本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





澤柳大五郎

没年月日:1995/11/03

読み:さわやなぎだいごろう  東京教育大学名誉教授で早稲田大学でも教鞭を取った西洋美術史家澤柳大五郎は11月3日午前6時4分、心不全のため東京都小平市の公立昭和病院で死去した。享年84。明治44(1911)年8月23日東京都豊島区目白町に生まれる。昭和10(1935)年東北大学法文学部を卒業。美学美術史学を専攻し、同年より同13年3月まで同学部美学美術史学研究室助手をつとめる。同年11月より同18年10月末日まで文部省日本文化大観編集会嘱託となり、同年11月より帝国美術院附属美術研究所嘱託となった。同24年東京教育大学助教授となり、同28年同大学教授となった。ギリシャ、ローマ古代美術、特に葬礼に関する視覚資料を中心に調査・研究。同34年文部省在外研究員として渡欧し同36年帰国する。また、同41年レバノン、トルコ、ギリシャ、イタリアを訪れている。同43年東京教育大学を停年退職し、同大名誉教授となる。同年より早稲田大学文学部教授となって同57年停年退職するまで同大学で教鞭を取った。

河北倫明

没年月日:1995/10/30

読み:かわきたみちあき  美術評論家で文化功労者の河北倫明は10月30日午前3時45分心不全のため、東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年80。大正3(1914)年12月14日福岡県浮羽郡山春村に生まれる。久留米市立篠山尋常小学校を経て、昭和6(1931)年福岡県立明善校を修了。同10年旧制第五高等学校を卒業して京都帝国大学文学部に進学し、同13年同大哲学科を卒業して同大学院に進学する。同18年帝国美術院付属美術研究所(現・東京国立文化財研所)助手となり、日本近代画家の調査・研究に取り組む。戦後、同23年ころより日本近代美術史に立脚した現代美術評論活動を盛んに行うようになった。同23年同郷の洋画家青木繁の調査・研究成果として『青木繁』(養徳社)を刊行。また、同年『近代日本画論』(高桐書院)を刊行して、個々の作家、作品についての調査・研究に基づぎながら、史的流れのうえにそれらを位置づける日本近代絵画史の新たな方向を提起した。同27年国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)事業課長となり、日本で最初の近代美術館の運営に尽力。また、美術評論の分野でもその活性化と相互の連絡を目的として同29年美術評論家連盟を結成し、事務局長に就任した。同38年3月東京国立近代美術館次長となる。同42年5月美術交流展覧会のためソヴィエト連邦を訪れる。以後も、美術による国際交流のため中国、西欧、アメリカ、南米等を訪れる。同44年2月京都国立近代美術館館長となって、関西方面の美術館活動にも深く関わるようになり、同45年大阪万博では同博覧会美術館委員をつとめた。同57年美術館連絡協議会理事長に就任し、歿するまで全国の美術館運営、学芸員の調査・研究の奨励に寄与した。同61年10月より平成6(1994)年まで美術評論家連盟会長をつとめる。昭和61年京都国立近代美術館館長を退き、京都芸術短期大学の設立に尽力して翌62年6月同大学学長となった。平成元(1989)年1月より同4年6月まで横浜美術館館長をつとめ、この間同3年より同7年3月まで京都造形芸術大学学長をもつとめた。また、平成元年私財を投じて全国の若手の美術館学芸員、美術研究者の活動を支援すべく「倫雅美術奨励賞」を創設。同5年より式年遷宮記念神宮美術館館長、同7年より京都造形芸術大学名誉学長となった。主要著書に『日本の美術』(昭和33年 社会思想研究社出版部)、『大観』(同37年 平凡社)、『村上華岳』(同44年 中央公論美術出版)、『坂本繁三郎』(同49年 中央公論美術出版)、『河北倫明美術論集』全5巻(昭和52-53年 講談社)、『近代日本絵画史』(高階秀爾と共著 昭和53年中央公論美術出版)、『河北倫明美術時評集』全5巻(平成4-6年 思文閣出版)がある。

坂本光聡

没年月日:1995/10/22

読み:さかもとこうそう  真言三宝宗管長、清荒神清澄寺法王で鉄斎研究家の坂本光聡は10月22日午前9時15分、心不全のため自宅である兵庫県宝塚市米谷清シIの清荒神清澄寺で死去した。享年68。昭和2(1927)年10月22日清澄寺内に藤本元一の長男として生まれる。本名清一。同15年12月清澄寺第37世法主、坂本光浄に随い得度し、坂本家に入籍して坂本光聡と改名する。同22年種智院大学を卒業。同27年真言三宝宗宗務長・清澄寺副住職に就任する。先代法主が傾倒した富岡鉄斎の研究と作品収集を続け、同40年『世界の鉄斎』を刊行。同44年12月研究誌「鉄斎研究」を創刊した。同45年清澄寺境内に鉄斎作品の収蔵庫「蓬莱庫」を築造し、同50年4月には同じく境内に鉄斎美術館「聖光殿」を開館。同45年より、日本各地で鉄斎展を開催し、その作品紹介に努め、同61年には中国巡回「鉄斎展」を開催するのに伴い、上海、北京に赴いた。また、同63年ベルギーで開催された「ユーロパリアジャパン ’89」に参加して鉄斎展を開くなど、圏内にとどまらず、国際的に鉄斎作品の紹介を行った。陶芸にも造詣深く、荒川豊蔵の作品収集でも知られる。

福山敏男

没年月日:1995/05/20

読み:ふくやまとしお  日本学士院会員、京都大学名誉教授の建築史家福山敏男は5月20日午後6時13分、肺炎のため京都府長岡京市の済生会京都府病院で死去した。享年90。明治38(1905)年4月1日福岡県柳川市大字本城町27に生まれる。昭和2(1927)年京都帝国大学工学部建築学科を卒業。同年より造神宮使庁に勤務。同14年5月京都帝国大学より工学博士の学位を受ける。同15年『神宮の建築に関する史的調査』(造神宮使庁刊)を刊行。同17年文部技師として宗教局に勤務。同18年『日本建築史の研究』(桑名文星堂)を刊行。同22年東京国立博物館附属美術研究所(現・東京国立文化財研究所)に勤務となり、同26年同所資料部長、同29年より同所美術部長をつとめ、同34年京都大学教授となった。同43年に同大を退官した後は京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長をつとめた。古代仏教寺院や神社建築の調査・研究にあたり、出雲大社、大阪四天王寺、九州観世音寺などの調査発掘を指導して創建当時の事情や建築構造を明らかにして、日本建築史学の基礎を築いた。奈良県天理市の石上神宮の七支刀の銘文解釈等、金石文の研究でも知られる。同62年日本学士院恩腸賞を受賞し、平成2年日本学士院会員となった。同57年『寺院建築の研究』(上・中・下 福山敏男著作集1-3) 、『神社建築の研究』(福山敏男著作集4) 、『住宅建築の研究』(福山敏男著作集5) 、『中国建築と金石文の研究』(福山敏男著作集6)を中央公論美術出版から刊行。著作については『文建協通信』22所載の「福山敏男先生著作目録」に詳しい。

真鍋一男

没年月日:1995/03/28

読み:まなべかずお  横浜国立大学名誉教授、愛知産業大学教授の真鍋一男は3月28日午前4時15分、大腸がんのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年71。大正12(1923)年9月15日、愛知県温泉郡道後湯之町甲1416番地に生まれる。東京美術学校師範科に学ぶ。同24年4月神奈川県公立中学校教諭となり、同37年桑沢デザイン研究所教授となる。この間一時新制作協会展に絵画を出品。同39年日本デザイン学会理事。同40年社団法人日本美術教育連合理事、同45年造形教育センター委員長を歴任し、同46年横浜国立大学教育学部教授となって、平成元年に退官、同名誉教授となるまで長く美術教育に当たった。同4年4月より愛知産業大学造形学部産業デザイン学科教授をつとめた。この間、昭和60年日本教育大学協会全国美術部門委員長、同61年文部省教育課程審議会委員、同62年色彩教育研究会副理事長などを歴任。著書に『造形の基本と実習』 (美術出版社)、『ベーシックデザイン 平面構成』(美術出版社)、『マークフォトイラストレーション』(美術出版社)、『色彩教育指導書』(日本色研)、『造形教育体系 全22巻』(開隆堂)などがある。

谷口鉄雄

没年月日:1995/03/17

読み:たにぐちてつお  美学者、東洋美術史家で、九州大学名誉教授、元北九州市立美術館長、元石橋財団石橋美術館館長の谷口鉄雄は、3月17日午前10時30分、肺がんのため福岡市南区の九州中央病院で死去した。享年85。 谷口は、明治42年11月23日、福岡県八幡市折尾町陣原834番地(現在の北九州市八幡西区陣原)に生まれた。昭和5年3月、旧制福岡高等学校文科を卒業、昭和8年3月、九州帝国大学法文学部哲学科を卒業して、昭和8年5月、九州帝国大学法文学部の副手となった。この後、昭和10年5月に助手、昭和11年5月に副手、昭和13年4月に助手を経て、昭和14年4月、九州帝国大学法文学部講義嘱託となり、美学を講じている。この時期、九州帝国大学法文学部において哲学、美学を講じていたのは、矢崎美盛教授であった。学生、副手、助手の時代を通じて、谷口は矢崎教授の薫陶を強く受けており、昭和23年に矢崎が東京大学教授に転じて5年後、昭和28年4月7日に逝去した時には、「矢崎先生を憶う」と題した追悼の文を4月15日付の毎日新聞に発表した。また昭和60年4月7日、矢崎美盛の三十三回忌を迎えるに当たり、九州大学、東京大学、東北大学の矢崎門下生たちから師を回想する文章を募り、それらを『回想 矢崎美盛先生』という小冊子にまとめて、師の霊前に捧げた。師弟の強い紳を感じさせるとともに、谷口が、哲学、美学、美術史、特にドイツ、オーストリア系の美術史学への強い傾倒と学問に対する厳しい態度を師より受け継いだことが知られる。昭和15年5月、目制の広島高等学校教授に就任し、敗戦後の昭和21年5月、再び九州帝国大学法文学部講義嘱託となり、美学及び美術史を講じた。昭和22年7月講師嘱託、昭和23年4月、九州大学法文学部講師、昭和26年3月、九州大学文学部助教授、昭和30年7月、九州大学文学部教授となり、美学、美術史論、仏教美術、中国の画論・画史、書論・書史を講じて、学生の指導、育成に当たった。昭和37年11月には、九州大学に奉職して20年を経たため、永年勤続者表彰を受けている。昭和40年4月、九州大学評議員となり、昭和40年12月には九州大学文学部付属九州文化史研究施設の併任になった。昭和41年7月から43年6月まで九州大学文学部長に就任した。昭和43年11月に九州大学文学部長事務取扱及び九州大学評議員、昭和44年6月にも九州大学文学部長事務取扱及び九州大学評議員を務め、昭和44年7月から同年12月まで再び九州大学文学部長及び九州大学評議員となった。また昭和44年8月から同年11月までは九州大学学長事務取扱にも就任して、大学に紛争が絶え間なく続いた時期に、その重責を果たした。昭和46年4月、九州大学文学部付属九州文化史研究施設長に就任、昭和46年12月には日本学術会議の第9期会員に選ばれた。昭和48年4月1日付を以て九州大学を定年退職し、昭和48年5月に九州大学名誉教授となった。 九州大学退官後は、昭和48年4月から昭和59年3月まで九州産業大学芸術学部教授に就任し、昭和53年4月には九州産業大学芸術学部長になっている。また、昭和48年4月から昭和53年3月まで北九州市立美術館長を兼ね、昭和49年11月の開館展「漢唐壁画展」や昭和52年秋の開館三周年記念展「中華人民共和国出土文物展」等の企画や準備に自ら当たり、同美術館の礎を築いた。昭和53年4月から昭和57年3月まで、北九州市立美術館の顧問を務めた。その後、昭和57年9月から昭和63年3月まで石橋財団石橋美術館館長に就任した。これ以前にも、昭和31年4月から石橋美術館運営委員、昭和47年12月から石橋財団評議員、昭和52年4月から石橋財団美術館運営委員を務めており、前から同美術館との関わりは深かった。昭和59年6月に石橋財団理事となり、昭和63年4月には館長を辞して、石橋財団石橋美術館顧問となった。 美学会、美術史学会、九州芸術学会、佛教芸術学会などの会員であり、それぞれの学会の委員や常任委員を務め、学会の充実と運営に尽力した。また、九州大学在職中より、福岡県文化財調査委員、福岡県文化財保護審議会専門委員、福岡県文化財保護審議会委員、九州歴史資料館協議会委員、福岡県立美術館協議会委員などを歴任し、九州の文化財の調査、指定、保護、保存、美術館等の運営方針の策定などに指導的な役割を果たした。海外での調査、研究も少なくない。その成果が研究論文や随想にまとめられたものを取り上げると、次の通りである。昭和37年1月10日から4月10日まで、東南アジア諸国、すなわちインド、セイロン(現スリランカ)、パキスタン、アフガニスタン、ビルマ、マラヤ、カンボジア、ベトナム、タイ、台湾、シンガポール、香港へ出張し、伝統的な美術・工芸の視察調査をおこなった。昭和41年8月27日から10月5日までアメリカ合衆国に出張し、サンフランシスコ市のアジア・ファウンデーションにおける国際シンポジウムに出席するとともに、アメリカ各地の美術館が所蔵する東洋美術品を研究した。昭和45年6月17日から6月25日まで台湾へ出張し、故宮博物院の開館を記念して6月18日から24日まで開催された中国絵画の国際シンポジウムにおいてチェアマンを務めた。(Proceedings of the International Symposium on Chinese Painting,N ational Palace Museum,Republic of China,1972)九州大学退官後の昭和48年秋の中国訪問、昭和49年夏の中国訪問は、北九州市立美術館開館展「漢唐壁画展」の準備のためであった。昭和51年3月から4月にかけて、ロンドン、パリ、アムステルダム、ミュンヘンを視察し、この折に、その前年に傷つけられたレンプラントの「夜警」の修理作業を見学している。(「レンプラント『夜警』の修理をみて」『美術の森』7号、北九州市立美術館、昭和51年5月)また、昭和52年夏の中国訪問は、北九州美術館開館三周年記念展「中華人民共和国出土文物展」の議定書調印のためであったが、この時に国立北京図書館に秘蔵される四庫全書の中の歴代名画記の調査を果たした。(「四庫全書本のマイクロフィルム-北京図書館での感激」『ひろば北九州』、昭和54年5月)昭和61年12月初旬、広東省韶関市曹渓の南華寺、広州市の光孝寺の六祖慧能石刻像碑を調査するため、中国を訪れた。(「広東の六祖慧能石刻像について-曹渓の南華寺と広州の光孝寺」『仏教芸術』178号、昭和63年5月) 谷口は、中国の画論・画史、書論・書史の研究に大きな功績を残した。しかし、研究の領域はそれらにとどまらず、絵巻、宗達、雪舟、仏教美術、石仏、美学・美術史の基礎理論など、多岐にわたった。助手時代の昭和14年に書いたものであるという「伴大納言絵詞小考」(『清閑』15冊、昭和18年3月)「信貴山縁起絵巻に於ける同一構図の反復について」)(『清閑』19冊、昭和19年1月)は、発表こそ遅れたが、最も古いものである。美学・美術史の基礎理論の確立は、美術史学の実証的な研究と哲学的理論とを媒介するとともに、両者を兼ね備えた研究のために大きな土俵を用意することをめざしていた。奉職の地が九州であったため、九州の仏教美術を論じたものも少なくないが、それらは理論に基づく美術史の実践であった。画論、更に画論の背景にある書論へと研究を進め、それらに現われた中国の思想や概念を究めようとした。この時期、九州大学では、目加田誠教授を中心に六朝芸術論の総合研究がおこなわれており、荒木見悟教授、岡村繁教授など互いに啓発し合う同僚にも恵まれていた。谷口の研究はきわめて精密であることを特徴とし、その最も顕著な例が、『校本歴代名画記』 (中央公論美術出版、昭和56年4月)である。詳しい脚註を付した校本で、今日望み得る最も詳しい索引を備えており、今後長く、歴代名画記の標準的なテキストとして利用されるであろう。谷口の学聞に対する姿勢は厳しく、還暦の折に『羊欣古来能書人名(六朝の書論1)』を自費出版し(昭和46年4月)、九州大学の退官時には『東洋美術論考』(中央公論美術出版、昭和48年1月)を刊行して、それぞれの節目を自ら祝ったのも、彼の学問に対する姿勢であった。 谷口は多くの後進たちを孕み、産みだしている。また、九州における現代美術の動向に対して積極的に発言し、その真撃な批評態度によって、多くの美術家たちに慕われていた。谷口が九州の美術界や学界に残した功績は大きい。著書日本の石仏(朝日新聞社、昭和32年4月)臼杵石仏(臼杵石仏保存会、昭和38年初版)観世音寺(中央公論美術出版、昭和39年9月)臼杵石仏(中央公論美術出版、昭和41年9月)石仏紀行(朝日新聞社、昭和41年9月)羊欣古来能書人名(六朝の書論1)(自費出版、昭和46年4月)東洋美術論考(中央公論美術出版、昭和48年1月)中国古典文学大系54・文学芸術論集(共著)(平凡社、昭和49年6月)校本歴代名画記(中央公論美術出版、昭和56年4月)西日本画壇史-近代美術への道-(西日本文化協会、昭和56年4月)美術史論の断章(中央公論美術出版、昭和58年7月)回想  矢崎美盛先生(編著) (非売品、昭和60年4月)蘭亭序論争訳注(共編)(中央公論美術出版、平成5年2月)東洋美術研究(中央公論美術出版、平成6年11月)論文 『図像紗』の編纂過程について『哲学年報』1輯(昭和15年3月)我が国に於ける仏教図像集の編纂-特に『図像紗』について-日本諸学振興委員会第六編「芸術学」(昭和15年3月)伴大納言絵詞小考『清閑』15冊(昭和18年3月)リーグル「自然の作品と芸術の作品(翻訳)『皆実』29号(広島高等学校、昭和16年2月)(再録)『美術史学』79号(昭和18年7月)信貴山縁起絵巻に於ける同一構図の反復について『清閑』19冊(昭和19年1月)宗達雑考『美術史学』85・87号(昭和19年1・4月)玉虫厨子の所謂「多宝塔図」について『哲学年報』9輯(昭和25年7月)上代彫刻の光背に関する二・三の問題『哲学年報』10輯(昭和25年12月)筑紫観世音寺の梵鐘(共同執筆)『哲学年報』12輯(昭和28年2月)筑紫観世音寺の大黒天(共同執筆)『哲学年報』14輯(昭和28年2月)リーグル研究 1の1・1の2『哲学年報』14・15輯(昭和28年2月・29年3月)ヴァフィオの盃-リーグルの古代美術史論に対する疑問-『美学』14号(昭和28年9月)隋代彫刻銘文集録 上・下(共同執筆)『哲学年報』17・18輯(昭和30年3・11月)豊後高田市の熊野石仏(共同執筆)『仏教芸術』30号(昭和32年1月)臼杵石仏案内『仏教芸術』30号(昭和32年1月)九州石仏一覧表『仏教芸術』30号(昭和32年1月)延久二年銘の梵字石碑『大和文化研究』4巻3号(昭和32年1月)ヴェルフリンのペシミズム『美学』35号(昭和33年12月)歴代名画記索引『哲学年報』22輯(昭和35年3月)中国の自画像 -越岐の場合-「美学」46号(昭和36年9月)張彦遠の品等論にみえる「自然」について『哲学年報』23輯(昭和36年9月)「合作」の意味について『仏教芸術』50号(昭和37年12月)天開図画楼記について『仏教芸術』54号(昭和39年5月)顧愷之の佚文『美術史』56号(昭和40年3月)顧愷之と瓦官寺『九州大学文学部四十周年記念論文集』(昭和41年1月)書の品等論の成立について-虞龢の「論書表」を中心に-『美学』64号(昭和41年3月)On the historical position of the “Yamato.e” in the far eastern history of art. (Lecture at the Asia Foundation,S an Francisco,U .S.A.,1966.8.30)羊欣の伝記とその書論-「天然」の概念の発生について『仏教芸術』69号(昭和43年12月)羊欣『古来能書人名』附羊欣伝『哲学年報』28輯(昭和44年8月)デューラーの芸術論『美学』80号(昭和45年3月)一隻眼の大鑑禅師像『仏教芸術』76号(昭和45年7月)対馬・壱岐の美術調査について『仏教芸術』95号(昭和49年3月)対馬の仏教美術『対馬風土記』12号、対馬郷土研究会(昭和54年3月)禅宗六祖印像について-豊後・円福寺本を中心に『仏教芸術』155号(昭和59年7月)特健薬『デアルテ』2号(昭和61年3月)王義之の生卒年の一資料『デアルテ』3号(昭和62年3月)顧愷之の生卒年『デアルテ』4号(昭和63年3月)張延賞と元の雑劇『デアルテ』4号(昭和63年3月)広東の六祖慧能石刻像について-曹渓の南華寺と広州の光孝寺『仏教芸術』178号(昭和63年5月)西田直養『金石年表』について『デアルテ』5号(平成元年3月)王羲之「蘭亭序」の説話『デアルテ』6・7号(平成2年3月・3年3月)劉世儒筆「墨梅図」と「雪湖梅譜」『仏教芸術』201号(平成4年4月)随想、美術批評など 『芸術史の課題』-植田寿蔵著に寄せて- 九州帝国大学新聞、140号、昭和10年12月22日シュマルゾー逝く 九州帝国大学新聞、148号、昭和11年5月22日デューラーとロダン -造形芸術における運動の表現について- 九州帝国大学新聞、166号、昭和12年6月20日絵画の近代性について 九州帝国大学新聞、179号、昭和13年5月1日北斎と印象派 夕刊フクニチ、昭和23年4月15日ブルトゥス違い 「若人」1巻2号、不二出版社、昭和24年2月ピカソとハト 朝日新聞、昭和27年1月22日矢崎美盛先生を憶う 毎日新聞、昭和28年4月15日学問の流れ -美学- 朝日新聞、昭和31年6月18日ピカソ版画展をみて 朝日新聞、昭和32年7月22日現代美術と歴史 朝日新聞、昭和32年9月20日「ルオ-展」に想う 朝日新聞、昭和33年4月23日西日本画壇史(連載) 朝日新聞、昭和34年1月20日~35年8月31日王義之の自画像 「石橋美術館ニュース」3、昭和35年8月私の見たエジプト美術 朝日新聞、昭和38年6月5日今日からみたフォーブ 朝日新聞、昭和40年10月22日「黄金のマスク」の芸術 朝日新聞、昭和40年12月9日日本美の二つの祖型 朝日新聞、昭和41年5月28日ピカソ芸術の語るもの 毎日新聞、昭和45年1月12日デッサン -画家の詩心の軌跡- 朝日新聞、昭和46年7月7日レンブラント「夜警」の修理をみて 「美術の森」7号、北九州市立美術館、昭和51年5月世説新語と王義之・顧愷之 『新釈漢文大系』季報44、明治書院、昭和51年6月発生期の書論 -画論との対照から 『中図書論大系』月報1、二玄社、昭和52年7月ドガの色彩と線 読売新聞、昭和52年1月12日四庫全書本のマイクロフィルム -北京図書館での感激『ひろば北九州』昭和54年5月『校本歴代名画記』の索引 『書誌索引展望』6の2、昭和57年5月法隆寺薬師如来像の台座絵 日本最古の沙羅双樹の絵か 西日本新聞、昭和63年1

中根金作

没年月日:1995/03/01

読み:なかねきんさく  大阪芸術大学長、浪速短大学長を務めた造園学者の中根金作は3月1日午後6時5分、心室粗動のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年77。大正6(1917)年8月28日、静岡県磐田市下岡田170番地に生まれる。昭和10(1935)年静岡県立浜松工業学校図案科を卒業。同13年旧制東京高等造園学校(現・東京農業大学)造園学科に入学し、同17年11月戦時特令により同校を卒業する。同18年8月より京都府園芸技手として勤務するが同19年6月より21年2月まで戦地に赴く。同21年11月より技師として京都府に勤務。同27年10月京都府文化財保護課記念物係長となる。同37年同府教育委員会文化財保護課課長補佐となるが、同40年4月に依願退職し、京都大学工学部建築協会内日本建築庭園研究室主幹となる。翌41年9月中根庭園研究所を開設して日本庭園研究に従事するとともに、同44年4月より大阪芸術大学建築科教授として教鞭を取った。同46年4月より同大学環境計画学科長、同62年12月より同大学学長となり、翌63年5月からは浪速短期大学学長を兼務した。主要作品に京都の城南宮楽水苑庭園他神苑、足立美術館庭園、シンガポールのジュロン日本庭園、アメリカのジミー・カーター大統領センター内日本庭園、アメリカのボストン美術館日本庭園天心園などがあり、昭和49年に開催されたウィーン万博やドイツ連邦庭園博覧会などに日本庭園を出品した。日本造園学会評議員、日本造園修景協会理事、京都府文化財保護基金調査委員等をもっとめ、伝統的日本庭園の研究、保存に尽力した。

有光次郎

没年月日:1995/02/22

読み:ありみつじろう  元文部次官、前日本芸術院長の有光次郎は2月22日午後O時10分、脳こうそくのため東京都東久留米市の老人ホームで死去した。享年91。明治36(1903)年12月15日高知県高知市に生まれる。東京大学法学部を卒業して昭和27年に文部省に入り、戦後の混乱期に教科書局長、47年に文部事務次官に就任。6・3制を定めた教育基本法、学校教育法の起草をめぐりアメリカ側との折衝にあたるなど日本の教育・文化の振興に尽力した。同48年に退官したのち、社会教育協会理事長、映倫委員長、国語審議会会長、日本棋院理事長などを歴任したほか、東京家政大学長、武蔵野美術大学長などもつとめ、同54年から平成2年まで10年余にわたり日本芸術院院長として日本の芸術・文化の振興に尽くした。著書に『宗教行政』『戦後教育と私』『有光次郎日記」などがある。

廣田熙

没年月日:1995/02/06

読み:ひろたひろし  古美術販売業壷中居店主の廣田熙は2月6日午前7時40分心不全のため東京都目黒区碑文谷の自宅で死去した。享年85。明治43年6月11日富山県富山市に生まれる。富山県立富山商業学校を卒業し、昭和13(1938)年叔父広田不孤斎が合資会社壷中居を設立するとその代表社員となった。同24年株式会社壷中居を設立して代表取締役社長に就任。古陶磁を主な対象とし、同25年日本陶磁協会理事となるなど、陶磁器研究にも寄与するところがあった。同52年壷中居取締役店主となる。同24年東京美術倶楽部取締役、東京美術商組合理事となり、同組合顧問をもつとめた。

小川光晹

没年月日:1995/01/12

読み:おがわこうよう  同志社大学教授、環太平洋学会長の美術史家小川光晹は1月12日午前1時15分、脳こうそくのため京都市左京区の石野病院で死去した。享年69。大正15(1926)年1月3日奈良市登大路59番地に生まれる。父は美術写真家の草分けのひとりで飛鳥園を営んだ小川晴晹。奈良県立師範学校附属小学校、奈良県立郡山中学校を経て、昭和19(1944)年8月第二早稲田高等学院文科を卒業。早稲田大学文学部に入学するが、同21年3月に中退。同志社大学文学部に入学し、同25年に同大学を卒業する。在学中は思想史家、石田一良に師事した。同24年東山高等学校教諭となり、翌年奈良県立奈良高等学校へ移ったが、同26年同志社大学文学部助手となり、同29年専任講師、同34年助教授、同40年教授となった。同41年5月より11月まで外遊し、主に米国ボストン美術館で調査・研究にあたった。主要論文に「法隆寺夢殿救世観音像」(『文化史学』3号、昭和26年)、「白鳳彫刻の成立」(『文化学年報』第6 昭和32年)、「古墳と埴輪」(『文化学年報』第7 昭和33年)、「美術史と時代区分」(『文化史研究』9号 昭和34年)、「古代の肖像彫刻に現われた歴史意識』(『日本における歴史思想の展開』至文堂 昭和36年)、「天平様式の成立について」(『日本文化史論集』 昭和37年)、『奈良美術史入門』(飛鳥園 昭和34年)などがある。文化史的観点から仏像等を中心に日本美術史を論じ、晩年は環太平洋地域という新たな視野での調査・研究に従事したほか、博物館学的見地からの論考も多数ある。著作目録は『博物館学年報』27 号(1995年12月)に詳しい。

吉岡道隆

没年月日:1995/01/02

読み:よしおかみちたか  筑波大学名誉教授、東京家政学院大学教授のデザイン家吉岡道隆は1月2日午後10時20分肺がんのため東京都港区の病院で死去した。享年70。大正13(1924)年4月22日新潟県高田市大手町250番地に生まれる。昭和21(1946)年東京美術学校工芸科漆工科を卒業して同研究科に進学。同22年第3回日展に「柳文文具飾箱」で初入選、同23年第4回日展には「棚」、同24年第5回日展には「金属漆器盛器」、同25年第6回日展には「漆器装飾壁面」、同27年第7回日展には「PORTABLE RADIO」、同27年第8回日展には「装飾壁面ノ部分 昼と夜」を出品した。また、同22年4月より30年5月まで東京国立博物館学芸部工芸課漆工室に勤務。この間同26年4月より同30年5月まで文化財保護委員会無形文化課工芸技術部員をもつとめる。同29年5月渡米しクランプルック・アカデミー・オブ・アーツに入学して同30年に同校を卒業。同年米国シカゴのイリノイ工科大学大学院で工業デザインを学び、同33年6月同校より工業デザインの修士号を受ける。同34年千葉大学工業短期大学部助教授となり、同35年同大工学部助教授となる。同年11月より翌36年5月までイタリアに滞在してイタリア共和制百年記念国際博覧会日本館の展示にあたる。同37年同大工学部教授となり機器意匠学を担当する。同38年7月より11月まで中国に滞在して同地の工業デザインについて調査し、同40年『中華民国に於ける産業開発と工業意匠の教育の計画』を刊行する。同51年筑波大学芸術学研究科教授となり生産デザインについて講ずる。同63年同大を退職し、同名誉教授となり、また同年より東京家政学院大学人文学部工芸文化学科教授となった。同40年から51年まで日本インダストリアル・デザイナー協会理事、同49年以降日本デザイン学会理事をつとめ、同46年から58年までは優良デザインに与えられるGマーク商品審査をつとめた。

浜口隆一

没年月日:1995/01/02

読み:はまぐちりゅういち  建築評論家の浜口隆一は1月2日午後7時心不全のため静岡県掛川市亀の甲の自宅で死去した。享年78。大正5(1916)年3月26日に東京に生まれる。昭和13(1938)年東京帝国大学工学部を卒業して同校大学院へ進学する。近代建築史を中心に研究し、同19年『新建築』に「日本国民建築様式の問題」を発表。同23年東京大学建築学科助教授となり、のち日本大学教授となる。同26年アメリカにわたり、建築雑誌の編集にたずさわる。同27年日本の現代建築に関する著書『ヒューマニズムの建築』を刊行。建築評論家の先駆として注目され、以後建築ジャーナリズムの中心的存在として活躍した。同42年『現代建築の断面』を刊行。日本サイン学会会長、社団法人日本サインデザイン協会顧問をもつとめた。近年はネオンサインや看板などを含めた都市景観について発言していた。

匠秀夫

没年月日:1994/09/14

読み:たくみひでお  日本近代美術史研究者で、現代美術の評論においても幅広く活動した茨城県近代美術館館長の匠秀夫は、9月14日食道がんのため東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年69。日本近代洋画史の研究で著名であった匠は、大正13(1924)年11月28日北海道夕張郡夕張町字住初社宅19号-2 (現夕張市)に生まれ、幼少時から札幌で養育され、北海道庁立札幌第一中学校を経て、昭和19年京都帝国大学文学部選科へ進んだが、翌年陸軍二等兵として入営した。戦後の同23年京都大学を中退し北海道大学文学部史学科に入学、堀米庸三教授の下で西洋中世史を研究し、同32年同大学大学院を修了した。この頃から日本近代洋画史への関心を深め、精査な資料収集と調査を開始し、また、河北倫明著『青木繁-生涯と芸術』(同23年)に啓発されたり、土方定一を識り作家研究の方向性を示唆されたこともあり、本格的に日本近代美術史を専攻するに至った。同39年、最初の著書『日本近代洋画の展開』を昭森社から刊行、同書は美術と文学との関わりに注目する等、事実の羅列に止まらない独自の史観を盛った斬新な日本近代洋画史論として高く評価された。一方、北海道出身の作家研究も独自に展開、同43年に「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』、翌年『中原悌二郎』の二書をその成果として世に出した。この間、同39年から、札幌大谷短期大学で教鞭を執ったが、同43年神奈川県立近代美術館主任学芸員に迎えられ、以後、同館での数多くの企画展に関わり、日本現代美術、西洋近・現代美術へも研究の領域を広げるとともに、美術評論の活動も精力的に展開した。同51年、神奈川県立近代美術館副館長、同56年同館長に就任、同60年同館を定年退職した。また、中原悌二郎賞審査委員、安井賞選考委員、現代日本美術展審査委員、高村光太郎大賞審査委員、日本国際美術展選考委員など数々の委員に携わったほか、杉野女子大学、法政大学文学部、札幌学院大学、愛知県立芸術大学などの非常勤講師をつとめた。同60年、茨城県参与(新美術館担当)を委嘱され、同63年茨城県立近代美術館開設と同時に館長に就任し、同館の運営に尽力した。執筆活動は晩年に至るまで極めて旺盛で、その全容は、残後一周忌にあたり上梓された『匠秀夫 年譜・著作目録』 (陰里鉄郎編)に詳しい。同誌から、著書(含共著、編著等)のみを以下に掲げる。著書『近代白木洋画の展開』(昭森社、昭和39年12月)『中原悌三郎・その生涯と芸術 』(旭川市、昭和43年3月)「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(北海道立美術館、昭和43年11月)「中原悌二郎』(木耳社、昭和44年12月)『近代の美術 第26号 三岸好太郎」(至文堂、昭和50年1月)『小出楢重』(日動出版部、昭和50年2月)『近代日本洋画の展開』(昭森社、昭和52年2月)『近代日本の美術と文学-明治大正昭和決の挿絵-』(木耳社、昭和54年11月)『近代の美術 第58号 日本の水彩画』(至文堂、昭和55年4月)『岩波ジュニア新書 22 絵を描くこころ』(岩波書店、昭和55年10月)『大正の個性派』(有斐閣、昭和58年4月)『棟方志功 讃』(平凡社、昭和59年11月)『小出楢重』(日動出版部、昭和60年2月)『日本の近代美術と文学-挿画史とその周辺』(沖積社、昭和62年11月)『物語 昭和洋画壇史Ⅰパリ豚児の群れ』(形文社、昭和63年10月)『戦中病兵日記』(昭森社、平成元年8月)『物語 昭和洋画壇史II“生きている画家たち” -閉塞の時代』(形文社、平成元年11月)『日本の近代美術と西洋』(沖積社、平成3年9月)『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(求龍堂、平成4年8月)『日本の近代美術と幕末』(沖積社、平成6年9月)共著、編著、訳書、監修本『彫刻の生命』中原悌二郎著、匠秀夫編(中央公論美術出版、昭和44年2月)『小熊秀雄・詩と絵と画論』小田切秀雄、匠秀夫共編(三彩社、昭和49年1月)『世界の巨匠シリーズ ムンク』トーマス・メッサー著、匠秀夫翻訳(美術出版舎、昭和49年11月)『大切な雰囲気』小出楢重著、匠秀夫編(昭森社、昭和50年9月)『衣服の文化史-美術史との交響』井上泰男、匠秀夫共著(研究社、昭和53年5月)『有島生馬芸術論集-一つの予言』紅野敏郎、匠秀夫、有島睦子編(形象社、昭和54年9月)『中原悌二郎の想出』中原信著、匠秀夫監修・編集(日動出版部、昭和56年1月)『小出楢重全文集』匠秀夫編(五月書房、昭和56年9月)『日本水彩画名作全集 二 石井柏亭』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年6月)『日本水彩画名作全集 五 中西利雄』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年7月)『現代日本の水彩画』匠秀夫監修(第一法規出版、昭和59年)『ハムレット-神奈川県立近代美術館収蔵のドラクロワの版画-』ドラクロワ、F.V.E著、匠秀夫監修(形象社、昭和59年)『日本の水彩画』匠秀夫監修(第一法規出版、平成元年)『ゴッホ巡礼』向田直幹、匠秀夫著(新潮社、平成2年11月)『土方定一 美術批評 1946-1980』土方定一著、匠秀夫、陰里鉄郎、酒井忠康編(形文社、平成5年10月)『児島善三郎の手紙』匠秀夫編(形文社、平成5年10月)『原勝郎画集』匠秀夫編(原勝郎画集刊行委員会[原のぶ子方]、平成6年2月)『小出楢重の手紙』匠秀夫編(形文社、平成6年5月)

天田起雄

没年月日:1994/09/08

読み:あまだかずお  奈良国立文化財研究所建造物研究室長天田起雄は9月8日午後10時半心不全のため東京都杉並区高井戸東3-30-14上高井戸住宅106で死去した。享年48。昭和20(1945)年10月19日新潟県佐渡郡に生まれる。同39年東京都立杉並高校を卒業して東京都立大学工学部建築工学科に入学。同43年同科を卒業して同大学院工学研究科修士課程に進み、同45年に同科を修了して奈良国立文化財研究所平城宮発掘調査部研究補佐員となった。同年5月同研究所平城宮跡発掘調査部遺構調査室室員となり、同47年より同部藤原宮跡調査室、同48年より同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部第一調査室につとめた。同49年文化庁文化財保護部建造物課に勤務となり、同53年文化庁文化財保護部建造物課文化財調査官(伝統的建造物群部門)、平成元年4月より同課文化財調査官(修理指導部門)、同2年には同課主任文化財調査官(修理指導部門)となった。同4年同課修理企画部門の主任文化財調査官となり、同6年4月奈良国立文化財研究所にもどって、建造物研究室長となった。建築史学会、修復学会に所属し、日本建築史、建築を中心とする修復学、文化財建造物および歴史的景観の保存を専門とした。「文建協通信」1994年11・12月合併号に追悼文が掲載されている。

中村傳三郎

没年月日:1994/08/23

東京国立文化財研究所名誉研究員の美術史家、美術評論家の中村傳三郎は、8月23日大腸がんのため千葉県市川市の東京歯科大学市川総合病院で死去した。享年77。日本近代美術史、とくに日本近代彫塑史の実証的研究に先鞭をつけた中村は、大正5(1916)年10月30日兵庫県芦屋市西蔵町2番地11号に生まれ、昭和15年甲南高等学校高等科を卒業し東京帝国大学文学部美学美術史学科へ進み、同17年9月卒業した。同年4月陸軍二等兵として入営し、戦後の同21年5月ラパウルから名古屋に帰還、除隊する。翌22年5月から兵庫県武庫川学院中学校教諭となったが同年9月に退職、10月、国立博物館附属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)に奉職した。以後、同24年文部技官となり、同42年美術部主任研究官、同47年美術部第三研究室長に昇任、同53年4月定年退官した。美術研究所入所当初から日本近代美術、特に従来殆んど未開拓であった明治以降の彫塑史研究に着手し、すでに同26年には「明治末期におけるロダン」を研究所の機関誌「美術研究」第163号に発表した。同論文は、日本近代彫刻における西洋彫刻の受容と展開に着目したものであり、この分野における実証的研究に先鞭をつけた論考として注目された。続いて、ロダンの影響を最初に受け、真に彫刻界に近代をもたらしたとされる荻原守衛の生涯と芸術に関する詳細な研究を続行し、その成果を同33年以来「美術研究」誌上に6回にわたって発表した。一方、平櫛田中ら木彫家の作家研究、明治以来の彫塑団体の系統的調査研究を併行し、日本近代彫刻史の史的展開を総合的に把握するに至った。上記研究の主要な論文は、著書『明治の彫塑』(平成2年)にまとめられ、同書で平成3年、第45回毎日出版文化賞を受賞した。また、彫塑・立体造型を主とする現代美術の動向の調査研究にも従事し、その成果は在職中の『日本美術年鑑』の編集、執筆に生かされている。さらに、日本美術評論家連盟会員として、批評活動も展開し、数多くの美術批評を新聞や雑誌に発表し、作家の創作活動に大きく寄与した。主要著書・論文著書明治の彫塑(共著)(昭和31年11月、洋々社)彫塑界とロダン(共著)(昭和36年9月、角川書店)竹内栖鳳(共著) (昭和38年1月、講談社)彫刻界の動き(共著)(昭和39年7月、角川書店)工芸・彫刻(共著)(昭和50年3月、東京国立文化財研究所)岡田三郎助(共著)(昭和50年5月、集英社)北村西望-その人と芸術(共著)(昭和51年6月、講談社)工芸・彫刻(共著)(昭和52年1月、有斐閣)荻原守衛とその周辺(昭和52年3月、至文堂)近代日本彫刻の流れ(共著)(昭和52年6月、東京芸術大学)明治の彫塑(平成3年3月、文彩社)論文明治末期におけるロダン(昭和26年11月、美術研究163)明治時代の彫塑団体青年彫刻会について(昭和31年1月、美術研究184)四条派資料「村松家略系」と呉春・景文伝(昭和36年5月、美術研究216)松村景文筆雪中白梅豆鳥図(昭和38年12月、国華861)荻原守衛-生涯と芸術-(昭和39年7月、美術研究235(以下、264、266、274、279、290号に継続))平櫛田中-人と芸術-(昭和48年4月、形象12)(なお、「碌山美術館報」第16号に詳細な著作目録-中村傳三郎「近・現代日本の彫塑」主要著作目録-が編集収載されている。)

満岡忠成

没年月日:1994/08/22

読み:みつおかただなり  日本陶磁協会理事の陶磁器研究家満岡忠成は8月22日午後1時15分、肺がんのため京都市の病院で死去した。享年87。明治40(1907)年1月3日三重県に生まれる。昭和5(1930)年東京帝国大学美学美術史科を卒業し、大和文華館に勤務したのち同43年から京都市立芸術大学教授として教鞭を取る。同47年同大学を退き滴翠美術館館長となる。また、同49年より同61年まで大手前女子大学教授をつとめた。東洋陶磁史を中心に研究し、同45年ニューギニア・セピック美術を調査、同49年韓国の慶尚南道窯を訪れる。著書に『茶の古窯』(同47年)、『信楽・伊賀』(平成元年)等がある。昭和62年小山富士夫記念賞功績褒賞を受賞した。

池上忠治

没年月日:1994/06/28

読み:いけがみちゅうじ  神戸大学教授で美術史家の池上忠治は6月28日午後10時45分、胃ガンのため神戸市中央区の神戸大学病院で死去した。享年57。昭和11(1936)年7月30日新潟県に生まれる。同35年東京大学文学部美術史学科を卒業し、同37年東京大学大学院美学美術史修士課程を修了。同年より東京大学文学部助手をつとめる。同38年フランス政府給費留学生としてフランスに渡り、パリ大学美術考古学研究所、エコール・ドゥ・ルーヴルに学ぶ。同41年帰国。同43年神戸大学文学部講師、同46年同助教授、同56年同教授となった。西洋美術史、特にフランスの18、19世紀美術史を専攻し、当時の日仏美術交流の一面を示すジャポニスムについて早くから調査・研究を進めた。おもな著書に『フランス美術断章』(美術公論社)、「随想フランス美術」(大阪書籍)、『世界美術大全集』第22巻「印象派の時代」第23巻「後期印象派の時代」(小学館)、訳書にリウォルド編『セザンヌの手紙」(筑摩書房、美術公論社)、ルネ・ユイグ著『イメージの力』(美術出版社)、矢代幸雄著『サンドロ・ボッティチェルリ』 (共訳、岩波書店)などがある。神戸大学文学部教授として教鞭を取り、また美術史学会西支部委員として学界に貢献したほか、ジャポネズリー研究学会常任理事をつとめた。神戸大学文学部発行の「芸術学芸術史論集」第7号に追悼文、年譜、文献目録が載せられている。

岩崎吉一

没年月日:1994/06/13

東京国立近代美術館次長で、美術評論家の岩崎吉ーは、6月13日午後7時25分、肺がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年59。岩崎は、昭和10年5月13日、福岡県北九州市八幡西区香月町に生まれ、都立日比谷高校卒業後、学習院大学文学部にすすみ、富永惣ーの指導をうける。同38年学習院大学大学院修士課程を修了、同36年から東京国立近代美術館に勤務。その問、同44年から翌年にかけて、大阪万国博覧会開催にともなう、万国博美術館に勤務、展覧会企画および運営を担当。同54年に、同美術館美術課長、同57年からは、企画資料課長を歴任し、平成4年からは次長となった。在職中、「徳岡神泉遺作展」(昭和49年)、「フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術展」(同52年)、「東山魁夷展」(同56年)、「村上華岳展」(同59年)、「モディリアーニ展」(同60年)、「写実の系譜II 大正期の細密描写」展(同61)、「杉山寧」展(同62年)、「高山辰雄展」(平成元年)、「手塚治虫展」(同2年)等、数多くの企画展を担当した。さらに、こうした美術館活動のかたわら、「名古屋市美術館開館記念館 20世紀絵画の展開」(昭和63年)をはじめ、各地の美術館、新聞社等の企画展にも積極的に協力した。また、画集『村上華岳』(日本経済新聞社、昭和59年)、『平山郁夫画集』 (朝日新聞社、平成元年)、『小茂回青樹画集』(日本経済新聞社、同2年)、『定本徳岡神泉画集』(朝日新聞社、同5 年)等の画集の監修執筆など、代表的な近、現代の日本画家の作家論を中心に執筆活動も旺盛におこなった。その評論は、美術館で今泉篤男、河北倫明の薫陶をうけ、作家の全体像をつねに念頭におぎながら、その芸術の本質を把握しようとつとめる姿勢がつらぬかれていた。なお、歿後、亡くなるまでの十年間の日本画に関する代表的な論考をまとめた、論集『近代日本画の光芒』(京都新聞社、平成7 年)が公刊され、同書巻末に「岩崎吉一主要著作」として初期から晩年にいたるまでの著作目録が付されているので、参照されたい。

安宅英一

没年月日:1994/05/07

読み:あたかえいいち  元安宅産業会長で、世界有数の東洋陶磁コレクション「安宅コレクション」を収集した安宅英ーは、5月7日午後1時、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年93。明治34(1901)年1月1日、安宅産業の前身である安宅商会の創立者弥吉の長男として香港に生まれる。大正13(1924)年、神戸高等商業学校を卒業して翌年安宅商会に入社し、向年より昭和9(1934)年まで同商会取締役をつとめる。戦後、同20年より22年まで安宅産業株式会社取締役会長をつとめた後、同30年より40年まで再び同役にあり、同40年相談役社賓に退く。この問、同26年に安宅産業株式会社が美術品収集を開始した際、その収集責任者となり、以後、同社が経営危機に陥り美術品収集を停止する同50年までの聞に東洋陶磁を中心とする総数約1000点、うち国宝、重要文化財十数点を含む「安宅コレクション」を築ぎ上げた。同コレクションの東洋陶磁は同52年、安宅産業株式会社が伊藤忠商事株式会社に合併されるのに伴い、エーシー産業株式会社に移管されたが、同57年に住友グループ21社によって大阪市に寄贈され、これを受けて大阪市立東洋陶磁美術館が設立された。美術の他、音楽活動の支援も行い、同12年以降、東京芸術大学音楽学部に奨学金「安宅賞」を拠出して現在に至っている。

島田修二郎

没年月日:1994/04/11

東洋美術史家で、米国プリンストン大学名誉教授の島田修二郎は、4月11 日午後6時45分、呼吸不全のため、京都市西京区の関西医大洛西ニュータウン病院で死去した。享年87。明治40年3月29日、兵庫県神戸市に生まれた。父は治平衛、母は静尾。昭和2年3月、第三高等学校文科甲類を卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学、美学美術史を専攻し、同6年3月に卒業後、12年3月まで、京都帝国大学大学院で東洋絵画史を専攻した。同13年3月から17年3月まで京都帝国大学文学部副手をつとめ、また16年5月から23年4月まで京都府社寺課の嘱託として寺院什宝の臨時調査に当たった。同23年7月から国立博物館研究員として美術研究所に勤務し、26年12月から思賜京都博物館監査員、27年4月、同博物館の国への移管にともなって文部技官となり、5月には学芸課美術室長となった。39年3月、職を辞し、7月からプリンストン大学客員教授として日本美術史を担当、40年7月には同大学教授となり、50年6月に定年退職、同大学名誉教授の称号を受けた。同7月、メトロポリタン美術館顧問となり、また51年9月から52年1月までハーヴァード大学客員教授として中国美術史を教えた。52年8月、メトロポリタン美術館顧問を辞し、9月に日本に帰国。55年から57年まで京都国立博物館評議員会評議員、平成4年まで名誉評議員をつとめた。この問、57年から61年まで文化財保護審議会第一専門調査会絵画彫刻部会専門委員。また、昭和50年から61年まで、メトロポリタン東洋美術研究センター会長、57年から平成3年まで国際交流美術史研究会会長、次いで名誉会長をつとめた。島田は、中国・日本の絵画史研究に大きな足跡をのこしたが、その基礎にあったのは作品と文献への肉迫であった。画を見尽くすとも言える観察眼は、密かに書かれた画家の隠し落款を発見し、画面に刻まれた制作者の営為の痕跡を見いだす(「高桐院所蔵の山水画について」「鳥毛立女屏風)。平成元年に第一回の国華特別賞(平成元年度)を受賞した『松斎梅譜』の研究は、第二次大戦中から実に四十五年の歳月をかけて丹念になされたものであった。ただ精緻な作品や文献の分析にはとどまらず、四十八巻に及ぶ「法然上人行状絵図」の極めて複雑な成立過程の解明に見られるように、断片的と見える諸要素は一つの流れに纏め上げられて行く。島田は、史料のすべてを記憶し、論のすべてを頭の中で構成してから執筆して訂正するところがなかったという。観たものと読んだものとを綴り合わせてゆく歴史的想像力、そこに島田の真骨頂がある。「逸品画配」や「罔両画」の研究には、それがいかんなく発揮されて、平板な実証主義を越えた絵画史の具体相が描き出されている。島田が提示したのは、漢たる絵画史の大枠ではなく、その根幹をなす事象群であった。詩画軸の研究に見られるように、それが中国・日本を含む広い視野をもってなされたことも特筆される。このような研究態度が、絵画史研究者に与えた影響は大きい。京都国立博物館在職中に担当した「雪舟展」(昭和32年)では、雪舟関係の作品と資料をほぼ網羅的に展示して後の研究の基礎を作った。プリンストン大学では、欧米の学生に対して『古今著聞集』『法華経』なと、の原典講読を含む本格的な指導を行い、十一年間に二十人近くの東洋美術史専門の研究者を輩出した。その指導に対する評価の高さは、退職後間もなくの1976年、島田を称えてプリンストン大学美術館で水墨画展が催されたことからも窺える。その折に、教え子たちの執筆した「JapaneseInk Paintings」は、現在でも英文で書かれた室町水墨画に関する基本文献である。このような、東洋美術史研究における世界的な貢献により、1990年度には第61回朝日賞を受賞した。著作のほとんどは、『島田修二郎著作集』上・下(中央公論美術出版社、1987・1993年)に収められている。なお同下巻の著作目録を参照されたい。主な編著「岡両画」(『美術研究』84 ・86、1938・39年)「花光仲仁の序」(『宝雲』25 ・30、1939・43年)「宋迫と漏湘八景」(『南画鑑賞』10- 4、1941年)「詩画軸の書斎図について」(「日本諸学研究報告(芸術学)」21、1943年)「逸品画風について」(『美術研究』161、1951年)「高桐院所蔵の山水画について」(『美術研究』67、1952年)「知恩院本法然上人行状絵図」(『日本絵巻物全集』13、角川書店、1961年)『在外秘宝』障屏画琳派文人画、仏教絵画大和絵水墨画(学習研究社、1969年)Traditions of Japanese Art(Fogg Art Museum,Harvard University、1970年)「鳴毛立女屏風」(『正倉院の絵画』日本経済新聞社、1977年)『在外日本の至宝』3水墨画、1979年「鳥毛立女屏風の鳥毛貼成について」(『正倉院年報』4、1982年)『禅林画賛』(毎日新聞社、1987年)『松斎梅譜』(広島市中央図書館、1988年)

to page top