本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





長野草風

没年月日:1949/02/06

日本美術院同人の長野草風邪は2月6日横浜市の大橋家別荘で脳溢血のため逝去した。年65。明治18年10月4日東京に生れ、名は守敬、維新の閣老安藤信正の孫にあたり、5才頃母方の大叔母長野家の養子となつた。14才頃から邨田丹陵につき、20才頃川合玉堂に師事、草風と名のる。紅児会に入つて研究すると同時に、文展に出して早くもみとめられ「六の華」(1回)は3等賞、「朝と夕」(7回)は褒状となつた。大正3年院展再興とともにこれに参加し、同5年9月同人に推された。以後院展を舞台として活躍、大正12年、14年には支那旅行を企て画嚢を肥している。代表作には大正15年聖徳太子奉讃展の「高秋霽月」などがあげられる。

広瀬憲

没年月日:1948/10/10

自由美術家協会々員広瀬憲は10月10日未明立川駅附近で交通事故のため死去した。享年40。抽象絵画に特異な個性をもち甘味ある色彩を示していた。

中西利雄

没年月日:1948/10/06

新制作派協会並びに日本水彩画会会員、中西利雄は10月6日東京都中野区の自宅で肝臓癌のため死去した。享年49才。明治33年12月19日東京京橋に生れ、昭和2年東京美術学校西洋画科を卒業、研究科に一ヶ年在籍し、昭和3年5月渡仏、巴里にて昭和6年10月まで絵画研究、この間英、伊、西班牙、和蘭陀、白耳義等にて研究を重ね6年11月帰朝、帝展及び日本水彩画会にて滞仏作を発表、昭和9年帝展にて特選、翌10年第二部会展に受賞し、昭和11年新制作派協会結成に際し、会員として加わり、只一人の水彩画の会員として有力な存在であつた。不透明描法の明快な色調と近代的な感覚を持つ独自な画境を示す共に水彩画の新生面を拓いた。著作に「水絵」(技法と随想)、「中西利雄作品集」がある。

北島浅一

没年月日:1948/09/18

文展に出品を続けていた洋画家北島浅一は9月18日東京杉並の自宅で逝去した。享年62。明治20年佐賀県に生れ、一時本郷研究所に学んだが明治45年東京美術学校西洋画科を卒業した。大正2年文展に「濁江の夕」を出品、その後同9年に渡欧、11年に帰朝した。滞仏仲にサロン・ドオトンヌに「踊り場」を出品入選した。帰朝後は主として官展に出品し、大正14年第6回帝展の「外出の後」は特選、同15年には無鑑査となった。

近藤光紀

没年月日:1948/08/09

一水会々員近藤光紀は8月9日腸チフスのため長野県浅間温泉で死去した。享年48。明治34年東京本郷に生れ、川端画学校に学び、更に東京美術学校に入つたが中退し曽宮一念に師事した。大正13年第5回帝展以後続けて出品し、昭和10年には無鑑査となつた。昭和7年新美術家協会々員となり、昭和12年第1回一水会展以来毎年出品し、第3回展に一水会賞を受け、第5回展に於て会員となつた。一水会の文展参加によつて第4回文展に出品した「少女像」は黒田子爵洋画奨励賞を受けた。以後一水会委員、日展委員、新美術家協会々員等として活躍していた。第2回一水会展「秋果静物」第3回一水会展「白い手袋」等の作品を遺している。

入江波光

没年月日:1948/06/09

日本画家入江波光は、6月9日京都市上京区の自宅で胃病のため逝去。享年62。明治20年京都市に生れた。本名幾治郎。同35年森本東閣に師事、この年京都市立美術工芸学校に入学、同38年卒業。同40年同校研究所に入学、同42年京都市立絵画専門学校新設され、その第2学年に入学し、同44年卒業した。この間明治40年第1回文展に「夕月」を出品入選した。大正2年京都市立美術工芸学校教諭に任ぜられ、同7年絵画専門学校助教授となり、国画創作協会に「降魔」を出品、授賞された。同8年同協会同人となり、第2回展に「臨海の村」、翌9年第3回展に「彼岸」を発表した。同11年京都府から英、米、伊へ出張を命ぜられ、同12年帰朝。同13年第4回国展に「虹」、同14年の第5回国展に「ローマ郊外」、昭和3年第7回国展に「摘草」を発表した。同11年京都絵画専門学校教授に進み、同13年北京、大同に出張、翌15年朝鮮美術展審査のため朝鮮に出張した。同15年文部省から法隆寺壁画の模写を依嘱され、晩年はほとんどこれに没頭した。その間仏画及び水墨画に、洗練された技法を示した。

松本竣介

没年月日:1948/06/08

自由美術家協会会員松本竣介は6月8日肺炎のため東京都新宿区の自宅で37才で夭折した。明治45年4月19日東京青山に生れ、学齢前郷里盛岡に移る。盛岡中学卒業後昭和4年上京、太平洋画会研究所に入所し、昭和10年第22回二科展に初入選以来昭和19年解散まで毎回出品を続け、その間15年第27回展に特待賞をうけ翌16年度同展で会友に推挙された。18年新人画会を同志8人と結成し翌19年迄3回展覧会を催した。戦後21年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。22年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加したが、翌23年5月毎日新聞主宰連合展出品の「彫刻と女」「建物」を絶作として同展開催中発病、間もなく没した。西欧近代絵画によつて培われた高い知性を基盤として近代的なモチーフを内面的に扱いユニークな作風を築きつつあつた惜しい作家であつた。

狩野探道

没年月日:1948/06/04

日本美術協会審査員狩野探道は6月4日心臓麻痺のため東京中野の自宅で死去した。享年59。名を守久といい、明治23年東京に生れた。探幽を祖とする鍛冶橋狩野家の12世で、明治36年14歳で狩野応信に就き始めて狩野派の画法を学び、その没後荒木探令に師事した。大正4年東京美術学校日本画科を卒業以降専ら日本美術協会に出品し、同会委員、同会第一部審査委員、展覧会幹事をつとめた。代表作に東京都養正館壁画「天孫降臨図」美術協会第100回展出品の「徐上小景」等がある。

小早川清

没年月日:1948/04/04

日本画家小早川清は4月4日東京都大田区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年50。明治32年福岡市博多に生れた。大正13年第5回帝展に入選して以来帝展に出品を続け、第14回展の「旗亭凉宵」は特選となつた。昭和11年以後は文展無鑑査となり、その他日本画会、青衿会等にも会員として多くの作品を発表していた。専ら艶麗な美人画を画き、帝展時代には長崎を舞台とした異国情緒の溢れた画材を好んで画いた。帝展出品作に「長崎のお菊さん」「蘭館婦女の図」、文展に「春琴」「行く春」等がある。

御厨純一

没年月日:1948/02/07

第一美術協会々員御厨純一は2月7日東京都文京区の自宅で急逝した。享年62。明治20年佐賀市に生れ、白馬会菊坂洋画研究所に於て長原孝太郎に学び、更に同45年東京美術学校西洋画科を卒業した。大正4年に美術学校の同窓生と40年社を組織して同人となり、同13年には渡仏昭和3年に帰朝した。帰朝後昭和4年2月、青山熊治、濱地青松、片多徳郎等と第一美術協会を創設し力作を出品していた。昭和12年海洋美術会創立と共に会員となつた。代表作に第一美術協会展出品の「ガンの塔」「白菊」「坂」「菊庭」「夜の自画像」「静浦」等がある。

矢崎千代二

没年月日:1947/12/28

元帝展無鑑査矢崎千代二は、昭和22年12月28日北京市立第三病院に於て老衰と胃障害のため永眠した。享年75歳。明治5年2月12日神奈川県横須賀市に生れた。同20年大野幸彦の門に入つてはじめて洋画の手ほどきを受け、さらに同30年東京美術学校西洋画科選科に入学して黒田清輝の薫陶を受け、同33年7月卒業した。白馬会に入会してその展覧会に出品したが、同36年の第5回内国勧業博覧会に出品した「鸚鵡」が3等賞を受け出世作となつた。同年アメリカに渡り、聖路易万国博覧会事務局に勤め、続いて同地のブラッシュ・エンド・ペンシル・クラブに学んだ。同40年ヨーロッパに渡り、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツを巡歴し、同42年帰国、交詢社で個展を開いた。同年第3回文展に「夕凉」を出品して褒状を受けたのをはじめ、以後文展に出品し、第4回文展の「奈良」、第7回文展の「草刈」は、共に3等賞となつた。大正5年再び渡欧、サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナル・デ・ボザール等に数回出品し、その後印度に赴き、アジャンタの仏蹟やヒマラヤ等を写生し、同15年帰国した。昭和5年朝日新聞社嘱託となつて南米各地にスケッチ旅行を試み、同7年アルゼンチン滞在中帝展推薦となつた。また中国、ジャワ等に遊び、昭和9年婦国、翌年日本橋三越に於いてこれら諸地方のスケッチを発表した。同17年満州に旅行、同18年北京に赴き、同地に於いて終戦を迎え、帰国する暇なくして同22年永眠した。北京に在つた作品多数を終戦直後中国教育部に寄贈したと伝えられる。その初期には、油絵、水彩画を主としたが、間もなくパステル画を主とするようになり、この方面では先駆者であつた。

小林萬吾

没年月日:1947/12/06

帝国芸術院会員、小林萬吾は12月6日逝去した。享年78。[※68とあるのを78に修正してある]明治3年香川県三豊郡に生れた。明治19年原田直次郎、安藤仲太郎等に就き西洋画の手ほどきを受うけ、次で天真道場に入り黒田清輝の指導をうけた。明治23年及び28年の第3、第4回内国勧業博覧会には油絵を発表各褒賞を得ている。同29年東京美術学校に西洋画科が設置されるや西洋画科選科に入学、又この年創立された白馬会の最初の会員となり、第1回展に油絵4点を出品、以後同会展覧会に出品を続けた。31年に美術学校選科を卒業し翌年同校雇となり更に翌33年同校西洋画科助手となり、37年には助教授に任ぜられた。明治40年第1回文展に「物思」、第3回文展に「渡船」を出品、何れも3等賞を授けられた。44年には文部省から独仏伊に留学を命ぜられて渡欧、大正3年に帰朝、その年の文展には滞欧作品を発表した。以後文展には毎年出品、終始穏健な作風をもつたものであつた。大正5年東京高等師範学校教授を兼任、又光風会々員となり、同7年東京美術学校教授となった。同9年帝展審査員、昭和10年帝国美術院改組により帝院参与となり、引続き官展の展覧会委員、審査員として毎回作品も出品した。同15年帝国芸術院会員に任ぜられ同19年東京美術学校教授を依願免官となり勲3等瑞宝章、正4位に叙せられた。官展系作家として晩年迄活躍したが、昭和22年12月6日午後3時鎌倉市の自宅で逝去した。

中村大三郎

没年月日:1947/09/14

京都美術専門学校教授、日本画家として知られた中村大三郎は9月14日膽石病で京都市右京区の自宅で療養中、腸閉塞を併発し死去した。年50。明治31年京都に生れ、大正8年京都絵画専門学校を卒業、在学中文展12回に「懺悔」を出して入選、帝展2回「静夜聞香」4回「燈籠大臣」は特選となり、その後「婦女」「髪」などの印象的な現代女性をえがいて進出した。審査員をつとめること数回、昭和10年には帝国美術院指定となり、かたわら母校に教鞭をとつていた。後期の作品としては「三井寺」(新文3)、「鸚鵡小町」(奉)、「山本元帥」(新文6)などがある。

安田半圃

没年月日:1947/09/08

日展無鑑査の日本画家安田半圃は9月8日疎開先の熱海市で耳下腺肉腫のため死去した。享年59。別号光見、名は太郎、明治22年新潟県に生れ、水田竹圃にまなび、文展11、12回に入選、帝展には10回出品して推薦となつた。南画院の同人として南画山水を主とし、新文展にも出品していた。

今西中通

没年月日:1947/06/10

独立美術協会々員今西中通は6月10日福岡市に於て病没した。享年40。本名は忠通、明治41年高知県に生れ、川端画学校、1930年協会研究所、独立美術協会研究所等に学んだ。1930年協会展、独立美術協会展、独立24人展等に作品を発表し、第5回独立展にはD氏奨励賞を受けた、昭和11年独立美術協会会友、同22年には会員となつた。

野口謙次郎

没年月日:1947/05/21

日本画家野口謙次郎は5月21日死去した。享年50。明治31年佐賀県に生れ、大正12年東京美術学校日本画科を卒業した。大正10年第3回帝展以後官展に出品し、昭和15年第15回帝展には「奥入瀬」に特選を受けた。

北野恒富

没年月日:1947/05/20

美人画家として知られた関西画壇の重鎮北野恒富は5月20日大阪府中河内郡の自宅で心臓麻痺のため急死した。享年68。明治13年金沢に生れ、名は富太郎、都路華香につき、大阪に出て野田九浦らと大正美術会をおこし、大正4年大阪美術会を創立、同7年には水田竹圃らと茶話会を設立した。文展第4回に「すだく虫」、5回に「日照雨」を出して知られ、大正3年再興美術院展が開かれると共にこれに作品を発表、大正6年同人となり、情緒濃厚な美人画によって特異の存在をうたわれた。昭和10年帝国美術院無鑑査に指定された。院展の出品作を列記すれば、「願の糸」(1)、「鏡の前」(2)、「道頓堀」(3)、「湯の宿」(6)、「茶々」(8)、「夕べ」(10)、「浴後」(11)、「むすめ」(12)、「涼み」(13)、「朝」(14)、「宵宮の雨」(15)、「戯れ」(16)、「阿波踊」(17)、「宝恵籠」(18)、「口三味線」(20)、「花」(22)、「大童山」(23)、「お茶室へ」(24)、「五月雨」(25)、「夕空」(26)、「幾松」(28)、「真葛庵の蓮月」(29)、「薊」(30)があり、そのほか聖徳記念絵画館壁画の「御深曽木」新帝展の「いとさん、こいさん」などの注目される作がある。

石崎光瑤

没年月日:1947/03/25

日本画家石崎光瑤は3月25日死去した。享年64。明治17年富山県に生れ、竹内栖鳳に師事した。大正元年第6回文展に入選以来毎回出品し、文帝展審査員をつとめた。大正5、6年及び昭和8年に印度に旅行し、大正11、12年には欧州を巡つた。昭和10年帝国美術院改組とともに指定となり、昭和11年に京都市立美術専門学校教授におされた。帝国美術院賞をうけた「熱国研春」や「燦雨」「春律」等の代表作があり、写実を生かした華やかな装飾画風を示した。

濱地青松

没年月日:1947/03/18

第一美術協会理事濱地青松は3月18日郷里和歌山で死去した。享年62。明治19年和歌山県に生れ米国ボストン美術学校を卒業、アメリカに13年、フランスに2年滞留したが、帰朝後は帝展にも第9回以来出品し特選を受けるなど、文展の無鑑査として、又第一美術協会理事として活躍した。

木谷千種

没年月日:1947/01/24

閨秀日本画家木谷千種は1月24日大阪府河内郡の自宅で死去した。享年53。名を英といい、吉岡政二郎の女として明治28年大阪に生れた。池田蕉園、北野恒富、菊池契月に師事し、大正4年文展第9回以来官展に出品、女性的な人物画をよくした。近松研究家木谷蓬吟の夫人で私塾「八千草会」を開き後進の指導にも当つていた。

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