本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1989/08/16 法政大学名誉教授の文芸、美術評論家矢内原伊作は8月16日午前5時8分、胃がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年71。大正7(1918)年5月2日、愛媛県に生まれる。経済学者で元東京大学学長の矢内原忠雄の長男。昭和16(1941)年京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、戦後、同22年宇佐見英治らと『同時代』を創刊する。同29年C・N・R・S(フランス国立科学研究所)の招聘により渡仏し、31年に帰国。この間、ジャコメッティと交遊し、その作品のモデルともなったほか、ミロ、ザッキン、シャガールなど美術作家たちを知る。学習院大学、大阪大学、同志社大学などで教鞭をとり、同45年より法政大学教授となる。サルトル、カミュの実存主義哲学を紹介する一方、西欧の作家たちとの交遊と独自の視点にもとづく芸術評論を行なった。著書に『ジャコメッティとともに』『芸術家との対話』『抵抗詩人アラゴン』『京都の庭』『宝生寺』『サルトル』『矢内原伊作の本』などがあり、訳書にはジャコメッティ著『私の現実』、カミュ著『ジンフォスの神話』、アラン著『芸術について』などがある。
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没年月日:1989/05/16 書家、中国書道史家で、日本芸術院会員、文化勲章受章者の西川寧は、5月16日急性心不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去した。享年87。現代書道界の重鎮として活躍した西川寧は、明治35(1902)年1月25日西川元譲の三男として東京市向島区に生まれた。はじめ吉羊と号し、のち安叔と字し、靖庵と号す。父元譲は字を子謙、号を春洞と称した書家で、幼時から神童をうたわれ、漢魏六朝普唐の碑拓法帖が明治10年代にわが国にもたらされるや、その研究に志し、また説文金石の学にも通じ書家として一派をなした。13歳で父春洞を亡くし、大正9(1920)年東京府立第三中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に入学、この頃中川一政と親炙した。同15年同大学文学部支那文学科を卒業。在学中、田中豊蔵、沢木梢、折口信夫の学に啓発された。卒業の年から母校で教鞭をとり、のち同大教授として昭和20年に及んだ。昭和4年、中村蘭台主催の萬華鏡社に加わり、翌5年には金子慶雲らと春興会をおこし雑誌「春興集」を創刊、また、泰東書道院創立に際し理事として参加、この時、河井荃廬と相識る。同6年、最初の訪中を行い、同年『六朝の書道』を著す。同8年、金子、江川碧潭、林祖洞、鳥海鵠洞と謙慎書道会を創立。同13年、外務省在外特別研究員として北京に留学、同15年までの間、山西(大同雲崗他)、河南(殷墟)、山東(徳州、済南他)など各地の史蹟、古碑を訪ね、中国古代の書を独力で精力的に研究し、帰国後の創作ならびに研究活動へと展開させた。とくに、創作においては、従来とりあげられることの少なかった篆書・隷書に、近代的解釈を加え独自の書風を確立していったのをはじめ、楷書においては、六朝の書風を基礎とした豪快な書風を確立して書道界に新風を吹き込んだ。同16年『支那の書道(猗園雑纂)』を印行、同18年には田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催した。戦後は、同23年に日展に第五科(書)が新設されて以来、審査員、常務理事などをつとめ運営にあたった。同30年、前年の日展出品作「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞、同44年日本芸術院会員となる。この間、同24年、松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊、同56年まで編輯主幹をつとめ、また、同22年から37年まで東京国立博物館調査員として中国書蹟の鑑査と研究にあたったほか、自ら深く親しんだ中国・清朝の書家趙之謙の逝去七十年記念展をはじめ、同館の中国書の展観を主辨した。また、同35年には、「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で文学博士の学位(慶應義塾大学)を受けた。一方、同34年から同40年まで東京教育大学教授をつとめたほか、東京大学文学部、国学院大学でも講じた。戦後も二度中国を訪問、また、ベルリン、パリ、ロンドン等を二回にわたって訪ね、ペリオ、スタイン、ヘディン等によって発掘された西域出土古文書の書道史的調査を行った。同52年、文化功労者に挙げられ、同60年には書家として初めて文化勲章を受章した。作品集に『西川寧自選作品』(同43年)、『同・2』(同53年)等、著書に『猗園雑纂』(同60年再刊)等がある他、すぐれた編著書を多く遺す。没後、従三位勲一等瑞宝章を追贈される。また、自宅保存の代表作の殆んどを含む遺作百数十点余は、遺志により東京国立博物館へ寄贈された。平成3年春から著作集の刊行が予定されている。
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没年月日:1989/03/28 京都市美術館長、京都市立芸術大学名誉教授の元井能は、3月28日午前5時38分、急性心筋こうそくのため京都府長岡京市の済生会京都府病院で死去した。享年69。大正9(1920)年1月5日、京都市上京区に生まれる。昭和17(1942)年、大阪外国語学校仏語部を卒業し、同21年4月京都大学文学部に入学。美学美術史学を専攻し同24年同大学を卒業して同大学院に進学する。同32年より京都市立美術大学講師として教鞭をとり、38年同助教授となる。同45年、前年に京都市立芸術大学と改称した同大学教授となって、同60年停年退職するまで長く後進の指導に当たる。停年後は、京都市美術館館長をつとめたほか、京都国立近代美術館評議員、文化庁文化財保護審議会専門委員でもあった。工芸史、特に染織、服飾を専攻し、著書に『西洋被服文化史』『日本被服文化史』『彦根更紗』『フランス装飾裂』、共著に『芸術的世界の論理』『インドネシヤ染織』などがある。
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没年月日:1989/03/20 松岡美術館館長で美術蒐集家の松岡清次郎は、3月20日午後4時31分、呼吸不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年95。明治27(1894)年1月8日、東京都京橋区に生まれる。同45年中央商業学校を卒業して銀座の貿易商に勤務し、数年後に独立。雑貨輸出入業に従事し、第一次世界大戦時に不動産業、冷蔵倉庫業、ホテル業など多角的に事業を拡大。昭和7(1932)年、松岡創業を開設する。一方、古美術品蒐集を始め、初期には日本画を、戦後は中国陶磁を中心に蒐集。昭和49年6月「青花双鳳草虫図八角瓶」を落札して注目されたほか、「青花龍唐草文天球瓶」の入手、昭和55年シャガールの「婚約者」、同61年「釉裏紅牡丹蓮花文大盤」の落札などで話題となった。同50年11月、コレクションの公開のために東京都港区新橋5-22-10の自社ビル内に松岡美術館を設立。中国陶磁、日本画、西欧絵画、インド仏教彫刻など幅広いコレクションが展観されている。
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没年月日:1989/03/13 美術品蒐集家、平野政吉美術館館長の平野政吉は、3月13日午後7時2分、心筋こうそくのため秋田市の中通病院で死去した。享年93。明治28(1895)年12月5日秋田県秋田市に生まれる。米穀商から広大な田畑を所有する大地主となった初代政吉を祖父に、家業を継ぐ一方金融業をもとにした「平野商会」を設立した二代政吉を父に、その長男として生まれ、幼名精一。明徳小学校卒業後、秋田中学に入学するが中退。20歳頃から飛行機に興味を持ち、日本帝国飛行協会の小栗常太郎の主宰する小栗飛行学校に5年間ほど学ぶなど、新奇なものに逸早く傾倒。一時、画家を志すなど美術にも興味を持ち、昭和4(1929)年、洋画家藤田嗣治の帰国展を見、同9年の二科展で藤田の知遇を得、その作品に強くひかれ蒐集を始める。同12年には藤田を秋田に招き大壁画「秋田の行事」の制作を依頼するなど、藤田嗣治のコレクターとして知られるようになる。同13年、私立美術館設立に着手するが、第二次世界大戦下の資材不足のため頓坐し、戦後の42年5月5日、財団法人平野政吉美術館を開館してその館長となった。藤田嗣治のコレクションのほか、郷里に関連する秋田蘭画を中心とした初期洋風画、西洋絵画など幅広く蒐集、公開を行ない、豪胆放逸な人柄とともに広く世に知られた。
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没年月日:1989/02/23 美術品蒐集家、財団法人高麗美術館理事長の鄭詔文は、2月23日午後2時、肝不全のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年70。大正7(1918)年11月2日、朝鮮半島慶尚北道に生まれる。同14年、両親と共に来日。働きながら小学校を卒業し、戦後、飲食店などを経営する一方、朝鮮半島の美術品を蒐集。また、昭和44年から56年まで朝鮮文化社から季刊雑誌「日本の中の朝鮮文化」を刊行した。同63年10月25日、蒐集した高麗青磁、李朝白磁などの陶磁器、仏像、書画、家具など1700点あまりを所蔵する高麗美術館を自宅のあった京都市北区紫竹上ノ岸町15に設立し、財団法人とした。在日韓国人一世としての自己の体験から、美術品を通して故国の文化を理解、顕彰し広く共感を分かとうとしたもので、朝鮮考古・美術の調査、研究もあわせて行ないたいとの遺志を汲んで、現在は「高麗美術研究所」があわせて設立されている。
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没年月日:1989/02/02 京都大学名誉教授の考古学者小林行雄は、2月2日結腸がんのため京都市左京区の吉川病院で死去した。享年77。古鏡研究の権威として知られ、考古学における弥生時代の学問的基礎を確立し、古墳時代研究の基礎を築いた小林行雄は、明治44(1911)年8月神戸市に生まれた。昭和7年神戸高等工業学校建築科(現神戸大工学部)を卒業。在学中から考古学に強く関心をもち、卒業後も独自の調査と研究を進め、京都大学考古学講座の浜田耕作教授に発表論文を認められ、同10年同大学考古学教室の助手に任用された。同14年、『弥生式土器聚成図録』を刊行、膨大な資料を整理、体系化する学問的方法論によった同書で、弥生文化研究の基礎を確立した。同年、田村実造の下で内蒙古ワールインマンハで遼の三皇帝陵『慶陵』の調査に従事し、その報告書『慶陵』で昭和28年度朝日賞、翌29年日本学士院賞恩賜賞を受賞した。同30年、古墳に埋葬された同范鏡、とくに全国から出土する三角縁神獣鏡の分布整理により、古墳の成立、発展を具体的に実証し、古墳時代初めに既に畿内を中心とした広範な政治体制が成立していたことを解明した。この学説は、その後の邪馬台国論争において、邪馬台国畿内説の最大の論拠として用いられた。京都大学では、長く講師の職におり、退官前年の昭和49年教授となった。また、文化財保護審議会専門委員(考古部会長)などを歴任する。著書は他に、『図説考古学辞典』(共著)、『日本考古学概説』など多数がある。
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没年月日:1988/12/20 文学博士、元奈良国立博物館学芸課長、元竜谷大学教授の小野勝年は12月20日午後9時45分、急性心不全のため奈良市高畑本薬師寺町626の自宅で死去した。享年83。明治38(1905)年12月1日、長野県上伊那郡辰野町大字小野に生れる。県立松本中学校、松本高等学校を経て、昭和2年に京都帝国大学文学部史学科に入学、この後病気の為2年間休学し昭和8年論文「両税制度の一考察」を提出し卒業。同年京都帝国大学大学院に入学、研究テーマを支那中世文化に据え、同年より昭和18年5月まで同大学文学部副手を務めた。この間昭和12年10月より、同15年3月まで、外務省在支特別研究員として中国に留学し、華中・華北・東北・蒙古等の史蹟の調査を行い、中国美術・考古の研究を進め、その後も昭和20年6月の現地召集まで華北交通株式会社嘱託や華北綜合調査研究所員として中国史蹟の調査・研究を継続した。 戦後は一時、郷里長野県の日野青年学校教官、日野中等学校教諭を務め、昭和23年8月から昭和42年3月の退官に至るまで奈良国立博物館で過した。奈良国立博物館においては昭和27年8月に学芸課工芸室長兼資料室長となり、昭和36年4月に学芸課考古室長、昭和39年9月より学芸課長を任ぜられ、考古室長事務取扱を兼務した。この奈良博時代には、研究の関心が中国と日本の接点にまで拡げられ、円仁を中心とする入唐僧の研究を中心に成果が発表された。この間、昭和18年に村田治郎(『日本美術年鑑昭和61年版』参照)を隊長として行なわれた北京郊外の居庸関雲台保存調査の結果である『居庸関』(京都大学工学部)の「第5章雲台浮彫細部の意匠」を担当し、『居庸関』に対して昭和34年5月に学士院賞を受け、昭和37年3月には京都大学より『円仁入唐求法の研究』によって文学博士の学位が授与された。そして奈良博時代の締め括りとして、昭和41年に中心となって担当した「大陸伝来仏教美術展」は大きな反響を呼んだ。 奈良博退官後、昭和42年4月から昭和55年3月に至るまでは龍谷大学及び大学院で東洋史学、博物館学とその実習の指導に当った。後進の教育には、奈良博時代より力を尽し、奈良女子大学・京都大学・京都大学大学院・関西大学・関西大学大学院・京都女子大学・大阪大学・大阪学芸大学・奈良教育大学・愛知学院大学・追手門学院大学・大阪女子大学など多くの大学・大学院で東洋文化史・博物館学を講じた。また、昭和36年から奈良県文化財保護審議会委員などを務め、文化財保護行政にも貢献した。これらの業績に対して、昭和51年11月には勲四等旭日小授章を授与され、没後の平成元年1月には正五位に叙せられた。 研究業績は多く、先に述べた分野の他、書道史・芸能史・工芸史・考古学にまで及んでいる。以下、主要な著書・編書をあげておく。○『北支那に於ける古蹟・古物の概況』(共著) 興亜宗教協会刊 昭和16年3月○『五台山』(共著) 座右宝刊行会刊 17年10月○『蒙疆陽高縣漢墓調査略報-蒙疆陽高縣古城堡漢墓調査略報-』(共著) 大和書院刊 18年11月○『金城堡-山西臨汾金城堡史前遺蹟-』 北京華北綜合調査研究所刊 20年6月○『蒙疆考古記』(共著) 学芸社星野書店刊 21年11月○『法隆寺の壁畫とその模写事業』 国立博物館奈良分館刊 24年9月○『下高井-下高井地方の考古学的調査-』 長野県教育委員会刊 28年12月○『高句麗の壁畫』(『中国の名画』) 平凡社刊 32年6月○『世界美術全集』第15巻中国4隋・唐 角川書店刊 36年11月○『入唐求法巡札行記の研究』第1巻~第4巻 鈴木学術財団刊 39年~44年○『請来美術』 奈良国立博物館刊 42年11月○『石像美術』(『日本の美術』第45号) 至文堂刊 45年2月○『慶州と奈良』 奈良市刊 45年4月○『阿倍仲麻呂とその時代-日中友好の先覚者-』 奈良市刊 53年10月○『龍門二十品』(『書迹名品集成』第4巻) 同朋舎刊 56年7月○『褚遂良・雁塔聖教序』(『書迹名品集成』第7巻) 同朋舎刊 56年7月○『入唐求法行歴の研究-智證大師円珍篇-』上・下巻 法蔵館刊 57年○『中国隋唐長安寺院史料集成』 平成元年2月尚、詳細な業績等に関しては、喜寿を機に編まれた『小野勝年博士頌寿記念東方学論集』を参考にされたい。
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没年月日:1988/12/14 庭園文化研究所長、元奈良国立文化財研究所建造物研究室長森蘊は、12月14日午後10時48分、急性ジン不全のため奈良県天理市の天理よろづ相談所病院で死去した。享年83。数年前に軽い脳梗塞で倒れ、回復後、この3月に再び倒れていた。明治38(1905)年8月8日、東京都立川市に生まれる。一高卒業後、昭和7年東京帝国大学農学部林学科を卒業し、同大学院に進学、9年修了する。この間、昭和8年5月内務省衛生局嘱託となり、13年1月より厚生省体力局施設課に勤務、国立公園を担当するこの部局で、庭園などにも関する実務の基礎を築く。また昭和7年頃より京都、鎌倉、平泉などの庭園や遺跡を調査し、昭和13年「京都に残る平安期の庭園遺跡を訪ねて」(『庭園』20-3)、「枯山水」(『宝雲』23)を発表。14年1月発足した『建築史』に同人として参加し、「法金剛院の庭園について」(第1巻1号、2号)をはじめ、19年の終刊まで執筆を続ける。また14年「平安時代前期庭園に関する研究」(『建築学会論文集』13、14)、14~16年「泉殿、釣殿の研究1~3」(『宝雲』)など、建築と一体化した庭園史研究を進める。16年厚生省から転じて東京市技師となり、19年井之頭公園自然文化園園長に就任。20年1月には海軍技師となり、ボルネオ民政部員として南ボルネオ地方の原始住居や農業園芸などの調査にあたる。21年5月復員後東京都の農事試験場に勤務。22年5月より一時東京植木株式会社に研究部長として勤めたのち、同年8月国立博物館嘱託となり、修理課で文化財保護に携る。25年文化財保護法成立により文化財保護委員会が設立され、修理課は同委員会の建造物課となった。この間、20年7月戦前の庭園研究の集大成として『平安時代庭園の研究』を刊行。戦後は桂離宮の研究に取り組み、25年「桂離宮古書院について」(『建築史研究』3)、26年「桂離宮古図について」(同8)、26年『桂離宮』(創元選書)などを発表する。27年奈良国立文化財研究所が新設され、建造物研究室の初代室長に就任。奈良に移って以後、桂離宮、修学院離宮のより精密な研究を進め、29年『修学院離宮の復元的研究』(奈文研学報第2冊)、30年「修学院離宮造営に利用された建物と地形について」(『文化史論叢』奈文研学報第3冊)を発表、両離宮の研究により、29年東京工業大学より工学博士号を授与され、34年には日本建築学会賞を受賞した。その後も庭園と建築を一体化させた研究を進め、旧興福寺大乗院についてまとめた34年『中世庭園文化史』(奈文研学報第6冊)、37年『寝殿造系庭園の立地的考察』(同学報第13冊)、近世庭園についても41年『小堀遠州の作事』(同学報第18冊)などを著す。42年奈良国立文化財研究所を退官したのち、京都市に庭園文化研究所を設立。浄瑠璃寺、忍辱山円成寺、法金剛院、白水阿弥陀堂、平泉毛通寺、和歌山城紅葉溪などの庭園を発掘、復元したほか、唐招提寺、薬師寺などの庭園の設計も行なった。49年『庭ひとすじ』で毎日文化賞を受賞し、このほか46年『奈良を測る』、61年『作庭記の世界』などを刊行している。
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没年月日:1988/11/19 日本近世建築史の調査研究および復元、保存に尽力した建築家、建築史学者の藤岡通夫は、11月19日午後7時40分、胃がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年80。明治41(1908)年7月31日、東京都文京区に生まれる。父は美術史家の藤岡作太郎。昭和7(1932)年東京工業大学建築学科を卒業して同科助手、14年同助教授となる。戦中、東南アジアを訪れて建築を調査し、18年に『アンコール・ワット』(彰国社)『アンコール遺跡』(三省堂)を刊行。24年、東京工業大学に「天守閣建築の研究」を提出して博士号を受ける。戦後は、26年東京工業大学教授となり教鞭をとる一方、文化財保護委員となり、城郭、遺構研究の蓄積をもとに和歌山城(33年)、小田原城(35年)、熊本城(35年、56年)ほかの外観復元を行なうなど建造文化財の保護に尽力する。研究分野では、京都御所の調査を中心に近世の内裏建築、近世住宅史研究に取り組み、『京都御所』(彰国社、31年、新訂版、中央公論美術出版、62年)、『角屋』(彰国社、30年)、『三溪園』(三溪園事務所、33年)、『桂離宮』(美術文化シリーズ、中央公論美術出版、40年)などを刊行する。東京工業大学を停年退官して同校名誉教授となるとともに日本工業大学建築学科で教鞭をとり、のち同学学長をつとめた。この時期には、ネパール王宮建築を主要な研究対象とした。自ら設計も行ない、昭和33年以降建造文化財の復元、保存に主にたずさわる以前は、東京都内を中心に寺院建築の設計を手がけている。東京都文京区本郷真浄寺本堂は、平屋根、椅子式の合理的寺院建築の先駆的な例として注目される。(詳細な業績・著作目録は1989年9月刊『建築史学』13号に掲載されている。)
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没年月日:1988/09/18 元京都教育大学教授で嵯峨美術短期大学の学長をつとめた工芸史家片山行雄は、9月18日午後零時15分、すい臓がんのため京都市左京区の京大付属病院で死去した。享年79。明治41(1908)年10月12日、三重県三重郡に生まれる。旧姓訓覇。昭和2(1927)年京都市立美術工芸学校を卒業。8年東京美術学校図案科を卒業し、同年森永製果広告課に入社する。14年京都市立美術工芸学校教員となる。22年より京都市立美術専門学校で教鞭をとり同校教授となるが、24年より京都市工芸指導所に勤務する。38年同指導所を退職。翌39年浪速短期大学教授、42年京都教育大学教授となる。47年京都教育大学を停年退官し、同年より嵯峨美術短期大学教授となり、60年より同学学長をつとめた。工芸学、工芸史およびデザイン史を専門とし、長く美術教育に尽力した。京都市円山公園水飲所デザイン等、制作にも従事している。
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没年月日:1988/06/09 東京画廊を設立し日本の現代美術の展開に寄与した山本孝は6月9日午後6時35分、肺しゅようのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年68。大正9(1920)年3月12日、新潟県村上市に生まれる。昭和4(1929)年上京。東京市池袋第二小学校高等科を卒業し、8年、骨董商平山堂商店につとめる。戦後、同20年再び平山堂商店に入り、23年独立して数寄屋橋画廊を設立。25年に同画廊を解散し翌26年東京画廊を設立する。33年斎藤義重展を開催し、その後前衛的な現代作家の作品を次々と紹介。桂ゆき、白髪一雄、高松次郎、前田常作、豊福知徳、川端実、李禹煥などの個展を開き、また、フンデルト・ワッサー、イブ・クラインなど海外の作家の紹介にもつとめた。33年日本洋画商協同組合の創立に参加し、53年より60年までその理事長を務める。数寄屋橋画廊時代の同僚、志水楠男らとともに現代美術を対象とする画廊の創成期をになった。
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没年月日:1988/04/28 美術評論家、大阪芸術大学名誉教授の村松寛は、4月28日午前11時50分、胃ガンのため大阪府寝屋川市の青樹会病院で死去した。享年75。明治45(1912)年6月24日京都市中京区に生まれる。昭和11年京都大学文学部史学科(国史)を卒業し、同年滋賀県立八幡商業学校教諭となる。15年朝日新聞大阪本社に入社。20年同社学芸部勤務となり、美術担当記者として美術評論を手がける。37年同企画部となったのちも美術評論を続け、42年6月同社を停年退職。同年10月大阪芸術大学美術学科教授となり、のち同大学名誉教授となる。一方、47年より梅田近代美術館館長、のち大阪府立現代美術センター所長となり、美術館活動にも携わった。著書に昭和35年『美術館散歩』(河原書房)、42年『京の工房』(同)などがある。
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没年月日:1988/04/05 日本美術家連盟相談役で美術家の国際交流に貢献した和田新は、4月5日午前4時10分、肺炎のため東京都三鷹市の杏林病院で死去した。享年88。明治32(1899)年5月7日大阪市浪華女学校内の主幹住宅に、牧師の青山彦太郎の長男として生まれる。45年単身上京し、母の兄和田英作宅に寓居、明治学院普通部を経て東京美術学校西洋画科に入学し、大正13(1924)年同科を卒業する。昭和2年1月より現在の東京国立文化財研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所設立準備事業にたずさわる。4年、東京美術学校助教授となり西洋美術史を講ずる。同年より翌年にかけ文部省の派遣により西アジア美術史研究のため欧州、イラン、イラク等を巡遊する。5年帝国美術院附属美術研究所嘱託となる。10年5月東京美術学校教授となるが同8月依願退官。この年青山家より和田家へ転籍する。12年帝国美術院附属美術研究所所員となり、17年退官。22年日本博物館協会幹事となる。26年日本美術家連盟事務局長となり46年まで長きにわたり美術家の国際交流に尽くし、46年以後も同連盟相談役をつとめる。また、46年よりほぼ毎年油絵個展を開催した。著書に『イーラーン芸術遺跡』(昭和20年、美術書院)などがある。
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没年月日:1988/03/24 古代織物研究家で正倉院古裂調査研究員をつとめた佐々木信三郎は、3月24日午後3時59分、老衰のため京都市右京区の双ケ丘病院で死去した。享年89。明治31(1898)年5月10日京都市上京区に生まれる。東山中学校を卒業して第三高等学校理科甲類に学び、昭和4(1929)年京都大学文学部史学科を卒業。考古学を専攻する。西陣織物同業組合西陣史編纂室に入り、7年上代からの流れを追った労作『西陣史』を刊行する。15年より川島織物研究所研究員となり、50年まで同所で古代裂の研究に従事した。また、28年宮内庁嘱託古裂調査員となり29年より45年まで正倉院古裂調査研究員として正倉院御物の研究に従事するほか、華頂短期大学家政学科で日本服飾史を講じた。著書に『西陣史』のほか『日本上代織技の研究』(昭和26年)、『上代綾に見る斜子技法』(33年)、『神護寺経帙錦綾私見』(同年)、『羅技私考』(35年)、『正倉院の羅』(46年)、『上代錦綾特異技法攷』(48年)などがある。51年京都新聞社文化賞を受賞している。
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没年月日:1988/03/23 京都市立芸術大学学長、北海道立近代美術館館長をつとめた美術史家佐藤雅彦は、3月23日午後7時40分、脳出血のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年62。大正14(1925)年10月10日、東京都品川区に生まれる。昭和25(1950)年慶応義塾大学文学部美学美術史科を卒業。翌26年大阪市立美術館に入り東洋美術史を研究する。47年より京都市立芸術大学美術学部教授となり、55年より58年まで同大学学長をつとめる。北海道立近代美術館館長でもあった。西アジアの伝統工芸、中国、日本の陶磁史を専門とし、著書に『中国の土偶』『中国陶磁史』『やきもの入門』『中国やきもの案内』『京焼』『乾山』『白磁』『中国の陶磁』、共著に『漢代の美術』『六朝の美術』『隋唐の美術』などがある。
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没年月日:1988/03/12 元文化庁長官、前東京国立近代美術館館長、文化庁顧問の安達健二は、3月12日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年69。文化行政全般に多大の功績のあった安達は、大正7(1918)年12月22日愛知県春日井市に生まれ、昭和20年東京大学法学部政治学科を卒業、同年文部省に入省した。終戦直後の同省で教育基本法、文化財保護法などの制定を手がけた。同28年文化財保護委員会無形文化課長となり、国指定重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」制度をつくった。以後、初等中等教育局教科書課長、大臣官房人事課長、社会教育局審議官、文化局審議官、文化局長等を歴任し、同43年文化庁次長となり、同47年今日出海に継ぐ第二代文化庁長官に就任、同50年9月まで在任した。同51年1月東京国立近代美術館館長となり、61年3月退官、4月文化庁顧問となった。東京国立近代美術館館長在任10年の間、極めて精力的に同館の運営にあたった。同52年旧近衛師団司令部庁舎跡利用に関し、室内の改装を施し東京国立近代美術館工芸館として開館したのをはじめ、本館の収蔵庫増築を行い、同61年には東京国立近代美術館フィルムセンター相模原分館の竣工をみた。さらに、京橋の同館フィルムセンター建て替え計画も軌道にのせた。一方、同館は開館以来日本近代美術作品の収集を基本としていたが、今世紀の海外作品を含む国際的コレクションとする収蔵方針を打ちたて、ピカソ、ベーコン等の作品を在任中収蔵した。これに関連し海外展の開催にあたっても自ら尽力し、シャガール展(同51年)、マチス展(同56年)、ピカソ展(同58年)、退官後の展観となったゴーギャン展(同62年)等、国内で行われたこれらの作家の展覧会としては最も充実した内容に富む企画展に関与した。また、同52年にはアメリカから日本人画家による戦争画の一括返還を受け、これらを美術作品として部分的に公開する途を開いた。この間、大英勲章(同51年)、フランス芸術文化勲章(同52年)、イタリア共和国勲章(同53年)、世田谷区制55周年特別文化功労章(同62年)等を受章する。没後勲一等瑞宝章受章。著述に『教育基本法の解説』『中等教育の基本問題』『文化庁事始』『悠々閑々 画家の素懐』(日本画家編)などがある。
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没年月日:1988/02/23 美術評論家、東京学芸大学名誉教授の久富貢は、2月23日午前8時45分、心筋梗塞のため東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去した。享年79。明治41(1908)年8月28日福岡県山門郡に生まれる。広島高等学校卒業後、京都帝国大学に入学し、昭和7年同大文学部美学美術史学科を卒業する。同年東京帝国大学文学部大学院に入学したが、10年中退、日本大学講師となる。12年国際文化振興会に勤務し、21年4月同編纂課長となった。22年中央労働学園専門学校講師、23年3月法政大学講師を経て、25年4月東京学芸大学講師、26年同大教授となり、教鞭をとった。同26年「日本来朝前のフェノロサ(1)(2)」(『国華』712、713)、続いて27年「フェノロサについて」(美学2(4))、29年「アーネスト・フェノロサ-その思想と美術上の活動」(東京学芸大学研究報告第6集別冊(1))を発表。32年にはそれらをまとめ、優れた最初のフェノロサ研究書『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』(理想社)を刊行した。その後も、39年「Lawrence W.Chisolm,“Fenollosa;the Far East and American Culture”について」(東京学芸大学研究報告16(1))、42年「チゾムの『フェノロサ』を中心として」(本の手帖61)、同年「フェノロサとその周辺」(日米フォーラム13(8))などを発表する。34年より36年まで東京学芸大学附属図書館館長を兼任し、39年には文部省在外研究員として欧米に出張している。47年3月東京学芸大学を停年退官、同年6月名誉教授となった。翌48年4月共立薬科大学教授となり、49年跡見女子大学教授(共立薬科大学教授を引続き兼任)となる。この間、38年10月『小川芋銭・富田渓仙』(講談社『日本近代絵画全集』第19巻)、49年1月『前田青邨』(集英社『現代日本美術全集』第15巻)、『安田靫彦』(中央公論社『日本の名画』第14巻)などを刊行。さらに55年『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』に加筆訂正した『アーネスト・F・フェノロサ』(中央公論美術出版社)、56年ジョン・ラファージの日本旅行記を翻訳した『画家東遊録』(中央公論美術出版社、桑原住雄と共著)を出版するなど、フェノロサをはじめ近代日本美術研究に多大の貢献を残した。研究業績については、フェノロサ学会機関誌『Lotus』第9号を参照されたい。
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没年月日:1988/02/21 日本の絵巻物研究の基礎を築く優れた多くの業績を残した、元文化財保護審議会専門委員、元京都国立博物館学芸課長、文学博士、梅津次郎は、2月21日午後10時32分、呼吸不全のため京都市東山区の洛東病院で死去した。享年81。 明治39(1906)年10月19日、三重県宇治山田市に生れた。昭和7(1932)年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同10年5月から21年3月まで帝国美術院付属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)嘱託として日本古代中世絵画史研究に従事し、21年4月からは、当時は恩賜京都博物館と称した京都国立博物館に勤務し、同43年3月、学芸課長として定年退官した。退官後は、同年4月から大谷大学講師、奈良国立文化財研究所調査員を兼ねる一方、同年8月から62年3月まで文化財保護審議会専門委員をつとめた。 生涯を通じて追求した主題は絵巻物研究であった。「実証的な基礎に立たない発言は殆ど無意味である。啓示もそこから生れる。」という姿勢に貫かれた研究からは絵巻の絵と詞に関する異本との詳細な校合が行なわれ、多くの作品が日本絵画史の上に新たに意義づけられていった。研究活動の後半は、絵巻物を説話画の一形態と認識する視点から研究を続けたが、実証的研究を標榜した研究成果は鋭い感性と鑑識に支えられていた。絵巻物研究の水準のみか日本絵画史研究の水準を引上げた目覚しい研究業績の中から定期刊行物所載の論考を中心に発表順に次に記す。新名所絵歌合攷(美術研究29、昭和9年5月)男衾三郎絵詞(美術研究38、10年3月)天狗草紙考察(美術研究50、11年2月)池田家蔵弘法大師伝絵と高祖大師秘密縁起(美術研究78、13年6月)地蔵院本高野大師行状図画-六巻本と元応本との関係(美術研究83、13年11月)東寺本弘法大師絵伝の成立(美術研究84、13年12月)能恵法師絵詞について(美術研究104、15年8月)光明真言功徳絵詞(美術研究112、16年4月)伊保庄本並に津田本天神縁起絵巻に関して(美術研究114、16年6月)魔仏一如絵詞考(美術研究123、17年3月)天神縁起絵巻-津田本と光信本-(美術研究126、17年9月)帝室博物館蔵地蔵縁起絵巻考(美術研究131、18年4月)隨身庭騎絵巻雑記(美術研究136、19年5月)法然寺蔵地蔵縁起絵巻について(美術研究143、22年9月)是害坊絵巻の変遷、上・下(国華、675、676、23年6月、7月)義湘・元曉絵の成立(美術研究149、23年8月)池大雅筆楡枋園図(国華685、24年4月)秋夜長物語(国華687、24年6月)熊野影向図(国華701、25年8月)石清水八幡宮曼荼羅・八幡若宮像(国華704、25年11月)新出の法然上人伝法絵について(国華705、25年12月)善妙神像讃(大和文華1、26年3月)滝口縁起絵(国華718、27年1月)石山寺縁起絵考(美術史6、27年7月)八幡縁起絵巻(国華740、28年11月)後土御門天皇宸賛の墨画庚申図に就て(国華743、29年2月)フリア画廊の地蔵験記絵と探幽縮図(大和文華13、29年3月)大和絵(平凡社「世界美術全集」15、29年8月)高野大師行状絵の零巻について(国華752、29年11月)鎌倉時代大和絵肖像画の系譜-俗人像と僧侶像-(仏教芸術23、29年12月)五趣生死輪図に就いて-絵解の絵画史的考察その一-(美術史15・16、30年4月)「子とろ子とろ」の古図-法然寺蔵地蔵験記絵巻補記(ミュージアム50、30年5月)志度寺絵縁起に就いて(国華760、30年7月)変の変文-絵解の絵画史的考察その二-(国華760、30年7月)有馬温泉寺絵縁起に就いて(大和文華17、30年9月)謝蕪村筆桃源行図(国華771、31年6月)正嘉本天縁神起絵巻について-その出現並びに弘安本との関係-(国華779、32年2月)平安時代の美術(京都国立博物館特別展目録)(32年10月)徳川美術館の掃墨絵について(大和文華25、33年3月)鳥の物語絵巻断簡(国華793、33年4月)初期融通念仏縁起絵について(仏教芸術37、33年12月)東大寺本善財童子絵巻私考(大和文華29、34年4月)天理本源氏物語絵巻について(ビブリア14、34年6月)伝光信筆平家物語絵巻(美術史35、35年2月)日本の説話画(京都国立博物館特別展目録)(35年5月)華厳入法界品善財参問変相経(大和文化研究31、35年11月)矢田地蔵縁起絵の諸相(美術史39、36年1月)硯破絵巻その他-「小絵」の問題-(国華828、36年3月)瓜子姫絵巻の断簡(ミュージアム125、36年8月)版本の絵巻物-融通念仏縁起と高野大師行状図画-(講談社「日本版画美術全集」1、36年9月)粉河寺縁起絵と吉備大臣入唐絵(角川書店「日本絵巻物全集」5、38年8月)絵巻物残欠愛惜の譜(日本美術工芸316~334、40年1月~41年7月)吉備大臣をめぐる覚え書-若狭所伝の三つの絵巻-(美術研究235、40年3月)弘法大師行状絵巻の系譜(日本美術工芸319、40年4月)藤原兼経像(国華884、40年11月)上野家の法華経冊子について(大和文華44、41年1月)常謹撰「地蔵菩薩応験記」(大和文化研究101、41年9月)長谷雄双紙(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)十二類合戦絵巻(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)福富草紙(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)絵と絵詞(文学42-3、49年3月)山王霊験記絵巻雑記(国華984、50年9月)なお、これらの論考の大半は、『絵巻物叢考』(43年6月、中央公論美術出版)、『絵巻残欠の譜』(45年1月、角川書店)、『絵巻物叢誌』(47年2月、法蔵館)に収められている。
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没年月日:1988/01/12 美術史家で、元東京芸術大学教授、国華編輯委員、文化財保護審議会専門委員の吉澤忠は1月12日、心不全のため横浜市西区東ケ丘の自宅において死去。享年78。明治42(1909)年6月15日、東京の医師の家に生れた。幼児の頃隣家に住していた板谷波山に可愛がられ、後年『板谷波山伝』等波山に関する著作があるのもそうした縁による。浦和高等学校から東京帝国大学文学部美術史学科に入学、同大学院へ進み、昭和8年同研究室副手となる。大学では瀧精一の下で中国美術を専攻。昭和10年文部省重要美術品等鑑査事務嘱託、昭和16年東方文化学院研究員嘱託を経て昭和21年文部省重要美術品等調査嘱託となった後、東京国立博物館嘱託から同23年文部技官として同館に勤務。しかし、同館の民主化運動の推進者としての活動が起因となり翌24年に依頼免官となった。この時同じく退職した藤田経世等と文化史懇談会を創設した。この会の成果のひとつとして、『日本美術史叢書』(東京大学出版会)があげられるが、自身は『渡辺崋山』を執筆している。 昭和27年より多摩美術大学講師として教鞭をとる一方、昭和33年9月より国華編輯委員として古美術研究誌「国華」の編輯に参加。爾来没するまで、南画を中心として30余の論文を発表し、170点余の作品を紹介している。昭和38年には東京芸術大学講師となり、同52年の退官まで同大で教鞭をとる(同40年助教授、同42年教授)。同61年には同大名誉教授に推された。 その研究領域は昭和17年「国華」に発表した「南画と文人画」以後、主として日本の南画にしぼられ、南画を体系的に把握し、日本南画研究の骨格をつくった業績は高く評価される。その研究の大要は『日本南画論攷』によって窺うことができるが、自己の仕事をふりかえりみて述べたその後書きでもわかるように、一貫して画も思想であるという観点に立ち、画家の生き方と画との関連を追求するものであった。 またその関心はいわゆる古美術にとどまらず、近現代の美術に及んで『横山大観』等を著し靉光を語り、昭和24年制定された文化財保護法をはじめとする文化財行政にも強い関心をもち「明治・大正時代と現代との古美術評価の変化」等の論文を著わすとともに、日本の現代美術の舌峰鋭い批判者でもあった。こうした研究上の課題や関心は、すでに昭和29年に刊行された『古美術と現代』において鮮明に語られており、上記の仕事が一貫して美術と人間と社会をめぐる問題意識のもとに展開されたものであることが理解される。同時に本書で示されている美術史家・作家の姿勢、伝統と創造、美術行政などについてのするどい指摘はいまなお古びていない。 病躯をおして「国華」百年の論文に目を通し、選択し編んだ『国華論攷精選』が、最後の仕事となった。 主な著作・論文等南画と文人画 国華 622、624~626 昭和17年9月、昭和18年1月美術界の封建性 日本評論 21-12 昭和21年12月参議院文化財保護法批判 日本歴史 19 昭和24年9月田能村竹田の敗北 国華 696~699 昭和25年3月、昭和25年6月浦上玉堂筆東雲篩雪図 国華 706 昭和26年1月崋山-特にその描線について- 美術史 9 昭和28年6月古美術と現代 昭和29年8月崋山の周囲と大鹽事件 上、下 国華 765、766 昭和30年11月、12月渡辺崋山 日本美術史叢書 昭和31年11月大雅 日本の名画 昭和32年3月池大雅画譜 第1-5輯(編集、図版解説) 昭和32年2月、昭和34年5月横山大観-日本近代画のたたかい- 美術出版社 昭和33年9月関西の南画と江戸の南画 萌春 61 昭和33年11月大雅二十代の作品-年記のある作品を中心に- 美術研究 201 昭和34年3月池大雅における様式転換-二十代・三十代の作品を中心に- 国華 811 昭和34年10月渡辺崋山筆 一掃百態図について 国華 812 昭和34年11月彭城百川筆陶原家の襖絵について 国華 619 昭和35年12月浦上玉堂筆煙霞帖について 国華 830 昭和36年5月大雅伝説の信憑性 国華 836 昭和36年11月横山大観 日本近代絵画全集 15 昭和37年8月菱田春草 日本近代絵画全集 16 昭和38年6月崋山の田原塾居とヒポクラテス像 国華 873 昭和39年10月彭城百川筆秋山風雨図 国華 882 昭和40年9月板谷波山伝 昭和42年大雅・蕪村と十便十宜画冊 十便十宜画冊(解説) 昭和45年5月日本美術史(編集分担執筆) 昭和45年横山大観の人と芸術 重要文化財「生々流転」(複製)解説 昭和46年11月明治・大正時代と現代との古美術品評価の変化 国華 949 昭和47年8月池大雅 ブック・オブ・ブックス日本の美術 26 昭和48年3月立原杏所筆葡萄図 国華 967 昭和49年4月放蕩無頼の絵画-日本南画の主流として- 文学 42-10 昭和49年10月如意道人蒐集画帖について 国華 975 昭和49年11月玉堂・木米・米山人 水墨美術大系 13 昭和50年3月総論、南画の先駆者 水墨美術大系 別巻1 昭和51年3月久隅守景筆夕顔棚納涼図再論 国華 1004 昭和52年9月池大雅筆遍照光院襖絵-特にその制作年代を中心にして- 国華 1007 昭和52年12月浦上玉堂画譜 第1-3輯(編集、図版解説) 昭和52年12月、昭和54年日本南画論攷 昭和52年8月岡田米山人の人と作品 文人画粋編 15 昭和53年3月山水図屏風序説 日本屏風絵集成 2 昭和53年3月序説-近代日本画の展開 日本屏風絵集成 17 昭和54年2月与謝蕪村筆夜色楼台図について 国華 1026 昭和54年8月南画屏風論-大雅・蕪村を中心に 日本屏風絵集成 3 昭和54年11月与謝蕪村 日本美術絵画全集 19 昭和55年4月与謝蕪村筆紅白梅図屏風について 国華 1044 昭和56年8月与謝蕪村の若描きについて-弘経寺墨梅図襖絵にふれながら- 国華 1054 昭和57年8月浦上玉堂筆 圏中書画組合について 国華 1066 昭和58年9月円山応挙筆四季遊楽図巻下絵について 国華 1081 昭和60年3月岡田米山人筆 福寿草図 国華 1091 昭和61年2月久隅守景筆四季山水図屏風について 国華 1095 昭和61年7月同じ図のある池大雅筆蘭亭曲水屏風について 国華 1096 昭和61年8月青木木米筆薦寿南星図扇面を中心にして 国華 1107 昭和62年9月日本の南画 挿花清賞 昭和63年2月
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