多賀谷伊徳

没年月日:1995/04/24
分野:, (洋)
読み:タガヤ, イトク*、 Tagaya, Itoku*

 洋画家多賀谷伊徳は4月24日午前10時55分、脳血栓のため北九州市八幡区西の萩原中央病院で死去した。享年77。大正7(1918)年4月1日、福岡県遠賀郡芦屋町21-12に生まれる。遠賀郡芦屋町立山鹿小学校を経て福岡県立東筑中学校に入学し、同校在学中に前田寛治の友人であった叔父の影響もあって独学で油彩画を始める。昭和11年、第1回九州美術協会展に出品。同13年第2回主線美術展に「海」で初入選。同年同郷の寺田政明を頼って上京し、いわゆる「池袋モンパルナス」の一員として靉光麻生三郎松本竣介井上長三郎らと交遊し、また、瀧口修造をはじめ、福沢一郎阿部展也斎藤義重らシュールレアリスムの画家たちを知る。同14年第9回独立美術展に「気穴持つ生物」で初入選。同年福沢一郎等が創立した美術文化協会に参加。同年秋、大刀洗飛行隊に航空気象兵として入隊。同15年第1回美術文化展に「飛朔する前」「朱い実のある樹」を出品する。この頃、台湾に配属となる。同16年、同年創刊の「台湾文学」に詩、挿し絵を発表し、臺陽展に「岩に咲く花」を出品する。同17、18年も戦地から美術文化展に出品を続ける。同18年除隊。同19年第5回同展に「アラカンへ」「仏門(森の廃小乗寺)」を出品し、美術文化賞受賞。同21年美術文化協会会員となる。同22年前衛美術家が集まり日本アヴァンギャルド美術家クラブが結成されることとなると、これに加わり、同会が有楽町のアニー・パイル劇場内の図書館で行った常設展に出品して、米国コレクターに注目される。同24年第1回読売アンデパンダン展に出品。以後同28年第5回展まで出品を続ける。同27年第12回美術文化展に「踊(倭人)」「西風(倭人)」を出品し、同会を退会。同29年、末松正樹とともに渡欧し、パリで個展を開く。また、サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル展にも出品して、同年帰国。同30年銀座松屋で個展を開き、滞欧作を発表。同年岡本太郎の招きで二科会に参加し第40回同展に「濁」「人」「集(お能より)」を出品する。同33年有田市岩尾対山窯で磁器壁画の制作に成功し、以後陶板壁画、陶器の制作にも興味を抱く。同35年再度渡欧し、個展を聞き、翌年オランダ、ベルギ一、ドイツ、スペイン、イタリア、ギリシャ、エジプト等を巡って帰国する。同年岡本太郎とともに二科会を退会。以後、個展を中心に制作を発表する。同41年第3回目の渡欧。パリで個展を開いた後、アメリカ、メキシコを巡遊して帰国。その後も2、3年おきに渡欧し、パリを中心に個展を開催する。同49年2月2日自宅裏に「タガヤ美術館」(総面積600平米、高さ9m、3階建)を開設して、自作ならびにルネサンス期から現代までのヨーロッパ版画を展示する。同52年『多賀谷伊徳作品集』(三彩社刊)を刊行。同年自宅近くに開窯し、「姫窯」と命名する。画業を始める時期からシュールレアリズムの傾向を帯びた抽象表現を行い、「珊瑚礁」「仏門」等、実際の景観を抽象化してとらえる作品から、抽象表現を通じて「青い太陽の幻想」などの内的イメージや概念を象徴する作品、および「作品」等と題する純粋に造形的主題のみを追求した抽象画の制作へと展開した。北九州市庁舎の陶器壁画「船と太陽」、芦屋町庁舎の陶器壁画「海日輪」など公共建築のための大規模な制作も多く行っている。昭和54年に北九州市立美術館で「多賀谷伊徳展」が開催されており、年譜、関係文献については同展図録に詳しい。

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出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(318-319頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2019年06月06日 (更新履歴)
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