本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





洲之内徹

没年月日:1987/10/28

美術評論家、小説家、画廊経営主の洲之内徹は、10月28日脳こうそくのため東京都文京区の駒込病院で死去した。享年74。大正2(1913)年1月17日、愛媛県松山市に生まれる。昭和5年東京美術学校建築科へ入学したが、左翼運動に加わり中退、帰郷し日本プロレタリア文化連盟愛媛支部を結成する。同10年雑誌『記録』同人となり、以後文芸評論を展開する。戦後は、日中戦争の体験などを主題に小説を発表、3回芥川賞候補にあげられた。同33年戦友で小説家の田村泰次郎が始めた現代画廊に入社し、のち経営を引き継ぎ、この間から美術評論の分野でも意欲的に執筆した。また、新人の発掘とともに、定評のある作家より世に知られない画家たちの優品を集めた“洲之内コレクション”でも有名であった。14年間165回にわたって『民芸新潮』誌上に連載した「きまぐれ美術館」でも、忘れられた作家たちへの熱い思いをつづった。著書に『絵のなかの散歩』(昭和48年)、『きまぐれ美術館』(同53年)、『洲之内徹小説全集』(全2巻、同58年)などがある。

毛利久

没年月日:1987/09/10

文学博士、元奈良大学教授、文化財保護審議会専門委員、京都国立博物館名誉館員の毛利久は9月10日午前9時14分、脳動脈硬化症のため自宅で死去。享年70。大正5年10月4日、愛媛県宇和島市笹町に生れる。昭和13年京都帝国大学文学部史学科に入学、国史を専攻し、16年、論文「飛鳥寧楽時代仏教彫塑の研究」を提出し卒業。同年京都帝国大学大学院に入学、日本美術考古学を研究するとともに、京都府寺院重宝臨時調査事務の嘱託となる。22年京都帝国大学大学院を退学、恩賜京都博物館鑑査員補、24年同鑑査員となる。27年京都国立博物館学芸課資料室長、37年美術室長を経て、42年神戸大学文学部教授に転任する。48年から50年まで文学部長を務め、55年停年退官の後、奈良大学文学部教授に迎えられる。 日本仏教彫刻史を専門とし、実証的な作品研究と緻密な文献考証により、仏像はもちろん肖像や仮面など幅広く研究し、多くの業績をあげる。30年京都国立博物館において担当した特別展「日本の仮面」は仮面史研究にとって画期的であり、また仏師研究に力を注ぎ、とくに鎌倉時代の名匠快慶の芸術とその母胎としての奈良仏師の体系的研究は代表的で、37年、その成果をまとめた論文「仏師快慶論」により京都大学より文学博士の学位を受ける。神戸大学に転じた頃から東アジアという文化背景のなかで日本の初期仏教彫刻を巨視的に捉えるべく、しばしば訪韓、現地実査を行ない、その成果を逐次発表した。これらの業績とともに、26年以来、美術史学会常任委員として学会に貢献し、さらに45年より国の文化財保護審議会専門委員を務めたほか、滋賀県、京都府、兵庫県、奈良県などの文化財保護審議会委員として文化財保護行政にも貢献し、61年勲三等旭日中綬章を受章する。死去により従四位に叙される。(主要著・編書)新薬師寺考 河原書店 22年快慶の研究 大勝堂 29年日本の仮面 京都国立博物館 30年仏師快慶論 吉川弘文館 36年(同増補版62年)六波羅蜜寺 中央公論美術出版 39年運慶と鎌倉彫刻 平凡社 39年能面選 京都国立博物館 40年奈良の寺院と天平彫刻(共著) 小学館 41年日本彫刻史基礎資料集成(共編) 中央公論美術出版 41~46年肖像彫刻 至文堂 42年奈良六大寺大観(共編) 岩波書店 43~48年天平彫刻 小学館 45年日本仏教彫刻史の研究 法蔵館 45年正倉院の伎楽面(共著) 正倉院事務所 47年興福寺八部衆と十大弟子 岩波書店 48年大和古寺大観(共編) 岩波書店 51~53年日本仏像史研究 法蔵館 55年

三上次男

没年月日:1987/06/06

日本学士院会員、東京大学名誉教授、出光美術館理事、中近東文化センター理事長の三上次男は、6月6日肺炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年80。号白水子。東洋史、考古学の権威で、陶磁史においても陶磁貿易史という研究分野を確立した三上は、明治40(1907)年3月31日京都府宮津市に生まれた。昭和7年東京大学文学部東洋史学科卒業後、1年間東亜考古学留学生として中国に滞在する。翌8年外務省文化事業部満蒙文化研究部研究員となり、同14年東京大学文学部講師、同23年東京大学東洋文化研究所研究員、同24年東京大学教授となった。同36年文学博士。同42年東京大学を停年退官し、同年同大学名誉教授の称号をうけ、同年から同52年まで青山学院大学教授として教鞭をとった。この間、同47年1月から50年12月まで日本学術会議会員、同47年8月から56年7月まで日本ユネスコ国内委員会委員、同41年9月から没年まで出光美術館理事をつとめた。戦後、南アジア、中近東さらにエジプトなどで発掘調査を精力的に行い、中国古陶磁器が元時代にはエジプトにまで到達していたことを明らかにし、東西文化交流の経路として、陸路による「絹の道」とは別に、南海路である「陶磁の道」の存在を唱え陶磁貿易史の研究分野を確立した。同44年、岩波新書に『陶磁の道』を著し、これがシルクロード・ブームの先駆けとなった。同49年、『金史研究』(全3巻)により日本学士院賞恩賜賞を受賞した。同53年3月から中近東文化センター理事長に就任、同61年には日本から初のトルコ古代遺跡発掘隊の隊長をつとめた。同年、日本学士院会員となる。『三上次男著作集』他の著述がある。

永竹威

没年月日:1987/05/29

国際美術評論家連盟正会員の陶芸評論家永竹威は、5月29日心不全のため佐賀市の上村病院で死去した。享年71。大正5(1916)年2月23日佐賀県小城郡に生まれる。生家は南禅寺派常福寺。昭和12年東京高等工芸学校卒業。同16年から佐賀県庁に入り、同48年退職するまで、佐賀県文化館長、文化課長などをつとめた。この間、県窯業試験場兼務の時期に肥前陶磁史に関心を寄せ、同26年には肥前陶磁研究会を組織し常任理事として会の運営にあたった。また、陶芸評論の執筆活動も行った。同48年佐賀女子短期大学教授となる。同51年佐賀新聞文化賞、翌年西日本文化賞を受賞。財団法人田中丸九州陶磁コレクション理事でもあった。著書に『図説 日本の赤絵』(昭和35年)、『図説 九州古陶磁』(同38年)をはじめ多数ある他、共編執筆に『鍋島藩窯の研究』(同29年)などがある。

石沢正男

没年月日:1987/05/21

東洋工芸史の研究者で奈良・大和文華館前館長の石沢正男は5月21日午前11時45分、脳こう塞のため東京都杉並区の樺島病院で死去した。享年84。明治36(1903)年3月31日、東京都千代田区に生れた。大正14(1925)年3月第一高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学文学部美術美術史学科に進み、昭和3(1928)年3月に同学科を卒業。同5年10月~同8年7月の間はニューヨーク市メトロポリタン美術館東洋部の助手、同8年7月から同25年3月まで東京美術学校講師として東洋工芸史を講じた。この間に同16年10月からは美術研究所嘱託に、また翌17年から同22年2月までは美術研究所内の東洋美術国際研究会主事をつとめたが、同22年2月からは文部技官として文部省社会教育局文化課に入り、同25年文化財保護委員会が発足して後には同委員会文化財調査官、更に同年から国立博物館保存修理課長、同26年に同館資料課長、同30年から美術課長を歴任し、同39年6月に退官。同年7月から大和文華館次長となり、同45年から同56年まで館長をつとめ、同57年は同館顧問であった。また、同40年には文化財保護審議会専門委員に任命された。美術館運営、文化財行政にたずさわる一方、専門とする東洋工芸史研究においても研究論文を発表した。主なものには「三つの新収蒔絵作品について」(大和文華54、昭和46年9月)、「琉球黒漆桃樹文様沈金高台付盆」(大和文華63、同53年8月)、「三嶋大社蔵梅蒔絵櫛笥について」(大和文華64、同54年3月)などがある。

毛利登

没年月日:1987/01/20

元東京芸術大学教授の美術史家毛利登は1月20日午後4時10分、急性心筋梗塞のため神奈川県茅ケ崎市の茅ケ崎徳洲会病院で死去した。享年84。明治35(1902)年12月14日東京下谷区に生まれる。昭和2年東京美術学校図案科を卒業し、同年宮内省嘱託となり即位大礼用神宝類図案設計を担当する。同3年内務省造神宮使庁嘱託となり、同14年同技手、17年同技師となる。終戦後の同21年文部省国宝調査室に勤務し、同22年東京国立博物館嘱託、同23年同調査員を経て、24年文部技官として同博物館に勤務する。同25年文化財保護委員会美術工芸品課に移り、26年同記念物課、27年同無形文化財課を兼務する。同37年東京国立文化財研究所保存科学部修理技術研究室長となるが、翌38年東京芸術大学教授となり文化財保存修復概論を講ずる。同41年東京芸術大学付属芸術資料館長となる。同45年3月同大学を退く。文様美術、日本文様史を研究し、訳書にフランツ・マイヤー著『装飾のハンドブック』(昭和43年、東京美術刊)、著書に『日本の文様美術』(同44年、同上)がある。

菱田春夫

没年月日:1987/01/14

菱田春草の長男で日本美術院理事・前事務局長の菱田春夫は、1月14日午後3時39分、心不全のため東京都目黒区の東京国立第2病院で死去した。享年84。明治35(1902)年1月17日東京府下谷区に、日本画家菱田春草の長男として生まれる。春草が明治44年36歳で死去したのち、大正8年横山大観に師事して日本画を学び、のち日本美術院研究会員となる。大正14年日本美術院の事務を委嘱され、昭和17年財団法人岡倉天心偉績顕彰会の設立に伴い、その事務も兼任した(27年まで)。以後、日本美術院の運営の任にあたり、33年日本美術院が財団法人となるに際し主事(54年3月まで)となった。また、36年日本美術院評議員、54年同理事となるなど、斎藤隆三を継いで日本美術院運営の大任にあたった。春草の画集『菱田春草』(大日本絵画巧芸美術、昭和51年)の編集などのほか、「父春草の思い出」(『ゆうびん』3-10、昭和26年10月)や、数々の春草の図書、展覧会図録の序文などを書いている。春草の作品の鑑定家としても知られた。

安田武

没年月日:1986/10/15

「わだつみ会」の再建などでも知られた社会・文化評論家の安田武は、10月15日午後10時25分こう頭がんのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年63。大正11(1922)年11月14日東京府北豊島郡に生まれる。昭和16(1941)年京華中学校を卒業して17年上智大学英文科に入学するが、18年学徒出陣し20年ソ連軍と闘って捕虜となり、22年1月帰国。上智大学へ復学する。23年上智大学を退学して法政大学国文科へ転入学するが同年中退。24年『きけわだつみのこえ』に衝撃を受け、出版関係の仕事に従事しつつ執筆活動を続け、34年「わだつみ会」の再建に加わったほか、38年『戦争体験』、42年『学徒出陣』を出版する。また、第二次世界大戦を風化させまいとする姿勢から独自の文化論を持ち、市井の生活を基盤として息づく日本の伝統に目を向け、芸人や職人の型に関する評論活動を行なった。著書に『日本の美学』(45年)、『芸と美の伝承』(47年)、『型の文化再興』(49年)、『を読む』(54年)などがある。

田沢坦

没年月日:1986/07/01

東京国立博物館評議員、武蔵野美術大学名誉教授、元奈良国立文化財研究所所長の田沢坦は、7月1日午前11時43分、脳内出血のため川崎市宮前区の聖マリアンナ病院で死去した。享年84。明治35(1902)年1月21日、神奈川県横須賀市に生れる。大正14年に東京帝国大学文学部美術史学科を卒業し、同学大学院に3ケ年在学の後、昭和3年6月に東大史料編纂所嘱託となる。同7年7月、文部省国宝保存に関する調査計画等の嘱託、同17年8月、美術研究所(現、東京国立文化財研究所)所員に任ぜられ、同22年5月、東京国立博物館資料課長、同26年2月、同館工芸課長となる。同28年2月、前年4月に設立された奈良国立文化財研究所々長に任命され、同34年6月からは東京国立文化財研究所美術部長を37年4月まで務めた。その後、37年4月より49年3月まで、武蔵野美術大学教授、49年3月には武蔵野美術大学名誉教授となった。またこの間には、共立女子専門学校(昭和3年4月~昭和17年3月)、東京女子大学(昭和7年9月~昭和17年9月)、東京大学文学部(昭和17年4月~昭和29年3月)に講師として出講し、美術史教育にも力をつくした。さらに、昭和41年5月より57年6月まで、財団法人元興寺文化財研究所所長・常務理事をつとめ、文化財保護審議会専門委員(第一分科会絵画彫刻部会・第二分科会建造物部会)、東京国立博物館評議員、畠山記念館評議員、佐野美術館理事なども務め、活躍の場は広きにわたった。その研究も日本美術の各時代、分野にわたるもので、昭和8年9月に大岡實と著した『図説日本美術史』(岩波書店)がよくその性格を示している。本書は多くの人に愛され、同31年11月に改訂版が出された。その他業績には以下のようなものがある。「飛鳥以前」(座右宝2)、「飛鳥奈良時代の絵画と工芸」(月刊文化財21)、「飛鳥時代の工芸上・下」(国博ニュース4、5)、「工芸の形姿」(MUSEUM22)、「平安時代工芸美術の特色」(『日本の文化財』1巻 第一法規)、「桃山時代の工芸上・下」(国博ニュース51、52)、「江戸時代の工芸」(月刊文化財132)「日本彫刻小史」(アルス・グラフ6)、「平安初期に於ける木造彫刻の興隆に関して上・下」(美術研究128、129)、「浄土教の普及と阿弥陀堂」(月刊文化財56)、「鎌倉時代の彫刻に就て」(日本諸学振興委員会研究報告13)、「鎌倉時代の彫刻に就て」(大和文化研究2)、「東大寺中性院本造菩薩(弥勒)像」(美術研究212)、「鎌倉大仏に関する史料集成稿」(美術研究217)、『南無阿弥陀仏作善集』(奈良国立文化財研究所史料第1冊)、「南無阿弥陀仏作善集註解稿1」(武蔵野美術大学研究紀要1)、「薬師寺の絵画」(『薬師寺』実業之日本社)、「大陸文化の影響」(『世界美術全集』6巻 角川書店)など。

渡辺素舟

没年月日:1986/01/16

東洋文様史研究の先駆者で、多摩美術大学名誉教授の渡辺素舟は、1月16日午前7時30分、心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年95。明治32(1899)年11月16日、愛知県西春日井郡に生れる。大正5(1916)年3月、東洋大学専門部国漢文科を卒業後、昭和6(1931)年には帝国美術学校講師、同9年からは多摩帝国美術学校教師となり、工芸史を講ずるとともに東洋工芸史に関する研究を発表した。また、同14年に東京高等工芸学校講師となり、同19年には東亜同文会嘱託となった。同23年からは多摩造形芸術専門学校教授、同28年、同校が4年制の多摩美術大学として発足するにともない同大学教授となり、同40年3月定年退職するまで工芸史を講じた。この間、同30年からは東京都文化財専門委員をも勤め、また、同36年9月には東洋文様史研究に対して文学博士の学位を受けた。 主要な著書を刊行順に記す。『日本の工芸美術』(図案工芸社、昭和2年)『支那陶磁史』(中央出版社、同4年)『図案の美学』(アトリエ社、同7年)『日本工芸史』(厚生閣、同13年)『平安時代国民工芸の研究』(東京堂、同18年)『東洋図案文化史の研究』(冨山房、同26年)『東洋文様史』(冨山房、同46年) この他に、定期刊行物「塔影」、「美之国」、「美術新報」などを中心に、昭和20年頃までは多数の論考、展覧会評を発表した。晩年は日本工芸会評議員を永くつとめた。

吉村貞司

没年月日:1986/01/04

美術評論家で杉野女子大学教授の吉村貞司は、1月4日肺炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。本名弥吉三光。明治41(1908)年9月24日福岡県に生まれる。昭和6年早稲田大学独文科を卒業後、東京社、武侠社(のち婦人画報社)に入り『婦女界』などの編集長をつとめる側ら、詩作、評論活動を展開する。同10年文芸雑誌『翰林』同人となり、同誌上に小説や翻訳を発表する。また、日本伝統研究所をおこし、『伝統』を創刊した。同15年『近代文学と知性の歴史』を刊行。戦後は『新婦人』編集長となり歴史文学運動を展開する。同33年東京造形美術学校教授となり、のち杉野女子大学教授に転じ日本美術史を講じた。この間、美術評論、とりわけ現代日本画の評論を始め、日本画の改革をめざす主張に呼応した画家たちによる有明会、野火展、始原展などの結成に関与した。主著に『東山文化-動乱を生きる美意識』(昭和41年)、『日本美の特質』(同51年)などがあり、『吉村貞司著作集』(全8巻、同54~55年)が刊行された。

坂崎乙郎

没年月日:1985/12/21

美術評論家で早稲田大学政治経済学部教授の坂崎乙郎は、12月21日心臓マヒのため東京都国立市の自宅で死去した。享年57。わが国へのドイツ表現派、ウィーン幻想派などの紹介で先駆的役割を果し、また、短編小説を思わせる語り口による独自の評論活動を展開した坂崎は、昭和3(1928)年1月1日美術史家で朝日新聞社学芸部長、早稲田大学教授をつとめた坂崎坦の次男として、東京都新宿区に生まれた。同26年早稲田大学文学部独乙文学科を卒業、引き続き大学院へ進み美術史を専攻しマネを研究、同29年修了した。同30年から32年まで西ドイツに留学、ザールブリュッケン大学でシュモル教授につき、近代美術を研究する。帰国後、いちはやく美術評論活動に入り、ドイツ表現派やウィーン幻想派などを紹介、とくに幻想芸術の紹介や評論に最も意を注いだ。同34年にはリオン・フォイヒトヴォンガー著『ゴヤ』を翻訳、翌年には著書『夜の画家たち』を刊行、同43年ブリヨン著『幻想芸術』を翻訳刊行、さらにその評論領域は近代日本作家へと拡がり、池田淑人ら異色画家の作家論も手がけた。美術評論家連盟会員でもあった。著書は多く、主なものに『ヨーロッパ美術紀行』(同40年)、『幻想芸術の世界』(同44年)、『イメージの狩人-絵画の眼と想像力』(同47年)、『イメージの変革-絵画の眼と想像力』(同年)、『終末と幻想-絵画の想像力』(同49年)、『絵を読む』(同50年)、『現代画家論』(同年)、『象徴の森』(同年)、『幻想の建築』(同51年)、『視るとは何か』(同55年)、『エゴン・シーレ』(同59年)などがある。

北原義雄

没年月日:1985/11/11

雑誌『アトリエ』を創刊し、アトリエ出版社長として美術図書の刊行に尽力した北原義雄は、11月11日午前3時7分心不全のため東京都中野区の小原病院で死去した。享年89。明治29(1896)年1月31日福岡県柳川市に生まれる。詩人北原白秋の実弟。旧制麻布中学校卒業。義兄山本鼎と美術雑誌『アトリエ』を企画し大正13年にアトリエ社を創立。月刊誌『アトリエ』のほかゴッホ、ルノアール、セザンヌらの画集を翌14年に刊行して以来、西洋美術画集、油絵、水彩、パステルなどの各種技法書、個人作家画集など多くの美術書を編集、出版する。戦時中、雑誌統合のため実兄北原鉄雄が社主となっていたアルス社と合併し北原出版株式会社とするが、戦後の昭和26年アトリエ社を復活し月刊『アトリエ』を復刊。同誌は『みづゑ』『中央美術』とならぶ美術専門雑誌として作家を啓発するところが大きく、また、同社は美術書を専門とする出版社として確かな位置を占めた。

森暢

没年月日:1985/11/04

大阪工業大学名誉教授で美術史家の森暢は11月4日、心筋こうそくのため京都市左京区の川越病院で死去した。享年84。森は明治36(1903)年7月、和歌山県に生まれ、京都大学文学部選修科に学んだ後、美術雑誌『宝雲』の編纂に携わる。また外務省研修所、大阪外語大学の講師(美術史担当)、京都国立博物館の嘱託をつとめ、その後大阪工業大学教授として教鞭をとり、同大学定年退職後、東洋大学大学院国文科の講師をつとめる。専攻は日本中世絵画史。特に力を注いだのは歌仙絵の研究で、現存する歌仙絵・歌合絵作品・断簡を博捜、整理分類してまとめられた著書に『歌合絵の研究・歌仙絵』(昭和45年角川書店)がある。また、鎌倉時代の肖像画作品・作家、歌仙絵作品について発表された論考を集録した『鎌倉時代の肖像画』(昭和46年みすず書房)、『歌仙絵・百人一首絵』(昭和56年角川書店)などがある。

杉山司七

没年月日:1985/09/02

元東京都美術館館長の美術教育家杉山司七は9月2日午前9時30分、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年90。明治28(1895)年7月28日富山市に生まれ、大正4(1915)年同県師範学校本科を卒業。同8年東京美術学校師範科を卒業して、郷里の神通中学校、県立商業学校図画教師となり、以後、和歌山県立中学、山口県師範学校、同高等学校、高等女学校、帝国美術学校等で教鞭をとる。この間の昭和12(1937)年国際美術教育会議出席のため渡欧し、1年間欧米の美術教育を視察。同15年には朝鮮、満州の美術教育を視察する。同20年美術教育奨励事業、美術教科書編纂に携わる。同25年より30年まで東京都美術館館長を務め、同52年には太平洋美術学校校長となった。教育者の立場から美術関係の著述にも力を注ぎ『クレヨン画の描き方』『綜合美術史要』『現代特選図案集』などを刊行して制作およびその鑑賞の指導に尽力した。

景山春樹

没年月日:1985/07/22

文学博士、帝塚山大学教授、木下美術館長、元京都国立博物館学芸課長、景山春樹は、7月22日午後4時12分、胸せんしゅのため大津市の大津市民病院で死去した。享年69。大正5年(1916)1月9日、滋賀県大津市に生まれる(景山家は比叡山の公人の家すじ)。昭和14年3月、国学院大学文学部史学科を卒業後、同年5月より京都市教育局学務課に勤務。昭和16年1月に、恩賜京都博物館鑑査員となり、昭和19年より同21年までの応召を経て、昭和27年4月、文部技官に任ぜられ京都国立博物館考古室長兼普及室長、昭和45年、同館学芸課長などを歴任し、昭和51年3月、同館退官。この間に、昭和39年7月に『神道美術の研究』に対して国学院大学より文学博士の学位を授与された。昭和51年4月からは帝塚山大学教授となり、昭和52年1月には木下美術館館長を兼任した。この他、昭和32年4月より昭和51年3月まで滋賀県文化財専門委員、昭和38年4月より大津市文化財専門委員として郷土の文化財行政にも力を尽す。昭和60年7月22日、正五位に叙せられ、勲四等瑞宝章が贈られた。その研究は、それまで未開拓であった神道美術史の分野で著しい業績を残し、第一人者として活躍した他、仏教文化史の方面にも及んでいる。主な著書に『神道美術の研究』(神道史学会1962)『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部1965)『神道の美術』(塙叢書1965)『比叡山』(角川選書1966)『神道美術』(至文堂「日本の美術」1965)『近江路(角川写真文庫)』(角川書店1967)『比叡山その宗教と歴史』(NHKブックス1968)『神体山』(学生社1971)『近江文化財散歩』(学生社1972)『神道美術』(雄山閣1973)『考古学とその周辺』(雄山閣1974)『比叡山寺その構成と諸問題』(同朋舎1978)『神像神々の心と形』(法政大学出版局1978)『みやまんだら(近畿日本ブックス3)』(綜芸社1978)『比叡山と高野山』(教育社1980)『続みやまんだら(近畿日本ブックス6)』(綜芸社1980)『神道大系-日吉-』(神道大系編纂会1983)『舎利信仰-その研究と史料-』(東京美術1986)などがある。

岡崎譲治

没年月日:1985/03/31

大阪市立美術館長、文化財保護審議委員会専門委員岡崎譲治は、3月31日午後8時29分、食道がんのため大阪市立大学付属病院で死去。享年60。大正14年3月24日、福岡県八幡市に生まれる。九州専門学校法政科をへて昭和22年、九州帝国大学文学部に入学、故矢崎義盛・谷口鉄雄(現石橋美術館長)のもとで日本美術史を専攻、昭和25年3月、卒業論文に「雪舟研究」を提出し九州大学文学部を卒業、同年4月より九州大学大学院特別研究生となり、あわせて昭和28年4月より29年3月まで福岡女子大学講師を勤めた。昭和29年8月、奈良国立博物館学芸課に勤務し、以後昭和36年4月より同工芸室長、昭和47年4月より同学芸課長を歴任し昭和52年3月退官。同年4月より大阪市立美術館長に転じ、8年間館長の要職にあった。 奈良国立博物館に勤務後は、仏教考古学・仏教金工史の権威であった故石田茂作・蔵田蔵両館長のもとで仏教工芸、とくに金工品を専門とし、奈良国立博物館における「天平地宝展」(昭和35年4月-5月)「神仏融合美術展」(昭和37年4月-5月)「密教法具展」(昭和39年4月-5月)「大陸伝来仏教美術展」(昭和41年4月-5月)などの特別展開催に参画した。とくに中心となって企画運営にあたった「密教法具展」は、この分野の調査研究を集大成したもので、昭和45年、623点の作品に詳細な解説をのせて上梓した『密教法具』は、学会の大きな評価をえている。 大阪市立美術館にあっては、館長として同館の設備刷新・コレクションの充実をはかり、安宅・山口・カザールなどの著名なコレクションを散逸の危機からすくい、大阪市の公共財産として活用するために尽力した。 昭和57年には、文化財保護審議委員会第一専門調査会専門委員に任命され、豊かな知見をもとに文化財行政の指導助言にあたる一方、長らく『大和文化研究』の編集を担当し、さらに美術史学会、密教図像学会、『仏教芸術』の委員をつとめ、学会の発展に寄与した。 論文には、はやくに「筑紫観世音寺の大黒天」があり、奈良の主要寺院を中心とする仏教工芸に関する調査研究の成果を、昭和33年の「宋人大工陳和卿伝」をはじめとする専門各誌の諸論文、『奈良六大寺大観』『大和古寺大観』などに発表した。代表する論文に「種字鈴考-金剛界鈴と胎蔵界鈴-」「仏像鈴所顕の五大明王像-円珍請来図像との関連-」などがある。現存作品の実証にもとづく厳格な型式の分析・分類にくわえ、密教図像学の方法を応用して詳細な図像の異同をはかり、精密な作品の編年をあとづける一連の研究は、仏教工芸史の新しい展開をみちびいた。 また、監修・執筆にあたった『仏具大事典』は、研究者必須の手引書となっている。ほかに仏教美術全般についての深い知見をもとにした『浄土教画』がある。 主要著作目録筑紫観世音寺の大黒天 哲学年報 14 昭和28年2月宋人大工陳和卿伝 美術史 30 昭和33年9月長谷寺の金工品 大和文化研究 5-2 昭和35年2月資料・東大寺工芸品目録 大和文化研究 5-7 昭和35年7月先生の青丘遺文に出る高麗佐波理鋺 大和文化研究 6-3 昭和36年3月正倉院のいわゆる(鉗)について 奈良時代の箸試論 大和文化研究 7-10 昭和37年10月東大寺の工芸 近畿日本叢書『東大寺』 近畿日本鉄道 昭和38年11月熱田神宮本地懸仏など(大興寺蔵) 大和文化研究 9-1 昭和39年1月密教法具 図版解説 『密教法具』 講談社 昭和40年9月仏像鈴所顕の五大明王像-円珍請来図像との関連- 美術史 61 昭和41年6月密教法具と舎利納入 大和文化研究 11-6 昭和41年6月西大寺の金工品 仏教芸術 62 昭和41年10月鹿島市誕生院の四天王鈴 大和文化研究 12-8 昭和42年8月舎利容器・密教法具・金剛盤 『奈良六大寺大観』 第12巻 岩波書店 昭和44年2月種子鈴考 金剛界鈴と胎蔵界鈴 仏教芸術 71 昭和44年7月華原馨・梵鐘・泗浜浮馨・舎利厨子 『奈良六大寺大観』 第7巻 岩波書店 昭和44年7月浄土教画 『日本の美術』 43 至文堂 昭和44年12月黒漆螺鈿卓・五獅子如意・玳瑁如意・鉦鼓(長承三年・建久九年)・仏餉鉢・鏡『奈良六大寺大観』第9巻 岩波書店 昭和45年4月表紙解説 舎利容器 パリ・ギメ美術館蔵 仏教芸術 75 昭和45年5月銭弘俶八万四千塔考 仏教芸術 76 昭和45年7月神門神社鏡とその同文様鏡について 大和文化研究 5-9 昭和45年9月水瓶(胡面水瓶)・黒漆布薩手洗・黒漆布薩花器・水瓶・密教法具・花瓶・六器・火舎・香炉・柄香炉・鐃・黒漆漆箱 『奈良六大寺大観』 第5巻 岩波書店 昭和46年9月九州の懸仏-北部九州の群集遺品を中心に- MUSEUM 269 昭和48年4月金銅宝塔(壇塔)・鉄宝塔・五瓶舎利・透彫舎利塔・舎利塔(伝亀山天皇勅封)・舎利塔(伝叡尊感得)・密教法具・梵鐘(本堂)・打鳴し・水瓶・餝剣・犀角刀子 『奈良六大寺大観』 第14巻 岩波書店 昭和48年5月対馬・壱岐の金工品 仏教芸術 95 昭和49年3月重源関係の工芸品 仏教芸術 105 昭和51年1月両部大壇具・大神宮御正体 『大和古寺大観』 第6巻 岩波書店 昭和51年9月仏具の種類と変遷 荘厳具、密教法具 新版『仏教考古学講座』 第5巻 雄山閣 昭和51年12月梵鐘・手錫杖・孔雀鳳凰文馨礼盤 『大和古寺大観』 第4巻 岩波書店 昭和52年2月厨子入舎利塔 『大和古寺大観』 第3巻 岩波書店 昭和52年6月竜鬢褥・錫杖頭・鐃・宝塔文馨・胡蝶散文鏡・宝印・阿弥陀三尊来迎図 『大和古寺大観』 第1巻 岩波書店 昭和52年10月興福寺の国宝華原磐 MUSEUM 323 昭和53年2月舎利塔、鏡鑑・鏡像・懸仏、供養具、梵音貝、密教法具、諸具 『奈良市史』 工芸編 昭和53年3月舎利塔、舎利容器、仏具 文化財講座 『日本の美術』 第9巻 第一法規出版 昭和53年3月五鈷鈴・五鈷杵・桶形香炉・釣灯篭・鰐口・舎利塔・舎利厨子・ 『大和古寺大観』 第5巻 岩波書店 昭和53年3月河内飛鳥の仏教工芸 仏教芸術 119 昭和53年8月梵鐘・鰐口 『大和古寺大観』 第7巻 岩波書店 昭和53年8月対馬の金工 『対馬の美術』西日本文化協会 昭和53年11月三尊仏(鎚鍱)(奥院)・梵鐘・梵鐘(護念院) 『大和古寺大観』 第2巻 岩波書店 昭和53年12月二月堂修二会用具 『東大寺二月堂修二会の研究』 中央公論美術出版 昭和54年1月修験道山伏笈概説 MUSEUM  347 昭和55年2月天平時代の美術-東大寺・正倉院の工芸を中心に- 『日本古寺美術全集』 第4巻 集英社 昭和55年11月『仏具大事典』 鎌倉新書 昭和57年9月資料紹介 高貴寺の金銅三昧耶五鈷鈴 美術史 114 昭和58年5月仏像を表現する金剛鈴の展開 MUSEUM 392 昭和58年11月工芸 図版解説 『春日大社』 大阪書籍 昭和59年5月東大寺鎌倉期の工芸 南都仏教 39 昭和59年11月密教法具 『密教美術大観』 第4巻 朝日新聞社 昭和59年11月

深井晋司

没年月日:1985/02/07

古代オリエント美術・考古学の権威で、文学博士、東京大学東洋文化研究所教授、元同研究所長の深井晋司は、2月7日午後5時21分、外出先の東京都中央区の路上で心筋こうそくのため倒れ、救急車で日本橋兜町の中島病院に運ばれたが死去した。享年60。大正13(1924)年9月19日、広島県安芸郡に生まれ、昭和17(1942)年3月に東京府立第一中学校を卒業した。19年9月、第一高等学校文科甲類を卒業し、同年10月、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学したが、20年3月から21年5月まで兵役のため休学し、24年3月に同学科を卒業。続いて同年4月から同大学大学院に進み、28年4月からは同大学文学部助手。さらに31年4月には東京大学東洋文化研究所助手となり、37年5月から同研究所講師、36年1月には同研究所助教授、45年4月からは同研究所教授となり、53年4月から2年間は同研究所の所長をつとめた。専門とした研究領域は、古代オリエントを中心とした西アジア美術史であったが、特に古代ペルシアのガラス器研究に関しては、正倉院伝来の瑠璃碗がペルシア起源をもちシルクロードを経由して伝来したことを証明するなど世界的権威であった。東洋文化研究所においても西アジア研究を担当し、31-32年、江上波夫教授(現在、名誉教授)を団長とする東京大学イラク・イラン遺跡調査団(第1期第1次)の美術史班として参加したのを初めとして、34年(第2次)、35年(第3次)、39年(第4次)、40-41年(第5次)のすべてに加わった。第1期調査に関する報告書の刊行を50年に完了した後、51年からは調査団を改組した東京大学イラン・イラク学術調査の中心となり、51年(第2期第1次)、53年(同第2次)に現地調査を実施した。現地における発掘調査等による最新の資料に基づき、古代ガラス器研究においては、日本における西アジア美術史研究を世界の水準に追いつかせた功績が高く評価されている。43年2月にはペルシア古美術研究の業績により、東京大学より文学博士の学位を得、54年7月には紺綬褒章を授与されている。なお、没後、3月1日付で正四位勲三等旭日中綬章に叙位叙勲された。著書としては、『ペルシアの芸術』(東京創元社、昭和31年)、『ペルシア古美術研究・ガラス器・金属器』(吉川弘文館、昭和43年)、『PERSIAN GLASS』(Weatherhill,New York,1977)、『ペルシア古美術研究』第2巻(吉川弘文館、昭和55年)、『CERAMICS OF ANCIENT PERSIA』(Weatherhill,New York,1981)、『ペルシアのガラス』オリエント選書12(東京新聞社、昭和58年)などがある。著作活動は概説、調査報告、共同執筆になる発掘報告・論文と多数あるが、ここでは定期刊行物所載の邦文の研究論文のみを発表順に記す。シャミー神殿出土の青銅貴人像とパルティアの美術(美術史12、昭和29年3月)ハトラ出土の遺物とパルティア美術(東洋文化研究所紀要16、33年12月)正倉院宝物白瑠璃碗考(国華812、34年11月)沖ノ島出土瑠璃碗断片考(東洋文化研究所紀要27、37年3月)ギラーン州出土銀製八曲長坏に関する一考察(国華842、37年5月)ギラーン州出土切子装飾瑠璃壷に関する試論(東洋文化研究所紀要29、38年1月)アナーヒター女神装飾八曲長坏に関する一考察(国華859、38年10月)ハッサニ・マハレ出土の突起装飾瑠璃碗に関する一考察(東洋文化研究所紀要36、40年3月)アナーヒター女神装飾の銀製把手付水瓶に関する一考察(国華878、40年5月)デーラマン地方出土帝王狩猟図銀製皿に関する一考察(国華892、41年7月)三花馬・五花馬の起源について(東洋文化研究所紀要43、42年3月)ギラーン州出土の二重円形切子装飾瑠璃碗に関する一考察-京都上賀茂出土の瑠璃碗断片に対する私見-(東洋文化研究所紀要45、43年3月)アゼルバイジャン地方出土獅子形把手付土製壷について(国華918、43年9月)アゼルバイジャン出土の鐺の押型について(東洋文化研究所紀要49、44年3月)パルティア期における馬の造形表現(東洋文化研究所紀要50、45年3月)パルティア期における青銅製小動物像について(東洋文化研究所紀要53、46年2月)デーラマン地方のコア・グラス(東洋文化研究所紀要56、47年3月)ササン朝ペルシア銀製馬像に見られる馬印について(東洋文化研究所紀要62、49年2月)イラン高原出土緑釉六曲把手付坏に関する一考察(東洋文化研究所紀要80、55年2月)最近我国に将来されたイスラーム時代初期の陶磁器二点について(東洋文化研究所紀要81、55年3月)イラン高原出土の唾壷とその源流について-正倉院宝蔵紺瑠璃壷に関連して-(正倉院年報2、55年3月)最近我国に将来されたエラムの古代ガラス二点について(東洋文化研究所紀要87、56年11月)伝ギラーン州出土円形切子装飾台付坏に関する一考察(東洋文化研究所紀要97、60年3月)東西交渉史研究における諸問題-所謂イラン高原出土の円形切子装飾瑠璃碗の研究を中心に-(美術史論叢1、60年5月)なお、62年2月に『深井晋司博士追悼・シルクロード美術論集』(吉川弘文館)が刊行された。

宮川寅雄

没年月日:1984/12/25

日中文化交流協会理事長、和光大学教授、宮川寅雄(号・杜良)は、12月25日午後10時45分、脳こうそくのため東京都新宿区の東京女子医大付属病院で死去した。享年76。1908(明治41)年10月10日、宮城県仙台市に生れる。1927(昭和2)年、早稲田第二高等学院に入学、会津八一の知遇を受け、以後その逝去にいたるまで師事する。1930(昭和5)年、早稲田大学政治経済学部経済学科入学、在学中、社会運動に参加、1931年、同大学中退、反軍国主義の闘いに参加し、検挙される。1940(昭和15)年、出獄。1951(昭和26)年、北海道より東京にもどり、日本近代史研究会、文化史懇談会などの活動に参加、1956(昭和31)年、日中文化交流協会の創立に参画、1973(昭和48)年、同協会副理事長、1979(昭和54)年、理事長に就任した。この間、1966(昭和41)年に創立した和光大学人文学部芸術学科長を歴任する。日中文化交流協会の活動を通じて、長期にわたり日中友好と日中文化交流のため尽力し、1962(昭和37)年2月以来、1983(昭和58)年10月まで、計28回にわたり中国を訪問、中国の文物や美術など各種展観の日本開催や、日本と中国の文化各分野の代表団の交流には常に中心となって尽力した。その学問と文芸の領域は広く、日中の古今の文化や美術に眼をむけ、また会津八一に師事して和歌や書をよくし、特に1970(昭和45)年代以後は、書・画を熱心にやり、作陶にもたずさわって個展もしばしば開催した。その主な著書は、『岡倉天心』(東京大学出版会 1956)、『近代美術とその思想』(理論社 1966)、『会津八一』(紀伊國屋書店 1969、1980)、『近代美術の軌跡』(中央公論社 1972)、『会津八一の文学』(講談社 1972)、『中国美術紀行』(講談社 1975)、『会津八一の世界』(文一総合出版 1978)、『秋艸道人随聞』(中央公論社 1982)、『歳月の碑』(中央公論美術出版 1984)、『風琴-宮川寅雄歌集』(短歌新聞社 1985)、『美術史散策』(恒文社 1987)他多数あるほか、『会津八一全集』(中央公論社)の編輯に尽力した。

木村徳国

没年月日:1984/10/07

明治大学工学部教授で建築史家の木村徳国は、10月7日急性呼吸不全のため東京都港区の東京船員保険病院で死去した。享年58。日本古代建築史と業績の高い木村は、大正15(1926)年5月9日京都府竹野郡に生まれ、東京府立第四中学校、静岡高等学校を経て昭和23年東京大学第一工学部建築学科を卒業、引き続き同大学院へ進み、同27年北海道大学工学部講師に就任、同年助教授となる。初期は日本近代建築史に関する論考が中心で、同35年、論文「日本近代都市独立住宅様式の成立と展開に関する史的研究」で東京大学より工学博士の学位を授与された。同40年明治大学工学部教授に就任、その後40年代の半ば頃から日本古代建築史(住宅史)を主な研究対象とし、同55年「日本古代住宅史に関する一連の研究」を理由に昭和54年度日本建築学会賞(第一部論文部門)を受賞した。著書に『古代建築のイメージ』(同54年、日本放送協会出版)他がある。

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