田中田鶴子

没年月日:2015/12/08
分野:, (洋)
読み:たなかたづこ

 茫漠とした空間や円をモチーフに抽象表現を展開した洋画家、田中田鶴子は12月8日、老衰のため死去した。享年102。
 1913(大正2)年6月6日、朝鮮の仁川に田中秀太郎、ハツ夫妻の間に次女として生まれ、16歳まで中国・青島で育つ。14年までドイツの租借地であった青島は、同年日本の占領下となり、22年中国に返還された。ドイツ風の街並みに日本人や中国人が入り混じる環境に、純粋な「ほんもの」への憧れが募ったという。またしばしば郊外の荒地へ出かけ、岩肌の連なる風景に深い安堵感とふるえるような永遠からの語りかけを覚えたという。青島高等女学校卒業後、16歳になる年に東京の大学へ進学する兄について上京し、はじめて本物の歴史的精神文化に触れる。能文楽や歌舞伎に熱中し、禅寺で座禅を体験した。その一方で女子美術学校へ入学、保守的な雰囲気に馴染めず1学期で退学する。1935(昭和10)年2月第3回旺玄社展へ「老女像」を出品、翌年1月の第4回展へは「自画像」「秋の静物」をそれぞれ出品。36年10月多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)に女子部が発足し、翌37年第1期生として入学した。この年の夏休みには北京を訪れ、心にかかっていた本物の中国文化に初めて触れる。38年9月第25回二科展に「秋」で初入選を果たし、以後第29回展(1942年)まで出品した。39年第7回旺玄社展へ「夏の庭」「冬日」「画学生の像」「林間秋」を出品、旺玄社賞受賞。翌40年第8回展へ「支那骨董店」「支那の葬式」を出品、会友に推挙される。また同年より1年間、多摩帝国美術大学にて助手を勤めた。この頃の作品には風景を写実的に描いたものが多く、生まれ育った中国の風景なども題材としている。43年9月銀座・資生堂にて初個展開催。同月第8回新制作派展に「人物」「春の庭」を出品、以後第25回展(1961年)まで出品を続けた。戦中は工場での勤労奉仕や女流美術家奉公隊の活動に参加する。45年3月10日、空襲で自宅が焼失、そのときに体験した「炎の円の中心に。何の音もしない。しんとした無の世界」が後の制作に影響を与えた。その後は友人宅を点々としながら制作を続けたという。また戦後には田園調布純粋美術研究室で猪熊弦一郎脇田和らの指導を受け、デッサンを学んだ。45年12月第1回日本女流美術家協会展(日本橋三越)へ「落葉松の林」「野の花」を出品。翌46年11月現代女流画家展(北荘画廊)へ出品。このときのメンバーに日展や奉公隊で活躍した人々が加わり、47年2月女流画家協会が発足、同年7月第1回女流画家協会展がアンデパンダン形式で開催され、「童女」「金柑と唐辛子」「卵の静物」を出品する。第3回展(1949年)へは「人物」「踊り子(B)」「踊り子(A)」を出品して婦人文庫賞を受賞するが、次第に会の性質が友好的な人間関係重視へと傾き、第6回展(1952年)出品を最後に退会する。他方48年第12回新制作派展へ「踊り子」「踊り子」「踊り子」「森」を出品し岡田賞受賞、第14回展(1950年)では新作家賞を受賞し、第16回展(1952年)で新制作協会賞、第18回展(1954年)において会員に推挙された。53年1月第4回選抜秀作美術展に「作品」(1952年、新制作展)が出品される。以後第8、12、13回展にも選抜。54年ニューヨークのブルックリン美術館での日仏米抽象展へ、翌55年スミソニアン・インスティテュート主催の国際展へそれぞれ出品。また56年第2回現代日本美術展へ「時間A」「時間B」を出品、翌57年第4回日本国際美術展へ「変身」を出品する。以後前者へは第7回展(1966年)まで、後者へは第8回展(1965年)まで毎回出品した。50年代の作品では、内にある心象風景を外部に存在する具象的な形を借りるなどして表現していたといい、方形や線、円による構成的な画面の作品や、浮子の写生をもとにしたという「浮標」(1955年、第19回新制作展)などが制作された。
 60年1月サトウ画廊にて個展開催。従来の構成的な画面からマチエールで語ろうとする方向への変化を示した。以後画面は茶褐色を基調とした色彩のなかに、漠とした奥深い空間を見せるようになる。同年5月第4回現代日本美術展へ「無I」「無II」を出品、女性初の優秀賞となる。61年ニューヨーク・グッゲンハイム国際美術賞展へ出品。同年サンパウロ・ビエンナーレへ「ミクロコスム」連作を出品し、62年にはカーネギー国際展へ出品。国際的に活躍した。他方61年の第25回新制作展への出品を最後に同会を退会、以後個展やグループ展などで作品を発表する。61年2月東京画廊、63年7月京都・青銅画廊、79年1月第七画廊、81年9月フマギャラリー、1988(平成元)年5月ストライプハウス美術館、同年9月日本画廊にて個展を開催。日本画廊では92、96、2005年にも個展を開く。また「田中田鶴子・カズコ カヤスガ マシューズ展―「砂」と「炎」からのレポート―」(ストライプハウス美術館、1988年)、「桜井浜江田中田鶴子・桜井寛 三人展」(三鷹市美術ギャラリー、2006年)、「画家のかたち、情熱のかたち―桜井浜江 高島野十郎 田中田鶴子 ラインハルト・サビエ―」展(三鷹市美術ギャラリー、2010年)などのグループ展へ出品した。
 他方60年11月より跡見学園女子短期大学にて教鞭を執り、87年3月まで勤務。その間70年には教授となり、77年から84年まで生活芸術科長を務めた。また学生の研修旅行に同行してエジプトを訪れたのを機に、中近東の砂漠へ何度も足を運んだ。82年スペイン・バルセロナ工科大学ガウディ研究所に招待され、同地に6ヶ月滞在、ガウディ建築などを見て回る。
 作品は黒一色の画面にブロンズ粉で円を描いた「時間―17」(1979年、個展・第七画廊)頃から、中近東の砂漠に想を得た「円」シリーズへと展開、さらに80年代後半頃からは楕円と線の連作へと発展していく。また2000年代には多く白地をバックに黒、青、赤、金といった色彩が織り成すリズミカルな画面の連作が制作された。

出 典:『日本美術年鑑』平成28年版(561-562頁)
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「田中田鶴子」『日本美術年鑑』平成28年版(561-562頁)
例)「田中田鶴子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809206.html(閲覧日 2024-03-29)
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