本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





木幡順三

没年月日:1984/09/20

慶応義塾大学文学部教授で美学者の木幡順三は、9月20日肝不全のため東京都新宿区の東京厚生年金病院で死去した。享年58。大正15年(1926)年6月29日大阪市に生まれ、大阪府立北野中学校、第三高等学校理科甲類を経て昭和23年東京大学文学部哲学科に入学、美学を専攻し同26年卒業した。同29年から東洋大学で講じ、翌30年同大専任講師、同32年同助教授となり同41年教授に昇任した。同51年慶応義塾大学文学部教授に転じ美学美術史学科で教鞭をとる。この間、同43年に東京大学文学部で講じたのをはじめ、東京芸術大学、東北大学、大阪大学、成城大学、学習院大学等の非常勤講師をつとめた。また、学会にあっては同44年以来美学会委員をつとめ、美学会の運営に尽力した功績は大きい。慶応大学在職中の死去であった。主要著作に『美と芸術の論理』(同55年、勁草書房)、『美意識の現象学』(同59年、慶応通信)等がある他、没後『求道芸術』(同60年、春秋社)、『美意識論-付作品の解釈』(同61年、東大出版会)が刊行された。

松本栄一

没年月日:1984/07/02

文学博士、元東京芸術大学教授、元女子美術大学教授、東京国立文化財研究所名誉研究員で、東洋美術史研究、特に敦煌絵画の研究者として世界的に著名な松本栄一は、7月2日午後9時、心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年84。明治33(1900)年3月10日、台北市に生まれ、大正3(1914)年3月、広島県立第一中等学校を卒業。同年9月、第一高等学校に入学。同9年7月、同校第一部仏法科を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同12年3月に卒業。翌13年9月から昭和3(1928)年3月までは東京帝国大学文学部副手となり、副手を退職後、同5月から翌4年6月まで、研究のためヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリン、レニングラードなどの美術館、図書館において、スタイン、ペリオ、ル・コックほか西欧の研究者が将来した中央アジアや敦煌の資料を調査した。帰国後の同年7月に美術研究所研究事務嘱託に、更に同年10月には東京帝室博物館建築設計調査委員会事務嘱託に転じた。翌5年4月からは東方文化学院東京研究所(外務省)の研究員となり、古代中央アジア美術の研究を進めた。その研究成果の一部は、同12年3月、『敦煌画の研究』として東方文化学院東京研究所から刊行された。同3月から講師を勤めていた東京帝国大学から、この著書によって同14年4月に文学博士の学位を受けた。同16年4月からは同大学文学部助教授となり、翌5月には、同書に対して日本学士院恩賜賞が授与された。同20年6月、同大学を退職。戦後は、同24年8月から美術研究所所長に就任し、同27年4月に美術研究所が東京文化財研究所と組織替えをしてからは同年10月まで美術部長を勤めた。その後、同31年に東京大学で、同33年には女子美術大学において講義を行なったが、翌34年4月からは、東京芸術大学美術学部教授となった。同42年3月に同大学を停年退官して後、翌4月からは再び女子美術大学教授に迎えられ、同59年3月まで東洋美術史を講じた。 研究領域は、東洋美術史の中でも仏教を中心にした宗教美術に重点が置かれているが、専門領域との関連のある日本美術に対しても広げられている。数多くの研究論文が発表されたが、著書は『敦煌画の研究・図像篇』(昭和12年)のみであった。緻密な研究によって培かわれた豊かな学殖は、作品解説、書評、随筆などの記述に横溢しているが、ここでは、これらの中から定期刊行物所載の研究論文のみを発表順に列記する。引路菩薩について(国華387、大正11年)敦煌千仏洞に於ける北魏式壁画 上・下(国華400、402、大正13年)于闐国王李聖天と莫高窟(国華410、大正14年)東京帝室博物館の扇面法華経(国華419、大正14年)敦煌出騎馬人物図に就いて(国華425、大正15年)法華経美術1~3(国華427、428、433、大正15年)水月観音図考(国華429、大正15年)東洋古美術に現はれたる日月星辰1~4(国華436、437、440、450、昭和2年、同3年)十二因縁絵巻に就いて(国華438、昭和2年)法隆寺金堂四天王と七星剱(国華441、昭和2年)乾隆帝とその画(国華445、昭和2年)宇佐八幡と豊州の石仏(国華446、昭和3年)荏柄天神縁起絵巻に就いて(国華448、昭和3年)西域仏画様式の完成と極東1~3(国華465、466、469、昭和4年)村山家聖徳太子図に就いて(国華467、昭和4年)東洋古美術に現はれた風神雷神(国華468、昭和4年)兜跋毘沙門天像の起源(国華471、昭和5年)三條家の駒競行幸絵巻に就いて(国華476、昭和5年)小泉家の阿弥陀如来及二天王像(国華478、昭和5年)特殊なる敦煌-童子護符-(国華482、昭和6年)特殊なる敦煌画-絵入り護符-(国華488、昭和6年)金剛峯寺枕本尊説(国華489、昭和6年)特殊なる敦煌画-景教人物図 上・下-(国華493、496、昭和6年)和闐地方の仏画に見る特殊性とその流伝(東方学報・東京2、昭和6年)唐代童画の一例(考古学雑誌22-5、昭和7年)法隆寺金堂壁画と西域の壁画(夢殿論誌6、昭和7年)観経変相外縁の研究 上・下(国華502、503、昭和7年)被帽地蔵菩薩の分布(東方学報・東京3、昭和7年)和闐壁画の一断片に就いて(国華507、昭和8年)敦煌出開元年代画に就いて(国華511、昭和8年)地蔵十王図と引路菩薩(国華515、昭和8年)敦煌地方に流行せし牢度叉闘聖変相(仏教美術19、昭和8年)未生怨因縁図相と観経変(東方学報・東京4、昭和8年)薬師浄土変相の研究 上・中・下(国華523、524、526、昭和9年)雀離浮図雙身仏に因む摹倣像の伝播 上・下(国華531、532、昭和10年)誌公変相考(国華537、昭和10年)隨求尊位曼荼羅考(国華539、昭和10年)敦煌本唐訳白傘蓋陀羅尼経(東方学報・東京6、昭和10年)陽炎、摩利支天の実例(国華547、昭和11年)西域華厳経美術の東漸 上・中・下(国華548、549、551、昭和11年)唐代浄土変相の西漸(国華555、昭和12年)庫車壁画に於ける阿闍世王故事(国華566、昭和13年)景教「尊経」の形式に就いて(東方学報・東京8、昭和13年)敦煌出唐代花鳥幡(考古学雑誌28-1、昭和13年)呉道子と著色(国華582、昭和14年)支那浄土変相の発生(支那仏教史学3-3・4合併号、昭和14年)玄奘三蔵行脚図考 上・下(国華590、591、昭和15年)正倉院山水図の研究1~8(国華596、597、598、602、604、605、606、608、昭和15年、同16年)達長老私考(東方学報・東京11-1、昭和15年)壁画に於ける盛上げ描法(東方学報・東京11-3、昭和15年)牢度叉闘聖変相の一断片(建築史2-5、昭和15年)称名寺宝篋印陀羅尼輪壇(考古学雑誌31-4、昭和16年)Wall-Paintings of Horyuji Temple(Bulletin of Eastern Art 13・14合併号、1941年)印度山嶽表現法の東漸(国華618、昭和17年)仏影窟考(国華620、昭和17年)敦煌本十王経図巻雑考(国華621、昭和17年)西大寺四王堂の諸尊(国華632、昭和18年)西域式仏像仏画と東方の工人(国華638、昭和19年)法隆寺壁画の山中羅漢図(国華640、昭和19年)絵因果経私考 上・下(国華648、649、昭和19年)「かた」による造像(美術研究156、昭和25年)高麗時代の五百羅漢図(美術研究175、昭和29年)敦煌壁画釈迦説法図断片(美術研究181、昭和30年)敦煌本白沢精怪図巻(国華770、昭和31年)五代同光二年石仏(国華773、昭和31年)敦煌本瑞応図巻(美術研究184、昭和31年)敦煌画拾遺1・2(仏教芸術28、29、昭和31年)東京国立博物館蔵菩薩立像(国華800、昭和33年)Caractere concordant de l’Evolution de la Peinture de Fleures et d’Oiseaux et du Development de la Peinture Monochrome sur les T’ang et les Sung(Art Asiatique 5,1958年)初期小金銅仏の新資料(大和文華37、昭和37年)なお、以上の論文一覧には、国華419~476号の中の数号について、「松本二千里」あるいは「二千里」の執筆者を用いている論文も加えてある。

久保惣太郎

没年月日:1984/06/09

東洋古美術品のコレクションで知られる大阪府の和泉市久保惣記念美術館の名誉館長久保惣太郎は、6月9日午前6時10分頃、大阪府和泉市の自宅で縊死しているのを家人に発見された。享年57。7年前より脳血栓により入退院を繰り返していた。大正15(1926)年8月26日和泉市に生まれ本名英夫。昭和19年、織物の特産地大阪・泉州で織物業を営んできた老舗久保惣株式会社の三代目として取締役社長に就任する。久保惣は明治17年初代久保惣太郎(文久3~昭和3)が創業した地場繊維業のトップクラスで、初代の蒐集になる富岡鉄斎の泉州滞在期の三幅が久保惣コレクションの嚆矢であった。その後、茶を好んだ二代目(明治23~昭和19)と三代目を中心に昭和初期から戦後にかけて意欲的な蒐集を行ない、国宝2点、重要文化財28点を含む絵画、書跡、陶磁、金工、漆工など約500点の東洋古美術品を蒐集した。会社は昭和53年政府の構造不況業種に対する転廃業指導に則り転廃業の止むなきに至ったが、52年8月郷土への感謝と文化振興のためコレクションを和泉市に寄贈、美術館用地と建物の寄贈も行ない、57年10月和泉市久保惣記念美術館が発足した。発足と同時に同美術館名誉館長に就任、没後60年11月和泉市名誉市民に推称された。

森口多里

没年月日:1984/05/05

日本近代美術史研究で先駆的役割を果し、戦前には西洋美術の紹介にも功績のあった美術評論家森口多里は、5月5日老衰のため盛岡市の自宅で死去した。享年91。本名多利。明治25(1892)年7月8日岩手県膽澤郡に生まれ、大正3年早稲田大学文学部英文学科を卒業。卒業と同時に美術評論の筆をとり、同11年早稲田大学建築学科講師となる。翌12年から昭和3年まで早大留学生として滞仏し、この間パリ大学で聴講、とくにフランス中世美術における建築、彫刻、工芸を主に研究した。帰国後は早大建築学科で工芸史を講じるとともに、新聞、雑誌等に著述活動を精力的に展開、戦前の著作に『ゴチック彫刻』(昭和14年)、『近代美術』(同15年)、『明治大正の洋画』(同16年)、『美術文化』(同)、『中村彝』(同)、『続ゴチック彫刻』(同)、『民俗と芸術』(同17年)、『美術五十年史』(同18年)などがある。同20年5月戦災に遇い岩手県黒沢尻町に疎開し、以後民俗学の研究を本格的に開始した。同23年岩手県立美術工芸学校初代校長に就任、同26年には新設の盛岡短期大学教授を兼任し美術工芸科長をつとめ、同短大では西洋美術史と芸術概論を講じる。同28年からは岩手大学学芸学部非常勤講師をつとめ、同33年には岩手大学教授となる。戦後の著作に『美術八十年史』(同29年)、『西洋美術史』(同31年)、『民俗の四季』(同38年)などがあり、没後の同61年第一法規出版から『森口多里論集』が刊行された。この間、岩手県文化財専門委員、日本ユネスコ国内委員をつとめ、岩手日報文化賞、河北文化賞を受賞する。

千沢楨治

没年月日:1984/04/21

山梨県立美術館長、全国美術館協議会理事、千沢楨治は4月21日午前7時15分、急性心不全のため東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年71。1912(大正元)年9月23日、千葉直五郎の二男として東京に生まれ、1936(昭和11)年、千沢平三郎の養子となる。1937年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、ひきつづき1941年3月まで同学科研究室副手、1944(昭和19)年3月まで同助手、同年4月帝室博物館鑑査官補、1947(昭和22)年4月、東京国立博物館文部技官となり、1974(昭和49)年3月退官するまでの間、同博物館彫刻室長、東洋館開設準備室長、美術課長、学芸部長を歴任した。退官後は、1975(昭和50)年4月から1982(昭和57)年3月まで町田市立博物館長、1976年から1978(昭和53)年まで山梨県立美術館開設準備顧問、そして1978年8月、初代の山梨県立美術館長に就任。ミレー、コローを中心としたバルビゾン派の作品の収集に努め、特色ある美術館づくりに尽力した。この間、1977(昭和52)年から1983年まで上智大学教授、また講師として出講した大学は、東京女子大学(1941~83)、実践女子大学(1958~62)、東京大学(1966~73)、上智大学(1973~77)、明治大学(1974~78)、学習院女子短期大学(1977~83)、青山学院女子短期大学(1980~84)におよんで、美術史教育にも力をつくした。また地方や民間の美術館運営にも尽力し、顧問、評議員となった美術館は、大倉集古館(1974~84)、碌山美術館(1975~84)、浮世絵太田記念美術館(1977~84)、栃木県立美術館(1978~84)、茅野市総合博物館(1982~84)である。その専門は日本美術史で、特に彫刻および琳派に関する業績があげられる。主な著書に、『金銅仏』(講談社1957)、『宗達』(至文堂 1968)、『光琳』(至文堂 1970)、『酒井抱一』(至文堂 1981)がある。1984年4月20日、勲三等瑞宝章を受章、同21日死去に際して正四位に叙せられた。さらに同年10月、山梨県政特別功績者表彰を受けた。

山田智三郎

没年月日:1984/04/11

元国立西洋美術館館長の美術史家山田智三郎は、4月11日午前4時40分、急性心肺不全のため横浜市戸塚区の大船共済病院で死去した。享年75。明治41(1908)年10月11日、東京府日本橋に生まれ、大正15(1926)年上智大学文学科予科にドイツ文学を志望し入学する。この年ターナーの論文を通して矢代幸雄に師事、以後長くその指導を受ける。昭和2(1927)年同大学を中退し渡欧、ミュンヘン大学哲学部に入学し美術史学を専攻するが、翌年ベルリン大学哲学科に入学、同じく美術史学を専攻する。昭和9年同大学博士課程を卒業、「17、18世紀に於ける欧州美術と東亜の影響」を著す。同年帰国し、7月より帝国美術院附属美術研究所嘱託として勤務、9月より同研究所明治大正美術史編纂部で任に当たる。翌10年ベルリン大学よりドクトルの学位を授与され、13年ベルリン日本古美術展開催に際し文化使節随員として児島喜久雄と共にドイツに赴く。17年東洋美術国際研究会編集主任、19年同会主事となり、戦後21年駐日米軍の東京アーミーイデュケーションセンター勤務を経て、28年共立女子大学教授(43年まで)となる。29年フルブライト及びスミス・マント研究員として1年間渡米、また33年イスラエル・ハイファ市日本美術館館長として2年間当地に赴いた後、37年カリフォルニア州スタンフォード大学客員教授、翌38年ニューヨーク・ホイットニー財団派遣教授としてノースカロライナ大学、アイオワ州ドレーク大学でそれぞれ1年間東洋日本美術史を講義した。この間国内の大学での講義も数多く、上智大学(15、26年)、東京芸術大学(32、36、40年)、国際基督教大学(39年)、早稲田大学(40年)などで講師をつとめている。42年国立西洋美術館館長に就任、54年までその任に当たる傍ら、40年ブリヂストン美術館運営委員となり、また評議員として43年東京国立近代美術館、彫刻の森美術館、45年ニューヨーク近代美術館、46年日本美術協会、49年東京国立博物館、50年池田20世紀美術館、52年京都国立近代美術館、山種美術財団、またMOA美術館運営委員となる。54年国立西洋美術館館長を退任後、同年同美術館評議員、海外芸術交流協会理事、ジャポネズリー研究学会会長、55年岐阜県美術館顧問、日仏美術学会常任委員、56年財団法人美術文化振興会理事長、57年財団法人鹿島美術財団理事を歴任し、また安井賞(42、49年)、文化功労者(45、46、52、54、56年)、文化勲章(45、46、52年)の選考委員もつとめるなど、美術文化の振興と国際交流に多大の功績を残した。49年フランスより芸術文学勲章のオフィシェ章、50年イギリスより名誉大英勲章(CBE)、52年オランダよりオランジュ・ナッサウ・コマンダー勲章を受章、55年勲二等瑞宝章を受章した。著書に“Die Chinamode des-Spatbarock”Wurfel Verlag,Berlin-邦訳『十七、十八世紀に於ける欧州美術と東亜の影響』(蘆谷瑞世訳、昭和17年、アトリエ社)、『ダ・ヴィンチ』(アルス美術文庫、同25年)、『18世紀の絵画』(みすず書房、同31年)、『美術における東西の出会い-現代美術の問題として-』(新潮社、同34年)、『浮世絵と印象派』(至文堂、同48年)他がある。

片桐修三

没年月日:1984/04/02

日本大津絵文化協会会長で、大津絵研究の第一人者であった片桐修造は、4月2日午後3時52分、結腸ガンのため、大津市の大津市民病院で死去した。享年81。明治35(1902)年11月15日、大津市に生まれ、昭和3(1928)年、同志社大学英文科を卒業。同5年、大津市役所に就職し、同20年、同所を税務課長として退く。同21年より40年まで滋賀県庁で図書館司書をつとめる。同45年、大阪で万博が開かれた際には、「大阪日本民芸館」に勤務する。民芸を再評価した柳宗悦に学生時代から師事し、郷土の生んだ大津絵について、広く交通・産業史や文化とのかかわりをも視野に入れて研究し、大津絵の名の由来や、絵画内容の変遷についての論考を残した。一幹を号とする。岩佐又兵衛を大津絵の開祖と考える論に対し、決定的証拠の欠如を理由に反論。また、大津絵の発展過程を、大津仏画がはじめに生まれ、これに大津浮世絵が加わり、大津絵が独自の様式を獲得する時代を経て、大津絵仏画と大津浮世絵が共存するようになったとする論を展開し、従来あいまいであった大津絵研究に、科学的、客観的態度であたり、貢献するところが大きかった。昭和47年より52年までは甲子園短期大学司書兼講師、同52年より55年までは滋賀女子短期大学非常講師をつとめ、教育にも力をつくしたほか、『大津絵について』『原色大津絵図譜』『大津絵講和』および『文献を基とした大津絵略年譜』(『柳宗悦選集』 第十巻 大津絵所収)などの著書がある。『大津絵講話』は昭和59年滋賀県文学祭で入賞している。また、同52年に設立された日本大津絵文化協会では、設立以来会長をつとめ、機関誌「大津絵」にも執筆した。

杉原信彦

没年月日:1984/01/28

前東京国立近代美術館工芸課長の杉原信彦は1月28日肺ガンのため東京都中野区の国際仁愛病院で死去した。享年63。大正9(1920)年11月12日山口県大島郡の医師の家に生まれ、昭和19年東京美術学校日本画科を卒業。学徒出陣し海軍に従軍。戦後、同22年帝室博物館に入り埴輪修理室助手をつとめ同25年文化財保護委員会事務局美術工芸課、同26年同記念物課を経て、同28年文部技官となり同無形文化課に勤務、同37年無形文化課工芸技術主査、同39年無形文化課文化財調査官となる。同42年京都国立博物館学芸課、翌43年文化庁文化部文化普及課に併任したのち、同44年福岡県教育庁文化課長に転出する。同46年文化庁文化財保護部管理課課長補佐、同50年同課国立歴史民族博物館設立準備調査室主幹を経て、同51年東京国立近代美術館工芸館設立準備室長となり工芸館設立に尽力し、翌52年同館工芸課長に就任する。同57年停年退官した。工芸、とくに染織研究家として知られ、著書に『染の型紙』(昭和59年、講談社)がある。

今泉篤男

没年月日:1984/01/19

前京都国立近代美術館長で美術評論家の今泉篤男は、1月19日急性心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年81。戦前から美術評論に従事し、戦後の美術評論界を先駆的に導き美術評論を独自の領域をもつ世界へ高め、また、国立近代美術館の創設に携わり美術行政でも多大の功績のあった今泉は、明治35(1902)年7月7日山形県米沢市に生まれた。山形県立米沢中学校、山形高等学校理科甲類を経て大正12年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、主に大塚保治の指導を受けた。昭和2年卒業後同大学大学院に在籍し、同7年に渡欧、はじめパリ大学、ついでベルリン大学へ転じデッソアー、ニコライ・ハルトマン、オイデベルヒトらの講義を受ける。滞欧中、佐藤敬、田中忠雄、内田巌、小堀四郎、森芳雄、野口弥太郎、佐分利真等の作家と知り会い同9年に帰国。帰国の年から美術評論の執筆を開始し、新時代洋画展感想」(同9年)、「梅原龍三郎と安井曽太郎」(同13年)、『ルノアル』(同)等、展覧会批評、日本現代作家論、西洋美術紹介などに精力的に従事した。また、同10年には「美術批評に就ての疑問」を発表、同13年には土方定一、瀧口修造、植村鷹千代、柳亮らと「美術批評の諸問題を語る座談会」を持つなど、はやくから美術批評の近代的な在り様に対して積極的な発言を行い、この間、同11年には美術批評家協会の創立に参加し会員となった。同10年から17年まで財団法人国際文化振興会に勤務、同15年には文化学院美術部長となる。戦後は、同25年跡見短期大学教授生活芸術科科長となり、翌年国立近代美術館設置準備委員に任命され、翌27年跡見短大を退職し同年創設の国立近代美術館次長に就任した。同26年美術調査研究のため欧米を歴訪。同年毎日新聞社主催のサロン・ド・メ日本展が大きな反響を呼び、翌年日本作家がパリの同展に招待出品されたのを見て、創刊間もない「美術批評」誌上に日本作品に対する率直で鋭い批判を行い論議を呼んだ。同29年美術評論家連盟創立に際し常任委員となり、翌30年には仮称「フランス美術館」設置準備協議会委員(33年まで)となる。国立近代美術館次長としては、「現代美術の実験」展(同36年)を開催し、荒川修作・中西夏之ら若手の作家をとりあげるなど意欲的な企画を主導した。また、日本国際美術展をはじめ各種展覧会に関与しその批評を行ったのをはじめ、浅井忠、梅原、安井、坂本繁二郎、熊谷守一から森芳雄、山口薫にいたる近代日本作家論の幅を広げていった。同38年国立近代美術館京都分館長となり、同42年同分館が独立し京都国立近代美術館となり初代館長に就任、これを機に工芸の世界へも強い関心を寄せ、以後、富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、岩田藤七、芹沢銈介、志村ふくみらをとりあげ、工芸批評に新機軸をもたらした。同44年京都国立近代美術館長を辞任し、同46年からは跡見学園女子大学美学美術史学科教授として西洋美術史を講じ、同49年に退職。この間、同34年に国立西洋美術館評議員となったほか、国公私立の美術館の運営委員、評議員等を数多く歴任した。評論の中心は日本近代作家論にあり、絵画、版画、彫刻、工芸の各領域に及んだが、当初から従来の美術批評における感覚的な印象評を脱し、かつ美術評論を創造的な独自の領域として自立させるため、評論の言語も芸術作品同様の平明さと鋭さを備えなければならないとの信念をもっており、論理的でありながら、その体験に基づく平明な美文調の文章には定評があった。尨大な著述の主要なものは、『今泉篤男著作集』(全6巻 昭和54年、求龍堂)に収められている。

菊地芳一郎

没年月日:1983/11/30

雑誌「美術グラフ」創刊・主宰者菊地芳一郎は11月30日、脳こうそくのため死去した。享年74。明治42(1909)年4月14日、栃木県鹿沼市に生まれる。大正12年3月高等小学校を卒業し、同14年小学校教員となるが、昭和6年退職する。同9年9月、美術誌「美術林」を創刊、同10年同誌を「時の美術」に改題し、同16年出版統制により廃刊するまで続刊する。同27年9月「美術グラフ」を創刊し、没するまで同誌を発行した。また、その主宰する時の美術社から美術関係の著作を世に送り続け、自らも『戦後15年の日本美術史』『戦後美術史の名作』『昭和史の日本画家』などの著書を出版。美術評論やジャーナリズムの方面で活躍した。

榎本雄斎

没年月日:1983/11/22

浮世絵研究家、日本浮世絵協会理事の榎本雄斎は、11月22日午前11時、急性心不全のため京都市下京区の自宅で死去した。享年72。明治44(1911)年1月1日、兵庫県に生まれる。本名文雄。新興キネマ監督部勤務を経て、吉川幸次郎、楢崎宗重に師事し浮世絵研究を始める。昭和44年、写楽は版元蔦屋重三郎であるとし、綿密な資料をあげて蔦屋の業績を顕彰した『写楽-まぼろしの天才』を出版して写楽研究に新局面を開き話題を集めた。長く京都に住み、関西方面の浮世絵研究に尽くすところがあった。

青木進三朗

没年月日:1983/11/21

肉筆浮世絵の研究家青木進三朗は11月21日午前5時、脳出血のため東京都新宿区の伴病院で死去した。享年55。昭和3(1928)年1月5日徳島県麻植郡に生まれる。徳島県立麻植中学校を卒業し、同20年阿波銀行に入行、同30年から同45年まで同行各支店長を歴任する。この間同31年より浮世絵研究家金子孚水に師事し、浮世絵研究を始める。同45年同行を辞して上京、浮世絵研究、鑑定を業とし、同48年中国での北斎展、同年のアメリカ浮世絵世界大会、同51年フランスでの北斎展など、海外への浮世絵紹介にも力を尽くした。同49年アメリカ、フリア美術館に留学。初期風俗画と北斎・広重の研究をライフワークとした。著書に『浮世絵手鑑』『内筆浮世絵集成』『肉筆浮世絵美人画集成』などがある。

福本和夫

没年月日:1983/11/16

マルクス主義理論家で、昭和初年のプロレタリア美術運動にも大きな影響を及ぼした福本和夫は、11月16日肺炎のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年89。明治27(1894)年鳥取県東伯郡に生まれ、大正9年東京帝国大学法学部政治学科を卒業、同11年から文部省在外研究員として欧米に留学、ヨーロッパのロシア革命後の雰囲気の中でマルクス主義研究に専念し、同13年に帰国する。帰国後、マルクス主義の日本移植のために活発な執筆活動を展開し、特に当時支配的だった山川均の理論を痛烈に批判したいわゆる急進的な福本イズムは、日本プロレタリア文芸連盟(大正14年)から労農芸術家連盟、前衛芸術家連盟(ともに昭和2年)へと分裂をくり返すプロレタリア芸術運動の展開に大きな影響を与えた。一方、獄中にあった戦前の昭和16年、高見沢版北斎画の「凱風快晴」を差し入れてもらったことから北斎芸術及び浮世絵に関心を寄せるようになり、戦後、『北斎の芸術』(昭和22年北光書房)、『北斎と写楽』(同24年、日高書房)、『北斎と印象派、立体派の人々』(同30年、昭森社)、『北斎と近代絵画』(同43年、フジ出版社)等を発表するに至っている。また、戦後は戦前から着想した日本ルネサンス史論の執筆に力を注ぎ、同42年東西書房から上梓した。その他、フクロウ、捕鯨などの研究でも知られる。

勝見勝

没年月日:1983/11/10

我国のデザイン評論の草分けでありグラフィックデザイン社編集長をつとめていた勝見勝は、11月10日午後3時ころ、東京都渋谷区の仕事場で死去しているのを発見された。享年74。死因は脳イッ血とみられる。明治42(1909)年7月18日、東京都港区に生まれる。昭和7年東京帝国大学文学部美学科を卒業し、同9年同大学院を修了する。同年横浜専門学校教授となり、同14年商工省産業工芸試験所所員を経、戦後は美術評論、著作を業としてアトリエ社顧問をつとめる。同25年ころからデザイン評論の分野で多彩な活動を展開し、「工芸ニュース」「商業デザイン全集」などの編集顧問、世界商業デザイン展顧問、日本デザイン学会設立委員をつとめ、同29年には桑沢デザイン研究所、同30年には造形教育センターの創立に参加する。同34年、季刊誌「グラフィックデザイン」を創刊。翌35年には日本で初めての世界デザイン会議の実現に尽力し、同39年の東京オリンピックではデザイン専門委員長としてその業績を国際的に認められ、以後日本万国博覧会、沖縄海洋博覧会、札幌・モントリオール冬期オリンピックなどのデザイン計画、絵文字による標識を手がけて、実践面でも活躍した。54年東京教育大学講師となり、以後東京大学、東京芸術大学などでも教鞭をとる。また著作も多く、『現代のデザイン』『子供の絵』『現代デザイン入門』などの編著書、『ポール・クレー』『インダストリアル・デザイン』(H・リード著)などの訳書がある。同42年毎日デザイン賞、同52年東京アートディレクターズクラブ功労賞、同53年日本インダストリアルデザイナー協会功労賞、同57年毎日デザイン賞特別賞、同58年国井喜多郎産業工芸賞特別賞を受賞している。

大島辰雄

没年月日:1983/10/19

美術評論家でフランス文学の紹介と翻訳でも知られる大島辰雄は、10月19日心筋こうそくのため東京都目黒区の自宅で死去した。享年73。明治42(1909)年12月20日東京都港区に生まれ、東京外国語学校を中退。戦中は仏領インドネシアでアリアンス・フランセーズに勤務し、戦後はフランス図書に勤めた。フランス文学の紹介のほか、昭和30年代前後から主に西洋近・現代美術に関する執筆、翻訳活動を展開し、また、映画にも深い関心を示した。「芸術新潮」への執筆に「ピカソのデッサン帖」(125号)、「囚われの画家・シケイロス」(147号)、「ビュッフェの博物誌」(170号)、「タントラ・アートと現代美術」(267号)、「ビュッフェの地獄篇-私的覚書」(328号)などがあるほか、「陶工ミロ発生と始源の詩」(小原流挿花14-2)、「映画とシュールレアリスム」(同15-5)などがある。単行図書に『ダリ』(美術出版社)『ピカソ』(みすず書房)他。

小林文次

没年月日:1983/08/28

日本大学教授で建築史学を講じた小林文治は、8月28日直腸ガンのため死去した。享年65。大正7(1918)年4月19日に生まれ、昭和16年3月東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、同大学院に進学する。同19年3月、同科を退学。平安時代の阿弥陀堂建築を主に研究したが、戦後の同24年日本大学助教授となり、西欧も含めた建築史を講ずる。同27年からフルブライト留学生として一年間オレゴン大学に学び、アメリカ建築についても造詣を深める。その後、5年にわたる古代メソポタミア建築の研究を著書『建築の誕生』に結実させ、同35年、工学博士の学位を受けるとともに、建築学会賞を受賞、翌年日本大学教授に昇任する。同40年頃から、アメリカの都市、建築保存に力を尽くす一方、江戸時代の螺旋建築を研究課題とし、国際的範囲での調査を進める。同24年から日本建築学会理事、同25年からはイコモス(国際記念物遺跡会議)理事をつとめた。著作には『アメリカ建築』『ヨーロッパ建築序説』(ニコラウス・ペヴスナー原著を訳出)、『日本建築図集』などがある。

田中一松

没年月日:1983/04/19

元東京国立文化財研究所長、文化財保護審議会委員田中一松は、4月19日午前6時30分、老衰のため、東京都杉並区の駒崎病院で死去。享年87。明治28(1895)年12月23日、山形県鶴岡市に生まる。山形県鶴岡中学校(当時庄内中学校)、第一高等学校第一部文科を経て、大正7(1918)年9月東京帝国大学文学部に入学、同12年3月美学美術史学科を卒業、同13年12月東京帝室博物館美術課嘱託(同15年12月まで)、同15年12月古社寺保存計画調査嘱託、昭和10年3月国宝保存に関する調査嘱託、翌11年10月重要美術品等調査委員会臨時委員、同20年10月社会教育局国宝保存に関する調査嘱託、同22年5月国立博物館の事務嘱託、同年8月文部技官任官、国立博物館勤務、同25年9月文化財保護委員会保存部美術工芸課勤務、同年12月文化財専門審議会専門委員(同41年2月まで)、同27年10月東京国立文化財研究所美術部長、翌28年11月東京国立文化財研究所長、同33年7月欧州巡回日本古美術展派遣団長として渡欧、帰途インドの美術遺跡、博物館を視察(同34年3月まで)、同40年3月東京国立文化財研究所長退官、同年4月国華社主幹(同52年8月まで)、同41年2月文化財保護委員会委員(同43年6月まで)、同42年勲三等旭日中綬章受章、同43年6月文化財保護審議会委員(同51年6月まで)、同47年8月高松塚古墳総合学術調査会副会長(同48年4月まで)、同48年4月浮世絵に関する国際シンポジューム出席及び東洋美術品コレクション調査等のためアメリカ合衆国に出張(5月12日まで)、その間、5月アメリカ合衆国フリア美術館よりフリア・メダルを受賞、同49年11月勲二等瑞宝章受章、同52年8月国華社編集顧問、その間、女子美術専門学校、日本大学、東北大学、早稲田大学、金沢美術工芸大学、東京大学等の講師および、日本中国文化交流協会、トキワ松学園、中央美術学園、栃木県立美術館、根津美術館、畠山記念館、出光美術館、頴川美術館、山種美術館、致道美術館、博物館明治村、本間美術館等の役員を勤めた。同58年4月19日死去に際し従四位に叙せられた。以上の経歴が示すように、終始一貫してわが国文化財保護の行政に従事し、主として絵画作品の実査研究を行った。その研究領域は広範にわたり、仏教美術をはじめ、倭絵、絵巻物、水墨画、宋元画、宗達・光琳派、南画にまで及んでいる。そして、その学識は多くの研究者を養成、指導し、その学恩に浴すものは少くない。研究業績としては、大正9年以来、種々の学界誌や書籍に発表されているが、その主要な論文は昭和33年の還暦記念出版『日本絵画史の展望』(美術出版社)、同41年の古希記念出版『日本絵画論集』(中央公論美術出版)、没後同60年及び61年に出版される『田中一松絵画史論集』上・下(同上)に収録されている。また、編集ないし監修の主な全集には『日本絵巻物集成』(1929~32年)、『宋元名画集』正続(1928~32・38年)、『東山水墨画集』(1934~36年)、『日本絵巻物集成』改訂版(1942~44年)、『続日本絵巻物集成』(1942~45年)、『池大雅画譜』(1956~59年)、『日本絵巻物全集』(1958~69年)、『日本美術全史』上下(1959・60年)、『水墨美術大系』(1973~76年)、『新修日本絵巻物全集』(1975~80年)などがあり、そのほか、早くから雑誌「国華」の編集に関与して、昭和40年より同50年にいたる間には主幹として多くの新出作品の紹介につとめた。また、詩文や和歌をよくし、書画を巧みにした文人であった。

小林秀雄

没年月日:1983/03/01

日本芸術院会員、文化勲章受章者の小林秀雄は、3月1日じん不全による尿毒症と呼吸循環不全のため東京・信濃町の慶応病院で死去した。享年80。わが国における近代批評の確立者とされ、美術論でも多大の影響を与えた小林は、明治35(1902)年4月11日東京市神田区に生まれ、昭和3年東京帝国大学文学部仏蘭西文学科を卒業。翌4年、「改造」の懸賞評論に「様々なる意匠」を応募し二席に入選、すでに成熟した確固たる自己の文体と批評の方法を示した。同8年、川端康成らと「文学界」を創刊し文学批評とともに時事的発言も行ったが、やがて戦況が深まるにつれ日本の古典に沈潜し、また陶器と向いあう沈黙の世界に閉じ込もり、「無常といふ事」(同17年)、「西行」(同年)、「実朝」(同18年)、などの作品を生んだ。戦後の仕事は、「モオツァルト」(同21年)、『近代絵画』(同33年刊)など、音楽、美術論を著した時期、『考えるヒント』(同39年刊)に代表される歴史、思想的エッセーを執筆した時期、そして、同40年から「新潮」に連載し同52年に刊行された『本居宣長』の時代に三分して捉えられている。美術論に関しては、その本格的な出発となった『ゴッホの手紙』(同27年刊、第4回読売文学賞)で示されているように、「意匠」をつき抜けた「天才の内面」を掘りあてることに関心を集中させ、孤独で強靭な作家の姿を浮彫りにした。『近代絵画』(同33年刊、第11回野間文芸賞)においても、画家列伝形式でモネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノワール、ドガからピカソをとりあげ、これを近代芸術精神史というべき域へ昂めている。その他、戦前の陶磁器に関するエッセーをはじめ、美術を論じた執筆は数多い。また、晩年はルオーの作品を愛していたという。同34年日本芸術院会員となり、同44年文化勲章を受章。美術関係文献目録(『新訂 小林秀雄全集』新潮社刊-昭和53・54年-所収)第3巻故古賀春江氏の水彩画展「文学界」昭和8年11月第9巻骨董 初出紙未詳。昭和23年9月の執筆か。眞贋 「中央公論」 昭和26年1月号。埴輪 『日本の彫刻1上古時代』、美術出版社刊、昭和27年6月。古鐸 「朝日新聞」 昭和36年1月4日号。徳利と盃 「藝術新潮」 昭和37年2月号。と題する連載の第1回。壷 「藝術新潮」 昭和37年3月号。の第2回。鐸 「藝術新潮」 昭和37年4月号。の第3回。高麗劍 「藝術新潮」 昭和38年2月号。の第4回。染付皿 「藝術新潮」 昭和38年3月号。の第5回。信樂大壷 『信樂大壷』、東京中日新聞社刊、昭和40年3月。原題「壷」。として執筆された。第10巻ゴッホの手紙 「藝術新潮」 昭和26年1月~27年2月ゴッホの墓 「朝日新聞」 昭和30年3月26日号。ゴッホの病氣 「藝術新潮」 昭和33年11月号。ゴッホの繪 『オランダ・フランドル美術』(世界美術大系19)、講談社刊、昭和37年4月。ゴッホの手紙 『ファン・ゴッホ書簡全集』内容見本 みすず書房 昭和38年10月光悦と宗達 『國華百粹』第四輯。毎日新聞社刊、昭和22年10月。原題「和歌卷(團伊能氏蔵)」。梅原龍三郎 「文體」復刊号、昭和22年12月。文末「附記」はこのエッセイが『梅原龍三郎北京作品集』(石原求龍堂刊、昭和19年11月)の解説のために執筆されたものであることを伝えている。鐵齋1 「時事新報」 昭和23年4月30日-同5月2日号。原題「鐵齋」。鐵齋2 「文學界」 昭和24年3月号。原題「鐵齋の富士」。雪舟 「藝術新潮」 昭和25年3月号。高野山にて 「夕刊新大阪」 昭和25年9月26日号。偶像崇拜 「新潮」 昭和25年11月号。原題「繪」。鐵齋3 『現代日本美術全集』第一巻、座右宝刊行会編、角川書店刊、昭和30年1月。原題「富岡鐵齋」。鐵齋の扇面 「文藝」増刊号(美術讀本)、昭和30年11月。鐵齋4 『鐵齋』、筑摩書房刊、昭和32年2月。原題「鐵齋」。梅原龍三郎展をみて 「讀賣新聞」 昭和35年5月7日号夕刊。第11巻近代絵画 「新潮」 昭和29年3月-30年12月号 「藝術新潮」 昭和31年1月-33年2月号。単行本は昭和33年人文書院より刊行。同年普及版を新潮社より刊行。ピカソの陶器 「朝日新聞」 昭和26年3月13日号。マチス展を見る 「讀賣新聞」 昭和26年4月23日号。セザンヌの自畫像 「中央公論」 昭和27年1月号。ほんもの・にせもの展 「讀賣新聞」 昭和31年3月28日号。私の空想美術館 「文藝春秋」 昭和33年6月号-同八月号。マルロオの「美術館」 「藝術新潮」 昭和33年8月号。「近代藝術の先駆者」序 『近代藝術の先駆者』、講談社刊、昭和39年1月。同書は『20世紀を動かした人々』全16巻の第7巻。別巻1中川さんの絵と文 『中川一政文集』内容見本、筑摩書房、昭和50年5月。土牛素描 「奥村土牛素描展目録」 昭和52年5月ルオーの版画 『ルオー全版画』内容見本、岩波書店、昭和54年3月ルオーの事 「ルオー展目録」 昭和54年5月、「芸術新潮」 昭和54年6月号に再録

倉田文作

没年月日:1983/01/23

奈良国立博物館長、文化財保護審議会専門委員倉田文作は、1月23日肝腫瘍のため、奈良市の博物館長宿舎で死去、享年64。大正7(1918)年4月17日、画家、倉田重吉(白洋・春陽会創設者)の次男として千葉県安房郡に生まれた。長野県立上田中学校を経て昭和15年青山学院文学部英文科卒業、ついで同17年早稲田大学文学部文学科を卒業の後、同19年東洋美術国際研究会嘱託となる。同20年文部省社会教育局嘱託、22年国立博物館に入り、調査課嘱託を経て、23年文部技官、25年文化財保護委員会事務局美術工芸課彫刻部勤務となる。以後、同34年彫刻部主査、39年文化財調査官、41年事務局美術工芸課長を歴任、44年東京国立博物館学芸部長に転じる。同47年文化庁文化財保護部文化財鑑査官、50年奈良国立博物館長に就任、51年からは文化財保護審議会専門委員に任じた。この間、全国にわたる文化財調査をもとに、専門とする日本彫刻史の研究に多大な成果をあげ、国宝・重要文化財の指定を数多く手掛けた。また、修理保存、展示公開などに豊富な経験を有し、文化財行政の指導助言に当たり、生涯を通じ常にその第一線にあった。国立国際美術館評議員会評議員、国立歴史民俗博物館展示企画委員、国際交流基金運営審議会委員、奈良県及び和歌山県文化財保護審議会委員、日本放送協会近畿地方放送番組審議会委員、日本展示学会評議員会評議員、日本伝統工芸展鑑査委員など、多くの役職をもつ。国内のみならず海外においても、東洋美術品の調査研究はもとより、日米文化教育交流会議専門委員、ユネスコ・ローマ文化財保存修復研究国際センター理事兼財務委員を勤め、その他多くの国際会議に出席し、日本美術の啓蒙、普及、文化財の保護に貢献し、文化財の国際交流での功績も知られるところである。同56年博物館法施行30周年を記念して博物館振興の功績により文部大臣より表彰を受け、同58年従四位に叙せられ勲二等瑞宝章を受章した。主要著作目録著書・編著長野県文化財図録(美術工芸篇) 長野県教育委員会 昭和30年2月観世音寺重要文化財仏像修理報告書 福岡県教育委員会 昭和35年3月仏像の像内と納入品併せて木彫像の構造論 救世熱海美術館 昭和40年1月仏像のみかた(技法と表現) 第一法規 昭和40年7月原色日本の美術第5巻密教寺院と貞観彫刻 小学館 昭和42年6月奈良六大寺大観第2巻法隆寺2(彫刻) 岩波書店 昭和43年4月奈良六大寺大観第8巻興福寺2(彫刻) 岩波書店 昭和44年7月日本の美術44 貞観彫刻 至文堂 昭和45年1月奈良六大寺大観第4巻法隆寺4(彫刻・書蹟) 岩波書店 昭和46年5月ブック・オブ・ブックス 貞観彫刻 小学館 昭和46年8月物別展「平安時代の彫刻」(東博特別展記念図録) 東京国立博物館 昭和47年3月日本の美術86 像内納入品 至文堂 昭和48年7月奈良の寺第16巻 法華堂と戒壇院の塑像 岩波書店 昭和48年11月文化財講座「日本の美術」6 彫刻(平安) 第一法規 昭和51年10月大和古寺大観第7巻海住山寺・浄瑠璃寺・岩船寺 岩波書店 昭和53年8月日本の美術151 二王像 至文堂 昭和53年12月在外日本の至宝8 彫刻 毎日新聞社 昭和55年7月法華経の美術 共編 佼成出版社 昭和56年9月奈良六大寺大観全14巻編集委員 岩波書店 昭和41~46年論文信州の新資料 信濃 昭和24年6月銅造釈迦如来像(御物48体仏の内) ミュージアム 昭和26年6月信濃の清水寺 ミュージアム 昭和32年5月東寺の諸像 図録『東寺』朝日新聞社 昭和33年5月東寺の八幡三神について 大和文華 昭和33年6月中尊寺の諸像 図録『中尊寺』朝日新聞社 昭和34年11月集古館木造普賢菩薩像について 三彩 昭和35年6月風神・雷神像(妙法院) 国華 昭和36年1月奈良来迎寺の善導大師像 ミュージアム 昭和36年1月観世音寺の彫刻 国華 昭和36年8月慈尊院弥勒仏坐像 仏教芸術 昭和37年12月当麻寺本堂発見の板光背、台座残片について 当麻曼荼羅図譜文化財保護委員会 昭和38年3月宝生家能面 ミュージアム 昭和38年7月園城寺新羅明神像 古美術 昭和38年10月熊野本宮家津御子大神像 古美術 昭和38年10月甲州善光寺の弥陀三尊 信濃 昭和39年3月善光寺如来考 国華 昭和39年5月高野山の不動明王像 仏教芸術 昭和40年3月東寺の仏像 図録『大師のみてら』東寺文化財保存会 昭和40年10月法隆寺阿弥陀如来坐像(金堂)観音菩薩立像1、2 奈良六大寺大観法隆寺2 岩波書店 昭和43年仏像彫刻の構造と技法(その1) 奈良六大寺大観法隆寺2 岩波書店 昭和43年4月東大寺盧舎那仏坐像  奈良六大寺大観東大寺1 岩波書店 昭和43年8月平安時代の金銅仏 ミュージアム 昭和44年2月興福寺北円堂四天王立像 奈良六大寺大観興福寺1 岩波書店 昭和44年7月興福寺板彫十二神将像 奈良六大寺大観興福寺1 岩波書店 昭和44年7月美濃の白山、高賀山の虚空蔵信仰 ミュージアム 昭和45年4月興福寺北円堂弥勒仏坐像 奈良六大寺大観興福寺2 岩波書店 昭和45年12月興福寺世親・無著立像 奈良六大寺大観興福寺2 岩波書店 昭和45年12月鎌倉初頭の興福寺再興と鎌倉彫刻 奈良六大寺大観興福寺2 岩波書店 昭和45年12月仏像彫刻の構造と技法(その3) 奈良六大寺大観興福寺2附録8 岩波書店 昭和45年12月文化財の模写、構造 月刊文化財 昭和46年4月法隆寺観音菩薩立像(百済観音) 奈良六大寺大観法隆寺2 岩波書店 昭和46年5月法隆寺聖徳太子及侍者像(聖霊院) 奈良六大寺大観法隆寺2 岩波書店 昭和46年5月平等院鳳凰堂本尊像の光背 ミュージアム 昭和46年6月播磨浄土寺の弥陀三尊像 仏教芸術 昭和46年6月会津勝常寺の薬師三尊像 ミュージアム 昭和46年9月叡尊をめぐる仏師たち 奈良六大寺大観西大寺 岩波書店 昭和48年5月文化財の国際交流(ユネスコ専門家会議報告) 文化庁月報 昭和51年6月鶴林寺太子堂の来迎壁について 文化庁月報 昭和51年7月像内納入品について 重要文化財別巻1附録 毎日新聞社 昭和53年1月カルコン・交流美術における美術品のケアに関する会議 文化庁月報 昭和53年1月鎌倉・室町時代の美術 光村印刷 昭和53年2月博物館、美術館のコレクション 文化庁月報 昭和53年3月河内の国宝仏像 仏教芸術 昭和53年8月稲沢の美術 『稲沢市史』研究編2 昭和54年1月第10回カルコン報告 文化庁月報 昭和55年9月最近のイクロムの活動 古文化財の科学25号 昭和55年12月若狭の文化 若狭の古寺美術 昭和56年6月ジャパンハウス・ギャラリーの法隆寺展 文化庁月報 昭和56年10月イクロムの現状と近い将来 文化庁月報 昭和57年7月

佐和隆研

没年月日:1983/01/05

嵯峨美術短期大学学長、密教図像学会会長で密教美術研究の第一人者である佐和隆研は、1月5日午前11時3分、急性心不全のため京都市右京区泉谷病院で死去。享年71。明治44(1911)年3月9日、広島県佐伯郡に生まれた。昭和10年3月、京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業後、同年4月から同大学大学院に進むと同時に醍醐寺霊宝館主事に就任した。同12年4月、大学院を中退し高野山大学仏教芸術科に専任の講師として赴任し、同15年4月から助教授、17年4月に教授となり、24年3月まで仏教芸術学科主任教授であった。同年6月からは京都市立美術専門学校教授に就任し、翌25年4月から同校が京都市立美術大学として発足するにともない同大学教授となり、同38年12月から40年12月までは京都市立美術大学附属図書館長を併任した。さらに同大学が名称変更して京都市立芸術大学となった44年4月から美術学部長を、つづいて同46年10月からは49年5月に退職するまでの2年5ケ月間、同大学の学長をつとめた。その後、同年10月からは嵯峨美術短期大学に学長として迎えられた。 専門とする研究分野は日本の密教美術であったが、インド・東南アジア美術にも及んだ。研究活動は、京都帝大大学院に進むと同時に就任した醍醐寺霊宝館主事としての宝物調査から始まり、密教美術の宝庫である醍醐寺に所蔵される宝物に関する研究の成果は『図像』(昭和15年)、仏教図像集の中の『醍醐寺蔵十二天形像』(同17年)さらに『密教美術』(古文化叢刊、同22年)として発表され、日本における密教美術史研究の基礎を固めた。敗戦後に意欲的に発表された研究論文の中から一部を選んで『密教美術論』(同30年)、『日本の密教美術』(同36年)が刊行され、密教美術研究史上画期的な成果をあげた。『日本の密教美術』に対し同37年3月、京都大学より文学博士の学位が授与された。この頃から密教美術の源流を究明するためにインド・東南アジア美術の研究に着手し、同35年、39年、42年に海外学術調査を実施し、その報告が『仏教の流伝-インド・東南アジア-』(同46年)、『密教美術の源流』(57年)として刊行された。また近年にはこれまでの研究成果をまとめ或いは増訂した『日本の仏教美術』(同56年)、『白描図像の研究』(57年)が相ついで著わされた。 密教美術研究を進める一方、研究者に基礎的資料を提供するための多くの企画の発案者推進者であった。すなわち『仏像図典』(37年)、『密教辞典』(50年)など辞典類の刊行、『御室版両部曼荼羅集』(47年)、『弘法大師行状絵巻』(48年)など複製類の刊行、『弘法大師真蹟集成』(48~49年)、『密教美術大観』の編集刊行は研究者を大いに稗益するものであった。また醍醐寺や石山寺に所蔵される宝物・古文書・聖教類の調査と整理を毎年実施し『醍醐寺総合調査目録・第一巻(仏画・肖像画・白描画像之部)』(46年)が公表された。 さらに研究の発展を願って研究誌『仏教芸術』の創刊に努力し、亡くなるまで編集と執筆の両方に活躍した。また、密教学、仏教史学、美術史学の研究者を結集した密教図像学会の設立を提唱し、同56年9月、推されてその初代会長に就任した。なお、研究活動を開始した醍醐寺霊宝館にあっては戦後に主事から館長となる一方、同52年醍醐寺文化財研究所の所長に就任、翌年からは「研究紀要」が創刊されている。 また、密教美術を一般の人々に紹介する概説書の刊行にも力を注ぎ、著書『密教の美術(日本の美術8)』(同39年)、編著『仏像図典』(37年)、『仏像-心とかたち-』(40年)は多くの人々に迎えられ、とくに後者は同40年の第19回毎日出版文化賞を受賞した。主な著書は次の通り。醍醐寺蔵十二天形像(仏教図像集) 便利堂 昭和15年2月図像 アトリヱ社 同15年10月高野山 便利堂 同22年8月密教美術(古文化叢刊32) 大八州出版 同22年9月密教美術論 便利堂 同30年11月日本の密教美術 便利堂 同36年5月仏像案内 吉川弘文館 同38年9月日本の仏像(日本歴史新書) 至文堂 同38年10月密教の美術(日本の美術8) 平凡社 同39年8月仏教美術入門(教養文庫) 社会思想社 同41年9月日本密教-その展開と美術-(NHKブックス48) 日本放送協会 同41年10月醍醐寺(秘宝8) 講談社 同42年10月仏像の流伝-インド・東南アジア- 法蔵館 同46年11月空海の軌跡 毎日新聞社 同48年6月密教の寺-その歴史と美術- 法蔵館 同49年11月醍醐寺(寺社シリーズ1) 東洋文化社 同51年3月隨論密教美術 美術出版社 同52年7月日本の仏教美術 三麗社 同56年12月密教美術の源流 法蔵館 同57年3月白描図像の研究 法蔵館 同57年11月空海とその美術 朝日新聞社 同59年3月

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