本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





内田昭人

没年月日:2005/08/16

読み:うちだあきと  東京文化財研究所修復技術部応用技術研究室長の内田昭人は8月16日午後11時6分、肺炎のため東京都西東京市の病院で死去した。享年55。1949(昭和24)年11月1日、埼玉県に生まれる。75年早稲田大学大学院理工学研究科(建設工学専攻)修士課程修了。81年東京大学大学院工学系研究科(建築学専攻)博士課程修了。工学博士、一級建築士。80年2月1日、奈良国立文化財研究所に採用。埋蔵文化センター研究指導部保存工学研究室研究官、平城京宮跡発掘調査部計測修景調査室研究官を歴任した後、埋蔵文化財センター研究指導部主任研究官に昇任、2000(平成12)年には保存工学研究室長に就任した。その間、史跡藤ノ木古墳の整備、史跡手宮洞窟や史跡フゴッペ洞窟の保存に従事するなど、構造力学の専門家として史跡の保存整備に貢献した。また、特別史跡平城宮跡朱雀門の復原など古代建物の復原にも力を注いだ。さらに、伝統的木造建築物の耐震性能に関する研究では、多くの五重塔にて常時微動測定を実施し、五重塔の構造と固有振動数の相関について解析を行った。特に五重塔の耐震性能では多くの研究成果を発表しており、99年にNHK教育テレビの「視点・論点」に出演、「五重塔の耐震性」について解説を行っている。02年4月、東京文化財研究所修復技術部応用技術研究室長に異動になった後は、五重塔の耐震性能に関する研究を継続するとともに、「文化財の防災計画に関する調査研究」の主担として文化財建造物の防災情報システムの構築などを行った。奈良国立文化財研究所および東京文化財研究所在任中は、精力的に論文執筆・講演等を行うとともに、古建築の鑑賞方法に関する随筆を執筆するなど、文化財の活用にも大きく貢献した。主な著書としては、「フレッシュを化学する」(「11建築物の保存」、大日本図書、1991年)、「発掘を科学する」(「建築や石室の健康診断」、岩波新書、1994年)、平尾良光・松本修自編「文化財を探る科学の眼-第六巻 古代住居・寺社・城郭を探る」(「五重塔の構造と揺れ」、国土社、1999年)、「奈良の寺-世界遺産を歩く」(岩波新書、2003年)などが挙げられる。 

田中穣

没年月日:2005/04/25

読み:たなかじょう  美術評論家の田中穣は、4月25日午前4時57分、胃がんのため東京都文京区の病院で死去した。享年80。1925(大正14)年3月25日、神奈川県平塚市に生まれる。1949(昭和24)年3月、早稲田大学文学部英文科を卒業、同年読売新聞社に入社、社会部、文化部を経て、主に美術関係の記事を多く執筆するようになる。同社在職中に『藤田嗣治』(新潮社、1969年)を刊行、同年の直木賞候補となった。また、78年12月には、同紙掲載の「日本の四季」の企画執筆に対して同社長賞を受けた。81年に同社を退社、文筆活動に入ることとなった。広範な調査にもとづく画家の評伝等の執筆が多く、業績には単行書に『三岸好太郎』(日動出版、1969年)、『日本洋画の人脈』(新潮社、1972年)、『近代日本画の人脈』(新潮社、1975年)、『心淋しき巨人 東郷青児』(新潮社、1983年)、『一水会五十年史』(1989年)、『評伝 奥村土牛』(芸術新聞社、1989年)、『評伝 山本丘人』(芸術新聞社、1991年)等数多くあり、ほかに旅行記、随筆等も多く執筆した。 

中村敬治

没年月日:2005/03/24

読み:なかむらけいじ  美術批評家の中村敬治は、東京都北区の病院で、3月24日胃癌のため死去した。遺志により、同26日、家族のみで密葬。享年68。1936(昭和11)年5月10日、山口市に生まれる。55年同志社大学文学部文化学科美学芸術学専攻に入学。59年同大学を卒業後、同大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程に入学、62年同課程修了。同大学文学部助手を経て、66年より86年まで専任講師を務めた。その間、72年アメリカ国務省の招聘によりアメリカの現代美術を視察、76年~78年フランス政府給費研修員としてパリに留学、82年ドイツ学術交流会(DAAD)によりドイツで滞在研修。同志社大学の助手、専任講師時代から、恒常的に同時代の美術動向に触れながら、新聞や雑誌に現代美術や実験映画の批評を執筆するかたわら、京都市内の画廊で現代美術の企画展を開くなどの活動を開始、フランスから帰国後の78年以降は、読売新聞夕刊に継続的に展評を執筆した(86年まで)ほか、『美術手帖』を中心に現代美術の批評やアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ等の作家論を執筆、精力的に評論活動を展開した。86年4月に、大阪の万博公園にあった国立国際美術館(2004年に、大阪・中之島に移転)に主任研究官(一時期、学芸課長)として転出してからは、「近作展2-野村仁」(87年7月)、「近作展7-今村源/松井知惠」(89年11月)、「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(90年10月)、「パナマレンコ展」(92年8月)、「彫刻の遠心力-この十年の展開」(92年10月)等を担当したほか、パリ留学時代から親交の深かった工藤哲巳の仕事を振り返る「工藤哲巳回顧展-異議と創造」(94年10月)を開いた後、95年3月に同館を退職。同年4月に、新設準備段階にあったNTTインターコミュニケーション・センターに転出、97年4月に開館後は、同センター副館長・学芸部長として、「ビル・ヴィオラ ヴィデオ・ワークス」展(97年11月)、「荒川修作/マドリン・ギンズ展」(98年1月)、「『バベルの図書館』-文字/書物/メディア」展(98年9月)、「『針の女』-キム・スージャのヴィデオ・インスタレーション」展(2000年5月)等を企画した。01年3月に同センターを退職後は、特定の組織に属さず、より自由な立場で批評活動を続けた。01年の8月から03年3月まで『新美術新聞』に連載した「新美術時評」では、意表をつく見出しと奥の深い諧謔に溢れた批評で読者を楽しませた。大学教員から美術館を去るまでの関西での30年、そして「芸術の方が技術に盲従している場合がやたら多い」(「メディア・アートのあやうさ」『読売新聞』2001年4月11日夕刊)ことを百も承知で勤めたメディア・アートの現場(ICC)を拠点とした東京での10年。その間、国内外の美術の現場を飽くことなく(というより飽き果てるまで)渉猟し、独自の嗅覚で特異な資質の美術家たちを発掘すると同時に、洞察に富んだ鋭い批評を残した。実験映画やヴィデオ・アートについては、その草創期から詳しく、関連の上映会に足しげく通って丁寧な分析を行った。最晩年は、関東圏の若手の画家たちと自由闊達な勉強会をしばしば開いて互いを刺激しあい、亡くなる直前には「横浜のデュシャン-展示について」(『新美術新聞』2005年3月1日)と題した展評を病床で執筆、最後までその厳しい筆鋒は衰えなかった。著書として、『現代美術/パラダイム・ロスト』(書肆風の薔薇、のち水声社に改名、1988年8月)、『現代美術/パラダイム・ロストⅡ』(水声社、1997年8月)、『現代美術巷談』(水声社、2004年7月)がある。これら三冊に、70年代半ば以降の著述のほとんどが網羅されている。

吉岡健二郎

没年月日:2005/02/02

読み:よしおかけんじろう  美学者で静岡県立美術館館長、京都大学名誉教授の吉岡健二郎は、2月2日、心不全のため枚方市の自宅で死去した。享年78。1926(大正15)年5月3日東京(現在の品川区大崎)に生まれる。1944(昭和19)年、松本高等学校(旧制、理科甲類)入学、46年同校中途退学、47年京都大学文学部選科(旧制、哲学科)に入学、井島勉のもとで美学美術史を学び50年卒業、51年同本科(哲学科美学美術史専攻)を卒業、卒業論文はカント『判断力批判』の天才論に関するものであった。同年、同大学大学院(旧制)に進学し、55年4月まで在籍、同年5月から60年4月まで同大学文学部助手を勤めた。61年同志社大学文学部専任講師、62年同助教授、67年同教授となり、68年4月京都大学文学部助教授に就任、73年3月同教授(美学美術史学第一講座担任)に昇任、その間、72年5月に京都大学より文学博士学位を授与された。同大学では79年1月から80年1月まで評議員、80年1月から81年1月まで文学部長を勤め、1990(平成2)年3月に定年退官、同年4月、京都大学名誉教授の称号をおくられた。同年京都芸術短期大学教授、91年京都造形芸術大学教授(95年3月まで芸術学部長、92年6月から95年3月まで学長代行)、96年から98年まで同大学大学院芸術研究科長を勤め、また、94年1月からは静岡県立美術館館長の任にあった。2004年11月には、永年にわたって教育・研究・大学行政およびわが国の美術の発展に尽くした功績に対し瑞宝中綬章を授与された。吉岡の研究業績は、芸術学の確立者とされるK.フィードラーや、A.リーグル、D.フライらウィーン学派の美術史家の芸術思想などを足掛かりとしつつ、近代芸術学の成立事情・過程の検証と現代におけるその意義をめぐって、じつに幅広い分野にわたっており、比較的初期の成果は学位論文である著書『近代芸術学の成立と課題』(創文社、1975年)にまとめられている。「近代芸術学は人間とは何であるかという問に芸術の研究を通じて迫って行こうとする形で成立し、且つかかる問に答えることをその課題としている」(同書)といわれるように、その学風は一貫して、理論のための理論に陥ることなく、あくまでも具体的な美の現象、芸術の感動に即して芸術への学問的思索を深め、もって人間性の本質に迫ろうとするものであった。美や芸術をめぐる理論的反省と芸術作品の歴史的研究の一体性を重んじるこの姿勢は、吉岡が30年余にわたって指導に当たった京都大学文学部美学美術史学科の基調ともなった。共編著に『美学を学ぶ人のために』(世界思想社、1981年)、『La Scuola di Kyoto, Kyoto-ha(京都学派)』(Rubbettino Editore、1996年)、共著に『現代芸術 七つの提言』(やしま書房、1962年)、『芸術的世界の論理』(創文社、1972年)、『比較芸術学研究』第4巻(美術出版社、1980年)、『講座美学』第3巻(東京大学出版会、1984年)、訳著にダゴベルト・フライ『比較芸術学』(創文社、1961年)、ドニ・ユイスマン『美学』(共訳、白水社、1992年)、グザヴィエ・バラル・イ・アルテ『美術史入門』(共訳、白水社、1999年)、ヘルマン・ゼルゲル『建築美学』(中央公論美術出版、2003年)などがあり、その主要な論文は『美学』、『哲学研究』等に発表された。また吉岡の略年譜と著作目録は、『研究紀要』第11号(吉岡健二郎教授退官記念号、京都大学文学部美学美術史学研究室、1990年)、および『吉岡健二郎先生 略年譜・業績一覧(講演録)』(京都大学文学部美学美術史学研究室、2005年)に収録されている。 

山辺知行

没年月日:2004/10/01

読み:やまのべともゆき  染織史研究者の山辺知行は、10月1日、肺炎のため死去した。享年97。1906(明治39)年10月27日東京市麹町区(現東京都千代田区)に旧華族の家に生まれる。1931(昭和6)年3月に京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業、35年8月に東京帝室博物館研究員に就任。徴兵から復員後、47年より東京国立博物館初代染織室長に就任し、従来、風俗史研究の中に取り込まれてきた服飾・染織を、初めて美術工芸あるいは服飾文化という観点から美術史の中に位置づけた。処女論文「辻が花染に対する一考察」(『美術史』第12号、1957年3月)では明治期以降、古美術市場で人気急騰した日本中世染模様である「辻が花染」を初めて学術的な立場から定義し、以後の文化財指定の基準ともなった。68年3月に同博物館を退任後は、共立女子大学教授に就任、73年3月に同大学教授を退任、同年4月に多摩美術大学教授に就任。77年3月に同大学教授を退任、同大学客員教授に就任する。78年4月に財団法人遠山記念館館長に就任、88年3月に多摩美術大学客員教授を退任し、同大学附属美術館館長に就任。1991(平成3)年には遠山記念館館長を退任し、同館の顧問に就任した。その他、美枝きもの資料館名誉館長、都留市博物館館長を歴任した。東京国立博物館に就任中から、伝統工芸に携わる職人と連携し、人形を含む同館所蔵の染織の修理や復元にも指導力を発揮した。また、東京国立博物館を退任後は、染織美術の蒐集に力を注ぎ、日本染織のみならず、近世日本の人形、アジア・ヨーロッパ・南アメリカ各国の染織にまでおよんだ膨大なコレクションは遠山記念館に寄贈された。その全容は『山辺知行コレクション』第1巻 インドの染織、第2~3巻 世界の染織、第4~5巻 日本の染織、第6巻 日本の人形、第7巻 別冊 補遺編(源流社、1984~1985年)に詳しい。国際的にも活躍し、ドイツやフランスで開催された国際学会での藍染めに関する口頭発表、インドで開催されたシンポジウムの講演記録などは『ひわのさえずり 山辺知行染織と私のエッセー』(源流社、2004年)に収録されている。その他、主著を以下にあげる。『染織』(大日本雄弁会講談社、1956年)、『日本の人形』(西沢笛畝と共著、河出書房、1954年)、‘Textiles’, Arts & Crafts of Japan, no.2, C.E.Tuttle, 1957. 『日本染織文様集』Ⅰ~Ⅲ・英文版(日本繊維意匠センター、1959~1960年)、『小袖』(北村哲郎・田畑喜八と共同編集、三一書房、1963年)、『能装束(徳川美術館所蔵品)』1・2巻(東京中日新聞社、1963年)、『能衣裳文様』上・下(中島泰之助と共同編集、芸艸堂、1963年)、『辻ヶ花』(京都書院、1964年)、『小袖 続』(北村哲郎と共著、三一書房、1966年)、『日本の美術7 染』(至文堂、1966年)、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(鈴木 尚・矢島恭介と共著、東京大学出版会、1967年)、『小袖文様』上下巻(北村哲郎と共著、三一書房、1968年)、『紬』(光風社書店、1968年)、『能装束文様集』(檜書店、1969年)、『上杉家伝来衣裳』日本伝統衣裳 第1巻(神谷栄子と共著、講談社、1969年)、『染織・漆工・金工』小学館原色日本の美術20(岡田譲・蔵田蔵と共著、小学館、1969年)、『日本服飾史』(駸々堂出版、1969年)、『縞』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1970年)、『能装束文様集 続』(檜書店、1972年)、『日本染織実物帖』(衣生活研究会、1972年)、『傳統工芸染織篇』全18冊(衣生活研究会、1973~1975年)、『絣』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1974年)、『細川家伝来能装束』永青文庫美術叢書(監修、主婦の友社、1974年)、『ペルシャ錦』(染織と生活社、1975年)、『日本の染織』(毎日新聞社、1975年)、『人形―坂口真佐子コレクション―』(監修、講談社、1976年)、『日本の美術;127 紅型』(至文堂、1976年)、『人形集成』全11冊(西沢笛畝と共著、芸艸堂、1977年)、『キャリコ染織博物館 更紗』(染織と生活社、1978年)、『染織』(角山幸洋と共著、世界文化社、1978年)、『シルクロードの染織 スタイン・コレクション ニューデリー国立博物館所蔵』(紫紅社、1979年)、『瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品』(共著、瑞鳳殿再建期成会、1979年)、『日本の染織』第2巻 武家/舶載裂(小笠原小枝と共同責任編集、中央公論社、1980年)、『琉球王朝秘蔵紅型』(日本経済新聞社、1980年)、『日本の染織』第3巻 武家の染織(責任編集、中央公論社、1982年)、『日本の染織』第9巻 庶民の染織・第10巻 近代の染織(責任編集、中央公論社、1983年)、『染織』世界の美術:カルチュア版;19(共著、世界文化社、1983年)、『染織・服飾』文化財講座日本の美術;11工芸(文化庁監修、岡田譲と共著、第一法規出版、1983年)、『一竹辻が花 OPULENCE オピュレンス』(編集解説、講談社、1984年)、『印度ロイヤル錦 キャリコ染織博物館コレクション;2』(染織と生活社、1988年)、‘Ein blaues Wunder: Blaudruck in Europe und Japan’, Berlin: Akademie Verlag, 1993. ‘Kyoto modern textiles, 1868-1940’, Joint author; Kenzo Fujii, Kyoto Textile Wholesalers Association, 1996.英語に堪能で広範な関心を終生離さず、染織に携わる職人と親交を深めて制作側の立場からも染織工芸を語る独特の視点が、近世武家女性の夏の衣料である茶屋辻を藍の浸染で復元するという壮大な実験や、世界各国の染織蒐集という大きな成果を残す原動力となった。

矢口國夫

没年月日:2004/08/20

読み:やぐちくにお  元東京都現代美術館学芸部長で、美術評論家の矢口國夫は、8月20日脳出血のため東京都小平市の病院で死去した。享年57。1947(昭和22)年7月11日に栃木県宇都宮市に生まれる。66年に栃木県立宇都宮高校を卒業し、同志社大学文学部に入学。71年に同大学を卒業し、同年西武百貨店に入社。翌年4月、栃木県教育委員会に転出し、同年11月開館の栃木県立美術館開設準備にあたった。同美術館開館後、「清水登之」展(1973年2月)、「青木繁福田たねのロマン」展(1974年8月)、「阿以田治修」展(1976年2月)、「川島理一郎」展(1976年9月)、「小杉放菴」展(1978年2月)等、近代日本美術を中心にした企画展を担当した。79年1月に国際国流基金に転任、同基金において日本の近現代美術を海外に紹介する展覧会等を企画担当し、またヴェネツィア・ビエンナーレも担当し、日本の現代美術紹介にも積極的に参画した。1992(平成4)年4月には、東京都現代美術館開設準備に学芸部長として転任、95年3月の同美術館開館後からは、「アンディ・ウォーホル展」、「ポンピドー・コレクション展」等の企画展を担当した。98年、同美術館在勤中、病に倒れ自宅療養中であった。美術史研究ばかりではなく、国内外の美術の動向にも視野を広げ、活動した美術館人であった。没後、『矢口國夫美術論集―美術の内と外』(「矢口國夫美術論集」刊行委員会編、美術出版社、2006年3月)が刊行され、同書によって生前の研究及び評論等がまとめられた。

山川武

没年月日:2004/06/01

読み:やまかわたけし  東京芸術大学名誉教授で、美術史研究者の山川武は、6月1日、肺がんのため死去した。享年77。葬儀は近親者のみで行われ、同年7月3日に「山川武先生を偲ぶ会」(東京上野、精養軒)が行われた。1926(大正15)年11月22日、兵庫県神戸市に生まれる。1949(昭和24)年7月、東京芸術大学美術学部芸術学科に入学、53年3月に卒業、4月に同学部専攻科に入学するが翌年病気のために退学。59年1月に東京芸術大学美術学部助手となり、翌年9月から同大学同学部附属奈良研究室に事務主任事務取扱として赴任し、63年6月、同研究室講師となる。67年4月、同研究室勤務を解かれ、同大学美術学部芸術学科講師となる。69年4月、同大学美術学部助教授となる。78年4月、同大学同学部教授となる。1993(平成5)年9月、東京芸術大学芸術資料館において「退官記念山川武教授が選ぶ近世絵画」展を開催。翌年3月、同大学を退官。同年4月、女子美術大学教授に就任、同月、東京芸術大学名誉教授となる。97年7月、東京銀座にて「山川武写真展―行旅余情―」展開催。翌年、女子美術大学を退職。2002年10月、『山川武写真集』(私家版)を刊行する。本項末にあげる著述目録で了解されるように、山川の研究者としての対象は、近世日本絵画が有する独特の美しさと豊かさの探求であった。研究歴の初めにあげられる業績は、『国華』誌上で特集された長沢蘆雪に関する研究である。これは、従来の近世絵画史から見逃されていた画家と作品を位置づけるものとして、斯界から注目された研究であり、いわゆる「奇想」と目されることとなった画家群をも網羅するその後の絵画史研究に刺激を与え、特筆すべきものであった。その後、円山応挙、呉春等を中心とする近世写生画の研究、さらに光悦、宗達、光琳、抱一等の琳派研究へと展開していった。また、田能村竹田、与謝蕪村、浦上玉堂等の南画研究、宋紫石の長崎派、さらに西郷孤月、長井雲坪、狩野芳崖、高橋由一にいたる幕末明治期の画家研究に領域をひろげていった。ここで一貫していた研究姿勢は、作品に直に接することからの知見をもとに深められるものであり、同時にその折の豊かな感性に裏づけられた経験をもとに論考されていた点である。美術史研究の基本である誠実に「見る」ことを通していた点は、趣味でもあった写真にも生かされ、晩年に刊行した写真集に収められたアジア、欧米各地での調査研究旅行の折に撮られた写真の数々には、人間や自然への暖かい眼差しが感じられる。巨躯ながら、眼鏡に手を添えつつ訥々とした語りで近世絵画の「面白さ」を講義する時、その姿には温和ながら美術への熱い想いが常にこめられていたことを記憶する。 著述目録は、下記の通りである。(本目録は、「山川武先生を偲ぶ会」編によるものである。) 「山姥図」と長沢蘆雪(『仏教芸術』52号、1963年11月) 長沢蘆雪筆 雀図(『国華』860号、1963年11月) 長沢蘆雪とその南紀における作品(同前) 長沢蘆雪伝歴と年譜(同前) 西光寺の蘆雪画(『仏教芸術』60号、1966年4月) 大覚寺と渡辺始興(『障壁画全集 大覚寺』、美術出版社、1967年3月) 正木家 利休居士像(『国華』901号、1967年4月) 表千家 利休居士像(同前) 三玄院 大宝円鑑国師像(同前) 東大寺大仏の鋳造及び補修に関する技術的研究 その一(共同研究)(『東京芸術大学美術学部紀要』4号、1968年3月) 良正院の障壁画(『障壁画全集 知恩院』、美術出版社、1969年1月) 写生画(『原色日本の美術19 南画と写生画』、小学館、1969年2月) 円山応挙について―「写生画」の意味の検討―(『美学』79号、1969年12月) 長沢蘆雪襖絵(『奈良六大寺大観 第6巻 薬師寺 全』、岩波書店、1970年8月) 結城素明作 鶏図杉戸(『昭和45年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1971年9月) 長沢蘆雪筆 墨龍図(『国華』942号、1972年1月) 長沢蘆雪筆 汝陽逢麹車図(同前) 絵画 第5章 江戸時代(『奈良市史 美術編』、奈良市、1974年4月) 円山応挙についての二三の問題(『国華』945号、1972年4月) 呉春筆 群山露頂図(同前) 呉春筆 耕作図(同前) 長沢蘆雪筆 群猿図(同前) 呉春筆 渓間雨意・池辺雪景図(『国華』948号、1972年8月) 光琳―創造的装飾『みづゑ』812号、1972年10月) 長沢蘆雪筆 仁山智水図(『国華』953号、1972年12月) 屈曲初知用―光琳屏風展雑感(『芸術新潮』277号、1973年1月) 早春の画家―渡辺始興展(『みづゑ』818号、1973年5月) 『日本の名画 6 円山応挙』(講談社、1973年6月) 応挙と蘆雪(『水墨美術大系 第14巻 若冲・蕭白・蘆雪』、講談社、1973年9月) 二つの「槇楓図」屏風(『日本美術』102号、1973年11月) 尾形光琳「槇楓図」(『昭和48年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1974年12月) 松屋耳鳥斎筆 花見の酔客図(『国華』976号、1975年1月) 森狙仙筆 猿図(同前) 森徹山筆 翁図(同前) 源琦筆 四十雀図(同前) 円山応挙筆「牡丹図」他12幅(『昭和49年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1975年12月) 呉春筆「寒木図」、「山水図」、呉春、岸駒合作「山水図」(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅱ』、東京芸術大学、1976年3月) 円山応挙筆 四季山水図(『国華』997号、1977年1月) 『日本美術絵画全集 第22巻 応挙/呉春』(集英社、1977年4月) 円山応挙筆 春秋鮎図(『国華』1002号、1977年7月) 長沢蘆雪筆 岩上小禽図、長沢蘆雪筆 狐鶴図(『国華』1003号、1977年8月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展―創立90周年記念―』(東京芸術大学、1977年9月) 円山四条派(『文化財講座 日本の美術3 絵画(桃山・江戸)』、第一法規出版、1977年11月) 円山応挙筆 蟹図屏風(『国華』1008号、1978年2月) 円山・四条派と花鳥・山水(『日本屏風絵集成 第8巻 花鳥画―花鳥・山水』、講談社、1978年5月) 円山応挙筆 螃蟹図(『国華』1017号、1978年11月) 浦上玉堂筆 青松丹壑図(『昭和52年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1979年3月) 近世市民芸術の黎明『日本美術全集 第21巻 琳派 光悦/宗達/光琳』(学習研究社、1979年8月) 本阿弥光悦(同前) 俵屋宗達(同前) 尾形光琳と乾山(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅰ』、東京芸術大学、1980年3月) 上方の町人芸術(『週刊朝日百科 世界の美術129 江戸時代後期の絵画Ⅱ 円山・四条派と若冲・蕭白』(朝日新聞社、1980年9月) 若冲と蕭白(同前) 蕪村の寒山拾得(『日本美術工芸』512号、1981年5月) 1980年の歴史学界―回顧と展望―日本近世〔絵画〕〔工芸〕(『史学雑誌』90編5号、1981年5月) 「江戸琳派」開眼―抱一・其一について―(『三彩』406号、1981年7月) 長沢蘆雪筆 瀧に鶴亀図屏風 同 赤壁図屏風(『国華』1047号、1981年12月) 呉春筆 白梅図屏風(『国華』1053号、1982年7月) 日本美術史上での南画の位置づけ(『田能村竹田展』、大分県立芸術会館、1982年10月) 彷徨の画家西郷孤月(『西郷孤月画集』、信濃毎日新聞社、1983年10月) (作品解説)(『英一蝶展』、板橋区立美術館、1984年2月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展』、京都新聞社、1984年10月) 一旅絵師の生涯―雲坪小伝―(『長井雲坪』、信濃毎日新聞社、1985年4月) 光琳の生涯(『芸術公論』10号、1985年11月) 宋紫石とその時代(『宋紫石とその時代』、板橋区立美術館、1986年4月) 宋紫石の画業とその時代(『宋紫石画集』、宋紫石顕彰会、1986年9月) 第2章 絵画(『深大寺学術総合調査報告書 第1分冊・彫刻 絵画 工芸』、深大寺、1987年11月) (解題)(『東京芸術大学 創立百周年記念 貴重図書展』、東京芸術大学附属図書館、1987年11月) 化政期の江戸絵画(『東京芸術大学芸術資料館所蔵品による 化政期の江戸絵画』、東京芸術大学美術学部・芸術資料館、1988年11月) 狩野芳崖と、その「悲母観音」について(『特別展観 重要文化財 悲母観音 狩野芳崖筆』、東京芸術大学芸術資料館、1989年10月) 円山応挙筆 秋月雪峽図(『国華』1132号、1990年3月) 近世、伊那谷が生んだ二画人(『佐竹蓬平と鈴木芙蓉』、信濃毎日新聞社、1990年7月) 高橋由一の「鮭」を考える(『特別展観 重要文化財 鮭 高橋由一作』、東京芸術大学芸術資料館、1990年10月) 佐竹蓬平、その生涯と芸術(『佐竹蓬平展』、飯田市美術博物館 1990年10月) 長崎派(『古美術』100号、1991年10月) 円山・四条派における「写生画」の意味について(『美術京都』11号、1993年1月) 「退官記念 山川武教授の選ぶ近世絵画」展列品解説(『退官記念 山川武教授』、東京芸術大学美術学部、1994年1月)

三山進

没年月日:2004/05/11

読み:みやますすむ  美術史学者・推理小説家の三山進は5月11日、神奈川県逗子市内の病院にて病没した。享年74。 1929(昭和4)年6月22日、兵庫県神戸市に生まれる。49年3月に甲南高等学校卒業。52年3月に東京大学文学部美学美術史学科を卒業し、東京大学大学院人文科学研究科美学美術史学専攻に進学、同修士課程修了のち52年から65年まで鎌倉国宝館学芸員を務める。71年から1991(平成3)年まで跡見学園女子大学教授、同年から94年まで青山学院大学教授を歴任。この間に、川崎市、横浜市、横須賀市、大和市、平塚市等の文化財委員(彫刻)を兼任した。その人柄は温厚篤実で、学生をはじめ研究者の誰からも好かれた。また、こよなく酒を愛し、教壇あるいは講演の壇上にあがる前には、緊張を緩和させるために少量のウイスキーを口にしたことはよく知られている。美術史学会、美学会、密教図像学会会員。なお「久能恵二」のペンネームで推理小説作家でもあったことは斯界ではあまり知られていない。本人もそのことに触れることを好まなかったようである。推理小説作家としてのデビューは59年、30歳の時に『宝石』『週刊朝日』の共同募集に「玩具の果てに」を応募、二等に入選し『宝石』同年10月号に掲載されたことにはじまる。翌年には『暗い波紋』(東都書房、1960年12月)を発表。以後、「土の誘い」(『別冊週刊朝日』1961年7月号)、『手は汚れない』(東都書房、1961年10月)、『日没の航跡』(東都書房、1962年4月)、『偽りの風景』(角川書店、1962年11月)、「愛の歪み」(『推理ストーリー』1962年5月号)、「殺人案内」(『宝石』1964年1月号)、「崩れる女」(『推理ストーリー』1964年4月号)「死者の旅路」(『推理ストーリー』1968年3月号)を著す。このほか本名で鮎川哲也の『蝶を盗んだ女』(角川文庫、1979年)の解説を書いている。なお、「死者の旅路」以後、推理小説を書かなかった理由について、その著『鎌倉と運慶』の「おわりに」のなかで「止めてしまったのはあまり注文がこなく、嫌気がさしてきた、という単純な理由からでしかないが…」と自嘲を込めて述べているが、真意は本人も告白している通り、66年夏の推理作家協会の『会報』に寄せた文のなかで「円覚寺の国宝舎利殿が従来、考えられていたように、鎌倉時代の建物ではなく、室町時代、尼五山第一位太平寺から移されたものであることが証明されるにいたった話である。そして、この経過を親しく見聞しながら私は、推理小説を読む以上の面白さ、興奮を覚えたことであった」と結んだところに求められるであろう。このことは以後、著作の軸足が美術史研究に移行していることからもうかがえる。単著に『日本の神話』(宝文館、1959年)、『称名寺(美術文化シリーズ113)』(中央公論美術出版、1959年)、『鎌倉(美術文化シリーズ103)』(中央公論美術出版、1963年)、『極楽寺(美術文化シリーズ114)』(中央公論美術出版、1966年)、『鎌倉の彫刻』(東京中日新聞出版局、1966年)、『日本神話の口承』(鷺の宮書房、1968年)、『三千院(美術文化シリーズ)』(中央公論美術出版、1970年)、『鎌倉』(学生社、1971年)、『京の寺』(山と渓谷社、1971年)、『名品流転』(読売新聞社、1975年)、『太平寺滅亡』(有隣堂、1976年)、『鎌倉―山渓カラーデラックス―』(山と渓谷社、1978年)、『鎌倉―花と緑とみ仏と―』(佼成出版社、1979年)、『鎌倉古寺巡礼』(実業之日本社、1979年)、『鎌倉と運慶』(有隣堂、1979年)『鎌倉彫刻論考』(有隣堂、1981年)、『鎌倉の禅宗美術(鎌倉叢書第17巻)』(かまくら春秋社、1983年)、『鎌倉みほとけ紀行』(PHP研究所、1986年)、『仏教彫刻-仏像と肖像-(かわさき叢書)』(財団法人川崎市文化財団、1989年)。編著・共著に『鎌倉の肖像彫刻(渋江二郎編)』(鎌倉国宝館図録第8集、1961年)、『石のかまくら』(東京中日新聞出版局、1966年)『鎌倉の仏像(改訂版・貫達人編)』鎌倉国宝館図録第12集、1974年)、『鎌倉むさしのの佛たち』(佼成出版、1976年)『日本古寺美術全集17鎌倉と東国の古寺』(集英社、1981年)、『全集日本の古寺2鎌倉と東国の古寺』(集英社、1984年)、『横須賀市文化財総合調査報告書』第4・5集(横須賀市教育委員会、1984年)、『川崎市彫刻・絵画緊急調査報告書』(川崎市教育委員会、1986年)、『円空巡礼(とんぼの本)』(新潮社、1986年)、『図説日本の仏教4・鎌倉仏教』(新潮社、1988年)、『横浜の文化財-横浜市文化財綜合調査概報(1~15)-』(横浜市教育委員会、1977~2002年)、『鎌倉市史』近世通史編(鎌倉市、1990年)、『平塚の仏像(平塚市文化財研究叢書4)』(平塚市教育委員会、1991年)『川崎市史通史遍1』(川崎市、1993年)、『鎌倉郡の仏像』(横浜市教育委員会、1995年)、『鎌倉の文化財』第15~20集・鎌倉市指定編(鎌倉市教育委員会、1990~2000年)などがある。このほか鎌倉国宝館の学芸員時代に責任編集にあたった『鎌倉地方造像関係史料』全8巻(『鎌倉国宝館論集』11~18、1968~75年)は鎌倉地方の仏師研究には欠くことのできない資料といえる。主要論文のいくつかが『鎌倉彫刻論考』(上掲)に収録されるが、そのほかの代表的論文に「伽藍神像考―鎌倉地方の作品を中心に―」(『MUSEUM』200号、1967年)、「妙高庵観音菩薩坐像について」(『鎌倉』16号、1967年)、「頂相彫刻について―禅宗彫刻論の中―」(『同』17号、1968年)、「幕末の鎌倉仏師後藤真慶」(『同』20号、1971年)、「鎌倉禅刹文殊菩薩像試考」(『同』44号、1983年)、「大慶寺の寺史と彫刻」(『同』52号、1986年)、「禅刹観音菩薩彫像をめぐって―鎌倉の禅刹を中心に―」(『同』60・61号、1989年)、「英勝寺と鎌倉近世造仏界」(『同』70・71号、1993年)、「『仏師職慎申堅メ控』と京仏師林如水」(『同』78号、1995年)、「近世七条仏所の幕府御用をめぐって―新出の史料を中心に―」(『同』80号、1996年)、「十劫寺不動明王像と仏師泉円」(『金沢文庫研究』151号、1968年)、「『沙石集』から見た鎌倉地方仏師」(『同』163号、1969年)、「東国の宅磨派―十四・五世紀を中心に―」(『同』180号、1971年)、「中世塑造像に就ての一考察―大休正念の語録を中心に―」(『同』210号、1973年)、「浄智寺本尊像考」(『同』278号、1987年)、「宝冠釈迦如来像考―円覚寺仏殿本尊を中心に―」(『国華』927号、1970年)、「東国における運慶―浄楽寺諸像を中心に―」(『同』940号、1971年)、「神武寺の彫刻と絵画」(『三浦古文化』10号、1971年)、「禅刹仏殿本尊像小考」(『同』16号、1974年)、「金龍禅院の歴史と彫刻」(『同』37号、1985年)、「光明寺の諸像(薄井和男と共著)」(『同』39号、1986年)、「仏師快円考」(『史迹と美術』388輯、1968年)、「寿閑寺の近世日蓮宗彫刻」(『同』538輯、1983年)、「仏師弘円について」(『美学』71号、1967年)、「仏師弘円考」(『跡見学園女子大学紀要』1号、1968年)、「運慶と東国―下向非下向の問題」(『同』3号、1970年)、「«異相なる僧像»をめぐって―跋陀婆羅尊者彫像小考―」(『跡見学園女子大学美学美術史学科報』4号、1976年)、「仏師弘円考」補遺」(『同』17号、1989年)、「大和市の彫刻」(『大和市研究』1・2号、1975・76年)「正統院木造仏国国師坐像について(清水眞澄と共著)」(『仏教芸術』107号、1976年)などがある。

田中幸人

没年月日:2004/03/26

読み:たなかゆきと  熊本市現代美術館長で、美術評論家の田中幸人は、3月26日すい臓癌のため死去した。享年66。 1937(昭和12)年、福岡県久留米市に生まれる。54年、佐賀県立伊万里高校から福岡県立修猷館高校に編入学。56年に同校卒業、翌年九州大学文学部に入学。61年に同大学文学部哲学科を卒業、同年毎日新聞社に入社。同社西部本社報道部に配属、大牟田通信部、西部本社報道部を経て65年に学芸課に転出した。以後、美術を中心に記者生活を送る。当時、菊畑茂久馬等の「九州派」といわれた福岡と中心とする現代美術の新しい動向に対して共感をもって精力的に取材を重ねて記事とした。81年には、同僚記者であった東靖普と連載記事をまとめて『漂民の文化誌』(葦書房)を刊行。この後、同社東京本部に転勤し、以後10年間美術担当編集委員として同新聞に美術批評を執筆した。東京での批評活動では、従来の公募団体展中心から画廊等で開催される中堅、若手の個展へと対象を一変させ、そこから書きつづけられた膨大な批評記事は、視野の広さと鋭い視点に裏付けられた同時代の良質のドキュメントとなっているといってよい。1991(平成3)年に同新聞社を退社、同年埼玉県立近代美術館長に就任、2000年まで勤める。同美術館時代には、積極的に現代美術の企画展に参画した。2000年、熊本市現代美術館設立のために招かれ、02年4月から初代同美術館長となり、その在任中の死去であった。没後、遺稿集として『感性の祖形―田中幸人美術評論集』(「田中幸人遺稿集」刊行委員会編、弦書房、2005年3月)が刊行された。装飾古墳壁画をはじめ民俗学、人類学にも造詣が深く、そうした幅広い視点と現場での取材に徹した現代美術批評として特色があり、また後年は美術館人としても、近年の美術館をめぐる厳しい状況に対して真摯で提言的な発言を最後までつづけていた。

柳澤孝

没年月日:2003/09/06

読み:やなぎさわたか  美術史研究者で東京文化財研究所名誉研究員の柳澤孝は、9月6日、急性心不全のため死去した。享年77。葬儀は近親者だけで営まれ、偲ぶ会が同年10月末日に東京文化財研究所で行われた。1926(大正15)年1月16日、長野県上田市上田6500番地に生まれる。1943(昭和18)年3月、長野県立上田高等女学校を卒業。45年9月、日本女子大学国文科を卒業するとともに同大学補修科に進学。46年3月、同大学補修科を修了。そののち日本美術史とくに絵画史の研究のために美術研究所(現在の独立行政法人文化財研究所 東京文化財研究所の前身)において文部技官・秋山光和の指導を受け、同年9月、美術研究所雇となる。59年9月1日、文部技官に任官。72年7月1日に東京国立文化財研究所美術部主任研究官に、82年4月1日、同美術部第一研究室長に昇任。84年4月1日、美術部長に就任。87年3月、定年退職する。研究所在職中から非常勤講師として東京大学文学部、同大学東洋文化研究所、慶應義塾大学文学部、学習院大学、東京藝術大学へも出講し、後進の育成にも心血を注ぐ。斯界で現在活躍する美術史研究者・文化財修復技術者のなかで謦咳に触れた者は数多い。柳澤の学究は永年にわたって日本仏教絵画史研究に携わり、網羅的かつ綿密な作品調査を行ったことで知られ、成果をもとに多くの著書・論文があらわされた。その研究手法はX線透過撮影、赤外線撮影、双眼実体顕微鏡などの光学的・科学的手法を積極的に用い、それまで解明が困難であった絵画の顔料の種類、描法を明らかにして、仏画研究の手法を開拓するとともにその指針を示し、研究そのものを飛躍的に引き上げた。今日の仏画研究の水準は柳澤が提示した成果によっているものが少なくない。ちなみに、成果のひとつである『醍醐寺五重塔の壁画』(高田修編、高田修・上野アキ・宮次男・山﨑一雄・伊藤卓冶と共著、吉川弘文館、1959年)により、1960(昭和35)年に日本学士院恩賜賞を受賞した。ここで主要な著作をあげると以下の通りである。編著書には上述の『醍醐寺五重塔の壁画』のほかに、『高雄曼荼羅』(東京国立文化財研究所美術部編、高田修・秋山光和・神谷栄子と共著、吉川弘文館、1967年)、『仏画(原色日本の美術7)』(高田修と共著、小学館、1969年)、『扇面法華経』(東京国立文化財研究所監修、秋山光和・鈴木敬三と共著、鹿島研究所出版会、1972年)、『仏画(ブック・オブ・ブックス 日本の美術9)』(高田修と共著、小学館、1975年)、『法隆寺 金堂壁画(奈良の寺8)』(岩波書店、1975年)、『日本の仏画』第一期・全十巻(田中一松・亀田孜監修、高崎富士彦・中野玄三・浜田隆と共編、学習研究社、1976年~1977年)、『同』第二期・全十巻(田中一松・亀田孜監修、高崎富士彦・中野玄三・浜田隆と共編、学習研究社、1977年~1978年)、『在外日本の至宝』第一巻・仏教絵画(毎日新聞社、1980年)、『当麻寺(大和の古寺2)』(辻本米三郎・渡辺義雄と共著、岩波書店、1982年)、『紫式部日記絵巻 蜂須賀家旧蔵本 一巻 重要文化財(複刻日本古典文学館 第2期)』(監修、ほるぷ出版、1985年)、『平等院大観』第3巻・絵画(秋山光和編、岩波書店、1992年)があげられる。また、代表的な論文に「藤田美術館の密教両部大経感得図に就いて」(『美術研究』187号、1957年)、「一字金輪曼荼羅図について―その図像学的並びに遺品の美術史的考察―」(『美術研究』208号、1960年)、「青蓮寺旧蔵の立像十二天図について」(『國華』823号、1960年)、「藤原時代普賢菩薩絵像の一遺例」(『美術研究』220号、1962年)、「大和永久寺真言堂障子絵と藤田本密教両部大経感得図―その製作年代と作家―」(『美術研究』224号、1963年)、「転法輪筒とその絵画」(『美術研究』231号、1963年)、「繭山家本 紺紙金字法華経及び開結経―主として観普賢経について―」(『古美術』7号、1965年1月)、「青蓮院伝来の白描金剛界曼荼羅諸尊図様(上・下)」(『美術研究』241、242号、1965年)、「松尾寺所蔵の終南山曼荼羅について―唐本北斗曼荼羅の一異図―」(『美術研究』248号、1966年)、「仁和寺蔵宝珠筥納入の板絵四天王像について」(『美術研究』256号、1967年)、「仁平三年銘の持光寺蔵普賢延命菩薩絵像」(『美術研究』254号、1969年)、「永久寺真言堂障子絵色紙形下より出現の鷹図について」(『美術研究』266号、1969年)、「慈尊院弥勒仏像台座蓮弁の装飾文様」(『美術研究』283号、1972年)、「日野原家本大仏頂曼荼羅について」(『美術研究』285号、1973年)、「真言八祖行状図と廃寺永久寺真言堂障子絵(一~五)」(『美術研究』300、302、304、332、337号、1976年~1987年)、「高松塚古墳壁画に関する二、三の新知見―双眼実体顕微鏡による第二次調査報告―」(『月刊文化財』154号、ぎょうせい、1976年)、「東寺の国宝両界曼荼羅」(『教王護国寺両界曼荼羅』西武美術館、1977年)、「(法華寺)阿弥陀三尊及び童子像」(『大和古寺大観』第五巻 秋篠寺・法華寺・海龍王寺・不退寺 岩波書店、1978年)、「年中行事絵巻と真言院の道場内荘厳」(『新修日本絵巻物全集 月報』22、1979年)、「ボストン美術館蔵の四天王図―新発見の廃寺永久寺真言堂障子絵―」(『在外日本の至宝』第一巻・仏教絵画、毎日新聞社、1980年)、「織成当麻曼陀羅について」(『当麻寺(大和の古寺2)』岩波書店、1982年)、「天平絵画の展開」(『週刊朝日百科 世界の美術』106号、1980年)、「正倉院の絵画」(『週刊朝日百科 世界の美術』107号、1980年)、「鎌倉時代の絵画」「仏教絵画」(『週刊朝日百科 世界の美術』113号、1980年)、「称名寺金堂壁画考」(『三浦古文化』28号、1980年)、「異色ある孔雀明王画像」(『美術研究』322号、1982年)、「文化庁保管 普賢菩薩絵像」(『美術研究』326号、1983年)、「廃寺大和永久寺真言堂伝来の真言八祖行状図―平安後期における説話画の一遺例―」(『国際交流美術史研究会第8回シンポジアム 説話美術』1992年)、「東寺の両界曼荼羅図―甲本(建久本)と西院本―」(東寺宝物館特別展図録『東寺の両界曼荼羅図 連綿たる系譜―甲本と西院本』1994年)があり、欧文の論文として“A Study of the Painting Style of the Ryokai Mandala at the Sai‐in, To‐ji ―With Special Emphasis on their Relationship to Late T’ang Painting,” International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property‐Interregional Influences in East Asian Art History ―, Tokyo National Research Institute of Cultural Properties, 1982. “The Paintings of the Four Deva Kings in the Collection of the Museum of Fine Arts, Boston‐Recently Rediscovered Paintings from the Shingon‐do of the Abandoned Temple Eikyu‐ji‐,” Archives of Asian Art XXXUII, the Asia Society Inc., 1984.がある。柳澤の絵画作品に向かう真摯な態度は、後年、右半身不随となるも、リハビリによりこれを克服し杖に頼る身体となっても作品を実見することの情熱を失わなかったことに示されているであろう。晩年に心臓疾患による手術を受けたが、乗り越えて精力的に日本内外の美術館・博物館に出向き、終日、展示作品の前で単眼鏡を覗きながら熟覧に及んだ。また、後学の徒から送られてきた論文抜刷には必ず目を通し、疑問点については執拗なまでに追求する厳しい姿勢を最期まで崩さなかった。その柳澤が心血を注いだ大著「真言八祖行状図と廃寺永久寺真言堂障子絵」が完結をみなかったことは惜しまれるが、周囲には執筆の再開に意欲を示していたのも事実であった。また、晩年の関心は、園城寺からの要請で修理委員を務め、余人を介さずつぶさに実見した園城寺金色不動明王像(いわゆる黄不動)の研究にあった。柳澤は『美術研究』に掲載すべく執筆を行っていることを周囲に漏らしていたが、没後にかなりの完成度をもった原稿が残されていることが確認された。その遺稿「園城寺国宝金色不動明王像(黄不動)に関する新知見―不動明王修理報告―」は故人の遺志を尊重して『美術研究』385号(2005年)に上梓をみた。金色不動明王像の論文とは別に東寺西院曼荼羅の簡単な解説も残されていた。金色不動明王の論考を終えてのち東寺西院両界曼荼羅の研究に再度着手する予定であったようである。ちなみに柳澤の代表論文のうち、年月の経過とともに入手困難が予想される雑誌掲載の論文を集成し『柳澤孝仏教絵画史論集』として2006年春には刊行が予定されている。

松本修自

没年月日:2003/07/02

読み:まつもとしゅうじ  奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復工学研究室長の松本修自は、7月2日、膵臓がんのため死去した。享年52。1951(昭和26)年1月9日、東京都新宿区に生まれる。73年3月、早稲田大学工学部建築学科を卒業、同大学大学院理工学研究科に進み、75年3月、同大学院修士課程修了。同年4月、奈良国立文化財研究所に採用され、平城宮跡発掘調査部遺構調査室に配属される。同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部、埋蔵文化財センター研究指導部測量研究室、平城宮跡発掘調査部遺構調査室に勤務し、79年12月から84年4月まで飛鳥資料館学芸室併任。同資料館では、81年に山田寺金堂の修復模型を設計、製作し、図録『山田寺の伽藍と建築』を編集執筆した。83年には日本古代の小建築論の一環として全国の瓦塔を調査し、『小さな建築―瓦塔の一考察―』を刊行した。84年には、厨子、仏龕、小塔の建築的位置付けを論考した図録『小建築の世界』を編集した。85年11月から翌年6月まで、文化庁から派遣され、イタリアの文化財修復国際センター(イクロム)において歴史的記念物の保存に関する研修を受ける。1993(平成5)年10月、東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力室に主任研究官として異動。95年4月には同研究所修復技術部第二修復技術研究室長となる。97年10月、同研究所国際文化財保存修復協力センター保存計画研究指導室長となる。99年3月から同年8月まで、文部省在外研究員としてギリシャ、イギリス、イタリア、ドイツを歴訪し、ギリシャアクロポリス修復史研究やドイツとの文化遺産保護協力など、国際協力事業の推進に尽力した。2002年4月、奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復工学研究室長として異動し、国際的な視野のもとに日本の遺跡・建造物の保存修復理念の再構築に取り組んでいた。没後、同研究所内の有志によって、『松本修自遺稿集―保存修復の昨日から明日へ』が刊行され、業績一覧と代表的な論文11編が収録された。国際的な協力事業に豊かな経験と学識、堪能な語学力が生かされ、飄々とした風貌とユーモアあふれる温厚な性格で、所内でも親しまれていた。

穴澤一夫

没年月日:2003/05/13

読み:あなざわかずお  美術史家で、東北芸術工科大学名誉教授の穴澤一夫は、5月13日、呼吸不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年77。1926(大正15)年3月12日、東京の麻布に生まれる。1947(昭和22)年、横浜工業専門学校(現、横浜国立大学)建築学科卒業。48年東京大学文学部美術史学科聴講生を経て、50年東北大学文学部美学・美術史学科に入学、村田潔教授のもとでギリシア美術を学び、53年同大学(旧制)を卒業した。56年同大学文学部大学院修了後は、同年9月より国立近代美術館(現、東京国立近代美術館)事業課に勤務、59年5月、開館を目前に控えた国立西洋美術館に移り、68年5月より事業課長、また76年4月には東京国立近代美術館次長となり、82年7月まで同職を勤めた。同年8月筑波大学芸術学系教授に就任し、1989(平成元)年3月に退官後は東北芸術工科大学の開校準備に参画し、92年4月より同大学芸術学部長および芸術学部芸術学科教授に就任、98年3月退任後の4月には同大学名誉教授となった。この間、日本大学芸術学部(1956-73年)などで美術史を教えたほか、61年8月から翌年11月までフランス政府招待技術留学生としてパリ国立近代美術館に研修勤務し、ブランクーシのアトリエの復元設置に携わるかたわら、エコール・デュ・ルーヴルの聴講を修了、また63年7月フランス共和国文芸騎士勲章(Chevalier de l’Ordre des Arts et des Lettres)、81年11月博物館法三十周年記念式典文部大臣賞等を受けた。穴澤の美術展との関わりは、1954(昭和29)年、ルーヴル美術館所蔵品を中心とする戦後初めての大規模な「フランス美術展」(東京国立博物館)に際して、富永惣一の推薦でカタログ編集その他を手伝ったことに始まるが、その後、草創期の国立近代美術館、次いで国立西洋美術館に勤務してからは、西洋美術を中心に多岐にわたる数多くの展覧会を手懸けた。国立西洋美術館在職中は、「ミロのビーナス特別公開」(1964年)、2点の「マハ」像(着衣・脱衣)を含む「ゴヤ展」(1971年)、「モナ・リザ展」(会場:東京国立博物館、1974年)等の国家プロジェクトに参画し、また東京国立近代美術館次長在任中に担当した展覧会のカタログに寄稿した論文、「素朴な画家たち」(「素朴な画家たち」展、1977年)、「ロベール・ドローネーの芸術と芸術論」(「ドローネー展――ロベールとソニア」、1979年)、「マチス」(「マチス展」、1981年)、「ムンクの人と芸術」(「ムンク展」、1981年)、「象徴主義の理解のために」(「ベルギー象徴派展」、1982年)等は、中学時代からギリシアの詩文に親しみ、美術のみならず文学・音楽などすべての芸術をこよなく愛し、哲学への関心や造詣も深かった穴澤の学風をよく伝えている。その他、主な著作(単独著作)や論文として以下がある。『ギリシャ美術』(保育社、1964年)、『ミケランジェロ、ドナテルロ(世界の美術5)』(河出書房新社、1966年)、『ロダン、ブールデル、マイヨール(現代世界美術全集12)』(河出書房新社、1966年)、『ルノワール、ボナール(世界の名画:洋画100選6)』(三一書房、1966年)、『ドーミエ、ミレー、クールベ(世界の名画:洋画100選3)』(三一書房、1967年)、『ボナール(世界の名画13)』(世界文化社、1968年)、『ボナール、マティス、デュフィ(ほるぷ世界の名画6)(ほるぷ出版、1970年)、『ル・コルビュジエ(ART LIBRARY 30)』(鶴書房、1972年)、『ミケランジェロ(ファブリ世界彫刻集2)』(平凡社、1973年)、『ギリシア彫刻(世界彫刻美術全集4)』(小学館、1974年)、『セザンヌ(世界美術全集19)』(小学館、1979年)、「ポリュクレイトス研究」(『美学』15号、1954年)、「1953年発見のブルゴーニュ「VIXの遺宝」について」(『美術史』20号、1956年)、「現代イギリス彫刻とヘップワース」(「バーバラ・ヘップワース展」カタログ、彫刻の森美術館、1970年)、「ブランクーシの世界」(「ブランクーシ」展カタログ、ギャルリー・ところ、1977年)、「マイヨールの彫刻」(「マイヨール展」カタログ、山梨県立美術館ほか、1984年)、「大野さんの芸術と『聖なる対話』」(「大野俶嵩展」カタログ、O美術館、1989年)、「マイヨールと地中海」(「マイヨール展」カタログ、北海道立函館美術館ほか、1994年)。

木村定三

没年月日:2003/01/21

読み:きむらていぞう  美術品収集家の木村定三は1月21日午前7時7分、肺炎のため名古屋市中区の病院で死去した。享年89。1913(大正2)年3月1日、名古屋の肥料米殻仲買を生業とする家に生まれる。1929(昭和4)年、旧制熱田中学校を卒業、第八高等学校文科甲類に入学し、32年同校を卒業、東京帝国大学法学部に進む。同大学在学中の35年に高級官僚への道が約束される高等文官試験行政科に合格するも、翌年法学部政治学科を卒業すると直ちに名古屋に戻り家業に従事する。66年には新納屋橋ビルを建設し、大名古屋建物株式会社の社長に就任した。その美術好きは書画骨董に関心を寄せた父と兄の影響とみられ、コレクションの幅は中国北魏の彫刻から現代の作品にまで及んだが、とりわけ38年に名古屋丸善の画廊で開かれた熊谷守一の日本画の個展で強い感銘を受け、以後熊谷の芸術を賞揚し続けた。“法悦感”と“厳粛感”を第一義とする独特の芸術観を持ち、両者を兼ね備えた画家として熊谷を、また前者を代表する画家として小川芋銭、次いで池大雅を、後者の画家として浦上玉堂を第一とし、与謝蕪村がそれに続くとした。晩年には与謝蕪村「富嶽列松図」、浦上玉堂「山紅於染図」等の重要文化財、また熊谷守一、小川芋銭の作品を含む近世・近代の作品140点、北魏石仏等古美術品16点、考古工芸資料177件を愛知県美術館に寄託、さらには寄贈することを決め、これを記念し同館にて2003(平成15)年「時の贈りもの―収蔵記念 木村定三コレクション特別公開」展が行なわれるが、その開催を目前にしての逝去であった。同館では展覧会開催後も木村定三コレクション室を設け、寄贈品を常時公開している。

吉川逸治

没年月日:2002/12/05

読み:よしかわいつじ  フランスのサン・サヴァン教会堂壁画の研究で知られた西洋中世美術史研究者、吉川逸治は12月5日午後9時50分、肺炎のため神奈川県鎌倉市由比ガ浜の自宅で死去した。享年93。 1908(明治41)年12月14日、横浜市神奈川区青木町台に生まれる。1929(昭和4)年旧制浦和高等学校文科を卒業。33年東京帝国大学美学美術史学科を卒業。同年フランスへ留学しパリ大学でアンリ・フォションに師事してフランス中世美術を研究。34年よりポアティエ近郊のサン・サヴァン教会堂のロマネスク壁画を調査し、39年その成果をまとめた学位論文Apocalypse de Saint‐Savin(サン・サヴァン教会堂の黙示録画の研究)をパリ大学に提出して博士号を取得。同年8月より9月まで、アフガニスタン、インドを巡遊して帰国する。44年東京美術学校(現東京藝術大学)の講師となり、西洋美術史を講じ、同47年同学教授となる。49年『中世の美術』(東京堂 1948年)により昭和24年度毎日出版文化賞受賞。53年東京大学助教授となり、55年より69年まで同学美術史学科教授をつとめる。その間の58年より61年まで大岡昇平、中村光夫らと同人誌『声』(丸善)に参加し、59年から61年までパリ大学都市日本館館長をつとめる。69年名古屋大学教授となり72年退官。この間、59年から76年までに3度にわたりフランスのサン・サヴァン教会堂を調査し、その成果の集大成として『サン・サヴァン教会堂のロマネスク壁画』(新潮社 1982年)を刊行した。その研究方法は、現地でのフィールド・ワークにもとづく実証的なもので、国際的に高い評価を得る。こうした調査により75年ポアティエ大学から名誉博士号を授与される。72年より81年まで東海大学教授、同81年から1999(平成11)年まで大和文華館館長をつとめた。82年より日本学士院会員となり、84年フランス学士院ジャン・レイノー賞を受賞する。日本における西洋美術史学研究の上で、徹底的な現地調査と広汎な文献の渉猟を基礎とする方法論を実践した先駆的研究者として位置づけられる。 先述の著作のほか、主要な著書に『近代美術への天才たち』(新潮社 1964年)、『ロマネスク美術を索めて』(美術出版社 1979年)などがあり、翻訳・編集・監修を担当した書籍に『イタリア絵画史』第1巻(スタンダール他著、河出書房 1943年)、『ルーヴルの名宝』(講談社 1966年)、『近代絵画』(A・オザンファン他著、鹿島出版会、SD選書 1968年)、『紀元千年のヨーロッパ』(L・グロデッキ他著、新潮社 1976年)、『世界版画大系』(筑摩書房 1972―74年)、『フィレンツェの美術』(小学館 1973―74年)、『ルーヴルとパリの美術』(小学館 1985―88年)などがある。

藤島亥治郎

没年月日:2002/07/15

読み:ふじしまがいじろう  建築史家で東京大学名誉教授の藤島亥治郎は7月15日午後0時30分、腎不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年103。 1899(明治32)年5月1日、円山四条派の日本画家、藤島静村を父に岩手県盛岡市に生まれる。生後すぐに一家は東京へ転住。第六高等学校を経て、建築史家を志し1920(大正9)年東京帝国大学工学部建築学科に入学、伊東忠太、関野貞、塚本靖の指導を受ける。とくに関野貞の感化により地下遺構の調査等、建築史に考古学を援用する姿勢を養う。卒業論文で日朝建築の交渉史を扱った関係もあり、23年同大学を卒業後は朝鮮半島に渡り京城高等工業学校に赴任、その間半島各地を精力的に踏査する。26年から二年間独・仏・米三国に留学、欧州各国を巡遊。1929(昭和4)年東京帝国大学工学部建築学科助教授となる。33年に論文「朝鮮建築史論、特に慶州郡を中心とする新羅時代仏教建築に就いて」で工学博士の学位を取得、同年東京帝大教授となる。36年より文部省国宝保存会委員を兼任、戦後には文化庁文化財審議会専門委員会となった同会の委員を80年まで務める。また49年の法隆寺金堂火災を機に同寺の国宝維持修理事業が委員会制度となるに伴い、その委員となり、同寺金堂や五重塔の調査を行なう。またこの時期より中山道全体を踏査し、宿場町とその途上の町家・民家・街道景観の総合調査を実施する。50年大阪府教育委員会による四天王寺の発掘調査に参加、この調査をふまえ55年より国の文化財保護委員会、大阪府教育委員会、四天王寺の三者合同による発掘調査が行なわれ、その委員を務める。さらに57年より同寺伽藍の再建設計を行い、その功績により65年建築業協会賞、68年日本芸術院賞恩賜賞を受賞する。その一方で54年に平泉遺跡調査会を組織し、観自在王院跡、毛越寺伽藍跡、中尊寺、柳之御所跡等の調査を実施、その整備事業にもあたり、また62年から68年まで国宝中尊寺金色堂保存修理工事委員会委員長を務めた。この間60年に東京大学を定年退官、同大学名誉教授となる。86年古建築・遺跡の歴史意匠的研究とその復原的設計における功績に対し、日本建築学会大賞を受賞。87年には「建築は綜合芸術である」を基本精神に、広い視野から建築文化・芸術文化の発展への寄与を目標とする綜芸文化研究所を設立。その経歴は自ら記した「古代への私の歩み」(『古代文化』450~453 1996年)に詳しい。著書は『平泉-毛越寺と観自在王院の研究』(東京大学出版会 1961年)、『韓の建築文化』(芸艸堂 1976年)、『復興四天王寺』(四天王寺 1981年)、『平泉建築文化研究』(吉川弘文館 1995年)、『中山道―宿場と途上の踏査研究』(東京堂出版 1997年)等多数あり、その著作・制作目録および年譜は『藤島亥治郎百寿の歴史』(非売品 1999年)、および『建築史学』39号(2002年)、『綜芸文化』6号(2002年)に収められている。

佐々木剛三

没年月日:2002/05/26

読み:ささきこうぞう  美術史家で早稲田大学名誉教授の佐々木剛三は5月26日、肺炎のため京都市上京区の病院で死去した。享年73。佐々木は1928(昭和3)年7月1日、京都市に生まれた。47年4月早稲田大学第一文学部に入学、安藤正輝のもとで中国と日本の美術史を学んだ。安藤は、美術史家であり、歌人でもあった會津八一の愛弟子であった。51年3月に同大学第一文学部芸術学科美術専修を卒業、52年5月より京都国立博物館に勤務、島田修二郎の下で研鑽を積んだ。61年5月に早稲田大学第一文学部助手、翌年4月に非常勤講師、64年4月に専任講師、67年4月に第一・第二文学部助教授、72年に第一・第二文学部教授となり、1994(平成6)年3月に退職するまで30年間にわたって後進の指導にあたった。この間、第一文学部美術史学専攻主任、第二文学部美術専攻主任、第一、第二文学部教務主任を務めたほか、65年8月からは奈良にある財団法人寧楽美術館理事の職にあった。また、アメリカの日本美術史研究者との交流を通じ、日本の美術史研究の国際的な発展にも貢献した。66年9月から1年間、ロックフェラー財団の奨学金を得てミシガン大学美術史学科客員研究員、79年5月から翌年7月までカリフォルニア大学(バークレー)美術史学科客員教授、81年9月から12月までミシガン大学美術史学科の客員教授を勤め、アメリカにおける日本美術の研究者の育成に力をつくした。京都国立博物館時代での佐々木は、58年の美術史学会総会での「清涼寺釈迦像の図像学的考察」、あるいは60年の『美術史』38号での「兜跋毘沙門天像についての一考察」など仏教彫刻についての論考を発表していた。その後、早稲田大学に移ってからは生涯を通じての課題の一つとなった江戸後期の文人画、わけても田能村竹田の研究を本格化させており、65年の『美術史研究』3号の「田能村竹田筆」、82年の『古美術』64号の「木米と竹田」、「田能村竹田展」図録(大分県立芸術会館)の「田能村竹田と中国」などの論文のほか、『大分県先哲叢書 田能村竹田資料集』などの著作がある。さらに、万福寺を中心とする江戸期の禅宗美術や中国絵画、近世の画譜類にも研究の手を広げており、63年の『みづゑ』706号に「明清画と近代-中国明清美術展を機に」、73年の『古美術』43号に「明朝遺民龔賢」、翌年の『古美術』44号に「中国の論画と日本の画評」、88年の「中国古代版画展」図録(町田市立国際版画美術館)での「中国画譜と南宗文人画」、90年の「近世日本絵画と画譜絵手本」展図録(町田市立国際版画美術館)での「絵画と版画」などがある。また一方で、仏教絵画でも68年の『国華』912号で発表した「歓喜光寺蔵一遍聖絵の画巻構成に関する諸問題とその製作者について」のほか、垂迹美術の分野にも強い興味をもって研究を行っていた。海外での発表も数多く、67年にプリンストン大学で「On the Origin of the Style of Buddhist Sculptures in the Heian Period」、76年にニューヨーク日本協会神道シンポジウムで「On the Suijaku Painting」、84年にミシガン大学美術館で「On the Forgeries of Chikuden Paintings」、ウィスコンシン大学でのアメリカ美術史学会総会で「Some Thoughts on the Rakuchu―Rakugai Zu Screens」と題して講演を行った。佐々木の専攻は日本美術とはいえ、博く豊かな学識をそのままに反映して、関心は多岐にわたっている。それだけにその研究分野、領域は幅広いものがあるが、なかでも厳しい鑑識眼にも裏付けられた、垂迹美術や田能村竹田の絵画についての論考が、その研究の基盤となるような重要な仕事であった。研究の過程であつめられた資料の保存、保管等にも細かに気を配っていたが、生前、苦労して蒐集した明代の「顧氏画譜」、清初期の「芥子園画伝」など和本のコレクションが大阪府和泉市立久保惣記念美術館におさめられた。 編著書 『竹田』(鈴木進編)(日本経済新聞社 1963年) 『万福寺』(中央公論美術出版 1964年) 『清凉寺』(中央公論美術出版 1965年) 『竹田』(三彩社 1970年) 『日本美術絵画全集21 木米・竹田』(集英社 1977年) 「南画十選」『日本経済新聞』 1987年5月4日~5月16日 『大分県先哲叢書 田能村竹田資料集』(大分県教育庁(監修・編集) 1992年) 『神道曼荼羅の図像学』(ぺりかん社 1999年) 

小口八郎

没年月日:2002/03/04

読み:おぐちはちろう  保存科学研究者で東京藝術大学名誉教授の小口八郎は3月4日午前2時48分、肺炎のためさいたま市の病院で死去した。享年85。 1916(大正5)年12月2日、栃木県那須郡烏山町に生まれる。北海道大学理学部物理学科を卒業後、中谷宇吉郎の下で雪の結晶の研究を続け、1948(昭和23)年に同大学大学院特別研究生を修了し、理学博士となる。この当時、過冷却された降水が森林や物に当たって着氷する「雨氷現象」について研究を行う。62年に中谷宇吉郎死後、中谷静子と共に「中谷宇吉郎年譜」(『中谷宇吉郎随筆選集 第三巻』所収、1966年 朝日新聞社)を編纂する。49年、東京藝術大学美術学部に移り一般教養(自然科学)を担当し、伝統技術に関する科学的研究を行う。65年、東京藝術大学大学院美術研究科に、我が国で最初の文化財保存に関する教育課程として保存科学専攻が設立された際、初代教授となり84年に退官するまで学生の指導に当たる。教え子には沢田正昭、三浦定俊らの保存科学研究者がいる。68年に完成した新宮殿銅屋根の人工緑青に関する基礎研究を行い、「噴霧法による銅屋根の化学的着色法」(『東京芸術大学美術学部紀要』第1集 1965年)として発表し、74年に日本銅センター賞を受ける。また古美術材料について研究を行い、「日本画の着色材料に関する科学的研究」(『東京芸術大学美術学部紀要』第5集 1969年)、「天平塑像の科学的研究」(同第6集 1970年)、「土紋装飾の材質及び技法について」(『三浦古文化』20号 1976年)、「墨の研究」(『古文化財の科学』第20・21号 1977年)、「X線マイクロアナライザーによる古代青銅器の組織と材質の研究1、2」(『東京芸術大学美術学部紀要』第14・15号 1979・1980年)などの論文を発表し、これらを『古美術の科学―材料・技法を探る』(日本書籍 1980年)として公刊する。特に墨の研究は、史料に当たりながら実際に古い硯で明・清の名墨をすり下ろし、その墨粒の結晶を電子顕微鏡で観察して、松煙墨、油煙墨や墨色の違いを考察していて、現在でも墨に関する基礎的な文献となっている。国際的にも東京藝術大学が組織した中世オリエント遺跡学術調査団の第三次調査団(1970年)の団長として参加し、カッパドキヤ地方(トルコ)にある中世キリスト教の岩窟修道院壁画の総合調査を行い、壁画の材料及び技法に関する科学的研究を行った。この研究は中国へと広がり、後に『シルクロード―古美術材料・技法の東西交流』(日本書籍 1981年)として公刊された。1984年3月に東京藝術大学を定年退官し名誉教授となる。退官後も古文化財科学研究会(現文化財保存修復学会)の監事として活躍した。

千野香織

没年月日:2001/12/31

読み:ちのかおり  美術史家で学習院大学教授の千野香織は12月31日、心不全のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年49。千野は1952(昭和27)年8月19日、内科医中村光甫と香壽子の長女として神奈川県横須賀市に生まれた。東京学芸大学附属世田谷小中校、同中学校を経て71年3月同附属高校を卒業。72年4月京都大学文学部に入学、76年3月文学部哲学科美学美術史学専攻を卒業。同年4月東京大学大学院人文科学研究科美術史学専修課程日本美術史専攻に入学。この年、高校の先輩で音楽家の千野秀一と結婚(82年離婚)。78年3月同大学院修士課程を修了、同年4月博士課程に進み、83年3月博士課程単位取得退学。同年5月より東京国立博物館資料部資料第一研究室研究員(文部技官研究職)。88年4月資料第二研究室へ異動。1989(平成元)年4月学習院大学に転出して文学部哲学科助教授となり、94年4月教授に昇格した。この間、92年7月より93年1月までハーバード大学客員研究員、97年4月より98年3月までコロンビア大学客員研究員となり、94年3月より99年4月まで美術史学会常任委員、97年6月より7月までハイデルベルク大学客員教授、2000年10月より01年3月までお茶の水女子大学客員教授を務めた。また、79年4月より徳川美術館研究員、99年6月より国立歴史民俗博物館運営協議委員、00年4月より国立民族学博物館客員教授、01年5月より美術史学会常任委員、01年9月より国立歴史民俗博物館第二期展示委員を務めていた。93年10月『フィクションとしての絵画』(西和夫と共著、ぺりかん社 1991年)により小泉八雲賞を受賞、02年12月大韓民国褒賞を追叙された。京都大学での千野は清水善三助教授のもとで日本美術史を学んで古代中世絵画史を専攻し、京都在住の美術史家梅津次郎の指導を受けた。平安期の屏風絵や障子絵に見られる和歌と絵画に関心をもった千野は研究成果を卒業論文「新名所絵歌合」にまとめた。東京大学大学院では秋山光和教授に師事して大和絵の研究を進め、修士論文「神護寺山水屏風の研究」を提出。視野が広く発想の柔軟な千野の研究は刮目され将来を嘱望された。東京国立博物館資料部での千野は、資料第一研究室で『ミュージアム』など同館の出版物の編集を行うかたわら、86年度より始まった「館所蔵模写・模本類による原品復元に関する調査研究」の初年度に行われた「江戸城本丸等障壁画に関する調査研究」、87年度「古画類聚に関する調査研究」に携わった。その成果は特別展観「江戸城障壁画の下絵-大広間・松の廊下から大奥まで-」(1988年2~3月於同館東洋館)、『調査研究報告書江戸城本丸等障壁画絵様』(東京国立博物館 1988年)、『調査研究報告書古画類聚』(同 1990年)として公表された。88年1月から『茶道の研究』誌上に建築史家西和夫との「連論」形式の連載を始めた千野は、学習院大学に転出後、92年4月美術史学会東支部例会シンポジウム「絵画史料をどう読むか―建築史と美術史の立場、そして共通の視点―」を建築史学会と共催するなど、関連領域との交流を通じて美術史学のあり方を問うようになった。さらに欧米の状況に関心を向けた千野は「アメリカ合衆国における日本美術史研究の方法論に関する研究」をテーマに掲げ、ハーバード大学客員研究員として鹿島美術財団の「美術に関する国際交流の援助(海外派遣)」により92年9月より11月まで2ヶ月半米国に滞在した。同大学ではノーマン・ブライソン「フランス絵画における物語」、ジョセフ・カーナー「美術史の方法と理論」、エヴァ・ライヤーバーカート「フェミニスト理論と現代芸術」の講義を聴講するなど、90年頃に始まるニューアートヒストリーの潮流に接した。千野自身も「日本絵画における鑑賞者の役割と物語の構造」「日本の自己規定にみる性差(ジェンダー)、立場、他者―中国/日本、男性性/女性性―」を同大学で講演した。帰国後は93年1月の美術史学会東支部例会シンポジウム「フェミニズムと美術史」において「日本美術のジェンダー」を発表。以後、日本美術史にジェンダー批評を導入した議論を展開した。93年6月には美術史家鈴木杜幾子と共同でハーバード大学のブライソン教授を招聘して学習院大学で3回のセミナーを開催。95年3月には美術史家若桑みどり等とともにイメージ&ジェンダー研究会を発足させた。さらにポストコロニアル理論に関心を広げた千野は、国立民族学博物館の吉田憲司の主宰する共同研究「近代における「異文化」像の形成」(1995~97年度)、「近代日本の「異文化」像と「自文化」像の形成」(1998~00年度)に参加して、博物館の異文化展示を研究テーマとした。01年度からは自ら代表者を務めて共同研究「「伝統」の表象とジェンダー」を進めていた。吉田との共同研究がきっかけとなり千野はしばしば韓国を訪れるようになり、批評理論に関心をもつ韓国の研究者と交流した。98年10月に梨花女子大学校で開催された国際シンポジウム「身体と美術―記号学的アプローチ」では「醜い女はなぜ描かれたか―ジェンダーとクラスの観点からの分析」を発表して大きな反響を得た。大和絵研究から出発した千野は、80年代後半から学問の細分化や枠組みの問題を取り上げるようになり、90年以後は視覚表象のもつ社会的政治的側面に関心を向けた。特に後年は、現実社会の困難を解決する実践方法を求めて研究と批評を結び付ける努力をし、多くの発言と活発な活動を行った。また教育にも熱心に取り組んだ。01年12月の美術史学会東支部特別例会シンポジウム「中学校の歴史教科書における日本文化・美術の語られかた」の開催が最後の大きな仕事となったが、千野の急逝は各方面から惜しまれた。公正を重んじる誠実で穏やかな人柄は多くの人に慕われ、「お別れの会」(02年1月14日於学習院創立百周年記念会館)には1200人以上が参列した。なお、千野の旧蔵書は02年7月に韓国ソウル市の国立中央博物館の所蔵となった。 編著書 『名宝日本の美術11信貴山縁起絵巻』小学館1982 『フィクションとしての絵画―美術史の眼 建築史の眼』ぺりかん社1991(共著) 『日本の美術301伊勢物語絵』至文堂1991 『日本美術全集12南北朝・室町の絵画Ⅰ水墨画と中世絵巻』講談社1992(共編) 『岩波日本美術の流れ3 10-13世紀の美術 王朝美の世界』岩波書店1993 『日本美術全集13南北朝・室町の絵画Ⅱ雪舟とやまと絵屏風』講談社1993(共編) 『美術とジェンダー―非対称の視線』ブリュッケ1997(共編) 『女?日本?美?―新たなジェンダー批評に向けて』慶應義塾大学出版会1999(共編) 『日本の美術416西行物語絵』至文堂2001 『岩波講座近代日本の文化史』岩波書店2001~(編集委員) 主要論文・論説 「「西行物語絵巻」の復原的考察」『仏教芸術』120、1978 「神護寺蔵「山水屏風」の構成と絵画史的位置」『美術史』106、1979 「日高川草紙絵巻にみる伝統と創造」『金鯱叢書』8、1981 「日本の絵を読む―単一固定視点をめぐって」『物語研究』2、1988 「滋賀県立近代美術館蔵・近江名所図屏風の景観年代論について」山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館1989 「春日野の名所絵」秋山光和博士古稀記念論文集刊行会編『秋山光和博士古稀記念美術史論文集』便利堂1991 「建築の内部空間と障壁画―清涼殿の障壁画に関する考察」大河直躬ほか編『日本美術全集16江戸の建築1彫刻』講談社1991 「大学院生とのセミナー報告 ノーマン・ブライソン教授と「新しい美術史学」の模索―ジェンダー・国家・セクシュアリティ」『月刊百科』376、1994 「日本美術のジェンダー」『美術史』136、1994 「女を装う男―森村泰昌「女優」論」『森村泰昌 美に至る病―女優になった私』展図録、横浜美術館、1996 「嘲笑する絵画―「男衾三郎絵巻」にみるジェンダーとクラス」伊東聖子ほか編『女と男の時空 日本女性史再考2おんなとおとこの誕生―古代から中世へ』藤原書店1996 「日本の障壁画にみるジェンダーの構造」『美術史論壇』4、1996 「支配的・権力的な「視線」の意味を問い、美術史のパラダイムチェンジをはかる」『別冊宝島』322、1997 「醜い女はなぜ描かれたか―中世の絵巻を読み解く「行為体」とジェンダー」『歴史学研究』増刊号、1999 「戦争と植民地の展示―ミュージアムの中の「日本」」栗原彬ほか編『越境する知1身体―よみがえる』東京大学出版会2000 「「伊勢物語」の絵画―「伝統」と「文化」を呼び寄せる装置」 『特別展 伊勢物語と芦屋』図録、芦屋市立美術博物館、2000 「希望を身体化する―韓国のミュージアムに見る植民地の記憶と現代美術」『神奈川大学評論』39、2001 「視覚的に歴史の隠蔽をはかる」『別冊歴史読本』87、2001 「「ナヌムの家」歴史観から、あなたへ」ナヌムの家歴史館後援会編『ナヌムの家歴史館ハンドブック』柏書房2002 なお、論著の検索には『イメージ&ジェンダー』3(02年11月)収載の亀井若菜編「千野香織さんの一覧」がある。 

本間正義

没年月日:2001/10/10

読み:ほんままさよし  ながらく美術館の運営に携わり、美術史研究、美術評論でも多くの業績を残した本間正義は、10月10日膵臓がんのため死去した。享年84。1916(大正5)年12月25日、新潟県長岡市に生まれる。1940(昭和15)年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年12月応召。中国各地に渡り、終戦後の46年6月に復員した。49年11月から53年9月まで埼玉大学文理学部助手として勤務した。同年同月より国立近代美術館調査員に任命され、57年10月より同美術館事業課研究員となった。63年3月には同美術館事業課長となり、69年7月からは同美術館次長に昇任した。77年、国立国際美術館の初代館長となる。81年に同職を辞した後、82年から1991(平成3)まで、埼玉県立近代美術館長を歴任した。この間、文化庁保護審議会臨時委員をはじめ、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館の評議員会評議員、公私立美術館の各種委員をつとめた。また、68年の第1回インド・トリエンナーレ展、71年の第9回リュブリヤナ国際版画ビエンナーレ展、同年の第11回サンパウロ・ビエンナーレ展など、国内外の展覧会の審査員をつとめた。85年から90年まで、全国美術館会議副会長をつとめた。旺盛な美術評論活動のほか、美術史研究の面では、「天平時代絵師考」(『国華』732号から735号、1953年)など仏教美術研究から発して、近代日本の彫刻にも視野をひろげ、「平櫛田中の芸術」(『平櫛田中彫琢大成』講談社 1971年)、『近代の美術16 円空と橋本平八』(至文堂 1973年)などの業績がある。とくに、橋本平八研究では、造形主義的な近代美術研究に対して、円空から影響をうけた、アニミズムの視点がユニークで、近代美術にながれる水脈に焦点をあてたことは評価される。ほかに、『近代の美術3 日本の前衛美術』(至文堂、1971年)など、大正期の前衛美術研究についても先駆的な業績を残した。88年には、それまでの執筆してきた作家論と広範な視野にたって論じた展覧会、美術館の問題をめぐる評論文をまとめて、『私の近代美術論集』(全2巻 美術出版社)を刊行した。

堀池春峰

没年月日:2001/08/31

読み:ほりいけしゅんぽう  日本仏教史の研究者で東大寺史研究所長あった堀池春峰は8月31日午前9時、骨盤内腫瘍のため奈良市内の病院で死去した。享年82。1918(大正7)年12月8日、代々東大寺の会計を務めた「小綱(しょうこう)」の家系堀池家に長男として生まれる(本名は義也)。1936(昭和11)年3月、奈良県立奈良中学校を卒業。同年4月6日、雲井春海東大寺管長のもと得度、春峰と改名する。翌年2月には東大寺小綱職となり、80年までほぼ毎年、同寺二月堂の修二会(お水取り)に出仕。物資不足の戦中戦後にも用度担当者として資材の確保に尽力し、行の中断を防いだ。40年、雑誌『華厳』の編集委員となる。同年3月、修二会参籠中に応召されるが、7月、傷病し、除隊。48年3月、京都大学文学部国史学専攻卒業。同年4月、京都大学文学部大学院(旧制)に入学。51年、文化財保護委員会の依嘱により、京都市・滋賀県・和歌山県・奈良県の寺院所蔵の仏典・文書の調査に従事(65年7月まで)、現在の聖教調査の基礎をつくりあげるとともに、高山寺、醍醐寺といった近畿古刹の古文書研究で業績を残した。52年4月、奈良県綜合文化調査委員、53年4月、奈良国立文化財研究所の非常勤調査員(2001年3月まで)、61年5月、東大寺図書館司書、66年、奈良市文化財審議委員・東寺百合文書査定委員、1989(平成元)年、奈良文化財委員を兼務し、奈良国立博物館評価委員をたびたび勤めた。また、関西大学文学部非常勤講師(1964、66~68年)、奈良女子大学文学部非常勤講師(1965年)、奈良大学文学部客員教授(古文書学、1970~88年)を歴任した。85年には東大寺史研究所長に就任。この間、65年に全真言宗文化賞を受賞、77年には『古代朝鮮・日本仏教文化交渉史の研究』で朝日新聞文化賞を受賞する。2000年には文化財保護法五十年特別功労者文部大臣表彰を受けた。著書・編著に大著『南都仏教史の研究(上・下)』(法蔵館 1980・82年)のほか、『東大寺』(京都印書館 1945年)、『東大寺遺文(一~八)』(東大寺図書館 1951~56年)、『公慶上人年譜聚英』(東大寺 1954年)、『重源上人の研究(続)』(南都仏教研究会 1955年)、『聖武天皇御伝』(東大寺 1956年)、『高山寺遺文抄』(私家版・田中稔との共編 1957年)、『東大寺図書館蔵宗性・凝然写本目録』(東大寺 1959年)、『東大寺国宝重文善本聚英』(東大寺図書館 1968年)、『唐招提寺古経選』(中央公論美術出版 1975年)、『東大寺お水取り二月堂修二会の記録と研究』(小学館 1985年)、『霊山寺菩提僧正記念論集』(霊山寺 1988年)、『東大寺文書を読む』(思文閣出版 2001年)があり、学術論文には「法華堂地蔵菩薩像についての一考察」(『美術研究』166)、「法華堂の旧不動明王像について―椿井仏師と高天仏師―」(『大和文化研究』三-六)ほか100以上に及ぶ。

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