本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





跡見泰(ゆたか)

没年月日:1953/10/22

光風会々員、跡見学園理事、跡見泰は胃潰瘍で療養中であつたが10月22日浦和市の自宅で死去した。享年69歳。東京美術学校卒業後、白馬会々員となり、白馬会解散後は光風会を創設した。初期文展には続けて受賞し、昭和7年以後は帝展無鑑査、日展には出品依嘱者として出品していた。略年譜明治17年 5月23日、東京神田に生れた。明治36年 東京美術学校西洋画科選科卒業。明治39年 白馬会々員に推挙される。明治40年 第1回文展「夕の岬」3等賞となる。明治41年 第2回文展「晩煙」「初夏」「冬木立」、「晩煙」は3等賞となる。明治42年 第3回文展「砥石切」3等賞。明治43年 第4回文展「霧のたえま」。明治45年・大正元年 明治44年白馬会解散後中沢弘光、山本森之助等とともに光風会を創立、爾来会員として活躍。第6回文展「野路ゆく人」。大正2年 第7回文展「あみほし場」「夏の午後」。大正3年 第8回文展「瓜畑」「半島の漁村」「村へ行く路」。第3回光風会展「なぎさ」「静物」「崖づたひ」「くれがた」。大正4年 第9回文展「真似まなび」。大正6年 第5回光風会展「長閑」「夕日の丘」「落葉」「朝の光」「十日の月」。大正11年 フランスへ留学。滞仏中ナシヨナル・サロン、サロン・ドオトンヌ等に出品。大正13年 第5回帝展「河岸の村」。大正14年 帰朝。第6回帝展「寺」。第12回光風会展「セーヌ河」「坂道」「橋」「野遊びの日」「雪」「ラバクールの朝」「牧場の家」「早春」「シャラントンの河畔」「村はづれ」。大正15年 第13回光風会展「憩ひ」。昭和3年 第9回帝展「志木町」。昭和4年 第16回光風会展「かけわら」「晩秋」。第10回帝展「庭」。昭和5年 第17回光風会展「永代橋」「倉庫のある河岸」「石川島」「細雨の川口」。昭和6年 第18回光風会展「金仙花」「冬の庭」「山あひの村」「裸婦」。昭和7年 第19回光風会展「川原湯湯元」「草津みち」「川原湯温泉」。第13回帝展「入江」無鑑査。昭和8年 第20回光風会展「奔流」「漁船」「初冬」「渓流」「暮るる山路」「石神井公園三宝寺池」。第14回帝展「北国の漁村」無鑑査。昭和9年 第21回光風会展「漁村の夕」「佐渡七浦」。第15回帝展「山路を行く」無鑑査。昭和10年 第二部会展「夕の川岸」「静寂」。昭和11年 第23回光風会展「早春」「丘」。文展招待展「荷を積む船」。昭和12年 第1回文展「渓流」無鑑査。昭和13年 第25回光風会展「たそがれ」「静物」。第2回文展「白鷺城」無鑑査。昭和14年 第26回光風会展「晩秋」「漁港」。第3回文展「夕月」無鑑査。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「仮泊」。昭和16年 第4回文展「大漁の日」無鑑査。昭和17年 第29回光風会展「不二」。昭和18年 第30回光風会展「房総の海岸」。昭和19年 第31回光風会展「風景」。戦時特別文展「海の幸」。昭和21年 第1回日展「初冬」。第2回日展「静物」。昭和22年 第33回光風会展「夕焼」。第3回日展「月」。昭和23年 第34回光風会展「よし子ちゃん」。第4回日展「初秋静日」。昭和24年 第35回光風会展「静物」。第5回日展「秋郊」。昭和25年 第36回光風会展「静物」。第6回日展「のこんのひかり」。昭和26年 第37回光風会展「鮹壷」。第7回日展「嬉しい日」。昭和27年 第38回光風会展「晩秋」。第8回日展「赤い花」。昭和28年 第39回光風会展「午後の一時」。10月22日没。昭和29年 第40回光風会展遺作陳列。

円城寺(えんじょうじ)昇

没年月日:1953/09/14

創元会々員、日展出品依嘱者であつた円城寺昇は9月14日世田谷区のアトリエで脳溢血のため逝去した。享年52歳。略年譜明治34年 6月26日千葉県香取郡に生れた。大正12年 千葉県立茂原農学校卒業。在学中に日本水彩画会に出品、入選したことがある。昭和2年 青山熊治に師事。東京美術学校西洋画科入学、藤島教室に入る。昭和4年 第1美術協会展に「岩」を出品、協会賞をうける。昭和5年 第11回帝展「風景」。昭和6年 第12回帝展「崖」。昭和7年 東京美術学校西洋画科卒業。第13回帝展「御宿風景」。昭和8年 第14回帝展「崖」。昭和9年 第15回帝展「断崖」。昭和11年 文展鑑賞展「岩」。昭和12年 第1回文展「杜」。昭和13年 第2会文展「森の中」。昭和14年 第3回文典「岩」。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「風景」。昭和16年 第1回創元会展「南総風景」。昭和17年 創元会々員となる。第2回創元会展「風景」「崖」。昭和18年 第3回創元会展「岩」。昭和22年 第6回創元会展「菜園の秋」「風景」。第3回日展「岩」。昭和24年 第8回創元会展「秋」。第5回日展「初秋」。昭和25年 第6回日展「岩」。昭和26年 第7回日展「岩」。昭和27年 第8回日展「崖」出品依嘱。第11回創元会展「岩」。昭和28年 9月14日没。

内田巌

没年月日:1953/07/17

新制作協会油絵部会員、日本美術会委員内田巌は7月17日食道癌のため東京世田谷の自宅で逝去した。享年53歳。明治の文芸評論家として著名であつた内田魯庵の長男として東京に生れ、東京美術学校西洋画科に入つて藤島武二に学んだ。大正15年同校卒業後は帝展、光風会等に出品していたが昭和5年渡欧、パリのアカデミー・ランソンに学んで7年に帰国した。昭和10年帝展改組の際に猪熊弦一郎、伊勢正義等と新制作派協会を設立して、最後まで同会々員として活躍した。終戦後は進歩的な美術家によつて結成された日本美術会の主要メンバーとなり、また23年には日本共産党に入党して党員となつた。27年頃より食道癌におかされ、入院、手術を受けたが、遂に回復しなかつた。主な作品に「若きハンガリー人」「岩」「母の像」「(東宝争議)歌声よおこれ」等があり、又文章もよくし著書に「絵画の美」「物射る眼」「画家と作品」「人間画家」「ミレーとコロー」「絵画青春記」「ミレー」「絵の上手な描き方」等がある。略年譜明治33年 2月15日内田魯庵の長男として東京牛込に生れた。母はよし。大正2年 暁星中学に入学。大正5年 4年の時早稲田中学校に転校。大正7年 早稲田中学校卒業。大正10年 東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二に師事。大正15年 同校卒業。第7回帝展「白い上衣の少女」入選。昭和2年 6月吉居静子と結婚。7月東京佃島小学校に図画代用教員として奉職。第8回帝展「船のある風景」。昭和3年 第9回帝展「赤い帽子」。昭和4年 第16回光風会展に「果物を持てる女」「T婦人プロフィール」「明石海岸」を出品し、光風賞を受ける。第10回帝展「水兵服」。昭和5年 第17回光風会展「海岸」「赤いジヤケツ」「静物」を出品。光風会々友となる。6月父を失う。この秋モスクワ経由、フランスに渡る。パリでアカデミー・ランソンに学ぶ。昭和7年 4月帰国。第19回光風会展「ブロトンヌ」「少女」出品。第13回帝展「若きハンガリー人」。昭和8年 第20回光風会展「踊りのコスチューム」「ミゼール」「老人」「椅子にかけたる女」「青衣の女」「プチ・ゴス」「黒衣の娘」「老漁夫」出品、光風会々員となる。第14回帝展「白衣の少女」。昭和9年 第21回光風会展「佐渡の家」「相川の町」「船の男」「八丈島風景」「黒い岩(八丈島)」。第15回帝展「室内」。昭和10年 第二部会々員として第1回展に「子供達」を出品。昭和11年 第23回光風会展に「春」を出品、同会会員を辞退する。7月、当時の美術界の政治的抗争を排し、芸術運動の純化をめざして、猪熊弦一郎、中西利雄等とともに新制作派協会を創立した。第1回展「裸女をめぐる構想」「風」「風景」「雲」。昭和12年 第2回新制作展「葡萄」「史性」「港」を出品。昭和13年 第3回新制作展「野の光」「丘」「山」「海」「畠」「黄衣」「秋」。昭和14年 第4回新制作展「崖」「構想」「岩」。昭和15年 第5回新制作展「止水」。紀元二千六百年奉祝展「岩角生秋」。昭和16年 第6回新制作展「岩 三」「岩 一」「空(東洋画における翻案試作)」「白い服の子供」「岩 二」。昭和17年 第7回新制作展「日本の秋(大詔奉戴日)」「柄沢部隊長」「レース服の路子」「横顔」「少女と提灯」「母の像」。昭和18年 第8回新制作展「茉莉子像」「母の像」「影の顔」。昭和21年 第10回新制作展「風」「雲」「光」。進歩的美術家により日本美術会が結成され、その重なメンバーの一人となる。昭和22年 第11回新制作展「ミチコ像」「リサコ像」。昭和23年 第12回新制作展「少女像」「秋」「海辺」第2回日本美術会アンデパンダン展「歌声よ起れ」。日本共産党に入党。第2回美術団体連合展「たんぽぽ」。昭和24年 第13回新制作展「N青年の像」「秋」「嵐の中の三色旗」「宇宙盲点」。第3回美術団体連合展「平和を求むる人々」「徳永直像」。昭和25年 第14回新制作展「私の現代絵画考A(ギサク風の試作)」「同B」「同C」「同D」「同E」。第3回日本美術会アンデパンダン展「晴れたる日」。第4回美術団体連合展「春にして草木深し」。昭和26年 第15回新制作展「犠牲者A」「同B」。第4回日本美術会アンデパンダン展「歌人坪野哲久像」。第5回美術団体連合展「冬野」。昭和27年 第16回新制作展「一九五二年」。第5回日本美術会アンデパンダン展「秋(細川嘉六氏夫妻の像)」。秋ごろより健康を損う。昭和28年 4月千葉医大附属病院に入院、食道癌の診断をうける。6月27日1時退院、7月17日午後10時10分東京都世田谷区の自宅で死去。第17回新制作展遺作陳列。昭和29年 第6回日本美術会展に遺作陳列。

国吉康雄

没年月日:1953/05/14

米国に於いて国際的作家としての地位を築いた日本人画家国吉康雄は、5月14日ニューヨーク・グリニッチヴィレッジの自宅で、胃潰瘍のため死去した。享年63才。1889年(明治22年)岡山市の商家に生れ、小学校卒業後工業学校で染色を学んだが中退して、1906年17才の時英語習得の目的でアメリカに渡つた。 憧れの新天地も少年の夢からは遙かに遠く、鉄道掃除夫、ボーイ、運搬夫等の仕事に従い乍ら、英語を学んでいたが、数カ月にしてロスアンゼルス美術図案学校に転じた。ここで3カ年勉強をつづけ、その後紐育に移り、ナショナル・アカデミー・スクール、インデペンデント・スクール、アート・ステューデント・リーグ等に学ぶ。この間アート・ステューデント・リーグに於いてケネス・ヘイス・ミラーに友好的指導を受けてその画才をのばし、又多くの知友を得た。インデペンデント展、ペンギン展等に出品し、又1922年にはダニエル画廊に第1回の個展を開き、その後連続8回に亘り開催した。この頃の作品に「牛をつれる子供」「夢」等がある。1925年ヨーロッパに渡り、フランス近代絵画の影響をうけた。この渡欧を境として従来の素朴な空想的様式の時代を終り、次第に欧羅巴の近代絵画の要素が入り混んできて変化している。1928年再渡欧し、ユトリロ、スーチン、ピカソ等に深い感銘を受け、多くのリトグラフの制作をした。翌年紐育に新設された現代美術館に於ける「十九人の現存アメリカ作家展」の一人として選ばれ、この頃より彼の存在は漸く確かなものとなり、アメリカ現代美術展には殆ど参加し、1931年にはカーネギー・インスティチユートで受賞した。 同年病父を見舞うため日本に帰り、東京と大阪で個展を開き、携えてきた油彩と、版画数十点を展示した。併し当時の日本画壇におけるアメリカ美術蔑視の風潮と彼の一見地味な作風から大した反響も得られず翌年★々日本を去つた。この前年二科会々員となつた。帰国後のアメリカ画壇に於ける制作以外の活動も目覚しく、アメリカ美術家会議国内執行委員、展覧会委員会議長、アメリカ美術家会議副議長等の任にあたつて活躍した。又1948年紐育ホイットニー美術館で現存画家のための最初の企画として「国吉回顧展」を開催、米国各地の美術館、画廊、愛蔵家より集めた作品百数十点を一堂に集め、非常な好評を博した。亡くなる前年にはヴェニスのビェンナーレにアメリカ代表の四人の画家の一人として選ばれる等、アメリカ美術界に於ける栄誉は最高の位置に達し、30余年に亘るその足跡は日米美術界に永く明記されるべきものである。 作品は初期の空想的要素の多い地味なものから、晩年の鮮やかな色彩を加えた、生活感情の深い象徴ともみられる表現へと幾多の変化をみせているが、画面はどこか悲痛な哀愁と静寂をただよわせ、晩年の華やいだ色彩のかげにも東洋人らしい虚無的思想がうかがわれ、それらがアメリカ風の大まかな味と混り合つて特異な国吉芸術を生み出している。略年譜1889年(明22) 9月1日岡山市に中産階級の商人の一人子として生る。父宇吉。母糸子。1906年(明39) 小学校卒業後、工業学校で染色を学び中退。英語修学の目的をもつて9月渡米。夜学のパブリック・スクールに入学。ロスアンゼルス美術学校に転入学。鉄道工夫、ボーイ、傭農夫等して働く。1910年(明43) 秋ニューヨークに赴く。ヘンリー・スクールからナショナル・アカデミーに転じ2ヶ月後退学。1914年(大3) インデペンデント美術学校に入学。1916年(大5) 秋アート・ステューデント・リーグに入学、ケネス・ヘイス・ミラーの指導を受く。友人にアレキサンダー・ブルック、ペギー・ベーコン、カザリン・シュミッド等がいた。ペンギンクラブに入る。インデペンデント美術展初出品。ハミルトン・イスター・フィールドの庇護を受く。ペンギン展に出品。パスキンと交友を結ぶ。1919年(大8) 夏女流作家カザリン・シュミットと結婚。コラムビアハイツに定住。1921年(大10) ダニエル画廊に自作2点を陳列。1922年(大11) 1月ダニエル画廊に第1回個展開催。以後同画廊閉鎖まで8回に亘り個展開く。サロン・オブ・アメリカの理事になる。1923年(大12) 「牛と小さなジョー」、「果物を盗む子供」等の作品あり、この頃写真撮影により生活の資にした。1925年(大14) 春渡欧。「力持の女」制作さる。1927年(昭2) 「ゴルフをする自画像」制作。1928年(昭3) 再渡欧、フランスでリトグラフを試みる。1929年(昭4) 春帰米、ウッドスタックに画室を建てる。紐育近代美術館主催「十九人の現存アメリカ作家」展の一人に推さる。1931年(昭6) 11月、帰国。毎日新聞社主催により東京・大阪三越で個展開催。カーネギー国際展で受賞。1932年(昭7) 2月帰米。父死去。カザリン・シュミットと離婚。秋二科展に「サーカスの女」出品。1933年(昭8) アート・ステューデント・リーグ教授となる。ダウン・タウン画廊で個展を開く。以後7回開催。1934年(昭9) ロスアンゼルス美術館で2等賞を得。ペンシルヴァニア・アカデミーでテムプル金牌を得。1935年(昭10) 7月、サラ・マゾと結婚。「デイリーニュース」制作。グッゲンハイム奨学資金によりメキシコ、タオスを2ケ月に亘り旅行。1936年(昭11) ニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチの教授となる。1937年(昭12) アメリカ美術家会議の国内委員となる。展覧会委員会議長をつとむ。1938年(昭13) アメリカ美術家会議副議長の一人となる。「私は疲れた」制作。1939年(昭14) An American Group会長。カーネギー国際展2等賞、ゴールデン・ゲート展覧会、アメリカ部門1等賞。「お祭は終つた」「牛乳列車」「こわれた橋桁」「ひつくり返したテーブルとマスク」制作。1943年(昭18) カーネギー国際展に「誰かが私のポスターを破つた」を出品、1等賞になる。(『国吉康雄遺作展』国立近代美術館、1954年に拠る。)1944年(昭19) ペンシルヴアニア・アカデミーでヘンリー・シュミット記念賞を受ける。カーネギー研究所賞第1席。ヴァジニア美術館で購入賞を受く。1945年(昭20) シカゴのアート・インスティテュートのノーマン・ウェイト・ハリス青銅牌賞受く。1946年(昭21) 「飛ぶよ御覧」「疲れた道化師」他制作。1947年(昭22) 「ここは私の遊び場」制作。Artists’ Equity会長となる。1948年(昭23) 紐育ホイットニー美術館で回顧展開く。「マスク」(リトグラフ)「寡婦」(カゼイン)制作。1950年(昭25) メトロポリタン美術館主催「現代アメリカ絵画展」に「鯉のぼり」出品3等賞を得。1952年(昭27) ヴェニス、ビエンナーレにアメリカ代表の四人の画家の一人として選ばれ出品。第1回日本国際美術展アメリカ部に「私は疲れた」出品。1953年(昭28) 5月14日ニューヨーク・グリニッチ・ヴィレジの自宅で胃潰瘍のため死去。1954年(昭29) 1953年「代表作展」が日本で開かれる寸前逝去し、之が「遺作展」に替えられ、5月国立近代美術館に於いて開催された。

吉田苞(しげる)

没年月日:1953/04/27

光風会々員吉田苞は4月27日岡山市の自宅に於て十二指腸潰瘍のため逝去した。享年70歳。明治16年4月岡山市に生れ、同41年東京美術学校西洋画科を卒業後は終始官展に出品をつづけ、又光風会々員として同展にも作品を発表した。岡山県美術協会々員、大原美術館理事でもあつた。略年譜明治16年 4月25日岡山市に生れた。明治41年 東京美術学校西洋画科卒業。更に研究科に入る。明治43年 同校研究科修業。明治44年 麻布連隊へ志願兵として入隊、歩兵伍長として同年暮除隊。明治45年 岡山に帰る。大正4年 第9回文展へ「森」を出品、初入選となる。大正5年 第10回文展に「雁来紅」出品。大正6年 第11回文展に「赤松」出品。大正7年 第12回文展に「陶窯」出品。大正8年 第1回帝展に「峠の池」出品。第六高等学校講師となる。大正9年 渡仏。大正10年 帰朝、第3回帝展に「公園の朝」「ブルージュにて」(特選)を出品。大正11年 第4回帝展に無鑑査として「母と子」「木蔭」を出品、「母と子」は特選となつた。大正12年 光風会々員となり、以後帝展(第11回展迄)、光風会展に出品をつづけた。昭和4年 児島虎次郎の没後、同氏担当予定の壁画(対露宣戦御前会議)の揮毫を依嘱され、同9年に完成納入す。昭和10年 帝展廃止後二部会へ「奈良の森」出品。昭和17年 第六高等学校講師を辞任。昭和28年 岡山県文化賞を受く。4月27日、岡山市の自宅において逝去。

保尊良朔

没年月日:1953/04/22

本名良作。明治30年3月5日、長野県南安曇郡に生れた。日本美術院研究所に学び、大正11年日本美術院第9回展に「石灰焼」が初入選となつた。この頃は霊水の号を用いていた。その後、大正14年第12回院展に「柿若葉」、昭和3年第15回院展に「石花菜を乾す」、昭和8年第20回展に「鯉」(この時頃から良朔の号を用う)、昭和10年第22回展に「鵜籠」を出品している。日本美術院の試作展にも出品し院友となつたが、昭和12年9月日本美術院々友11名と共に同院を脱退し新に新興美術院を結成し同人となつて活躍した。同展に「石仏」「競馬」「馬二題」「舟正月」「あぐり舟」を発表、昭和25年更に、新興美術院同人中同志5名と共に再興新興美術院として発足、毎年春秋二季の展覧会を開き、「七面鳥」「早春風景」「明神池」等を発表していたが、4月22日逝去した。享年56歳。

宮坂勝

没年月日:1953/04/10

国画会会員、同会理事、武蔵野美術学校教授宮坂勝は国画会出品作を制作中脳溢血のため、大田区の自宅で死去した。享年58歳。略年譜明治28年 1月1日長野県南安曇郡に酒造業宮坂熊一の次男として生れた。母ミ江。大正2年 長野県松本中学校卒業。大正8年 東京美術学校西洋画科を卒業。大正12年 渡仏、アカデミー・モデルヌに入り、オットン・フリエスに師事。昭和2年 帰朝。第6回国画創作協会展に「女画家」「静物」「南フランス風景」「川べり」「裸婦」「アデン港」等滞欧作を出品、国画創作協会奨励賞を受け、同時に会友に推挙される。郷里松本において松本洋画研究会をおこす。昭和3年 上京。第7回国画創作協会展「初秋郊外」。昭和4年 1930年協会々員となる。第4回国画会展「林」「裸体」。昭和5年 国画会会員となる。以後毎年同会に出品を続ける。昭和6年 帝国美術学校教授となる。第6回国画会展「伊豆下田風景(一)」「同(二)」「同(三)」「伊豆須崎風景」「裸婦デッサン」。昭和8年 第8回国画会展「ポプラ」「浅間風景」。昭和9年 第9回国画会展「裸婦習作」「上高地風景」「下田風景」。朝鮮に旅行する。昭和10年 第10回国画会展「河港」「練光亭」「練光亭と大同門」。ハルピンに旅行。昭和11年 第11回国画会展「キタイスカヤ街」「大同江岸」「夏スンガリー」「大同門」。満州熱河に旅行。昭和12年 第12回国画会展「熱河風景(一)」「同(二)」「裸体」「熱河風景(三)」昭和13年 第13回国画会展「立てる裸婦」「腰かけたる裸婦」。第2回文展「裸婦立像」無鑑査。昭和14年 第14回国画会展「夕之雪山」「雪の南駒ヶ岳」「夕の西駒ヶ岳」。昭和15年 第15回国画会展「風景(1)」「同(2)」。紀元二千六百年奉祝展「憩い」。北支に旅行。昭和16年 第16回国画会展「立てる裸婦(デッサン)」「臥せる裸婦(デッサン)」「腰かけたる裸婦(デッサン)」。再び北支へ旅行。第4回文展「路傍群像」無鑑査。昭和17年 第17回国画会展「裸婦習作」「湖畔雪景」。第5回文展出品「北京北池子街」政府買上となる。昭和18年 第18回国画会展「波切風景」「北京風景(1)」「同(2)」。第6回文展「山湖初秋」無鑑査。昭和19年 第19回国画会展「早春」「雪」。戦時特別文展「秋色」。昭和21年 第20回国画会展「晩秋雑木林」「柿」。第1回日展出品「スケート」特選となる。第2回日展出品「湖畔」特選。信州美術会を結成、同会幹事、審査員となる。昭和22年 第21回国画会展「雪三題(A)」「同(B)」「同(C)」。昭和23年 第22回国画会展「早春」「裸婦」「残雪」。第2回美術団体連合展「山湖新緑A」「同B」。昭和24年 第23回国画会展「湖畔」「雪山」「裸婦」。第3回美術団体連合展「裸婦」。昭和25年 第24回国画会展「晩秋(B)山は雪」「晩秋(A)凩の後」「晩秋(C)静かな湖」。第4回美術団体連合展「山村新緑」「裸婦」。昭和26年 第5回美術団体連合展「風景」。この年末頃より喘息に悩む。昭和27年 第26回国画会展「寝ている裸婦」「立つている裸婦」「腰かけている裸婦」。昭和28年 喘息によつて心臓を痛め、第27回国画会展出品のため「夏の湖」を製作中、未完成のうちに4月10日脳溢血により逝去。国画会展に遺作陳列。松本市より地方文化向上に寄与した功績により功労賞をうけた。

九里四郎

没年月日:1953/03/01

洋画家九里四郎は3月1日長野県飯田市飯田病院で胸部疾患のため死去した。享年67歳。明治19年東京に生れ、学習院から明治43年東京美術学校西洋画科を卒業した。池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路等と同級で明治44年欧州に留学した。在学中すでに明治40年の第1回文展に「霧の榛名野」が初入選となり、同41年の第2回文展には「蔵」が入選、3等賞となり、43年第4回文展の「老人」も3等賞となつた。然し帰朝後は官展風の自然描写を棄て、強い主観的表現をとる様になり、文展内に於ける二科制設置運動に加わつたが当局に容れられず、官展を離れた。大正3年二科会創立に際してその鑑賞委員に選ばれたが辞退し、第4回展に「庭」「静物」他4点を出品した。その後も二科会に出品していたが、のち料理屋を経営したり、風物を描きながら生涯を送つた。

橋本邦助

没年月日:1953/01/07

初期文展に活躍し、昭和7年第13回帝展からは無鑑査となつていた橋本邦助は昨年来脳軟化症で療養中であつたが、1月7日文京区の自宅で死去した。享年69歳。明治17年1月栃木県に生れ、白馬会研究所に学び、さらに同36年東京美術学校西洋画科選科を卒業した。欧州に二度外遊している。主観的な表現をさけその外面的描写技術は当時としては非常に秀れた作家であつたが、対象の内部まで入ろうとする力には欠けていた。明治40年第1回文展から続けて3度入賞し、その後も官展に出品を続けていたが、近年は振わなかつた。作品略年譜明治40年 第1回文展「秋の花」「裸体美人」「ともしび」出品。「ともしび」は3等賞をうける。明治41年 第2回文展「逍遙」「水のほとり」、「水のほとり」は3等賞。明治42年 第3回文展「幕間」「微酔」「風の海」、「幕間」は3等賞。明治43年 第4回文展「白い雲」「水鳥」。明治44年 第5回文展「凝視」。昭和2年 第8回帝展「けしの花」。昭和3年 第9回帝展「白百合」。昭和4年 第10回帝展「渓流」。昭和5年 第11回帝展「店頭小景」。昭和6年 第12回帝展「店頭風景海の幸」。昭和7年 第13回帝展「蝶々」無鑑査。昭和8年 第14回帝展「午前の海」無鑑査。昭和9年 第15回帝展「紀州白浜千畳敷」無鑑査。昭和10年 第二部会展「芍薬」「菊」。昭和11年 文展招待展「菊花」。昭和12年 第1回文展「果物」無鑑査。昭和13年 第2回文展「大王崎の一角」無鑑査。昭和14年 第3回文展「晴れゆく富士」無鑑査。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「太平洋」昭和16年 第4回文展「M氏肖像」無鑑査。

上田万秋

没年月日:1952/12/15

日本画家上田万秋は昭和27年12月15日逝去した。享年83歳。本名己之太郎。明治2年8月京都に生れ、京都府立画学校を卒業して今尾景年に師事した。官展には明治40年第1回文展より出品し、同第2回に「閑庭」(3等賞)、第4回「逢坂山の径」(褒状)、第9回「光風霽月」(3等賞)等があり、あらたに帝展制となつてからは第1回に「蛙鳴く頃」を発表した。この年新制度に反抗して生れた新団体である日本自由画壇が創立されてからは、この同人となり、毎年同展に作品を発表した。主なものに第1回展「花鳥六題」、第5回「帝陵三題」、第8回「歌人の跡六題」があり、その他米国セントルイス万国博「闘鶏」、などの外国諸展出品の作品があり、穏和な画風の花鳥を得意とした。

岸浪百艸居

没年月日:1952/09/21

元日本南画院同人で独特の魚の絵を描くので知られていた岸浪百艸居は、9月21日東京築地の聖路加病院で癌のため逝去した。享年62歳。旧号連山、本名定司。明治22年明治の画家岸浪柳渓を父として群馬県に生れ、小学校卒業後寺院の徒弟、呉服店見習等をして転々と歩いたが、後画家を志し、小室翠雲の門に入つた。文、帝展、美術協会、南画院、如水遊心会等に作品を発表、その間禅に参じ、又支那、欧洲に遊学した。魚類を殊に好み、愛情こもつた作品を遺している。逝去する前年には巻物の大作「海魚図巻」を献上した。又随筆をよくし「魚に合ふ」「画魚談叢」等がある。終戦直後より眼疾、腎臓、癌等を患い、27年には洗礼を受けた。略年譜明治22年 上州館林に生る。父岸浪連司。明治38年 小室翠雲の門に入る。明治39年 美術協会「秋景山水」出品、3等褒状。大正7年 第12回文展「山居無事」出品。大正10年 美術協会にて宮内省御用拝命、聖徳太子奉讃展出品。大正11年 第4回帝展「聴雨」出品。平和博覧会出品。支那遊学。大正14年 第4回南画院展「樵路」出品。大正15年 第5回南画院展「南信富士見所見」出品。院友に推薦される。昭和2年 第6回南画院展「山道」出品昭和3年 第9回帝展「立石寺」出品。昭和4年 外遊。昭和5年 第11回帝展「松籠」出品。商大寄贈。第9回南画院展「帰汐」出品。昭和6年 第12回帝展「豆花小景図」出品。第10回南画院展「王瓜艸図」出品。百艸居の雅号を用ふ。昭和7年 第11回南画院展「清人樹」出品。昭和8年 第12回南画院展「沙汀静昼」出品。同人に推挙される。昭和9年 第13回南画院展「秋庭」出品。「是れからの日本南画」出版、「百艸居画譜」発行。昭和10年 第14回南画院展「枝頭已春」出品。昭和12年 第1回個展開催。(日本橋・三越)昭和14年 第2回個展開催。(日本橋・三越)昭和17年 第3回個展開催。六曲一双友邦へ贈る。昭和18年 第4回個展開催。「百艸居新作画集」発行。昭和20年 第5回個展開催。上州へ疎開。第6回個展開催。(松屋別館)昭和22年 随筆「魚に合ふ」出版。昭和23年 随筆「画魚談叢」出版。昭和25年 美術協会「浅汐」出品。眼病虹彩炎再発。急性腎臓にて聖路加病院に通院。昭和26年 魚類図巻献上。頚動腫物手術。「磯の魚」画稿完成。昭和27年 頚部再発、聖路加病院に入院。「磯の魚」出版。洗礼を受く。逝去。

酒井亮吉

没年月日:1952/07/10

一水会々員酒井亮吉は7月10日胃潰瘍のため新宿区の自宅で死去した。享年54歳。明治30年大阪に生れ、昭和3年より6年にかけ欧洲に遊学。作品は大正15年より戦前迄二科会に出品をつづけていたが戦後は昭和24年より一水会に出品、同年会員推挙となつた。代表作に昭和8年第20回二科会出品の「茂作の家族」「早春」等がある。

内海加寿子

没年月日:1952/06/30

大正8年3月東京に生れ、昭和10年3月文化学院女学部を卒業中川紀元について絵の指導をうけた。昭和12年、中川紀元の紹介により更に岸浪百艸居に師事し15年9月及び17年9月、2回に亘つて資生堂で個展を開いた。翌18年青龍社第15回展に「植物病理学研究室」を出品、入選となつた。この年から青龍社に出品し、翌19年の第16回展に「二兎図」を出品、青龍社々子に推薦され、21年第18回展出品の「聖女」は奨励賞をうけた。翌年の第19回展には「祈」を発表し、社友に挙げられた。第20回展の「芍薬」21回展「鏡」又、25年春季展の「窓うらゝ」(受賞)と次第に作品は注目されてきたが昭和26年青龍社々友を辞し、新な仕事への研究に入つていつたが昭和27年6月30年、33歳で惜しくも長逝した。主要な作品は青龍社展に出品した「聖女」「祈」「鏡」等で、いずれも光線、色彩、の美わしさを中心に、大がらで、清純な感覚を示している。青龍社脱退後は近代風の構成をとり入れた静物画などに新しい境地を求めて模索していた。没後27年9月10日から13日まで銀座資生堂で遺作展を開いた。

梥本一洋

没年月日:1952/03/09

元日展運営会参事、同審査員梥本一洋は3月9日京都市上京区の自宅で逝去した。享年58歳。本名謹之助、明治26年京都に生れ、京都美術工芸学校、京都絵画専門学校を卒業、山元春挙の門に入つた。春挙没後は同門の川村曼舟に師事、早苗会に重きをなした。又後京都絵画専門学校教授となり、美術教育の面にもたずさわつた。作品は主として官展に出品、帝展には第1回より入選し、昭和2年第8回帝展「蝉丸」、同3年第9回帝展「餞春」は特選となつた。同じく4年無鑑査となり、第14、5回には審査員に選ばれた。尚昭和18年耕人社を結成して主宰し、最近では昭和26年第7回日展に参事として「夕和」を出したがこれが展覧会へ出品の最後となつた。略年譜明治26年 京都に生る。大正8年 第1回帝展「秋の夜長物語」出品。大正10年 第3回帝展「燈籠大臣」出品。大正11年 第4回帝展「源氏物語」出品。大正13年 第5回帝展「雨月物語」出品。大正14年 第6回帝展「万燈供養」出品。大正15年 第7回帝展「白光流曳」出品。昭和2年 第8回帝展「蝉丸」(特選)出品。昭和3年 第9回帝展「餞春」(特選)出品。昭和4年 第10回帝展「酒典童子」出品。無鑑査となる。昭和5年 第11回帝展「綵★」(西施)出品。昭和6年 第12回帝展「髪」出品。昭和7年 第13回帝展「残蜩」出品。昭和8年 第14回帝展「朝凪」出品。審査員となる。昭和9年 第15回帝展「水の尾村の秋」出品。審査員となる。昭和11年 文展招待展「鵺」出品。委員となる。昭和13年 第2回文展「岬」出品。無鑑査となる。昭和14年 第3回文展「壇風」出品。審査員となる。昭和18年 第6回文展「朝凪」出品。昭和19年 戦時特別展「月に祈る」出品。昭和23年 第4回日展「秋」出品。昭和24年 第5回日展「宵月」出品。依嘱となる。昭和26年 第7回日展「夕和」出品。参事となる。

吉村忠夫

没年月日:1952/02/17

元日展運営会依嘱、日本画院同人吉村忠夫は2月17日、脳溢血のため世田谷区の自宅で逝去した。享年53歳。明治31年福岡県に生れ、大正8年東京美術学校日本画科を卒業、大和絵による新民族絵画の提唱者である。松岡映丘に師事した。主として文、帝展に出品、大正11年第4回帝展の「清吟緑觴」、同15年第7回帝展の「多至波奈大女郎」、昭和2年第8回帝展の「望の月夜」は特選となり、昭和3年第9回帝展「木蘭」では無鑑査、第11回帝展「和光薫風」では審査員となり、其後も屡々審査員をつとめた。また一方正倉院御物をはじめ古典工芸の研究を以て知られ、今上陛下御成婚に際しては絵画と共に工芸品を製作献上した。師映丘の没後は国画院を指導し、大和絵発展につとめ、昭和14年には同志と共に日本画院を創設その同人となつた。晩年は舞台美術の方面にも筆をふるい、大和絵風の典雅な装置をみせた。略年譜明治31年 福岡県遠賀郡に生る。大正7年 第12回文展「玉のうてな」出品。大正8年 東京美術学校日本画科を卒業。 第1回帝展「徳大寺左大臣」出品。大正9年 第2回帝展「初秋」大正10年 第3回帝展「野分の朝」出品。大正11年 第4回帝展「清吟緑觴」(特選)出品。大正13年 第5回帝展「常寂光」出品。大正14年 第6回帝展「王母」出品。大正15年 第7回帝展「多至波奈大女郎」(特選)出品。昭和2年 第8回帝展「望の月夜」(特選)出品。昭和3年 第9回帝展「木蘭」出品。昭和4年 第10回帝展「龍女」出品。昭和5年 第11回帝展「和光薫風」出品。審査員となる。昭和6年 第12回帝展「奢春光(有智子内親王)」出品。昭和7年 第13回帝展「孝養図」(光明皇后)出品。昭和8年 第14回帝展「浴」出品。昭和9年 第15回帝展「鵤の聖」出品。昭和11年 招待展「燈籠大臣」出品。昭和14年 第3回文展「横川の僧都」出品。昭和15年 北支、満洲、蒙古等の研究旅行をなす。昭和26年 歌舞伎座上演舞台装置及び美術考証「菅公」「時宗」「静物語」「源氏物語」担当。昭和27年 2月17日逝去。

矢沢弦月

没年月日:1952/01/26

日展運営会参事、日本画院同人矢沢弦月は、1月26日世田谷区の自宅で没した。享年65歳。明治19年長野県上諏訪に生る。本名貞則。少年の頃画家になる志を抱いて郷里を出で、同郷の士である時の大蔵大臣邸に寄寓し乍ら久保田米僊、次いで寺崎広業に師事した。間もなく師広業の教える東京美術学校に学び、明治44年卒業した。其頃の同門、同窓に蔦谷龍岬、広島晃甫等がある。学校を出てから今川橋松屋呉服店意匠部に勤務、旁ら官展に大作を出品、大正2年第7回文展に於ける「熟果」(二曲一双)が褒章となり、広業門下の作家として世間に知られる様になつた。その後大正8年第1回帝展出品の「朝陽」は特選となり又この年東京女子高等師範学校講師となる。一方川崎小虎、蔦谷龍岬等と霜失会を組織した。昭和4年在外研究員として欧米に留学、帰朝後は晩年に至るまで官展に出品をつづけ、その間東京美術学校講師、日本美術学校教授等を歴任するとともに、朝鮮美術展、台湾美術展の審査員となり斯界に重きをなした。尚聖徳記念絵画館には壁画「女子師範学校行啓」図がある。略年譜明治19年 長野県上諏訪に生る。明治38年 寺崎広業の門に入る。明治40年 東京美術学校日本画科撰科入学。明治44年 同校卒業。明治45年 今川橋松屋呉服店意匠部勤務。大正2年 第7回文展「熟果」(褒賞)出品。大正5年 第10回文展「童謡」出品。松屋退店。大正7年 第12回文展「西行」出品。大正8年 第1回帝展「朝陽」(特選)出品。5月東京女子高等師範学校講師となる。大正9年 第2回帝展「新秋(山、里、海)」出品。無鑑査となる。大正10年 第3回帝展「室生の夕ばえ」出品。大正11年 第4回帝展「花圃」出品。推薦となる。大正13年 第5回帝展「秋晴」出品。朝鮮美術展審査員となる。大正14年 第6回帝展「柳条清★」出品。昭和3年 第9回帝展「半仙戯」出品。審査員となる。昭和4年 巴里日本展覧会委員、文部省海外調査員として欧洲に留学。昭和5年 第11回帝展「盛夏讃」出品。審査員となる。昭和7年 第13回帝展「糸雨」出品。審査員となる。昭和11年 招待展に「採果図」出品、委員となる。昭和17年 第5回文展に「南方建設譜」出品。昭和18年 第6回文展に「華北の秋」出品。昭和22年 第3回日展「古楼」出品。招待となる。昭和23年 第4回日展「白帆」出品。依嘱となる。昭和24年 第5回日展「山湯初夏」出品。審査員となる。昭和25年 第6回日展「水圏戯」出品。参事、審査員となる。昭和27年1月26日 世田谷区の自宅にて胃癌のため逝去。

山脇信徳

没年月日:1952/01/21

国画会々員山脇信徳は故郷高知市で孤独な生活を送つていたが1月21日同市の自宅に於いて胃出血のため急逝した。享年65歳。明治19年高知市に生れ、同43年東京美術学校西洋画科を卒業。在学中第3回文展に出品した印象派風な画面の「停車場の朝」は世評高く、画壇への華やかなデヴューであつた。第8回文展「午後の海」は宮内省買上となり、第11回文展「疎林」、第4回院展「湖畔」で受賞した。後京都、満洲等で中学教師を勤め、大正14年から18年に亘つて欧洲に遊学、この間国画創作協会々員となる。帰朝後は郷里にあつて国画会々員として同展に出品していたが晩年は余り振わず、昭和23年第22回国展に「高知名所」を久々に出品したのが最後となつた。略年譜明治19年 2月11日高知市に生る。父は蒔絵古代塗を創始した人。明治40年 第1回文展「町の橋」出品。明治42年 第3回文展「停車場の朝」出品3等賞。明治43年 東京美術学校西洋画科卒業。明治45年 滋賀県立膳所中学教諭となる。大正3年 第8回文展「午後の海」出品。宮内省買上げとなる。大正6年 第11回文展に「疎林」、第4回院展洋画部に「湖畔」出品受賞。大正7年 第12回文展「叡山の雪」出品。院展に「金碧山水」出品。大正11年 渡満、南満州中学、奉天中学、奉天高女の教諭となる。同地結成の春陽会々員となる。大正14年 渡欧。昭和2年 第6回国画創作協会々員となる。昭和4年 帰朝。郷里高知に居住。之より作品発表次第に少くなる。昭和20年 高知県洋画協会創立。会長となる。昭和22年 高知県美術展覧会創立。審査員となる。昭和26年 高知県文化賞を贈らる。昭和27年 1月21日高知市の自宅にて急死

津田正周

没年月日:1952/01/19

洋画家津田正周は、心臓麻痺のため昭和27年1月19日ハルピンに於て逝去した。享年47歳。明治40年京都に生れ、京都絵画専門学校、関西日仏学院などに学んだのち、昭和4年フランスに留学、同8年帰国したが、更に10年から11年迄再度渡仏した。昭和9年、長谷川三郎、村井正誠らと、最も自由な制作発表を唱えて「新時代洋画展」グループを結成したが、同会が新に、自由美術家協会として再組織ののち、14年4月退会し春陽会に移つた。然し、昭和17年、日本映画社美術課に入社以来、画壇を離れ、19年朝日映画嘱託、となり、20年には特派員として渡満した。その後、同地東北大学美術部講師、モスコー電影院画家、或はハルピン美術協会の指導者として、各地で美術関係の仕事に従事中客死した。

北脇昇

没年月日:1951/12/18

前衛画壇に活躍した美術文化協会々員北脇昇は、肺結核のため12月18日逝去した。享年50歳。明治34年名古屋に生れ、大正6年京都同志社中学を中退して同8年鹿子木洋画塾に入塾、昭和5年津田青楓塾に転じた。はじめ二科展、独立展に出品したが昭和14年美術文化協会の創立と共に参加、会員となつた。常に京都にあつて同地の前衛画界の推進に尽力し、昭和8年独立美術京都研究所、同10年新日本洋画協会、同12年京都青年美術家クラブ、翌13年創紀美術協会等の創設或は結成に当り中枢的役割を果した。戦後22年日本アバンギャルド美術人クラブ会員となり、また京都新美術人協会の創立や23年日本美術会京都支部長として関西前衛画壇に貢献するところ大であつた。

広島滉人

没年月日:1951/12/16

元文展審査員、日展出品依嘱広島滉人は、12月16日世田谷区の自宅で没した、享年62歳。明治22年徳島県に生る。本名新太郎、旧号晃甫。香川県立高松工芸学校を経て、東京美術学校日本画科に学び、明治45年卒業した。在学中同窓萬鉄五郎、平井為成等とアブサント会を組織して展覧会を催した。大正8年帝展に「秋の野々宮」「青衣の女」を出品して後者に特選が与へられ、翌年の「夕暮の春」も再び特選となつてその名を高めた。同13年「落葉の丘」を出品し、帝展推薦となり、同14年、審査員に挙げられた。その後も屡々帝展或は新文展の審査員となつた。この間、昭和5年明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「外国使臣謁見の図」を完成し、この年日独展覧会委員として渡独、のち欧州各国を巡歴し、同7年帰国した。官展のほか青々会、三春会等にも出品した。その初期の人物画は浪漫的な傾向が強かつたが、次第に写実的な花鳥画に移つた。略年譜明治22年 徳島県に生る。明治40年 香川県立高松工芸学校卒。明治45年 東京美術学校日本画科卒。大正8年 第1回帝展に「青衣の女」(特選)「秋の野々宮」出品。大正9年 第2回帝展「夕暮の春」出品特選。大正13年 第5回帝展に「落葉の丘」出品、帝展推薦。大正14年 帝展審査員。大正15年 第7回帝展「双鵠」出品。昭和2年 第8回帝展「翠陰」。昭和3年 帝展審査員。昭和4年 第10回帝展「惜春余情」出品、無鑑査。伊太利ローマ展「浮巣」。昭和5年 帝展審査員。明治神宮絵画館壁画「外国使臣謁見の図」完成。日独展覧会委員として渡独。昭和6年 ベルリン民俗学博物館、ロンドン大英博物館、パリ、ギメ博物館の中央アジア壁画を模写。昭和7年 独、英、仏、伊、和、白、西等を巡歴帰国、帝展審査員、第13回帝展に「山葡萄の実」を出品。昭和8年 朝鮮展審査員として渡鮮。昭和9年 帝展審査員。昭和11年 文展委員、「あさがほ」を文展に出品。昭和13年 文展審査員。昭和14年 第3回文展に「蓮」出品。昭和16年 第4回文展に「赤装女」出品。昭和19年 戦時特別文展に「国花」出品。昭和21年 第2回日展に「春景」出品。昭和22年 第3回日展に「梅の図」出品。昭和24年 第5回日展に「窓辺静物」出品。昭和25年 第6回日展に「秋圃」出品。昭和26年 12月16日没

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