本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





吉田漱

没年月日:2001/08/21

読み:よしだすすぐ  歌人で美術史家の吉田漱は8月21日、肺炎のため死去した。享年79。1922(大正11)年3月11日、東京府北豊島郡雑司谷町(現豊島区南池袋)で彫刻家吉田久継の長男として生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校油絵科に入学。43年の学徒出陣により中国大陸中部を転戦。敗戦、復員後の47年に東京美術学校を卒業。この年アララギ歌会に出席し土屋文明に入門、翌年にはアララギの若手集団「芽」に参加。49年東京の区立中学教員となる。51年には近藤芳美を中心とする歌誌『未来』の創刊に参加。56年には歌集『青い壁画』を刊行、さらに短歌に関する編集・注釈にたずさわる一方で64年に『開化期の絵師・小林清親』(緑園書房)を出版、以後美術史、とくに浮世絵関係の執筆をも多く手がけるようになる。『浮世絵の基礎知識』(雄山閣出版 1974年)では絵師伝中に墓所の記述を添えるなど、行動力に基づき実体験で立証する真摯で手堅い学風だった。67年東京都立秋川高校へ転任。自身がエスペランティストだったこともあり、69年には利根光一のペンネームでエスペランティスト長谷川テルの一生を描いた『テルの生涯』を著す。70年代に入ると美術教育に関する執筆も増え、76年に横浜国立大学教育学部講師となり、同年から78年まで文部省高等学校学習指導要領作成協力者を務める。78年岡山大学教育学部助教授、79年同大学教授となり85年に退職、同大学大学院講師(87年まで)、多摩美術大学講師(90年まで)を務める。小林清親研究の延長で出会った河鍋暁斎の研究とその再評価にも大きく貢献し、87年には河鍋暁斎研究会会長となる(94年まで)。1992(平成4)年日本浮世絵協会第11回内山賞を受賞。95年第31回短歌研究賞、98年『「白き山」全注釈』で第9回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞。生前の『未来』570号(1999年7月)に詳細な自筆年譜が掲載されている。 主要著書(美術関係) 『開化期の絵師・小林清親』(緑園書房 1964年) 『浮世絵の基礎知識』(雄山閣出版 1974年) 『浮世絵の見方事典』(溪水社 1987年)

福永重樹

没年月日:2001/08/05

読み:ふくながしげき  東京都の目黒区美術館長の福永重樹は、メキシコのガナファト市で開催される現代日本版画展の開会式に出席するため滞在していたが、脳梗塞で倒れ、レオン市の病院で急性肺炎のため死去した。享年68。1933(昭和8)年7月7日、東京都港区明石町に生まれる。53年、東京都立一ツ橋高等学校を卒業、同年上智大学文学部史学科に進学、57年に卒業、同年より静岡県の雙葉高等学校に赴任した。67年、東京のサントリー美術館の学芸員となった。同美術館在職中、上智大学大学院文学研究科史学専攻に学び、71年に修了した。同美術館では、少数の学芸スタッフのなか、年に6、7回の企画展を担当し、国内外の工芸、日本画、版画の展覧会をつぎつぎに開催し、視野を広げていった。76年5月、京都国立近代美術館事業課主任研究官として異動した。同美術館在職中は、「今日の造形―アメリカと日本」(77年)、「現代ガラスの美―ヨーロッパと日本」(80年)、「今日のジュエリー―世界の動向」(84年)、「現代イタリア陶芸の4巨匠」(87年)など、世界的な視野にたったユニークな工芸関係の展覧会を企画担当した。1993(平成5)年、国立国際美術館学芸課長に昇任した。95年6月に目黒区立美術館館長に就任した。同美術館では、毎年開催された「朝日陶芸展」、「昭和シェル石油現代美術賞展」の審査をつとめるとともに、「染めの詩 三浦景生展」(98年)、「京友禅 きのう・きょう・あした」(99年)、「陶の標―山田光」展(2000年)、「栗辻博展 色彩と空間とテキスタイル」(同年)などを企画した。伝統工芸から現代美術まで、広い視野で数々の論文、批評を残し、主な編著作には、「近代の美術40 近代日本版画」(至文堂、77年)、「現代日本美人画全集 第2巻 鏑木清方」(集英社 1977年)、「近代の美術47 現代の金工」(至文堂 1978年)がある。また美術館人として多くの展覧会を企画担当し、展示にあたっても、既成の感覚にとらわれない斬新な試みもつづけていた。

楢崎宗重

没年月日:2001/07/18

読み:ならざきむねしげ  浮世絵研究の第一人者で立正大学名誉教授の楢崎宗重は7月18日午後0時15分、心不全のため死去した。享年97。 1904(明治37)年6月26日、佐賀県唐津市の農家に生まれる。1927(昭和2)年旧制第五高等学校(現熊本大学)を卒業し、東京帝国大学文学部に入学。30年に同大学文学部美学美術史学科を卒業し、当時文部省宗教局に在籍していた藤懸静也の門に入る。32年より『浮世絵芸術』(大鳳閣)編集に携わり、36年には雑誌『浮世絵界』(浮世絵同好会)を創刊、当時未だ趣味的な分野と見られがちだった浮世絵に美術史研究の対象として取り組むとともに、多くの研究者に発表の場を提供し、研究のレベルアップを推進するという姿勢を終生貫くことになる。42年立正大学文学部講師に就任し、日本美術史を教える。45年、戦争で中断していた『国華』の、朝日新聞社による復刊にともないその実務を担当。46年日本浮世絵協会(第二次)を設立、常任理事を務める。同年に雑誌『浮世絵と版画』(渡邊木版美術画舗)を創刊。54年立正大学文学部教授に就任、「近世初期風俗画について」で文学博士号を取得する。60年日本風俗史学会副会長に就任。62年日本浮世絵協会(第三次)を設立、理事長、会長(82年より)として浮世絵研究と普及の両面で活発な活動を展開する。その範囲は海外にも及び、調査を基に72年『在外秘宝』(学習研究社)を刊行、同年浮世絵協会創立十周年を記念した「在外浮世絵名品展」を各地で開き、また東京での国際シンポジウム開催にも尽力した。77年立正大学教授を定年退官、名誉教授となる。同年勲四等旭日小綬章を受章。80年浮世絵専門美術館の草分けである太田記念美術館が開館し、名誉館長に就任。80~82年には多年の構想を経て、海外を含めた浮世絵界の総力を結集させた『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店)を刊行する。80年第1回内山賞(内山晋米寿記念浮世絵奨励賞)受賞。1989(平成元)年青山学院女子短期大学図書館に蔵書を寄贈、“楢崎文庫”と命名される。94年東海道広重美術館の名誉館長に就任。95年研究の過程で集まった古美術品480点を東京都墨田区(北斎館)に寄贈。98年浮世絵協会が国際浮世絵学会と改めるにあたり、名誉会長に就任。没後の2001年11月には同学会が発行する『浮世絵芸術』141号で追悼号が編集され、各関係者の追悼文および稲垣進一「楢崎宗重先生略年譜」、酒井雁高「楢崎宗重/著作目録」が掲載、同年9月発行の『北斎研究』29号にも略年譜と編著目録が掲載されている。墓所は研究対象として取り組んできた浮世絵師、葛飾北斎と同じ東京都台東区元浅草の誓教寺。  主要著書 『日本風景版画史論』(近藤市太郎と共著 アトリエ社 1943年) 『北斎論』(アトリエ社 1944年) 『浮世絵史話』(巧芸社 1948年) 『北斎と広重』(講談社 1963年) 『肉筆浮世絵』(講談社 1970年) 『浮世絵の美学』(講談社 1971年) 『楢崎宗重 絵画論集』(講談社 1978年)

山根有三

没年月日:2001/05/22

読み:やまねゆうぞう  美術史家で東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授の山根有三は5月22日午後2時28分、敗血症のため死去した。享年82。山根は1919(大正8)年2月27日、大阪府に生まれた。父は花道家の山根廣治(号翠道)、母は百合子。1940(昭和15)年3月第三高等学校文科甲類卒業、同年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科入学。42年9月同学科を繰上げ卒業、同年10月同大学大学院入学。44年4月恩賜京都博物館(現京都国立博物館)に工芸担当の鑑査員として勤務。同年6月教育召集により神戸の高射砲中隊に入営。45年9月除隊して恩賜京都博物館に復職。51年10月神戸大学文理学部助教授、55年7月東京大学文学部助教授、69年5月同教授、79年3月定年退官。翌80年4月群馬県立女子大学教授、85年3月退職。この間、61年4月より66年3月まで文化財保護委員会事務局美術工芸課調査員を併任、68年5月より69年12月まで学術審議会専門委員、76年7月より86年5月まで文化財保護審議会専門委員、86年6月より1994(平成6)年6月まで文化財保護審議会委員、90年4月より99年4月まで『国華』主幹などを歴任した。84年4月より出光美術館理事、99年4月より『国華』名誉主幹を務めていた。99年に朝日賞を受賞、00年に文化功労者に選ばれた。戦後、恩賜京都博物館に復職した山根は46年に絵画担当の鑑査員になると智積院障壁画の研究を始め、49年に発足したばかりの美術史学会の関西支部例会で等伯研究の成果を発表。同学会誌『美術史』創刊号(50年)に掲載された「等伯研究序説」が出世作となった。しかし、38年に土居次義が唱えた「等伯信春同人説」(それまで等伯の子久蔵と同一人と考えられていた信春を等伯の前身とする新説)が戦後の学界に受け入れられるようになると、自らの鑑識眼と様式的判断から同人説に納得できなかった山根は等伯研究を中断し、宗達光琳研究に転じた。54年4月から東京大学史料編纂所に1ヶ年の内地留学を行い、『中院通村日記』『二條綱平公記』など未刊の古記録から宗達光琳関係の史料を見出した。58年11月に開催された「生誕三百年記念光琳展」(日本経済新聞社主催、於東京日本橋白木屋百貨店)では田中一松とともに作品の調査と選定に当たり、同展を機に刊行された田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に「光琳年譜について」「落款と印章」を発表した。続いて61年5~6月に開催された「俵屋宗達展」(日本経済新聞社主催、於東京日本橋高島屋)では自ら作品の選定に当たり、研究成果を『宗達』(日本経済新聞社 1962年)にまとめた。また同年、55年以来取り組んできた『小西家旧蔵光琳関係資料とその研究-資料』(中央公論美術出版 1962年)を刊行。『桃山の風俗画』(日本の美術17巻 平凡社 1967年)では、それまで町絵師の手になる初期肉筆浮世絵として評価されていた慶長から寛永年間の風俗画の優品を狩野派主流の作とする見解を示し、以後定説化された。編集に携わった『障壁画全集』(全10巻 美術出版社 1966~72年)では、障壁画を単なる大画面絵画とせず、建築との関係を重視した障壁画の総合的な共同研究を提唱し、同全集『南禅寺本坊』(1968年)によって自ら実践した。また当時一世を風靡した『原色日本の美術』(全30巻 小学館 1966~72年)の企画に加わり、『宗達と光琳』(第14巻 1969年)を著した。75年には琳派研究会を組織して同年6月から1ヶ月に及ぶ米国調査を敢行。成果を『琳派絵画全集』(全5巻 日本経済新聞社 1977~80年)にまとめた。また、美術雑誌『国華』の編集委員として89年3~5月の「室町時代の屏風絵―『国華』創刊100年記念特別展」(於東京国立博物館)を成功させ、「国華賞」の創設(1989年)に尽力した。90年に主幹に就くと、遅れがちだった同誌の刊行を軌道に乗せるなど、『国華』の経営改善に当たった。94年より『山根有三著作集』(全7巻 中央公論美術出版 ~1998年)を刊行。晩年は長谷川派の研究に復帰し、著作集第6巻『桃山絵画研究』(98年)に新稿「等伯研究―信春時代を含む等伯の画風展開」を書下ろしたほか、長谷川派についての論考を相次いで発表し、それまで埋もれていた等秀、等学らの画跡を見出した。01年の「狩野興以の法橋時代の画風について―名古屋城・二条城障壁画筆者の再検討を背景に」(『国華』1264)号)が絶筆となった。桃山時代を中心とした近世絵画史と、とりわけ琳派の研究に大きな成果をあげた山根の学風は、個々の作品に対する直観を重んじる一方で、史料の博捜と綿密な読解による裏付けを欠かさず、互いに相容れにくい美的直観と客観的実証とを両立させるところに特色があり、無味乾燥な様式論とは無縁な、人間味ある議論を展開して魅力があった。また、長い教壇生活を通じて数多くの研究者を育てた。山根の年譜と著作については、『山根有三先生年譜・著作目録(抄)』(東京大学文学部美術史研究室、1989年および98年)、『山根有三年譜・著作目録(抄)』(山根かほる 2001年)の3冊の目録がある。履歴については、自ら記した「わが美術史学青春記」(山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館 1989年)と『私の履歴書 日経版 決定本』(小学館スクウェア 2001年)がある。

中村溪男

没年月日:2001/05/19

読み:なかむらたにお  美術史家、美術評論家の中村溪男は5月19日午前6時50分、心不全のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年8月26日、日本画家中村岳陵の長男として生まれる。本名は秀男で、横山大観が自らの本名秀麿より一字をとって命名したもの。1947(昭和22)年慶應義塾大学文学部国史学科を卒業。その前年より帝室博物館(現東京国立博物館)列品課金工区室員、48年より同課絵画区室員を経て、49年東京国立博物館学芸部絵画部文部技官に任官。この頃より溪男の筆名を用いるようになる。博物館では56年の雪舟展、74年の雪村展を担当するなどとくに室町水墨画についての見識を有し、数々の著作を行なう一方、父の先輩でもあった早世の画家今村紫紅の評価につとめるなど近代日本画史の形成にも貢献した。59年より博物館勤務の傍ら日本女子大学文学部史学科の講師に招かれ日本美術史を担当、84年まで教壇に立つ。81年東京国立博物館学芸部主任研究官に任ぜられ、同館名誉館員となる。翌年同館主催のボストン美術館蔵・日本絵画名品展に際し、同展の総責任者を務め、ボストン美術館で「祥啓画山水図について」と題し講演を行なう。83年東京国立博物館を停年退官し、山種美術館副館長(85年より事務局長)となる。その傍ら85年には宇都宮文星短期大学教授美術学科長に就任。86年にはデトロイト美術館主催のシンポジウムに招待され、「雪舟の周防行きについての意義」と題する講演を行なう。1995(平成7)年から98年まで成田山書道美術館副館長を務める。同美術館退職後は自宅の傍らに「アトリエ 悠・然」を開設主宰、日本画の実技指導や美術講演、美術談義を行なっていた。 主要著書 『雪舟』(大日本雄弁会講談社 1956年) 『永徳』(平凡社 1957年) 『日本人の表情』(社会思想研究会出版部 1958年) 『日本の絵画』(社会思想研究会出版部 1959年) 『墨絵の美』(明治書房 1959年) 『日本近代絵画全集20 今村紫紅』(講談社 1964年) 『日本の美術17 明治の日本画』(至文堂 1967年) 『カラーブックス194 絵画に見る日本の美女』(保育社 1970年) 『東洋美術選書 祥啓』(三彩社 1970年) 『日本の美術63 雪村と関東水墨画』(至文堂 1971年) 『近代の日本画 菱田春草』(至文堂 1973年) 『日本絵画全集4 雪舟』(集英社 1976年) 『茶画のしおり』(茶道之研究社 1979年) 『抱一派花鳥画譜』(紫紅社 1978~80年) 『古画名作裏話』(大日本絵画 1986年) 『冷泉為恭と復古大和絵派』(至文堂 1987年) 『四季の茶画』(求龍堂 1990年) 『今村紫紅』(有隣堂 1993年)

弦田平八郎

没年月日:2001/02/15

読み:つるたへいはちろう  神奈川県立近代美術館館長、横浜美術館館長を歴任した美術評論家の弦田平八郎は2月15日午前11時55分、肺がんのため横浜市金沢区の病院で死去した。享年72。1928 (昭和3)年7月3日、東京都大田区新井宿4丁目994に生まれる。麻布中学校、旧制第四高等学校を経て東北大学文学部に入学し、美学西洋美術史学科に学んで美学を専攻し、52年3月に同科を卒業した。その後一時白木屋に勤務する。59年8月から60年7月まで白木屋の用務によりアメリカハワイ州に滞在。67年に神奈川県立近代美術館学芸員となる。当時の同館の構成は、土方定一館長のもと、佐々木静一、朝日晃、酒井忠泰、副島三喜男、そして弦田が学芸員として勤務していた。明治百年をむかえた68年前後から高まった日本近代美術の再評価を背景に、日本で最初に設立された近代美術館であり、日本近代美術史について確固たる独自の視点を有した土方定一の牽引する企画で注目された同館の学芸員として、弦田は様々な展覧会に関わるとともに、当時さかんになった日本の近現代美術を紹介する全集その他の出版物に筆をふるった。85年3月から1992(平成4)年3月まで同館館長、92年4月から翌年まで横浜美術館館長をつとめた。 主要編著書 著書 『龍のおとし話』1、2 (自費出版 1999年)  編著  『日本の名画 21 土田麦僊』(講談社 1973年)    『池上秀畝画集』(信濃毎日新聞社 1984年)    『小阪芝田画集』(信濃毎日新聞社 1986年)(矢島太郎と共編・共著)    『日本素描大観10』(講談社 1983年)    責任編集 『加山又造全集 4』(学習研究社 1990年)    『昭和の文化遺産 2 日本画』(ぎょうせい 1991年)    『現代の日本画 6 片岡球子』 (学習研究社 1991年)  解説  『現代絵巻全集 7 富田渓仙・今村紫紅』(小学館 1982年)    『現代日本の美術 2 平福百穂・富田渓仙』(集英社 1975年)    『現代日本の美術 14 速水御舟』(集英社 1977年)  共編  『20世紀日本の美術』1~18 (集英社 1986~1987年)    『明治・大正・昭和の仏画仏像』(小学館 1986~1987年)

関野克

没年月日:2001/01/25

読み:せきのまさる  文化功労者で東京大学名誉教授でもあった建築史家関野克は、1月25日午前1時肺炎のため東京都西東京市保谷町の自宅で死去した。享年91。1909(明治42)年2月14日、建築史家関野貞(せきのただし)を父に東京に生まれる。1929(昭和4)年旧制浦和高等学校理科甲類を卒業し、翌30年東京帝国大学工学部建築学科に入学する。当初は建築デザインに興味をいだくが、33年同学科を卒業して大学院に進学すると建築史を専攻とし、日本の住宅史研究に力を注ぎ、「日本古代住居址の研究」(『建築雑誌』1934年)を皮切りに古代、中世の住宅建築に関する調査・研究に優れた業績をあげる。東京大学大学院在学中の35年9月より東京美術学校の非常勤講師をつとめる。37年藤原豊成功殿の復元などを含む「古文書による奈良時代住宅建築の研究」により第一回建築学会賞を受賞する。38年4月25日東京帝国大学大学院を満期退学。40年1月同学工学部助教授となり、41年同学第二工学部設立準備委員会常務幹事、翌42年同学第二工学部勤務となる。この間、我国における住宅史建築のはじめての通史となる『日本住宅小史』(相模書房)を刊行。43年2月応召。45年9月召集解除となり、同年同月「日本住宅建築の源流と都城住宅の成立」により工学博士となる。46年東京帝国大学第二工学部教授、49年東京大学生産技術研究所教授となる。51年登呂遺跡の竪穴式住居部材の発掘を機に、日本ではじめての古代住宅の復元となる登呂遺跡竪穴式住居復元を行い、敗戦間もない我国において太古の住居イメージを実証的に提示して注目された。一方、49年の法隆寺金堂炎上によって貴重な文化財を保存することへの意識が高まる中で50年文化財保護委員会事務局が設置されると関野はその建造物課初代課長に任ぜられ、57年4月まで東京大学生産技術研究所教授との兼務を続ける。これ以後、建築史学の調査研究と文化財の保存との両分野にわたって活躍。52年4月から東京国立文化財研究所保存科学部長をも兼務する。57年4月文化財専門審議会専門委員(61年8月まで)、60年宮内庁宮殿造営顧問(68年11月まで)となる。また、姫路城、松本城など大型建造物の解体修理などにも従事した。65年東京国立文化財研究所所長となり、69年3月東京大学を定年退官し、同学名誉教授となるまで東大教授と兼務する。70年財団法人万博協会美術展示委員、72年4月高松塚古墳保存対策調査委員となる。73年「腐朽木材に科学的処置を加えて耐用化し、再使用することによる古建築復元の一連の業績」により日本建築学会賞を受賞。78年東京国立文化財研究所を退任し、博物館明治村館長となる。79年長年にわたる国宝・重要文化財建造物の修理、復元の功績により勲二等瑞宝章受章。戦後まもなくより文化財保護に関する国際交流にも尽力し、86年「文化財保存修理技術の近代化と国際交流における功績」により日本建築学会大賞受賞。1989(平成元)年「イコモス(国際記念物遺跡会議)国内委員会設立の業績」によりイコモスよりピエロ・カゾーラ賞を授与される。90年、長年の文化財保護における政策、行政、人材育成の功績により文化財保護の分野においてはじめて文化功労者として顕彰された。その経歴、著作目録および残された史料の所在については藤森照信「関野克先生を偲ぶ」(『建築史学』37号 2001年9月)に詳しい。

源豊宗

没年月日:2001/01/17

読み:みなもととよむね  国内最高齢の美術史家であり、関西学院大学教授、帝塚山学院大学教授、文化財保護審議会専門委員、美学会委員等を歴任して、我が国における美術史研究の活性化に努めた源豊宗は、1月17日午前0時43分、老衰のため京都市左京区の高折病院で死去した。享年105。源は1895(明治28)年福井県武生市に生まれ、1921(大正10)年に京都帝国大学文学部史学科を卒業した。卒業後は京都帝国大学の講師を務め、この間の教え子に井上靖や河北倫明がいる。24年に創刊された研究雑誌「仏教美術」の主幹を1933(昭和8)年まで努め、多数の論文を発表するかたわら、地方の仏教美術作品等を積極的に紹介し、美術史研究の体系化と活性化に努力した。40年に初版を刊行した『日本美術史年表』(星野書店)は、年表という形式によって、日本美術の流れを世界美術史や国内外の諸文化の事象と対比しつつ体系化する試みであった。美術史研究の折りの必須な資料として高く評価され、72年、78年に座右宝刊行会から増補改訂された版が刊行されたが、源はその後もさらにそれを充実させる努力を続けていたという。82年、日本美術研究における多大は業績が評価され、朝日賞が授与された。また84年には京都市文化功労賞表彰を受けている。源の日本美術研究は、古代から近現代にまで及ぶ広汎なものである。中でも、日本美術における美意識の伝統の追求に力を注いだ。季節や時の移ろい、無常観の表現こそが日本美術の特質であり、その典型が秋草であるという「秋草の美学」を独自に展開させた。広範囲にわたる美術研究の成果は、『日本美術論究 源豊宗著作集』全7巻(既刊第1巻~第6巻 思文閣出版 1978~1994年)にまとめられた。その他の主な著書としては、『桃山屏風大観 附解説』(中島泰成閣 1934年)、『南禅寺蔵花鳥扇面画集』(芸艸堂 1936年)、『大徳寺』(朝日新聞社 1956年)、『大和絵の研究』(角川書店 1961年)、『光悦色紙帖』(光琳社 1966年)、『光琳短冊帖』(光琳社 1967年)などがある。源は、大学で美術史研究者を育成するかたわら、39年の秋以来、大阪を拠点とした日本美術愛好家のための講座である「金葉会」を毎月開催し、その講師を務めるなど、日本美術研究の普及の面でも大きな功績があった。『日本美術論究 源豊宗著作集』第7巻の執筆も既に終わっていたとのことで、現役の美術史家として、常に意欲的に活躍した人であった。

浅尾丁策

没年月日:2000/01/29

読み:あさおていさく  額縁制作、絵画修復家の浅尾丁策は、1月29日午前9時55分老衰のため自宅で死去した。享年92。1907(明治40)年9月27日、東京市下谷区に生まれる。家業は、浅尾払雲堂として、父の代からはじめた洋画用の筆を製造。1924(大正13)年、東京商業学校を卒業後、一時保険会社に勤務するが、その後神田神保町の画材店竹見屋に勤める。1927(昭和2)年、独立して画材一般を扱う浅尾払雲堂を経営する。42年、戦中の物資不足を補うために、洋画家たちの賛同を得て油彩材料研究会を設立。49年には、プールヴーモデル紹介所を設立。83年労働大臣表彰。1996(平成8)年、油彩画修復家として台東区より指定無形文化財となる。生涯にわたり、額縁制作、絵画修復などによって美術界に貢献した。父祖の代からの自叙伝として、『金四郎三代記 谷中人物叢話』(86年)、『続 金四郎三代記〔戦後篇〕 昭和の若き芸術家たち』(芸術新聞社 96年)がある。

横田忠司

没年月日:1999/11/29

読み:よこたただし  日本美術史家で多摩美術大学教授の横田忠司は、11月29日午後1時32分くも膜下出血のため東京都千代田区の日大駿河台病院で死去した。享年54。1945(昭和20)年1月3目、横田敏夫・ハル子の四男二女の四男として下関に生まれる。彦島中学、県立下関西高校を卒業後、早稲田大学へ進み、67年3月第一文学部心理学専修を卒業、さらに美術史へ進路を変え、69年3月同美術史専修を卒業、72年3月同大学院文学研究科芸術学専攻修土課程を修了後、博士課程へと進み78年9月に同博土課程を退学。その間、74年4月から78年3月まで文学部助手を務めた。78年4月から多摩美術大学非常勤講師、81年4月に専任講師となり、87年4月から助教授、93(平成5)年4月から教授。また、中央大学理工学部兼任講師、早稲田大学文学部非常勤講師などを務めた。82年3月、岡崎ちづ子と結婚、88年7月に長男啓吾をもうけた。 実家は病院だが、高校時代から絵を好み、外科医にという父の意に反して、この道に進んだ。専門は、室町時代の水墨画。当初心理学を専攻したことからも知れるように、措く者の内面への興味を持ち、「室町水墨画における画僧の制作意識について」では、数少ない史料から画僧の意識へ踏み込み、その美意識に考察を加えている。また「室町水墨画における画僧について」では、画僧を分類しながら彼らの在りようについて語っている。こまめな史料収集に基づいて特定の事像の全体像を浮かび上がらせようとするのも研究上の特徴の一つで、「中世実景図研究」では五山文学から実際の土地を描きまたそれらとのイメージ連鎖をもつ絵画関係史料を網羅して丹念に分類し、この問題を考えるための基本情報を提供した。近年は、地方志から絵画関係史料を博捜した「日本中世における地方絵画についての基礎研究」を地域別に発表中の急逝だった。実景図関係史料とともに、日本中世絵画史の基礎史料集となったはずであり、それを基礎として浮かび上がる諸々の問題を語る準備途上での急逝でであっただけに惜しまれる。また、「禅林画讃」(共著)は毎日出版文化賞特別賞を受賞した。 著述以外にも、多摩美術大学が主催する宗教美術研究会の運営にあたり、また室町水墨画研究会のメンバーとして多くの作品調査に加わった。晩酌を欠かさず、酒宴ではにこにこしながら最後までつきあう寡黙な酒豪だった。 主著『墨蹟と禅宗絵画』(共著)(『日本美術絵画全集』14、学習研究社、1979年)『禅林画讃』(共著)(毎日新聞社、1987年) 主要論文住吉広行(伝記研究)―屋代広賢撰『道の幸』と関連して(美術史研究1、1973年)初期水墨画家の落款について―主に禅林の画家を中心として(古美術50、1976年)『東寺百合文書』にみえる法橋長賀について―宅磨派の良賀、長賀に関連して(美術史研究15、1977年)室町水墨山水における「境」について(古美術59、1980年)室町水墨画における画僧の制作意識について―とくに愚渓右慧のそれを中心にして(多摩美術大学研究紀要2、1985年)室町水墨画における画僧の位置づけ―その性格と役割(美学171、1992年)室町水墨画における画僧について―その性格と役割(宗教美術研究1、1994年)日本中世における地方絵画についての基礎研究―中部編1静岡(多摩美術大学研究紀要12、1997)伝明兆筆羅漢図(国華1231、1998年)日本中世における地方絵画についての基礎研究―中部編2岐阜(多摩美術大学研究紀要13、1998)中世実景図研究(『日本美術襍稿』佐々木剛三先生古稀記念論文集、明徳出版社、1998年)日本中世における地方絵画についての基礎研究―中部編3山梨(多摩美術大学研究紀要13、1999)

西川新次

没年月日:1999/09/18

読み:にしかわしんじ  9月18日午前3時40分、脳腫瘍のため入院先の千葉県柏市内の病院で死去。慶應義塾大学名誉教授、佐野美術館館長、醍醐寺霊宝館館長。享年78。日本彫刻史。 西川は1920(大正9)年12月11日、福井県武生市蓬莱42の商家に生まれた。幼少年時代から慶慮義塾大学で日本彫刻史の研究を志す頃までの一端は「読書遍歴―少・青年時代のころ―」(『三色旗』312号、慶慮義塾大学、1974年)に詳述される通りで、日本彫刻史の研究を志すきっかけについても、和辻哲郎『古寺巡礼』の名文に刺激されて日本美術ことに仏像に興味を覚えたことを回顧している。そして、慶應義塾大学文学部2年の頃に、生涯の師となる丸尾彰三郎(当時、慶應義塾大学に非常勤講師として招かれていた)の門を敲く。その折、古代彫刻を学ぶにあたって読むべき本を尋ねたところ「先ず『六国史』を読んで自分なりの年表や索引を作ることを薦められ、論文集ではと語を継ぐと津田左右吉の『文学のあらわれたる我国国民思想の研究』・『黒川真頼全集』・平子鐸嶺の論文集など、直接関係なさそうな、一見古くさい本を挙げられたのには驚いた」が「それぞれを読み進めながら、いずれも根本的な思考や研究につながる、大きな意味を含んでいることを、改めて思い知らされた」と述べている。このあたりに後年、文献を緻密におさえ論を構築していく西川の学風の淵源が求められそうである。学問にかける情熱は日本彫刻史にとどまらず中国石窟芸術にも及び「召集直前に広告の出た水野清一、長廣敏雄氏の『竜門石窟の研究』は、父に頼んで、先輩・松下隆章氏を患わして買って貰った。生きて読めるかどうかわからないのに、呑気な話である。幸いに戦が終って、その本に接した時の喜びは、なににも優る思いであった」と記すことに窺うことができる。そして、満州四乎街の予備仕宮学校時代に現地の本屋でその頃発行された足立康の『日本彫刻史の研究』を購入し「ベットの上の整理箱にしまって置いたところ、教官に見つかって散々に油を絞られた」が「断固として反抗し、妥協することを止めた」ために「本は学校を卒業するまで教官におあずけとなってしまった」という逸話も、日本彫刻史にかける情熱と意志の堅さを示すであろう。43(昭和18)年9月、慶應義塾大学文学部哲学科(芸術学専攻)卒業。同月、東京帝室博物館に採用。列品課勤務(技術雇員)。なお、この頃、丸尾彰三郎の紹介で東京・品川寺に下宿し、住職の子息・仲田順和(現、醍醐寺執行長)と文字通り寝食をともにする。後年、西川が醍醐寺と格別関係が深かったことも、この頃にまで遡る。47年5月、国立博物館陳列課勤務(文部技官)。 50年9月、文化財保護委員会保存部美術工芸課に配置換。58年1月から11月、外務事務官兼務(外務省文化情報局勤務)。同3月から9月、ヨーロッパ巡回日本古美術展開催のためパリ・ロンドン・へーグ・ローマに出張。62年8月より文化庁文化財保護部美術工芸課修理主査。67年4月より東京国立博物館学芸部資料課長。69年12月より71年3月まで文化庁文化財保護部美術工芸課長。71年4月、慶應義塾大学文学部教授となり、86年3月、定年退職。この問、慶應義塾大学において指導を仰ぎ、仏教美術を志した学徒のなかから中川委紀子、紺野敏文、片山寛明、関根俊一、林温、塩津寛樹、金子信久、浅見龍介、山岸公基が輩出することとなった。なお、慶應義塾大学における門弟への指導は非常に厳しいものがあったことはあまり知られていない。慶應義塾大学三田校舎での最終講義は「藤原彫刻の成立」についてであった。このテーマを最終講義に選んだのは当時、責任編集に当たった『平等院大観』第2巻・彫刻篇(岩波書店、1987年)において大仏師定朝と平等院鳳風堂の彫刻について改めて取り組んだことによるところが大きいものとみられるが、一方で、西川の関心の中心が平安彫刻史にあったことを示すものでもあろう。同年4月慶應義塾大学名誉教授となる。そして、84年7月より91年3月まで山梨県立美術館長を勤める。また、学習院大学文学部、中央大学文学部、東京芸術大学大学院美術研究科、静岡大学教育学部、早稲田大学大学院文学研究科、東京大学文学部、成城大学大学院文学研究科、仁愛女子短期大学、慶應義塾大学大学院文学研究科の非常勤講師を勤め、紳土の品格を備えた西川を慕い慶應義塾大学以外においても指導を仰ぐ学徒が多く慕い集まった。学術審議会専門委員、文化財保護審議委員会専門委員(第一専門調査会絵商彫刻部会長、第二専門調査会建造物部会を兼ねる)、東京国立博物館客員研究員、美術史学会常任委員、仏教芸術学会委員、密教図像学会委員、千葉県・静岡県・岩手県・新潟県・東京都・山梨県の各文化財保護審議会委員、柏市文化財保護委員会委員長、新潟県三条市史および山梨県史の編纂委員会委員、福井県史編纂文化財部会参与、中日共同敦煌莫高窟修復委員会委員、東大寺南大門修復委員会委員長、臼杵磨崖仏修理委員会委員、福井県立博物館建設委員会委員、福井県立美術館運営協議会委員、出光美術館評議委員、三井文庫評議委員、佐野美術館常任理事を勤める。死亡時には佐野美術館館長、醍醐寺霊宝館長の職にあった。西川の学風は現場での知見を重んじるとともに、文献を押さえた緻密な論の構築にあったが、前者は博物館および文化庁時代に現場で調査・修理に携わった経験を通じて培われた。学問領域は飛鳥時代から鎌倉時代にまで及ぶ。しかも発表されたどの論考も今日でも遜色なく、その後の研究の指針となっている。業績において特筆されるのは師・丸尾彰三郎を中心に毛利久・井上正・水野敬三郎と『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代造像銘記篇・全8巻(中央公論美術出版、1966~71年)を刊行したことで、その刊行によって日本美術の研究分野において彫刻史がいち早く作品の調査方法、記述の仕方、写真の撮影カット等の確立をみた。まさに近代にはじまる日本彫刻史研究を今日のスタイルに固めた業績は大きい。そしてこれを承けてさらに田辺三郎助と西川杏太郎が参加して『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代重要作品篇・全5巻(中央公論美術出版、1973~97年)を完成させている。また、これと併行してはじまった『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店、1968~73年)や『大和古寺大観』全7 巻(岩波書店、1976~78年)において日本彫刻作品の鑑賞のあり方に一つの指針を示した。さらに、文化庁美術工芸課の課長時代の国宝・重要文化財修理の経験と文化財行政で得た信用は、88年から93年にかけて行われた文字通り世紀の大修理となった東大寺南大門金剛力士像の大修理において保存修理委員会委員長を務め、指導を行ったことは記憶に新しい。そして、最後の論考は『密教図像』17号(1998年)に発表した「重源と醍醐寺・村上源氏(上)―大蔵卿栢杜堂と醍醐寺の三角五輪塔を巡って―」であった。これは前年、四日市市立博物館で開催された特別展『重源上人』の会期中、同館を会場として行われた密教図像学会全国大会における記念講演をもとに執筆したものである。自らが修理に関わった東大寺南大門金剛力士像の造像勧進者と知られる俊乗房重源と、霊宝館長を務めた醍醐寺とを視野にいれて、重源と醍醐寺の関わりを信仰に及んで論じたものである。99年2月に上梓し、その抜き刷を各方面に送付すべく書斎で自ら作業を行っている時に倒れたが、その後、回復・退院する。4月末頃より同年秋に東京・東武美術館と大阪・市立美術館において開催される『役行者と修験道の世界』図録のための執筆にとりかかったのが最後の仕事となった。七月初旬に再入院。『平等院大観』刊行後、西川の念願であった『醍醐寺大観』全3巻の刊行が漸く実現へと動きだした9月18日、78歳の生涯を閉じる。『醍醐寺大観』刊行の遺志は水野敬三郎(東京芸術大学名誉教授、新潟県立近代美術館長)が引き継ぎ、2001年冬、漸く刊行がはじまる。その監修者として山根有三とともに名を連ねることとなった。編著書・論文かの述作については『日本彫刻史論集』(中央公論美術出版、1991年)に総目録がある。それ以後に執筆された論考は以下の通り。「中道町円楽寺の役行者像」〔植松先生頒寿記念論文集刊行会編『甲斐中世史と仏教美術』(名著出版、1994年)〕、「七百九十年目の甦り その尊容と平成修理の概要」〔東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』(朝日新聞社、1997年)〕、「役行者像から見た修験の世界」(役行者神変大菩薩一三00年遠忌記念特別展図録『役行者と修験道の世界』、1999年)「重源と醍醐寺・村上源氏(上)―大蔵卿栢杜銅と醍醐寺の三角五輪塔を巡ってJ (『密教図像』17号、1998年)。なお、没後、莫大な蔵書・抜刷・調書・写真資料の行方について各方面から関心が寄せられたが、学閥にとらわれることなく後進の研究者の育成を願った西川の遺志を汲んだ夫人の配慮により、生前、霊宝館長を勤めた醍醐寺に西川文庫を創設し、研究者に公開し研究の進展に益すべく移管され、西川が館長時代に進め、2001年秋に開館された下醍醐の新宝物館内の、国宝薬師三尊像が鎮座する隣室に開設が予定されており、目下、公開すべく作業が進められている。 

松原三郎

没年月日:1999/05/04

読み:まつばらさぶろう  美術史家で文学博士、実践女子大学名誉教授の松原三郎は、5月4日死去した。享年80。1918(大正7)年9月4目、福井県に生まれる。44(昭和19)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同年同大学院に進み、46年東京大学大学院を修了した。同62年3月には「中国金銅仏及び、石窟造像以外の石仏に就ての研究」により東北大学(亀田孜教授主査)から文学博士号を授与された。70年実践女子大学文学部教授となる。この問、東京大学文学部、同大学院、成城大学、東京女子大学文理学部で講師を兼任する。75年実践女子大学に図書館博物館学講座が設立され主任となる。82年ハーバード大学付属フォッグ美術館客員研究員として招聘される。85年実践女子大学文学部に美術史学科が設立され、学科主任となる。89(平成元)年実践女子大学名誉教授となる。中国仏教彫刻史研究の泰斗として、95年生涯の研究の集大成である『中国仏教彫刻史論』全4冊(吉川弘文館)を上梓した。その研究は、従来石窟寺院中心であった中国仏教彫刻の研究に対して、年記や供養者の姓名、出身地あるいは制作地を示唆する地名などが銘文に記されることの多い単体の石彫像、金銅仏、さらには木彫像について注目し、日本や欧米の美術館・博物館、個人コレクションに所蔵されるそれらの作例を博捜して、仏像様式の地域性と時代性がどのように現れるかを丹念に、しかも繰り返し考察した。学位請求論文となった59年の『中国仏教彫刻史研究』に始まり、その増訂版である66年の『増訂中国仏教彫刻史研究』 (いずれも吉川弘文館)、そして最後の『中国仏教彫刻史論』に至るまで、銘文の解説と作品の真贋に対する検討が続けられた。初期の頃には日本人の誰もが実見することのできなかった中国大陸の作例が多数盛り込まれ、重要な資料を提供したが、同時に、前の出版で掲載されたものでも次の出版ではいくつかが厳しく不採用となった。その修辞法には独特の難解さがあるものの、考察の地域と時代は広範囲におよび、仏像様式の相互の関連や発展の状況が論じられている。この3冊を根幹としながら、初期の雑誌掲載の論文では朝鮮半島の石仏、金銅仏についての研究が行われ、さらにすすんで日本の飛鳥時代の仏像様式との関係を論じている。ついで唐時代と奈良時代の仏像様式の比較検討もおこなった。後半は中国大陸での新発見の報告が増加する中で、積極的に河北省や山東省の作例を調査研究しようとする姿勢が加わった。主な論文に「新羅石仏の系譜―特に新発見の軍威石窟三尊仏を中心として―」 (『美術研究』第250号)、「飛鳥白鳳仏と朝鮮三国期の仏像―飛鳥白鳳仏源流考としてー」(『美術史』68号)、「盛唐彫刻以降の展開」(『美術研究』257号)、「飛鳥白鳳仏源流考(一)~(四) 」(『国華』第931、932、933、935号)、「天平仏と唐様式」(『国華』第967、969号)などがある。また主な著書に上記3冊のほか『Arts of China Buddhist Cave temple』(1969年、講談社インターナショナル)、『小金銅仏 飛鳥から鎌倉時代まで』(田辺三郎助と共著)(1979年、東京美術)、翻訳・解題『埋もれた中国石仏の研究―中国河北省曲陽出土の白玉像と編年銘文―』(楊伯達著)(1985年、東京美術)、『韓国金銅仏研究―古代朝鮮金銅仏の系譜―』(1985年、吉川弘文館)などがある。

光森正士

没年月日:1999/03/31

読み:みつもりまさし  奈良大学教授、奈良国立博物館名誉館員の光森正士は3月31日午後8時、肝不全のため兵庫県尼崎市の病院で死亡した。享年67。1931(昭和6)年5月9日尼崎に生まれる。55年5月大阪学芸大学を中途退学、翌56年4月龍谷大学に入学する。同大学大学院文学研究科博士課程在学中の64年7月奈良国立博物館学芸課工芸室文部技官となる。65年7月学芸課美術室に配属となり、以来彫刻を担当する。66年3月龍谷大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。72年11月奈良国立博物館学芸課普及室長、77年4月学芸課美術室長、87年奈良国立博物館仏教美術資料研究センター仏教美術研究室長、91(平成3)年4月学芸課長、93年3月学芸課長を最後に奈良国立博物館を退官した。同年5月奈良国立博物館名誉館員になる。95年奈良大学文学部文化財学科教授になり、文化財学研究法、日本彫刻史、日本文化史等を担当した。この間、奈良市史編集委員(64年から88年まで)、奈良県橿原市文化財審議委員(75年)、大阪府松原市史、美原町史編集委員(78年)、奈良県文化財審議委員(85年)、外務省研修所講師(86年から95年まで) 、鳥取県倉吉市博物館文化顧問(90年)、兵庫県姫路市文化財審議委員(91年)、奈良県御所市文化財審議委員、奈良県斑鳩町文化財委員(92年)、文化庁文化財審議会専門審議委員(96年)等を歴任し、また帝塚山短期大学(79年から81年まで)、神戸大学(83年から88年まで)、龍谷大学(89年から90年までと94年から95年まで)等で非常勤講師として仏教美術史、博物館学等の教鞭をとった。大阪学芸大学では絵画を学び、自身は僧籍にあったという環境と、学生時代以来親しく指導を受けた考古学者石田茂作の強い影響のもと、仏教美術を単なる机上や大学の教室における研究の対象としてのみとらえるのではなく、ほんらいの仏教儀礼実践の場にあるものとして見つめようとする姿勢を貫いた。阿弥陀仏に関する研究、礼拝空間としての仏堂の研究、多種類の仏具、仏教工芸に関する研究など、個性ある成果を残した。また、30年におよぶ奈良国立博物館学芸員として多くの展覧会を手がけ、奈良を中心とする古社寺の紹介と保護に尽力した。主な著作に『阿弥陀仏彫像』 (1975年、東京美術)、『山越阿弥陀図』(1976年、同朋舎出版)、『大和路かくれ寺かくれ仏』(1982年、講談社)、『阿弥陀如来像』(1986年、至文堂 シリーズ日本の美術241)、『仏像彫刻の鑑賞基礎知識』(共著、1993年、至文堂)、『仏教美術論考』(1998年、法蔵館)がある。

林美一

没年月日:1999/03/31

読み:はやしよしかず  江戸文芸研究家、時代考証家の林美一は3月31日午後11時5分、パーキンソン病のため神奈川県逗子市の病院で死去した。享年77。1922(大正11)年、大阪に生まれる。大阪市立東商業高校を卒業し、大映京都撮影所宣伝部に勤務。溝口健二監督作品の時代考証を手がける。51(昭和26)年、個人研究誌「未刊江戸文学」を創刊する。同誌の刊行は全17冊別巻7冊にのぼった。59年「江戸文学新誌」を創刊し、同誌6冊を刊行。60年、大映京都撮影所を退社し、江戸文学、浮世絵の研究家として独立する。同年、『艶本研究国貞』を刊行。同書は、散逸している艶本を再現した意義と価値は認められながらも、わいせつ図画販売罪で有罪となった。江戸の艶本研究の第一人者として活躍し、著書に『艶本研究シリーズ』(全14巻、有光書房、1960―76年)、『時代風俗考証事典』(河出書房新社、1977年)、『江戸看板図譜』(三樹書房、1977年)、『江戸の枕絵師』(河出書房新社、1987年)、『江戸枕絵師集成』(全20巻、別巻2巻、内既刊5巻、河出書房新社、1989年―)、『江戸の24時間』(河出書房新社、1989年)、『艶本江戸文学史』(河出書房新社、1991年)、『浮世絵春画名品集成』(全24巻、別巻3、河出書房新社、1995年)などがある。映画、舞台、テレビ番組などの時代考証家としても活躍し、「北斎漫画」「キネマの天地」「近松心中物語」などの映画、演劇の時代考証の業績によって日本風俗学会・江馬賞を受賞した。

白洲正子

没年月日:1998/12/26

読み:しらすまさこ  能や美術工芸についての執筆活動で知られる白洲正子は12月26日午前6時21分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年88。明治43(1910)年1月7日、樺山伯爵家の二女として東京で生まれる。4歳から梅若宗家に能を習い、14歳で女人禁制だった能楽堂の舞台に女性として初めて立った。大正13(1924)年学習院女子部初等科を修了後、米国に留学。昭和3(1928)年に帰国しその翌年、実業家で後に吉田茂首相の側近となる白洲次郎と結婚。同18年、志賀直哉や柳宗悦らに勧められ『お能』(昭和刊行会)を処女出版。この頃から終戦直後まで細川護立に中国古陶磁の鑑賞の仕方を教わり、数々の骨董屋を紹介される。戦後は美術評論家の青山二郎を中心とした文化人グループの中で、小林秀雄、河上徹太郎らから文学や骨董の指導を受け、美に対する情熱と鋭い鑑識眼で、芸術・芸能を大胆に論じた随筆、紀行文を数多く残した。同30年、銀座の染織工芸店「こうげい」の開店に協力、翌年より同45年まで直接経営にあたり、多くの染織作家を発掘する。同39年『能面』(求龍堂)、同47年『かくれ里』(同46年 新潮社)で二度読売文学賞を受賞。美術工芸に関する著作としては、他に『十一面観音巡礼』(新潮社 昭和50年)、『日本のたくみ』(新潮社 昭和56年)、『白洲正子 私の骨董』(求龍堂 平成7年)。

宮上茂隆

没年月日:1998/11/16

読み:みやかみしげたか  建築史家の宮上茂隆は11月16日午後7時21分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去した。享年58。昭和15(1940)年7月26日、東京小石川の華道家元の家に生まれる。同39年東京大学工学部建築学科を卒業、同41年同大学院修士課程を修了し、同43年から55年にかけて同学科助手を務める。その間の同54年に『薬師寺伽藍の研究』(私家版 同53年)で工学博士となる。同55年竹林舎建築研究所を設立。同58年、二十年がかりで大阪城本丸設計図を復元完成。平成元年から同5年にかけて掛川城天守閣の復元設計に携わる。 奈良時代の寺院から江戸時代の城郭に至るまで日本建築の研究・復元設計を幅広く手がけた。主要著書に『法隆寺』(西岡常一と共著 草思社 昭和55年)、『大坂城』(草思社 昭和59年)がある。 

小杉一雄

没年月日:1998/10/22

読み:こすぎかずお  美術史家で、早稲田大学名誉教授の小杉一雄は、10月22日午前10時35分、急性肺炎のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年90。明治41(1908)年6月4日画家小杉未醒(放庵)の子として東京都本郷区千駄木町に生まれた。昭和2(1937)年第一早稲田高等学院に入学、同4年4月早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻入学、同7年4月早稲田大学大学院に進み、会津八一教授の指導を受けた。同14年4月から早稲田大学第二高等学院講師、同20年11月から早稲田大学文学部講師、同24年4月早稲田大学文学部教授になり、同54年3月定年退官。同年早稲田大学名誉教授となった。この間、同32年4月には「中国美術史に於ける伝統の研究」により、早稲田大学より文学博士号を授与された。同55年11月勲三等瑞宝章叙勲。平成5(1993)年2月紺綬褒章受章。  その美術史研究は中国美術における文様史と仏教美術史を根幹とした。文様史の研究においては自身が中国文化の実質的出発期と位置づける殷時代の文様に注目し、この時代の文様がほとんど爬虫類系のものであるという観点から、多様な文様を綿密な考証によって解読し、この文様の流れがその後の数千年におよぶ中国美術、ひいては日本美術の中に脈々として存続し同時にこれらを生育していったという状況を説き明かした。仏教美術の研究においては、南北朝時代の仏舎利信仰と仏塔、天蓋・仏龕・台座という荘厳具、肉身肖像、鬼神形などのテーマを柱としながら、関心を多岐におよぼし、壮大な仏教美術論を展開した。それは図像的考察と文献的考察によって独自の境地を開くものであった。この二つは学位取得論文を構成するもので、その後の論文も合わせて、文様史に関しては『中国文様史の研究―殷周時代爬虫文様展開の系譜』(昭和34年、新樹社)、仏教美術史に関しては『中国仏教美術史の研究』(昭和55年、新樹社)が刊行されている。  その他の主な著作として、『アジア美術のあらまし』(昭和27年、福村書店)、『日本の文様―起源と歴史』(昭和44年、社会思想社)、『中国の美術』(昭和49年、社会思想社)、『小杉一雄画文集』第一輯(昭和60年、自費出版)、『中国美術史―日本美術史の研究』(昭和61年、南雲社)、『小杉一雄画文集』第二輯(昭和63年、自費出版)、『奈良美術の系譜』(平成5年、平凡社)がある。妻瑪里子は美術史家(白梅短期大学名誉教授)、長男正太郎は早稲田大学教授(心理学)、次男小二郎は洋画家。 

三輪福松

没年月日:1998/10/10

読み:みわふくまつ  美術史家の三輪福松は10月10日午後0時12分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年87。明治44(1911)年7月6日、静岡県で生まれる。昭和13(1938)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同大学附属図書館、及び同大学医学部図書室勤務を経て、同24年東京大学助教授となる。同28年よりイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学文学部に学び、帰国後は多摩美術大学教授(同34~38年)、慶應義塾大学講師(同38~47年)を歴任。同47年より東京学芸大学教授、同50年より弘前大学教授、同55年より群馬県立女子大学教授を務める。また同60年から平成元(1989)年まで清春白樺美術館長を務めた。主要著書に、『ワトオ』(アトリエ社 昭和15年)、『巨匠の手紙』(不二書房 昭和19年)、『ヴユネツイア派』(みすず書房 昭和31年)、『モヂリアニ』(みすず書房 昭和31年)、『イタリア美術夜話』(美術出版社 昭和32年)、『イタリア美術の旅』(雪華社 昭和39年)、『イタリア』(美術出版社 昭和41年)、『エトルリアの芸術』(中央公論美術出版 昭和43年)、『美術の主題物語・神話と聖書』(美術出版社 昭和46年)、『美の巡礼者』(時事通信社 昭和58年)、『美術のたのしみ』(里文出版 平成6年)、また翻訳にフロマンタン『レンブラント』(座右宝刊行会 昭和23年)、フロマンタン『昔の巨匠達』(座右宝刊行会 昭和23年)、マルク・シャガール『シャガールわが回想』(村上陽通と共訳 美術出版社 昭和40年)、L.B.アルベルティ『絵画論』(中央公論美術出版 昭和46年)、B.ベレンソン『ベレンソン自叙伝』(玉川大学出版部 平成2年) がある。

萬野裕昭

没年月日:1998/03/04

読み:まんのやすあき  萬野美術館館長の萬野裕昭は3月4日午前3時55分、肺炎のため兵庫県西宮市の病因で死去した。享年91。明治39(1906)年8月17日大阪府泉北郡忠岡村(現・忠岡町)で生まれる。父は土木建築請負業の萬野組を経営していた。大正14(1925)年父より萬野組を引き継ぎ、昭和6(1931)年には合名会社南海鉄筋混凝土(コンクリート)工務店を設立、煙突建設請負業を始める。同15年株式会社萬野組を設立。戦後は不動産業を志し、その他にも船舶、運輸、外食産業、レジャーと多くの事業を手がける。その古美術収集については、青年時代に骨董類に興味を持ち、茶碗、香炉、徳利などを収集。戦時中は一時途絶えるものの、戦後しばらくして財閥・富豪が所持していた伝世品が流出しだすと、中国陶磁と茶道具を主に収集を再開し、琳派・肉筆浮世絵等の絵画、書蹟、さらには金工、刀剣・甲冑から染織へと範囲を拡大、東洋古美術に関しては仏像等直接信仰の対象となるもの以外は全てコレクションとして網羅されていると自負するまでに至る。その収集方法についても、美術館の展覧会を企画するかのようだともいわれるほど、各ジャンルにわたり系統的だったものであった。また収集を通じて細見良ら関西のコレクターや山根有三ら美術史家とも親交が深かった。もっともそのコレクションが国宝・重要文化財を含み一千点を超える屈指の収集家になっても表に出ず、好事家の間で「謎のコレクター」といわれたが、同57年所蔵する「佐竹本三十六歌仙斷簡 源公忠」がテレビで放映され、収集家としての存在が世間に知られるようになる。この頃にはすでに美術館建設の構想を固め、同62年財団法人萬野記念文化財団の設立が文化庁より認可、翌年大阪御堂筋沿いに萬野美術館を開館させた。平成元(1989)年文化芸術関係功労者として大阪府知事表彰を、また地域文化功労者として文部大臣賞を受ける。同6年には自伝『事業と美術と』を出版した。

松島健

没年月日:1998/02/27

読み:まつしまけん  2月27日午後0時33分、胆嚢ガンのため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉病院で死去。文化庁美術工芸課主任文化財調査官を経て、東京国立文化財研究所情報資料部長を歴任。享年54。日本彫刻史。松島は昭和19(1944)年2月27日、東京で生まれた。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程において日本彫刻史を専攻。ことに鎌倉彫刻に関心を寄せ、修士論文『運慶の生涯と芸術』を大学に提出する。なお、この修士課程在学中の同43年から2年間、文化庁の調査員に採用されている。同45年4月、同大学院後期博士課程に進学するも5月1日、東京国立博物館学芸部資料課資料室に文部技官として採用され、これにともない大学院後期博士課程を退学する。同46年4月1日付で、学芸部美術課彫刻室併任となり、同48年8月1日付で、文化庁に出向、文化財保護部美術工芸課に転任。同55年10月1日付で文化財保護部美術工芸課文化財調査官に昇任する。同57年12月1日から86年5月31日まで文化財保護部美術工芸課文化財管理指導官を併任し、平成2(1990)年4月1日文化財保護部美術工芸課主任文化財調査官に昇任する。同8年4月1日付で東京国立文化財研究所情報資料部長に昇任した。  松島の日本彫刻史の研究者としての研鑽は文化庁文化財保護部美術工芸課時代に培われたものといっても過言でない。この文化庁時代の松島の仕事は文化財(彫刻)の指定および指定文化財の修理計画の立案と修理指導、保存施設事業計画の立案と実施指導、保存管理、文化財の公開活動など文化財保護行政の多岐にわたった。また職務の一環として中国における鑑真大師像回国巡展(昭和55年4月19日~5月24日)をはじめとして在職中、海外で開催された日本美術の展覧会において自ら日本彫刻の名品の選定に関わりその魅力を海外に伝えた功績は大きい。ことに平成2年、主任文化財調査官に昇任してからは彫刻部門の総括責任者として指定・保存・公開事業に強い指導力を発揮し、一時期中断していた仏像の国宝指定を積極的に推し進め、以後、仏像の国宝指定を再開させた功績は特筆されよう。この松島の文化庁での職務は美術史研究者としての方向性にもおおきく反映し、職務の傍ら現場において実査にもとづく知見に立脚した論を展開させていった。その関心の中心は大学院時代以来、終始一貫して鎌倉彫刻、ことに運慶にあったようで、その意味では同3年にイギリス大英博物館において行われた「鎌倉彫刻展」はかれのこれまでの研究活動に裏打ちされた作品選定がなされており、鎌倉時代の仏像をはじめてまとまった形で海外に紹介した展覧会としても高い評価を得た。また、同5年まで行われた東大寺南大門金剛力士像の本格的解体修理は主任文化財調査官として監督・監修に携わるとともに松島の彫刻史研究者としての生涯において大きな意味を持ち得たようである。この自らのなし得た仕事と金剛力士像・運慶への熱い思いは東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』(朝日新聞社、同9年)および、松島の死をもってうち切られることとなった産経新聞の紙面上での中世史学者・上横手雅敬との対論「運慶とその時代」(のちに文化庁文化財保護部美術工芸課時代の部下であった根立研介・現、京都大学文学部助教授によって『歴史ドラマランド・運慶の挑戦 中世の幕開けを演出した天才仏師』(文永堂、同11年)としてまとめられた)において窺われる。松島の研究者生活において転機となったのは同8年4月の東京国立文化財研究所へ情報資料部長としての移動であった。文化財の指定・保護という長年の激務から解放され研究者として研究活動に専念、その精力的な調査研究活動は周囲に万年青年ぶりを印象づけた。そのなかで松島が新たに取り組んだのは、ひとつは東京国立文化財研究所での情報資料部長という職掌を念頭においた国宝彫刻のCD-ROM版化であり、いまひとつは勢力的に調査・研究活動を行うなかで自らが見出した長野・仏法紹隆寺不動明王像の運慶作の可能性を探ることである。ことに後者は大学院時代以来のフィールドワークの中心に運慶があったことを窺うに足る。そして、翌同9年10月22日に開催された東京国立文化財研究所美術部情報資料部公開学術講座では、この仏法紹隆寺不動明王像の運慶作の可能性を「新発見の運慶様の不動明王像」と題して講演に及び自説を披露している。しかしながら、その頃、すでに癌は松島の身体を蝕みはじめ、病名について告知を受けながらもあえて延命治療は行わず、力の限り研究に邁進した。おしむらくは松島が最後に取り組んだ研究の内容が活字化をみなかったことである。12月には湘南鎌倉病院に再入院。翌2月27日に東京国立文化財研究所情報資料部長の現役のまま、54歳の生涯を終える。墓所は生前みずから選定した鎌倉・光則寺とする。没後、東京国立文化財研究所時代に立案・監修にあたったCD-ROM版「国宝仏像」全5巻が完成をみる。なお美術史家河合正朝・慶應義塾大学文学部教授は義兄にあたる。編著書『名宝日本の美術5・興福寺』(小学館、昭和56年)、『日本の美術225・紀伊路の仏像』(至文堂、昭和60年)、『日本の美術239・地蔵菩薩像』(至文堂、昭和61年)、『KAMAKURA-The Renaissance of Japanese Sculpture(鎌倉時代の彫刻)』(British Museum Press、平成3年)、『東大寺南大門・国宝木造金剛力士像修復報告書』(東大寺、平成5年)『原色日本の美術9・中世寺院と鎌倉彫刻』(小学館、平成8年)、『大三島の神像』(大山祇神社、平成8年)、週間朝日百科『日本の国宝5・奈良薬師寺』(朝日新聞社、平成9年)、論文「興福寺十大弟子像」(『萌春』200、昭和46年)、「運慶小考」(『MUSEUM』244、昭和46年)、「鞍馬寺毘沙門三尊像について」(『MUSEUM』251、昭和47年)、「鎌倉彫刻在銘作品等年表」(『MUSEUM』296、昭和50年)、「吉祥天像」(『國華』991、昭和51年)、「地方における仏像の素材」(『林業新知識』753、昭和52年)、「立木仏について」(『林業新知識』754、昭和52年)、「千手観音像(旧食堂本尊)興福寺」(『國華』1000、昭和52年)、「慶禅作聖徳太子像・天洲寺」(『國華』1001、昭和52年)、「善導大師像来迎寺」(『國華』1001、昭和52年)、「日応寺の仏像(上・下)」(『國華』1011、1012、昭和53年)、「乾漆像の技法」(『歴史と地理』、昭和55年)、「東大寺金剛力士像(阿形・吽形の作者)」(『歴史と地理』、昭和55年)、「伊豆山権現像について」(『三浦古文化』、昭和56年)、「滝山寺聖観音・梵天・帝釈天像と運慶」(『美術史』112、昭和57年)、「道成寺の仏像―本尊千手観音像及び日光・月光菩薩像を中心にして-」(『仏教芸術』142、昭和57年)、「木造阿弥陀如来及両脇寺侍像」(『学叢』6、昭和59年)、「西園寺本尊考(上)」(『國華』1083、昭和60年)、「仏師快慶の研究」(『鹿島美術財団年報』3、昭和61年)、「地蔵菩薩像」(『國華』1097、昭和61年)、「天神像・荏柄天神社」(『國華』1099、昭和62年)、「奈良朝僧侶肖像彫刻論―鑑真像と行信像―」(『仏教芸術』176、昭和63年)、「石山寺多宝塔の快慶作本尊像」(『美術研究』341、昭和63年)、「円鑑禅師の寿像と造像」(『仏教芸術』181、昭和63年)、「書評と紹介・清水真澄著『中世彫刻史の研究』」(『日本歴史』493、平成元年)、「長楽寺の時宗祖師像」(『仏教芸術』185、平成元年)、「河内高貴寺弁財天像私見」(『國華』1147、平成3年)、「東大寺金剛力士像(吽形)の構造と製作工程」(『南都仏教』66、平成3年)、「東大寺金剛力士像(阿形)の構造と製作工程」(『南都仏教』68、平成5年)、「満昌寺鎮守御霊明神社安置の三浦義明像」(『三浦古文化』52、平成5年)、「興福寺の歴史」(『日本仏教美術の宝庫奈良・興福寺』展覧会図録概説、平成8年)、「臼杵摩崖仏の成立試論」(『國華』1215、平成9年)、随筆「平安初期の仏像―特別展平安時代の彫刻に寄せて」(『萌春』205、昭和46年)、「運慶とその時代(1・3・5・7・9)」(『産経新聞』平成8~9年)、「国宝の旅3・整形された仁王の顔」(『一冊の本』10、平成9年)、「解説薬師寺・藤原京から平城新京へ移転/薬師寺の移転をめぐる論争」(『週間朝日百科・日本の国宝005・奈良薬師寺』、平成9年)、「仁王像は“超大型のプラモデル”」(『一冊の本』15、平成9年)、作品解説「原色版解説・国宝梵天坐像」(『MUSEUM』246、昭和46年)、「原色版解説・家津美御子大神坐像」(『MUSEUM』247、昭和46年)、「原色版解説・毘沙門天立像」(『MUSEUM』248、昭和46年)、「口絵解説・鎌倉初期の慶派仏師の二作例」(『仏教芸術』96、昭和49年)、「千葉県君津市と富津市の彫刻」(『三浦古文化』16、昭和49年)、「国宝鑑賞シリーズ6大仏師定朝と鳳凰堂本尊」(『文化庁月報』182、昭和59年)、「国宝鑑賞シリーズ19木造十一面観音立像(国宝)」(『文化庁月報』195、昭和59年)、「男神坐像・京都府出雲大神宮―新国宝・重要文化財紹介」(『国立博物館ニュース』588、平成8年)、「そして一本の檜材に 寄木造り彫刻の構造と技法」(東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』朝日新聞社)、対論「運慶とその時代」(『歴史ドラマランド・運慶の挑戦 中世の幕開けを演出した天才仏師』文永堂)、CD-ROM版「国宝仏像」全5巻。 

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