本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





永地秀太

没年月日:1942/12/14

旧帝展審査員元東京高等工芸学校教授洋画家永地秀太は、淀橋区の自宅で糖尿病療養中のところ脳溢血を併発12月14日逝去した。享年70。明治6年7月15日山口県に生れ、同23年9月松岡寿に師事、25年明治美術会附属教場絵画科に入り、27年4月卒業した。35年中村不折石川寅治等と大平洋画会創立に参加、又31年から陸軍中央幼年学校に勤務して大正8年教授となり、同9年退官、同年より文部省在外研究員として外遊、11年7月帰朝して8月東京高等工芸学校教授に任ぜられた。この間諸展に作品を発表、第3回文展出品「静物」は褒状となり、第7回文展出品「しぼり」は3等賞に推された。大正11年仏国官設美術展へ本邦美術品を出陳するに際してその事務を囑託され、翌年同展の準備委員、同年仏国政府よりレジヨンドノール勲章を贈られた。第4回展より審査員たること数回、昨年まで東京高等工芸学校にあつて後進の教育にあたつてゐた。

渡辺幽香

没年月日:1942/12/05

女流洋風画家渡辺幽香は12月5日逝去した。享年88歳。安政2年初代五姓田芳柳の子として生れ、洋風画を学び、後洋風画家渡辺文三郎に嫁して、渡辺姓を名乗つた。華族女学校に教鞭をとつたこともあり、明治19年には「寸陰蔓稿」なる日本風俗画集を石版画によつて玄々堂より発行し、翌年にはA Pictorial Museum of Japanese Manners and Customsなる同様な風俗画集を出版した。晩年は東京市外吉祥寺に在つて老齢を養ひつつあつた。

加藤静児

没年月日:1942/11/27

文展無鑑査、光風会々員加藤静児は、胃癌のため11月27日渋谷区の自宅で逝去した。享年56。明治20年6月1日愛知県海部郡に生れ、明治43年東京美術学校洋画科卒業、在学中第3回文展に「山かげ」「元学習院」「早春」を出してより連年作品を発表、その間大正9年4月より11年7月にかけて外遊した。大正12年光風会々員となり、昭和5年には帝展無鑑査に推された。昭和11年招待展出品の「奥日光の秋」は文部省買上となり、本年度文展に出品した「秋晴」も宮内省買上となつたところであつた。文展以外に光風会に作品を陳べ、そのほか屡々個展を開いてゐた。又愛知社同人として郷土芸術振興に尽力するところがあつた。

能勢亀太郎

没年月日:1942/11/23

従軍画家として南支にあり、大東亜戦争後昭南に向つた能勢亀太郎は、現地で発病還送されたが、その後自宅にて療養中11月23日死去した。享年50。明治26年12月17日鳥取県東伯郡清水範忍二男に生れ、後改姓、大正8年東京美術学校西洋画科卒業、研究科を経て同14年には欧州へ遊学し、昭和2年帰国、同4年から6年へかけて再度渡仏した。帰国後は帝展文展に出品、白日会々員となり、能勢洋画塾を開いてゐた。昭和13年から北京に遊び、同15年には陸軍航空本部嘱託として支那を巡歴、重慶爆撃行にも参加、翌年「重慶三部作」のうち二部を完成して第1回航空美術展に出品したが、同年末より再び南支従軍となつたものである。

岡田七蔵

没年月日:1942/11/11

元春陽会々友岡田七蔵は6月頃より健康を害してゐたが11月11日逝去した。享年47。明治29年北海道札幌に生れ、日本水彩画会研究所並に本郷絵画研究所に学び、大正5年より二科会に出品、同13年より春陽会に出品した。昭和3年「鉄橋」を発表して春陽会賞に推され、同5年会友となつた。9年春陽会を脱退、15年には国展に「尾の道風景」を発表して精進を重ねてゐた。

野口良一呂

没年月日:1942/08/02

創元会々員野口良一呂は8月2日死去した。享年39。明治37年9月18日東京下谷に生れ、清原重以智及び富田温一郎に師事、又本郷絵画研究所に学んだ。昭和7年白日会々員となり、15年退会後創元会に参加したものである。この間帝展、文展をはじめ諸展に作品を発表してゐた。

伊藤快彦

没年月日:1942/06/16

京都の早い洋画家として知られた若王子の伊藤快彦は6月16日逝去した。享年76。慶応3年7月8日京都に生れ、明治20年2月京都府画学校西洋画科を卒業、のち上京して原田直次郎に学び、爾後明治美術会、関西美術会、その他博覧会等に作品を発表した。関西美術院の幹事或は院長として久しく関西洋画会に尽力するところがあつた。しばらく若翁と号したこともある。

井上脩

没年月日:1942/05/07

東光会々員井上脩は5月7日死去した。享年42。明治34年10月6日広島県高田郡甲立町に生れ、昭和5年東京美術学校卒業、在学中帝展に初入選、以後帝展、文展、東光会展に作品を発表し昭和13年より東光会会員であつた。

岡野栄

没年月日:1942/03/21

女子学習院教授岡野栄は3月21日糖尿病のため赤坂区の自宅で逝去した。享年63。明治13年4月7日東京に生れ、白馬会洋画研究所に学び黒田清輝に師事、つづいて東京美術学校洋画選科に入り35年卒業した。明治41年2月女子学習院に奉職、教授となり、34年の久しきに亘つて勤続、正4位勲4等に叙せられた。この間、明治43年には、中沢、山本等7名と共に光風会を創立、爾後同人として作品を発表し、大正14年には宮内省在外研究生として欧州に遊学したことがあつた。

丸山晩霞

没年月日:1942/03/04

水彩画家山岳画家として著名な大平洋画会員日本水彩画会理事丸山晩霞は、郷里長野県小県郡羽衣荘で静養中のところ3月4日死去した。享年76。本名は健作、18歳の時上京して神田の勤画学舎に学び、一旦帰郷の後彰技堂に入塾、洋画を修業した。吉田博、三宅克己と親交を結び、明治32年満谷、河合、鹿子木等と共に渡米、欧州を廻つて34年帰朝、翌35年には大平洋画会設立に尽力した。40年大下藤次郎等と日本水彩画研究所を設立、44年より再渡欧してアルプスを尋ね、大正3年大正博覧会には「白馬の神苑」を発表し好評であつた。爾後晩年まで製作を続け、各地風景画を描いて次第に南画的傾向も帯びたが、芸術上の活動は衰へた感がある。昭和15年には三笠宮殿下に末松中将を経て南洋風景画を献上し奉つた。略年譜慶応3年 5月3日長野県小県郡丸山平助次男として生る、名健作明治16年 一時児玉果亭に師事明治17年 上京して神田錦町勤画学舎に洋画を学ぶ明治18年 帰郷明治21年 上京、彰技堂入塾明治24年 自活に窮し帰郷明治29年 吉田博と飛騨へ写生旅行明治30年 定津院嘉部祖導師に参禅、居士号「晩霞天秀」をうく明治31年 明治美術会創立10周年記念展に「冬の日中」等十六点出品明治32年 明治美術会展「花野の朝」外水彩画多数出品、三宅克己と親交を結ぶ、10月渡米明治34年 帰朝明治35年 1月大平洋画会1回展に「初冬の朝」「森のもれ日」「野末の流れ」等出品、画室を作り、三宅克己の後任として小諸義塾に図画を教ふ明治36年 大平洋画会2回展「湯尻」其他出品明治37年 藤村の小説「水彩画家」新小説出づ明治38年 上京、駒込に仮寓明治39年 木下藤次郎と水彩画講習所開設明治40年 3月東京勧業博覧会「麦焼く夕」「夏の光」、5月住宅新築、十月木下藤次郎、河合新蔵、真野紀太郎等と日本水彩画会研究所設立、この年日本橋松声堂より絵葉書集刊行明治41年 1月小笠原島に写生旅行す、太平洋画展「薄日の妙義山」、文展第2回「真夏の夕」明治42年 太平洋画展「崖の上から」「初夏」明治43年 太平洋画展「森」明治44年 3月第2次外遊出立明治45年 7月帰朝、帝国ホテルに滞欧作品展開催(出品258点)大正2年 4月日本水彩画会改組大正3年 大正博覧会「白馬の神苑」大正12年 本籍を本郷に移す、平井武雄と共に日本水彩画会員作品を携へ中支、印度各地に巡回展開催大正14年 水彩画会展に中支、印度における作品を特陳昭和7年 日本水彩画会有志と共に国産水絵用材研究会結成昭和11年 羽衣荘落成昭和15年 10月23日三笠宮殿下に南洋風景画献上昭和17年 3月4日没

安孫子真人

没年月日:1941/08/12

美術文化協会同人安孫子真人は8月12日逝去した。享年29。山形県に生れ大平洋画会研究所に学び、昭和12年渡仏、14年帰朝後右同人となつた。

田崎延次郎

没年月日:1941/07/28

旧工部美術学校出身で囃子の研究家として知られてゐた田崎延次郎は7月28日逝去した。享年80。文久2年の生れで明治16年工部美術学校修業後、東京職工学校、農商務省専売特許局等に奉職し、明治32年には陸軍助教となり43年休職、その他諸種の学校に図画授業を担当、晩年は謡曲に関する著述に没頭してゐた。

鹿子木孟郎

没年月日:1941/04/03

京都の洋画家鹿子木孟郎は脳溢血のため左京区の自宅で静養中、尿毒病を併発し4月3日逝去した。享年68。明治7年岡山市に生れ、早く洋画に志して松原三五郎、小山正太郎にまなび、その後渡欧3回、ローランス、ルネ・メナールに師事した。第2回文展に出品した滞欧作「ローランス画伯の肖像」等は良く知られる作で、このほか明治神宮絵画館の「奉天入城図」支那事変に際して遊就館に納めた「南京入城図」等の大作がある。忠実な手がたい作風を示し、ことに肖像画は得意であつた。昭和7年には仏国政府よりシユヴアリエ・ド・ロルドル・ナシヨナル・ド・ラ・レジオンドヌール勲章を贈られた。略年譜明治7年 11月9日岡山市東田町に生る、父は池田藩士宇治長守明治14年 この頃伯父の家をつぎ、鹿子木を姓とす明治21年 岡山高等小学校卒業、松原三五郎の天彩学舎に入る明治23年 東京に遊学せしも脚気のため帰郷、岡山中学予備校図画教員となる明治24年 10月肖像画家として岡山香川、徳島諸県を漫遊明治25年 11月東京へ再遊学、小山正太郎の不同舎に入る明治28年 中等教員図画免許状をうく、6月滋賀県彦根中学助教諭明治29年 8月三重県津中学校助教諭、教諭明治32年 4月埼玉県師範学校助教諭明治33年 11月渡米明治34年 4月渡米、6月仏国着、ジヨン・ポール・ローランスに師事、10月住友家の給費を受くるに決す明治36年 ベルギー、スヰス、イタリアに遊ぶ明治37年 4月帰朝、京都室町に住し、画塾をひらく、9月京都高等工芸学校講師明治38年 11月中沢岩太、浅井忠等と関西美術院創立明治39年 2月住友家の後援にて再渡仏、ローランスにつく 滞仏中仏国サロンに入選、アカデミー・ジユリアン一等賞牌をうく明治41年 1月帰朝、京都工芸高等学校講師、6月関西美術院長、第2回文展審査委員「ローランス画伯の肖像」「漁夫の家」「ノルマンデーの海岸」文展出品明治42年 第3回文展審査委員「新夫人」「浅間山中」「河原氏の肖像」文展出品明治43年 第4回文展審査委員、9月伊太利万国博覧会美術品出品監査委員「紀州勝浦」「林泉」文展出品明治44年 第5回文展審査委員、9月名古屋高等工業学校講師「アンスピラシオン」「舞子の浜」文展出品大正元年 第6回文展審査委員「鴨東の妓」「若王寺滝」「某未亡人の肖像」文展出品大正2年 第7回文展審査委員「加茂の競馬」文展出品大正3年 「水の流れ」「逍遥」文展出品大正4年 4月京都名古屋両学校講師辞職、6月関西美術院長辞職、12月渡仏、「札幌郊外」「書斎に於ける平瀬介翁」文展出品大正5年 2月仏国着、ローランスに師事、滞仏中ルネ・メナールにつく大正6年 11月出発、スペイン、米国に寄る大正7年 3月帰朝、5月京都下鴨に住し下鴨画塾を創む大正11年 11月京都美術協会常設委員「ボア・ド・ブーロンニユ」「牛」帝展出品大正13年 帝展審査員「加茂の森」「牧童」帝展出品「大正十二年九月一日」大正14年 「赤手空拳」帝展出品昭和元年 9月明治神宮絵画館壁画「奉天入城図」成る、11月京都美術協会評議員「和辻博士像」「紀州潮の岬」帝展出品昭和2年 「尾張磯浦」帝展出品昭和3年 1月大阪画塾を創む、8月大礼記念京都大博覧会美術鑑査員、12月国際美術協会美術展覧会審査員 帝展審査員 「田島博士」帝展出品昭和4年 8月大礼記念京都美術館委員、12月日仏協会京都支部理事「一つの林檎」帝展出品昭和5年 北海道へゆく、「北海道層雲峡」帝展出品昭和6年 6月大阪画塾閉鎖、帝展審査員「マドモアゼル喜多」帝展出品昭和7年 10月仏国政府よりシユヴアリエ・ド・ロルドル・ナシヨナル・ド・ラ・レジオンドヌール勲章を贈らる、帝展審査員「大台ヶ原山中」帝展出品昭和8年 11月京都美術館評議員「大台山中の渓谷」帝展出品昭和9年 2月大阪三越にて個展、3月京都美術館美術展覧会顧問、同委員「浴女」帝展出品昭和11年 「陸中中野海岸」文展招待展出品昭和12年 「白薔薇」文展出品昭和13年 松風嘉定より「南京入城図」を依頼さる昭和15年 「南京入城図」成る、12月陸軍省へ献納昭和16年 4月3日没

斎藤八十八

没年月日:1941/03/04

南支沿岸封鎖作戦に従軍中の洋画家斎藤八十八は3月4日西江右岸地区で戦死をとげた。年50、明治25年東京麻布に生れ、東城鉦太郎に師事し文展にも出品した。支那事変以来上海方面をはじめ、漢口、山東方面にも従軍し、今回は4回目の従軍であつた。戦死と同時に海軍省嘱託を命ぜられた。

大塚金吾

没年月日:1941/03/04

南支沿岸封鎖作戦に従軍中の画科大塚金吾は3月4日西江右岸地区で斎藤八十八とともに戦死をとげた。年48、仙台に生まれ大正元年葵橋研究所に入学、黒田清輝に師事し、その後河北新報社東京支局に勤務してゐた。戦死と同時に海軍省嘱託を命ぜられた。

岩井尊人

没年月日:1940/12/18

岩井尊人は12月18日逝去した。享年49歳。奈良県の出身で、渡欧、ジヨージ・クラウゼン、スタンレー・アンダーソン、ピブワス等に絵画彫刻を学び、英国RBAの会員であつた、法学士で広田内閣の際には文相秘書官となつた。

長谷川利行

没年月日:1940/10/12

二科出品の洋画家長谷川利行は10月12日東京市養育院に於て逝去した。享年49歳。京都の生れで、大正14年以降二科に出品、昭和2年に樗牛賞を受けた。又屡々新宿天城画廊に個展を開催、奇矯な人柄と作風を知られてゐた。

呉建

没年月日:1940/06/27

東京帝国大学教授、呉内科の呉建博士は6月27日心臓病のため逝去した。享年58歳。博士は予て油絵を余技とし、忙中数多くの大作を執筆、帝展文展には入選6回に及んでゐた。

瀬野覚蔵

没年月日:1940/05/04

洋画家瀬野覚蔵は5月4日逝去した。明治21年京都に生る。初め松原三五郎の門に入り、後白馬会洋画研究所に於て黒田清輝、岡田三郎助に師事した。大正3年より屡々渡支、「覚蔵滞支記念画集」がある。爾来、帝展文展に出品、今次支那事変の勃発するや昭和13年中支各地に従軍、本年2月には陸軍省囑託として南寧、海南島の各戦線を歴訪した。近年執筆の国防館壁画「突撃」、近衛師団所蔵の静岡県下特別大演習図等はその代表作である。

岡田三郎助

没年月日:1939/09/23

帝室技芸員、帝国芸術院会員、東京美術学校教授、従3位勲2等岡田三郎助は、予て療養中のところ9月23日渋谷区の自邸に逝去した。享年71歳。9月25日青山斎場に於て神式を以て葬儀執行、11月11日青山墓地に埋葬した。 明治2年1月12日佐賀県佐賀市に石尾孝基の四男として生る。幼名芳三郎。幼くして上京、旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治20年東京帝国大学工科大学助教授曽山幸彦に就学し、初めて洋風画を学ぶ。此の年岡田正蔵の養嗣子となり岡田姓を称す。同24年明治美術会々員となる。師曽山の夭折後其の家塾を承継せる堀江正章、松室重剛の大幸館に留まり、25年修了す。26年黒田清輝、久米桂一郎と知り、彼等の薫陶を受く。28年第4回内国勧業博覧会に「初冬晩暉」を出品して3等賞を受け、漸く画名を知らる。翌29年東京美術学校に西洋画科の新設さるるや、擢でられて助教授を拝命、又此の年白馬会の創立に参画し、其の第1回展覧会に20余点を出品す。此の時代その初期のアカデミツクな画風より印象派の傾向への転換期に在り。明治30年西洋画研究の為文部省より満4年間仏国に留学を命ぜられ出発す。専らラフアエル・コランに師事し、研鑚を遂げ、同35年1月帰朝す。此の年12月東京美術学校教授となる。翌36年第5回内国勧業博覧会に滞仏作品「読書図」を出品2等賞を受く。又此の時代まで白馬会に出品して活躍す。同40年東京府勧業博覧会審査官となり、自ら「某夫人像」を出品1等賞を受く。此の年文部省美術審査委員会創設さるや、その第二部委員となり、爾後官設展覧会の為に尽瘁するところ大であり、又自らもほとんど毎回力作を出品した。明治45年には藤島武二と図り本郷に洋風画指導機関本郷絵画研究所を創設し、民間に在つても後進の指導に尽力した。大正8年帝国美術院の創設と共に挙げられて会員となつた。同13年東京美術学校西洋画科主任を命ぜられた。昭和5年2月文部省より欧州出張を命ぜられ、各国の美術及び美術工芸の研究を遂げ、同年11月帰朝した。同9年帝室技芸員を拝命し、同10年改組後の帝国美術院会員に挙げられ、又満洲国に出張した。同11年には一時東京美術学校長事務取扱を命ぜられた。翌12年には多年の功労に依り文化勲章を拝受し、又新設の帝国芸術院会員となつた。13年より健康を害したが猶制作を続け、翌14年に至る。此の年3月呉内科に入院、6月には退院し小康を得しも、9月23日遂に立たなかつたものである。其の71年の生涯を顧るに、明治20年以後洋風画に携はつて終始変らず、その伎倆に於て衆に擢でたのみならず、永年東京美術学校及び本郷絵画研究所に於て後進の薫陶に当り、洋風画の発展に貢献するところ極めて大であり、その人格、伎倆に於て稀に見るところであつた。又彼の美術工芸方面に貢献せる点も忘却出来ないのである。略年譜年次 年齢明治2年 1月12日石尾孝基四男として佐賀県佐賀市に生る。明治4年 3 厳父孝基に伴はれ上京す。明治8年 7 旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治13年 12 父と共に京都に移る。次で大阪に移る。明治16年 15 父と共に再び東京に移る。明治20年 19 岡田正蔵の養嗣子となり、東京府芝区に本籍を置く。帝国大学工学部助教授大野幸彦に洋風画を学ぶ。明治24年 23 明治美術会々員となる。明治25年 24 1月11日師大野幸彦病没す(東京帝大工学部保存履歴書)。大幸館(旧曽山塾)に入塾す。「長崎にて」(作品)、「倚る女」(作品)明治26年 25 7月大幸館曽山塾修業、久米桂一郎の紹介にて黒田清輝と知る。後岩村透と知る。「矢調べ」(大幸館修業作品)明治27年 26 10月天真道場に入門して黒田清輝、久米桂一郎の薫陶を受く。「初冬晩暉」(作品)明治28年 27 「初冬晩暉」第4回内国博出品(3等賞) 10月「初冬晩暉」明治美術会秋季展出品。明治29年 28 9月9日、東京美術学校助教授被任。同月、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透等の白馬会創立に参加す。10月、第1回白馬会展に「夕日」以下21点出品。明治30年 29 5月28日西洋画研究の為、文部省留学生として仏国に留学を命ぜられ、7月9日巴里著、8月1日、ラフアエル・コランの門に入り、同邸内に仮寓す。10月13日巴里に帰り、オテル・スフローに寓居を定む。アカデミイ・ビツチに入学してコランの薫陶を受く。10月、白馬会第2回展に「収穫」出品。明治32年 31 10月白馬会第4回展に「自画像」出品、「ムードンの夕暮」(作品)「女肖像」(作品)明治33年 32 「千九百年巴里博覧会」(作品)明治34年 33 「読書」(作品)「伊太利の女」(作品)明治35年 34 1月2日東京に帰著す。2月4日、東京美術学校西洋画授業を1週2日嘱託。白馬会第7回展に「老翁」以下5点を出品、12月5日、任東京美術学校教授、叙高等官6等。明治36年 35 第5回内国博覧会に「読書図」出品、(2等賞)。「舞子」(作品)明治38年 37 10月白馬会10週年記念展に「秋林の幻影」以下30余点出品。明治40年 39 3月5日、東京勧業博覧会審査官を嘱託さる。尚同展に「某夫人像」を出品、1等賞を受領した。8月13日、美術審査委員会委員被仰付、第二部委員を命ぜらる。10月、白馬会11回展覧会「習作」出品。同月、第1回文展に「大沢博士肖像」、肖像(婦人像)外1点出品。作品、「紅衣夫人」「某夫人像」明治41年 40 10月第2回文展「小池博士肖像」外2点出品。作品「萩」明治42年 41 10月第3回文展「大隈伯爵夫人肖像」外2点、出品。明治43年 42 1月東京美術及び美術工芸展評議員嘱託。7月美術審査委員会委員仰付、第二部員拝命。5月白馬会第3回展に「女のあたま」(画稿)「少女」出品。9月伊国万国博覧会出品鑑査委員嘱託。10月第4回文展「ひなた」「くもり」出品。明治44年 43 8月美術審査委員会委員仰付、第二部員被命、10月第5回文展「湯場にて」出品。明治45年(大正元) 44 3月藤島武二と共に本郷絵画研究所を設立す、6月第6回美術審査委員会委員被付、第二部員被命。10月第6回文展「偶感」出品。大正2年 45 10月第7回文展「凝視」「女の顔」出品大正3年 46 10月、光風会第3回展覧会に「ぬいとり」出品。大正4年 47 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。同月、第3回図案及応用美術審査委員。10月第9回文展、「黒き帯」外2点出品。大正5年 48 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命、10月第11回文展「ヨネ桃の花」出品。大正6年 49 2月光風会第5回展「桃の花」「白きベエール」出品。9月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。10月第11回文展「初夏」「花野」出品大正7年 50 9月第6回工芸展覧会審査員嘱託、同月美術審査委員会被命。10月第12回文展「忍路」「北国の雪」出品。大正8年 51 7月工芸審査委員被仰付、8月第一部員兼第二部員被命。9月帝国美術院会員被仰付。10月第1回帝展「ネムの花」出品。大正9年 52 9月工芸審査委員被仰付、10月第2回帝展「支那絹の前」出品。大正10年 53 7月勅任官待遇、9月工芸審査委員被仰付。10月第3回帝展「榕樹の森」出品。大正11年 54 3月平和博覧会審査委員嘱託。5月朝鮮美術審査委員嘱託。9月工芸審査委員会委員被付10月第4回帝展「真野博士の肖像」出品。大正13年 56 10月第5回帝展「水辺」。12月東京美術学校西洋画科主任被命。大正14年 57 2月光風会展「北国の春さき」。同月会長として本郷絵画展覧会を組織、6月第1回展「裸婦」「菊」出品。10月第6回帝展「裸婦」2点出品。大正15年(昭和元) 58 5月第1回聖徳太子奉讃展覧会「掛を着たる女」出品。10月第7回帝展「古き昔を偲びて」出品。昭和2年 59 10月第8回帝展「山川先生の肖像」出品。昭和3年 60 1月第3回本郷絵画展覧会「来信」出品。8月満洲出張。昭和4年 61 第4回本郷絵画展覧会「風景」出品。昭和5年 62 1月春台美術第5回展覧会「麻の着物」出品。2月欧洲各国へ出張被命。昭和6年 63 春台美術第6回展覧会「ヴエルサイユとコローの池」出品。「薔薇」(作品)昭和7年 64 第7回春台美術展覧会「薔薇」「仙石原」出品。昭和8年 65 5月光風会展「イスタンブルにて」、第8回春台展覧会「金時山」出品。3月工芸審査委員被仰付、第一部兼第二部員被命。昭和9年 66 5月、光風会第21回展覧会「慶州仏国寺」「菅ノ平」出品。4月工芸審査委員被仰付。第一、二部員被命、12月帝室技芸員被命。昭和10年 67 1月第14回春台美術展覧会「伊豆の東海岸」出品。4月工芸審査委員被仰付、第1、2部員被命。6月、帝国美術員会院被仰付。12月満洲国出張被命。昭和11年 68 1月第11回春台展覧会「長野の水源地」出品。4月工芸審査委員被仰付、第一、二部員被命。同第26回光風会展覧会「鏡川の夕」出品。6月東京美術学校長事務取扱被命、9月同職被免。文部省美術展覧会委員被仰付。昭和12年 69 2月第12回春台展覧会「岩越国境」出品。「人物」(作品)昭和13年 70 2月光風会第25回展覧会「山中湖」出品。昭和14年 71 第10回春台美術展覧会「河口湖鵜の島」出品。3月東京帝大病院呉内科入院、6月退院、9月23日於自宅永眠、従3位に追陞せらる。

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