中綬章、同60年12月に京都府文化賞特別功労賞が授けられ、同62年11月に京都市文化功労者表彰を受けた。京都帝国大学では美学美術史を専攻して沢村専太郎教授(1884~1930)に師事し、在学中より京都の寺院に所蔵される障壁画の調査にたずさわる機会をえて日本近世絵画史の研究を行なった。ジョバンニ・モレリの鑑識方法を応用して絵画細部にあらわれた特徴を比較する研究方法を採り、従来巨名作家の伝承をもつのみだった無款の障壁画の作者推定に説得力ある議論を展開した。土居は一連の研究によって山楽、山雪、松栄、光信、孝信らの狩野派など主要画家の作風を明らかにするとともに、基準作品と史料の発掘に努めて桃山時代の絵画史研究の基礎確立に大きく貢献した。長谷川等伯の子久蔵と同一視されていた信春を等伯と同一人とする新説を昭和13年に発表するなど、長谷川等伯と長谷川派の研究に尽力して桃山画壇における同派の意義を明らかにした点が特筆される。また、江戸時代の画家研究においても得意とするフィールドワークを生かした多くの研究を発表した。主要著書『等伯』(東洋美術文庫・第7巻)アトリヱ社、昭和14年『京都の障壁画』(京都市観光課編)桑名文星堂、昭和16年『桃山障壁画の鑑賞』寶雲社、昭和18年『山楽と山雪』桑名文星堂、昭和18年『日本近世絵画攷』桑名文星堂、昭和19年『山楽派画集』桑名文星堂、昭和19年『近世絵画聚考』芸艸堂、昭和23年『襖絵』(アート・ブックス)講談社、昭和31年『等伯』(日本の名画・第1期)平凡社、昭和31年『長谷川等伯・信春同人説』文華堂書店、昭和39年『桃山の障壁画』(日本の美術・第14巻)平凡社、昭和39年『障壁画』(日本歴史新書)至文堂、昭和41年『若沖二井絵』マリア書房、昭和42年『近世日本絵画の研究』美術出版社、昭和45年『永徳と山楽』(人と歴史・日本18)清水書院、昭和47年『渡辺始興 障壁画』光村推古書院、昭和47年『長谷川等伯』(日本美術・第87号)至文堂、昭和48年『元信・永徳』(水墨美術大系・第8巻)講談社、昭和49年『讃岐金刀比離宮の障壁画』マリア書房、昭和49年『三竹園美術漫録』講談社、昭和50年『狩野山楽/山雪』(日本美術絵画全集・第12巻)集英社、昭和51年『長谷川等伯』講談社、昭和52年『狩野永徳/光信』(日本美術絵画全集・第9巻)集英社、昭和53年『山楽と山雪』(日本の美術・第172号)至文堂、昭和55年『花鳥山水の美-桃山江戸美術の系譜-』京都新聞社、平成4年この他、発表論文の目録が『近世日本絵画の研究』(昭和45年)に、略歴が『花鳥山水の美』(平成4年)に掲載される。等伯を中心とした長谷川派の研究は『長谷川等伯』(昭和52年)に集大成された。

上村六郎

没年月日:1991/10/29

日本染織文化協会名誉会長の染織文化研究家上村六郎は10月29日午前10時40分、ジン不全のため京都市上京区の小柳病院で死去した。享年97。明治27(1894)年10月10日、新潟県刈羽郡に生まれ、京都高等工芸学校で染色学を学ぶ。ひき続き京都帝国大学工学部工業化学教室で染色学・繊維学を学んで卒業後同大助手となった。その後、関西学院大学理工科講師を経て、武庫川女子大学教授となり、昭和25年、大阪学芸大学教授となる。早くから日本の古代染織に興味を持ち、同5年『萬葉染色考』(辰巳利文と共著)を著し、同9年には『日本上代染草考』を刊行。宮内庁の委嘱により正倉院御物裂の調査に当たったほか、布以外の材料にも研究を広げ、同31年和紙研究会代表となった。大阪学芸大学を退いたのちは新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学学長を歴任したのち四天王寺女子大学教授並びに日本染織学園園長を兼務。最晩年は旭川市の優佳良織工芸館内国際染織美術館館長をつとめる一方、研究、著作に専念した。東南アジアを含む広い文化圏の中に日本を位置づけ、上代からの日本の染織、色彩文化を生活に根ざした視点からとらえた。元人(げんじん、もとんど)とも号す。主な著書には以下のようなものがある。昭和5 萬葉染色考 辰巳利文共著昭和6 丹羽布昭和9 日本上代染草考昭和18 日本色名大鑑 山崎勝弘共著昭和25 (日本色名大鑑)昭和34 染色通論昭和39 丹羽布縞帳昭和40 暮らしの染色昭和41 日本の草木染昭和48 ジャワの染色昭和54 上村六郎染色著作集1~6(全巻)昭和55 日本人の生活文化史(3)昭和55 萬葉色名大鑑昭和57 沖縄染色文化の研究昭和61 (昭和版)延喜染鑑平成元年 日本の草木染

浦崎永錫

没年月日:1991/08/29

大潮会会長の洋画家で『日本近代美術発達史』の著者としても知られた浦崎永錫は、8月29日午前2時25分、老人性肺炎のため東京都板橋区の病院で死去した。享年91。明治33(1900)年沖縄の那覇に生まれる。大正10(1921)年に上京し川端画学校に入学。藤島武二に師事して洋画を学ぶ一方、検定で小学校教員免許を取得。夜間工業学校の図画教師となり、自由画、用器画、高等図学などを教授。美術関係文献の調査、収集にも興味を持ち、昭和5(1930)年、教師をやめて雑誌「美術界」を刊行。同時に明治期の資料調査にあたった。同10年、美術教育者たちの作品発表の場として大東会を設立。その存続を望む声にこたえて同会を発展解消させて翌八年大潮会を結成。写実に立脚した作品を健康な美術であるとして、それを美術教育者たちの求めるべき美術として提唱し、その発表の場を提供することを活動として唱った。戦後も同会を率い、のち同会会長に就任。同会に作品を発表する一方、明治期の美術に関する詳細な資料にもとづき、昭和49年『日本近代美術発達史・明治篇』(東京美術)を刊行。資料収集の綿密さが高く評価されている。

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