本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





服部亮英

没年月日:1955/09/28

光風会会員服部亮英は、肝臓癌のため東京都大田区の自宅で死去した。享年68。明治20年9月16日三重県河芸郡に生れた。大正3年東京美術学校西洋画科を卒業、同5年から7年まで東京日日新聞、同8年から9年までやまと新聞及び新愛知新聞、同10年から12年まで東京朝日新聞に、それぞれ漫画家として在社した。大正14年帝展に初入選し、爾来毎年入選して無鑑査となつた。昭和3年光風会会員となり、この年春シベリア経由渡欧、フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリスを巡遊し、同4年帰国した。この間、サロン・ドウトンヌに出品した。同8年中国に遊び、さらに同11年から14年にわたつて北京美術学校に在職した。

荒井龍男

没年月日:1955/09/20

モダンアート協会会員荒井龍男は、膀胱癌のため東京大学病院小石川分院に入院中9月20日急逝した。享年51。明治38年大分県中津市に生れた。昭和8年パリに遊学し、サロン・ドオトンヌ、サロン・チュイレリーに出品した。同12年自由美術家協会の創立に参画し、長い間同会に発表したが、同25年同志とモダンアート協会を創立してその会員となり、また国際美術家協会委員となつた。同27年アメリカに渡り、紐育リバーサイド美術館に於いて個人展覧会を開き、翌28年にはパリのギャラリー・クルーズに於て、さらに29年にはブラジルのサンパウロ近代美術館に於いて個人展覧会を催し、同美術館に大作4点が収蔵された。30年には再度サンパウロ美術館に個展を開き、また同地のビエンナーレ展の日本代表に選ばれた。この年帰国、東京京橋のブリヂストン美術館に於いて個展を開催したが、膀胱癌手術の結果悪く、急死したものである。彼は終始前衛絵画のためにつくしたが、その早逝は惜しまれる。

菊池契月

没年月日:1955/09/09

京都日本画壇の長老で日本芸術院会員、帝室技芸員、京都市立美術大学名誉教授、京都市名誉市民であつた菊池契月は脳塞栓のため9月9日午後7時10分、京都市の自宅で死去した。享年75歳。本名完爾。明治12年長野県下高井郡に細野勝太郎の次男として生れた。13、4歳頃から画を好み児玉果亭について学んだが、画家となることを家人に反対され、明治29年親友の町田曲江とともに郷里を出奔して京都に赴いた。京都でははじめ南画系の内海吉堂に師事したが、師の吉堂はその画才の秀れていることと南画系にふさわくないことを見ぬいて自ら、四条派の系統をひいて当時著名であつた菊池芳文の門に送つた。芳文の塾に入つてからは急速にその才能を伸ばし、明治31年第4回新古美術品展に「文殊」を出品して褒状1等を、翌年第2回全国絵画共進会展に「資忠決死」によつて褒状1等を受けたのをはじめ、連年各種の展覧会に於いて受賞した。その後、芳文の長女アキと結婚、菊池家を嗣ぎ、明治40年文展が開催されてからは毎年出品、続けて賞を受け、華々しい活躍を示した。「供燈」「鉄漿蜻蛉」等はこの時期の代表的な作品である。大正7年には審査員に挙げられた。大正11年から約1年間英、仏、伊を中心に欧州を巡遊して帰朝、その後帝展に「立女」を発表、翌14年帝国美術院会員となり、また一方では菊池塾展を開いて毎年、清澄で気品の高い作品を次々と発表した。昭和に入つてその画風はますます円熟し、洗練されて「南波照間」「朱唇」「浬歯」等の優作を生み出している。七絃会、珊々会、春虹会等にも常に格調の高い作品を発表した。明治42年以来京都市立美術工芸学校、絵画専門学校に教鞭をとり、一時は学校長となつて絵画教育にも尽瘁、昭和25年には京都市立美術大学名誉教授の称号をうけた。昭和23年以後は病気のため制作は少くなり療養を続けていたが、遂に再起しなかつた。昭和29年京都市より名誉市民の称号を贈られ、名誉市民表彰規程により、9月23日京都市美術館において市民葬が行われた。略年譜明治12年 11月14日長野県下高井郡に細野勝太郎二男として生れる。名完爾。明治25年 この頃より児玉果亭に学ぶ。明治29年 町田典江とともに京都に出る。明治30年 内海吉堂に師事、後菊池芳文の塾に転じた。明治31年 第4回新古美術品展「文殊図」褒状1等。明治32年 第2回全国絵画共進会展「資忠決死」褒状1等。明治33年 第6回新古美術品展10年回顧展「聖徳太子遇飢人」3等賞銅牌。日本絵画協会日本美術院共催第9回絵画共進会「栲幡娘姫」褒状2等。明治34年 第7回新古美術品展「垓下別離」3等賞銅牌。明治35年 第8回新古美術品展「寂光院」2等賞銀牌。明治36年 第5回内国勧業博覧会「愴秋」3等賞銅牌。全国絵画共進会「閑話」2等賞銀牌。明治37年 第9回新古美術品展「落花」3等賞銅牌。明治38年 第10回新古美術品展「近藤重蔵」3等賞銅牌。明治39年 第11回新古美術品展「栄華」3等賞銅牌。菊池芳文の養嗣子となる。明治40年 第12回新古美術品展「姜詩妻」3等賞銅牌。第1回文展「春暖」。明治41年 第13回新古美術品展「故園の花」2等賞銀牌。第2回文展「名士弔喪」2等賞。明治42年 京都市立美術工芸学校教諭心得となる。第14回新古美術品展「達磨」2等賞銀牌。第3回文展「悪者の童」3等賞。明治43年 京都市立絵画専門学校助教諭となる。第4回文展「供燈」2等賞。明治45年・大正元年 第17回新古美術品展「木蓮」。第6回文展「茄子」3等賞。大正2年 第18回新古美術品展「煎茶人物図」。第7回文展「鉄漿蜻蛉」2等賞。大正3年 大正博覧会「媼」銅牌。第8回文展「ゆふべ」2等賞。大正4年 第9回文展「浦島」2等賞。大正5年 第10回文展「花野」、推薦。大正6年 第11回文展「蓮華」、推薦。大正7年 京都市立絵画専門学校教授となる。第12回文展「夕至」、審査委員。大正8年 第1回帝展「庭の池」、審査委員。大正9年 第2回帝展「少女」、審査委員。大正10年 第3回帝展「鶴」、審査委員。大正11年 欧洲へ外遊。大正12年 帰朝。日本美術展「水汲み女」。大正13年 第5回帝展「立女」、帝展委員。大正14年 帝国美術院会員となる。第1回菊池塾展「春風払絃」。大正15年・昭和元年 第2回菊池塾展「経政」。第7回帝展「赤童子」。昭和2年 第3回菊池塾展「敦盛」。昭和3年 沖縄地方へ旅行。第4回菊池塾展「女」。第9回帝展「南波照間」。御用画「若菜、着綿」。昭和4年 第5回菊池塾展「桜」。昭和5年 第6回菊池塾展「婦女」「麦」。第1回七絃会展「搗布図」「狗児」。ローマ日本美術展「菊」「聖徳太子影」。昭和6年 京都市立絵画専門学校長事務取扱、京都市立美術工芸学校長事務取扱となる。第7回菊池塾展「朱唇」。シャム日本画展「調馬」。昭和7年 京都市立絵画専門学校長兼同教授、京都市立美術工芸学校長となる。第8回菊池塾展「少女」。第3回七絃会展「柘榴」。昭和8年 京都市立絵画専門学校長を辞し教授専任となる。第9回菊池塾展「友禅の少女」。第4回七紘会展「涅歯」。昭和9年 帝室技芸員となる。京都市展「生暖」。第5回七絃会展「菊」「早苗」。第15回帝展「散策」。第1回珊々会展「北条時宗」。昭和10年 第1回春虹会展「旗手」。第2回珊々会展「松明牛」。第6回七絃会展「太子孝養図」。昭和11年 京都市立絵画専門学校教授を辞す。第7回七絃会展「吉法師、竹千代」。昭和12年 帝国芸術院会員となる。第3回春虹会展「遅日」。第3回珊々会展「朝爽」。第1回文展「麦拒」、審査員。第8回七絃会展「迦楼羅」。昭和13年 第3回京都市展「清水」。第2回文展「交歓」、審査員。第9回七絃会展「華」。昭和14年 第10回七紘会展「忠度」。昭和15年 第6回珊々会展「少年家康」。第11回七絃会展「吹奏」。昭和16年 第7回珊々会展「郭公」。第12回七紘会展「厳親」。昭和17年 第7回京都市展「紫★」。第8回珊々会展「観画」。満洲国建国10周年慶祝絵画展「孔雀鳩」。第13回七絃会展「樵翁」。日本画家報国会献納作品展「菊図」。昭和18年 関西邦画展「北政所」。第8回京都市展「小楠公弟兄」。昭和19年 第9回京都市展「萩」。昭和22年 法輪寺多宝塔天井画「龍」。七絃会復活展「彼岸」。昭和25年 京都市立美術大学名誉教授となる。昭和29年 京都市名誉市民の称号を贈られる。昭和30年 第2回薫風会展「不動」。9月9日没。

西村卓三

没年月日:1955/07/11

日展依嘱西村卓三は、7月11日京都市上京区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年47歳。明治41年1月29日画家西村五雲の二男として京都市に生れた。京都市立美術工芸学校を経て、京都市立絵画専門学校を卒業し、なお同校研究科に在籍し、また父五雲の画塾晨鳥社に於いて引続き業を修めた。昭和7年第13回帝展に「湖畔小景」が初入選し、次いで第15回帝展の「織工」が特選となつた。その後、新文展、日展にほとんど毎回出品し、昭和25年第6回日展以来日展依嘱となつた。その間、昭和10年京都市立美術工芸学校教員となり、同15年から24年に至るまで同校教諭として後進の指導にあたつた。京都日本画壇の中堅として将来を嘱目されたが、その急逝は惜しまれる。

新沼杏一

没年月日:1955/03/05

春陽会々員新沼杏一は、3月5日心臓麻痺のため逝去した。享年46歳。明治42年4月22日北海道に生れた。札幌第一中学校を卒業後上京、長谷川昇に師事すると共に春陽会研究所に学んだ。昭和6年はじめて春陽会に入選、その後毎回出品し、同11年春陽会賞を受け、同12年会友に推された。同18年から20年まで出征した。同22年春陽会々員に推挙され、同22年会務委員、研究所委員となつた。その初期の作品に「アッパッパの人達」「夜の果実店」「アクロバット」「ジンタ行進」「南瓜」があり、後の作品に「基本舞踏」(昭和25年連合展)等がある。

赤城泰舒

没年月日:1955/01/31

元文展審査員、光風会々員赤城秦舒は、1月31日脳出血のため東京都新宿区に於いて没した。享年66歳。明治22年6月30日静岡県駿東郡に生る。同37年一時神奈川県葉山に移り、翌年父の郷里福島県に帰住した。同39年出京して大下藤次郎の内弟子となり、水彩講習所と太平洋画会研究所に学んだ。同40年日本水彩画会研究所新設と共に同所に転じ、大正2年まで同会幹事をつとめながら修業した。明治42年第3回文展に「高原の朝」が初入選し、その後文、帝展、二科展、光風会展、日展等に多くの水彩画を出品した。大正2年同志と共に日本水彩画会を創立し、同7年には光風会々員に推され、昭和18年新文展の審査員となつた。また大正10年から長い間私立文化学院の教師をつとめ、昭和17年以来女子美術専門学校の講師となつて後進を指導するなど美術教育のためにもつくした。著書に「水絵の手ほどき」(昭和4年、博文館)がある。

権藤種男

没年月日:1954/12/23

元帝展、文展無鑑査権藤種男は、12月23日脳出血のため大分県立病院で逝去した。享年63。明治24年9月大分市に生れ、同45年東京美術学校図画師範科を卒業した。大正6年第11回文展に「驟雨の後」が初入選して以来文、帝展及び新文展に出品し、同9年第2回文展の「徒然」、昭和5年第11回帝展の「盛夏」は特選を受けた。官展のほか春台美術展にも出品した。その作風は、官学的な写実に終始した。第二次大戦後大分市に移り住み、大分県美術協会々長として郷土の美術につくした。主な作品大正6年 第11回文展「驟雨の後」。大正7年 第12回文展「初秋」。大正8年 第1回帝展「駒ケ岳の春趣」。大正9年 第2回帝展「徒然」(特選)。大正10年 第3回帝展「夕飼前」「梅雨霽」(無鑑査)。大正11年 第4回帝展「業」大正13年 第5回帝展「夏の朝」。大正14年 第6回帝展「釣堀」。大正15年 第7回帝展「夏日」。昭和2年 第8回帝展「秋郊」。昭和3年 第9回帝展「ダリヤ」。昭和4年 第10回帝展「清凉」。昭和5年 第11回帝展「盛夏」(特選)。昭和6年 第12回帝展「河畔」(無鑑査)。昭和7年 第13回帝展「庭の秋」。昭和88年 第14回帝展「海老網」。昭和9年 第15回帝展「高千穂峡」。昭和10年 第二部会展「樹下」。昭和11年 文展招待展「雨後の山」。昭和12年 第1回新文展「游鯉」。昭和13年 第2回新文展「樹下棋戦之図」(無鑑査)。昭和14年 第3回新文展「京城仁王山麓」(同)。昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展「徳寿宮後庭の五月」。昭和16年 「河野通有奮戦の図」(東京府養生館壁画)。昭和17年 第5回新文展「池の鯉」(無鑑査)昭和18年 「北清事変タークの占領」(海軍館壁画)昭和19年 戦時特別展「清姿」

福岡青嵐

没年月日:1954/12/11

青龍社社人福岡青嵐は12月11日老衰のため大阪府北河内郡の自宅で死去した。享年76歳。本名義雄。明治12年熊本県に生れ、同36年東京美術学校日本画科を卒業した。昭和2年大阪美術学校教諭となり、昭和8年「匠童語」を初めて青龍社に出品、同10年には社人にあげられ、以来没する年の秋まで同展に出品をつづけた。主に歴史的人物にモチーフをとり、抑揚をもつた一種くせのある筆勢は独特のもので、いわゆる青龍社調の中にあつて異彩を放つていた。戦前に於ける明恵伝の連作、また戦後淡白な傾向を深めた「コラコラ塚夜語」「逸勢の女」などその作風をよく示すものといえよう。主な作品昭和8年 匠童話 第5回青龍展出品。昭和9年 陶業 第6回青龍展出品。昭和9年 梅の大原 第2回春の青龍展出品。昭和10年 丙丁童子 第7回青龍展出品。昭和11年 光 第8回青龍展出品。昭和11年 洛中洛外 第4回春の青龍展出品。昭和13年 明恵伝 第10回青龍展出品。昭和13年 文芸所々 第6回春の青龍展出品。昭和14年 明恵伝(続) 第11回青龍展出品。昭和14年 宇治点雪・瀬田夕映(六曲一双) 第7回春の青龍展出品。昭和15年 明恵伝(続) 日観(右)苅磨島(中)月観(左) 第12回青龍展出品。昭和16年 明恵伝その四(完) 第13回青龍展出品。昭和16年 モラエス道人 第9回春の青龍展出品。昭和17年 蕃椒酒 第14回青龍展出品。昭和17年 機略 第10回春の青龍展出品。昭和18年 都史五節 第15回青龍展出品。昭和19年 明恵後伝 第16回青龍展出品。昭和20年 絵師良秀 第17回青龍展出品。昭和21年 奥の細道 第18回青龍展出品。昭和22年 吉野の西行 第19回青龍展出品。昭和23年 李白、陸羽 第20回青龍展出品。昭和24年 最初の伝道 第21回青龍展出品。昭和25年 桃源山市 第22回青龍展出品。昭和26年 コラコラ塚夜話 第23回青龍展出品。昭和26年 栂尾培茶 春の青龍展出品。昭和27年 逸勢の女 第24回青龍展出品。昭和27年 柿右衛門湖畔 春の青龍展出品。昭和28年 良寛と芭蕉 第25回青龍展出品。昭和29年 賀名生 賀名生遷幸、吉野より遷幸、小次郎松、梅月、記念の額 第26回青龍展出品。昭和29年 菜根譚 春の青龍展出品。

久保田金僊

没年月日:1954/10/09

日本画家久保田金僊は10月9日中野区の自宅で老衰のため死去した。享年80歳。名吉太郎。明治8年9月20日京都市下京区に、日本画家久保田米僊の次男として生れた。京都府画学校に学び、四条派を専攻したが、19歳の時父米僊と共に上京して芝に移つた。この年国民新聞従軍記者となり、日清戦争に派遣され、絵による戦況を報道した。日露戦争にも同様従軍し、明治41年には画の研究のため海外旅行を志し、単身渡米した。シヤトルで日本実業団の一行中松坂屋社長伊藤次郎左ヱ門に会い、同氏の秘書として3ケ月間全米を視察して帰国した。以来松坂屋百貨店に勤務、同社宣伝部長として55歳迄在籍したが、昭和21年より直腸癌をわずらい、以来長らく病床生活を送つていたが9日逝去した。文展、劇画展に出品し、また舞台装置、時代考証等においても知られていた。主な作品大正7年 蓬莱山図(六曲一双)。大正8年頃 歌舞伎座緞帳獅子の図(震災焼失)。昭和11年 黒谷方丈襖絵 虎の図。大正4年 「庭の一隅」第9回文展出品。大正7年 「夕づく日」第21回文展出品。昭和15年 近江神宮絵巻物、戦争絵巻8巻(日清一、日露二、上海一、北支一、中支一、南方二巻)明治27年より、昭和16年に至る「スケッチブック」を基とし、昭和21年より23年の2ケ年に亘り完成されたもの。

五味清吉

没年月日:1954/08/19

旧帝展、文展無鑑査五味清吉は、8月19日盛岡市の自宅で急性肺炎のため死去した。享年69。明治19年盛岡に生れ、大正2年東京美術学校西洋画科を卒業した。明治44年第5回文展に「秋のおとづれ」が初入選して以来、文、帝展に出品し、第7回文展の「ハチスとシオン」は特選となつた。展覧会以外の作品に、旧東京駅の壁画「窯業と染色、鉱業と植林」(田中良と合作)や明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「山形秋田巡幸鉱山御覧」などがある。

富田温一郎

没年月日:1954/07/15

日展審査員、白日会々員富田温一郎は、7月15日東京都台東区の自宅で胃癌のため逝去した。享年67歳。明治20年10月21日石川県金沢市に生れ、44年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。大正3年第8回文展に「大学校庭の初夏」がはじめて入選して以来、文、帝展に出品し、9年第2回帝展の「母の肖像」、昭和3年第9回帝展の「子供とその母」は特選となつた。大正13年中沢弘光などと白日会を結成し、終始この会のためつくした。また戦後日展審査員を数回つとめた。前記のほか、主な作品には「河口」(大正11年平和記念東京博覧会2等賞)、「業」(第3回帯展)、「静物を配せる裸婦」(第10回帝展)、「八月の椽」(第15回白日会展)、「炉辺」(第3回日展)などがある。その作風は、極めて穏和な外光派風であつた。

三宅克己

没年月日:1954/06/30

水彩画界の長老で光風会々員、目本水彩画会々員、日展出品委嘱者三宅克己は、かねて病臥中であつたが、6月30日老衰と慢性膀胱炎のため神奈川県足柄下郡の自宅で永眠した。享年80歳、明治7年1月8日徳島市に生れ、同23年大野幸彦に師事し、のち原田直次郎の鍾美館に学んだ。同30年アメリカに赴き、エール大学附属美術学校に於いて研鑚、のちイギリスに渡り製作し同32年帰朝した。この前後、明治美術会、白馬会に出品したが、はやくから水彩画を専門としてその普及につとめ、明治30年代のわが洋画壇に水彩画隆盛時代をつくつた。その後も度々欧米を巡歴して多くの作品を描いた。明治40年以後はその主な作品を文展に発表し、第2回展の「初冬」、第3回展の「湯ケ島」はいずれも3等賞、第9回展の「冬の小川」は2等賞を受け、大正14年以来屡々帝展の審査員をつとめた。明治45年中沢弘光、山本森之助等と光風会を創立し、これにも最後まで出品した。文筆にも長け、水彩技法書、旅行記など多く、また写真術の先覚者でもあつた。昭和26年多年の功労によつて、日本芸術院の恩賜賞を受けた。略年譜明治7年 1月8日、徳島市に生る。明治13年 一家を挙げて東京市日本橋区浜町に移転。明治23年 大野幸彦の画塾入門。明治25年 大野没後、原田直次郎の画塾に移る。明治26年 明治美術会に水彩画出品。明治30年 第1回渡米、工ール大学附属美術学校入学。明治31年 英国に渡つて画作。明治32年 帰朝、明治美術会に帰朝後の作品を出品、第4回白馬会に滞欧作品を出品、白馬会会員となる、結婚後長野県小諸に移る。明治33年 小諸を引払い、東京新宿に移る。明治34年 再渡欧、主として英仏に滞在。明治35年 婦朝、淀橋角筈に住む。第7回白馬会に「雨後のノートルダム」「セーヌ河畔」等出品。明治36年 「中学世界」「女学世界」「文章世界」等の雑誌に口絵を推き、水彩画絵葉書の流行に多忙をきわむ。明治38年 「水彩画手引」出版。明治39年 淀橋柏木に移る、「旅行とスケッチ」出版。明治40年 東京府勧業博覧会に「雲」「森の道」出品、第1回文展に「朝やけ」「奈良の杉」「雨あがり」出品、「水彩画指南」出版。明治41年 第2回文展に「初冬」「林」「湯ケ島の冬」を出品し、「初冬」3等賞を受く。明治42年 第3回文展に「湯ケ島」「夏の日」「札幌の牧場」を出品、「湯ケ島」3等賞を受く。明治43年 渡欧し、英、仏、白、和、独等各国を巡歴、第4回文展に「吉野山」「テームス河畔のウヰンゾル」出品。明治44年 帰朝、「欧州絵行脚」出版、第5回文展に「白耳義の田舎」「白耳義ブルーヂの町の橋」出品。明治45年 光風会を中沢弘光、山本森之助、杉浦非水、岡野栄、小林鐘吉、跡見泰等と創立し、第1回展を上野竹台陳列館に開き「秋景色」ほか13点出品、第6回文展に「曇り日」出品。大正2年 第2回光風会に「肥後玖摩川」ほか15点出品、第7回文展に「河岸」出品。大正3年 第3回光風会に「松の山」ほか12点出品、東京大正博覧会に「秋の山」「秋の渓流」出品、第8回文展に「冬の巴里」「白耳義の田舎」出品。大正4年 第9回文展に「冬の小川」出品、2等賞を受く、以後無鑑査となる。大正5年 第4回光風会に「夏景色」ほか8点出品、第10回文展に「夏の山」「夏景色」「午後の日」出品、推薦となる。大正6年 第5回光風会「秋色」ほか5点出品、第11回文展に「夏」出品、「水彩画の描き方」「写真のうつし方」出版。大正7年 第6回光風会に「河岸」ほか8点出品、第12回文展に「諏訪の森」「落合村」出品。大正8年 第7回光風会に「河岸の雪」ほか9点出品、第1回帝展に「牧牛」「水郷」出品、第4回目の渡欧、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ等を巡遊。大正9年 第8回光風会「牛堀雨の日」ほか5点出品、第2回帝展「奈良」出品。大正10年 第9回光風会「白耳義ブルーヂュ魚市場」ほか5点出品、第3回帝展「羅馬コンスタンチン凱旋門」「自壁の家」出品、「欧州写真の旅」出版。大正11年 平和記念博覧会「棕櫚と八ツ手」出品、第4回帝展「残雪」「多摩川上流」出品、「欧州風景画集」出版。大正12年 第10回光風会「霜の朝」「朝の光」出品、「私の写真」出版、第5回渡欧。大正13年 第11回光風会「呉服橋附近」「秋のミユンヘン」ほか8点出品、帝展委員となる、サロン・ドートンヌに「サンタ・バーバラの食堂」入選。大正14年 第12回光風会「ブルージの町」ほか9点出品、第6回帝展「カーニュの寺」「ラ・サール・ア・マンジェ・ド・エルパソ・サンタ・バーバラ」出品。大正15年 帰朝、神奈川県に新居を定む、第13回光風会「パリーのある町」ほか8点出品、帝展審査員となる、第7回帝展「お寺の下道」「南仏蘭西の夏」出品。昭和2年 第14回光風会「相模湾」ほか4点出品、渡米、第8回帝展「南欧のある村」「相模湾」出品。昭和3年 第15回光風会「画室の窓より」出品、第9回帝展「夏の緑」出品。昭和4年 第10回帝展「サンデーゴ郊外の冬」出品。昭和5年 第17回光風会「伊豆半島」ほか7点出品、第11回帝展「秋」出品。昭和6年 第18回光風会「下宿屋の裏庭」ほか9点出品、第21回帝展「相州吉浜田の端遠望」出品。昭和7年 第19回光風会「朝の海」ほか3点出品、第13回帝展「森の道」出品。昭和8年 第20回光風会「相模湾の午後」ほか6点出品、第14回帝展「箱根双子山」出品、「写真機さげて欧米へ」「籠の中より」出版。昭和9年 第21回光風会「雪の日」ほか4点出品。昭和10年 第22回光風会「海と山」ほか4点出品、第二部会「十国峠の雲」「妙義山」出品。昭和11年 文展招待展「十国峠遠望」出品、第23回光風会「日吉台の雪」ほか1点出品。昭和12年 第24回光風会「信濃の夏」ほか2点出品、第1回文展「日本アルプスの初夏」出品。昭和13年 第25回光風会「南フランス風景」ほか2点出品、第2回文展「伊豆の海岸」出品、「思ひ出づるまま」出版。昭和14年 第3回文展「芦の湖」出品。昭和15年 第27回光風会「北国の冬」ほか1点出品、二六〇〇年奉祝展「水郷」出品。昭和16年 第28回光風会「アヴイニヨン」ほか1点出品、第4回文展「渓流」出品。昭和17年 第29回光風会「伊勢外苑」ほか1点出品、第5回文展「琵琶湖の雨」出品。昭和18年 第30回光風会「星月夜」回顧特陳4点、第6回文展「蘇州城」出品。昭和19年 第31回光風会「風景」ほか1点出品。昭和21年 第1回日展「サンデゴーの初夏」出品。第2回日展「二タ股街道」出品。昭和22年 第33回光風会「多摩川の支流」ほか1点出品、第3回日展「夕暮れ時」出品。昭和23年 第34回光風会「上州妙義山」出品、第4回日展「京都郊外岩倉村」出品。昭和24年 第5回日展「湯ケ島の秋」出品。昭和25年 第36回光風会「ルクサンブール公園の初秋」出品、第6回日展「川治の山峡」出品。昭和26年 第37回光風会「桂川」ほか2点出品。恩賜賞を受く。第7回日展「深淵」出品。昭和27年 第8回日展「会津磐梯山」出品。昭和28年 第39回光風会「モレー風景」ほか2点出品、第9回日展「収穫」出品。昭和29年 6月30日逝去。第10回日展「伊豆片瀬の浜」遺作出品。

宅野田夫

没年月日:1954/06/26

南画家宅野田夫は6月26日病気療養中、港区の自宅で永眠した。享年59歳。本名清征。明治28年4月19日福岡県に生れた。大正3年本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事した。同5年中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、同8年呉昌碩、王一亭に南画を学んだ。同10年第3回帝展に「大滌子石涛和尚」を出品したほかは、主として個展によつて作品を発表した。昭和6年には宮内省の依嘱によつて、「菊花御紋章の形状研究」を雑誌「大日」に発表し、同10年大日本新聞社を創設した。

佐藤哲三

没年月日:1954/06/25

国画会々員佐藤哲三は6月25日新潟県新発田市の自宅に於いて白血病のため没した。亨年44歳。明治43年新潟県長岡市に生れ、小学校卒業後独学にて学び、第7回国画創作協会展に初入選以来専ら国展に出品し、昭和5年第5回国画展の「赤帽平山氏」、第6回展の「郵便脚夫宮下君」はともに国画奨学賞、同7年第7回展の「大道商人」「汽関車」はO氏賞を受け、会友となり、第8回展に「コンストラクション」を発表した。昭和12年同人となり、同18年会員に推された。代表作に「農婦」(第15回国展)、「稲」(第16回国展)、「クンセイ」(第17回国展)、「原野」(第25回国展)、「残雪」(第26回国展)「裸婦」(第28回国展)などがある。

望月省三

没年月日:1954/05/27

文展無鑑査、日本水彩画会、双台社会員の水彩画家望月省三は数年来リユウマチスをわずらい病臥中のところ、5月27日逝去した。享年64歳。明治23年栃木県に生れ、日本水彩研究所に学び、日本水彩画展、双台展、官展等に、主として水彩による風景画を出品、堅実な作風をみせていた。官展出品の主なものに、大正3年第8回文展「野ばら咲く道」、同9回「房州の或る村」、同12回「Madam Karina」、大正8年帝展第1回「小湾の初秋」、同5回「湖畔の夕雲」、同8回「初秋の夕晴」、10回「港」、招待展「高原の秋」。昭和12年新文展第1回では「赤城の秋」、2回に「霊峰」(庚甲山)、3回「八甲田の夏」、奉祝展「山湖一望」、第5回「秋晴の朝」、戦時特別展に「稲刈」、日展第7回に「高原の立木」等がある。

鈴木栄二郎

没年月日:1954/05/27

光風会々員鈴大栄二郎は、交通事故のため急逝した。享年44歳。明治43年5月29日東京浅草に生まれ、京華中学校卒業後、川端画学校に学んだ。はじめ光風会に出品して認められ、のち官展に出品、昭和11年文展新人展の「草丘」は特選となつた。同12年以来日華事変、太平洋戦争に従軍した。同19年同志と武蔵野会を結成し、同22年新樹会の創立に加わつて会員となり、日展、光風会、新樹会等に溌刺たる風景画を発表して将来を嘱目されていた。略年譜明治43年 東京市浅草区に生る。昭和3年 京華中学校卒業、川端画学校に学ぶ。昭和6年 第18回光風会展に「松戸附近」ほか2点初入選、光風賞を受く。昭和7年 第19回光風会展に「樹間風景」ほか3点入選、光風賞を受く。昭和8年 第20回光風会展に「裸樹群立」ほか3点入選F氏奨励賞を受く、光風会々友に推薦され以後毎回出品を続ける。昭和9年 第15回帝展に「市川早春」初入選す。昭和10年 第二部会展に「奥利根の春」入選す。昭和11年 文展鑑査展に「草丘」を出品、選奨を受く。昭和12年 光風会々員、日本水彩画会々員に推さる。第1回文展に「渚」入選す。11月従軍画家として中支に出征す。昭和13年 中支派遣軍の従軍画家として中支、蘇州、杭州、南京へ赴く。昭和14年 北支に旅行、太原、北京等を巡歴、第3回文展に「雪中猟人」入選す。昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展に興亜院の依嘱を受け「北京街頭防疫班」を出品、昭和洋画奨励賞を受く。昭和16年 3月台湾へ写生旅行、第4回文展に「狩猟家」入選す、11月徴用され、比島派遣軍報道班員として比島へ渡る。昭和17年 10月比島より帰還、第5回文展に「雨後のマニラ城内」入選す。昭和18年 第6回文展に「バランガ戦跡」入選す、文展無鑑査に推薦さる。昭和19年 3月武蔵野会を同志と起す、5月応召し、武漢地区岳州方面に赴く。昭和20年 戦災のため池袋のアトリエ焼失し、全作品を失う。昭和21年 5月復員す、第2回日展に「ふるさとの家」出品(政府買上)、特選を受く。昭和22年 第3回日展、無鑑査「立秋」出品、同志と新樹会を創立す。昭和23年 日展第二科へ出品を依嘱され、第4回日展に「夕月」出品。昭和24年 日本山岳画協会会員に推さる、第5回日展に「緑の工房」出品。昭和25年 第6回日展に「奥多摩」出品。昭和26年 第7回日展に「街道筋の秋」出品。昭和27年 国際観光美術協会会員に推さる、9月個展を光風会美術会館にて開催す、第8回日展に「信州金沢村の秋」出品。昭和28年 第9回日展に「佐渡の寺にて」出品。昭和29年 4月第40回光風会展に「アタミ山手」「アタミ全望」「マナヅルの家並」を出品、光風相互賞を受く。5月27日交通事故にて急死す。

前田真一

没年月日:1954/04/28

太平洋画会委員前田真一は4月28日脳出血のため東京都世田谷区の自宅で没した。明治34年東京に生れ、大正10年太平洋美術学校に入学、中村不折、満谷国四郎等の指導を受け、同14年卒業した。間もなく同校の指導員となり、昭和7年同校講師、同11年から17年まで教授をつとめた。太平洋画会展のほか、旧帝展、新文展、日展に出品した。

清水良雄

没年月日:1954/01/29

元帝展審査貴、光風会々員清水良雄は、1月29日広島県芦品郡で逝去した。享年63歳。明治24年東京に生れ、大正5年東京美術学校西洋画科を卒業した。同2年第7回文展の「調べの糸」をはじめ、連年文展に出品し、同6年第11回文展の「西片町の家」、同7年第12回文展の「二人の肖像」は共に特選となつた。同8年帝展となつてからも、その第1回展の「梨花」、11年第4回展の「肖像」によつて特選を受け、同14年以後屡々帝展審査員をつとめた。昭和2年光風会々員に推された。同20年4月以来広島県下に疎開し、終戦後は製作のかたわら地方文化の向上につとめ、同25年には広島大学の講師となつた。代表作には、前記のほか「兄妹」(第5回帝展)、「斜陽」(第11回帝展)、「少年」(第13回帝展)、「わが菜園」(戦時美術展)などがあり、その作風は典型的な官学風を守つていた。なおその遺志によつて、その主要作品と共に、遺産の大部分が東京芸術大学に寄贈され、これによつて記念財団が設立された。

狩野光雅

没年月日:1953/12/17

日本画家狩野光雅は昭和28年12月17日死去した。享年55歳。本名政次郎。明治30年和歌山県に生れ、大正8年東京美術学校日本画科を卒業、松岡映丘に師事した。同10年新興大和絵会結成に際して、これに参加し、解散まで出品をつづけ、主なものに「雨後落日」(3回)、「清晨静境」(5回)、「高野草創」(7回)等があり、昭和6年より帝展に作品を発表し、第12回帝展「紀ノ国の春」、第14回「飛爆」(特選)、昭和11年鑑査展に「雨後」等がある。昭和13年国画院結成に参加し、第1回展に「冬の陽ざし」(二曲半双)を出品した。作品はその経歴にみられる通り、伝統的大和絵画法を用い、壮大なモチーフを扱つて、追力ある力強い表現をみせた。

赤松麟作

没年月日:1953/11/24

関西洋画界の元老であつた赤松麟作は11月24日、大阪市天王寺区の自宅で喘息のため逝去した。享年75歳。岡山県津山に生れ、東京美術学校西洋画科選科を卒業、更に研究所に学んだのち、三重県や和歌山県の中学教員を暫くつとめた。この間、白馬会出品の「夜汽車」が白馬会賞となり注目をうけた。その後は大阪朝日新聞に勤務、或は大阪市立工芸学校、関西女子美術学校に勤める傍ら、文・帝展に出品をつづけ、つねに関西洋画壇の育成に尽力し、晩年には大阪府より知事文芸賞をうけた。略年譜明治11年 1月20日、岡山県津山に生れた。明治29年 東京美術学校西洋画科選科に入学。明治32年 同校卒業、更に同校研究科に学ぶ。明治33年 同研究科退学、三重県第一中学校教員となる。明治35年 白馬会展に「夜汽車」を出品、白馬会賞をうけた。明治36年 和歌山県新宮中学校教員となる。明治37年 大阪朝日新聞社に入社、紙上に挿絵執筆。明治41年 第2回文展に「迷子」初入選。明治43年 大阪梅田に赤松洋画研究所を開いた。明治44年 第5回文展に「午後三時」を出品褒状となつた。大正2年 第7回文展に「おきな」「鶏と子供」を出品、前者は褒状となつた。大正4年 朝日新聞社を退社。大正7年 光風会々員昭和2年 大阪市立工芸学校教員となる。昭和7年 帝展無鑑査となる。昭和11年 この年からは新文展に出品を続けた。関西女子美術学校教授となる。光風会退会。昭和12年 明治記念館壁画「明治天皇津村別院行幸図」を完成した。昭和15年 大阪市美術展覧会審査員となる。昭和16年 関西女子美術学校々長となる。昭和20年 大阪市立美術研究所教授。昭和23年 大阪府より知事文芸賞をうけた。昭和28年 11月24日、大阪市天王寺区の自宅で逝去。享年75歳。

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