本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





前田荻邨

没年月日:1947/01/19

京都市立美術専門学校助教授、晨鳥社同人、前田荻邨は1月19日京都市上京区寺町今出川の自宅に於て心臓麻痺で死去した。享年53。本名を八十八といい、明治28年兵庫県に生れた。大正5年京都市立美術工芸学校、同8年京都市立絵画専門学校、同10[※11とあるのを10に修正してある]年同校研究科を卒業した。なおこの間西村五雲画塾に学んだ。第2回展以後引続き帝展に作品を発表し、昭和6年第12回展の「潮」は特選となり、同9年には帝展推薦となつた。新文展以後は無鑑査として活動を続け、西村五雲の門弟により組織されている晨鳥社の総務を勤めていた。他方京都市立美術学校教諭、京都市立絵画専門学校助教授として教育面に力を尽していた。

濱田葆光

没年月日:1947/01/18

二科会員濱田葆光は1月18日奈良市の自宅で脳血栓症のため死去した。享年65才。明治19年高知に生れ、中村不折、満谷国四郎に師事した。はじめフユーザン会や院展洋画部に作品を発表していたが大正5年第3回二科展で樗牛賞を授けられ、以来二科に出品を続け昭和7年第19回展に会員に推された。大正10年から12年にかけ外遊した。住居の関係からか主として鹿を題材とした装飾画風の絵を二科展に出陳、奈良風景と鹿の画家として著名であつた。全関西洋画協会の特別会員でもあつた。

牧野虎雄

没年月日:1946/10/18

洋画家牧野虎雄は10月18日四谷区の自宅で死去した。享年57。明治23年12月15日新潟県高田市に牧野藤一郎二男として生れた。41年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二、黒田清輝の指導を受け同校の特待生となり、在校中第6回文展に「漁村」「朝の磯」の2点が初入選となり早くも頭角を現わした。大正2年に同校を卒業続いて研究科に入つた。以後官展に出品、昭和10年帝展改組以来は審査員も辞し出品も中止した。大正13年槐樹社を起し昭和6年同社解散迄は専ら同展により作品を発表した。又昭和5年に六潮会を起し、これにも毎年出品、昭和6年槐樹社解散後は門下生を率いて旺玄社を創立、後進を指導する傍ら同展により作品を発表した。尚昭和4年帝国美術学校洋画科教授となつたが、同10年に辞し、続いて多摩帝国美術学校の創立に尽力、同校洋画科主任教授を勤めていた。大正初め、初期の作品は重苦しい暗色を多く用いていたが、後、明色による明るい平明な画面となり、晩年は日本画の平面的な表現を取り入れ独自の様式化をみせていた。略年譜明治23年 12月15日、新潟県高田市に牧野藤一郎二男として生る。明治41年 東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝、藤島武二の指導を受けることとなる。大正元年 在学中、第6回文展に「漁村」「朝の磯」初入選。大正2年 東京美術学校を卒業、更に同校研究科に入る。大正3年 第8回文展に「満潮」「汐浴み」入選。大正4年 第9回文展出品の「紅葉の下湯」は3等賞を受く。大正5年 第10回文展出品の「渓流に水浴」は特選となる。大正6年 第11回文展「山間の初夏」出品、無鑑査となる。大正7年 第12回文展に「山懐の秋色」「麦扱く農婦等」を出品後者は特選となり、又巴里日本美術展にも出品した。大正8年 帝国美術院創設と共に洋画部推薦となる。第1回展には「庭」「着船場」を出品す。国民美術協会第5回展に「浮雲」を出品。7月、安宅安五郎 片多徳郎、田邊至等20名と共に新光洋画会を起した。大正9年 第2回帝展に「花苑」「磯」を出品。大正10年 第3回帝展に「中庭」「燈台の朝」出品。大正11年 第4回帝展洋画部審査員となる。「百日紅の下」「園の花」出品。大正13年 槐樹社を起す。第5回帝展に「梧桐」「凧揚」出品。大正14年 第6回帝展に「春去らんとす」出品。大正15年 第7回帝展に「罌粟」「裸婦」を出品。昭和2年 第8回帝展に「晩き夏」「向日葵風景」出品。昭和3年 第9回帝展に「南の部屋」出品。昭和4年 第10回帝展に「向日葵」を出品。帝国美術学校洋画科教授に就任。昭和5年 第11回帝展に「へちま」出品。木村荘八 福田平八郎、山口蓬春等と共に美術に関する諸般の研究、及毎年展覧会開催の目的を以て六潮会を創立す。昭和6年 第12回帝展に「白閑鳥」出品。槐樹社解散す。昭和7年 第13回帝展に「村の娘達」出品。門下生を率いて旺玄会を創立す。昭和8年 第14回帝展に「麦秋」出品。昭和9年 第15回帝展に「秋近き浜」出品。昭和10年 帝展改組以来は審査員の交渉を受けたが応ぜず、出品もしなかつた。帝国美術学校教授を辞し、多摩帝国美術学校設立者の一人として尽力し、同校洋画科主任教授となる。11月、初期から現在に至る迄の代表的作品120余点を陳べ、大阪朝日会館にて個展を催す。昭和13年 12月銀座三昧堂で個展(小品20余点)開催。昭和15年 3月資生堂ギヤラリーにて日本画展開催。昭和21年 8月「朝顔図」に着手、9月5日頃完成。10月18日没。

山本鼎

没年月日:1946/10/08

洋画家山本鼎は長野県の疎開先で腸閉塞のため10月8日没した。享年65。山本鼎は東京美術学校洋画科在学中、級友森田恒友と常に首席を争つた位で、早くから油彩技術には頭角を現し、渡欧後は一そう優れた技術を示し、院展洋画部、春陽会、官展等で活躍したが、画風からいへばアカデミツクな系統に立つ作家であつた。又明治の末、創作版画の運動を起し、のち日本創作版画協会を結成、現代版画発生の端緒を作つた外、欧州留学後は農民美術や自由画運動を起し、多方面に功績を残した。然し、洋画家として最後迄油絵を描きつづけた人で、晩年も尚「時化の朝」などの濶達適確な描写による優れた代表的作品を残している。略年譜明治15年 10月14日愛知県岡崎市に生る。父山本一郎(医師)長男。明治19年 森鴎外の許に入門していた父を尋ねて母と上京。三河島に住む。明治25年 11才。西洋木版家櫻井氏の内弟子となる。明治33年 櫻井氏の許を離れ、独立して報知新聞に入社す。明治39年 東京美術学校西洋画科選科卒業。森田恒友と同期。明治40年 26才。雑誌「方寸」を石井柏亭、森田恒友、小杉未醒等と発行。この頃から又、パンの会等にも関係す。42年頃、油絵「柿日和」の作などあり。大正元年 渡欧。大正5年 ロシアを経て帰朝。大正6年 日本美術院洋画部同人となる。第4回院展に滞欧作10数点を出品。9月、北原白秋の妹、家子と結婚。大正7年 戸張孤雁と共に日本創作版画協会を起す。第5回院展に「ナチユールモルト(一)(二)」「トマト」「夏の山」「温泉路」を出品。大正8年 長野県小県郡に日本農民美術研究所設立。第6回院展に「町長の肖像」「ダリヤの花」大正9年 第7回院展に「ブルトンヌ」を出品。この年日本美術院を脱退。大正10年 自由学園創立と同時に美術部教授となる。大正11年 春陽会の創立に加わり会員となる。大正12年 春陽会第1回展に「唐松の港」出品。大正13年 台湾に旅行。「台湾の女」大正14年 春陽会第4回展に「松林」「梅(一)(二)」「台湾の少女」出品。昭和2年 春陽会第5回展に「独鈷山雪景」「雪の常楽寺」出品。昭和3年 春陽会第6回展に「温泉場即興」出品。昭和4年 春陽会第7回展に「から松山」を出品。昭和5年-昭和7年 春陽会に出品作なし。昭和8年 春陽会第11回展に「ばらの花」「卓上薔薇」「白菜と玉葱」「アルプスの農家」出品。昭和9年 春陽会第12回展に「朝鮮の壺へ活けた花」「朝の白馬山」「菊」「盆栽のつつじ」「メノコのクロツキー」「海」出品。昭和10年 春陽会第13回展に「大瀬即興」「白菜図」「読書」出品。7月日動画廊で近作展を開催。熱海風景など10数点を出品。この年、帝国美術院改組に際し、帝国美術院参与に推され、山崎省三、前川千帆等と春陽会を退会す。9月山崎省三等身辺の人と催青会を設立。昭和11年 5月、日動画廊で個展を開催小品等約30数点を出品。文展招待で「多瓜」出品。昭和12年 第1回文展に「園長の像」三越洋画小品展に「雪ふる海」出品。昭和13年 3月、日動画廊で個展開催、近作サムホールを出品。昭和15年 1月、日本橋三越で新作油絵の個展を開催「カトレヤ」他20数点を出品。紀元二千六百年奉祝展に「時化の朝」出品。昭和16年 第4回文展に「霧の湖畔」、9月仏印巡回展に「雪の日入江」を出品。昭和17年 第5回文展に「たばこ一ぷく」出品。11月、榛名山に写生旅行中脳溢血で倒れ左半身不随となる。昭和18年 第6回文展に「紅富士」出品。春陽会に復帰。昭和19年 春陽会第22回展に「あかときの富士」出品。昭和21年 腸閉塞となり、手術の結果悪く遂に10月8日死去した。昭和22年春陽会展に「Y婦人の像」を出品。翌23年春陽会第25回展に山本鼎の遺作室を設けた。

田中善之助

没年月日:1946/09/18

春陽会々員田中善之助は9月18日京都市上京区の自宅で病を得て死去した。享年58才。明治22年12月京都西陣に生れ、15才の頃、日本画家岩城清★に就て学んだが、一年余にして退門し家業に従つた。更めて洋画を志し明治38年11月聖護院洋画研究所に入つた。翌年家情に依つて研究の中断を余儀なくされようとしたが、師浅井忠の庇護に依りその内弟子となつた。41年第2回文展に南紀湯崎での風景画「紀州海岸」が入選、爾来関西美術院に於ける富贍な諸作を以て一時京都洋画界に特異の存在と目されていた。43年同院第4回展の「女」や44年第1回仮面会展の「芸妓」はこの期の代表作である。44年田中喜作と謀り、洋画家では津田青楓、黒田重太郎等、日本画家では土田麦僊、小野竹喬等と共に黒猫会運動を起して当時の京都画壇に一石を投じた。大正9年渡欧、12年帰朝したが滞欧中春陽会の会員に推挙され、同年5月同会第1回展には滞欧中の諸作を発表した。帰朝後関西美術院の指導に当り、京都市美術展創設以来の審査員に推されていた。豊麗な色彩と重厚な筆触をもつて、屡々台湾に遊んで得た南島熱国の風景や牡丹、舞妓等を多く題材として堅実なる画風に特色をみせた。尚、昭和7年全関西美術協会と共に関西の有力な二大団体の一たる新興美術教会を春陽会系同志と共に創立し、終始関西にあつて後進を導くに貢献するところがあつた。

香田勝太

没年月日:1946/09/13

白日会々員香田勝太は9月13日死去した。享年62。明治18年鳥取県に生れ、同43年東京美術学校を卒業し、大正15年に渡仏、昭和4年帰朝した。第二部会・白日会々員・文展無鑑査として作品を発表する他、女子美術学校教授として教育に力を尽した。

柴田安子

没年月日:1946/07/27

旧新美術人協会々員柴田安子は7月27日世田谷区の自宅で逝去した。明治40年9月秋田県平鹿郡の素封家に生れ、番町、千代田高等女学校卒業後松岡映丘に師事し、木之華社会員となり、次いで青龍社に作品を発表した。昭和13年福田豊四郎、吉岡堅二らにより、新美術人協会が設立されてからは同会々員として毎年新傾向の日本画を発表し、注目された。戦後新日本画の革新を目指して起つた創造美術の結成を前に死去したものである。主な作品昭和10年 牧婦 青龍社7回展昭和11年 めうはど 春の青龍展昭和11年 女仲仕 春の青龍展昭和12年 わかれ 春の青龍展昭和13年 花 新美術人協会1回展昭和14年 叢林 新美術人協会2回展昭和15年 灑衣 新美術人協会3回展(研究会員賞)昭和16年 搗杵 新美術人協会4回展昭和17年 帽、小児 新美術人協会5回展昭和18年 山脈、落下傘工場 新美術人協会6回展昭和19年 木材供出 決戦美術展

吉田秋光

没年月日:1946/06/21

日本画院同人吉田秋光は山梨県中巨摩郡の疎開先で6月21日急性肺炎で死去した。享年60。本名は清二、昭和20年金沢に生れ、同43年東京美術学校日本画科を卒業した。大正6年第11回文展以来、帝展・新文展等に出品、第4回帝展には特選となりその後無監査・審査員等として活躍した。そのほか日本画院同人、巴会々員であつた。

今関啓司

没年月日:1946/03/31

春陽会々員今関啓司は胃潰瘍のため千葉県長生郡の疎開先で逝去した。享年54。明治26年3月3日千葉県長生郡に生れ、20才頃上京、日本美術院に学び、院展洋画部に出品していたが、大正11年春陽会発会と共に客員となり、同13年会員となった。以後毎年同会展に多くの作品を発表した。昭和13年春陽会の文展参加以後は文展無監査であつた。

相田直彦

没年月日:1946/01/23

日本水彩画会、白日会々員相田直彦は1月23日疎開先の熊本県堀尾芳人方で逝去した。享年59。明治21年会津若松市に生れ、太平洋画会・日本水彩画会研究所に学んだ。帝展推薦・文展無鑑査・二部会々員等を経、水彩画会で活躍していた

靉光

没年月日:1946/01/19

前衛絵画運動の中で得意な画風を持つていた美術文化協会々員靉光は1月19日上海に於て戦病死した。享年40。本名を石村日郎、画名を靉川光郎、靉光といい、明治40年広島県に生れた。大正14年頃より太平洋画会研究所に学び、二科会、1930年協会、独立美術協会等に出品、昭和15年に美術文化協会、同17年に新人画会結成後は主要メンバーとして活躍した。始めは明朗な画風を持つていたが、次第に幻怪なものとなつて行つた。代表作に「ライオン」「目のある風景」「牡牛」「黒い蝶」「自画像」等がある。

清水登之

没年月日:1945/12/07

独立美術協会会員清水登之は12月7日栃木市外国府村大塚の自宅で逝去した。享年59。明治29年栃木県に生れ、39年中学を卒え、翌年渡米、シヤトル市に於て和蘭画家Fokko Tadamaに師事した。大正6年より7年間ニューヨーク市に滞在、その間National Academy of Design, Art Student Leagueに学び、大正14年には渡欧して、パリー・マドリッドをはじめ欧洲各国を見学し、パリ―にあつてはサロンやアンデパンダン等に出品した。昭和2年帰朝の後は二科展に出品、3年は「大麻収穫」、4年には「父の庭」で樗牛賞を受け、翌年「地に憩ふ」により二科賞を受けた。その年同志14名と共に独立美術協会を創立し同会々員となり、以後これを舞台に近代的な写実画風で活躍したが、独立展出品作は次の如くである。昭和6年 「池畔」昭和7年 「陶土の丘」昭和8年 「丘に憩ふ」昭和9年 「山に行く」昭和10年 「裸婦」昭和11年 「鳥・巣」昭和12年 「踊る水母」昭和13年 「江南戦跡」昭和14年 「江南戦場俯観」昭和15年 「平和」昭和16年 「難民群」昭和17年 「南国海辺」昭和18年 「南方地下資源」「人柱」

赤井龍民

没年月日:1945/12/01

日本画家赤井龍民は12月1日北海道の旅先にて客死した。享年48。名は義一、明治31年兵庫県に生れ、大正7年入洛して菊池契月の門下となり、大正11年第4回帝展に「乳搾る家」が初入選し、第7回帝展に「島影暮韻」入選、その後数度入選していた。

飛田周山

没年月日:1945/11/22

旧帝展審査員飛田周山は11月22日逝去した。享年69。本名正雄。明治10年茨城県に生れ、20歳の時から久保田米僊に学び、後竹内栖鳳に学び、更に前期日本美術院研究科に入り、傍、橋本雅邦に師事した。39年文部省より国定教科書の挿絵を嘱託されてから昭和16年まで従事した。大正元年第6回文展に「天女の巻」を出し褒状を受け、第9回文展に「星合のそら」を出し再び褒状を受け、爾来毎回出品し特選を受ける事2回に及び、大正9年第2回帝展に「文殊菩薩」を出しこの年から無鑑査出品となつた。第6回帝展以来審査委員となり、改組文展になつてからも出品を続け、一方日本画院にも属して作品を発表していた。略年譜明治10年 2月26日茨城県多賀郡に生る明治29年 久保田米僊につく明治30年 竹内栖鳳につく明治33年 日本美術院研究科に入り、橋本雅邦につく明治39年 文部省より国定教科書挿絵揮毫を依嘱さる、昭和16年まで継続す明治40年 文展第1回「維摩」入選大正元年 文展第6回「天女の巻」褒状大正4年 文展第9回「星合のそら」褒状大正5年 文展第10回「わたつみの宮」大正6年 文展第11回「幽居の秋」特選大正7年 文展第12回「崑崙之仙窟」無鑑査大正8年 帝展1回「神泉」特選大正9年 帝展2回「文殊菩薩」無鑑査大正10年 帝展3回「伝説の淵」、帝展推薦となる大正11年 平和記念博覧会「残燈」大正14年 帝展6回「天の真名井」、帝展委員となる大正15年 帝展7回「業火」「更生」「慈光」、帝展委員となる昭和3年 帝展9回「山月滞雨」帝展審査員となる昭和4年 中国に出張す昭和5年 伯林日本画展「月天」「騰竜」、帝展11回「澹雲籠月」、朝鮮美術審査員となる昭和7年 帝展13回「暁日」昭和9年 帝展15回「明暉」昭和10年 帝国美術院指定となる、文展(招待展)「暁山雲」昭和12年 文展第2回「白雲巻舒」昭和13年 文展第3回「降魔」昭和16年 文展第5回「敵国降伏」昭和17年 文展第6回「洽光威八荒」昭和18年 朝鮮美術審査員となる昭和20年 11月22日没

大久保百合子

没年月日:1945/10/30

朱葉会々員、鬼面社同人大久保百合子は10月30日逝去した。享年42。明治37年千葉県山武郡に生れ、大正10年青山女学院卒業、後、大正13年油絵研究の為渡仏、巴里に3ヶ年留学ゲーラン研究所に学んだ。昭和2年帰国後は帝展文展へ出品、無鑑査となつた。洋画家大久保作次郎の夫人で鬼面社同人、朱葉会々員としても活躍した。

柳瀬正夢

没年月日:1945/05/25

民衆的な画家として知られていた柳瀬正夢は5月25日の爆撃で不慮の最後をとげた。享年46。明治33年松山市に生れ、上京して日本水彩画研究所、日本美術院研究所に学び、ゲオルゲ・グロッス等の研究に入り、漫画諷刺画の方面にも活躍した。院展等にも作品を発表したが、「ゲオルゲ・グロッス研究」「柳瀬正夢画集」「山の絵(句集)」などの著作もある。

尾竹国観

没年月日:1945/05/18

文展無鑑査尾竹国観は5月18日疎開先で逝去した。享年61。名亀吉、明治13年新潟市に生れ、高橋大華、小堀鞆音に師事、15歳にして富山博覧会で褒状を得、爾来、日本美術協会、各地の絵画共進会、前期日本美術院、各種勧業博覧会等に出品、しばしば受賞して声明をあげた。文展へは第3回に「油断」を出して一挙に2等賞、5回に「人真似」(3等賞)「忍耐」、6回に「勝鬨」(褒状)、8回「仮睡」、9回「血路」(3等賞)、10回「文姫帰漠」、11回「住吉」 12回「磯」と活躍したが 後年は振わなかつた。兄に尾竹越堂、竹坡があり、兄弟作家として知られていた。門下に織田観潮等がある。

荒井寛方

没年月日:1945/04/16

文展無鑑査、日本美術院同人荒井寛方は4月21日※旅先の福島県郡山市で急逝した。享年68。本名寛十郎。明治11年栃木県に生れ、22歳の時上京、水野年方の門に入り歴史画を研究した。明治40年第1回文展に入選、第2回には「出陣」を出品して3等賞に推され、3回4回5回文展に続けて入賞、第7回には「来迎」を出品した。大正4年日本美術院第2回展に「乳糜供養」を出品して同人に推され、翌大正5年タゴール翁に招かれて渡印、彼地の美術学校に教鞭をとり其間アジャンター洞窟に赴き壁画を模写した。大正7年帰朝の後は専ら院展に出品し、仏教的題材を印度の壁画やミニアチュールの表現を取入れて描いた。大正15年渡欧、ローマの史蹟を探り帰朝後も毎年院展に仏画を出品、昭和14年法隆寺壁画模写を文部省より依嘱され、15年以来専心模写を続けたが未だ完成を見ない中に急逝したのは誠に惜しむべきであつた。著作に「阿弥陀院雑記」がある。略年譜明治11年 8月15日栃木県に生る、荒井藤吉長男明治32年 父素雲の道にすすみ上京、水野年方門に入る、その後国華社に勤務す明治40年 第1回文展「菩提樹下双幅」入選明治41年 第2回文展「出陣」3等賞明治42年 第3回文展「射戯」3等賞明治43年 第4回文展「車争ひ」褒状明治44年 第5回文展「竹林の聴法」褒状大正2年 第7回文展「来迎」、父素雲没大正3年 再興第1回院展「暮れゆく秋」大正4年 第2回院展「乳糜供養」、この年同人となる大正5年 タゴールに招かれて渡印、ビヂツトラ美術学校に教鞭をとる、滞印中アジャンター洞窟内壁画を模写大正7年 8月帰国、第5回院展「仏誕」大正8年 第6回院展「雪山の★姿」大正9年 第1回寛方会を開催、第7回院展「摩耶夫人の霊夢」大正10年 第8回院展「光輪」大正11年 第9回院展「楽土」大正12年 第10回院展「涅槃」大正13年 台湾へゆく、第11回院展「当麻」大正14年 中村岳陵とともに渡支、第12回院展「喜怒哀楽」大正15年 渡欧、伊太利を中心にローマ遺跡を廻り、各国を巡遊昭和2年 第14回院展「玄弉と太祖」昭和3年 第15回院展「黒駒」昭和4年 第16回院展「寿星」「どんど焼」昭和5年 伊太利日本美術展「清流」「猫」、第17回院展「普賢」昭和6年 明治神宮絵画館壁画「富岡製糸場行啓」、第18回院展「竜虎」昭和8年 目黒雅叙園に六曲一双「釈尊降誕図」、第20回院展「草味」昭和10年 帝国美術院指定となる、第1回文展「鬼子母」昭和11年 第23回院展「澄潭映大悲」昭和12年 第24回院展「紅葉狩」昭和13年 第25回院展「天地和平」昭和14年 第26回院展「仏耶一如観音マリア」昭和15年 高島屋に個展ひらく、この年より法隆寺金堂壁画模写にかかる昭和16年 第28回院展「摩利支天」昭和20年 4月16日※福島県郡山駅で急逝

野口小蕙

没年月日:1945/04/02

日本美術協会委員野口小蕙は4月2日脳溢血の為死去した。享年68。名は郁、明治11年東京に生れ、母小蘋に師事し南画をよくした。14歳のときはじめて日本美術協会に出品、その後種々の展覧会に作品を発表して名を知られた。かつて小室翠雲の夫人であつたが故あつて離別したものである。

小室翠雲

没年月日:1945/03/30

帝室技芸員、帝国芸術院会員小室翠雲は3月30日帝大病院で逝去した。享年72。名貞次郎、明治7年群馬県に生れ、南画を田崎早雲に学んで、日本美術協会でしばしば受賞、同協会委員、日本画会及び南画会の幹事として次第に名声をあげた。明治40年には高島北海、望月金鳳、荒木十畝、佐久間鉄園、山岡米華、田中頼嶂、益頭峻南などとともに正派同志会を組織して文展新派に対抗、文展第9回以来審査員として、「青山白雲」「雪中山水」「春景秋景山水」「四時佳興」はいずれも3等賞をうけ、第7回の「寒林幽居」はことに好評で2等賞におされた。帝展にも1回以来しばしば審査員をつとめ、大正11年には渡支して画嚢を肥した。13年帝国美術院会員となり、以後南画壇の重鎮として大いに活躍、昭和6年にはベルリン日本画展に際して渡欧、その滞欧作を日本南画院10回展に陳列した。帝展時代の主要作としては「広寒宮」「南船北馬」「周濂渓」「田家新味」「承徳佳望」などがあり、いずれも現代南画の高峰をを示す生々とした作である。官展以外には日本南画院を指導し、昭和17年には大東南宗院を設立して、日華南画壇の交歓をはかつた。絵のほか漢詩、書もすぐれ、昭和19年には帝室技芸員の一人に加つたところであつた。略年譜明治7年 8月31日群馬県に生る、小室牧三郎長男明治22年 画家たらんとして故郷を出ず、日本美術協会に出品して褒状を受く、足利の田崎早雲に師事、南宗画を学ぶ明治31年 師早雲没明治32年 上京、苦学す、その後日本画会に属し同会及び日本美術協会で活躍す明治40年 正派同志会を組織して文展に反対し、その副委員長となる明治41年 文展2回「青山白雲」(3等賞)明治42年 文展3回「雪中山水」(3等賞)明治43年 文展4回「山海の図」(2等賞)明治44年 文展5回「春景山水」「秋景山水」(3等賞)大正元年 文展6回「四時佳興」(3等賞)大正2年 文展7回「寒林幽居」(2等賞)大正3年 文展8回「逍遥」(審査員)大正4年 文展9回「駒ケ嶽秋粧」(審査員)大正5年 文展10回「天空海濶」(審査員)大正6年 文展11回「層巒群松」(審査員)大正7年 文展12回「碧澗有響」「江山欲暮」(審査員)大正8年 帝展1回「春庭」「秋圃」(審査員)大正9年 帝展2回「春雨蕭々」(審査員)大正10年 田近竹邨、山田介堂、池田桂仙、山田竹圃、矢野橋村等と日本南画院を創立す、帝展3回「南船北馬」(審査員)大正11年 帝展4回「海寧観潮」(審査員)大正12年 京橋の宅で震災にあう、粉杢切を焼く、後焼け残つた蔵幅を売り立てて崇文院叢書刊行会をかく大正13年 帝国美術院会員となる、帝展5回「春暖」大正14年 帝展6回「広寒宮」大正15年 帝展7回「灼春」、叙正5位昭和2年 帝展8回「周濂渓」昭和3年 帝展9回「春風駘蕩」、大礼記念章授与せらる昭和4年 帝展10回「濯足万里流」昭和5年 ドイツ日本画展に代表として渡欧、帝展11回「田家新味」昭和6年 帝展12回「石人無語」昭和7年 帝展13回「天台」昭和8年 帝展14回「紫罨」昭和9年 高島屋に個展ひらく、帝展15回「承徳佳麗」昭和10年 三越に個展をひらく、日本南画院解散、環堵画塾解散す昭和12年 文展1回「白乾坤」昭和13年 文展2回「軍犬」昭和14年 文展3回「明鏡止水」昭和15年 紀元二千六百年記念奉祝美術展「林鳥仁浴」、毎日日本画展「芦雁」昭和16年 8月大東南宗院をひらく、文展4回「九方皐」昭和17年 満洲国献納画「蘭」、大東南宗院展「薫風」、文展5回「鳶飛魚躍」、満洲国献納展「春風図」、三越に個展ひらく昭和18年 文展6回「瑞昌」昭和20年 3月30日没

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