浅野弥衛

没年月日:1996/02/22
分野:, (洋)
読み:あさのやえ

 画家浅野弥衛は、2月22日午前6時45分、脳梗塞のため三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年81。大正13(1914)年10月1日、三重県鈴鹿市の参宮街道に面した、江戸時代から煙草の仲買商を営んでいた旧家の長男として生まれた。昭和7(1932)年、中学校を卒業後、職業軍人となり、同年満州に渡り、翌年帰国したとされる。この頃から絵筆を手にするようになり、また戦後詩人として知られるようになる津市在住の野田理一(1907年生まれ)と親交するようになり、野田の所有していたヨーロッパの画集や雑誌から、欧米の新しい芸術運動を知った。しかし、未知の表現も、彼にとって「驚きはなかった。能、カブキはシュールなものだし、床の間の違いダナのアンバランスだってそうだ。日本に昔からあったんや」(「洋画家浅野弥衛氏(訪問)」、『中日新聞』1971年3月13日)と回想しているように、後に独自の抽象絵画にむかう姿勢を、すでにしめしていた。本人の回想によれば、「昭和十三年か、十四年か、」に美術創作家協会に初出品し、「上野の美術館」に自作である「モノクロームの小さい作品」を見るために上京した、としている。(「ふるさと」、『朝日新聞』1961年1月17日)しかしながら、この初出品については、改称する以前の自由美術家協会展の第2回展(同12年)から第4回展(同15年)までの出品目録では確認できず、また改称後に上野で開催された第5回展(同16年)の出品目録は未見のため、確認できていない。戦争中は、三度応召し、戦後の同25年に鈴鹿信用組合理事となり、また美術文化協会会員となった。同28年、鈴鹿信用組合が鈴鹿信用金庫に改組され、その代表理事に就任、同34年まで勤め、その間、昼間は銀行での勤務、帰宅後の夜に制作をする生活がつづいた。同38年、美術文化協会を退会。その後、名古屋、東京、三重県内での個展を毎年開催しながら、制作をつづけた。その独自の抽象表現を築いたのは、1950年代後半からで、乳白色の画面をひっかいた無数の鋭い線によって表現され、ナイーブだが、独特の叙情的な小世界をつくりあげていた。この線を主体にした表現は、その後も一貫して追求され、徐々に評価をたかめていった。同62年から平成2(1990)年まで、愛知県立芸術大学の客員教授をつとめ、翌年には三重県民功労賞を受賞した。歿する直前の同8年1月に、郷里の三重県立美術館において初期から近作にいたる約250点によって構成された回顧展「浅野弥衛展」が開催され、自らの資質に沿いながら制作をつづけてきたこの寡黙な抽象画家の全貌が紹介された。

出 典:『日本美術年鑑』平成9年版(344-345頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「浅野弥衛」『日本美術年鑑』平成9年版(344-345頁)
例)「浅野弥衛 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10644.html(閲覧日 2024-03-29)

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