森本草介
端麗な写実絵画で知られた洋画家森本草介は10月1日、心不全のため死去した。享年78。
1937(昭和12)年8月14日森本仁平、久子の長男として父の赴任先であった朝鮮全羅北道全州府に生まれる。43年父の転任のため東京都足立区小台町に転居。44年母の郷里岩手県一関町に疎開し、同年4月に一関町立一関国民学校初等科に入学するが、同年秋、父の赴任先である黄海道海州府に転居。45年終戦を朝鮮半島で迎え、徒歩で京城に到り、京城から引き上げ船で山口県仙崎港を経て、一関町に帰着。一関国民学校初等科2学年に編入。50年3月一関市立一関小学校を卒業して、同市立一関中学校に入学。51年9月上京し、墨田区立堅川中学校に編入。53年同校を卒業し4月に墨田区立墨田川高校に入学、56年に同校を卒業。自由美術協会の画家であった父の影響で画家を志し、阿佐ケ谷美術研究所に学び、58年に東京藝術大学絵画科に入学。61年伊藤廉教室に入り、同年安宅賞受賞。62年東京藝術大学絵画科を卒業し、専攻科に進学。63年第37回国画会展に「聚」で初入選し、以後、同展に出品を続ける。64年3月、東京藝術大学油画専攻科を修了し、4月に同学美術学部助手となる。同年の第38回国画会展に「閉ざされた碑(B)」「閉ざされた碑(C)」で入選。65年第39回同展に「逆光」「碑(B)」を出品し、国画賞受賞。66年第40回同展に「沈む風景」「赤の碑」を出品し会友に推挙される。68年第42回同展に「響」を出品し、同会会友最高賞であるサントリー賞受賞。69年第43回同展に「逆光」を出品し、同会会員となる。同年、東京藝術大学の同世代のグループ十騎会の結成に参加し、以後同展に出品を続ける。70年第5回昭和会展に「貝とリボンのある静物」を招待出品し昭和会優秀賞受賞。71年東京から千葉県鎌ヶ谷市に転居。76年フランス旅行。77年最初の個展となる森本草介展を東京の日動サロンで開催。79年第18回国際形象展に「卓上の構図」「果物と少女」を出品し、以後85年まで同展への出品を続ける。また、同年第22回安井賞展に「午後の翳り」を出品。84年、『森本草介画集』(講談社)刊行。85年第1回具象絵画ビエンナーレ(神奈川県立近代美術館ほか)に「華」を出品。1989(平成元)年1月と10月にフランスへ取材旅行。92年フランスへ取材旅行。94年奈良県立美術館で開催された「輝くメチエ 油彩画の写実・細密描写」展に「朱」(1981年第55回国画会展出品)、「青衣の婦人」(1992年第66回国画会展出品)等、自選による11点を出品。95年『森本草介画集』(求龍堂)が刊行される。学生時代に50年代60年代の抽象画隆盛期を体験し、半抽象的な作品を描いたが、60年代末から写実的で静謐な具象絵画を描くことの追求が始まる。70年代には「昼」(1976年第50回国画会展出品)、「卓上の構図」(1979年第18回国際形象展出品)など、静物を知的な構図に収めて写実的に描く作品が中心であったが、80年代からセピア色を基調とする裸婦や着衣の女性像が主要な作品となった。風景画のほかは自然光を用いず、好みの効果が得られるよう照明を調整し、人物画では後姿や伏目がちな表情を好んで、写実的でありながら虚構の世界を描いた。フェルメールやアングルなどの西洋古典絵画に学び、筆跡を残さないすべらかなマチエールを特色とした。作画の合間に散策とピアノ演奏を楽しみ、画題にも「響き」「間奏曲」「調べ」など音楽に関連するものがある。画家は「私の絵はリアリズムとは違う」「ものを再現しようとしているのではなく、詩を描きたい」「人間存在の不思議とか、その奥にかくれている精神だとか、即物感に興味があるのではない」と語っている(『アート・トップ』143)。自らの生きる時代を「美術運動は多分無力な時代」と認識し、「個人が信じる自己の感性を掘り下げ、深め、みがく行為だけが有効」(同上)と考えて、自然との静かな対話を画面に表した。2010年ホキ美術館開館記念特別展に「横になるポーズ」(1998年)ほかが出品され、11年には同館で森本作品約30点が常設展示されることとなった。12年に『光の方へ 森本草介』(求龍堂)が刊行されており、詳しい年譜が掲載されている。
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「森本草介」『日本美術年鑑』平成28年版(554-555頁)
例)「森本草介 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809161.html(閲覧日 2024-10-10)
外部サイトを探す