玉村方久斗
没年月日:1951/11/08日本画家玉村方久斗は11月8日杉並区の自宅に於て逝去した。享年58歳。明治26年京郡市に生る。本名善之助。京都美術工芸学校を経て同絵画専門学校を卒業した。昭和5年方久斗社を起し、同10年同志と綜合団体新興美術家協会を組織した。のち美術新協と改称し、毎秋公募展を開催したが、これは、同18年歴程美術協会、明朗美術連盟と合同した。晩年振わなかつた。
本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)
日本画家玉村方久斗は11月8日杉並区の自宅に於て逝去した。享年58歳。明治26年京郡市に生る。本名善之助。京都美術工芸学校を経て同絵画専門学校を卒業した。昭和5年方久斗社を起し、同10年同志と綜合団体新興美術家協会を組織した。のち美術新協と改称し、毎秋公募展を開催したが、これは、同18年歴程美術協会、明朗美術連盟と合同した。晩年振わなかつた。
日展参事、京都学芸大学教授太田喜二郎は、脳出血のため10月27日京都市上京区の自宅に於て逝去した。享年68歳。明治16年12月1日京都市に生れ、同36年東京美術学校西洋画科に入学して黒田清輝の薫陶を受け、同41年卒業した。同年ヨーロツパに遊学して白耳義国ガン市立美術学校に入学、傍らエミール・クラウスに師事した。新印象派の画風を習得して大正2年帰国した。翌3年大正博覧会に「赤き日傘」を出品して2等賞を受けたのをはじめ、文展に新印象派風の明るい作品を出品して2等賞を受け、同5年文展推薦となつた。この時代の作品に「帰路」「薪」「桑摘み」などがある。大正8年帝展開始以来しばしば審査員を仰せ付けられたが、次第に点描的な作風から写実的な印象主義に移り、京都の山水や田園風物をしきりに描いた。新文展日展にも屡々審査員となり、昭和25年日展参事に挙げられた。またはやくから光風会に出品して会員となつた。教育方面に於てもはやく京都市立絵画専門学校、京都帝国大学工学部の講師を嘱託され、昭和22年から同24年にわたり京都市立美術専門学校教授となり、同25年には京都学芸大学教授に任ぜられた。また昭和9年紫野洋画研究所を創立して後進を指導していた。略年譜明治16年 京都市に生る。明治35年 京都府立第一中学校卒業。明治36年 東京美術学校西洋画科に入学。明治41年 同校卒業。渡欧、白耳義国ガン市立美術学校入学、傍らエミール・クラウスに師事。大正2年 帰国。大正3年 大正博覧会へ「赤き日傘」を出品し2等賞を受く。第8回文展へ「麦刈」「帰路」「子守」出品2等賞を受く。大正4年 第9回文展に「薪」「少女」「暖き日]出品2等賞を受く。大正5年 第10回文展に「桑摘み」「夏の朝」を出品推薦となる。大正6年 京都市立絵画専門学校講師を嘱託さる。大正8年 帝国美術学院美術展覧会審査委員被仰付。同展に「薮」「夏の昼」出品。大正9年 帝展審査員被仰付。京都帝国大学工学部講師を嘱託さる。大正10年 帝展審査員被仰付。同展に「老椎の花」「洛北の農家」出品。大正11年 帝展審査員被仰付。平和記念東京博覧会審査委員。大正13年 帝展審査員被仰付。大正14年 帝展に「初秋の朝」「庭に立つ女」出品。大正15年 帝展審査員被仰付。昭和4年 帝展審査員被仰付。昭和5年 帝展審査員被仰付。昭和8年 帝展審査員被仰付。昭和9年 帝展審査員被仰付。京都府風致委員を嘱託さる。紫野洋画研究所を創立す。明治神宮絵画館壁画「黄海海戦図」完成。昭和11年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる昭和13年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる。昭和14年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる。昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展審査員を嘱託さる。昭和22年 京都市立美術専門学校教授に補せらる。昭和24年 第5回日本美術展覧会審査員を嘱託さる。京都市立美術専門学校教授解任。昭和25年 日展参事となる。日展第二科審査員を依嘱さる。京都学芸大学教授に任ぜらる。昭和26年 脳出血のため京都市の自宅に於て逝去。
馬の洋画家として知られていた倉垣辰夫は頚部腫瘍のため10月24日順天堂病院で逝去した。享年51歳。明治34年6月10日兵庫県多城郡に生れ、大正15年東京美術学校西洋画科卒業、昭和5年第11回帝展に「曲馬団」が初入選して以来、官展に作品を発表、戦後日展第5回に「競馬」第6回に「スタート前」を出品、第7回出品の「牧馬」が絶作となつた。馬に取材したその作品は堅実な写実画風であつた。
二科会創立委員の一人であつた斎藤豊作は10月7日Venvelle, Luche-Pringe Sarthe Franceの自宅に於て死去した。享年72歳。明治13年埼玉県に生れ、明治38年7月東京美術学校西洋画科選科を卒業した。翌39年フランスに留学、ラファエル・コランに学び同45年春帰国、同年光風会第1回展に滞欧作「初冬」「残れる光」を出品、翌年秋第7回文展に「夕映の流」「落葉かき」を出品、強い色彩、点描派風のタツチによる作品は当時の画壇に注目された。作品の傾向は印象派風のものであつた。大正3年石井柏亭、山下新太郎、津田青楓等と二科会を創立、監査委員として活躍した。同年の二科第1回展には「初冬の朝」第2回展に「春の夕」「初夏の雨」「夏の夕」「水草」「農家の裏庭」「雨後の海」を出品した。その後暫く出品はなく、第6回展に「残雪」「雨後の夕」「朝」を出品したが、其の後再び渡仏、同地に定住し日本画壇を離れて了つた。彼地でも制作を続けてゐたが、作品は殆ど発表する事なくフランス画壇と接触がなかつた。
独立美術協会々員富樫寅平は8月26日病気のため逝去した。享年45歳。明治39年2月27日新潟県新発田市に生れ、大正11年4月新発田商業卒業後1930年協会展に出品入選した。昭和3年5月画家志望にて上京、二科技塾に入り同7年退塾まで本格的な油絵の勉強につとめた。同6年第1回独立美術協会展に入選し、以後毎回出品今日に至つた。その間同12年「水浴」で独立賞を受け、同14年会友に推され、同18年会員に挙げられた。同会の中堅会員として毎回力作を出品、嘱目されたが業半ばにして没した。
春陽会々員、京都市立美術大学助教授国盛義篤は7月28日ランドリー氏麻痺のため入院中逝去した。享年54歳。明治30年5月6日広島県山県郡に生れ、大正12年広島一中を経て京都市立絵画専門学校卒業、在学中関西美術院にてデッサンを学んだ。同13年第2回春陽会展に初入選し、その「橋」および翌14年の「坂道」、15年の「水辺初夏」が連続春陽会賞となり、昭和9年会員に推挙されて今日に至つた。昭和22年京都市立美術専門学校助教授、24年教授となり、25年同校学制改革により大学に昇格、その助教授に任ぜられ、絶えず京都にあつて後進の指導に当つた。作風は終始写実に立脚し、初期に於ては卒直素朴、深い色調乍ら温くふくよかであり、後期に至り漸次温雅な渋い美しさをたたえ静かで重厚な画面を創つた。
日展依嘱日本画家森守明は7月11日食道癌のため逝去した。享年59歳。明治25年6月17日京都市伏見区深草伏見稲荷神社社家守信の次男として生れた。明治43年京都市美術工芸学校を卒業、続いて京都市立絵画専門学校に学び、大正12年卒業した。在学中第4回帝展に「遊仙洞」が初入選し、以後帝展、文展に出品し続けた。その間、第8回帝展「雨後」、第11回帝展「弘法大師」が夫々特選となり、昭和5年推薦となつた。又大正15年母校、美術工芸学校の教諭、昭和15年絵画専門学校の講師となり、後進の育成につとめた。一方、西山翠嶂塾の中心的存在であり、同塾青甲社展第1回以来毎回出品し、没年5月の青甲社創立30周年記念展に「町の裏道」を出品したが間もなく病臥し、これが絶作となつた。
洋画壇の長老小代為重は、昭和26年6月1日世田谷区の自宅において老衰のため逝去した。享年88。文久3年10月11日佐賀市に生れた。旧姓中野、小代家を継ぐ。明治8年上京慶応義塾幼稚舎に入り、本科に至つて中途退学し工部省修技校に学んだ。洋画は郷里の先輩百武兼行の指導を受けた。明治16年千葉師範学校、千葉中学校、千葉女子師範学校教諭となり、同19年工部大学校雇、同21年東京電信学校助教に任ぜられた。同22年明治美術会の創立に加つて会員となつたが、同29年白馬会の結成に参与して、その会員となつて作品を発表した。同33年パリに遊学、帰途ベルギー、オランダ、イギリスを巡歴したが、その後作品は少い。同34年以来青山学院中学部及青山女学院等に教鞭をとつた。白馬会時代の作品は、黒田清輝の感化を示し、その作風は明るい外光派風である。
閨秀日本画家の新人として嘱望された日本美術院々友、春泥会々員高橋米子は3月30日逝去した。享年38歳。大正2年1月2日堺市に生れ、日本美術院同人中村貞以に師事、昭和18年院展に「白扇」が初入選し以来毎回院展に出品し今日に至つたが、主として人物画に佳作多く、殊に戦後断然頭角を現し、23年「小憩」で次年度無鑑査、25年試作展「室内」で奨励賞をうけ、同年院展では秀作「白い花」によつて美術院賞、大観賞に挙げられるなど、その長足の躍進ぶりは注目に価したが、期待も空しく惜しくも夭折した。
日本画家、元帝展委員水上泰生は、2月21日杉並区の自宅で逝去した。享年74歳。明治10年10月24日福岡市に生れた。本名泰生。同34年東京美術学校日本画科に入学、同39年卒業し、傍ら寺崎広業に師事した。はやく日本絵画協会、日本美術院連合共進会、美術研精会等に出品した。大正2年はじめて第7回文展に「桐花」(六曲一双)を出品、翌年第8回文展に出品した「琉球の花」(六曲一双)、第9回文展の「樺太の夏」(同上)は、いづれも3等賞を受けた。その後も、文展、帝展、新文展に屡々大作を発表した。同8年同志と如水会を組織し、また改組日本画会々員として活躍した。大正15年には帝展委員に推された。彼は写生的な花鳥画を得意とした。
洋風画家池田永一治は12月30日逝去した。享年62才。明治22年京都に生れた。永治、牛歩、田牛作等と号した。太平洋画会研究所に学び、満谷国四郎、中村不折、石井柏亭に師事した。主として文、帝展、太平洋画会展に出品した。太平洋美術学校教授として後進の薫陶にあたつた。漫画或は日本画をもよくし大正4年岡本一平、近藤浩一路と日本漫画会を起し、また平福百穂、小川芋銭等の珊瑚会に同人として日本画を発表した。 註、年令はすべて数え年を用いた。
洋風画家渡邊審也は12月5日逝去した。享年76才。明治8年岐阜県に生れ、同23年上京、その長兄金秋について洋画を学んだ。同25年明治美術会教場に入学、浅井忠、松岡寿の指導を受け、同27年卒業した。その後も浅井の指導を受け、同28年明治美術会展覧会に「俊寛」を、同31年の同展に「猿曳」を出品して認められた。同34年太平洋画会の創立に参加し、毎年その展覧会に出品し、写実的な画風で知られた。のち時事通信社に入社して挿絵を担当し辞して文部省嘱託となつて教科書の挿絵を描いた。
洋風画壇の長老であり、太平洋画会々長吉田博は4月5日新宿区の自宅で老衰のため逝去した。享年73。明治9年福岡県久留米市に生れ、福岡の修献館に学び、洋風画家吉田嘉三郎の養子となつた。同26年京都に出でて田村宗立に師事し、翌27年東京に移り、不同舎に入つて小山正太郎の指導を受けた。明治美術会に入り、同31年の同会10周年記念展に「雪叡深秋」「雲」などを発表して漸くその名を知られた。同32年自作の水彩画を携行し、中川八郎と共にアメリカに赴いて展覧会を開き、次で、英、仏、独、伊等を巡歴、同34年帰国した。同33年のパリ万国博に「高山流水」を出品、褒状を受けた。帰国の年、同志と共に太平洋画会を創立し、その逝去に至るまで同会の為につくした。同35年同会第1回展に「榛名湖」等油絵13点、同36年の第2回展に「昨夜の雨」等21点を出品した。この年再び欧米旅行に出発、米国、欧洲諸国及びモロツコ、エジプトを巡歴し、同39年帰国した。この間、同37年米国聖路易万国博に「昨夜の雨」を出品して銅牌を受け、太平洋画会に滞欧作を送つた。同40年東京府勧業博に「ニユーヨークの夕暮」を出品して2等賞を受けた。この年の第1回文展に「ピラミツドの月夜」「新月」(水彩)を出品、後者に2等賞が授けられた。その後の第2回文展に発表した「雨後の夕」(水彩)、第3回文展の「千古の雪」にそれぞれ2等賞が与えられた。同43年文展審査員となり、大正2年に及んだ。その後は、無鑑査として毎年文展に出品した。大正8年帝国美術院創立後もその展覧会に作品を発表、「雨後」(第1回)「マウント・シヤスター」(第5回)「精進湖」(第7回)「白馬鎗」(第9回)等があり大正13年以来数回にわたり帝展委員或は審査員となつた。此の間三度欧洲に遊んだ。その後も官展及び太平洋画会展に作品を送り、晩年太平洋画会々長となつた。彼は風景画家として知られたが、木版による多くの作品をも遺した。
新聞小説の挿絵に特異の境地を出して大衆的人気をよんだペートル河野通勢は3月31日逝去した。年55。明治28年群馬県に生れ、一時は長野にも住んでいたことがある。二科会第1回から出品し、草土社展にも発表、大正13年春陽会賞をうけ、15年春陽会々員となつたが、昭和4年国展会員に推薦されて以後この会にとどまつた。代表作には11回文展の「自画像」や第8回国展「ピクニツク」などがあり、突きこんだ異色ある人物画をかいた。エツチングにも特色を出し、また挿絵等の風俗描写にも鋭い表現を示した。
帝室技芸員、日本芸術院会員南薫造は、1月6日広島県賀茂郡において逝去した。享年68。明治16年同郡に生れ、同35年東京美術学校西洋画科に入学、同40年3月卒業した。同年イギリスに留学、ボロー・ジヨンソンに師事し、同42年フランスに転じて研究を続け、翌43年に帰朝した。同年第4回文展に「坐せる女」を出品して3等賞を受け、第5回文展に「瓦焼き」第7回文展に「春さき」、第9回文展に「葡萄棚」を出品していずれも2等賞を授けられた。大正5年以来文展及び帝展審査委員に挙げられ、昭和4年帝国美術院会員を仰付けられた。帝展に発表した作品に「とりいれ」(第2回)「結氷の湖水」(第3回)「湖畔」(第4回)「鶴渡る」(第10回)「まきば」(第12回)等がある。昭和4年東京工業大学講師となり、同7年東京美術学校教授に任ぜられ、同19年に及んだ。同12年帝国芸術院会員を仰付けられ、同19年帝室技芸員を拝命した。終戦後も疎開先に在つて、文展或は光風会等に作品を送つたが、遂に東京に帰ることなくして没した。
洋風画家北蓮蔵は、12月21日渋谷区の自宅に於て食道癌のため逝去した。享年74。明治9年岐阜市に生れ、上京して同22年から山本芳翠の生巧館画塾に学び、次で同27年黒田清輝、久米桂一郎の天真道場に入り、更に同30年東京美術学校に入学、翌31年卒業した。夙く白馬会に加わり、同展覧会に「魚売り」(第2回)「遺児」(第4回)等を発表した。彼は山本芳翠の薫陶によつて演劇の背景製作をよくし、同43年から大正3年まで帝国劇場背景主任として活躍した。昭和2年渡欧、各国を巡遊して同5年帰国。官展に於て無鑑査であつた。その代表作に明治神宮絵画館の「岩倉具視公病床行幸図」がある。
洋画家森脇忠は京都の自宅で10月13日胃癌のため死去した。享年62。明治21年島根県に生れ、大正3年東京美術学校を卒業した。大正3年以来文展に出品帝展に特選を受け無鑑査となつた。華畝洋画会に属し、又、三高、京都高等工芸学校の講師などをつとめた。
明治、大正、昭和三代にわたつて多くの秀れた美人画をのこした上村松園は8月27日奈良県生駒郡の別邸唳禽荘で肺臓癌のため逝去した。享年75才。松園は本名を常子、明治8年京都市の茶補上村太兵衛の二女に生れ、13才の時京都府画学校に入学、鈴木松年の指導をうけた。翌年松年が退校するに当り共に退学、正式に松年の門に入る。第3回内国勧業博に「四季美人図」を出してみとめられ、折から来朝中の英国コンノート殿下の買上げとなつた。その後松年の許可を得て、幸野楳嶺に就き傍ら漢学を市村水香、詩を長尾雨山に学んだ。楳嶺没後は社中と共に竹内栖鳳に師事、その間男子に伍しての烈しい精進ぶりはよく知られる所である。この頃のものには「清少納言」「義貞聴琴」等歴史風俗が多く、後年の洗練された技巧に対し、鈴木派の生硬な筆致がみられる。明治40年文展開設されるや連年秀作を発表、大正期の「深雪」「花がたみ」「焔」など情懐深いものから晩年昭和期の「草紙洗小町」「夕暮」など手堅い様式化へ発展、技巧は円熟し、洗練された色調と共に他の追随を許さぬ画風を示した。昭和16年芸術院会員、19年帝室技芸員、23年には文化勲章を受けた。昭和20年以降は奈良郊外唳禽荘にこもり作画三昧の日日を送つていたものである。略年譜明治8年(1才) 4月23日京都市に生る。厳父太兵衛2月逝去。明治14年(7才) 仏光寺内開智小学校に入学。明治20年(13才) 京都府画学校に入学。明治21年(14才) 画学校退学鈴木松年の門に入る。明治23年(16才) 第3回内国勧業博覧会「四季美人図」出品褒賞(英国コンノート殿下御買上となる)。日本美術協会「美人吹笛図」明治24年(17才) 日本美術協会「美人詠歌図」京都御苑内、日本青年絵画共進会「美人観月」明治25年(18才) 京都御苑内、春季絵画展「美人納涼」明治26年(19才) 松年の許可を得て幸野楳嶺に師事。日本美術協会「美人弾吹図」3等賞銅牌。米国シカゴ博農商務省下命「四季婦人図」明治27年(20才) 日本美術協会「美人掲簾図」出品、褒状2等。明治28年(21才) 幸野楳嶺死去、竹内栖鳳に師事する。日本美術協会「古代美人図」褒状2等。第4回内国勧業博覧会「清少納言」褒賞。京都御苑日本青年絵画共進会「義貞聴琴図」3等賞。明治29年(22才) 日本美術協会春季展「暖風催眠」褒状1等。日本美術協会秋季展「婦人愛児図」褒状1等。明治30年(23才) 日本美術協会秋季展「梅花粧図」3等賞銅牌。日本絵画協会「頼政賜菖蒲前」2等褒状 京都御苑内全国婦人製作品展「美人観音」1等褒状明治31年(24才) 京都御苑内京都絵画共進会「一家団欒」3等銅牌。日本美術協会「古代上臈図」3等賞銅牌。新古美術品展「重衡朗詠」3等銅牌。明治32年(25才) 京都新古美術品展「人生の花」3等賞。全国絵画共進会「美人図」「孟母断機」。日本美術協会「官女図」褒状2等。明治33年(26才) 日本絵画協会8回絵画共進会「花ざかり」銀牌。パリ万国博覧会「母子」銅牌。京都新古美術協会創立10周年回顧展「軽女惜別」2等銀牌。明治34年(27才) 京都新古美術品展「園裡浅春」1等褒状。第1回岐阜絵画共進会「吹雪」銅牌。絵画研究大会「半咲図」銅牌。昭和35年(28才) 日本美術院「時雨」3等賞。日本美術協会「少女図」3等賞銅牌。信太郎(松篁)生る。明治36年(29才) 第5回内国勧業博覧会「姉妹三人」2等銀賞2席。北陸絵画共進会「春の粧」銅牌。明治37年(30才) 新古美術品展「遊女亀遊」4等賞。セントルイス万国博「春の粧」銀賞。明治38年(31才) 新古美術品展「花のにぎはひ」3等銅牌。明治39年(32才) 新古美術品展「柳桜」3等銅牌。京都市初音小学校へ「税所敦子孝養図」を寄贈。明治40年(33才) 日本美術協会「虫の音」3等賞銅牌。北陸絵画共進会「花のにぎはひ」1等賞。第1回文展「長夜」3等賞。明治41年(34才) 2回文展「月かげ」3等賞。北陸絵画共進会「桜がり」1等金牌。新古美術品展「秋の夜」3等銅牌。明治42年(35才) ロンドン日英博「花見」。ローマ万国博「花の賑ひ」金牌大賞。新古美術品展「虫の音」3等銅牌。明治43年(36才) 第4回文展「上苑賞秋」3等賞。京都新古美術品展「人形つかひ」2等銀賞。10回巽画会「花」2等銀賞。明治44年(37才)「吹雪」「新粧」大正2年(39才) 第7回文展「蛍」3等賞。「化粧」大正3年(40才) 大正博覧会「娘深雪」2等銀賞。第8回文展「舞仕度」2等賞。大正4年(41才) 第9回文展「花がたみ」2等賞。大正5年(42才) 第10回文展「月蝕の宵」推薦。文展会場にて皇太后宮行啓、御前揮毫を命ぜられ「古代舞姫」謹作。大正6年(43才) 秋、皇太后宮京都へ行啓、公会堂にて「初春図」御前揮毫。大正7年(44才) 12回文展「焔」「天人」皇太后文展行啓の折「紅葉がり」御前揮毫。大正11年(48才) 4回帝展「楊貴妃」大正15年(52才) 聖徳太子奉賛展「娘」。8回帝展「待月」昭和3年(54才) 御大典記念御用画「草紙洗」昭和4年(55才) 伊太利日本画展「伊勢大輔」「新蛍」昭和5年(56才) 高松宮家御用画「春秋」二曲一双昭和6年(57才) ドイツ、ベルリン日本画展「虫ぼし」出品、同国政府の希望により同国々立美術館へ寄贈、同年7月同国より2等赤十字章を授けられる。昭和7年(58才) 「虹を見る」「蛍」昭和8年(59才) 高松宮家御用画「春秋」(双幅)昭和9年(60才) 京都市展「青眉」。15回帝展「母子」政府買上。母堂仲子刀自逝去。昭和10年(61才) 1回春虹会「天保歌妓」東京三越展「鴛鴦髷」「土用干」。京都1回五葉会「夕べ」。東京高島屋展「春苑」。昭和11年(62才) 2回春虹会「春宵」。京都2回五葉会「時雨」「柳蔭納涼」。文展招待展「序の舞」政府買上。京都表装展「秋の粧」昭和12年(63才) 3回春虹会「春雪」。学習院御用画「夕べ」。1回文展「草紙洗小町」政府買上。皇太后御用画「雪、月、花」昭和13年(64才) 2回文展「砧」東京高島屋珊々会「緑雨」4回春虹会「移らう春」昭和14年(65才) 5回春虹会「春鴬」珊々会「風」京都美術倶楽部30周年記念「鼓の音」昭和15年(66才) 6回春虹会「櫛」珊々会「若葉」春芳堂展「春便」本山幽篁堂展「春芳」三越展「冬雨」画室社展「春光」東西名家新作展「むしの音」ニユーヨーク万博「鼓の音」昭和16年(67才) 珊々会「夕べ」京都市展「晴日」7回春虹会「春に詠ず」5回文展「夕暮」11月約1ヶ月間中支旅行。芸術院会員に任ぜられる。昭和17年(68才) 満州国献納画「婦人愛児」昭和18年(69才) 「新蛍」「烈女はつ」6回文展「晴日」朝日新聞関西邦画展「晩秋」昭和19年(70才) 「牡丹雪」「待月」。帝室技芸員拝命。昭和20年(71才) 2月奈良県平城へ移転。昭和23年(74才) 高島屋白寿会「庭の雪」10月25日芸術院第一部日本画会員13氏と共に賜餐、11月3日文化勲章拝受。昭和24年(75才) 松坂屋巨匠展「初夏の月」絶筆、8月27日逝去、叙従4位。
疎開先の富山県西礪波郡に於て脳溢血のため逝去。享年85。本名純孝、慶応元年愛媛県松山に生る。明治20年前後本多錦吉郎、小山正太郎に就て洋画を学び同23年の第3回内国勧業博覧会に「慈悲者の殺生図」を出品して褒状を受けた。はじめ明治美術会に加つて、その展覧会に出品したが、同30年頃から日本画に転じ、南画家として知られた。又正岡子規の門に入り、内藤鳴雪、高浜虚子等と共に俳句を学び、その方面でも知られていた。
春陽会々員小林徳三郎は、4月19日豊島区の自宅で急逝した。享年66。明治17年広島県に生る。幼名藤井嘉太郎、後母方の伯父小林徳三郎の養子となり、襲名す。号天徳堂。明治42年東京美術学校を卒業、大正元年フユウザン会の創立に加わり、これに出品した。その後島村抱月の芸術座の舞台装飾主任となり、大正5、6年頃に至つた。同8年院展洋画部に「鰯」を出品、その後同展に発表した。大正12年春陽会第1回展に「鰯」その他を出品、その後毎回出品、大正15年同会々院に推された。昭和8年以来病に罹り、房州館山に療養生活の傍ら制作した。同11年帰京、同14年頃から多く江の浦に滞在、多数の作品を生んだ。昭和20年戦災のため箱根強羅に移り、同24年帰京したが、この年急逝した。その主な作品に「子供」(昭和2年)「金魚を見る子供」(同3年)「小卓子」(同6年)「へちま」(同7年)「窓辺の子供」(同11年)「河口湖夕照」(同15年)「江の浦残照」(同16年)「郊外落日」(同24年)等がある。