本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





植村鷹千代

没年月日:1998/02/26

読み:うえむらたかちよ  美術評論家の植村鷹千代は2月26日午前0時42分、肺気腫のため東京都新宿区の病院で死去した。享年86。明治44(1911)年11月2日、奈良県高市郡高取町の旧華族の家に生まれる。昭和7(1932)年大阪外語学校仏文科を卒業。その後日本外事協会、南洋経済研究所に勤務、南方古美術の研究を担当するかたわら、同14年より評論活動を開始、美術評論の草分け的存在として活躍する。同18~20年同盟通信社に勤務。この時期、「決戦下における生産美術の指命について」(『画論』27号)など戦意高揚のための評論を執筆する。同22年、モダンアートの幅広い結束を求めて結成された日本アバンギャルド美術家クラブに代表員として参加、翌24年3月の『アトリエ』には「レアリテとレアリズム」を掲載し、いわゆる“リアリズム論争”に加わって前衛美術擁護の論陣を張った。同40年より日本大学芸術学部講師となるが、この頃から伝統や風土への復帰への論調が目立つようになった。同46年美術愛好会サロン・デ・ボザール会長に就任。同52年紫綬褒章受章。同57年から10年間文化勲章・文化功労者選考委員を務めた。主要著書に『現代美の構想』(生活社 昭和18年)、『現代絵画の感覚』(新人社 昭和23年)、『幻想四季』また翻訳に、ドラクロワ『芸術論』(創元社 昭和14年)、ハーバード・リード『芸術と環境』(梁塵社 昭和17年)、アルフレッド・H.バー・ジュニア『ピカソ 芸術の50年』(創元社 昭和27年)、ハーバード・リード『芸術による教育』(水沢孝策と共訳 美術出版社 昭和28年)、ハーバード・リード『今日の絵画』(新潮社 昭和28年)、ガートルード・スタイン『若きピカソのたたかい』(新潮社 昭和30年)がある。 

北村哲郎

没年月日:1998/02/20

読み:きたむらてつろう  元共立女子大学教授、元東京国立博物館学芸部長の北村哲郎は2月20日午後0時35分、肺癌のため千葉県船橋市の千葉徳洲会病院で死去した。享年76。大正10(1921)年9月21日東京に生まれる。昭和19(1944)年10月慶應義塾大学文学部芸術学科を卒業する。同22年2月帝室博物館臨時職員となり、同年6月国立博物館事務嘱託となり陳列課染織室につとめる。同24年6月文部技官となる。同27年7月京都国立博物館学芸課勤務となり同37年8月同館学芸課普及室長となる。同41年1月から7月までアメリカ、カナダでの日本古美術展に随行して両国へ滞在。同43年1月東京国立博物館学芸部資料課主任研究官、翌44年4月同館学芸部工芸課長、同50年4月同企画課、翌51年9月同学芸部長となる。同53年4月文化庁文化財保護部文化財鑑査官となり、同57年退官して共立女子大学家政学部教授となった。服飾・染色史、人形の研究を専門とし、朝廷などの儀式に着用する有職の染織品や能装束の研究家として知られた。著書に『日本の工芸 織』(淡交社 昭和41年)、『日本の美術 人形』(至文堂 昭和42年)などがある。 

友部直

没年月日:1998/02/04

読み:ともべなおし  共立女子大学名誉教授で遠山記念館館長をつとめた美術史家の友部直は2月4日午前7時47分、呼吸器疾患のため東京都板橋区の病院で死去した。享年73。大正13(1924)年10月14日、神奈川県に生まれる。昭和29(1954)年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業、同30年同大学助手となる。同31年共立女子大学文芸学部助手、同32年同大学専任講師に就任。同38年から39年までイギリスに留学し、ロンドン大学ウォーバーグ研究所でE.H.ゴンブリッチ教授に、大英博物館ギリシア・ローマ部でR.A.ヒキンズ博士に師事。同39年より共立女子大学文芸学部助教授、同45年より教授に就任、主にエジプト、古代地中海美術、および西欧工芸美術史について研究・執筆を続ける。同53~57年、同61~平成2(1990)年同大学文芸学部部長を、昭和57~61年同大学文学芸術研究所長を務める。平成3年から同9年まで遠山記念館館長に就任。同6年には共立女子大学名誉教授に推挙される。主要著書に『ヨーロッパのきりがみと影絵』(岩崎美術社 昭和54年)、『美術史と美術理論』(放送大学教育振興会 平成3年)、『エーゲ海 美の旅』(小学館 平成8年)、また翻訳にE.H.ゴンブリッチ『美術の歩み』(美術出版社 昭和47、49年)、ニコラウス・ペヴスナー『英国美術の英国性』(蛭川久康と共訳 岩崎美術社 昭和56年) がある。

竹田道太郎

没年月日:1997/12/10

読み:たけだみちたろう  美術評論家で元女子美術大学教授の竹田道太郎は12月10日午前2時58分、肺炎のため川崎市幸区の病院で死去した。享年91。明治39(1906)年11月6日新潟県柏崎市に生まれる。早稲田大学文学部独逸文学科を卒業後、昭和7(1932)年4月、都新聞第二部(社会部)に入り警視庁、裁判所詰めを経て文部省クラブに所属、金井紫雲のあとをうけて美術記者を務めた。同10年帝展改組の折には改組反対の立場から精力的に記事を書き、なかでも小杉放庵の芸術院会員辞退の特ダネを抜き、注目された。同11年2月より朝日新聞社会部、学芸部、雑誌編集室(週刊朝日)で美術関係を担当。昭和36年11月定年退職以後、武蔵野美術大学教授、女子美術大学教授を務める。主要編著書『新聞における美術批評の変遷』(朝日新聞調査研究室報告 昭和30年2月)『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(鈴木進と共著 雪華社 昭和32年12月)『画壇青春群像』(雪華社 昭和35年4月)『美術記者30年』(朝日新聞社 昭和37年7月)『日本近代美術史』(近藤出版社 昭和44年)『小林古径』(集英社 昭和46年12月)『続日本美術院史』(中央公論美術出版 昭和51年1月)『今村紫紅とその周辺』(至文堂 昭和51年11月)『大正の日本画』(朝日新聞社 昭和52年9月)『原三溪』(有隣新書 昭和52年11月)『巨匠達が生れる迄』(真珠社 昭和60年6月)『安田靫彦』(中央公論美術出版 平成元年10月)

村松貞次郎

没年月日:1997/08/29

読み:むらまつていじろう  東京大学名誉教授で博物館明治村館長の建築史家村松貞次郎は8月29日午前5時52分、心不全のため千葉市中央区の病院で死去した。享年73。大正13(1924)年6月30日静岡県清水市の材木屋の次男として生まれる。昭和17(1942)年静岡県立静岡工業学校機械科を卒業。同20年旧制第八高等学校理科甲類を卒業し、同年東京帝国大学第二工学部建築学科に入学した。同23年東京大学第二工学部建築学科を卒業して東京大学大学院(旧制)に入学、特別研究生に選ばれる。同28年3月同大学院を修了し、同年4月から東京大学工学部建築学科助手をつとめる。同36年同大学生産技術研究所助教授となり、同年東京大学より工学博士の学位を授与される。同48年『大工道具の歴史』(岩波新書)を刊行し、これにより毎日出版文化賞を受賞。同49年同大学教授となり、同60年3月に停年退官するまで教鞭を取った。この間、幕末、明治から昭和までの日本近代建築の全国調査に尽力し、その成果を戦前の洋風建築の戸籍台帳にあたる『日本近代建築総覧』(昭和55年)に結実させるとともに、高度経済成長によって消えつつあった近代建築物の保存運動の原動力となった。同59年日本建築学会業賞を受賞。東京大学退官後は同60年4月より法政大学工学部教授となり、引き続き後進の指導にあたった。同年東京大学名誉教授の称号を受ける。また、同56年より博物館明治村評議員をつとめ、同60年財団法人明治村理事となった。同63年明治村賞受賞。平成3年6月から博物館明治村館長となって、建造物の外観保存だけでなく、建築内部の復元展示などの新機軸を打ちだした。また、昭和63年からは迎賓館赤坂離宮顧問を、平成元(1989)年からは竹中大工道具館理事もつとめた。平成6年日本建築学会大賞受賞。同7年法政大学教授を退任する。「手考足思」を提唱し、実地に足を運び、実際の建造物にあたっての調査・研究を進め、また、道具や職人技を重視して『道具曼荼羅 全3巻』(毎日新聞社 昭和51年)、『やわらかいものへの視点』(岩波書店 平成6年)、『道具と手仕事』(岩波書店 平成9年)などを著した。著書にはほかに、『日本建築技術史』(地人書館 昭和34年)、『建築史学』(『建築学大系』37巻 彰国社 昭和37年)、『日本科学技術大系 17巻 建築技術』(第一法規 昭和39年)、『日本建築家山脈』(鹿島出版会 昭和40年)、『日本近代建築の歴史』(NHKブックス 昭和52年)などがある。

岡村辰雄

没年月日:1997/08/20

読み:おかむらたつお  額装店岡村多聞堂の創業者で全国額縁組合連合会初代会長の岡村辰雄は8月20日午後4時36分、前立せんガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年92。明治37年10月31日長野県上田市に生まれる。大正元(1912)年、一家で上田から上京、深川門前仲町で時計屋を営むが、書画の売買を業としていた伯父の影響もあって表具師の仕事に惹かれていき、同6年伯父の仲介で表具店の原清廣堂に入門。昭和5(1930)年5月、多門堂を港区南佐久間町に創業。同11年、表装について記した『表装備考』を上梓、これを機に多く聞くことの尊さを知り従来の堂号“多門堂”を“多聞堂”に改める。同25年、表具の仕事を一切放棄し額装の製作に専念、とくに日本画額装の嚆矢となり、ステンレスなど新素材を積極的に取り入れ、建築様式の変化に対応した展示方法を開拓した。27年有限会社岡村多聞堂を設立。以後、東宮御所、新宮殿、吹上御所、国立劇場の装飾画の額装を手がける。30年、額に関する記録をまとめた『額装の話』を出版し、同年にブリヂストン美術館で「多聞堂額装展覧会」を開催、また全国額縁組合を創立。同42年より法隆寺金堂壁画再現に従事。同57年、自らの回想を綴った『如是多聞』を出版。同63年、額縁研究と製作による建築、美術界に対する功績に対し、第13回吉田五十八賞特別賞を受賞した。

衛藤駿

没年月日:1997/08/01

読み:えとうしゅん  慶應義塾大学名誉教授で、茨城県立歴史館長、川崎市民ミュージアム館長をつとめた美術史家の衛藤駿は8月1日午前0時24分、いん頭ガンのため東京都目黒区中根1-3-15-301の自宅で死去した。享年66。昭和5(1930)年12月3日、東京千駄ヶ谷に生まれる。番長小学校卒業後、慶應義塾大学附属普通部に入学するが、戦災にあい、戦後、父の郷里であった大分県に移る。同24年大分県日出高等学校を卒業し、同年慶應大学医学部に入学。在学中、医学部から文学部へ移り、同28年同大学文学部を卒業する。同31年大和文華館研究員となり、同39年同館学芸課長となった。同40年9月米国ロックフェラー三世財団による在欧米東洋美術調査・研究のため欧米に留学し翌41年3月に帰国する。同46年3月、大和文華館を退職して、同年4月に母校慶應大学工学部助教授となり、同52年同大学理工学部教授となる。この間、同37年奈良女子大学非常勤講師として東洋美術史を、同43年には京都市立芸術大学非常勤講師として中国絵画論を講じ、同47年には武蔵工業大学非常勤講師として美術を講じた。同53年成城大学文芸学部大学院非常勤講師、同54年東京大学非常勤講師としてアジアの美術を講じた。同57年から同63年9月まで慶應大学日吉情報センター所長を、同63年からは慶應義塾大学中等部長を兼務、平成2年(1990)10月より慶應義塾大学高等学校長を兼務した。同8年慶應大学を停年退職し、同大学名誉教授の称号を与えられた。同年茨城県歴史館館長となり、翌9年に川崎市民ミュージアム館長となった。主要著書として『相阿弥・祥啓』(集英社 1979年)、『禅と水墨』(共著、講談社、1982年)、『雪村周継全画集』(編著、講談社、1982年)、『解釈の冒険』(共著、NTT出版、1988年)、『美術における右と左』(共著、中央大学出版部、1992年)などがある。

石川陸郎

没年月日:1997/06/28

読み:いしかわりくお  東京国立博物館保存修復管理官の石川陸郎は6月28日午後3時20分、転倒による頭蓋内損傷のため東京都新宿区の病院で死去した。享年61。昭和11(1936)年4月10日、東京池袋に生まれる。同18年東京市池袋第六国民学校に入学するが、戦火による校舎焼失のため同校が廃校になり、同21年より池袋第二小学校に通う。同24年同校を卒業して東京都豊島区立池袋中学校に入学。同27年同校を卒業。同30年東京都立北高校を卒業し、同31年東京理科大学Ⅱ部理学部化学科に入学する。翌32年東京国立文化財研究所技術補佐員に採用され、物理研究室でX線撮影の研究に従事し、同年同所保存科学部の登石健三と共著で「日本魔鏡の一例」(『古文化財之科学』第15号)を発表。同34年から鎌倉大仏修復にともなうガンマー線撮影等に従事し、その後も、各地の古社寺の建造物や所蔵品の光学的調査を行った。同37年4月同研究所保存科学部物理研究室に配置換えとなる。同39年東京理科大学Ⅱ部理学部化学科を卒業。同年7月同研究所保存科学部文部技官に任官される。同41年に博物館の展示照明および博物館環境の研究を開始し、同40年代後半から多くなった美術館博物館の新設に伴い、その環境調査を実施した。同50年赤外線テレビカメラを文化財調査に応用し、これが後の漆紙文書の発見につながった。同54年10月同所保存科学部主任研究官となり、平成5(1993)年4月東京国立博物館学芸部保存修復管理官に任ぜられた。同6年3月末まで東京国立文化財研究所保存科学部と併任した。同年東京国立博物館平成館が着工されると、保存科学の立場から展示室・収蔵庫の保存環境整備設計に関与した。温室度、照明、PHなど多様な観点から理想的な博物館・美術館の保存・展示環境を考察し、130余館へ助言、協力を行った。また、東京国立文化財研究所主催による博物館美術館等保存担当学芸員実習を担当し、保存科学の教育・普及につとめたほか、平成8年から日本大学文理学部非常勤講師として保存科学概論を講じた。平成3年には韓国国立文化財研究所の招へいにより博物館環境に関する研究交流を行うなど、国際的にも活動した。主な調査に、昭和45年国宝如庵の解体移築に伴う解体前の構造および腐朽状態調査、同62年中尊寺金色堂の環境調査などがある。没後、『石川陸郎遺稿集』(石川陸郎遺稿集刊行会 平成10年6月)が刊行されている。

赤根和生

没年月日:1997/05/26

読み:あかねかずお  美術評論家で、元大阪芸術大学教授の赤根和生は、下咽頭ガンのため5月26日午前6時20分、神戸市灘区の六甲病院で死去した。享年72。大正13(1924)年6月8日、秋田県秋田市に生まれ、昭和23(1948)年東京外国語大学イタリア語学科を卒業後、オランダ国立美術史研究所に留学した。帰国後、同45年の大阪万国博覧会では、現代美術部門の企画を担当し、同47年にはドイツ、カッセル市におかるドクメンタ・5で、日本代表コミッショナーをつとめた。また、国立国際美術館運営委員、兵庫県立近代美術館審美委員、神戸須磨離宮公園野外彫刻展選考委員などを歴任した。美術研究の面では、モンドリアン研究に専念し、日本で初めての本格的な評伝「ピート・モンドリアンーその人と芸術」(美術出版社、1971年)をはじめ、訳編「自然から抽象へ モンドリアン論集」(モンドリアン著、美術出版社、1975年)、訳「抽象への意志 モンドリアンとデ・ステイル」(ハンス・ルードヴィッヒ・ヤッフェ著、朝日出版社、1984年)を残し、その研究は国際的にも評価された。

増田洋

没年月日:1997/05/11

読み:ますだひろみ  美術評論家の増田洋は、5月11日午後9時33分、食道ガンのため死去した。享年64。昭和7(1932)年6月17日、兵庫県神戸市に生まれ、同31年に神戸大学文学部哲学科芸術学専攻を卒業後、同年に石橋美術館の学芸員となり、同35年からは大阪市立美術館学芸員に転任した。同44年兵庫県立近代美術館学芸課長に赴任した。同61年、同美術館次長となり、平成6年には参与となった。編著書に「小出楢重」(日本の名画17巻 中央公論社)、「平福百穂・富田溪仙」(共著 現代日本美術全集2巻 集英社)、「小磯良平油彩作品全集」(求龍堂)、「小磯良平」(現代日本素描全集9巻 ぎょうせい)、「向井潤吉・小磯良平」(共著 20世紀日本の美術17巻 集英社)などがある。こうした美術研究のかたわら、美術館学芸員として、37年間一貫して現場から発言をつづけ、それらは「学芸員のひとりごと」(増補新装版 芸艸堂)としてまとめられた。

守田公夫

没年月日:1997/03/07

読み:もりたきみお  奈良国立文化財研究所工芸室長をつとめた染織史家守田公夫は3月7日午後3時36分、肺炎のため神奈川県厚木市の病院で死去した。享年89。明治41(1908)年2月15日、熊本県に生まれる。昭和2(1927)福岡県立小倉中学校を卒業し、翌3年4月弘前高等学校文科甲類に入学。同6年同校を卒業して東京帝国大学文学部に入学する。同大学在学中の同8年8月、帝室博物館(現・東京国立博物館)研究員となり同館美術課に配属となった。同9年同大学文学部美学美術史学科を卒業。同15年同館研究員を免ぜられるとともに、同館勤務を命じられる。同20年5月、博物館を依願免官となり、戦後は、同23年から同26年まで繊維貿易公団に勤務する。同27年9月、奈良国立文化財研究所美術工芸室勤務となり、同36年同所美術工芸研究室長となった。この間、同30年から奈良女子大学非常勤講師をつとめる。このほか、日本伝統工芸展審査員、滋賀県文化財専門委員、京都府文化財専門委員、龍村美術織物顧問、永青文庫評議員をつとめ、聖母女子大学でも教鞭をとった。同45年奈良国立文化財研究所を停年退官した。著書に『日本の染織』(アルス社)、『日本の文様』(アルス社)、『名物裂』(淡交社)、『日本絵巻物全集 北野天神絵巻」(角川書店)、『日本被服文化史』(柴田書店)などがある。

岡田隆彦

没年月日:1997/02/26

読み:おかだたかひこ  美術評論家、詩人で慶應大学環境情報学部教授の岡田隆彦は、2月26日午後2時5分、下咽頭ガンのため、埼玉県富士見市の三浦病院で死去した。享年57。慶應大学文学部仏文科在学中に、吉増剛造、井上輝夫らと詩誌「ドラムカン」を創刊、詩集「史乃命」などで60年代を代表する詩人のひとりと目された。昭和60(1985)年には、詩集「時に岸なし」(思潮社)によって第16回高見順賞を受賞した。一方、東京造形大学教授、「三田文学」編集長、美術評論家連盟事務局長などをつとめ、近現代美術を中心とする美術評論も積極的に執筆した。主要な美術に関する著作、翻訳は下記のとおりである。「日本の世紀末」(小沢書店、1976年)、「ウィリアム・モリスとその仲間たち」(岩崎美術社、1978年)、「美術散歩50章」(大和書房、1979年)、「かたちの発見」(小沢書店、1981年)、「ラファエル前派」(美術公論社、1984年)、「現代美術の流れ」(エドワード・ルーシー・スミス著、水沢勉共訳、パルコ出版局、1986年)、「アーシル・ゴーキー」(メルヴィン・P・レーダー著、篠田達美共訳、美術出版社、1989年)、「ラファエル前派の夢」(ティモシー・ヒルトン著、篠田達美共訳、白水社、1992年)、「芸術の生活化」(小沢書店、1993年)。 

佐々木静一

没年月日:1997/01/17

神奈川県立近代美術館学芸員、多摩美術大学美術学部教授をつとめた日本近代美術史研究者、美術評論家の佐々木静一は1月17日、肺炎のため死亡した。享年73。大正12(1923)年7月3日、大使館勤務であった父の赴任先のポーランド、ワルシャワに生まれる。昭和26(1951)年3月早稲田大学文学部芸術学美術史専攻課程を卒業。在学中は安藤更正に師事した。同年4月、開館を11月にひかえた神奈川県立近代美術館の学芸員となり、東京国立近代美術館に先だつ初めての日本の近代美術館であった同館の初代学芸員として活躍。初代館長村田良策および2代目館長土方定一のもと、多くの展覧会を担当した。同43年同館を退き、多摩美術大学美術学部教授となって以後、画材、美術技法の東西交流を主要なテーマとする「材料学」の研究に取り組んだ。なかでも、青色顔料であるプルシャン・ブルーの流通、洋風油彩技法やガラス絵、泥絵技法の伝搬に興味を持ち、海外調査を行った。また、画法・技法という視点から日本の近代画法を見ることにより、日本的な絵画表現の例としての文人画、特に多くの油彩画家に関心を抱かれた近代文人画に注目し、論考を加えた。平成3(1991)年同大学を定年退官して同名誉教授となった。昭和61年脳梗塞で倒れ、一時、不随となったが再度著作できるまでに回復し、『日本近代美術Ⅰ』に続く著作集を準備中であった。主要な著書に『ギリシャの島々』(日本経済新聞社 1965年)、『近代日本美術史 1幕末・明治』・『近代日本美術史 2大正・昭和』(有斐閣 1977年)、『現代日本の美術 11鳥海青児・岡鹿之助』(集英社 1975年)、『日本近代美術論』(瑠璃書房 1988年)、『海外学術調査Ⅱ アジアの自然と文化』(共同執筆 日本学術振興会 1993年)などがあり、論文には「ヨーロッパ油彩画の日本土着過程の研究 泥絵、硝子絵」(『多摩美術大学材料学研究室紀要』1976年)、「北斎 小布施町祭舞台天井画竜図」(『多摩美術大学研究紀要』1 1982年)、『近世(18世紀以降の)アジアに於けるブルシャン・ブルーの追跡』 (『多摩美術大学研究紀要』2 1985年)、「インドネシア硝子絵調査Ⅰ、Ⅱ」(『多摩美術大学研究紀要』3 1987年)、「鳥海青児・初期を中心に」(『鳥海青児展』図録、練馬区立美術館 1986年)、「昭和初期の美術」(『多摩美術大学50年史』1986年)などがある。

久保貞次郎

没年月日:1996/10/31

読み:くぼさだじろう  美術評論家で跡見学園短大学長、町田市立国際版画美術館館長をつとめた久保貞次郎は10月31日午前11時30分、心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年87。 明治42年5月12日、栃木県足利市に、父小此木仲重郎、母ヨシの次男として生まれる。昭和3年4月日本エスペラント学会に入会。同8年東京帝国大学文学部教育学科を卒業して同大大学院に進学する一方、同年4月より一年間、大日本聯合青年団社会教育研究生となる。また、同年11月結婚により久保家の婿養子となり、久保と改姓する。同10年、日本エスペラント学会の九州特派員として九州各地をまわり、宮崎で後に瑛九となる杉田秀夫に出会い、現代美術への興味を深め、以後瑛九を通じてオノサト・トシノブなどの作家たちと交遊を持つにいたった。同13年4月栃木県真岡町小学校校庭に久保講堂が竣工し、その記念事業として児童画展が行われるに伴いその審査員をつとめ、同年8月児童美術ならびに美術の研究のため北アメリカ、ヨーロッパへ渡り翌14年5月に帰国する。同19年秋、真岡に航空会社を設立。戦後の同26年瑛九を中心にデモクラート美術協会が結成されると、会員とはならずに外部から評論家として支援。同27年創造美育協会設立に参加した。評論家、収集家として主に現代版画の振興に尽くし、瑛九のほか、北川民次、利根山光人、泉茂、吉原英雄、池田満寿夫、小田㐮、深沢史朗、木村光佑らと交遊が深かった。同41年にはヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表をつとめる。同52年10月跡見学園短期大学学長に就任し、8年間その任にあたった。また、同61年9月から平成5年3月まで町田市立国際版画美術館館長をつとめた。著書に『ブリウゲル』(美術出版社)、『シャガール』(みすず書房)、『児童画の見方』(大日本図書)、『児童美術』(美術出版社)、『子どもの創造力』(黎明書房)、『児童画の世界』(大日本図書)、『ヘンリー・ミラー絵の世界』(叢文社)、『久保貞次郎 美術の世界』全12巻(叢文社)などがある。平成4年6月、町田市立国際版画美術館で「久保貞次郎と芸術家展」が開かれ、その業績が回顧された。

鈴木健二

没年月日:1996/10/08

読み:すずきけんじ  美術評論家で滋賀県立陶芸の森館長、元九州芸術工科大学教授の鈴木健二は、10月8日午後10時、肝硬変のため福岡市南区の病院で死去。享年67。昭和4(1929)年9月27日山形県に生まれる。同30年東京芸術大学美術学部芸術学科を卒業し、同35年に京都大学大学院文学研究科博士課程を修了。同38年国立近代美術館京都分館(現・京都国立近代美術館)文部技官となり、特別展「現代の陶芸―カナダ・アメリカ・メキシコと日本」(昭和46年)などを担当。その後同館主任研究官、九州芸術工科大学教授、佐賀県立有田窯業大学校長などを経て平成5(1993)年滋賀県立陶芸の森館長に就任。近代以降の陶芸を中心にした工芸が専門。とくに戦後の陶芸の動きに積極的に発言し、九州の現代作家についても活発に評論活動をした。『現代日本の陶芸』(講談社)を編集。

内山正

没年月日:1996/09/29

読み:うちやまただし  元国立西洋美術館長、元文化庁次長の内山正は、9月29日午後10時28分、肺炎のため川崎市宮前区の病院で死去した。享年79。大正6(1917)年4月1日、佐賀県に生まれる。東京大学を卒業後、昭和25(1950)年大分県教育委員会、同29年岡山県教育委員会を経て、同35年文化財保護委員会無形文化課長、同38年文部省調査局国語課長となる。同42年に同省文化局審議官、同43年文化庁文化財保護部長、同47年奈良文化財研究所長、同49年文化庁次長、同51年国立劇場理事となる。同54年には国立西洋美術館長に就任、同57年まで務めた。同62年勲二等瑞宝章受章。

高見堅志郎

没年月日:1996/09/16

読み:たかみけんしろう  美術評論家で武蔵野美術大学教授の高見堅志郎は、9月16日午前2時50分、肺水腫のため千葉県市川市の国府台病院で死去した。享年62。昭和8(1933)年兵庫県に生まれる。同32年早稲田大学文学部卒業。同36年同大大学院修士課程(美術史学専攻)修了。同38年より武蔵野美術大学で教鞭をとり、後に武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科教授、早稲田大学文学部講師を務める。主な著書に『近代世界美術全集 第11巻 近代建築とデザイン』(共著 社会思想社 昭和40年)、『ヴィヴァン 第22巻 シャガール』(講談社 平成7年)、監修に『世界の文様』(青菁社 平成元年)など近代美術・近代デザインに関するものが多い。昭和62年から雑誌『武蔵野美術』の責任編集者。武蔵野美術大学が運営する「ギャラリーαM」の企画にも関わる。平成6年からは市政顧問(館長予定者)として、新設される宇都宮美術館の構想・企画・作品収集などに従事していた。

新藤武弘

没年月日:1996/07/21

読み:しんどうたけひろ  跡見学園女子大学教授で東洋美術史研究者の新藤武弘は、7月21日午後10時、多臓器不全のため千葉県君津市の玄々堂君津病院で死去した。享年62。昭和9年(1934)4月25日、東京に生まれる。同35年(1960)3月、東京大学文学部美学美術史学科を卒業、大阪市立博物館の学芸員となり、翌年京都国立博物館学芸課文部技官、その後、同38年ハーヴァード燕京協会奨学金でアメリカへ留学、ハーヴァード大学でマックス・ラー教授に師事、同41年6月同大学大学院修士課程を修了。翌年、サンフランシスコ・アジア美術館に勤務。同43年には大阪万国博美術館副参事を務める。同49年4月に跡見学園女子大学文学部文化学科の専任講師となり、52年4月に助教授、56年4月から教授。この間、昭和51年(1976)4月から60年3月までは、新潮社嘱託として、現在最も基本的な美術辞典である『新潮世界美術辞典』の編集に関わった。研究対象は幅広く、巨然から石涛・八大山人までについての論攷がある。専門の中国絵画史以外にも、蕪村についての研究があり、詩と歌・中国と日本・夢と現実など様々なものを淵源とするイメージが、俳諧と絵画の中に自在に立ち現れる様を描いている。その視野には、異なるメヂィア・異なる文化の中でのイメージの往来というより大きな問題があった。英語・中国語に堪能で、マイケル・サリバンやジェームス・ケーヒルの主著の翻訳があり、米国・中国でも多彩な研究活動を行った。主要研究業績『山水画とは何か-中国の自然と芸術』福武書店 1989年「八大山人と石涛の友情について」『跡見学園女子大学紀要』9、1976年「巨然について-北宋初期山水画における南北の邂逅」『跡見学園女子大学紀要』17、1984年「都市の絵画-清明上河図を中心として」『跡見学園女子大学紀要』19、1986年「石涛と≪廬山観瀑図≫」『跡見学園女子大学紀要』21、1988年「蕪村小考-計画論的-考察」『日本絵画史の研究』1989年翻訳マイケル・サリバン『中国美術史』新潮社 1973年ジェームズ・ケーヒル「中国絵画における奇想と幻想」『国華』978~980、1975年ジェームズ・ケーヒル『江山四季-中国元代の絵画』明治書院 1980年王概編『新訳芥子園画伝』日貿出版社 1985年ジェームズ・ケーヒル『江岸別意-中国明代初中期の絵画』明治書院 1987年

小高根太郎

没年月日:1996/04/28

読み:おだかねたろう  日本美術史家、富岡鉄齋研究者で元鉄齋研究所所長、鉄齋美術館名誉館長の小高根太郎は、4月28日午前11時56分、心不全のため、東京都世田谷区内の病院で死去した。享年87。小高根は明治42(1909)年4月23日、福岡県久留米市に生まれた。本籍は東京都世田谷区世田谷4の656。旧制東京府立第一中学校から、父の転勤に伴って昭和2(1927)年旧制大阪府立北野中学校卒業。昭和5年旧制大阪高等学校卒業。昭和8年東京帝国大学文学部美術史科を卒業して同大学院に進み、昭和10年6月文部省所管、帝国美術院美術研究所(現・東京国立文化財研究所)嘱託となり、同17年5月まで勤めた。その後、文部省国民精神文化研究所、さらに同研究所の改編により教学錬成所(現・国立教育研究所)に勤務した。戦後は東京都立大山高校教員のかたわら、東京国立近代美術館調査員、東京工業大学非常勤講師を勤めた。また、昭和50年4月から同58年3月まで鉄齋研究所長を勤め、平成5年2月から没するまで鉄齋美術館名誉館長であった。早くから富岡鉄齋の研究に取り組み、美術研究所時代に「富岡鉄齋・公私事歴録」(『美術研究』65号、昭和12年5月)、「富岡鉄齋詩文集上・下」(『美術研究』70、71号、昭和12年10月、11月)、「富岡鉄齋の旅行記について 富岡鉄齋旅行記 公刊」(『美術研究』82号、昭和13年10月)を発表し、昭和19年2月には、今も鉄齋研究の基本文献である『富岡鉄齋の研究』(藝文書院)を刊行した。その後も、『富岡鉄齋』(養徳社 昭和22年)、『人物叢書・富岡鉄齋』(吉川弘文館 昭和35年)、『鉄齋』(朝日新聞社 昭和48年)、『鉄齋大成』全5巻(講談社 昭和51年)など生涯に鉄齋に関して約40点の編著書、論文を著わした。中でも昭和44年から没するまでの28年にわたって『鉄齋研究』(全71号)に、鉄齋作品約2000点について、賛文を読み起こし、その出典を和漢の浩瀚な書籍を博捜して明らかにし、訓読し解釈した作業は、鉄齋研究における金字塔であり、余人の追随できないもので、その業績は永く鉄齋研究の基礎となるものである。その作業を通じて、小高根は鉄齋旧蔵の稀観書を少なからず発見し、それらの一部は鉄齋研究所の収蔵に帰した。また、小高根は鉄齋作品の鑑識にもすぐれ、清荒神清澄寺法主坂本光聡、富岡鉄齋嫡孫富岡益太郎とともに鉄齋作品の再発見に貢献した。主要編著書・論文富岡鉄斎「公私事歴録」 『美術研究』65(昭和12年5月)富岡鉄斎詩文集 上      『美術研究』70(昭和12年10月)富岡鉄斎詩文集 下      『美術研究』71(昭和12年11月)従軍画家としての寺崎廣業『美術研究』75(昭和13年3月)富岡鉄斎の旅行記に就いて富岡鉄斎の旅行記 公刊 『美術研究』82(昭和13年10月)菱田春草 (美術資料第九輯)(美術研究所 昭和15年3月)アーネスト・エフ・フェノロサの美術運動    『美術研究』110(昭和16年2月)アーネスト・エフ・フェノロサの美術運動(二) 『美術研究』111(昭和16年3月)富岡鉄斎 (養徳社 昭和22年3月)平福百穂 (東京堂 昭和24年8月) 无声会の自然主義運動   『美術研究』184(昭和31年4月)富岡鉄斎 人物叢書56 (吉川弘文館 昭和35年12月 新装版 昭和60年11月)富岡鉄斎 (日本美術社 昭和36年8月)富岡鉄斎・日本近代絵画全集第14 (講談社 昭和38年3月)鉄斎 (座右宝刊行会編 集英社発行 昭和45年5月)鉄斎(共著) ( 朝日新聞社 昭和48年12月)鉄斎・文人画粋編第20巻 (中央公論社 昭和49年10月)富岡鉄斎・日本の名画   (中央公論社 昭和50年5月)菱田春草 (大日本書画 昭和51年1月)鉄斎大成:全5巻(共編著) (講談社 昭和51年9月―57年6月)富岡鉄斎・現代日本絵巻全集第1巻 (小学館 昭和57年1月)鉄斎研究・全71号  (鉄斎研究所 昭和44年12月―平成8年6月

神吉敬三

没年月日:1996/04/18

読み:かんきけいぞう  上智大学教授で美術評論家の神吉敬三は4月18日午前9時2分、肺ガンのため埼玉県伊奈町の埼玉県立がんセンターで死去した。享年63。昭和7(1932)年5月8日、山口県下関市長府町松小田に生まれる。同14年下関市名池小学校に入学するが同年9月、旧国鉄職員であった父の職務の関係で東京池袋高田第二小学校に転入する。同17年静岡市森下小学校に転入し、同20年同校を卒業して静岡県立静岡中学校に入学する。同年9月岐阜県立第二中学校に転入し同22年4月、埼玉県立浦和中学校に転入。同23年同校を卒業し同県立浦和高校に入学して、同26年同校を卒業した。同27年上智大学経済学部商学科に入学。同30年4月、聖イグナチオ教会で受洗し、クリスチャンとなる。同31年、上智大学を卒業してスペイン政府給費留学生としてスペイン国立マドリード大学哲文学部に留学。翌32年6月、同大学スペイン学コースを卒業して7月にドイツ美術研究のためドイツを訪れる。同年9月マドリード大学哲文学部美術史コースに学ぶ。同33年7月パリ・カトリック協会給費生としてフランス、ベルギー、オランダに遊学。翌34年8月イタリア美術研究のためイタリアに渡るが、同年9月上智大学の帰国要請によりマドリード大学を中退して帰国し、上智大学外国語学部イスパニア語学科助手となる。同36年上智大学外国語学部イスパニア語学科専任講師、同40年同助教授となり、同44年同教授となった。同48年より翌年までスペイン政府の招聘によりスペイン高等科学研究所美術部門(ベラスケス研究所)で研究したほか、同50年スペイン王立サン・フェルナンド美術アカデミー客員、同52年スペイン王立サンタ・イザベル・デ・ウングリア美術アカデミー客員となるなど、スペインでの研究活動も積極的に行い、その内容は気候、風土、生活習慣などの体験的理解にもとづくものであった。また、同47年よりしばしば国立西洋美術館購入委員をつとめた。同52年より地中海学会初代事務局長となったほか、日本イスパニア学会理事をもつとめるなど、学会活動にも寄与した。同60年日本スペイン協会より会田由賞受賞。平成9年地中海学会賞受賞。平成3年より大塚国際美術館創設のプロジェクトのひとつとして、エル・グレコの大祭壇衝立の復元に取り掛かり、没するまでこれに従事した。著書に『ゴヤの世界』(講談社原色写真文庫 1968年)、『ゴヤ』(ヴァンタン版 原色世界美術全集 集英社 1973年)、『グレコ』(新潮社美術文庫 1975年)、『ベラスケス』(世界美術全集 集英社 1976年)、『ピカソ』(現代世界美術全集 講談社 1980年)、『青の時代』(ピカソ全集1 編・著 講談社 1981年)、『バラ色の時代』(ピカソ全集2 編・著 講談社 1981年)、『キュビスムの時代』(ピカソ全集3 編・著 講談社 1982年)、『幻想の時代』(ピカソ全集5 編・著 講談社 1981年)など、また、翻訳書にフォンタナ著『白の宣言』(現代芸術25 1964年)、ホセ・オルテガ・イ・ガゼット著『大衆の反逆』(角川書店 1967年)、ホセ・オルテガ・イ・ガゼット著『芸術論集』(オルテガ著作集3 白水社 1970年)、エウヘニオ・ドールス著『バロック論』(美術出版社 1970年)、エウヘニオ・ドールス著『プラド美術館の三時間』(美術出版社 1973年)などがあり、16世紀以降のスペインの巨匠について幅広く研究するとともに、日本でのスペイン美術紹介に尽力した。上智大学のほかに東京大学、東北大学、慶応義塾大学、学習院大学などでもスペイン美術史を講じ、後進の指導にも尽くした。没後、著作集『巨匠たちのスペイン』(毎日新聞社 1997年)が刊行され、年譜・著作目録は同書に詳しく掲載されている。

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